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Atelierで“梅棹忠夫”が含まれるブログ記事

2012年2月 8日

隠居のスマートフォン備忘録:(20) Xperia acro をEvernote を利用するデジタル・メモ帳として使う


 Masajii's Blog のオーナーが、最近スマホを使い出した。70を過ぎた我々の仲間では、珍しい方だ。彼はもともと新聞記者だから好奇心が旺盛である。それに、読書家・勉強家でもある。まだ、中国語の勉強をしている。そのようなこともあって、なんでもメモに残しているようだ。
 どこで仕入れたか、Evernoteなる ツールの知識を得て、これに獲得した情報を整理することを試みているようだ。この Evernote というツールで何ができるかの説明ページを読んでみてすぐに頭に浮かんだのは、梅棹忠夫の【知的生産の技術】である。Evernote は、この技術を現代のITで具現化したものと思えた。この新書が発刊(1969年)されてから40年以上たっているが、知的生産の技術はIT を利用することで驚異的な進化を遂げているのである。

 彼は、中国語を勉強した時などに残したメモ(学習帳?)をスマホのカメラ機能でスキャンし、Evernote にアップロードしたいが、写真がうまく取れない、何かいい方法はないかと聞いてきた。私はメモを書くことなどはあまりないが、探鳥ウォークするときには、A7 ぐらいの小型のメモ帳に場所別に観察した野鳥と羽数などを記録に残している。これをもとに、「探鳥日誌」をブログにアップしている。Evernote を使えば、元の記録を散逸せずに、梅田望夫が〘ウェブ進化論〙でいう【あちら側】に預かってもらえそうだ。

 そこで、ネットでググッてみると、どうやらスマホのカメラでメモの写真を撮る(スキャンする)ときに特化したノートが売り出されていることが分かった。KING JIM の SHOT NOTE がはじめに開発されたようであるが、コクヨも CamiApp という製品を追随して出している。 SHOT NOTE は最初 iPhpne 向けであったが、すぐ Android にも対応するようになった。これらのノートはノート自身には、4隅にマークがついている(SHOT NOTE)か、黒い枠で囲まれる(CamiApp)ようになっているか、だけで普通の紙である。そういう仕掛けがなければ、100円ショップでも売っていそうなメモ帳である。どちらも、値段は3倍位ほどする。スマホでスキャンしやすくするための工夫は、それらのノートに合わせたアプリが開発されていることにある。どちらも、ノート名と同じ名前のスマホ向けアプリを無償で提供している。
 このアプリを比較してみた。
KING JIM :SHOT NOTEコクヨ:CamiApp
Xperia acro で撮った写真。
四隅のマークをスマホ画面に表示される枠内に納めてタップする。比較的簡単。
360x480px(A8メモ用紙)
SHOT NOTE のメモ用紙
比較に使った用紙
 貼ってはがせるタイプ A8:70枚¥350
価格はAmazon の送料込み価格。
iPhone 対応となっていても Android で使える。
ShotNote_1;クリックすると大きな写真になります Xperia acro で撮った写真。
メモの台紙となる黒い枠をスマホ画面に納めてタップする。なれないとかなり難しい。
1114x1600px
CamiApp のメモ用紙
比較に使った用紙
 ツイリングメモ A7:50枚¥457
貼ってはがせるタイプはない。(アプリの方式で作りにくい?)大きさは、実質A8である。
価格はAmazon の送料込み価格。店頭で買えば、もっと安いようだ。
CamiApp_1;クリックすると大きな写真になります
Xperia acro での編集画面
元の写真は、バックに薄く表示されている。
Evernote と同期しておけば、タイトル・タグは、Evernote に登録しているノートブック・タグが選択できるようになっている。
メモの作成日付と番号は、OCR で読み取ることになっているが、完全ではない。作成日付の入力は、簡単に入力できるようになっている。
Evernote への登録は、メニュー・ボタンから〘エクスポート〙をタップする。
SHOTNOTE_2;クリックすると大きな写真になりますXperia acro での編集画面
元の写真と編集項目は上下に表示される。
タイトルは、その都度入力する必要がある。タグは、Evernote に登録しているタグが選択できるようになっている。ただし、設定画面で事前にEvernote からダウンロードしておく必要がある。
メモの作成日付の入力は、簡単に入力できるようになっている。
Evernote への登録は、メニュー・ボタンから〘共有〙をタップする。ただし、私の設定が悪いのか、IE での Evernote には、CamiApp というノートブックを作って、そこに同期するようである。
CamiApp_2;クリックすると大きな写真になります
PC本体 InternetExplorer の Evernote での〘ノート〙表示画面。上のスマホで撮った写真を表示している。
スマホで編集した作成日付、番号、撮影日付は、メモ写真の下に表示される。
メモ写真の大きさは、360x480px である。(A8 のメモ用紙の場合)
SHOTNOTE_3;クリックすると大きな写真になります PC本体 InternetExplorer の Evernote での〘ノート〙表示画面。上のスマホで撮った写真を表示している。
スマホで編集した作成日付、撮影日付、コメントは、メモ写真の上に表示される。
メモ写真の大きさは、1114x1600px であり、SHOTNOTE に比べて約3倍の大きさである。
アクションマーカーという機能があり、メモ用紙についている7つのマーカーを塗り分けることでタグを設定してくれる。
CamiApp_3;クリックすると大きな写真になります


 好みにもよるのかもしれないが、私は、KING JIM の SHOTNOTE の方が使いやすいと思った。
これを上手く利用すれば、色々な手書きメモを散逸せずにすむ。宅急便でモノを送るときの宛先住所メモを Evernote にあげておくとか、買い物メモなどを収録しておけば、スマホだけを携行するだけで良い。
 なお、Evernote については、スタートガイドをみるとよくわかる。まだ、使い始めたばかりなので、おいおい学習していきたいと思う。

2010年7月19日

隠居の読書:梨木香歩、【渡りの足跡】


渡りの足跡
渡りの足跡
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梨木 香歩
新潮社
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おすすめ度の平均: 4.0
4 ここではない、どこか別の場所へ。鳥たちの渡り、彼らの旅路に思いをめぐらすエッセイ集

 毎日曜日の毎日新聞には、【今週の本棚】という読書欄がある。ここに、湯川豊三という方が、この本を紹介されている。これを読んですぐに読みたくなり、Amazon で注文した。このようにして購入してもいつも梅棹忠夫のいう【みた】だけで積ん読が多いのだが、今回は一気に読んだ。

