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2015年2月 6日

読書日記「ヴェネツィアの宿」(須賀敦子著、文春文庫)


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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 この作品は、著者が長年過ごしたイタリア・ミラノを舞台にした2つの前作とは、構成、題材とも大きく違っている。

 月刊誌「文學界」に1年間連載されたもので12篇はそれぞれ独立しているが、テーマは大きく分けて2つある。1つは、父・母・夫への思い、2つ目は、ヨーロッパという異郷を理解しようとして苦悩する姿。巧みな構成と文章で綴られた須賀敦子の"自分史"を覗く思いがする。

 1つ目のテーマでは、特に父親の思い出が多い。冒頭の「ヴェネツィアの宿」で父が愛人といるのを見つけたエピソードが、「夜半のうた声」では父と母を和解させようとする長女・敦子の試みが語られ、父の最後を看取る最終篇「オリエント・エクスプレス」へとつながっていく。

 
 すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがえすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。そんな格好で父が知らない女の人と歩いていることの不思議さが、とっさに理解できないほど、なにか自然な感じでふたりは近づいてきた。どうしよう。自分がこんなところまで来てしまったことの無謀さがこわくなった。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。こまった、という気持と、いなくなった父に会えたよろこびに、頬がほてった。
 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。なにも言わないで家を出てしまうから。父は一瞬こまった顔をした。お父さまはおかげんがわるいんです。父をかばうように連れの女が言った。あまりくさくさするので、そこまでお散歩に出たところです。ちょっとざらざらするような声だった。


   
 右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな叫び声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。
 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。
 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。


 
 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス......は?
 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきた ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と(オリエント・エクスプレスの車掌長から分けてもらった)白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。


須賀敦子という人物の意志の強さをうかがい知ると同時に、この本の随所にちりばめられた流麗、静謐な文章に引き込まれる。

イタリアから日本に帰って教職についていた60歳過ぎの著者は、シンポジウムに招かれて久しぶりに訪れた「ヴェネツィアの宿」で、「古い記憶」を思い出し西洋と日本の間を「ほこりにまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分の姿」を見つめる。

 ある夏の夕方、南フランスの古都 アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、 ロマラン(ローズマリー)の茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しつかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。


ローマ留学時代を綴った「カラが咲く庭」。このなかで、寄宿舎の院長であるマリ・ノエル修道女は、著者にこう問いかける。

「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかのヨーロッパは育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

「大聖堂まで」では、パリに留学した際、 ノートルダム大聖堂から シャルトル大聖堂までの巡礼の体験が語られる。
 カトリック左派の 労働司祭の指導で、約3万人の若者が議論をしながら約80キロの道を歩き、夜は農家の納屋に泊めてもらう。
 はじめてヨーロッパに来た著者は、言葉の壁だけでなく「この国の人たちのものの考え方の文法みたいなものへの手がかりがつかめない」ことで苦しんでいた。それをなんとか「自分の手でさぐりあてたい」と思ったのが、この巡礼に参加したきっかけだった。

 2日間、歩き続けて疲れ切っているのに、満員の大聖堂にさえ入れず、有名な シャルトル・ブルーのステンドグラスも見られなかった。だが、教会の外壁に並んだくぼみで、 洗礼者ヨハネの像を見つける。(キリストが世に出るのを)待ちあぐねて「ほとほと弱ったという表情」は「私たちにぴったりね」と、フランスと中国人を父母に持つ友人・モニックと話す。

 パリの寄宿舎でルームメイトだったドイツ人のカティア・ミューラーは、公立中学の先生を辞めてやってきた。
 「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい」「いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」(「カティアが歩いた道」から)

 同じ思いでいた著者にとって「カティアはなかなか手ごたえのある同居人だった」

 ※(追記)
 須賀敦子は、敬けんなカトリック教徒だったが、61歳から8年間、怒涛のように書き綴った作品のなかでは、その信仰のことにほとんど触れていない。  ところが先日、 オプスディ・セイドー文化センターでの勉強会で、テキストのなかに「愛するとは・・・」という著者の言葉を見つけて、出典を探した。

 
 生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。


     
 キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。


(須賀敦子全集・第8巻に所収されている雑誌「聖心の使徒」掲載「教会と平信徒と」より抜粋)



2013年5月29日

 トルコ紀行・上「イスタンブール」(2013・4・27―5・6)



 トルコ・イスタンブールのアタテュルク空港に着いたのは、4月28日の早朝6時前だった。

 さっそく、空港の銀行出張所で日本円3万円をトルコリラ(TL)に替える。ガイドブックには1TL=40円と書いてあったが、急激に進んだ円安で、関西空港の両替所では1TL=75円と言われてびっくり。アタテュルク空港では55・5円だった。しかし、超円高が続いた1年も前に友人が先行して格安往復航空券を手に入れてくれていたから、おかげで気分は悠々である。

 予約しておいたタクシーは、高台に世界遺産の トプカプ宮殿を望む ボスポラス海峡沿いの旧市街地を快適に飛ばす。
 道沿いに 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代の古いレンガ造りの城壁が続いている。

 機中で読んだ塩野七生の 「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)によると、現在の新市街に布陣したオスマントルコ軍の大砲から飛んでくる巨大な石弾が難攻不落といわれた城壁を壊し、 コンスタンティノープル(現在の イスタンブール)市民を震撼させたらしい。
 しかし、主戦場は北西の陸側城門の攻防だったから、海峡沿いの城壁は現在でもよく保存されているように見える。

