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2018年4月25日

2泊3日で山陰山陽を周遊(5) 萩の城下町 3月30日

出雲大社の参拝を終え、次は日本海に沿って西へと走り、山口県の萩に行く。出雲から、くにびき海岸通り、国道9号線、そして、ところどころ開通している山陰道で益田まで行き、益田からは、191号線で萩まで行くのだ。距離にして約190km、時間は3時間半ほどかかるようだ。12時半に出雲大社の駐車場を出発し、途中、浜田のゆうひパークという道の駅でトイレ休憩を取り、萩の城下町に着いたのは、午後4時半だった。昼食は出雲で積み込んだ弁当だった。
  下電観光バスのバスガイドさんは、63歳。この道40年のベテランである。沿道のことを何も見ないで良く説明してくれる。自分では「顔を見ないと、声は大原麗子に似ている言われる」と言っていたが、若い頃は可愛いかっただろうと思う。歌もうまい。この地にゆかりのある島村抱月に見いだされた女優・ 松井須磨子 の「カチューシャの唄」を歌ってくれたが、とてもうまかった。
 萩が近くなると、関ケ原の戦いのあと、毛利は領地を没収され、萩に領地替えを強いられたこと、長州藩と尊王攘夷、吉田松陰が死罪となった安政の大獄、高杉晋作と討幕の動き、そして大政奉還など幕末のことを説明してくれた。長い道中だったが、飽きることはなかった。
  萩に着いて、バスガイドさんは、その古い城下町の一角を小一時間、案内してくれた。(写真に関する記述は、 萩市観光協会「ぶらり萩あるき」 を参照させていただいた。)萩では、松下村塾、萩城跡、 明倫学舎 など、もっともっと観たいところもあったが、時間がなかった。菊ヶ浜の夕日も見たかった。
 この日の宿は「北門屋敷」というところだった。 「北門屋敷」は毛利の居城であった萩城からほど近い場所で、かつて城を守る重臣達が居を構えた萩城三ノ丸の、毛利一門・吉敷毛利家屋敷跡にある。世界遺産・萩城下町の中にある、唯ひとつの旅館ということだ。

