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2013年8月 2日

トルコ紀行・下「カッパドキア、そして、またイスタンンブール」


 突然、舞い込んだ家事にとらわれ、このブログもすっかりご無沙汰してしまった。

 トルコに行ってからもう3カ月も経ってしまったが「上」編を書いた以上「下」編でとりあえず、締めくくらないとなんとなく気持ちが収まらない。思いだしつつ、短くともまとめてしまおう。

 トルコ3日目の4月30日。世界遺産・ カッパドキアを見るため、昼前にトルコ中部・アナトリア高原のカイセリ空港に着いた。

 アンカラ大学日本語科出身の女性ガイド、Oya(オヤ)さんに迎えられて車に乗る。ブッシュのような低木しか生えていない荒涼とした道を進む。

 「高度が1000-1500メートルあり、木が生えない」ということだったが、どこかで見た風景だと思った。このブログを始めた5年半前に旅ををしたシルクロード・黄土高原の風景とそっくりなのだ。そういえば、この地域もヨーロッパに向かうシルクロードの一部だったのだと気づいた。

 カッパドキアは、数億年まえに噴火した火山の灰と溶岩が積み重なってできた地層が風雨の浸食でできた 凝灰岩台地といわれる地形。比較的柔らかいので、多くの洞窟が掘られているほか、長年の風雨が奇岩を作りだしている。

 最初に訪ねた国立公園 「ギョレメ屋外博物館」には、重なる山に大小数十もの 岩窟教会が残っている。

 保存のために、写真撮影が禁止なのは残念だったが、単純な十字架を描いたものから、聖書の物語を見事なフレスコ画まで、多彩な遺産である。

 ユダヤ人やローマ帝国の迫害から逃れた初期キリスト教徒から始まって、10-13世紀にかけて多くの修道僧が信仰生活を続けながら描き続けたのだ。

 帰国した後、5月19日の「精霊降臨の主日」のミサで読まれた聖書「使徒言行録」のなかに「カッパドキア(カパドキア)」の文字があったことからも、ここの教会群の歴史の古さが証明されている。

 ガイドのオヤさんに、熱気球フライトに乗らないか、と誘われた。

 今年の2月にエジプトで、過去最大の 熱気球墜落死亡事故があったばかりなので「乗らないでおこう」と"堅い"決意で来たのだが、オヤさんの熱意に負けて、翌日の早朝4時半起きで、同行4人ともバルーンに乗ることになった。

 広場に点在する十数個のバルーンが、ガスの熱を受けて浮かび上がり、お互いに接触する"危険"も見せながら、雄大な岩の奇形を上下し、風に流され約1時間。

「気持ちいいー!」。トルコ人パイロットの掛け声に、ほとんどが日本人の乗客が声を合わせる。降りると、なんと草の上に木机が出され、シャンパンまで抜かれて・・・。

 ところが、同じ場所で5月末に 気球の墜落事故が起き、英国人1人が死去した。

 旅の安全についての教訓がもう一つ。

  ユルギュップのきのこ岩(現地では、妖精の煙突と呼ばれている)を見た後、オープンしたばかりという洞窟ホテルで夕食をしていて気付いた。「財布がない!」

 翌日、帰りの空港でガイドのオヤさんに事情を話し、パスポートのコピーを渡して置いたら、なんとギョレメの観光案内所に預けられていたのを見つけてくれ、イスタンブールのホテルにカーゴ便で届けてくれた。
 今から思うとラッキー以外のなにものでもないのだが「旅は細心の注意を」という教訓が残った。

 イスタンブールに帰り、国立考古学博物館でトロイの出土品やアレキサンダー大王の石棺を鑑賞、かっては貯水池だった地下宮殿のコリンント様式の柱の敷石に使われたギリシャの女神 メドウ―サの顔にギョッとし、ブルーモスクの南にあるモザイク博物館の見事な組み込みに驚嘆した。

 そのたびに、ホテルの近くにあるゲジ公園と隣の タクシム広場を抜けて、トラムなどを利用した。

 ところが帰国後の6月初め。そのタクシム広場で大規模な 反政府デモが起きたという報道に接した。

 イスタンブールで数少ない緑の憩いを感じられるゲジ公園を2020年五輪開催を目指して商業施設を建設しようとしたことにイスラム色を強める現政権への反発が加わり、デモは一時、首都アンカラまで広がった。

 そういえば、イスタンブールに滞在中、ゲジ公園のかなりの敷地を鉄のゲートに囲まれて警官隊が常駐し「メーデーの5月1日はタクシム広場は使えそうにない」というホテルからの忠告を受けたのを思い出した。

 一触即発の状況が近付いていたなかで、我々はのんびり観光を楽しんでいたのだ・・・。

トルコ紀行写真
下に掲載した写真はクリックすると大きくなります。また、拡大写真の左部分をクリックすると一枚前の写真が、右部分をクリックすると次の写真が表示されます。キーボードの [→] [←] キーでも戻ったり、次の写真をスライドショウ的に見ることができます。