 梨木香歩さんは、Wikipedia では、日本の児童文学作家、絵本作家、小説家ということになっている。私のサイトにある Masajii's Weblog の読書日記「西の魔女が死んだ」にあるように、児童文学が本職なのかもしれない。
 だから、この本の主題である野鳥観察は仕事の一部なのか、趣味なのかはっきりしないが、とにかく私のようなご近所野鳥観察とはスケールが全く違う。オオワシの渡りを確かめるために、国内の網走や知床をはじめとする道東周辺・諏訪湖・琵琶湖や海外はカムチャッカまで出かけるのである。

 どうしてもそこに興味がいくのだが、野鳥観察のための装備について詳しい記述はないが、双眼鏡は肌身離さずで、撮った写真を専門家に見てもらって鑑別もされているので、望遠のついたカメラも携行されているに違いない。また、10ページには、次のような記述があるのでKestrel4000 のような携帯気象計もコンパスも持って行かれているのではと想像する。
 この日この時間の網走の湿度は約22パーセント、西北西の風、最大13.9m。清々しく冷気を含んだ空気。

 場合によっては、フィールドスコープももって旅行されるから、現地での案内人がない単独行動はレンタカーのようだ。察するに、物書きはいろいろな記録が大事なのだ。私の隠居のたわごとブログの場合でも、記録はとるようにしている。音の記録は梨木香歩さんの場合はないようだが、音の記憶も見事に記述されている。

 私も同じような現象に出くわしたヒヨドリのさえずりについて、次のような記述がある。少し、長いが引用させていただく。
 今、この原稿を書いているところは――比較的緑が多いとはいえ――都心と言われるところである。それなのにここ数日、明け方の四時半頃になるとまるでブラックバード囀る英国の朝のような鳥の囀りが聞こえる。その声に起こされ、一体どんな鳥が、と出て行って確かめたいのだが何しろ起き抜けでぼうっとしていて、すぐに動けない。そのうち眠気に負けてしまう。 あの声は一体、と日中はずっと悶々とした思いを重ねていた。「最近明け方に一羽で美しく長 く囀り続ける鳥がいます。お気づきの方、何という鳥か、ご存じありませんか」、と近所に回覧板を回そうかと真剣に考えたほどだ。
 今日の午後出先から帰宅したとき、敷地内でその囀りの主が分かった。まるでメジロのように、ホオジロのように ――でも本物ではあり得ないとすぐ分かる―― 次から次へ囀り、信じられないことに、途中でホイホイホイと明らかにサンコウチョウの鳴き真似で合いの手を入れる。電線に留まって我を忘れてうっとりと鳴き続け、佳境に入ると感動のあまり自分で自分をもてあますのか、囀りながら空高く舞い上がり、それからあの独特の波状飛行をしてずっと向こうのお寺の屋根まで飛んで行き、それからまた此処へ戻ってきて続きを歌う、という事を繰り返していた。まちがいなく、ヒヨドリだった。けれど、今は梅雨が明けたばかりの真夏、これから所帯を持とうというのか、それともそんなことに問係なく(あのヒヨドリには自分以外の何ものも見えているようではなかったし)芸術的な研讃を積もうとしていたのか、こんなところ でサンコウチョウの声など聞こえるはずはないから、どこか遠い山の奥で彼の鳥と接近遭遇し た事があったのか。あれやこれや考えても、留鳥のヒヨドリとは考えられない。春の渡りが遅 れてしまって繁殖期がずれているのかもしれない。相手の確保は大丈夫だろうか。
 それにしてもあの美しい声が、けたたましく耳障りだとばかり思っていた、あのヒヨドリの声だったとは......。ああいう調子で渡りの途中のあちこちで、熱心にその地方の鳴禽(めいきん)の声を採 集し、また自分も自慢の歌声を披露し、などして帰ってきたのかも知れない。今日だって私が 気づかなかっただけで、近くに繁殖可能な雌が存在していたのかも知れない。ここ数日ずっと 囀っているから、その可能性は低いかも知れないけれど、ないわけではないだろう。

 私は残念ながら、サンコウチョウのさえずりは知らない。いつもお世話になっている【小鳥のさえずり】サイトで確認すると確かにヒヨドリのさえずりに似ているようだ。実のところ、私も同じ梅雨明け間近の4時半頃に、鳥のさえずりで眼を覚ましたことが多かったのだが、ヒヨドリのさえずりとは確信がもてなかった。それで、録音した mp3 のファイルを上のサイトの管理者である pika@Bird Songs in Japan さんに送って確認してもらった。少しして、次のような回答があった。
いただいた音声ファイル、聞いてみました。
ひよどりが、歌ってますね。
単調なリズムですが、ちゃんと音階があって、かわいいですね!
カラスも元気そうですが...。


 この本は単なる野鳥観察の本ではない。鳥の渡りを追いながら、生存することの意味を考えさせてくれる一冊である。明日からの探鳥ウォークで見るもの、聴くものへの思いが変わるかもしれない。

2009年12月31日

Atelier Shuhei Weblog の一年を振り返って

 今年も、多くの方々に、Atelier Shuhei Weblog に訪問いただきました。ありがとうございました。
 どのページに、どれぐらい数の方々が訪問されているかなどを分析する無料のアクセス解析サービス Artisan を導入しています。この解析によれば、2009年のアクセス総数は、52,300 件(31日15時現在)でした。この解析結果にもとづいて、この1年間でのアクセスが多かった Best 10 を並べてみました。

  1. 隠居のDIY作品集:5,119
  2. IE7の不具合:起動しない : 1,941
  3. 隠居、友人のPCを LogMeIn でリモート操作する : 1,302
  4. 隠居のDIY:組み立て作業台: 1,091
  5. Home Page : 1,066
  6. DIYアーカイブ : 908
  7. 隠居のデジカメ写真整理:Picasa で取込・編集・送信する : 871
  8. 壊れたJPEG.Fileの復元:デジカメ写真 : 817
  9. MP3 音量一括調整ソフト MP3Gain HELP の日本語化 : 767
  10. 隠居の音楽:mp3 ファイルのID3 タグを編集する : 672


