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2019年3月29日

日々逍遙「秋田県立美術館、乳頭温泉」「北海道神社、円山公園」「横浜美術館、横浜中華街」

  

【2019年2月10日(日)】

 前日遅くにJR秋田駅前のホテルに泊まり、翌朝朝食に行ったら、窓の外にからすの群れ。
 北海道に多く見られるワタリガラスという渡り鳥で、街中でゴミをあさるのとは違う種類。旧約聖書のノアの方舟に登場したり、イギリスのロンドン塔に飼われたりしていた由緒ある鳥らしい。
  ちょうどハクチョウなどがシベリアなどに帰る季節だが、ワタリガラスもそうなのだろうか。

 
 鳥帰る五千キロてふ北帰行


 ホテルから歩いてすぐの秋田県立美術館に、以前から鑑賞したいと思っていた藤田嗣治「秋田の行事」を見に行く。

 2階の主展示場にドドドーンと広がる圧巻の大作は、高さ3・65メートル、横20・5メートルもある。依頼した秋田の資産家、平野政吉の米蔵で制作した後、壁の一部を壊して運び出したらしい。  橋の左に秋田の暮らし、右に山王祭、梵天奉納、竿灯祭りという3つの祭りが展開されており、70人近い人物が生き生きと描かれている。大作の前を何度も行き来し、あきずに眺めた。

秋田の行事          同・拡大
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    JR秋田駅から新幹線・こまち、バスを乗り継いで乳頭温泉郷へ。2泊した妙の湯は、硫酸塩と単純泉が男女交替で4つづつ。混浴と貸し切りの露天風呂もあり、湯につかりながら雪景色を堪能した。

 翌日は、乳白色の湯で知られる鶴の湯へ。乳頭温泉は、この乳白色の湯から名付けられたと思っていたが、近くの乳頭山に由来するらしい。この山「遠くから見るほど、女性のおっぱいに見える」ということだった。

 付近は、けやきらしい木を中心とした雑木林。春めいてきた日差しのなかで、小枝にかかった六花(むつのはな、俳句で雪の傍題)が輝いている。  近くの桜並木の枝に咲く雪も、量がたっぷり。前年の夏に形成される桜の花芽は、冬の寒さにさらされて目覚めるという。もう桜は、蕾のなかで満開だなと思った。  
 むつのはな木木に咲きては輝ける


妙の湯       鶴の湯            雪が咲く林
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【2019年3月3日(日)】

 JR札幌駅から地下鉄南北線、東西線を乗り継いで北海道神社へ。2度目の訪問だが、前回よりかなり雪が少ない。入り口に、今年の厄年・祝い年の掲示板が出ていた。85歳は、後厄に当たるらしい。そこまで生きていたらの話しだが・・・。

 敷地続きの円山公園を歩く。明治初期に開拓使が設置した樹木の試験場だったそうだが、広大な敷地に雑木林が広がる。イチイ、キササゲ、カシワ、ハルニレ、ミズナラなどの木々に動物をかたどった木の札に名前が記されており、楽しくなる。5月には、一斉に芽吹くという。

北海道神社           円山公園の林
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 ものの芽のさざめき初めし北原野




【2019年3月18日(月)】

 横浜・桜木町のホテルに泊まった翌日、みなとみらい地区へ。

 帆船日本丸が停泊している公園で、早咲きのオオカンザクラがほぼ満開。後ろの高層ビルランドマークタワーと競っている。
  横浜美術館前の紫木蓮の並木も花真っ盛りだ。

 美術館では、思いもよらず イサム・ノグチの展覧会をしていた。イサム・ノグチの作品を訪ねてニューヨーク札幌、高松と行脚したのは、もう8年も前だ。展示された石の彫刻になつかしさを覚えた。

みなとみらい・大寒桜             美術館前・紫木蓮
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 みなとみらい線で、中華街へ。以前にいとこ達と行った店で食事の後、横浜関帝(Guan Yu)廟横浜媽祖(Ma Zu)廟を訪ねる。三国志の英雄・関帝(関羽)、航海の守護女神である媽祖は、いずれも特に華僑の人びとの信仰を集めており、習っている中国語のテキストでなじみの神様。台湾の人らしい女性たちが長い線香を煙らせながら、深々と頭を下げていた。

 うららかや線香煙る中華廟


関帝廟                   媽祖廟
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2018年12月14日

日々逍遙「阪急西宮ガーデンズ、京都府立植物園」

 【2018年11月21日(水)】

 散歩がてら、阪急西宮ガーデンズ4階のスカイガーデンへ。
 東入口から入ると、円形花壇の内側に、小さなスイレンの花のようなものが咲きそろっている。スマホ・アプリの「花しらべ」で調べると、スイセン・ペパーホワイトと出た。このアプリ、時にはとんでもない答えを出してくれるが、多分当たりだろう。後日、同じガーデンで、副花冠が黄色いおなじみの日本スイセンも咲いていた。

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 秋明菊とならんで、黄色い石蕗(つわぶき)の花も咲き出している。石蕗は、冬の季語。周りが急に"冬めいて"みえた。

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 ここには、オリーブの木が約20本も植わっている。太くなったどの木々にも実が鈴なり。西宮阪急は、10年まえに開店したばかりだが、見事に育ったものだ。

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 帰り道、県立芸術文化センターの黄色く色づいたケヤキの木の下で、若い女性が楽譜を置いてハーモニカの練習をしていた。楽譜を見ながら、ハーモニカというもちょっと不思議。楽器のトーンも高く、澄んだ音がする。ひょっとすると、違う楽器?芸文センターの楽団員?
 ブログ管理者のn.shuheiさんによると、このハーモニカはクロマチックハーモニカという半音階が出せる楽器らしい。南里沙さんという神戸女学院を出た奏者が有名という。

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 途中の菓子店で買ったミルフイーユの中身が、これまでの梨から苺に代わっていた。「これから、当面は苺。国産が入るようになったので」と店主夫人。果物も冬の季節である。

 【2018年11月23日(金)】

 毎年、桜と紅葉の季節には、京都府立植物園に行くことにしている。シーズンでも観光客に邪魔されない秘密のスポットだと、ある京都人に教えてもらった。それに、70歳以上は入場無料である。

 隣接するピザ・パスタ店でゆっくりしすぎて、園に入った時には、午後の曇り日になってしまった。紅葉への映えはどうかと思ったが、まーまー。

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 桜林のなかで、小枝に咲く冬桜、四季桜を見つけた。紅葉を背景に、白い小さな花を咲かせている。冬桜は1月の季語。四季桜は、ヒガンザクラの一品種で、別名・十月桜。西宮市の北山緑化植物園の芝生にもけっこう大きな十月桜が植わっている。
 11月の季語である帰り花(返り花)は、これらの桜を言うのだろうか。
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 おなじみのイチョウの黄葉、冬の季語でもある花八つ手、秋バラ、まだ咲き誇っていたコスモス、夏の名残の赤いカンナと、植物園に咲く花の季節は幅広い。

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 北山門に帰る右側に大きくそびえるレバノンスギ、オオカナメモチなどの針葉樹林には、いつもほっと息をつく深淵さを感じる。
 左側の600本もあるというつばき園は、いつも見る花の時期を逃してしまう。

2017年9月16日

読書日記「日本の色辞典」(吉岡幸雄著、紫紅社刊)


日本の色辞典 紫紅社刊
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 京都の染色工房を主宰する吉岡幸雄が出演したNHKのBSドキュメンタリー番組「失われた色を求めて」の再放送を何度か見た。

 日本に古くから伝わる植物染織の復活に生涯をかける工房や原料を育てる農家の人々の苦労が伝わってくる。

 そんな時に友人Mが貸してくれたのが、この本。カラ―写真紙を使ったズッシリ重い約300ページの本に、古代からの色彩豊かな衣装、色の染め方や聞いたこともない名前の色見本が詰まっている。

◇赤系の色

 太陽によって一日がアケル。そのアケルという言葉が「アカ」になった。

 
 土のなかから弁柄などの金属化合物の赤を発見し、の根、紅花の花びら、蘇芳の木の芯材、そして虫からも赤色を取り出そうとしたのは、まさに、陽、火、血が人間にとっての新鮮な色で会ったからにほかならならない。


 ▽茜色(あかねいろ)

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    額田王が「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と、万葉集に詠った色。

 茜は、アカネ科の蔓草だが、その赤い根を乾燥させて朱色を出す手法は古くから用いられてきた。しかし、手間がかかり、色が濁って難しいため、その技法は中世の終わりにすたれてしまった。

 著者の工房では、茜の草を試験的に栽培し始めた奈良県の農家の協力で、その製法の再現に挑戦している。しかし、茜の根を煮出した汁から黄色を取り去るために米酢を加えることをやっと発見するなど、古代の色を再現する苦労が続いている。

 ▽深緋(こきあけ、ふかひ)

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    古代色の読み方は難しい。深緋は、茜色をさらに濃く染め上げたもの。