旧市街から金角湾を渡るガラダ橋を通り新市街地に。早朝から橋の2階歩道から釣り人が長い糸をたれている。1階はすべて魚専門のレストランフロワーで、釣りは禁止らしい。釣り人の収穫のほとんどは、イワシかベラに似た赤っぽい小魚。昼食に1階の店で食べてみたが、唐揚げにレモンと塩が結構いけた。

新市街の高台にあるホテルに荷物を置き、先行していた友人ら計4人で、タクシム広場から、イスタンタンブール最大の繁華街「イスティイクラル通り」を港の方へ下る。

1両編成の赤いアインティーク調の路面電車と車数台が時々行き交うだけで、ほとんど歩行者天国。朝食の定番というトマトやレンズ豆のチョルバ(スープ)がいける。特産のナッツ屋、蜂蜜などを使ったお菓子屋、伸びるアイスクリーム・、ドンヅオウルマの店、「濡れハンバーク(パンの上下を特製ソースに浸けてある)」は意外にうまい。
魚市場「バルック・バザール」というアーケードに入る。友人が揚げるのを試したムール貝の串揚げを楽しみ、貝に詰めたムール貝のピラフは少々冷たい。欧米にも広がっているという 「ドネル・ケパブ」(回転焼肉)は、ほとんどの店が焼く準備中だった。

イスラム教の国なのに、道沿いに様々な宗教の教会があるのが、不思議だった。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後、イスタンブールと名前を変えたこの都市をヨーロッパとアジアを結ぶ世界都市とするため、他宗教の施設を認め、移民を奨励した。住民の4割ほどが ムスリム(イスラム教徒)以外が占める政策を取った。

「オスマン帝国」(講談社現代新書)の著者・鈴木薫は、これを「イスラム世界の『柔らかい専制』」と名付けている。

イスラム教では、礼拝堂・ モスクの大規模なものを「ジャーミイ」と呼ぶ。イスティイクラル通りに入ってすぐ北の路地にある「アー・ジャーミイ」に入ってみようと思ったが、道沿いのベンチで トルココーヒーをすすっていた男性が「2ヶ月後まで工事中。この裏のバザールはやっているよ」と巧みな日本語で教えてくれた。

 ちょうど日曜日。通りの左にあるカトリックの聖アントニオ教会では、朝8時からのミサの最中で欧米からの観光客もいて超満員だった。ビザンチン時代の1221年に修道院ができ、オスマン時代の木造教会はなんどか火災で損傷、1912年に現在の バジリカ方式のレンガ造り教会になった。イスタンブール最大のカトリック教会で、完成の時にはローマから代表団も来た、という。

 翌週、土曜日の朝、再びイスティイクラル通りを歩いていて、聖アントニオ教会の向かいに ギリシャ正教の大理石造りらしい教会を見つけた。

 入ってみて驚いた。白いあごひげを付け赤い祭服に金色の ミトラ(宝冠)をかぶった 主教が、司祭たちに抱えさせた幅1・5メートルはある竹籠にあふれた月桂樹らしい葉を群がり寄る老若男女の体に投げ、祝福を与えているのだ。なぜだか、参加者の顔が喜びに輝いている。

 なんとギリシャ正教では、翌日5月5日が、十字架上で死んだキリストの復活を祝う 復活祭(イースター)なのだ。カトリック教会では3月31日に終わっているだが、両教会の暦の違いらしい。カリック教会では、前日の聖土曜日は静かな祈りのうちに過ごすが、ギリシャ正教会では、 聖大スポタと呼び、キリストの復活を先取りするお祝いをするようだ。

 ちなみに、来年のイースターはギリシャ正教、カトリックとも4月21日・・・。

 ギリシャ正教を統括する 「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、コンスタンティノーブル没落後も スルターン メフメト2世に許され、今だにここコンスタンティノーブルの金角湾沿いの教会内にある。

 「民族も宗教も異にする多種多様な人々をゆるやかに包み込む」(前述「オスマン帝国」)「"柔らかい専制"」は、世界の歴史でも、あまり例がないのではないかと思う。

  「イスタンブル」(長場紘著、慶応義塾大学出版会)によると、現在イスタンブールには2000近いモスクがあるが、オスマンに滅ぼされたギリシャ正教教会が80,シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)15,キリスト教がカトリック、プロテスタントを合わせて10,その他アルメニア正教20,その他にロシア正教、ブルガリア正教、アルメニア・カトリック・・・。

 そんな宗教建築に混じって、欧米の観光客、スカーフ姿のトルコ女性やアジア系の人も多く、ちょっと他では見られない世界都市の風景が描き出されている。

 スルターンは勝利後、3日間の略奪は許したが、捕虜になることを免れた旧市民は保護され、帰宅させた。港に寄留していた ジェノヴァ人の多くも保護された。

 ユダヤ人地区が旧住民の攻撃を受けた際には、自らの軍隊で撃退し、これを知ったエジプトなどから多くのユダヤ人も移民してきた。

 一方で、スルターンは、かってのギリシャ正教総主教座聖堂 「ハギ・ソフイア聖堂(現在の世界遺産『アヤソフイア博物館』)」など多くのキリスト教会を、イスラム教のモスクに変えた。

改造されたモスクでは、堂内正面にメッカに向かって礼拝するための 「ミフラーブ」と呼ばれるアーチ型の壁が作られた、イスラム教には、祭壇はない。博物館になっているアヤソフイアでは、旧祭壇に横にメッカに方向を向いたミフラーブが斜めの方向に向けて作られていた。

礼拝への誘い 「アザーン」を肉声で呼びかけるための尖塔 (ミナレット)も何本かモスク脇に建設された。

 今では、肉声に代って拡声器で「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なるかな)」に始まる、祈りへの誘いが、イスタンブールの街中に流れる。