ギュレメ国立公園①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園②;クリックすると大きな写真になります。
きのこ岩の奇岩;クリックすると大きな写真になります。 熱気球が上がる①;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園① ギュレメ国立公園② きのこ岩の奇岩 熱気球が上がる①
熱気球が上がる②;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景①;クリックすると大きな写真になります。 気球からの風景②;クリックすると大きな写真になります。 地下宮殿;クリックすると大きな写真になります。
熱気球が上がる② 気球からの風景① 気球からの風景② 地下宮殿
トラムのなかで;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館①;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館②;クリックすると大きな写真になります。 モザイク博物館③;クリックすると大きな写真になります。
トラムのなかで モザイク博物館① モザイク博物館② モザイク博物館③

2010年8月 9日

読書日記「三千枚の金貨 上・下」(宮本 輝著、光文社刊)


三千枚の金貨 上
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宮本 輝
光文社
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三千枚の金貨 下
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宮本 輝
光文社
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 「最近の一押しは、宮本 輝のこの本。手練れの究極のワザを見る思い。結局は誰が真の主役か分からないように出来ているが、それぞれの登場人物が実に面白くかかれている」

  昔、勤めていた新聞社の大先輩からこう伺って、さっそく本屋に走った。この本、まだほとんど広告も出ず、書評で紹介されていないのに、大先輩はどこで知られたのか・・・。
すごい読書家であるこの大先輩から紹介してもらった本が、しばらくたって話題になり、なんだかとても得をした気分になったことが幾度かある。

 桜の木の根元にメープルリーフ金貨を埋めた。・・合わせて三千枚。
  盗んだものではないし、何かいわく付きのものでもない。みんな自分が自分の金でこつ こつと買い集めたのだ。
 場所は和歌山県。みつけたら、あんたにあげるよ。
 男はそう言って、自分の病室に戻って行った。


 小説は、いささか荒唐無稽とも思える、こんな設定から始まる。

  金貨を埋めたと語った芹沢由郎は、闇の世界を自らの力ではい上がり、支配してきたファイナンス会社の経営者。肝臓がんの末期と知った芹沢は、その秘密をじっこんにしていた女性の妹で看護師の室井沙都にしゃべったつもりだった。
  しかし、室井は急患で席をはずし、モルヒネで意識がもうろうとしていた芹沢がしゃべった相手は、たまたま談話室にいた40代のサラリーマン、斉木光生だった。

  5年前に聞いたこの話しを思い出した斉木は、同じ40代の仲間2人と30代の室井と語らって、宝探しを始める。そして、ついにその桜の木がある無人の農家を見つけ、購入する。

    だが4人は、金貨を掘り出す夢を20年間、凍結してしまう。これから20年の間に、金貨以上に大切な宝物を見つけるために。

  この物語は、金貨と闇の世界と熟年男女の絡み合いという筋を借りて、日本が歩んできた成長とこれからの衰弱、成熟を描こうとしたのかもしれない。

 そのためか、話しの展開の合い間、合い間に、大人の美学を彩る豊潤な材料がちりばめられている。

 斉木光生が幻想までみるほど満喫したシルクロード・フンザ、への旅・・・。
 シャンパンの「ヴーヴ・クリコ」、ヘミングウエイが愛したダブルの「フローズン・ダイキリ」、「仄かに海草の香りがするシングルモルトのロック」(たぶん、アイラ島産?)・・・。
 骨董店で見つけた伎楽天女の石像、水墨画、故郷の母が経営するこだわりの蕎麦店、指 物師の名人が作った菓子入れ、フォアグラのおかか和え、おでん屋でシメに食べる鯨の身 とコロが入った餅・・・。
 そして、いささかへきえきするが、ゴルフについてのあくなきうんちく・・・。

 斉木光生は、こう語る。
 「人生って、大きな流れなんだな。平平凡凡とした日常の連続に見えるけど、じつはそうじゃない。その流れのなかで何かが刻々と変化している」


 ところで、読み進むうちに著者の誤謬ではないかと思われる箇所を見つけた。

 小説の冒頭では、秘密をもらした男は「自分の病室に戻って行った」と書かれている。
 とろが終わりに近い箇所ではこんな記述がある。(看護師の室井沙都が)「やっと談話 室に戻ると、斉木光生はいなくて、芹沢由郎だけが車椅子に座っていた」
 これは、小説が連載されていた雑誌「BRIO」(光文社)が突然、休刊になったためのちょっとした校正ミスなのか、それとも著者の読者に対する「ちゃんと読んだかい」という問いかけなのか・・・。

 ここまで書いて、パソコン机の脇に同じ著者の「にぎやかな天地  上・下」(中央公論 新社刊)が読んだ後、横積みしたままだったのに気づいた。

にぎやかな天地〈上〉 (中公文庫)
宮本 輝
中央公論新社
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おすすめ度の平均: 4.0
1 ステレオタイプの権化
4 しっかりした展開で一気に読ませるが、ラストが...
5 発酵食品と人間関係の不思議
5 新刊が出ると必ず読む
3 発酵食品に付いて学べます