 工房では、平安時代に編さんされた格式(律令の施工細則)である 「延喜式」の比率どおりに茜と紫根を用い、椿の木灰の上澄み液で発色させた。

 ▽曙色(あけぼののいろ)・東雲色(しののめいろ)

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      清少納言が「春は、あけぼの」と詠った「山の端から太陽が昇る前、そのわずかな光が反射して空が白み始める」色である。著者は「多くは茜色がやや淡く霞がかかった感じ」とみている。
 色見本では「茜との黄色を重ねた」

 ▽紅(くれない・べに)

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     紅花が出す赤色である。エジプト原産で、4,5世紀に日本に渡来した、という。

 この紅花から「紅」を染め出すのは、至難の業らしい。
 「自然の色を染める」(吉岡幸雄・福田伝士監修、紫紅社刊)などによると、花びらを水の中で揉み、ざるに取ってきつく絞る作業を繰り返して、花に含まれる黄色を取り去る。この後、藁灰(アルカリ性)を加えて、1-3回、色素を抽出。絹、木綿などの布を入れ、食酢を加えて色を定着させる。さらに布を水洗いして、鳥梅 と呼ばれる未熟な梅の果実を、薫製(くんせい)にしたものの水溶液に漬け、そのクエン酸の力で色素を定着させて乾燥する。
 鳥梅をつくっているのは、奈良県月ヶ瀬村の現在では中西さんという80歳強の梅栽培家だけらしい。「紅」の将来は、どうなるのか。

 このほか辞典では、盛りの桃の花をさす「桃染(ももぞめ・つきぞめ)は、紅花を淡く染めてあらわした、とある。

 「桜色」については、光源氏が、政敵右大臣の宴に招かれた時に「桜の襲(かさね)の 直衣(のうし)で出かけたことが書かれている。

 表が透明な生絹(すずし)、裏は蘇芳か紅花で染められた赤で、光が透過して淡い桜色に見えたのである。その姿は「なまめきたる」美しさであったという。

◇紫系の色

 紫という色を得るのに、中国、日本等東洋の国々では古くから紫草の根(紫根)を染料として用いてきた。

 
 ・・・染液のなかをゆっくりと泳ぐように動いている布の、だんだんと紫色が入っていくさまを見ていると、ほかの色を染めているときとはちがった、妖艶というか、神秘的というのか、眼が、色に吸いつけられて、そのなかに自分が入りこんでいくような気がしてくるのである。


 平安時代。紫は、高貴な人々だけに許された、 禁色(きんじき)であった。

 ▽深紫(こきむらさき)

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   紫根によって、何度も何度も繰り返し染めた黒味が閣下ったような深い紫色。

 紫根は麻の袋の入れ、湯の中でひたすら揉み込んで、色素を取り出す。その抽出液に湯を加え、絹布などで染め、清水で洗う。
 椿の生木を燃やした灰に熱湯を注いで、2,3日置いた上澄み液を越して布を入れる。椿の木灰に含まれたアルミニウム塩が紫の色素を定着させる。

◇青系の色

   青色は、古くから硝子、陶器などに使われてきたが、衣服は藍草で染められてきた。

 中国・戦国時代紀元前403~前221)に書かれた 「荀子」には「青は藍より出でて藍より青し」と記されている。「出藍の誉れ」という諺でも知られる。青という色は藍の葉で染めるが、染め上がった色はその素材より美しい青になることをあらわし、・・・すでに青という色を、藍という染料から得る技術が完成していたことを物語る。

 日本では、奈良時代には愛の染色技法はすでに完璧に完成していたとみえ、正倉院宝物のなかにもいくつかの遺品を見ることができる。

 
 (木綿の栽培が盛んになった)江戸時代に入ると、木綿や麻など植物性の繊維にもよく染まる藍染はより盛んになり、村々に紺屋ができた。 型染 筒描など庶民から将軍大名にいたるまで、藍で染めた青は広く愛される色であった。
 明治のはじめ、日本にやってきた外国人は、そうした状況を目のあたりにして、その藍の色を「ジャパン・ブルー」と読んで称賛したのである。


 ▽藍(あい)

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    日本では、藍を染めるのに タデを使うが、「建染」という手法が確立している。藍が還元発酵して染色可能な状態になったことを「藍が建つ」という。

 木灰に熱湯を注いで二,三日置き、その上澄み液を濾して灰汁を用意しておく。藍甕に (すくも)と灰汁を入れて掻き混ぜ、二〇度前後の温度を保ちながら十日くらい置く。その間日に二回掻き混ぜる。十日くらいたったところでふすまを加える。すると、ふすまが栄養剤となって発酵が促され、二、三日すると藍が建ち始め(ふすまを加えてあとは一日に一回掻き混ぜる)、染められるようになるのである。

 ▽縹色・花田色(はなだいろ)

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    藍色より薄く、浅葱色より濃い色をさす。「花田」は当て字。

 ▽浅葱色(あさぎいろ)

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    蓼藍で染めた薄い藍色。色見本は蓼藍の新鮮な葉をそのまま使う 生葉染

 田舎出の侍が羽裏に浅葱色の木綿を用いたので「不粋、野暮な人を当時『浅葱裏』と揶揄した」という。

 ▽亀覗(かめのぞき)

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    もっとも薄い藍染。布を少し漬けて引き上げる。つまり、藍甕のなかをちょっと覗いただけ、という遊び心いっぱいの命名。

◇緑系の色

   著者によると「緑色は、身近にいつもありながら、たやすく再現することができない色といえる」らしい。

 自然のなかにある「緑」を身近な生活のなかにおきたいとと思っても、草木が持つ葉緑素という色素は脆弱で、水に遇うと流れてしまう。しかも、時が経つと汚れたような茶色に変色してしまう。

 聖徳太子が亡くなった622年につくられた日本最古の刺繍が奈良・中宮寺に伝来しており、美しい緑の色糸が随所に使われている。藍色に 苅安 黄蘗(きはだ)という黄色系の染料をかけて染められたものだ。

 ▽萌黄色(もえぎいろ)

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   新緑の萌え出る草木の緑、冴えた黄緑色をいう。工房の色見本は、蓼藍の生葉染めのあとに黄蘗を掛け合わせた。

 ▽柳色(やなぎいろ)

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    古い文献によると、柳色の布は、萌黄色の経糸と白の緯糸で織り上げた。

 ▽常盤色(ときわいろ)

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    松や杉など年中緑色をたたえる常緑樹は「常盤木」と呼ばれている。その常盤木の葉のように、やや茶色を含んだ深い緑の色。

 色見本は、苅安に蓼藍を重ねて深みをだした。

 ▽麹塵(きくじん)青白橡(あおしろつるばみ) 山鳩色(やまばといろ)

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    麹塵は、麹黴の色。橡は団栗の古称、青白橡は、夏の終わりから秋のはじまりにかけての青い団栗の実のこと。

 まったく別個の色名に思われるが、平安時代に 源高明が記した宮中の年中行事作法書 「西宮記」に、この2つの色は同じものとあるという。山鳩色も同じ色という説もある。

 「延喜式」にある、その染色法が、また難しい。椿などの生木を燃やしてつくったアルミニウム塩を含む灰汁(あく)を発色剤に苅安や紫草の根から抽出した色素を組み合わせる。著者の工房でも、失敗を重ねて。ようやく染めることができた。

 (後記)

 1項目を読むたびに、著者の工房の苦労を味わい、貴重な古代文献の名を知り、平安朝の 「襲(かさね)の色目」に自然を感じる・・・。
 なんとも興味のつきない本だ。しかし、黄、茶、黒白、金銀の項を残してブログに記すのはこのあたりで止め、座右で楽しむことにしたい。

 なお、各項にある色見本は、ネットにあった、東京カラーズ株式会社の 「色名辞典」からコピーさせてもらった。著者の工房で染めた自然素材の色調とは、当然異なっていると思う。

  ※巻末に、著書にある代表的な色名表を載せ、備忘録にした。

【赤】
 代赭色 (たいしゃいろ) / 茜色 (あかねいろ) / 緋 (あけ) / 紅絹色 (もみいろ) / 韓紅 (からくれない) / 今様色 (いまよういろ) / 桜鼠 (さくらねずみ) / 一斤染 (いっこんぞめ) / 朱華 (はねず) / 赤香色 (あかこういろ) / 赤朽葉 (あかくちば) / 蘇芳色 (すおういろ) / 黄櫨染 (こうろぜん) / 臙脂色 (えんじいろ) / 猩々緋 (しょうじょうひ) など 104色

【紫】
 深紫 (こきむらさき) / 帝王紫 (ていおうむらさき) / 京紫 (きょうむらさき) / 紫鈍 (むらさきにび) / 藤色 (ふじいろ) / 江戸紫 (えどむらさき) / 減紫 (けしむらさき) / 杜若色 (かきつばたいろ) / 楝色 (おうちいろ) / 葡萄色 (えびいろ) / 紫苑色 (しおんいろ) / 二藍 (ふたあい) / 似紫 (にせむらさき) / 茄子紺 (なすこん) / 脂燭色 (しそくいろ) など 46色