 この Aritisan というアクセス解析サービスは、もちろん商用あるいはプロパガンダ用にページを開設している人・団体のページ管理者が利用していると思われる。 だが、私の場合はアクセス数を増やそうとすることはしていないが、毎日 200 ~ 300 人の方が訪れてくださっているので、どんなページにアクセスしていただいているのかが気にかかるからである。

 以前に「隠居、ネット時代の『知的生産の技術』を考える」シリーズでも書いたように、私のブログは 平凡な引退生活者の日記として続けている。ほとんどの内容が、自分用の備忘録である。続けるために、梅棹忠夫さんが『知的生産の技術』の「日記と記録」の章で書かれているように、
いろんなくふうをかさねて、「自分」をなだめすかしつつ、あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられ
てきて、5年が経とうとしている。このブログのおかげで、引退後の生活経緯は物忘れがひどくなった頭にもかなり鮮明である。

 上の多くの方が訪問してくれているページを見ると、自分用の備忘録が、同じようなことに関心を持たれている方々には、いくらかの参考になっているのかもしれないな思っている。来年も、自分をなだめすかしつつ 記録していくつもりである。

 

2008年12月 8日

隠居ブロガーの読書:「日常を愛する」松田道雄著


日常を愛する (平凡社ライブラリー)
松田 道雄
平凡社
売り上げランキング: 67601

 『京の町かどから』『花洛』を読んでから、松田道雄の生き方が気にかかるようになった。

 この8月に、『我らいかに死すべきか』を読んだ。この人間論に啓発されて、同じように京都インテリゲンチャの生き方を綴った『日常を愛する』(平凡社)をよんだ。梅棹忠夫は『知的生産の技術』の読書の項で、本の読み方について「よんだ」「みた」を区分しているが、この本は最近になってようやくよんだことになった。

 この本は、毎日新聞の家庭欄に週一回 『ハーフ・タイム』という1000 字程度の連載を59歳のときから75歳まで 17 年間続けられたもののうち、1981年1月から1983年9月(最終)までの分を一冊の本にされたものである。
 このエッセイ集は、反権力精神に溢れた勉強熱心な元小児科医が書いたものであるから、当然その当時(今もあまり変わりはないが)の経済人としての医者や医療体制についてへの批判も多い。
 私も大学卒業後約10年ほどは、医薬品製造メーカーの営業(MR)をしていたから、彼の怒りはよく分かる気がするし、同意する部分も多い。
 1981~83年といえば、私が40~43歳のときである。確か、毎日新聞は購読していたはずであるが、宮仕えのサラリーマンとして生きるのに忙しく、このようなエッセイは読み飛ばしていたにちがいない。この歳になって、過去の繰り言を言っても仕方がないが、真剣に読んでおれば生き方は少し異なっていたかもしれない。

 彼の73歳から75歳までのこの連載は、現代風にいえば、松田道雄のブログである。朝の散歩や孫の世話、つづけて六枚かかるプレーヤで音楽を聴く(いまなら、iPod や Web Radio を使えば際限ないほど好きな音楽をつづけて聴けるが)話なども出てくる。
 私も6年ほどすれば、その歳になる。その歳になって、1982年の年頭エッセイにあるように、
年のはじめに願うのは平和である。地球も平和であってほしいし、家の中も平和であってほしい。平凡な考えだが、だんだん平凡のほうがいいのだと思うようになった。
という心境になっているのだろうか。

 読みながら、このような著述活動は今の Web 2.0 の世界だったらどのような形をとったであろうというようなことを考えていた。
 1983年8月24日の「おもわぬ客」という記述で、82歳の「ハーフ・タイム」ファンと話がはずんだようすが描かれている。
それから一時間ほどおたがいによくしゃべった。書物、音楽、スポーツ、映画などの昔話がおもで、医者のことは最初にでたきりで話題にならなかった。現在の見るもの聞くものどれもおもしろくないという点では一致した。適応できなくなったにちがいないが、それが適応せねばならないほどのあいてかということでも異論はなかった。
 活字も電波もすべて、えらべなくなった。マス・コミュニケーションが巨大化し、仲間入りするのに莫大な資本がいる。金の出せる人間、もうけたい人間の趣味ばかりが押しつけられる。大気も河川も汚染されたように、見聞できる世界が趣味がよくないこさえものに占拠されてしまった。
 1983年ころのPush 情報一辺倒の世界では、確かにこのような状況だったと思うし、今でも IT の世界と無縁の人は同じような状況だろう。そのころ新聞・雑誌・読書くらいしか引き出せなかった Pull 情報が今の世界では容易に手に入る時代になっているから、このような会話は内容が少し変わったものになったかもしれない。
 松田道雄さんのようにロシア語・ドイツ語・英語など世界の言語に達者であれば、「毎週くる五種類の医学週刊誌に目をとおす」(1981年2月4日:子どもとテレビ)のもパソコンの前で五種類といわず数多くの講演録などに目を通すことができるようになっていると思う。このあたりについては、以前にも紹介している梅田望夫の『ウェブ時代をゆく』の第五章「手ぶらの知的生産」にくわしい。

 情報の発信についても、「ハーフ・タイム」の原稿は締め切りに間に合わせて新聞社に郵送されているが、コンテンツに雲泥の差があることは承知のうえでの話であるが、この Web 2.0 の世界では私のような無名な浅学の人間でもすぐに全世界に向けて発信できるようになっている。原稿料は入ってこないが。
 「ハーフ・タイム」の掲載に対して、よく感想の手紙をもらったことも書かれているが、今ならブログへのコメントで済むだろうし、返答も楽だったろうと思う。peer to peer のコミュニケーションがずいぶんやりやすくなっているし、それを公開にしておけば、ひとまとまりの情報(スレッド)として得やすくなる。今の時代なら、松田さんのいいたかったことは、何倍もの量も発信できたのではないかと思う。

 それにしても松田さんの読書量はすさまじい。我がサイトで主に読書感想文を書いている友人の Masajii's Blogもすごい読書量だが、多分桁違いであろう。ただ、ネットを利用すれば、関連知識は簡単に手にはいるからコンテンツ抜きでいえば得られる情報量はそんなにかわらないかもしれない。