 男たちは、この拡声器に誘われるようにモスクにやってきて、水場で足と手を洗い、顔を水でぬぐって、モスクに入っていく。礼拝の時間は30分ほどだが「夜明け、夜明け以降、三回目は影が自分の身長と同じになるまで、そして日没から日がなくなるまで、最後は夜」の計5回。
 といっても、集まって来るのは、1回に5,60人程度だ。それに比べると。路地のベンチでコーヒーやチャ(紅茶のこと、オレンジ・チャがうまい!)を飲んでいる男性のほうが多いように見える。

 女性の姿があまり見えないが、1日ツアーのガイドに聞くと「ほとんど家で祈る」という。モスクに来ても、入り口近くの透かし壁で囲まれた狭い空間で祈っている。厳しい"男尊女卑"に同行した女性軍は憤慨気味である。

 スカーフから衣装まで黒尽くめの女性は意外に少ない。多くの女性は青スーツに紫のスカーーフを合わせたりして、なかなかファッショナブルだ。トルコ・民主制の成果だろうか、スカーフで顔を隠さない女性も多い。エジプシャンバザールのコーヒー売り場で、スカーフをしていない女性にカメラを向けたたら、にらみ返された。

  「偶像礼拝を禁ずる」イスラムの教えにそって、モスクに変わったキリスト教会の聖像などは取り外されたり、白い漆喰で塗りつぶされたりはしたが、柱や大ドームの見事なビザンチン壁画は、幸いそのまま残された。

   「アヤソフイア博物館」では、1931年、アメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領・ アタテュルクは、翌年ここを博物館とし、一般公開した。

 同じような事情で現代にまで生き残ったというビザンチン壁画を、どうしても見たいと思った。

カーリエ博物館(旧コーラ修道院)は、コンスタンティノープル陥落のきっかけになった、テオドシウスの城壁の近くにある。ホテルからは、地下ケーブルカーとトラム2本を乗り継いで行く。駅員は「駅か博物館までは分かりにくい」と・・・。

 車中で一緒になったハンガリーの若い男女4人と一緒になって探す。結局、見つけたのは「年の功」の我々だった。入る前に、道路を隔てたレストランにはいったが、アルコールル禁止だったので、しぼりたてのザクロのジュースでのどをうるおした。悠々と「水パイプ」を楽しむ客もいた。

 カーリエ博物館は、小さな庭に囲まれたレンガ造りの小づくりの建物。モスクに変えさ世良田ことを示す尖塔も1本残っている。20世紀中頃に、やはりアメリカのビザンツ研究所によって、13,14世紀に描かれたキリストや聖母マリアのモザイク画が発見された。天井や壁に描かれた見事なモザイク画を、欧米から来たと思われる観光客がほうけたように見上げている。歴史が、現代に生き返った輝きを実感する。

   ビザンチン美術だけでなく、イスラム社会が生んだ芸術にも圧倒され続けた。

 シルエットが美しいイエニ・ジャーミイ、香辛料はじめ食料品を買う客でごった返すエジプシャンバザールを楽しみ、店舗の間の狭い石段をやっと見つけ、 「リュステム・パシャ・ジャーミイ」にたどり着いた。

 ここは、訪れる観光客はおおくないが、外壁や内部の柱などをおおう 「イズミック・タイル」の美しさに目を見張る。とくに、トルコ特産のチューリップの赤とコバルトブルーの対比にはいつまでも見飽きない。

 歴史地区・スルタンアメフット地区の中心にある スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)は、朝から観光客の長い列ができていた。
 信徒とは別の入口から入り、スカーフを持たない女性は入り口で貸してもらい、男女とも靴を脱いで入る。

 同じイスラム教の国でも、サウジアラビアのメッカなどにはイスラム教徒しか入れない、という。こここにも「柔らかい専制」の伝統が生きているのだろうか。

 内部は数万枚の青いイズニクタイルで飾られ、大ドームを飾る260ものステンドグラスの窓からもれる光で青く輝いている。6つの尖塔を持つのも、世界でこのモスクだけだという。

 「トプカプ宮殿」は現在は博物館になっているが、最後の展示室は、イスラム教の開祖者であるモハメッド( ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ) の白髪、モハメッドの「足型」など、モハメッドを"神聖化"する陳列物が目白押しに置いてある。

 しかしイスラム教ではモハメッドは、モーゼ、イエス・キリストに続く最後の預言者である、という位置づけをしており、神は 「アッラー」と呼ぶ。

 つまり、イスラム教では「キリストを人間と認めながら、神性はきっぱりと否定」しているのだ。キリスト教とは、まったく相容れない宗教である。

 イスラムの聖典 「コーラン」の日本語訳を見ると「聖母マリア」の項があってびっくりする。「コーラン」には、聖書と似たところや矛盾する記述があり、簡単には理解できそうにない。