にぎやかな天地〈下〉 (中公文庫)
宮本 輝
中央公論新社
売り上げランキング: 70239
おすすめ度の平均: 4.5
5 連綿と繋がる生死
3 にぎやかな発酵!?
5 本年のベストワン
 この本もさきほどの大先輩に推薦していただいたのではなかっただろうか。2005年の9月とかなり前の発刊だ。昔いた新聞社の朝刊に連載されていたのを思い出した。

 勤めていた出版社がつぶれ、非売品の豪華限定本制作で生計をたてている船木聖司は、スポンサーである謎の老人・松葉伊司郎から日本伝統の発酵食品の本を作りたいと依頼される。

 滋賀県高島町「喜多品」の鮒鮓、和歌山県新宮市「東宝茶屋」のサンマの熟鮓、同県湯浅町「角長」の醤油、鹿児島県枕崎市の「丸久鰹節店」。聖司が取材をした発酵食品の名店はすべて実在の老舗。著者自身が取材を重ねたところらしい。

 祖母が育て、母親が受け継いだ糠床のレシピがすごい。「昆布茶の粉末、いろこの粉末、鮭の頭、和辛子、鷹の爪、残ったビール、魚や野菜の煮汁・・・」

 鹿児島の「丸久鰹節店」で、夫人に勧められた木の椀に入ったお汁。「削った鰹節に熱湯を入れ、ほんの少し醤油をたらした」もの。「これにとろろ昆布を入れたら・・・」
 今晩やってみようか、と思う。しかし、気づいたら、小袋に入った花ガツオはあっても 鰹節がない、鰹削り箱がない・・・。

2007年12月11日

読書日記「中国を追われたウイグル人」(水谷尚子著、文春新書)

 1か月ほど前、本屋漁りをしていて、ふと目を引かれたのが、この本。目次に「イリ事件を語る」とあるのを見てエット思った。

 前回、書いたように「中国・シルクロードウイグル女性の家族と生活」という本のあとがきに、編者の岩崎雅美さんは、国を持たないウイグル人と中国政府との衝突について触れられている。

 「中国を追われたウイグル人」という本を見て、この、あとがきを思い出した。

 9月の中旬に天山北路のツアーに参加した時は、そんなことはまったく知らず、イリの街ではカワプ(羊肉の串焼き)や野菜などを揚げる屋台の賑わいを、周辺の山や草原では、羊や牛を放牧するウイグル族の牧歌的な生活の観光を楽しんできた。

 しかし、まったく無知だったが、郷愁漂うシルクロードが走る中国・新疆ウイグル自治区はウイグル人の祖国だったのだ。この"祖国"を彼らは、東トルキスタンと呼ぶ。

 歴史年表によると、1933年に続き、1944年にも東トルキスタンは独立をはたしたことがある。しかし、いずれもソ連の介入や中国政府による占領で、短命に終わっている。

 しかし、イリを中心に祖国を持たないウイグル人の反政府、独立運動は続発し、中国政府による弾圧も続いているらしい。

 この本は、この独立運動に関与したと見なされて、海外に亡命したり、投獄されたりしているウイグル人たちの実情を記録したものだ。

 圧巻は、世界ウイグル会議議長として、ウイグル人の人権擁護活動をしている在米ウイグル人女性、ラビア・カーディルさんへのインタビューだ。

 ラビアさんはアルタイ生まれ。中国共産党の軍隊が「東トルキスタン」を占領した際、母、弟妹とともにトラックに乗せられ、タクラマカン砂漠に置き去りにされた。大変な思いで砂漠を抜け出した後、自らの才覚で中国十大富豪の一人と呼ばれるようになり、中国共産党関連組織の要職まで務めた。

 だが、江沢民を前に反政府演説をしたのをきっかけに、その地位と財産を奪われて6年間投獄されたが、欧米の人権団体の擁護などもあり、米国に亡命した。

 この11月にはアムネスティ・インターナショナルの招きで来日、各地で講演している。11月10日付け読売新聞によると、ラビアさんは「ウイグル族の若い女性が沿岸都市に安価な労働力として強制移住させられている」「政治的迫害を受けて中央アジア諸国に逃亡したウイグル族が中国に強制送還されて投獄されている」など、中国の人権侵害の実態を訴えた。

 この本では、こんなエピソードも紹介されている。

 「2000年6月、日韓共催サッカーワールドカップで、トルコ対中国戦がソウルのスタジアムで行われた際、世界中のウイグル人が興奮し目を疑い、快哉を叫んだ。中国のゴール裏に広げられた巨大な東トルキスタン国旗(トルコ国旗の赤い部分を青にした旗)が、中継画面に何度も映し出され、全世界に配信された。実況中継のため中国でもそのシーンをカットすることはできなかった・・・」

 ただ、この本の著者である水谷尚子・中央大学非常勤講師は「序にかえて」で「ウイグル人亡命者の口述史をまとめる作業は、まるで平均台の上を歩かされているような感覚である。彼らの『語り』は、傍証となる資料を探すことがほぼ不可能で、客観的検証が非常に難しい・・・」と、書いている。