 手段は進歩しても、問題は描かれている生き様である。
 平凡社ライブラリーでの『日常を愛する』の巻末に、藤好美知というひとが「松田道雄というひと」という解説を書いているが、そのなかに、松田道雄の晩年の言葉を紹介している。
私は若いころの理想どおり気に入った人とだけつき合い、自分が自分の主人として自分の思い通り生きることができた。
 私もそのような生き方をしたいと思うが、そう簡単には Social Obligation から離脱できそうにない。

2008年8月14日

隠居の読書:「我らいかに死すべきか」(松田道雄)

 『知的生産の技術』→「梅棹忠夫」→『京都案内』→『京の町かどから』『花洛』「松田道雄」のハイパーリンクで、この本に行き当たった。

 この歳になると、そろそろ本の題名『我らいかに死すべきか』は気になって仕方がない。だが、この本の中身は題名のような本ではない。
 私が求めた平凡社ライブラリーのこの本は、松田道雄が1998年に90歳で亡くなったあとの 2001年3月に出版されている。あとがきにかえて書かれている「ひとりごとノート」には、この原稿は『暮しの手帖』の安森さんに頼まれて『暮しの手帖』に10回にわたって、「何とかについて」という命題で書いたらしい。

 ネットで調べてみると、1971年に『暮しの手帖』社から、10回分をまとめた題名『我らいかに死すべきか』という本で出版されている。題名は『暮しの手帖』社がつけたらしい。
 松田は、1967年(59歳)に小児科の診療を辞め、執筆・評論活動に専念しているから、その頃に、この原稿を書いたのではないかと思われる。だから、晩年の作品ではない。

 この10回分の「何とか」は、次のようなものである。
  1. 恋愛について
  2. 夫婦について
  3. 共ばたらきについて
  4. 親子について
  5. 一夫一婦について
  6. 育児について
  7. 教育について
  8. 道徳について
  9. 健康について
  10. 晩年について

 読んでみると、この本は「我らいかに生きるべきか」という松田道雄の「人間論」なのだ。個々の章で自分の生き様をもう少し深く考えてみたいと気持ちになる文章が続いている。

 第8章までの「何かについて」への人間論は、「うん、うん、そのとおり」と思うが、私にとってはそれを実践するにはもう過ぎ去った人生の話である。子育てや生活することに一生懸命な子供達には読んで欲しいものだが。 

 「健康について」の章をメタボの定期受診の順番を待ちながら読んだ。その冒頭に、次のような文章がある。
 健康とは自分の日常生活をやっていくのに十分な身体の機能である。
 これで十分かどうかは、自分できめることである。健康をこのように自主的にかんがえることができるようになったのは、さいきんのことである。人間が他人にしばられていては、自分で健康はきめられない。
 現実は、その人が健康であるかどうかは、企業が政府ぐるみできめている。私のメタボリック症候群は、企業の健康診断で判定された。確かに、血糖値は高いし、血圧も高い。企業にとっては、企業を動かしているひとつの部品が突然脳梗塞でも起こし用に立たなくなったりすれば、少しは損失かもしれないし、その治療のために健康保険で負担もしなくてはならない。企業が私の健康かどうかの決定権を持っていたのだ。
 自由な身になったいま、自分の健康については、「日常生活を十分にやっていける」のかを視点に判断していきたいと思う。血圧がWHO の診断基準のどこにあるかを一喜一憂しても仕方がない。

 第10章「晩年について」を読んで、近づきつつある自分の晩年のために、いまの生活をいかに生きるべきかかんがえた。
 晩年とは死とむきあう年である。それは本人の心がまえにかんするもので、生理的年齢とは無関係である。
 死とむきあってたじろがぬためには、現世への未練をなるべく少なくすることだ。人間とのつながりがつよいほど未練がのこる。連帯を少なくすることは、それだけ孤独になることである。晩年とは孤独に耐える年だともいえる。孤独に耐えるには、人間ではなしに、人間のつくったものだけを愛するすべを心得るにこしたことはない。
 
 晩年はたのしい収穫の季節である。けれども、まかぬ種は生えない。
 晩年を荒涼の砂漠にしないためには、それまでに、ひたいに汗して耕し、種をまき、雑草をとりのぞかねばならない。
(中略)
 年をとってからたのしむことのできるものを、年をとるまえに用意することである。それは高尚である必要はない。だが、低俗なものは、年をとるにしたがって、興味のそとに抜け出してしまう。
 そのあとに、味覚、聴覚、視覚のそれぞれに年をとるまえに用意することの例を挙げたりしている。我が意を得たりである。
 五木寛之のいう『林住期』にも同じようなことが書いてある。現世への未練を少なくするように、林住期を楽しみたいと思う。

   
われらいかに死すべきか (平凡社ライブラリー)
松田 道雄
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2008年4月20日

隠居の読書:松田道雄の「京の町かどから」「花洛」


 先日読んだ梅棹忠夫の京都案内に、帰化京都人として紹介されている、小児科医であった松田道雄「京の町かどから」「花洛」を読んだ。最近は、このように一冊の本からハイパーリンク的にいきあたる他の本を読む傾向が強くなった。ネット時代の習性なんだろうか。

 両方の本とも、Amazon で検索すると新本はなく、中古本市場(Amazon マーケットプレース)にあった。岩波新書の「花洛」はなんと 1円からある。どの程度痛んだ本なのかの興味あって取り寄せてみた。
 諫早市の「たんぽぽ書店」というところから、丁寧な包装で送られてきた。郵送料は340円である。包装袋の裏に、ゴム印で「このパッケージは『つくし作業所』で段ボール箱や古紙を再利用してつくりました。」とある。『つくし作業所』とは、知的障害者通所施設のようだ。少しでも役に立っているのだろうか。

 筑摩書房の単行本「京の町かどから」は、1971年の第4刷(¥520 )の中古本が¥477であったが、同じように丁寧な包装で送られてきた。
 この本は、1961年に「朝日ジャーナル」に連載したものを一冊の本にまとめたものらしい。1961年といえば、私がちょうど二十歳のときである。そのようなときに、このような本を読んでおれば、ちゃらんぽらんな学生生活を少しは変える気になったかもしれない。今更悔やんでみてもしかたがないが。

 松田道雄さんは1908年生まれだから、多感な時代を大正時代( 1912 - 1926) に過ごしたことになる。このころの京都のインテリゲンチャは、一般的に左偏りの思想を持っていたと思われる。松田さんは、このようなインテリゲンチャに囲まれて育っているので、かなり左よりの医学生だったようだ。ただ、父も誠実な小児科医で、今の中京区手洗水町(四条烏丸から少し北に上がったところのようだ)で開業していたから、町衆との交わりも多い。この2冊の本には、そのあたりが克明に描写されている。