75.浜田・ゆうひパーク
ちょうど、出雲から萩への行程の半分くらい来たところの、浜田・ゆうひパークという道の家でトイレ休憩となった。日本海が眺められた。ここでも桜がきれいに咲いていて、その向こうに浜田大橋を望む。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5 1/1250秒 37mm ISO125 ) 露出補正 なし
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76. 萩城下町案内図
バスは萩城下町の駐車場に着いた。この写真で現在地とあるところから、世界遺産「明治日本産業革命遺産」萩城下町巡りを始める。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 16mm ISO100 ) 露出補正 なし
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77.旧野田家の土塀
この写真は歩きだす前に、76.の案内図でいう左上方向を見たところ。旧野田家住宅の長い土塀が続く。嘉永年間(1848年~1854年の当主・野田七郎左衛門は身分は 萩藩・中士下等の遠近付で51石余を給されていた。江戸時代武家屋敷の面影をよく伝えている。 ここから前の写真の案内図の下の方にある江戸屋横丁を右へ歩く。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし
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78.円政寺
まず左側に「高杉晋作、伊藤博文 幼年勉学のところ」という石碑が立った円政寺の入口があった。幼少の高杉晋作が肝試しした小天狗の面や博文のレンガの硯が残っているという。もともと、真言宗御室派 月輪山 円政寺は、鎌倉時代頃に大内氏の祈願寺として今の山口市に創建された。大内氏滅亡後、慶長9年(1604)毛利輝元が萩へ築城と同時に萩城下 塩屋町(現 多越神社)に移転され、毛利氏の祈願寺となったという。神仏分離令後、明治3年(1870)円政寺の名が惜しまれ、この場所にあった法光院と合併・改称、現在の 円政寺 になった。山口市には現在も円政寺町という地名が残っているという。残念ながら、境内の中に入って見学する時間はとってもらえなかった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影( f2.5 1/500秒 9mm ISO250 ) 露出補正 なし
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79.青木周弼邸
しばらく行って左側に13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼の旧宅があった。幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった青木周弼は、享和3年 (1803) 、周防大島郡の医師青木玄棟の長男として生まれた。三田尻の名医能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだそうだ。長崎に遊学した際には、シーボルトに師事している。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 11mm ISO800 ) 露出補正 なし
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80.木戸孝允旧宅
次は 木戸孝允誕生地という石碑の立ったその旧宅だ。 木戸孝允は天保4年(1833年)に藩医・和田家に生まれた。慶應2年(1866年)西郷隆盛と会合し、薩長同盟を結び、後に維新三傑と呼ばれた。志士・桂小五郎の名でも有名である。この旧宅は江戸に出るまでの約20年間を過ごした実家の和田家である。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO320 ) 露出補正 なし
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81.公衆便所
江戸屋横丁が終わりになるところにトイレがあった。和風のしゃれた建物で、萩城下町らしさを表現している。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/500秒 39mm ISO200 ) 露出補正 なし
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82.青木研蔵旧宅
青木研蔵(1815~1870)は医者青木家に生まれる。青木周弼の弟で、兄の周弼とともに長崎へ出て、シーボルトに学ぶ。さらに江戸へ出て、蘭学者伊藤玄朴に学んだ。のちに兄の養子となり、文久3年(1863)兄の没後、青木家の家督をついだ。種痘法を取得して、藩内に広め、維新後明治天皇の大典医になった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO200 ) 露出補正 なし
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83.土塀と桜
江戸屋横丁の角を左に曲がって、次の角の左手には白く長い土塀が続く伊勢屋横町が見えた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 18mm ISO250 ) 露出補正 なし
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84.伊勢屋横町
北側に伊勢屋という商家があったことから、この名がつけられたという。また、元禄4年に仲一左衛門の屋敷を召し上げて絹織場とし、絹機の職人を置いたことから絹機屋町などとも呼ばれた。その後閉業し、元禄8年に町人がこれを買い受けて町屋敷としたというが、当時の商人の財力の高さが伺える。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO200 ) 露出補正 なし
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85.菊屋家住宅
藩の御用達を勤めた豪商・菊屋家の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられたという。屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。藩の御用商人・菊屋家は、大内氏時代には武士であったが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くした。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地の約3分の1が現在公開されている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5 1/1000秒 18mm ISO200 ) 露出補正 なし
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86.田中義一生誕地
菊屋家住宅の先を左に、菊屋横町へ入る。第26代内閣総理大臣 田中義一の生誕地は城下町・菊屋横町にあった。田中義一は、元治元年(1864)、藩士・田中信祐の三男として生まれた。陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業し、日清戦争出征後、軍事情勢の探索のためロシアに留学。日露戦争では、開戦論を唱え満州軍参謀として出陣した。大正7年(1918)原敬内閣の陸軍大臣、大正10年 陸軍大将となり、大正14年に立憲政友会総裁に推され政界に入る。昭和2年(1927)金融恐慌の渦中に内閣総理大臣となり、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を発行し、銀行取りつけ騒ぎを沈静化した。昭和3年、第1回普通選挙法を施行。同年、張作霖爆殺事件が勃発し、昭和4年、責任を問われて総辞職した。ニックネームは「おら(俺)が大将」だそうだ。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 9mm ISO200 ) 露出補正 なし
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87.高杉晋作誕生地
幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地​だ​。現在は、南側半分が公開されており、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などがあ​るというが見学する時間はなかった。高杉晋作は、天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれた。藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称された​という​。文久2年(1862)、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織"奇兵隊"を結成。討幕戦を勝利へと導​い​たが、胸の病が悪化し、下関・吉田(現:東行庵)に隠居​した​。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去​ったという​。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/500秒 9mm ISO500 ) 露出補正 なし
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88.塀と桜の木
菊屋横町を進むと左側に長い塀が続き、大きな桜の木が満開の花を咲かせていた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/640秒 9mm ISO100 ) 露出補正 なし
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89.晋作広場
木戸を入ると広場になっていた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 15mm ISO100 ) 露出補正 なし
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90.高杉晋作立志像
高杉晋作誕生地の近くにある晋作広場に、平成22年10月​、この像が​に建立された。若かりし頃のまげ姿の晋作像​である。​ 銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿​だ​。銅像の高さは​18​mで、台座を含めて3m。晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられてい​る​。また広場には晋作が好きだった梅の木も植樹されてい​るそうだ​。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 25mm ISO160 ) 露出補正 なし
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91.旧野田家住宅の長い塀
高杉晋作立志像から慶安筋を進むと江戸屋横町に出て、出発点へ戻る。結局、このツアーでの萩観光は城下町を一回りするに終わってしまったが、萩の最も萩らしいところを見せていただいたのだと思っている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO160 ) 露出補正 なし
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92.旧野田家の桜
野田家は中級武士の家で、今でも野田さんが住まわれているそうだ。 嘉永年間(1848~1854)の当主野田七郎左衛門は、萩藩遠近付で、51石余を給されていたそうだ。建物は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦茸で、道路に面した門とそれに続く土塀、主座敷南側に造られた庭園なども残り、江戸時代武家屋敷の面影をよく伝えている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 15mm ISO100 ) 露出補正 なし
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93. 「北門屋敷」の宵
今宵は「北門屋敷」という宿に泊まる。世界遺産となっている萩城下町の中にある。 夕食後、月が明るい夜8時の北門御殿の庭。 今日も1日良い天気だった。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f1.8 1/100秒 9mm ISO3200 ) 露出補正 なし
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2017年1月24日