 私もこのブログを、その他の本やWEB検索資料で書いている。出所を確かめる作業はまったくしていないが、無責任な記述が許される「おたくメディア」だからと、自分を納得させるしかない。

中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)
水谷 尚子
文藝春秋 (2007/10)
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おすすめ度の平均: 4.5
5 恐るべきチャイナ
4 中共政府による少数民族弾圧の実態
5 アジアにおける「人権」を問う


 参考文献:「もうひとつのシルクロード」(野口信彦著、大月書店)=岩崎先生からの寄贈
もうひとつのシルクロード―西域からみた中国の素顔
野口 信彦
大月書店 (2002/05)
売り上げランキング: 386479


2007年12月 3日

読書日記「中国・シルクロードの女性と生活」(岩崎雅美=編、東方出版)

 駆け出し記者のころ。確か、本多勝一だったと思う。「ルポルタージュの方法」という本かなにかで「知らない土地にルポに出かける時は、その土地の歴史と地図をしっかり調べる」と書いてあったのを読んで「なるほど」と思った覚えがある。

 今年の9月に、古い友人の久保さんにお願いしてシルクロードへの旅をご一緒させてもらうことになった際、出発まであまり時間がなかったが、できるだけシルクロードの歴史を書いたものや紀行文を読もうとしてみた。

 だが、行くところが天山北路という新疆ウイグル自治区でも、一番北にあるためか、関連する資料が少ない。特に、そこに住むウイグル族の人々の生活などを事前に知る手立ては見つけられなかった。消化不良のまま、出発日が来た。

 この旅は、久保さんご夫妻と同じ古いテニス仲間だった吉田さんご夫妻ともご一緒した。新疆ウイグル自治区の州都ウルムチの飛行場で便待ちをしていた際、吉田夫人(芦屋女子短期大学教授)から「こんなのがあるのですよ」と、手渡されたのが、この本。

 手に取ってパラパラとめくって見て驚いた。

 ウイグル族の生活を女性中心に記述した詳細なフイールドワークだった。具体的なルポを積み重ねた平易な文章だけでなく、その生活ぶりが分かる写真が多いのにも引かれた。

 2004年の発刊だから、本屋で手には入らないだろう。「この本を買いたいのですが」と、興奮気味にお願いしたら「二冊持っていますから、それ差し上げます!」。

 北西の都市、イリに向かう機中でむさぼり読んだ。

 この本は、吉田夫人の母校、奈良女子大学出身の7人の学者が、4年をかけて新疆各地の民家を実際に訪問して、女性の生活ぶりを調べたもの。

 家族構成や親子の同居実態、親族関係、子どものしつけ。それに、服装や髪型、化粧法など、女性だから調べられたと思う徹底したフイールドワークだ。

 おもしろかったのは、眉毛の化粧。ウイグル族女性の化粧のなかで、特に眉毛は大切らしい。どの家庭でも庭先にオスマという植物を一年中栽培していて、その葉を手のひらでよく揉んで出てくる緑の汁で眉を描く。出来あがると、濃いグレーで、太くて濃い化粧が好まれる、という。

 イリでツアーガイドをしてくれたウイグル族の女性、Cさんが、そっくりの眉をしていた。「オスマで描くの」と聞いたら、違うという。働く女性は、市販のものを使うのだろうか。

 この本はもちろん、ウイグル族の民族料理にも詳しい。

 日常食で、我々の食事にも出たナンは、羊肉のみじん切りやタマネギ、カボチャのペーストを入れたものなど、種類は非常に多いようだ。

 日本では、なぜかシシカバブと呼ばれている羊肉の串焼き「カワプ」は、石炭で焼く途中で、唐辛子やジーレンと呼ぶ調味料をふりかけながら、こんがりと焼く、と書いてある。ジーレンの実には揮発油が含まれていて、特有の香りがする、という。「ああ、あの香りはそのせいなのか」。納得。

 帰国してしばらくしたら,吉田夫人から、この本の続編「中国・シルクロード ウイグル女性の家族と生活」(編者、出版社:同)が送られてきた。編者の岩崎先生が寄贈していただける、という。

 同じ先生方7人が、その後3年、計7年続けられた調査が書かれている。民族料理の記載がぐっと増え、民家の詳細な見取り図までが描かれているなど、さらにウイグル族女性の生活に入り込んだ様子が生き生きと書かれている。

 岩崎先生のあとがきに、このような記載があった。

「ウイグル人は国を持たない民族であるために、一種心のよりどころとなる国を求める意識が働き中国政府と衝突する」

 この文章のおかげで、別の本に出会うことになる。

中国・シルクロードの女性と生活
岩崎 雅美
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5 写真が沢山載ってます!
中国シルクロード ウイグル女性の家族と生活
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2007年11月26日