 茨城県の水海道で生まれで、両親とも東国育ちの文化の中で京都に育ち京都の文化人となった。そのあたりについて、松田さんは「京の町かどから」のあとがきに次のように書かれている。
 『京の町かどから』は私の著書で、おそらくもっとも多様な読者をえた本であろう。大正時代の京都をえがきえたためか、その頃を知っていられる京都の年配の方から思わぬ共感をいただいた。ことに京都を遠くはなれていられる方の郷愁を何ほどかそそったようであった。
(中略)
 私自身もこの本にすてがたいものを感じている。幼年期への感傷もあり、過去への低回もありはするが、私の精神の遍歴のなかで、土着的なものとは何かをときあかしていくひとつの転機をなした。
 文化の古い層を残している点で京都はうってつけの風土であった。この古い京の町のなかで、東国からやってきた子どもが、西欧的な思想の洗礼をうけてそだつことほど、京都と断絶したものはなかった。この断絶を半世紀の年月をかけてうめていく過程が、ほかならぬ土着化であった。
 土着ということばは、一部の学者からはあまり好まれないようであるが、それは肌の色が黄いろいとか白いとかいうのとおなじに、人間の宿命である。肌が黄いろいのに、白いかのようにふるまうのは不自然であるというのが私のいまの考えである。


クリックすると大きな写真になります 松田さんといい、梅棹さんといい、京都で育ち生活した人は、どうも京都からは離れられないらしい。『京の町かどから』の口絵の説明文(下のカラムと左の写真)は、そうした想いが溢れている。京都はどうも特別な町らしい。日本に来て 40年近くなり最近になって日本に帰化したビル・トッテンは、京都が好きで京都に住んでいる。京都のインテリゲンチャとは全くことなる思想の持ち主であるが、やっぱり京都がいいようである。
 ながい召集から解放されて、京都駅に近づく列車のデッキから東寺の塔をみた時の感動を忘れない。とうとう京都へ帰ってきた。京都はここにある。京都は昔のままにある。
 爆撃で焼けただれたいくつもの町をみてきた目には、京都の遠景は奇跡のようだった。
 京都とは一たいなんだろう。
 私の喜び、私の誇り、それらはすべてこの町とともにあった。京都、それは、私の過去だ。
 幸いに失わずにもって帰った生命を、私は、私の過去に接続することができる。
 京都ほ過去であるとともに未来である。東寺の塔は、私の回生の象徴であった。
 それから十何年かがたった。
 私は今また東寺の塔に向かって立っている。団地住宅の屋上で立ち並ぶテレビのアンテナを通して東寺の塔をみている。
 そしてもう一度私は問う。京都の美しさとは一たいなんだろう。
 それは京都が愛されているということだ。あの戦火をこえて京都が残っているのは、京都が敵からも愛されたということだ。
 京都とは愛の奇跡だ。
 団地のこどもたちよ、君らは東寺の塔を朝夕みながら誇るべき過去をつくりつつあることだろう。二十一世紀のある日、東寺の塔に愛の奇跡をみるために。


京の町かどから (1968年)
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2008年4月 8日

隠居の読書:梅棹忠夫の「京都案内」

 京都に娘が一人住まいするようになってから、家内のアッシーで行くことが多くなった。行ったついでに、どこかに寄ってくるのが通常になった。京都は訪ねてみたいところが沢山あるのでどこに行くか困るほどであるが、だいたいは娘のおすすめにしたがっている。

 梅棹忠夫の「知的生産の技術」を読み返しているときに、彼の著書を Amazon で調べてみると沢山の著書があるのだが、その中に、梅棹忠夫の京都案内という本があるのが分かった。京都に興味がでてきていたこともあって、さっそく取り寄せて読んでみると、これがなかなか面白い。ちょっと異なる観点から京都を見てみたくなっている。

 この本は、1987年5月に刊行された角川選書を平成16年9月に文庫化したものらしく、原本が加筆・訂正されているということである。元々の原稿は、梅棹さんが「知的生産の技術」でいうところの自分のアルキーフ(文書館:アーカイブ)から、京都に関する講演とかいろいろな雑誌に寄稿したものを集めて編集している。

 この本には、京都を愛してやまない著者の京都びいきの話がいたるところにでてくる。
 1961年に日本交通公社の「旅」に「京都は観光都市ではない―観光客のために存在していると思われては困る!」と題して載せている記事がある。その部分が生粋の京都人である梅棹さんの京都に対する考え方がよく分かると思うので、引用としてはいささか長いが、載せたいと思う。梅棹さんは、「知的生産の技術」のなかで、長い引用はすべきではないというのだが、私には原文のニュアンスを簡略して記述する能力がない。

祇園祭のチマキ
 たまたま、ことしの夏、おもしろい例があった。新聞の投書欄に、祇園祭のチマキについて、文句がでたのである。
 祇園祭のチマキというのは、祭をみたことのあるひとならご承知であろうが、山鉾巡行中に、鉾のうえからなげるのを、群集があらそってうける、あれである。祭のしばらくまえから、これは売っている。それを買って、玄関などにかけておくと、厄除けになる。一種のまじないである。
 新聞の投書というのは、こうだ。そのチマキを買ってかえって、あけてみたらカラだった。京都の商売ほインチキだといって、えらい剣幕で憤慨しているのである。投書したのは、いずれよそからの観光客であろう。観光客ずれのしている京都市民も、さすがにこれには、いささかおどろいた。
 つまり、こういうことなのである。祇園祭のチマキというものは、ずっとむかしは中身がはいっていたようだが、近年ほただチマキの形にササの葉をまいてたばねただけであって、もともとなかにはなにもはいっているわけはない。そんなことは、幼稚園の子どもでもしっている。祇園祭のチマキをむく、というのは、むかしからおろかもののすることの見本みたいにいわれているのである。そういうこともしらずに、逆ネジをくわしてきたその投書子のあつかましさに、京都市民はおどろいた、というわけなのだ。
 よそからの観光客なら、京都の風習をしらないのがあたりまえでほないか、という同情論もありうるが、京都市民の立場からすれば、祇園祭の前後に京都にでてきて、そんな風習もしらずにいた、というのではこまるのである。ちょっとたずねれば、わかることだ。もともと、祇園祭は市民の祭であって、観光客のための祭ではない。祭をみにきてもかまわないけれど、みるならみるで、祭のしきたりについて、観光客は理解の努力をほらうべきである。とやかく文句をいってもらってほこまる。それは主客転倒というものだ。