【青】
 藍 (あい) / 紺 (こん) / 縹色 (はなだいろ) / 浅葱色 (あさぎいろ) / 甕覗 (かめのぞき) / 褐色 (かちいろ) / 鉄紺色 (てっこんいろ) / 納戸色 (なんどいろ) / 青鈍 (あおにび) / 露草色 (つゆくさいろ) / 空色 (そらいろ) / 群青色 (ぐんじょういろ) / 瑠璃色 (るりいろ) など 60色

【緑】
 柳色 (やなぎいろ) / 裏葉色 (うらはいろ) / 木賊色 (とくさいろ) / 蓬色 (よもぎいろ) / 萌黄色 (もえぎいろ) / 鶸色 (ひわいろ) / 千歳緑 (ちとせみどり) / 若菜色 (わかないろ) / 苗色 (なえいろ) / 麹塵 (きくじん) / 苔色 (こけいろ) / 海松色 (みるいろ) / 秘色 (ひそく) / 虫襖 (むしあお) など 57色

【黄】
 刈安色 (かりやすいろ) / 鬱金色 (うこんいろ) / 山吹色 (やまぶきいろ) / 柑子色 (こうじいろ) / 朽葉色 (くちばいろ) / 黄橡 (きつるばみ) / 波白色 (はじいろ) / 菜の花色 (なのはないろ) / 承和色 (そがいろ) / 芥子色 (からしいろ) / 黄土色 (おうどいろ) / 雌黄 (しおう) など 36色

【茶】
 唐茶 (からちゃ) / 団栗色 (どんぐりいろ) / 榛摺 (はりずり) / 阿仙茶 (あせんしゃ) / 檜皮色 (ひわだいろ) / 肉桂色 (にっけいいろ) / 柿渋色 (かきしぶいろ) / 栗色 (くりいろ) / 白茶 (しらちゃ) / 生壁色 (なまかべいろ) / 木蘭色 (もくらんいろ) / 苦色 (にがいろ) / 団十郎茶 (だんじゅうろうちゃ) / 土器茶 (かわらけちゃ) / 媚茶 (こびちゃ) / 鳶色 (とびいろ) / 雀茶 (すずめちゃ) / 煤竹色 (すすたけいろ) など 107色

【黒・白】
 鈍色 (にびいろ) / 橡色 (つるばみいろ) / 檳榔樹黒 (びんろうじゅぐろ) / 憲法黒 (けんぽうぐろ) / 空五倍子色 (うつぶしいろ) / 蠟色 (ろういろ) / 利休鼠 (りきゅうねずみ) / 深川鼠 (ふかがわねずみ) / 白土 (はくど) / 胡粉 (ごふん) / 雲母 (きら) / 氷色 (こおりいろ) など 53色

【金・銀】
 金色 (きんいろ) / 白金 (はっきん) / 銀色 (ぎんいろ)



   

2017年8月 9日

読書日記「あの頃 単行本未収録エッセイ集」(武田百合子著、武田花編、中央公論新社刊)「富士日記 上・中・下」(武田百合子著、中公文庫)


あの頃 - 単行本未収録エッセイ集
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 「一番好きな作家は?」と聞かれたら、すかさず武田百合子と答えるだろう。

 夫の作家、武田泰淳の死後、書きはじめた数冊の著書が、大変な評判になった。「富士日記」は、富士山ろくに建てた「武田山荘」に週の半分を過ごした日々を坦々と綴っているだけなのに、なぜか引き込まれる。もう10回以上は読んだろうか。

 例えば、こんな文章。

 「夜はまったく晴れて、星がぽたぽた垂れてきそうだ」
 「外川家具店に鏡と棚が一緒になったのを見ないで注文・・・。ヒューマニズムみたいな感じの棚が届いた」
  「朝 ごはん、味噌汁、塩鮭、卵。昼 カツ丼、トースト。夜 ごはん、コンビーフ、チクワとキャベツ煮付、コーンスープ」
 「山の雪道の運転は、体の中の細胞がぱあっとひらいてしまって、シャワーを浴びているように、楽しい」
 「昏れがた、松の芽がいっせいに空に向かってのびているのが、くっきりと目にたつ。花札の絵のようだ。心がざわざわする。私の金銭欲と物欲と性欲」

 百合子が67歳で死んだ時、残されていた日記、メモ、手帳などは遺言ですべて焼却された、という。しかし、雑誌などに書かれた単行本未収録のエッセイが、歿後24年後に本になった。もう読めないと思っていた武田百合子の文章に思いもよらず再会できることになった。

 年代グループ別に編集されているから、最初は、夫・武田泰淳の思い出が多い。

 
 歌の上手な人ではなかったが、たまに歌うこともあった。酔うと寝転んで「どこまでも続くぬかるみぞ」 という軍歌を、よく歌った。体力があったころのことだ。読経の修練をしたことのある、力の入った、張り上げない、低い声で、くり返し、ていねいに歌っていた。「懐かしのメロディー」 などで、どんな歌手が歌うこの歌よりも、武田の歌う『討匪行』は、本当の兵隊ー将校ではなく一兵卒、が歌っているようだった。革臭く、泥臭く、汗臭く、ゲートル臭く、精液臭く、兵隊の苦しさや哀しみがこもっていた。聴いていると部屋の中まで、果てもなく暗く、雨が降りつづいているような気がした。


 
 ・・・初七日、二七日、三七日と、そのことを順々に確かめてゆきながらも、家の中を見まわすと机や座布団やハンコほあるのに、持主だけ虚空へかき消えてしまったことが、何ともわりきれなくて、当分の間はキョトンとした心持だった。・・・そんなときは、お風呂にそそくさと入った。丸まってお湯に浸かり、ケッと泣いた。


 1周忌が近づいたころの文章。

  
 道を歩いていると、夫や私より年長の夫婦らしい二人連れにゆきあう。私はしげしげと二人の全身を眺めまわす。通りすぎてから振り返って、また眺めまわす。羨ましいというのではない。ふしぎなめずらしい生きものをみているようなのだ。


 自分の文章について書いたか所がいくつかある。百合子は、天衣無縫に飛び出した言葉を綴っていたのか、とも思っていた。しかし「編者あとがき」によると、百合子は「雑誌などに書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れていた」という。推敲に推敲を重ねて、やっと絞り出した文章だったのだ。

 
 美しい景色、美しい心、美しい老後など「美しい」という言葉を簡単に使わないようにしたいと思っている。景色が美しいと思ったら。どういう風かくわしく書く。心がどういう風かくわしく書く。・・・「美しい」という言葉がキライなのではない。やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。


 そう考える人が、ただ「蝉が鳴いている」ことを書くと、こうなる。

  
 午前四時半、・・・裏の崖上の林の高い遠くで、かなかな蝉が一匹、息の続く限り鳴いて止む。そのあと、しんとしてしまう。・・・別のかなかな蝉が、離れたところの樹で鳴く。消えかけたその声にかぶせ繋いで、じい一つと気のないような鳴き方で、別の種類の蝉が鳴きはじめ、ひとしきりして止む。止むのを待って、離れたところの同じ種類の蝉が鳴き、ひとしきりして止む。三匹めが鳴きはじめると、一匹めと二匹めも重唱、だんだん調子が出てきて、馴れきって、空気みたいに鳴き出す。しやおんしゃおんと鳴く蝉も混り、もう林全体が蝉の声となる。


 何度も出てくる食べ物の一節。

 
 うな井は、並一人前八十円、沢庵が二切れついていて、お茶がおいしい。蓋をとるとマッチ箱大の蒲焼が二つのっている。耳のうしろをつたう汗を指で払いながら、ひらりと一口、蒲焼を喉に通し、たて続けに、たれのたっぷりしみた御飯をはお張る。酔ったようになる。くたびれた人が汗をふきながら一人入ってきて、もうろうと腰かけて「うな井、並」といった。


 夫が生きていた頃。一人娘と3人で花見に出かけたことがあった。葡萄酒ですっかり酔っぱらった百合子は、娘に絡み始める。

 
 あんたねえ。こんないいところにきて、そんなことじゃあ、この先、生きて行くのはむずかしいよ。嬉しいときは嬉しい顔しなくちゃあ、欲しいときは欲しいと言わなくちゃあ。いったいぜんたい、あんたはどんなこと思って生きているのかえ。どんな考えを持って生きてるのかえ。え、言ってごらん。
 無表情のまま、じいっと押し黙っていた娘は、やがて涙のたまってきた眼のふちを赤らめ、かばそい声を出して言うのだった。「思おうとしても思えないよお。考えても考えがないよお。だけど、あたしは生きていたいよお。ただ生きていたいよお」
 青い空の奥の奥で、かすかな爆音がしていた。見えないその飛行機が、金紙のチラシを撒きつづけているような気がしていた。頭上の桜は、ひとひらだって散ってこない。「ユリコのマケ」限蓋の裏の眼の玉をぐりぐりと動かし、限をつぶったままの夫が、おかしくてたまらぬ風にそう言うのだった。