黄河の森緑化ワークツアー同行記・下

 植樹を終えて、第1次植樹林に向かう。

クリックすると大きな写真になります まっすぐ伸びた道の向こうに、おむすび形をした小山が見える。びっしり緑に包まれているとはまだいえないが、樹木が上下左右に整然と育っている。これが、7年前から始まった神戸のNPO「黄河の森緑化ネットワーク」のボランティアと蘭州市政府の共同作業の成果なのだ。

 この会の理事、Kさんによると、始めたころは、木は一本もなく、雨が降ると土壌が流れ、砂漠化現象が始まっている荒山だった、という。

 「継続は、本当に力だなあ」。なんだか胸のなかに気持ちのよい空気を一杯吸い込んだような気分になる。

 植えたのは、最大3メートル近くに育ったコノテガシワを中心に、イタチハギ、ニセアカシアなど8種類、合計13万2000本。

 NPO所属のメンバーが、毎年シルクロードなどへの旅行も兼ねて植樹するほか、会員の会費や協力団体からの協賛金で、これまで毎年160万から180万円を緑化のために寄付してきた。

 小山のふもとに「中日友好林記」と書かれた記念碑があった。三角錐をした大理石製だ。

 唐詩の韻をふんでいて、とても読めない。このツアーのコンダクターで、ラストエンペラーの先代の子孫である金さんに翻訳をお願いした。

 「かって(蘭州が)金城と呼ばれた時は、緑が鬱蒼と広がっていたが、人災と戦争で荒野が広がってしまった」

 「新中国誕生後50年をかけ、すべての市民が背に氷を担ぎ、てんびん棒で水を運び、鍬、斧を持ち、苦難を乗り越えて3・5ヘクタールの植樹をし、海外まで知れ渡った」

 「東の緑溢れる国(注:日本)から緑の文明が紹介され、生態への意識が急速に広まった。2001年、甘粛省政府の命を受け、柴生芳氏(注:元神戸大留学生)が東奔西走し、中日友好林を実現させた」

 「日本黄河の森緑化ネットワークは、毎年この地を訪れて植樹し、緑を与え、金城を輝かせる」

 「人々の知恵で、砂が搭になるように、美しい山河に改造しよう。シルクロードが文化を伝えた頃のように」

 「海外からの初めてのお客様も、長く行き来すれば無二の朋となる。水が流れるごとく。松がいつまでも緑のように・・・」

 友好林のふもとは、カラマツやアカシア、ハゼなどの苗木畑が広がっている。蘭州政府は、ここ一帯を緑のテーマパークにする計画を進めている。その中心になる建物も、年末には完成する予定だ。全面の青いガラスは、黄河が昔のような清河に帰る、という願いが込められている。「黄河を清河に」。これは、NPOがスタートした時からのキャッチフレーズでもある。

クリックすると大きな写真になります 近くの蘭州市政府緑化工程指揮部の事務所(なぜか別荘と呼ばれている)での昼食会で、乾杯が続く白酒に酔った。その後、第2次友好林プロジェクトの調印式が行われた。

 100ヘクタールを植樹する計画だが、新たに三井物産環境基金からの助成がきまったため、6年かかる計画が3年に短縮できた。植林だけでなく、三水造林法の開発や根を育てる菌根菌の研究も日中共同で行い、蘭州市民にアンケートしてボランティアを募ることも検討している。

 緑化に力を入れた成果が出たのか、昨年の蘭州市の降雨量は約100ミリ増えた。といっても、この街の緑化率は7%とも、9%とも。まだまだ、道は遠い。

クリックすると大きな写真になります 心配なのは、この街の急速な経済成長だ。蘭州は、シルクロードの要だし、黄河を抱える唯一の都市でもあるため、内陸部の物流拠点として発展している。近くに大きな石油コンビナートもあり、スモッグと交通渋滞が悩み。偶数、奇数日で屋根が緑と黄色のタクシーが、交替で走るという規制もしているが・・・。

 果樹園がどんどん買い占められてマンションに変り、中山橋から見た黄河沿いも建設中のマンションが多く見えた。建設計画が発表されると、すぐに売り切れるという、どこかの国のバブル期みたいな様相らしい。

 環境改善と経済発展の追いかけっこが続く。

2007年11月17日

黄河緑化ワークツアー同行記・上

 約1週間のシルクロード・天山北路への旅を終え、甘粛省の省都、蘭州へ。いよいよ、この旅の本来の目的である植林ボランティアが始まる。

 ここ、蘭州は、中国中央部の黄河流域に広がる黄土高原の一部。長年の戦乱、中国政府による食糧増産政策、そして急激に進む砂漠化現象で、約2000年まえには緑豊かだった高原が、荒地が続く不毛の土地になってしまっている。

 その荒地に再び緑を取り戻すことを、甘粛省政府は重要政策にしている。空港から市内に入る国道沿いには、明らかに植林されたばかりだと分かる並木が続いている。省政府の強い指示で、蘭州の企業などが植林したものだが、一歩、裏に回ると砂漠化が続く荒地と畑が続いている、らしい。