観光都市ではない
 観光都市のことだから、まァまァ観光客の無理解にも目をつぶらなければならないし、いまのチマキ事件については、こちらの啓蒙不足という点もあったのではないか、という声がきこえてくるようにおもうが、そういうかんがえかたこそは、「お客さまはいつも王さま」という原則に支配された、卑俗なる観光主義というべきである。「観光」の名のもとに、この種の臆面もない無教養が、京都市内を横行しはじめるとしたら、それは、伝統ある京都の市民生活にとって、ことは重大であるといわなければならない。とに、この種の臆面もない無教養が、京都市内を横行しほじめるとしたら、それは、伝統ある京都の市民生活にとって、ことは重大であるといわなければならない。
 だいたい「京都は観光都市である」というかんがえかたそのものが、ひじょうに危険なものをふくんでいる。たしかに、京都はうつくしい都市だし、ほかの都市にくらべれば、なみはずれてたくさんの史跡名勝をもっている。そして、それをみるために、おびただしい観光客がやってくることも事実だ。そのかぎりにおいて、京都は観光のさかんな都市である。しかし、「観光」は京都という多面的な大都市のもつ、ただひとつの側面にすぎない。京都は同時に学問の都であり、美術の都であり、工芸の都であり、商業都市であり、工業都市でさえある。もともと、一国の首都として発展してきた都市であるだけに、そのなかにはさまざまな要素をふくみ、複雑な構造をもっている。その点、二、三の史跡以外にはなんの特徴もない地方小都市が、戦後にわかに観光都市の名のりをあげたのとは、本質的にちがうのである。そういう意味では京都を「観光都市」などという一面的なよびかたでよばないほうがよい。おたがいに誤解を生じるもとである。
 はっきりいって、京都市民のなかで、観光でたべているひとはごく一部にすぎない。大多数の市民は、観光と無関係に生活している。観光の恩恵をうけていない。京都をおとずれる観光客が、なにかの原因でおおきく減少したとしても、打撃をうけるのは少数の観光業関係者だけであって、おおかたの市民は、たいしてこまらない。それによって、都市の性格がおおきくゆらいだりはしないのである。
 このことを、逆に観光客の立場からみると、こうなる。京都では、ほかのはんとうの観光都市みたいに、お客さまづらをしているわけにはゆかない、ということなのだ。観光にきてやって、京都市民をよろこばせてやっている、というわけではないのだから。京都市民全体としては、たくさんの観光客が京都をみにくるのを、たいしてありがたがってはいないのである。ときにはめいわくもしている。


 この記事は、この本に収められている文の一例ではあるが、内容の雰囲気はつかんでもらえるではないかと思う。
 梅棹さんが、"帰化京都人"と称する小児科医の松田道雄さんの京都に関する本も紹介されている。「花洛」と「京の町かどから」である。Amazon で探すと中古本があった。取り寄せて読んでいる。

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2008年2月21日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える⑥日記と記録など:終

 私と同じように、「知的生産の技術」の現代的意味を読み解いておられる中学校の理科の先生がおられる。学校の先生らしく、深く深く読んでおられる。多分、そのようにこの本に傾倒されおられるのは、9章の「日記と記録」の記述に、ご自身で記録的に続けておられるブログの賛同意見を見いだされたのではないかと、かってに推測している。少なくとも、私はそうだからである。

 勤めていた頃は、私もメモ帳的な日記をつけていた。ただ、この日記的なものは、サラーリーマンとして仕事上のことばかりであったから、退職と共にすべて捨ててしまった。五木寛之のいう「黄金の林住期」になって、過去を捨てて新しい世界を楽しみたいという気持ちになったせいもある。
 新しい世界を楽しむためにはじめたブログは私にとっては、<ネット時代の「知的生産の技術」を考える①>で書いたように、梅棹さんが「知的生産の技術」でいう 日記と記録 になった。
 梅棹さんは、
日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、(中略) 航海日誌とか業務日誌のたぐいをおもいうかべればよい。
と説いておられるが、まさしく私のブログ( Web Log=航海日誌) も林住期生活の気ままな 日記と記録 なのである。

 私が日記としているのは、 Movable Type というソフトで作るブログである。ブログはそれ自身がポータル・サイト的な性格を持っているが、私はそれをカスタマイズして、さらに自分用のポータル・サイトにするつもりでつくっている。 これらの大部分は、iGoogle などのポータル・サイトでほとんど実現できることが多いが、自分の日記なので自分がもっとも使いやすいようにしたいと思っているのである。

 ここまでこだわらなくても、「知的生産の技術」の9章に書かれている 「バラ紙にかく日記」「日記をかんがえなおす」「日記と記録のあいだ」「記憶せずに記録する」「カードにかく日記」「個人文書館」の項目で記述されている記録の方法はブログによってクリアできると思う。
 とくに最後の「個人文書館」の項の中で、
ぼう大な記録カードや日記の蓄積は、いわば個人のためのアルキーフ(文書館)である。わたしがいっているのは、知的生産にたずさわろうとするものは、わかいうちから、自家用文書館の建設を心がけるべきである、ということなのである。
と説いておられるが、アルキーフ(独語)とは英語でアーカイブのことであり、ブログではデーターベースが自動的に文書館をつくってくれるのである。

 問題は、「メモをとるしつけ」「野帳の日常化」である。この項目における要点は、いつでも記録できる体制にあれということであろうから、コンデジを常にポケットに忍ばせておくとか、ケイタイで文書を書くのを習熟するとかでネット時代ではカバーできるだろう。さらに小さなMP3レコーダーでも携帯しておれば鳥の鳴き声だって、簡単に明瞭に録れるのだ。40年前に比べれば、記録することははるかにたやすくなっている。しかし、重要なことは、道具が変わっても、なんにでも好奇心をもっておくことであろう。これは、40年経っても変わらない。