横浜中華街 12月12日

もうしばらく昨年の撮りの残し分が続く。
 昨年12月のはじめに、かっての勤務先で同じマーケティング部門で仕事した友人W氏が、退職以来初めて会う友人T氏と3人で食事をしようとお膳立てをしてくれた。3人は同じ大学の出身である。
  W氏のアレンジメントで11時半にJR石川町駅で待ち合わせて横浜中華街の上海料理店「三和楼」で昼食会をすることになった。「三和楼」は私も知っているところで2~3回行ったことがある。
 余談になるが、上海料理と言えば上海ガニがある。ところが、香港で、​​​​中国本土から輸入した上海ガニから基準値を超えるダイオキシンが検出され、旬を迎えた上海ガニに影響が広がっているようだ。中国の輸出規制のため横浜中華街でも品薄になり、安全な上海ガニの仕入れ値が高騰しているそうだ。この日は三和楼でも上海ガニはメニューから外されていた。その後輸入は再開され、12月の後半には食べられるようになったらしい。
  再会の会話を楽しみながらゆっくり食事をした後、ほろ酔い機嫌で久しぶりに中華街をぶらぶらと歩いた。横浜開港記念会館でボランティアガイドをしているW氏の案内で今まで知らなかったことを教えていただくことができ、とても参考になった。
 中華街散策の後、私は元町へ向かい、2人は石川町へ戻った。