 この娘がこの本の編者で、著書もいくつかある写真家の武田花さん。このブログでも登場させてもらったことがあるが、浮ついたファンレターめいた文章が、今になって恥ずかしくなる。 YOMIURI ONLAINに載っていた花さんが、お母さんそっくりなのにちょっとびっくりした。

2017年4月26日

展覧会鑑賞記「没後40年 熊谷守一 お前百までわしやいつまでも 」(於・香雪美術館)、読書日記「蒼蠅(あおばえ)」(熊谷守一著、求龍堂刊)


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 熊谷守一のことを知ったのは、どこだったのかとずっと考えていたが、このブログにも書いたが、「偏愛ムラタ美術館 〚発掘篇〙」(村田喜代子著、平凡社)だったことをやっと思い出した。

熊谷守一美術館は、大学、職場で大変お世話になった先輩Tさんのご自宅のある東京・豊島区にあるので、Tさんをお訪ねするのを兼ねてと思っていたら、そのTさんが急逝され機会を失っていた。

 それがなんと。神戸・御影の香雪美術館で、「熊谷守一 お前百までわしや」展が開催されているのを知り、桜の開花が少し遅れている雨の4月はじめ、友人Mを誘い、出かけてみた。

 ある、ある!

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   そう広くない美術館の1階に、あのシンプルな線で描かれた「猫」が、縁側でのんぼりとまどろんでいた。手前のガラスケースのなかのスケッチ帳には、のびやかな体や斑の色が字で書きこんであり、ち密な計算で完成された絵であることが分かる。

 村田喜代子は、こう書いている。
 「命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる」

 木のてすりがついた階段を2階に上る。
 右奥に、代表作といわれる「ヤキバノカエリ」が、ひっそりと待っていた。

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    長女・萬の骨壺を持つ長男・黄、次女・榧が並んで歩き、少し前を歩く守一のいずれにも顔がない。デフォルメされた道と木々が一緒になって、静逸さだけが流れている。

 村田は書く。
 「単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような・・・。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする」

 守一は、字もよく描いた。著書の題名「蒼蠅」もそうだ。

 
展覧会で売れないで残る「蒼蠅」という字は。よく書きます。わたしは蒼蠅は格好がいいって思うんだけれど、普通の人はそうとは思わんのでしょうね。病気のときなんて、床の周りをぶんぶん飛んでくると景気よくて退屈しない。この頃は蒼蠅もいなくて淋しいくらいです。
 ところがこの蒼蠅という字のも、ひどくきついのときつくないのとできるんです。蒼蠅がひどく頑張っているのと、そうでないのとね。


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   香雪美術館にも、装丁されたものが展示されていた。
 「これも売れ残った字か」と、ちょっとおかしくなった。きつい字であったかどうかは、よく分からなかった。

     
前は暑い時期には庭にござを敷いて、腰に下げたスケッチブックに、あたりの草花や蝸牛や蛙や蟻や虫などをスケッチしました。疲れると、そこにごろりと横になって眠ったものです。


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      土門拳撮影。著書「蒼蠅」より



 
縁側の端のフレームは、ここにきてすぐに造ったものです。浜木綿、月下美人、野牡丹は毎年よく咲きます。浜木綿はうちのはあまり大きくないけれども、人に分けたのは立派になっているそうです。ナイヤガラの滝の菊というのは秋に、日本の山で見る野菊よりずっと濃い色に咲きます。
 何時だったかの冬に、このフレームに蜂が巣を作ったときは、砂糖水をやりながら蜂の動きを毎日毎日見て過ごしたことがあります。


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わたしの描く裸婦には顔がないんで、女の人の美人をどう思うかって聞かれたことがあります。顔を描かないのは情が移るからで、そりゃ美しい人は美しいと思う。どういう人が美しいかということになると、人それぞれですから一概にはいえませんね。


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       次の言葉は、鷲田清一が毎日の朝日新聞朝刊の1面で書いている小欄「折々のことば」で見つけた。

 
わたしは、ぬけたような青空は好みません。
 まるでお椀でふたをされた感じで、窮屈です。
 それより少し薄雲リの空がいい。
 そんな日のほうが庭に出ても、気楽に遊べるような気がするのです。人の好みって変なものですね。


 「瑕(きず)一つない均質の生地で覆われているようで息が詰まるから? 遠近法がきかない透明な青の深みに吸い込まれそうで不安になるから? なのに、庭に掘った深い穴の底から見上げる空は「円くぬけて」いるみたいで面白い。「人の好みって変なものですね」と自分でも言っている。「画壇の仙人」といわれた画家の言行録「蒼蠅(あおばえ)」から」(2017年4月4日付け朝日新聞より)

 最近、NHKの「日曜絵画館」で見て、興味を引かれた画家で守一が「友人」と書いている、で、長谷川利行のことが、何回か登場する。

 
長谷川利行は飲んべえで、酔うと同じ話ばかり繰り返しました。
 わたしのとこへ遊びにくると、絵を描くことばかりいっている。お前みたいにぐずぐずしているのは損だっていいやがるんです。
 帰るぞといって出て行く。するとすぐまた戻ってきて、同じ話を繰り返しました。
 それでも。いやな感じはぜんぜんなかった。


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まえに写生に行ったとき、描く風景が見つからないので、仕方なく、畑のわきのひがん花を描いていました。
 横でお百姓さんが、黙って畑を耕していました。
 どこからきたのかわからないが、そのひがん花にかまきりが、大きな鎌を振りながら上がってきた。かまきりも入れてまとめると、そう嫌いじゃない絵ができました。
 するとお百姓さんがそばにきて、絵をのぞき、よくできたねとほめてくれました。


 「行ってきましたよ」。東京・亀戸にあるTさんの墓前に、ウイスキーを献杯しがてら、熊谷守一展のことを報告しようと、心に決めた。

 

2016年6月21日

読書日記「焼野まで」(村田喜代子著、朝日新聞出版)

焼野まで
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 なぜか、 村田喜代子の本を見つける、読みたくなる。

   このブログの 「村田喜代子アーカイブ」には、5冊を記録してもらっているが、そのほかに流し読みした本を合わせると10冊近くになるだろう。
 この人の、ちょっぴり奇怪、怪奇的で、ユーモアあふれる文章と構成になんとなく引かれてしまう。

 表題の本は、このアーカイブにもある 「光線」という著書が土台になっている。
 4年前に書かれた「光線」は8つの短篇で構成されていた。2011年3月の東北大震災の直後に著者が子宮がんを患い、鹿児島にある 「オンコロジーセンター」(UMSオンコロジークリニックと改名)に通って、四次元ピンポイント放射線照射治療で完治させるという構成は、「焼野まで」でも一緒だった。「光線」での体験が4年経って、この長編小説に昇華されたようだ。

 著者は、自ら罹った子宮がんだけでなく、知り合いが視神経に絡みついて外科手術ができない脳腫瘍や腹部大動脈を呑み込んだ膵臓がんを、この治療法で完治させた。それだけ、著者の四次元ピンポイント放射線照射治療に対する信頼は厚い。

 ガンはいびつな形をした立方構造をしているらしい。生きている臓器は微妙に動くので、従来の二次、三次元照射では、照射する位置がずれ、正常な臓器を痛めたりする。

 そこで、オンコロジの稲積院長(UMEオンコロジークリニックの 植松稔院長がモデル)は、刻々と時間差でガンの部位を追跡する四次元照射法を考案した。
 それも機械任せではなく、稲積院長が東京から連れてきた5人の放射線技師の「精密な手」がガンを逃さず、追いかける。

 主人公が、初診で会った稲積院長は普通の医者とは異なり、ワイシャツにベストだけのラフな格好で「理系の技術者のよう」だった。

 主人公が通っていた病院から持ってきた画像をざっと見ると、院長はあっさりと言った。
 「大丈夫、このガンは消せますよ」・・・「放射線は正確にかけると、(がんは)消えるものなんです」・・・「放射線は粉に似ていますから、粉を降りかけるんだというふうに思ってください」

 しかし、このような新しい治療法は、一般の人や病院にはなかなか受け入れてもらえない。

 オンコロジーセンターで知り合い、銭湯に一緒にいく仲になった乳がんだという三十歳後半らしいの女性は、こんな経験をした、という。

 「主治医に、セカンドオピニオンを受けたいので、画像を出して欲しいと頼むと、紙袋ごとフイルムを床に放られました」
 それで、しゃがんで・・・画像を拾っていると、頭の上で医者の声がした。
 「死に給え・・・」

 著者の女性主治医は、すぐに画像をそろえてくれたが、こう付け加えた。
 「お出でになるのを止めることはできませんが、どうぞ向こうの先生に即答なさらないでください。何も決めないで、とにかくまた帰って来てください。放射線では消えないのです」