 荒地があまりにも膨大なため、甘粛省政府の当面の目的も「とりあえず蘭州市内から見える山に植林をする」ことだという。

 神戸にあるNPO「黄河緑化ネットワーク」による植林ワークツアー」は今年で7年目。今年から第二期のプロジェクトに入り、植林の場所も植える木も変わるという。

 小さなマイクロバスに乗り換えて、河原のような小石の多い道を走ること約30分。山腹に「歓迎」の赤い横幕が張ってある荒山が、植林現場だ。

クリックすると大きな写真になります 斜度が45度はありそうな急な山腹には、すでに細い小道が作られ、等間隔であけられた直径30センチほどの穴にビニールシートが張ってある。

 今年から植えるのは、紅砂(ベニスナ)という小低木。これまで植えていたコノテガシワは、黄河から水を引いて定期的に散水するなどコストも人手もかかるため、水やりの必要がないこの木に替わった。「低木でも,低コストで荒地を緑でおおえる」と、この会の顧問である徳岡正三・元高知大教授は期待する。なにしろ3年間で100ヘクタールもの土地を、ベニスナの緑で埋め尽くす計算なのだ。

 先が丸くなっていない変った形をしたスコップを借り、ビニールの真ん中に穴を深く掘る。「スッコ」と、なんの抵抗もなくスコップが入る。粘土質のように見えるが、少ししめっぽいサラサラした感じの非常に細かい土。周りにある乾いた土を手でこすると、風に散っていった。

 「なるほど、これが黄砂か」。春先の日本に黄砂が降ってくるのは「砂漠化した畑に農民がいっせいに鍬を入れ、砂が舞い上がるため」と、この会の会報に深尾葉子・大阪外国語大学准教授が書いておられたのが、なんとなく納得できた。

 今回「ベニスナ」を植えるために、蘭州市の環境緑化指揮部という役所が開発したのは「三水造林」という植林法。
 真ん中にあけた穴にベニスナの苗木を入れ、土でしっかり押さえる。そして、残った土で、ビニールシートの周りを、やはりしっかり固める。

  「ビニールシートで雨水を集め=集水」「根に水を注ぎ=注水」「シートで蒸発を抑える=保水」。

  年間降雨量389ミリという、少ない雨水を有効に利用しようという、なんだか中国語らしい命名だ。

クリックすると大きな写真になります
 林の最中に、近くにおかしな雑草が生えているのを見つけた。ラクダしか食べないという「ラクダ草」だった。とげがあるのに下あごを使って食べてしまうという砂漠特有の草。またもや、ここが“砂漠”であることを再認識した。

 2時間強の作業を終えたワークツアーや現地参加の約50人、それに地元・中国のメンバー十数人が横幕の前に集まり、記念撮影をした。

 ベニスナは、大きくなっても最大1・5メートルにしかならない。しかし、それがしっかり根を張り、数年後には、この荒山を緑のじゅうたんに変えることを夢見て、ズボンやシャツを真っ白にした、みんなの顔が輝いて見えた。

2007年11月10日

シルクロード紀行⑤ 「氷河がつくった湖」

 急に秋の世界が拓けてきた。

 これまでの針葉樹林帯に広葉樹の木々が混じり始めた。それがすでに黄葉し始めている。紅葉樹の林もある。

 天山北路の西のはし、イリの空港から一挙に東に1時間強のアルタイ。この街から、バスで、ロシア国境に近いカナス湖を目指した。

 バスが、急峻な山道を登り、高度を上げているたびに、周辺の森が深みを増していく。イリ周辺の草原の山々まったく違う、密度の濃い樹林帯が続く。

 「高度は1700メートル近くありますね」。古い友人で、このツアーに誘ってもらったKさんが、腕時計についている高度計をのぞき込んだ。

 黄葉している林を、最初は信州の山でよく見るダケカンバかと思った。「白樺ですよ。幹がまっすぐ伸びているでしょう」。ツアー仲間で、植物に詳しいMさんが教えてくれた。日本とは比較にならない広大な白樺の樹林帯と、まだ落葉していないシベリアカラマツ(落葉松)やトウヒ、モミなどの針葉樹林帯との対比が際立っている。

 アルタイから約150キロ・メートル。カナス湖は、海抜約1300メートルのアルタイ山脈の奥深い森のなかにある。

 この湖は太古の昔は、氷河だった。その後の、温暖化で氷河が消え、そこにアルタイ山脈の雪解け水や雨水が流れこんで湖になった、という。

 氷河がつくった湖だから、全長24キロ・メートルと、三日月のように細長く続き、近くの山に登っても、なかなか全貌がつかめない。

 氷河が大きくえぐったからか、一番深いところは188メートルもあり、中国で最も深い淡水湖でもある。

 この深さのせいか、この湖には一つの伝説がある。長さ10メートルを越える怪魚が生息している、というのだ。

 旅に出かける前に「You Tube」の画面で見た映像では、確かに小船のようなUMA(未確認生物)らしきものが動いているのが映っていた。開高健の著書「オーパ、オーパ!!」にも、このカッシー(別名・ハナス湖からハッシー)のことが書かれているらしい。