 歳をとって物忘れがひどい。日記を自分のための生活記録と考えて、新しく経験したことについて記録をしておけば、あとで役に立つ。経験したことの感想だけではあとで役に立たない。9章の「自分のための業務報告」の項にでてくる宮廷の台所日記という『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』的でなければならない。
 例えば、自分で作ったブログ・サイトに何か新しい Plugin をインストールしたときには、そのインストール方法や苦労した点あるいは参照した Web URL などについて記録しておく。そうすれば、また同じことにぶつかったときに役に立つ。
 私は、この自分のための生活記録を隠居の気楽さで恥も外聞もなくブログという形で公表している。Google や Yahoo! などの検索にひっかかって、私と同じようなPC上のトラブルとか、音楽編集の方法などのエントリーへ訪問される方が、一日200人を越えるようになった。いちど訪問して、「なんや、つまらん!」と思う人がほとんどだと思うが、梅田望夫さんがいうように、
個人が、しらべ、読み、考え、発見し、何か新しい情報を創出し、それをひとにわかるかたちで書き、誰かに提出するまでの一連の行為(「ウェブ時代をゆく」 p.146)
 を知的生産と位置づけるなら、私も少しは 知的生産 をしているのかもしれない。

 一日に200人もの人が訪れるようになったので、ブログを自分への経験記録だけでなく、「知的生産の技術」の10章(原稿)・11章(文章)で書かれているように、他人のために「かく」ことを意識せざるをえなくなってきた。
 それも、ブログのおかげで私のような隠居でも気軽に簡単に発信できるようになったからである。活字にする必要がなくなったからである。私の父は、下手な短歌を作るのが趣味であったが、彼が唯一外に向かって発信したのは、なけなしの退職金をはたいて歌集を自費出版したことであった。今のネット時代なら、もっと気楽に発信できたであろう。

 梅棹さんは、11章「文章」「まずわかりやすく」のなかに、古くからからいわれている 文章は俳句のつもりでかけ という心得をとりあげて
 この忙しい世の中で、俳句をあじわうようなつもりで、論文をなんどもよみかえして、あじわってくれる人はあるまい。一ぺんよんで、すっとわからぬような文章は、やはりぐあいがわるいのではないか。わたしは、苦心して文章をみじかくすることの愚をさとった。みじかいことよりも、わかることのほうがたいせつである。文章は、電報ではないのだから、
 賛成である。特に、記録としての意識をもてば、文学作品を書く必要はない。ただ、私のエントリーが分かりやすいかどうかには自信がない。良い文書をかくようにこころがけたいと思う。と同時に、ブログの体裁を整える方法も、もっと習熟する必要がある。歳をとってからの学習は、はかがいかないが。

 このシリーズのエントリーは、今回で終わりにしたいと思う。第1回で書いたように、40年前の「知的生産の技術」を、今のネット時代で実施するとどのようななるのかを、浅薄な知識は承知の上でシリーズで書いてきた。どんな意味があるのというようなことは問わないで欲しいが、何人かの方々が隠居の日記に興味を持っておられるのがせめてもの救いと思っている。

2008年2月13日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える⑤手紙

 今回は、「知的生産の技術」8章の「手紙」をネット時代では、どのように考えるかについてふれてみたい。
 梅棹さんは、「知的生産の技術」を発刊された1969年当時においても日本では手紙の形式が崩れていることやコミュニケーションは電話ですまし、手紙を書かなくなっていると指摘されている。確かに、ずっと前から郵便受に入るものは、印刷されたダイレクトメールか振り替え通知ばかりであり、友人からの手紙なんて滅多にない。こちらが筆無精で手紙を書くのは苦手であり、こちらから発信しないのだから無理もない。こまめに手紙をくれるひとには感服してしまう。それが、電子メール( eMail )が一般的になって激変した。

 eMail が一般的になったのは、Windows95 がブームとなった 1995 年頃であろう。この年、日本でのインターネット牽引者である 村井純さん が「インターネット(岩波新書)」を発刊されている。インターネットが庶民のものとなって、たかが、まだ12~3年しかならないのである。この12~3年の間に、少なくとも私にとってはコミュニケーションの世界が全く変わってしまった。eMail という形式を介して、頻繁に多くの方と eMail という手紙をやりとりするようになったのである。

 梅棹さんは、手紙を情報交換の知的な技術と定義しておられるが、手紙がeMail に置き換わった今のネット時代では人びとの間の情報交換は、飛躍的に増大していると思われる。ネット時代では、情報の交換はこのeMail 網だけではなくブログなどもっと大きな場が拡がっているが、この現象については、また別のエントリーで考えてみたい。

 知的な情報交換とは言えないが、今、郵便受けに入る手紙・はがきには、この歳になるとやたらに同窓会・OB会の案内が多くなる。この案内状をメールに代えれば、事務作業はあきらかに簡便となる。私も参加しているシニアばかりのプライベートなゴルフ・コンペへの参加資格は、メールアドレスを持っていることである。メール以外の案内は一切しない。幹事の負担は、物理的な手紙・はがきで案内することとは比べものにならないほど楽ちんである。楽天が提供するような無料のメーリング・リスト( ML ) サービスを利用すれば、もっと楽ちんである。

  eMail を発信するのは手紙を書くことに比べるとはるかに楽であり形式も自由であるが、顔を知らない外国人からの英語での eMail は、梅棹さんが指摘されている形式が今も守られているようだ。下の例は、UKのソフト会社から私宛の  eMail の一例である。
 
Dear Shuhei Nxxxxxxx

This is to let you know that xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx:

Please note xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx.
If this happens, please see http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxxx.com/xxxxxxxxxxx for further instructions.