 大学病院婦人科病棟勤務の看護婦である娘には、こんな言葉をぶつけられて、母子断絶となった。
 「あのね、子宮体がんに放射線は効きにくいの。絶対効かないと言ってもいい。・・・選択肢はただ一つ。手遅れにならないうちに切る。それにもう躊躇する理由はないでしょ。要らないじゃない、その齢で」

 ただ、毎日、平服のまま10分弱の放射線治療をうけるだけだが、主人公にはつらい体験がつづいた。

 
 五月三日でここへ来て七日経った。 一日二グレイ収線量)づつ振りかけて、総量十四グレイだ。ただしⅩ線は放射線源のない、身体をすり抜けていくだけの光の失だから、体に降り積もっているわけじゃない。毎日はらはらと粉雪が降る。降った雪は一日で溶けて消える。そして明くる日はまた明くる日の粉雪がはらはらと降る。
 そういうことだとわかっているのに、体は少しずつ消耗していく。食欲がなくなるのと、照射直後の下痢で体重が二キログラムほど落ちた。それなのに体が重くなっていく。頭が重い。肩が重い。背中がずっしりと重い。手が重い。足が重い。重くてだるい。身の置き所のない倦怠感に襲われる。寝ても起きても体を持て余す。


 苦しんでいる間に色々な幽霊に会う。夢のなかの出来事の描写は、村田喜代子の真骨頂である。

 
 センターに通うために借りたウイクリーマンションでぼんやりしていると、焼島(モデルは、鹿児島・ 桜島)のとある店先に立っていた。奥から姐さん被りの年寄りが出てきた。なんと「私の祖母である」
 「お帰り、和美。きつかったじゃろ」。三十六年前に亡くなった祖父と、三十年前に亡くなった祖母と三人で竹藪の小屋で夕食のお膳を囲む。「音のでない映画のようだ」


   グレイ量を五まで増やして六日間。やっと、治療が終わる。

 
 竹藪の小道に入ると、祖父母の住む小屋が見えて来た。  「まあ、何事なの?引っ越しみたい」・・・「おうその引っ越しをするとじゃ」・・・「お前の治療ももう終わる頃やから」
 はたちそこそこの娘が出てきて、祖母が抱いた( 水子)の人形を抱き取った。
 そんならわしらは先に去ぬるぞ」。祖母が言う。・・・娘が振り返って、にっこり微笑んだ。
 自分の母だとふっと気付いた。


 

2016年1月28日

 読書日記「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文藝春秋刊)


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 著者の作品を読むのは、久しぶりだが、読み終えるまで意外に時間がかかった。「キリシタン」というテーマへの取り組みが尋常ではないほど真摯で、難解な引用文献も多かったせいらしい。

 自分の先祖にキリシタがいたのではないか」と勝手に思い込んだのが「私的キリシタン探訪記」という副題をつけたゆえんらしい。16世紀にローマに派遣された 天正遣欧使節の4人の少年たちが持ち帰り、秀吉の前で演奏を披露したという弦楽器・リュートを買い求めて習い始めることから始め、長崎のキリシタン迫害の地を訪ね歩く。ついには殉教宣教師の故郷であるスペインにまで足をのばす、という時空を超えた異文化漂流記だ。少しはキリシタン文化をかじったことのある自分にも、新しい発見を突き付けられるノンフイクションだった。

 とくに興味を引いたのは、このブログでもなんどかふれたことのある 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推薦への厳しい視線だ。

 筆者はキリシタンに興味を持ちだした2008年に、殉教した天正遣欧使節の1人、 中浦ジュリアンが、ローマ・カトリック教会から 「列福」されるのを知り、長崎を訪れる。

 私も見る機会があった「バチカンの名宝とキリシタン文化展」長崎歴史文化博物館で鑑賞、そこを出た道のはす向かいに 「サン・ドミンゴ教会跡」という碑を見つける。

 
 矢印に誘われるように、地下へ通じる階段を降りた。階段を一段降りるごとに、表を通る車の音は遠ざかっていき、気温が下がっていく。どこへ連れていかれるのか、不安な気持ちのまま降りていくと、ライトアップされた遺構が目の前に現れた。
 ひんやりして静まりかえった構内は、回廊から地下を見下ろす構造になっており、波打った石畳や地下室、排水溝が見えた。壁には市内で出土した磁器や花十字紋瓦(十字架模様のついた瓦)が展示してある。敷地の広さや頑丈な石が多く使われていることから、かつては立派な石造りの建物であったことがうかがえる。


 ここは、現在は 桜町小学校の校庭の一角なのだが、1609年、長崎代官のキリシタン、村山等安が寄進した土地に、薩摩を追われたドミニコ会のフランシスコ・モラーレス神父が建てた、サント・ドミンゴ教会の地下遺構だった。

 長崎には、禁教令以前には13の教会があったが、すべて幕府命で取り壊された。
 世界遺産に推薦された他の教会は、すべて明治の禁教令解禁後に、信者たちが金を持ち寄って建てたものだ。

 壊された教会跡はどうなったのか。

  トードス・オス・サントス(詩聖人)教会の跡地には、春徳寺が建てられた。
 岬の教会は、長崎奉行所西役所から長崎県庁へ。
 サン・ジョアン・バウチスタ教会は、日蓮宗本蓮寺。
 「ミゼリコルディアの組」本部教会は長崎地方法務局。
 サン・フランシスコ教会は、処刑を待つ多くのキリシタンを収容した桜町牢になり、長崎市水道局庁舎へ......。
 そして、 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館! 


 異なる宗教を信じる信徒を弾圧し、そのあとに為政者側の象徴-仏寺や行政機関- を建てることが、長崎では繰り返されたのである。

 長崎は、異国への窓口であり、多くのキリシタンが暮らした街であると同時に、激しい弾圧で多くの血が流された街でもある。

 「国際色豊かな自由な街というイメージは、いったん保留しなければ」と、筆者は思う。

 小学校の広い校庭から発掘されたことで保存が可能になったサン・ドミンゴ教会跡は「日本では真に貴重なキリシタン遺跡」なのに「世界遺産」候補にさえなっていない。隣接して、入場無料の資料館があるだけだ。

 このブログを書いている最中に、たまたま大阪で長崎県と朝日カルチャーセンターの共催で昨年に続いて「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーが開かれた。友人Mを誘って、出席した。

 最初に「長崎県キリスト教史の概要」について講話した長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんによると、キリシタン全盛時代に建設された教会は、13ではなく14。
 これらの教会は、幕府が近隣の藩に取り壊しを命じたが、その作業の徹底ぶりが担当した藩によって差があり、サン・ドミンゴ教会は"ずさん"な作業で埋め立てた上に代官屋敷が建てられてしまい、地下遺跡として残ったらしい。
 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館を建てる時に発掘調査が行われたが「ほとんど、なにも出てこなかった」

 近く、岬の教会があった県庁駐車場の一部発掘が行われるらしいが、明治初期にキリスト教禁教令が解かれてから、あまりに長い年月が経っているのに「〇〇教会跡」という石碑しか残っていない。「(長崎の)キリスト教に対する体温が低いことが気になった」と、星野博美は思う。

 「島原に行ってみるしかない」
 筆者は、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡を訪ねる。

 筆者にとって日野江城は、 セミナリオ(修道士育成の初等学校)を城下に備えた、キリシタン文化の「ゆりかご」という位置づけだった。

 国と長崎県が世界遺産に推薦する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つにもなっているが「道しるべや看板、の類がほとんどなく、ここをアピールしようという積極的な意思がまったく感じられない」。民家の敷地の端にあるセミナリオ跡は、ひさしの下に碑と案内板があったが「バス停と間違えそうだ」

 
前日「ここにはキリシタンの遺跡がほとんどない」と落ち込んだばかりの長崎でも、それが400年前のものではないにせよ、十字架や教会が数多く視界に入った。長崎では、どんな形であれ、キリシタンの記憶は受け継がれている。ここにはそれがない。十字架の類もまったくない。あ、やっと十字架を見つけた、と思ってよくよく見ると、ただの電柱だった。

 いくら禁教令が二五〇年ほど続き、キリスト教が天下の御法度になったとはいえ、その土地の持つ記憶や気配というものは、これほど見事に消せるものだろうか。土地の記憶が、ここでは受け継がれなかったのか。  そこではたと思う。記憶を受け継ぐはずだった人間は、みんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。


 日野城が「ゆりかご」なら、同じ世界遺産候補で島原の乱の決戦場となった 原城跡は「『キリシタンの世紀』の終末を象徴する『墓場』」だ。

 そこは、ほとんど森と化した日野江城跡とは対照的に「一言で言えば、何もない原っぱだった。(本丸大手門跡などの案内板はあるが)ここで三万七〇〇〇もの民が殺されたとう事実を想像するのは難しい」

 幕府軍の大将の記念碑、乱の鎮圧後に赴任した代官が建てた供養塔のほか、祈りをささげる天草四郎像、白い十字架、天草四郎の墓碑はある。しかし、この墓碑は近くに民家の石垣に埋もれていたのが移されたものという。