 もう一つ、この湖には、有名な不思議がある。季節と時間で湖の色が変わるらしい。

 確かに、初日の夕方にみた「月亮湾」は、夕日を受けて黄色に見えたし、竜のような中州を抱えた「臥竜湾」は逆光のせいか深い緑に見えた。翌日、約30分かけて上った「観魚亭」から見たカナス湖は青白く輝いていた。

クリックすると大きな写真になります 湖の湖底には、氷河がつくった大量の小石が風化して堆積し、その粒上の石が、太陽の光を受けて、季節と時間で異なる色で反射する、という。

 観魚亭から見た湖の対岸に広がるアルタイ山脈の山並みが見事だった。大きく延びる裾野にカラマツの緑と白樺の黄葉が広がり、峻険な頂上を飾っている。

 ここカナス自然保護区は、中国で唯一の西シベリア系動植物分布地域。この風景が、遠くロシア・シベリアまで続いている、ということだろうか。

開高健の著書「オーパ、オーパ!!」

オーパ、オーパ!!〈モンゴル・中国篇・スリランカ篇〉 (集英社文庫)
開高 健 高橋 昇
集英社 (1991/01)
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おすすめ度の平均: 3.5
3 完結編だが・・・
4 宝石
3 東の端に生まれて


2007年10月31日

シルクロード紀行④ 「ジンギスカンが来た草原・下」

 翌日は、カザフスタン国境に近いサリム湖へ。

クリックすると大きな写真になります イリから国道312号線(天山北路)に出て、東へ向かう。別名「果物の道」と言われるだけあって、国道沿いにあるテント張りの屋台には、果物が堆く積まれている。小ぶりだが、甘さたっぷりのリンゴやブドウ、そしてザクロ。ナツメ(500グラムが2元)は、スカスカのリンゴのような味。干したらうまいらしい。スモモ(1キロで4元)は、堅いが甘酸っぱい素朴な味がした。

 昼前に着いたサリム湖は、海抜2073メートルと、世界で一番高いところにある内陸湖(流れ出す川がない湖)。面積は458平方キロ、一番深いところで98メートルあり「天山の真珠」という別名があるとおり、透明で澄んだ湖面が広がっていた。

 魚も多いらしいが、捕獲禁止。水はアルカリ性が強く、飲めないため、周りの草原で羊などを放牧しているモンゴル族の人たちは、湧き水しか使えない。ちょっと飲んでみたが、冷たくてうまい天山山脈の地下水だった。

 夏の最盛期は、約45万頭の羊や牛が放牧されるという、大草原観光(一人140元)に出かけた。まず、モンゴル族独自の儀式。それぞれがハーターという白い絹の布を首に巻き、ツアー仲間のMさんが代表して、白酒を入れた杯に指をつけて天と地面を指し、額につけて飲み干した。

 この儀式は、後日、アルタイのカナス湖畔だけに住むモンゴル族トア人の住居を訪ねた時も同じだったし、数年前に内モンゴルを旅したZさんも同じ体験をした、というからモンゴル族共通のものらしい。

クリックすると大きな写真になります 小型自動車に分乗、湖畔を走る。湖の向こうに山並み、後ろに大草原が広がる。モンゴル族ガイドの指示に従って、川に下りて、小石を3個拾って首の布に包んだ。車で丘にあがると、小石を積み上げた小山が4つほど築かれている。その周りを3回回って、小石を一つずつ落とし、小山の上にある柱に白い布を巻きつけ、儀式は終わった。

 この小山の横に、表に中国語、裏はモンゴル語で書かれた大きな石碑があった。その赤い字を、帰国してから通っている中国語教室の先生に教えてもらいながら拾い読みし、この儀式が、なんとなく理解できた。

 「紀元前1219年、天驕(北方民族の君主)である成吉思汗(ジンギスカン)率いる20万の西征軍は、アルタイ山を越え、サリム湖に入り、将台(兵を指揮し、謁見する台)とオボを築いた。人々は長年、蒙古人民の供養のため朝拝した・・・」。

 オボとは、モンゴル族特有の祭壇、我々が小石をささげた小山のことだった。

 この故事を記念するため「西海草原」と名付けられた石碑がある大草原で、毎年7月中旬にあらゆるモンゴル族が集まって「ナーダム」という祭りが開かれ、競馬や相撲、歌や踊りを楽しんできた、という。

  石碑の百メートルほど横にぽつんとたっている棒は、祭りの時の国旗掲揚のためのものだった。

 しかし、この祭りも「草原が荒れる」のことを理由に、昨年禁止されてしまった。ここの地主は、中国政府。少数民族保護政策と、なにか関係があるのだろうか。

 祭りができなくなった草原に向かって、大きく風を吸い込んでみた。山から駆け下りてきたジンギスカンを思った。

2007年10月23日

シルクロード紀行③ 「ジンギスカンが来た草原・上」

 イリを朝8時に出て、国道218号線を東へ。途中下車しながら280キロ・メートルをバスで走り、世界四大高山河川高原の一つナラティ草原に着いた時は、もう午後3時を少し過ぎていた。