 そして、そのイスラム世界にイスラエルがカネの力で国を建設して以来、パレスチナでイラク、レバノン、シリアで・・・民族間の紛争が絶え間ない。

 昔の「柔らかい専制(共和制)」をイスタンブールの街に見つけながら、それとはほど遠い、現実の世界にりつ然とするしかないのである。

トルコ旅行写真集

下に掲載した写真はクリックすると大きくなります。また、拡大写真の左部分をクリックすると一枚前の写真が、右部分をクリックすると次の写真が表示されます。キーボードの [→] [←] キーでも戻ったり、次の写真をスライドショウ的に見ることができます。
「濡れハンバーク」;クリックすると大きな写真になります 魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ;クリックすると大きな写真になります 開店準備中の野菜・果物店;クリックすると大きな写真になります 聖アントニオ・カトリック教会;クリックすると大きな写真になります トルコ特産、ナッツ専門店;クリックすると大きな写真になります
「濡れハンバーク」
 約140円
魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ 開店準備中の野菜・果物店 聖アントニオ・カトリック教会 トルコ特産、ナッツ専門店
ドネル・ケバブは、焼く準備中;クリックすると大きな写真になります トルコの炉端焼き盛り合わせ;クリックすると大きな写真になります 朝食はスープにパン、チャが定番;クリックすると大きな写真になります ブルーモスク;クリックすると大きな写真になります 港沿いイエニ・ジャーミイ;クリックすると大きな写真になります
ドネル・ケバブは、焼く準備中 トルコの炉端焼き盛り合わせ 朝食はスープにパン、チャが定番 ブルーモスク 港沿いイエニ・ジャーミイ
エミノニュ港名物「サバサンド」;クリックすると大きな写真になります ごった返すエジプシャン・バザール;クリックすると大きな写真になります 長い列ができるトルココーヒー店;クリックすると大きな写真になります 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・;クリックすると大きな写真になります リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂;クリックすると大きな写真になります
エミノニュ港名物「サバサンド」。生タマネギとレタスもたっぷり ごった返すエジプシャン・バザール 長い列ができるトルココーヒー店 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・ リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所;クリックすると大きな写真になります ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所;クリックすると大きな写真になります ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地;クリックすると大きな写真になります レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する;クリックすると大きな写真になります 元気なトルコの女性たちら;クリックすると大きな写真になります
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所 ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所 ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地 レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する 元気なトルコの女性たちら
アヤソフイア博物館;クリックすると大きな写真になります 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい);クリックすると大きな写真になります 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト;クリックすると大きな写真になります 聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります
アヤソフイア博物館 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい) 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト 聖母子のモザイク
キリスと皇后ゾエら;クリックすると大きな写真になります ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿;クリックすると大きな写真になります 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像;クリックすると大きな写真になります トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい;クリックすると大きな写真になります 斬新なデザインに驚く「植物の間;クリックすると大きな写真になります
キリストと皇后ゾエラ ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像 トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい 斬新なデザインに驚く「植物の間
宮殿の中庭。対岸は新市街;クリックすると大きな写真になります 閑散とした6時過ぎのグランドバザール;クリックすると大きな写真になります 陶器を物色するトルコ人母子;クリックすると大きな写真になります ディナー付きベリーダンスショー;クリックすると大きな写真になります イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会;クリックすると大きな写真になります
宮殿の中庭。対岸は新市街 閑散とした6時過ぎのグランドバザール 陶器を物色するトルコ人母子 ディナー付きベリーダンスショー イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています);クリックすると大きな写真になります
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています)


  
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2011年11月12日

読書日記「アースダイバー」(中沢新一著、講談社刊)

アースダイバー
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中沢 新一
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 前回のブログでふれた中沢新一の、この著作は以前から気になっていたので、図書館で借りてみた。2005年の発刊だが、予想以上にもうけものの本だった。

 表題は、アメリカ先住民の神話から取られている。
はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物たちがつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーやカモメが挑戦しては失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地はつくられた。


ここで、中沢の持論が登場する。
 
頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく(一神教の神による天地創造ではなく?)、水中深くにダイビングしてつかんできたちっぼけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。こういう考え方からは、あまりスマートではないけれども、とても心優しい世界がつくられてくる。泥はぐにゅぐにゅしていて、ちっとも形が定まらない。その泥から世界はつくられたのだとすると、人間の心も同じようなつくりをしているはずである。


 中沢は、この泥みたいなものでできた心を「無意識」と呼ぶ。これまでの文明は、グローバル化にしろ、原発にしろ、この「無意識」を抑圧することによって合理的といわれるものを築いてきた。そして今、抑圧されてきた「無意識」が現代文明に反旗を翻そうとした結果が、9・11であり、3・11の本質でもある。中沢は、そう言いたいようである。

 「ぼくはカイツブリにならなければ」。中沢は、水の底から泥をつかんできて「もういちど人間の心をこね直そう」と考える。

 そんな気持ちで東京の街を見回してみた時「大昔に水中から引き上げられた泥の堆積が、そこそこに散らばっているのが見えてくる」

 縄文時代の前期、 縄文海進と呼ばれた時期には、泥の海が現在の東京の街にフィーヨルド状に入り込んだ地形をしていた。

   中沢は、この縄文地図を手に東京探訪に出かける。
 気づいたのは、どんなに都市開発が進んでも、それとは無関係に散財している神社や寺院は、きまって縄文地図における、海に突き出た岬ないしは半島の突端部に位置している、ことだ。

   
縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てたりして神様を祀る聖地を設けた、
  そういう記憶が失われた後の時代になっても、まったく同じ場所に、神社や寺がつくられた・・・。現代の東京は地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に感知していた縄文人の思考から、いまだ直接手的な影響を受け続けているのである。


   
東京の重要なスポットのほとんどすべてが、「死」のテーマに関係を持っていることが、はっきり見えてくる。・・・盛り場の出来上がり方や放送塔や有名なホテルの建っている場所などが、どうしてこうまで死のテーマにつきまとわれているのだろうか。
 かっては死霊のつどう空間は、神々しく畏れるべき場所として、特別扱いされていたのである。