 
 禁教令が続いた明治初期ならまだしも、もう二十一世紀である。この地の慰霊は、キリスト教会に委ねるべきではないかと私は思うのだが、話はそう単純ではない。
 幕藩体制の根幹を揺るがす反逆と見なされた彼らを、安らかに眠らせてなるものかという「お上」意識を、原城からなんとなく感じるのである。

 (教会にとっても)原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。


 大阪での「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーで、2人目の講師を務めた南島原市教育委員会文化財課課長の松本慎二さんによると、原城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。

   しかし、発掘調査が始まったのは、2000年(平成2年)。しかもそれは、キリスト教史跡の発掘としてではなく、この土地を公園として整備するのが目的だった。

 発掘の結果、鉛弾でつくった十字架、メダイ、ロザリオの珠と同時に、多くの人骨が出土した。首と胴体は切断されてそれぞれ別の場所に埋められた。特に胴体は不自然に切り刻まれ、膝から下を切り落としたものも多い。その上には石垣の巨石がかぶせられていた、という。

 著者は、さらに今回の世界遺産推薦について、こうも書いている。

 
 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、ザビエルの渡日から鎖国までの「キリシタンの世紀」を(長崎・大浦天主堂での) 「信者発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように見える。また、日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 (仮にこれらが世界遺産となったら)弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。


   日本で殉教した外国人宣教師は、故郷でどう受けとめられているのだろうか。 著者は、スペイン巡礼に出かけることにした。

 同行したスペイン在住歴40年の日本通訳は、かってポルトガル国境の町で「おまえたちがスペイン人を殺した」と責め立てられたという。

 福者・ ハシント・オルファーネルの故郷は、 バレンシア州ビナロス近郊の村だった。

 もちろん、村人はハシントンのことを"聖人"としてよく知っていたが、筆者への視線は冷ややかだった。

 教会の神父に頼まれ、筆者は「キリシタンの世紀」とその後の弾圧の事を話した。

 
 最盛期には30-40万人もの信徒が生まれたが、十分な記録がない殉教者は4万人、なんらかの記録がある殉教者は灼4000人。そのうち外国人司祭を含めた福者が393人、42人が聖人になった。「彼らは信仰を棄てるより、神父とともに殉教することを望んだ」


 神父がそれを説教で話すと、会衆から驚きのどよめきが起き、ミサ後、会衆が筆者を取り巻き、次々と話しかけてきた。

 
 (外国人宣教者にしたことは今も世界で)見られている。
 そんな視点を欠いたまま、都合の悪いことは忘れ去り、やれ世界遺産だのなんだと騒ぐことがいかに滑稽であるかは、もはや言うまでもないだろう。


追記(2016/2/16): 

 このブログを書いた直後の2月初め。政府が急きょ、閣議で「長崎教会群」の世界遺産推薦を取り下げることを決めた。

 長崎県や国は今年7月にもユネスコの世界遺産委員会で決定されることを期待していたが、ユネスコ諮問機関である 国際記念物遺跡会議(イコモス)が「2世紀以上にわたるキリスト教禁教の歴史に焦点を当てるべきだ」という中間報告書を日本政府に届けていたのだ。

 政府は2018年以降の登録を改めて目指す方針だが、このブログに取り上げた著者・星野博美が何度も指摘していたように、長い禁教時代に続いた"日本の歴史的恥"をさらすことになるだけに、再検討の道筋は厳しいだろう。

 ブログにもふれたように、今回の「長崎教会群」の推薦内容には「あまりに多くの日本人信徒、外国人宣教師を殺した」という、200年余りにわたる、禁教、殉教の歴史の実証がまったく抜け落ちていた。

 星野博美は、著書の「あとがき」で改めて書いている。

 
もし四〇〇年前、現在のインターネットのような、瞬時に映像が世界中忙伝わる手段があったとしたら、私たちがいま処刑者に向けているおぞましさに満ちた視線は、そのまま私たちに向けられていたことだろう。


 
いや、当時も最速の情報手段で伝わっていたのである。日本で迫害が進行しているさなか、(ヨーロッパでは宣教師が伝えた)殉教録が出版され、・・・教皇庁では列聖調査が進んでいた。とろ火による火あぶりも穴吊りも、そして雲仙温泉の熱湯責めも、同時代に(オランダ船などで運ばれた)絵で伝えられていたのだ。
 国が閉じられ、世界の情報から隔絶された日本人が知らなかっただけで、私たちはあの頃、確かに見られていた。


 それが、今回のイコモスの指摘でもあったのだ。

 「みんな彗星を見ていた」
 この本の表題の意味は、そのことだったのだと気づいた。

2012年10月13日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・上


 岩手県大船渡市の港近く。「大商人橋」のバス停を降りて10分弱のホテルは、津波で家屋が流されてコンクリートの土台だけが残る空き地にポツリと建っていた。
 昨年末に営業を再開したが、敷地周りの地盤沈下した商業地に大潮の海水が満ち、どこが入り口かさえ分かりにくい。

 ホテルの前に、盛り土をして急ごしらえで舗装された狭い2車線が走っており、その両脇はかってはにぎやかな商店街だったらしい。折れて数十センチだけ残された茶色の外灯が数メートル置きに残されている。根元に「茶屋前商店街」と刻まれていた。
 南側にある須崎川沿いの桜並木も、太い根元が無残に折れて残されている。近くに再建された寿司店の壁に、見事な桜並木を囲むように建つ家屋や商店の写真の額が飾ってあった。

 新築して営業を始めた飲食店がポツリ、ポツリと3軒ほど。それに、16軒の仮設屋台村、スーパーストアとコインランドリー、ちょっと離れてコンビニが1軒。仮設の商店街は、スーパーの再開で野菜などが売れなくなった、と聞いた。

 瓦礫は港沿いの2次処理場にほとんど移されたが、大船渡の下町にはまだ、復興にはほど遠い荒ばくとした風景が広がっている。

 10月1日の朝。ボランティア行にご一緒させてもらうことになったカトリック夙川教会(兵庫県西宮市)の一行4人(リーダーの河野さんと、水口さん、谷垣さん、野口さんの女性3人=年齢不詳につき順不同)と、教会バザーなどで販売する産地直送海産物探しを兼ねて、隣の陸前高田市に出かけた。

 巧みなドライブさばきを見せる水口さんがナビで設定した「陸前高田市市街地中心」には、だだっ広いコンクリート土台と、窓ガラスが吹き飛んだ鉄筋建物だけが残っていた。大船渡市の何倍もの広さに津波のつめあとが広がっている。

 白い建物のわきで青いシートを広げ、書類を乾かしている十人近くのマスク姿の男女がいた。ここは元の市役所。11月から取り壊しにかかり、跡地の利用は決まっていない、という。

 周辺では、大船渡でほぼ終わっている瓦礫の2次処理のためのクレーン起重機十数台が、いまだにフル活動している。

 枯れた1本松で有名になった高田松原の近くに特産品を売る仮設商店があるというので、ナビも駆使して探し回ったが、見つからない。

 「通行禁止」の綱を乗り越え、歩き回って、高田松原の"跡地"だけがやっと見つけた。少しだけ残された砂浜に枯れた松の切り株が十本近く残っているだけのすさまじい風景だ。

 「1本松のことばかりマスコミは書くけれど、あの2キロにわたる見事な砂浜がさらわれたことを、なぜ書かないのか・・・」。大船渡の寿司屋の亭主が嘆いていたのを思いだした。

 翌日、宮城県 気仙沼市に仮設店舗に鮮魚店などが集まったさかなの市場「さかなの駅」があると聞き、再度、産地直送海産物探しに出かけた。ここでしか売られていないという「サメの心臓」(別名・モウカの星)もあるらしい。

 街に入り、県道210号線と34号線が交差する場所でギョッとする風景にぶつかった。 巨大な船が、赤さびた船底を丸出しにして打ち上げられている。約60メートル、330トンもの巨大な巻き網漁船。船腹には「第十八共徳丸」とあった。
 気仙沼港から津波に流され、家屋をこわし、人をなぎ倒して北へ500メートルも流されたのだ。

 船体は、片側3本の鉄骨で支えられ、船底横にお地蔵さんの像と花が飾られ、手を合わせる人が絶えない。
 近くの保育園の保母さんによると、子供たちは、この船のことを「ころしぶね」と呼ぶ。通園バスで横を通る時に PTSD(心的外傷後ストレス障害) の症状を見せる園児もいる、という。この船を解体するのかどうかは、まだ決まっていない。

 6日に同行4人と別れ、学生時代に中学校の先生をしていた先輩を訪ねたことのある旧・ 田老町 (現在は宮古市に合併)まで、バスを乗り継いで行った。

 このブログでもふれたことがある 吉村昭の「三陸海岸大津波」にもくわしいいが、ここには、過去の津波の経験を生かし「万里の長城」の異名を持つ高さ10メートルの大防潮堤を築かれた。チリ地震津波でも被害が軽微だったことで有名になった。