「なんだ、ここは遊園地か」。野球場の三倍ほどの草原には、観光客を乗せるラクダが数匹うずくまっており、その向こうは、なんとゴルフ練習場。観光客があふれる駐車場の柵で休んでいた鷹飼いの老人にカメラを向けたら、右腕に留まらせていた鷹の羽を大きく広げてみせ「5元(約80円)!」と、手を突き出された。
クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります なんだかガッカリした気分は、馬で草原探索をするという初体験で、すっかり晴れた。 カザフ族の少年や少女が後ろに乗ってくれて、ワークツアーのメンバーのうち、約20人で約1時間のツアー。料金は、チップを入れて一人50元。私の同伴者は、日焼けして彫が深い精悍な顔の少年。ウイグル語しか話さないようだが、覚えたての北京語で「止って!」と言うと、ちゃんと馬を止め写真を撮らせてくれた。

 乗ったのは、ちょっと小ぶりの8歳馬。通っている中国語教室の元同級生Zさんは、以前に内モンゴール自治区の旅行した際、同じような馬に乗ったことがあるという。「ロバとサラブレットの間ぐらいの大きさで、乗りやすかった」。どちらも、漢の武帝が追い求めたという匈奴の名馬「汗血馬」の子孫なのだろう。

 こぶりといっても馬上からの目線はけっこう高い。少年の動きに合わせてアブミに乗せた両脚を挙げ下ろしすると、馬はトットとスピードを上げる。草原を駆け抜ける風を心地よく感じ、気分は爽快。翌日から数日間、両脚に軽い筋肉痛になった。
 30分ほど走ったところで、休憩。近くにコヨの林を見つけた。ツアーガイドの張さんによると「生きて1200年、立ち枯れて1200年、倒れて1200年」持つ、砂漠のオアシス特有の木だという。

 小型自動車に分乗して、山並み散策に出かけた別グループの見た高原は、深い谷とどこまでも広がる緑の草原に囲まれ、すばらしい眺めだったらしい。

 約1万6千ヘクタールもあるというこの大草原に、シルクロードらしい物語が残っていた。

 ジンギスカン(成吉思汗)が西征に乗り出したころのこと。一団の蒙古軍が、天山山脈を越えて、イリに向かった。季節は春だったが、風雪が激しく、兵士たちは飢えと寒さで疲労困憊、引き返そうかと思った瞬間。突然、目の前に花があふれた草原が広がった。その時、夕日のように真っ赤な朝日が昇ってきた。兵士たちは、大声で叫んだ。「ナラティ、ナラティ!」。「ナラティ」は、モンゴール語で「太陽」という意味。悠久の昔の兵士たちの声が、そのまま、この大草原の地名となっている・・・。

 

2007年10月19日

シルクロード紀行② 「天山北路を行く・下」


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 天山北路は、国境に通ずる交通の要路でもある。

 行きかう車は、ほとんどが、日本でもほとんど見かけない超大型トラック。西に向かう中国ナンバーは、大きなダンボールをこぼれるように積み上げている。中味は、中国製の衣類や食品だろうか。西から来る車は、鋳鉄の塊や鋼鉄管を載せている。

 国境の街・コルガスの街に入る手前の検問所で、若い中国人民軍兵士がバスに乗り込んできてパスポートをチェックした。カメラを向けたら、厳しい目で阻止された。

 国境の駐車場は、通関待ちの大型トラックで一杯。国境を守る兵士の横にある標識の石には「312国道 4825」と赤く刻まれていた。終着点・上海まで4825キロという意味らしい。

 国境は、目の前の枯れた河。カザフスタン側には、鉄さくだけで人影は見えない。記念撮影の観光客でごったがえす国境に緊張感は見られない。

 しかし、秦の時代から、この天山北路では、遊牧民と漢民族の間で厳しい戦いが繰り返されてきた。19世紀、清の時代には、ロシアがイリを占領、その後の交渉で締結された「イリ条約」で、現在の国境が決められた。

 第二次世界大戦後に長く続いた中ソ対立で、東西の交流はほとんど途絶え、人々は長年、この国境を越えてシルクロードを西に行くことはできなくなった。交易が再開できるようになったのは、ソ連崩壊以降だという。

 コルガスの街で見つけた国道312号線の道路標識には「亜欧(YAOU)路」とあった。亜細亜から欧州に通じる路という意味だろう。 国境を越えて北アジアから地中海に通じる砂漠とオアシスの路・天山南路と草原の北路、そして南方の東南アジアからインド洋、紅海にいたる南海路。この三つのシルクロードは、古代ローマの時代から、絹織物や陶器を運び、東に向かえば唐の首都・長安(現在の西安)から朝鮮半島、そして日本の奈良・正倉院の収蔵品に、その足跡を残している。 中国は今、急激な高度成長。カザフスタンも豊富な石油資源で、いずれも年間10%を越える経済成長に潤っている。 二つの国を貫く現在のシルクロードを行き交う人とモノの群れは、悠久の太古に始まった交易の歴史を引き継いで、新しい盛り上がりを見せている。