1.横浜中華街 善隣門
約束の時間よりやや早めに3人がそろい、W氏の案内で延平門から西門通りを歩き、中華街大通りへの入り口である善隣門へでた。私は石川町駅から中華街に入った記憶がない。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/400秒 5mm ISOオート ) 露出補正 なし
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2.市場通り
中華街大通りを東へ朝陽門(みなとみらい線の元町中華街駅方面)に向かってしばらく歩くと、右手に市場通り門があり、そこを右に曲がり市場通りに入った。細い道だけど両側に店が並び人通りが多くにぎやかだ。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4.5 1/160秒 11mm ISOオート ) 露出補正 なし
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3.三和楼
三和楼は市場通りを抜けて関帝廟通りを東へ、少し天長門の方へ行ったところにある。石川町駅からなら、はじめから関帝廟通りを来た方が近いのだが、これは中華街見物と、時間調整の意味もあったのかW氏の計らいだった。三和楼の上海料理は少し薄味かなと思うが、なかなかうまい。いろいろ食べたが、この店自慢の排骨(パイコー)がとても旨かった。排骨とは、中国語で豚などのスペアリブ。すなわち骨付きあばら肉だ。その豚のあばら肉に卵と小麦粉の衣をつけて油で揚げた肉料理なのだが、排骨は、中華街では三和楼が元祖なのだそうだ。それと五目焼きそばも旨かった。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 5mm ISOオート ) 露出補正 なし
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4.関帝廟
2時間以上かけて、ビールを飲み、甕だし紹興酒を飲み、旨い上海料理を賞味した。良い気持ちになって外へ出る。W氏はまず関帝廟へ連れて行ってくれた。酒を飲んでのお参りはご法度なのかもしれないが、静かに見学した。三国志で有名な武将、関羽がまつられている。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/320秒 5mm ISOオート ) 露出補正 なし
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5.横浜中華学院
関帝廟のとなりに学校があり、その校庭が関帝廟から見えた。校庭には中学生らしい生徒たちがのびのびと遊んでいた。台湾系の学校だそうだ。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5 1/125秒 13mm ISOオート ) 露出補正 なし
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6.日本における新聞誕生の碑
関帝廟をお参りしたあと、次にW氏は「ここは知らないでしょう」と言って、関帝廟の先にある「日本における新聞誕生の碑」へ案内してくれた。中華街には何回も来ているがここは知らなかった。1864(元治元)年、海外事情を明らかにするために、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が外国新聞を翻訳・編集し、日本初の邦字新聞「海外新聞」を発刊したが、ここはその居館跡だとのこと。また碑文には「(前略)木戸孝允、伊藤博文、坂本竜馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。1994(平成6)年6月28日〈海外新聞発刊130年記念日に ジョセフ彦記念会〉と記されていた。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/60秒 5mm ISOオート ) 露出補正 なし
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7.會芳亭
再び関帝廟通りを関帝廟、三和楼の方へ戻る。三和楼の先の向かい側に山下町公園があり、そこに會芳亭がある。W氏はここは清国領事館跡だと教えてくれた。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/160秒 6mm ISOオート ) 露出補正 なし
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8.横浜媽祖廟
「もう一つ関帝廟のようなところがあったね」というと、會芳亭の先の天長門を右に曲がって、横浜媽祖病 へ案内してくれた。媽祖 とは北宋時代に実在した福建省・林氏の娘だそうだ。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5 1/125秒 13mm ISOオート ) 露出補正 なし
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9.横浜媽祖廟 太鼓楼
wikipediaによると、2006年(平成18年)3月17日に、横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新名所として横浜中華街に落慶開廟したとのことで、比較的新しい。この横浜媽祖廟の入り口側に鐘楼、出口側に太鼓楼があるが、それぞれの袴部分には媽祖廟の建設現場から出土した煉瓦が使用されているとW氏が教えてくれた。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/80秒 5mm ISOオート ) 露出補正 なし
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10.谷戸橋
2人と別れ、私は元町へと歩いた。元町の入り口にこの谷戸橋がある。この谷戸橋が架かっている土地はもともと陸​​​地​​​だったであろう​​​という。というのも、谷戸橋が架かっている堀川は1860年に開削した運河で、現在の谷戸橋が架かるあたりから東側は横浜村という陸続きの半島となっていたという。更に、現在の谷戸橋は震災後に現在位置に架けられたもので、元々は山下公園通りより1本内側の水町通りに架かっており、最初は堀川が開削されたと同じ1860年に木製の橋が架けられていたと思われるとのこと。横浜市認定の歴史的建造物だそう​だ。

Canon IXY900IS f2.8-5.8 4.6mm-17.3mm 7.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5​.8​​​ 1/​30​​​​​​​秒 ​17​mm ISOオート ) 露出補正 なし
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