 縄文地図を見ながら東京を歩くと、縄文時代も堅い土でできていた丘陵地帯(洪積層)とかっての泥の海(沖積層)地帯では、土地の持つ雰囲気がまったく違うことに気づくという。沖積層地帯からは、死の香り、エロスの匂いがただよってくる。

 甲州街道や青梅街道が走る新宿の高台沿いには紀伊国屋や中村屋などの高級店が並んでいるが、湿った土地にできた歌舞伎町や西新宿には、それとはまったく違ったにおいがある。渋谷の繁華街やラブホテル街も、この地勢論から説明される。

道玄坂は・・・、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うかラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないと思う。ここには、セックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の感覚の間近さと関係をもっている。


 そして、明治天皇が新たに造られた明治神宮の森に祀られ、現天皇が、世界のどの大都市にもない皇居という「空虚な空間」に住まいを定められている意味についても、この本は敷衍していく。

 この本の巻末には、現在の東京に縄文地図を重ねた地図が折り込まれている。ブログに添付した写真では少し分かりにくいが、上野や御茶ノ水が、泥の海に突き出した「サッ」と呼ばれた岬であることが歴然と分かる。
 WEB上では、多摩美術大学中沢新一ゼミと首都大学東京大学院が協同制作した 「アースダイバーマップbis」も公開されていて、楽しませてくれる。
 ただ、 中沢の東京地勢論への異論もあるようだ。 img005.jpg

 中沢が縄文時代について記述しているのを読むのは、このブログでもふれた 「縄文聖地巡礼」以来だ。蓼科の縄文遺跡や縄文人の末裔といわれるアイヌ人の昔を訪ねるエコツアーに参加したこともある。
 一神教の神を信じる身でありながら、縄文の時代の死や霊への思いになぜか引かれる。

 このブログを書いていて、中沢が週間現代にアースダイバーの大阪版「大阪アースダイバー」を連載しているのを知った。昨年11月のスタートだから、間もなく単行本になるのだろう。この8月には「大阪アースダイバー」をテーマにした中沢ら3人の 公開鼎談も、東京で開かれている。

 これに刺激されたのか、大阪の街に縄文の地図を重ねたマップを掲載した ブログも登場している。
 このマップを見ると、大阪城や難波宮、四天王寺、住吉大社が連なる上町台地を除いて、ほとんど海である。

    元京大防災研究所長の河田恵昭・関大安全学部長の「水は昔を覚えている」という言葉を思い出した。昔、海や湿地帯だったところに市街地が発展しても、いったん洪水、高潮、津波はん濫が起こると、また海や湿地帯に戻る、というのである。

 故・小松左京「日本沈没」でも、上町台地以外の大阪の街が泥の海と化す記述がある。

 縄文の地図を現在の土地に重ねる「アースダイバー」の試みは、東北大震災など自然災害の教訓をけっして忘れてはいけないという警鐘とも読めるのである。

2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


2009年2月 1日

読書日記「歳月」(茨木のり子著、花神社)

歳月
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茨木 のり子
花神社
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5 温度の高い言葉
5 かつて若かった私達も
5 亡き夫への鎮魂譜

 なにかの書評で、この詩集のことを読んで気になっていたが、うまく見つけられずにいた。宮崎 駿監督が推奨していた、茨木のり子「詩のこころを読む」はこのブログにもちょっと書いたが、同じブログに書いた「詩と死をむすぶもの」 で、谷川俊太郎が絶賛しているのを見つけ、図書館に飛んでいった。

 谷川俊太郎はこの本のなかで、共著者の徳永進医師に、こう問いかけている。
 「茨木のり子さんの最新詩集『歳月』を読みましたか?夫の三浦さんが一九七五年五月に亡くなってから、三十一年にわたって茨木さんは四〇篇近い詩を書き溜め、それらを生前は筐底深く秘めていて出版されなかった、それが本になったんです。茨木さんの人間としての、女性としての最良の部分が言葉になったという印象です。詩とそれを書いた詩人とのあいだに、邪なものは何ひとつ存在しない。詩と詩人の幸せで誠実な一致。詩を基本的にフイクション、少々シニカルに言うと美辞麗句、巧言令色などと考えているぼくにとってはいい薬です」


 読み始めて、一篇ごとに、最近はあまり感じなくなった戦りつが何回も走った。
 この詩集を書評めいて書く力は、私にはない。著作権にふれるのだろうが、数篇をただここに書き写すことしかできない。

    一人のひと
ひとりの男(ひと)を通して
たくさんの異性に逢いました
男のやさしさも こわさも
弱々しさも 強さも
だめさ加減や ずるさも
育ててくれた厳しい先生も
かわいい幼児も
美しさも
信じられないポカでさえ
見せることもなく全部見せて下さいました
二十五年間
見ることもなく全部見てきました
なんと豊かなことだったでしょう
たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに

    
ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々より焦らずに
おだやかに
執拗に
わたしの全身を浸してくる

この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のベッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起し
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

   歳月
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳のわたしを想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼になって
もう行きましょう と
互いに首を絞めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの


2008年12月21日

読書日記「キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち 上・下」(平敷安常著、講談社)


キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち(上)
平敷 安常
講談社
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5 写真という名の言葉−歴史の語り部達−
5 一気に読んだ!ベトナム戦争世代じゃなくても読みやすい。

 新聞記者を辞めて、もう何年もたつのに・・・。現役時代には、たいした仕事もしなかったのに・・・。ジャーナリズム関係の本を見ると、つい手にとってしまう。

 表題にある「キャパ」とは、もちろん ちょっとピンボケの著書でも有名な戦場カメラマン、ロバート・キャパのこと。

 著書の終りに近いところで、著者はこう述べる。
ベトナム戦争でキャパになりそこなった戦争カメラマンは、新しい戦争の中で、もう一度ロバート・キャパをめざす
自分のことらしい。