 しかし、今回の地震では、津波は場所によっては高さ50メートルも越え、町は壊滅した。

 一部破壊された大堤防の上に立つと、右に田老の港と漁港、左に壊滅した町がほぼ等分に広がる。

 山が、意外に近く見える。「堤防に頼らず、まず山に逃げていたら・・・」。なんとも、せつない思いが胸を衝いた。

 「陸前高田市震災復興計画~『海と緑と太陽との共生・海浜新都市の創造』~」  陸前高田市のホームページに載っている、夢いっぱいの復興計画だ。三陸海岸各市も、同様のりっぱな復興計画をそろえている。

 しかし、防潮堤1つを取っても、県や各市、住民や漁業者の間で議論が絶えず、かんじんの高さがなかなか決まらないらしい。

 大船渡市は、比較的山に近いが、復興住宅の高台建設を巡って、市と民間の山林所有者で価格交渉が難航している、という。

 大船渡市立末崎小学校にある仮設住宅の支援員をしている永井さん(65)は、自宅再建はあきらめ、復興住宅に入るつもりだ。
 「いつ入れるやら、このままだと仮設暮らしが後5年、いやそれ以上・・・」

 たった2日間の出会いだったが、いつも明るく接してくれた永井さんの目が、少し遠くを見ているようだった。

現地の写真集
JR大船渡線・大船渡駅跡;クリックすると大きな写真になります 盛り土をした車道;クリックすると大きな写真になります 仮設の「大船渡屋台村」の朝。;クリックすると大きな写真になります さびついた大船渡線のレール;クリックすると大きな写真になります
JR大船渡線・大船渡駅跡。なにもない駅前広場は、タクシーの待機場になっていた。 盛り土をした車道。左の水中に歩道用の白いラインが見える。 仮設の「大船渡屋台村」の朝。 さびついた大船渡線のレール。バス専用道路にする話しがあるが・・
「茶屋前商店街」;クリックすると大きな写真になります 瓦礫処理;クリックすると大きな写真になります 旧陸前高田市役所;クリックすると大きな写真になります 無残な高田松原跡;クリックすると大きな写真になります
商業地の真ん中でにぎわっていた「茶屋前商店街」 陸前高田市の中心で続く瓦礫処理 旧陸前高田市役所。青いシートの下で書類の処理が続く 無残な高田松原跡。近くの橋に「国営メモリアル公園を高田松原へ」 と書かれた横幕が張られていた。
陸上を走った巻き網漁船;クリックすると大きな写真になります 旧田老町の大堤防;クリックすると大きな写真になります
気仙沼港から500メートルも陸上を走った巻き網漁船 旧田老町の大堤防に打ちつけられた瓦礫の処理は終わったが・・


2012年9月13日

読書日記「光線」(村田喜代子著、文藝春秋刊)、「原発禍を生きる」(佐々木孝著、論創造社刊)



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 福島第一原発にからんだ本を続けて読んだ。

 「光線」の 著者の本について、このブログで書くのは、 「あなたと共に逝きましょう」 「偏愛ムラタ美術館」以来、3回目。

 「あなたと共に逝きましょう」は夫が大動脈瘤に患うことがテーマだったが、今度は、妻(著者)が子宮体ガンになってしまう。
 しかも、その病魔は、奇妙なタイミングでやってきた。「あとがき」にこうある。

 
二〇一一年の三月がきて、突然、東日本の大地が揺れた。いや、海が揺れた。海を持ち上げて海底の地殻が揺れた。そしてじつはその一ケ月前くらいから私の身体にも変動が起きていて、地震の数日後にガンの疑いが現われたのだった。


 著書に収められているのは8つの短編集だが、このうち「光線」「原子海岸」は、ガンになった妻を見守る夫・秋山の立場で書かれている。

 
思えば治療前に撮ったPET画像のガンは、妻の下腹部で鶏卵大のオレンジ色の炎のようにあかあかと燃えていた。・・・
 それが、鹿児島で行われていることを知った治療法でガンは消えてしまった・・・。(原子海岸)


 
放射線治療で妻の子宮体ガンが消えたとき、秋山は焚き火の燃えた後の灰を見るような気がした。日曜祭日なし連続三十日間の四次元ピンポイント照射で、ガンの焚き火は鎮火したのだ。(同)


 
自分の妻が乳ガンや子宮ガンに罷ったら、男はどういう気持ちになるだろうかと秋山は思う。病気の軽重ではない、臓器の部位だ。妻の乳房や子宮は結婚以来長い年月かけて付き合ってきたもので、肺や胃や腸などとはまた違う。妻が病院で検査を受けるのも無惨な思いがする。(光線)


 この治療法でガンを克服した患者たちの"同窓旅行"の席上、秋山の妻は院長に思わず聞いてしまった。

「あのう、私たちがかけられる放射能って、原発で出来るのですか」。・・・周囲の人々もにわかに静かになって院長を見る。(原子海岸)


 日々、東北の人々を苦しめている原発への恐怖と放射能に助けられたという思いがないまぜになって、思わず出てきた素朴な質問だった。

私のガンが見つかったのは三・一一の明くる日でした。もう日本中がどんどん放射能に震えののし上がっていった頃です。大きな鬼が暴れまくつているときに、日本中がその鬼を憎んで罵って 石投げてるときに、車一台買えるくらいのお金を持って、その鬼の毒を貰いに行ったようで、何とも言えない気分だったの。(同)


放射線治療をして助かった者だけじゃありませんよ。この時期はきっと、手術で助かった人も、抗ガン剤で助かった人も、ガンとは別の病気で命を取り戻した人も、事故で命拾いした人も、子どもが就職できた人もです。大学受かった人も、何か良いことがあった人、幸福を得た人はみんな今度のことではそんな気持ちじゃないでしょうか。良かったって言えない。叫べない。みんな、どこかで苦しいんじゃないですか。(同)


私ね、治療から帰ると途中から放射線宿酔が始まるので、帰り着くとベッドに倒れ込むの。それで毎日毎日見たくないのにやっぱりテレビを見てしまうの。ほら、もうすぐ煙が出る。私は布団をずり上げて眼を覆うの。あそこから出る見えない光線と、今自分の下腹にかけられてるものが、混ざり合ってしまう。あっちのと、こつちのとは、同じじゃないのに、なぜか同じになってしまうの。(同)


   「あとがき」は、こんな言葉で結ばれている。

 
その頃、鹿児島の桜島は年間の観測史上最高となる爆発回数を記録し、私が滞在中の四月と五月の噴火は百六十人回を数えた。市内には黒い灰が臭気を伴って降り積んでいた。地球の深部は放射性元素の崩壊が行なわれている。核分裂の火が燃えているのだ。人間世界の動きから眼を空に移すと、太陽は核融合する巨大な裸の原子炉だ。そして地上では人間の手で造られた福島原発の炉に一大事が起こつている。
 私が鹿児島の火山灰の舞う町で日々めぐらせた思いは、これもまた一つの3・11に続く体験というしかない。原発への恐怖と、放射線治療の恩恵と、太陽を燃やし地球を鳴動させる巨き世界への驚異である。


 「原発禍を生きる」は、 「フクシマを歩いて ディアスポラの眼から」( 徐京植著、毎日新聞刊)を読んで、知った。

  著者・佐々木孝は、福島第一原発から約25キロ、屋内非難地域に指定されている南相馬市で「私は放射能から逃げない」と、認知症(元・高校教師)の妻と暮らす反骨のスペイン思想研究家。永年、 ブログ「モノディアロゴス」を書き続けてきたが、大震災後1日に5000件ものアクセスが集中、単行本化された。

 著者は、緊急避難地域、屋内非難地域といった政府の方針に翻弄され、発表される放射線測定に不信感を強めた住民の多くが「避難民化」している状況について「三月十九日午後十一時半」付けブログで、こう書く。

 
だれも言わないのではっきり言おう。いま各地の避難所にいる避難民(!)のうち、おそらく一割は、例えば南相馬市からの避難者のように、家屋も損壊せず電気や水道も通っている我が家を見捨てて過酷な避難所生活に入っているのである。もっとはっきり言えば無用な避難生活を選んでしまった人たちなのだ。・・・私の知っている或る人は、この無用の生活を選んでしまった。高齢で病身であるにも拘らず、そして家屋損壊もなく、電気・水道が通っている我が家を離れ、たとえば30キロ圏外をわずか逸れた町の体育館で不便きわまりない避難生活をしている。・・・その人が避難生活を送っている場所は、この南相馬市より放射線の測定値が六倍もある場所なのに。