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
Ixxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

For further assistance please go to http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxx.com/help.asp

Best wishes,

xxxxxxxxxxxxxxx.com
Our ref: xxxxxxxxxxxxxxxxxx


 手紙をワープロで作成するにあたっても、米国あたりでは形式が守られているのか、Miscrosoft の 文書作成ソフト日本語 Word にも、オートフォーマットという機能があり、文頭に「拝啓」と入力すると文末は「敬具」と自動的に表示されるような機能や月毎の時候の挨拶が用意されている。Word の元々は米国だから、そのようなテンプレートを用意するのは当然であっただろう。

 eMail も米国発であるから、Miscrosoft あたりが提唱するメールの形式は物理的な手紙のメールの形式が色濃く残っている。 eMail には eMail なりのエチケットみたいなものがある。これは「ネチケット(Netiquette)」という言葉になっている。
 先日、あるML仲間で eMail のやりとりが続いた。返信・返信で情報の交換をしているうちに、メールの件名( Subject )からはずれた情報の交換となった。ネチケットにうるさいシニアからお叱りがでたが、話題を変えるときは件名( Subject )を変えるのが望ましい。
 Google が無償で提供する WebメールGmail では、同じ件名で送受信したメールをスレッドとして整理してくれるから、件名を変えるのはまことに賢明なのである。話がそれるが、「2ちゃんねる」などで有名な「匿名掲示板」での日本語は乱れているが、件名と内容が異なる投稿をすると「スレ違い」などと言われる。また、話題が終了した掲示板は、「死にスレ」などという表現が使われたりする。若い人のやりとりにはついていけないので、遠慮しているが、スレ違いにならないようにしたいものだ。

 ネット時代になってでてきた巨大な情報交換の場の一つは、eMail を発端としたネット掲示板( BBS )である。例えば、私が愛用させてもらっている [K'sBookshelf] の「この花の名は?掲示板」に、名前の解らない花の写真を添えて掲示板にアップすると、たいていの場合 10 分ほどもたたないうちに誰かが教えてくれる。手持ちの花の図鑑やネットで調べても解らないときには重宝する。市井の一市民の知識が即座に引き出せるのである。eMail や BBS によって知識の増幅のスピードは、格段にスピードアップした。

 梅棹さんは、この手紙の章で、手紙のコピーとアドレス・カードの方法についてもふれておられるが、ネット時代では全く問題がない。
 eMail の送受信はファイルで残っているから、コピーの心配はない。心配は、前々回かいたように、デジタル・ファイルを消してしまうことである。
 私は、アドレスは、「筆まめ」というソフトで整理している。何かの会で住所録をエクセルかなにかの表形式で整理したものがあれば、テキスト形式で簡単に取り込める。このようなソフトのいいところは、年賀状などの宛名書きを全部自動的に印刷してくれることである。(年末の忙しい時間に、プリント・ゴッコで印刷し、悪筆の手書きで宛名を書いていたころが懐かしい。) また、年賀状をいただいた方、出した方の記録や喪中はがきをもらった人も記録できる。二重にだしたり、喪中の人へ出したりする失礼もなくなる。また、デジタル・ファイルであるから、検索は簡単にできる。
 ただ、eMail がかなり拡大しても、年賀はがきはなくならないだろう。年賀はがきは、ただ単なる手紙のやりとりとは違うのだ。

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5 インターネットとは。
4 インターネットの価値を再評価できる
4 インターネットの価値を再評価できる


2008年2月 5日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える④「かく」

 「ネット時代の『知的生産の技術』を考える③」では、梅棹流読書法は、このネット時代ではどうなるかについて考えてみた。今回は、「知的生産の技術」第7章「ペンからタイプライター」について考えてみたい。

 梅棹さんは、この章にかなりのページ数を割いておられるが、要するに、日本語というやっかいな言語体系のなかで「かく」ことの効率化の話である。効率化を求めて、鉛筆→万年筆→ローマ字でのタイプライター→カナモジタイプライター→ひらがなタイプライターと発展させた話である。推定であるが、その変遷の期間は 20 年余りと思われる。

 「知的生産の技術」が出版されてから、10 年後の 1979 年に東芝のJW-10 というワードプロセッサが発売された。当時、私は新薬メーカーの経理部員として、新薬開発部門の生産性を見ていた。新薬の認可を受けるためには、トラック1台分くらいの書類を厚生省に提出しなければならなかった。(現在は、デジタル化した資料になっていると思う) この書類の手書きでの作成、印刷、校正、修正には薬剤師の資格を持った女性達を中心に多大な労力を要していた。
 JW-10の発売を知り、一も二もなく購入を勧めたことを覚えている。価格は、確か450万円くらいしたと思う。JW-10については、次のPDF文書に詳しくでているので参照してほしい。
日本語ワードプロセッサーの誕生とその歴史

 その後のワープロの進化は、皆さんご存知の通りである。1988年の11月に、梅棹さんの編集で、「私の知的生産の技術」という本が出版されている。この新書には、岩波新書創刊50年を記念した募集論文「私の知的生産の技術」の入選作12篇に、梅棹さんのエッセイが付いている。そのエッセイの中で、ワープロについて次のようにふれられている。
 『知的生産の技術』のなかでは、日本語の現在の表記法のままではタイプライターにのらないことをのべ、ひらがなタイプライターなど、その点を克服するたのくふうについてのべた。それがワープロの出現によって事情は一変したようである。(中略)
 とにかくワープロによって日本語は機械にのった。人びとは悪筆コンプレックスになやませれることもなく、むつかしい漢字にふりまわされることもなく、らくらくと文書をたたきだすようになった。この数年間におけるワープロの普及ぶりは、まったくおどろくばかりである。これもまオフィスばかりか、家庭のなかにまで着実に浸透しつつある。

 余談であるが、梅棹さんの文書を引用させていただいてパソコンから入力しているときに気がついたが、梅棹さんはできるだけ漢字を使わないようにされているのではないかと思う。はじめ、それはひらかなタイプライターを使っておられたせいと思っていたが、どうやらそうではないらしい。先の引用の続きに、このような文章がある。
 しかし、ワープロによって問題のすべてが解決したのではけっしてない。ワープロによって、事務革命は完成したわけではないのだ。近代文明語としての日本語の問題点は、単に機械化がむつかしいというばかりではなく、学習の困難さ、国際化への障害など、いくつも難点がある。ワープロの発達は問題を解決しないで、むしろ先送りしたともいえる。

 これに関して思い出すことがある。富士通のOASYSのワープロで親指シフトのキーボードが、一時流行したことである。(今も愛用されている方も多いようだが。)ワープロの日本語入力の主流は、QWERTYキーボードでローマ字入力だとおもう。機械式英文タイプライターのキー配列は、早く打ちすぎると機械の方が追いつかなくて故障してしまうことから, QWERTY配列が、de facto standard になってしまったようだ。私も、完全ではないが、QWERTYキーボードのブラインド・タッチを習熟してしまった。
残念ながら、IT の国際言語は英語である。ネット時代になって、日本語の国際化はますます困難である。

私の知的生産の技術
私の知的生産の技術
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