 しかし私には「キャパになれなかった」というのは、ある種の反語であるような気がする。この本にあるのは、ベトナム戦争などを取材したカメラマンや記者たちの勇猛果敢かつ壮絶な報道ぶりや悩み、苦しみなどの詳細な記録だ。

 "キャパに近づきたい"と願い続け、見事に"キャパになりきれた"「語り部たち」の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。

 小競り合いがあった現場に急ぐ軍曹に同行した時のこと。山道の曲がり角で北ベトナムの兵士と鉢合わせする。兵士の手りゅう弾より、軍曹の小銃の引き金が一瞬早かった。戦死した北ベトナム兵士が持っていた日記には「私は悲しい。空腹だ。故郷に戻りたい」と書かれてあった。同行したベトナム記者は、同邦の若者の死を悼み、深く悩む。

 ベトナム兵を撃った軍曹は、間もなく休暇でハワイに行き、婚約者とデートをする予定だった。だが、数日後の戦闘で片脚を失う。

  NBCのハワード・タックナー記者は、弾が飛び交う戦場で、真っ直ぐ立ってカメラに向かって状況説明をすることから、伝説上の人物だった。しかし、ベトナム戦争が終わって5年後に48歳の若さで自らの命を絶った。
 「戦争に疲れ果てたという見方もされた」

  安全への逃避 という作品でピュリッツアー賞をとった、日本人カメラマンの沢田教一が、あの川面の家族を撮って数々の栄誉に輝いた時、著者は同じ現場で16㍉ムービー・カメラを回していた。
同じシーン、同じ対象を写したのに差が出たのは、名カメラマン沢田教一と私の『カメラ・アイ』の差であったかもしれない

 「冴えたカンと的確な身のこなしが抜群だった」その沢田も、プノンペンから30数キロの国道2号線で殺される。ベトナム戦争取材で死んだ報道マンは172人にも達っした、という。

 岡村昭彦は、南ベトナム政府から入国禁止処分を受けていた。6年前にジャングルのベトコン解放区に潜入、南ベトナム解放戦線の指導者に単独インタビューしたせいだった。

 1971年2月、南ベトナム政府軍は、電撃的にラオス国内に侵攻した。その2日後、ベトナムに戻れなかったはずの岡村が突然姿を現した。数日後には、報道陣がだれも入れなかったラオス領内に一番乗りして、続けざまに特ダネをものにした。
アメリカ軍補給基地で、アメリカ軍将校と話していた岡村は、目の前に停まった南ベトナム軍の輸送トラックに乗り込む。あまりに堂々としていたので、南ベトナム兵士はアメリカ軍将校が許可を与えたのだと勘違い。ラオス領内奥深くまで岡村を運んだそうだ


 この本を評した2008年11月16日付け産経新聞で、報道写真家の中村梧郎氏は、こう書いている。
 命がけの取材があったからこそ、世界は戦争を知りえた。・・・米国はベトナムでの敗北をメディアのせいにした。その後、取材の自由が奪われた。だから、今もイラク、アフガンで毎日出ているはずの犠牲者の姿は見えにくい


**  
ちょっとピンぼけ
ちょっとピンぼけ
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R.キャパ
文藝春秋
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おすすめ度の平均: 5.0
5 読み物としても面白い上に、キャパがやっぱりカッコいい
5 フォトジャーナリストを目指す若者に
4 死と隣り合わせの職業、ジャーナリズムとは
5 人間くさく生きること
5 やっぱ、キャパは凄い!

2008年11月22日

読書日記「ぼけになりやすい人、なりにくい人」(大友英一著、栄光出版社)


 ガンで死ぬのか、その前にボケるのか?「ボケたら勝ちやで。自分は分からないから」なんて、無責任なことを言う友人もいるが、やはりいろんな人たちに迷惑をかけてしまう。

 そんなことを考えていたら、新聞広告でこの本が目についた。さっそく図書館に申し込んだが、借りられるまで数カ月かかった。そんな心配?をしている人の来館比率が高いということだろうか。

 著者は、浴風会病院という、東京にある老年者専門病院の院長。平成11年発刊と、けっこう古い本だった。

 裏表紙に「大友式ぼけ予測テスト10問」という表が載っている。さっそく、試してみる。
  1. 同じ話を無意識にくり返す(0点=ほとんどない)
  2. 知っている人の名前が思い出せない(2点=ひんぱんにある)
  3. 物のしまい場所を忘れる(1点=ときどきある)
  4. 漢字を忘れる(1点、これはパソコンを使うせいでもある)
  5. 今、しょうとしていることを忘れる(1点)
  6. 器具の説明書を読むのを面倒がる(1点)
  7. 理由もないのに気がふさぐ(0点)
  8. 身だしなみに無関心(0点)
  9. 外出をおっくうがる(0点)
  10. 物(財布など)が見当たらないことを他人のせいにする(0点)

合計6点。本文には「0~8点・正常、9~13点・要注意、14~20点・ボケの始まり?」とある。ぎりぎりセーフだが、もう"要注意"に足を突っ込んでいるようで、いささかショックを受けた。自己採点は甘くなりかねない、という友人もいる。