  一方で、国家命令に毅然として立ち向かった「東北のばっぱさん(4月十二日付け)」のことが忘れられない。

 
時おりあのおばあさんの姿が目の前にちらつく。双葉町だったか、10キロ圏内ながら迎えに行った役場の人に向かって避難することを丁重に断って家の中に消えたあのおばあさんである。・・・「私は自分の意志でここに留まります」といった意味の老婆の言葉に、困惑した迎え人がつぶやく、「そういう問題じゃないんだけどなー」
いやいや、そういう問題なんですよ。君の受けた教育、君のこれまでの経験からは、おばあちゃんの言葉は理解できるはずもない。ここには、個人と国家の究極の、ぎりぎりの関係、換言すれば、個人の自由に国家はどこまで干渉できるか、という究極の問題が露出している。


 「人類を破滅の危険に晒されることになった」原子力を「早急に封印する方向に叡智を結集すべきではなかろうか」と書く一方で、被災地に住んでいると、こんな発言にも違和感を持つ。

 このブログでも書いた 小出裕章・京大原子炉実験所助教は、5月の参議院員会で「もし現在の日本の法律を厳密に適用するなら、福島県全体と言ってもいい広大な土地を放棄しなければならない。それを避けようとすれば住民の被曝限度を引き上げなければならない...これから住民たちはふるさとを奪われ、生活が崩壊していくことになるはずだと私は思っています」と述べ。その 動画がWEB上でおおきな話題を読んだ。

 これに対しても著者は「被災者目線 五月二十六日」という一文で、ズバリ被災地住民の怒りを率直にぶつける。

「ふざけんな、と言いたいね。代議士先生たちを前に滔々と歯切れよく演説をぶったつもりだろうが、てめえは被災者が今どんな気持ちで毎日を送っているのか少しでも考えたことがあるのか聞きたいね。てめえが全滅と抜かしおった福島県で、こうして元気に生きているし、これからだって生き抜いてみせるぜ。ただちに健康に被害はない、と言われる放射線の中で、ちょうど酷暑や極寒、旱魃や洪水にも耐え抜いてきた先祖たちに負けないくらいしたたかに生き抜いてやらーな」


 怒りをぶつけながらも、被災地で認知症の妻を抱える現状をユーモラスにさえ描く「或る終末論 四月十一日付け」という一文に、読む人は釘づけになる。

妻は言葉で意志表示ができません。ですから便器に坐らせても、それが大なのか小なのか、分からないのです。空しく十分くらい待って、結局何も出ないことだってあります。だから耳を澄ませて、あっ今は小の音だ、あっ今度のは大が水に落ちる音だ、と判断しなければなりません。そのときの喜び、分かります?・・・私にとって、一日のうちの大仕事がそのとき無事完了するのであります。・・・ 先日も便所の中に一緒に居るときに揺れが始まりました。一瞬、ここで死ぬのはイヤだ、と思いましたが、でもここで終末を迎えるのは時宜にかなったことかな、とも思ったのであります。地震よ、大地の揺れよ、汝など我ら夫婦の終末に較ぶれば、なんぞ怖るるに足らん!


 地元紙「福島民報」の9月11付け 記事に掲載された夫婦の相寄る写真がいい。 本の帯び封に載った愛する孫との3ショットもいい写真だが、被災地での壮絶な生活ぶりを浮かび上がらせる。

 

2012年8月 8日

読書日記「くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記」(うつくしいくらしかた研究所・編集、株式会社電通、株式会社平凡社・制作 )





 もともと「くらしのこよみ」は、スマートフォン用の 無料アプリとして開発された。

 以前にNHKラジオ朝の番組 「ラジオ・ビタミン」で旧暦を楽しむ暮らし方の特集を時々聞くことがあり、おもしろいなあと思っていた。

このアプリは、旧暦のならわしである季節を立春、夏至、秋分、大雪などに分ける 二十四節気と、それをさらに七十二候に分類し、その期間の季節の解説、旬のさかな、やさい、催しなどを巻物のようにスクロールしながら楽しむことができる。

 さっそく、私が使っているアンドロイド版のスマホにアップロードしたが、とにかくデジタル写真がすばらしい。このブログを書いている八月六日の大暑・第三十六候「大雨時行(たいう ときどきに ふる)」には「季節のたのしみ」という項目に「冷たいものは控え、温かい食べ物を」といったアドバイスまであって「そうか、今日の昼は温かいにゆうめんにしようか」と思ったりする。

 ただ、この無料アプリは七十二候、つまり五日ごとに更新されて、前後の「候」を見ることができない。

 そこで、七十二候のソフトが完成した時点で、1年分をまとめて出版(税別2980円)したのがこの本。同時に、アプリのほうでも iPhoneについては、3-72候分を170-2200円で販売している。予定通りの商業主義に乗せられたきらいがないでもないが、すぐさまAMAZONで買ってしまった。

スマホの画面イメージ【くらしのこよみ】
スクロールの右端から左へ移動してください。
 八月七日からは二十四節気で 「立秋」入り。日本間にすだれがかかる青いトーンの写真続いて、七十二候の第三十七候「涼風至(すずかぜ いたる)」が説明されている。

 
立秋を過ぎ、お盆を迎える時期になると、熱風の中にふと秋の気配を感じることがあります。まぶしいほど輝いていた太陽も心なしか日射しを和らげ、日が落ちると草むらから虫たちの涼しげな音色が聞こえてきます。真夏日や熱帯夜が続き、暑さは今がたけなわですが、季節は少しずつ、しかし確実に進んでいます。


 原発再開のための「計画停電」という電力会社の"脅し"にもめげず、例年にない猛暑を耐え抜いてきた70歳の老人に、そっと冷風を運んでくれるような文章である。

   そして季節は「寒蝉鳴(ひぐらし なく)」(第三十八候)「蒙霧升降(ふかき きり まとう)」(第三十九)候と進み、二十四節気の 「処暑」に入ると、もう八月もあと数日となる。

 そんな季節のうつろいのページを繰り、コスモスの名所を挙げた記述に旅への思いをつのらせてみたりする。  以前、このブログで稲葉真弓の 「半島へ」という本にふれたことがある。その時には書かなかったが、著者が、同じ半島(志摩半島)で生活する自然染め作家に二十四節気を織り込んだカレンダーを楽しむ暮らしを教えてもらう記述が出てくる。

「いつどんな植物が顔を出すか。この暦だとわかりやすい。春分のころを見てみると、ヨモギやセリ、ツタシって書いてある。あ、そろそろだ、とこの暦を見て野に出て春のものを染めるわけやね。春分が過ぎれば、桜の時期。花見の準備もするが、若い枝の皮をそいで煮だして染めるのに最適。穀雨って言葉もいいでしょう?字の通り、穀物を育てる雨がやってくる。芭種が来たら、藍や茜の種をまく。已種の巴は忙とも書くらしい。草取りもあるし、やたら忙しい時期ですわ。そんなわけでね、僕らの一年は十二カ月ではなく、二十四節気。この暦は僕らの仕事の水先案内人です」


 
「よく五感を研ぎ澄ますって言いますよね。このごろ思うんです。人間は五感どころか、二十四の感覚を身につけているんやないかってね。・・・たとえば、このあたりには桐や粟の木が多いが、半月もすると花のにおいの違いがわかる。同じ花なのに喚寛が違ってくるんです。あ、今日はにおいが濃いな、あ、花が腐り始めているなんてことがわかるのは、もっと微妙な感覚が入り交じっているせいやないかと思うんやけど。温度とか、その日の感情、生理感覚なんかで受け取るにおいが変ってくる。なんや不思議だなぁと思っているうち、ものの本で人間の感覚は十二あるという説を見つけてね。でもねぇ、二十四節気を基準に暮らしてると、どうもそれも少ないような気がする。半月ごとに二十四感覚、人の体も動いているんやないかな」


 感覚をとぎすまして、季節の変化を体で受けとめていく・・・。そんな生活をうらやましく感じる

 著者は、二十四節気を強調した暦を使っているらしい。「暦には、小さな文字でその季節の特徴、しなければならないことが書いてある」

   
立夏。花木の花後の努定。球根や苗の植えつけ。一年草の種まき。挿し芽。ソラマメ、アスパラガス、ワケギなどの収穫。ナス、トマ㌧ピーマンの植えつけ。Etcー

 小満。鹿児島でアジサイ開花。ウツギ、サツキ、シロツメクサ開花。アサガオ、ヨルガオ、ケイトウなど一年草の種まき。キキョウ、タチアオイなど宿根草の種まき。サヤエンドウ、イチゴの収穫。etcー


 こんなカレンダーを手に入れたくてNET検索してみたが、どうもこれだというものがヒットしない。なんとか手に入れたいのだが・・・。

 もう1冊「日本の七十二候を楽しむー旧暦のある暮らし」(白井明大/文、有賀一広/絵、東邦出版刊)を図書館で2度にわたって借りた。
日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―
白井 明大
東邦出版
売り上げランキング: 1397


 「くらしのこよみ」のデジタル写真に負けているかなと思ったが、詩人の言葉とちらばめられている色彩豊かなスケッチがなんとも味わい深い。

 絵手紙を描くのが好きという知人に薦めてみようと思う。