 ある出版社の社長が、谷川徹三、西堀栄三郎、宇野千代、淡谷のり子などにインタビューし、共通項目をまとめたという「生涯現役の10項目」というのも、おもしろい。
  1. 自ら老けこまず、いつまでも壮年の気概を持っている
  2. 血圧はほとんど正常で、180以上の人は一人もいない
  3. 無頓着で、自分の血液型を知らない人が10人近くいた
  4. 太りすぎの人は一人もいない
  5. 例外もあるが、両親も比較的長命
  6. 大部分の人が大病の経験がない
  7. タバコはほとんどの人が吸わない
  8. 深酒する人は一人もいない。10人以上の人が飲まない
  9. 二、三の例外はあるが、なんらかの運動を心掛けている
  10. ほとんどの人が筆マメである

 深酒をする人は脳血管性痴呆(脳卒中などの後に出るぼけ)になる確率が高いらしい、という箇所が気になる。

 含まれているコレストロール量が多く、"ぼけ防止"のためには「好ましくない食品群」という表も記載されている。

 鶏卵、バター、すじこ、しじみ、鶏のもつ、チョコレート、チーズ、生クリーム、ベーコン、ししゃも、うなぎ、ねりうに、マヨネーズ・・・。

 これだと、日々の食事も、月1回行っている料理教室のメニューも落第、ということになる。先日のブログで書いた「菜菜(なな)ごはん」  のようなレシピが正解ということか。だけど、これらの食品を使わないと「人生、なにか味気ないなあ」という感じがしないでもない。

 著述業、画家、作曲家などクリエート(創作、表現)する職業の人は{一般的にぼけが少ない}とある。その代表は、オーケストラの指揮者。レポルド・ストコフスキーは95歳まで生きた、という。

 「出生時の母親の年令が高いと、アルツハイマー病が出やすい」という記述や、アルミニウムとアルツハイマー病の関係にふれた箇所など、興味を引く話しも多く、流し読みだったが結構おもしろかった。

 結局、飲酒、食事、運動に気を配り、前向きに生きてみる。それが「最善のぼけ防止策」。そんな平凡な読後感になってしまったが・・・。

ぼけになりやすい人、なりにくい人
大友 英一
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5 ぼけを防ぐため今から実行できること


2008年6月24日

読書日記「西の魔女が死んだ」(梨木果歩著、新潮文庫)


 児童書、童話はほとんど読まないのだが、数年前に新聞の読書欄で何人かの童話作家の作品を紹介しているのを見て数冊を購入、そのなかで一番おもしろかったのがこの本。

 童話作家に興味を持っていた娘に紹介したところ、自分のブログに書き込んでいた。
 私もそのうち書こうと思っていたが、映画化されたのを知り、別に追い立てられる必要はなかったのだが、この作品のことを急に書きたくなった。

 中学生になったまい は、登校拒否になってしまい「もう学校には行かない」と宣言する。グループの仲間たちと仲良くするための駆け引きが何となくあさましく思えてきたのでやめたところ、一人ぼっちになってしまったのだ。

 「昔から扱いにくい子だったわ。生きていきにくいタイプの子よねえ」と、単身赴任しているパパに電話しているママの言葉に傷つきながら、自宅から車で1時間ほどの山の中に住むイギリス人の祖母に預けられる。

 木々と草花の庭に囲まれた山荘で鶏を飼い、ノイチゴのジャムを作り、大きなおけに入れた洗濯物を足で踏んで洗い、森のなかにポッコリあいたお気に入りの陽だまりを見つけて"よみがえる"。

 「まい は、魔女って知っていますか」
 祖母が突然、聞いてくる。祖母の母は超能力の力を持つ魔女だったし、祖母もその修行をした。精神を鍛えれば、まい でも魔女になれると祖母は言う。「まず、早寝早起き、食事をしっかり取り、よく運動し、規則正しい生活をする」

 祖母にすっかり乗せられて始まった魔女修行。まい はこう言えるまでに成長する。「おばあちゃんはいつもわたしに自分で決めろと言うけれど、わたし、何だかいつもおばあちゃんの思う方向にうまく誘導されているような気がする」
 おばあちゃんは、目を丸くしてあらぬ方向を見つめ、とぼけた顔をする。

 二人は「死」についても、話し合う。

 「パパは、死んだらもう最後なんだって言った。もう何もわからなくなって自分というものもなくなるんだって」

 「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思います。・・・死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になるということだと思っています」


 パパの単身赴任先に家族が合流して2年後。祖母の急死で山荘に駆けつけたまい は、サンルームの汚れたガラスに指でなぞった跡を見つける。
 
  ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ

  オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ


   WEB検索をしていて、「ほのぼの文庫」というサイトを見つけた。児童書の良書を紹介しているのだが、梨木果歩の作品に出てくる植物の見事なカラーアルバムを楽しむことができる。

 「西の魔女が死んだ」のアルバムでは、まい が最初に祖母とママで作るサンドウイッチにはさんだキンレンカの葉、ジャムにしたワイルドストロベリー、洗濯したシーツを広げて匂いを移すラベンダーの茂み、畑の虫よけに飲ますミントとセージのお茶、作品で大切な役割を果たす朴の木に銀龍草・・・。

 梨木の他の作品「家守綺譚」「からくりからくさ」の植物アルバムもそろっている。たっぷろと楽しませてもらった。

 6月22日付け朝刊に米国バーモント州にすばらしい園芸園を作り、絵本作家としても有名だったターシャ・テューダさん(92)が死去されたという記事が載っていた。「東の国のマジョが死んだ」。合掌!

(追記:2008/7/4) 映画「西の魔女が死んだ」鑑賞記
  大阪ツインタワーの映画館で見てきた。
 いつも、小説などが映画化されたのを見ると、ガッカリしたり、ヘーと思ったり・・・。
 「小説と映画は、別の作品」という思いを強くするのだが、この映画は梨木香歩の世界をかなりうまく再現しているように思える。
 ブログには書かなかったが、ゲンジという隣人との葛藤を通じて成長していく少女まい の心の動きが映像を通じて、小説以上に伝わってくる。
 シャーリー・マックレーンの娘で日本に12年間住んでいたという、祖母役・サチ・パーカーのおっとりした日本語がよい。母親役・りょうの演技もひろい物。
 山梨県清里高原にロケ用に建設され保存されている「魔女の家」には、東京からバスツアーまで出る評判らしい。
 この庭の花を見ながら、ワイルドストロベリー・ジャムを塗ったパンをカリッと・・・。いささか少女趣味すぎるかな?

西の魔女が死んだ (新潮文庫)
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5 著者の最高傑作!
4 ポイントは想像力!?
5 読後感がスゴイ☆
5 ターシャ・チューダーを思い出す
5 祖母が死に際に窓に残したまいへの言葉が素晴らしい

家守綺譚 (新潮文庫)
家守綺譚 (新潮文庫)
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梨木 香歩
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おすすめ度の平均: 4.5
5 心に染みる一冊
5 異界との接点
5 心に根付く
5 読み応えあり
5 日本むかし譚

からくりからくさ (新潮文庫)
梨木 香歩
新潮社
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おすすめ度の平均: 4.0
5 魂の奥深く懐かしい世界
4 心の奥に静かな潤いを感じることのできる佳品
5 大きな影響を受けた一冊
3 大人になったときにもう一度読み返したいです
3 "変容"のとき
 

2008年3月 3日

読書日記「消えたカラヴァジョ」(ジョナサン・ハー・著、田中 靖・訳、岩波書店)

 1月の初めに日経新聞の書評に載っていたのを見て、芦屋市立図書館に貸し出しを申し込んだが、在庫なし。新規購入申し込みをしたら、1週間もたたないうちに手元に届いた。財政赤字に悩む自治体にしては、なかなかやります。

 先週のブログで書いた「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下気規久朗・著、角川選書)に、こんな記述がある。

 「一九九一年、アイルランドの片田舎の僧院から劇的に発見されて話題になったのが《キリストの捕縛》・・・」

 「カラヴァッジョの真筆が世に出るというのは奇跡的であり、しかももっともありえない西洋の辺境から出てきたということで、半信半疑だった人々も、これを一目見た瞬間に、正真正銘のカラヴァッジョだと納得するほどの絵だった」

 「消えたカラヴァジョ」は、この《キリストの捕縛》発見をめぐるノンフィクション。

 著者は、米国マサチューセッツ州在住のノンフィクション・ライター。映画化された前作「シビル・アクション」(1995年)は、全米批評家賞最優秀ノンフィクション賞を受賞している。

 登場人物がどれもユニークなキャラクターで、筋の展開も波乱万丈。イタリア・ローマの街の描写やカラヴァッジョの生涯も詳しく「どこまでが本当のノンフィクションなのか」と少し疑いながら、引き込まれるように読んでしまう。

 訳者の田中 靖は「あとがき」で、この本について
 脚光をあびるのは篤実な一学究とか知られざるアマチュア学者などではなく、跳ねっかえりの現代イタリア娘というところがまずおもしろい。彼女がアドリア海沿岸のはての落魄したイタリア名家の、湿気でじめつきカビ臭い地下文書庫に"潜入"するあたりは思わず胸が躍るし、埃にまみれた財産目録や古帳簿の山から数行たらずの新事実をみつけだすくだりは、まるで宝さがしの物語でも読んでいるような興趣にかられる。
と書いている。

 ナヴォナ広場、トリニタ・ディ・モンティ教会、スペイン広場と、ローマ中を古ぼけた青いスクーターで駆け抜けるヒロインが、文書庫で見つけたのは、『キリストの捕縛』の購入者からカラヴァッジョへの支払い記録。そして、その絵がこっそり海外に持ち出されたことを示す許可証までも。

 舞台は、とつじょアイルランドの首都・ダブリンへ。国立ギャラリーに勤めるイタリア人絵画修復士が、イエズス会の司祭から宿舎(僧院)にある一枚の絵を見てもらうよう頼まれ、一目でそれがカルヴァジョの作品であることを見抜く。

 館長の思惑や一攫千金を夢見る骨董商などがからむなかで、一人の新聞記者が、この世紀の発見をスクープする、というおまけまでついている。

 画竜点睛を欠くのは、肝心の「キリストの捕縛」の絵が、本のカバー表紙の右側に少し載っているだけで、全体の図版が掲載されていないこと。Wikipedia を調べるとありました

 「カラヴァッジョへの旅」のなかで、著者の宮下気規久朗・神戸大学大学院准教授は、この絵について説明している。
 「キリストの衣の鮮やかな赤と青が目を引く。キリストを捕らえにきた兵士たちに合図するためにキリストに接吻するユダを中心に、緊迫したドラマが闇に浮かび上がる。キリストはあきらめたような表情をして指を組む。画面左には、聖書の記述どおり衣を置いて逃げ出す若い弟子がいる。画面右端でランタンを掲げてこの風景をのぞきこむ横顔の男は画家自身である」


 すぐにでもダブリンに飛んで、この絵に会いたい・・・。かなわないであろう、そんな夢が膨らんだ。

消えたカラヴァッジョ
ジョナサン・ハー 田中 靖
岩波書店 (2007/12)
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おすすめ度の平均: 5.0
5 とても気持ちのいい作品です
5 カラバッジョ・ファンは必読