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2019年10月 5日

読書日記「はっとりさんちの狩猟な毎日」(服部小雪著、河出書房新社刊)

はっとりさんちの狩猟な毎日
服部小雪 服部文祥
河出書房新社
売り上げランキング: 19,018


著者・小雪さんは、美大・ワンダーフォーゲル部出身の主婦、40歳過ぎ。横浜の山の手に住む3人の母親。

   その夫君、文祥さんは、山岳雑誌の編集者のかたわら、山に入った時には、原則、現地で食料を調達することを実践している、自称「サバイバル登山家」。
 長男が生まれた直後に「正月に下界にいるなんて、山ヤじゃねえ」と厳冬期の黒部に行ってしまい、小雪さんは「一生うらんでやる」と心に決めた。

 文祥さんが狩猟免許を取り、雄鹿の頭部を持って帰ってきた。友人にもらった業務用パスタ鍋で、生首をゆでた。
 当時2歳だった娘の秋(しゅう)さんは、脳味噌をスプーンで食べさせてもらい「おっと(もっと)」と、ヒナのように口を大きく開けた。

 文祥さんは、犬などを使わないでじっと獲物の鹿を待つ「待ち伏せ猟」をすることが多かった。
 人間の存在に気がつく前に仕留めた鹿の肉はおいしい。「鹿が犬に追われて逃げると、全身の筋肉に血が回ってストレス物質も出るため味が落ちるらしい」
 鹿肉はあっさりした赤身の肉で、噛むと森の香りが広がる。
 「おいしいと感じる穀物や野菜も、幸せな環境で手間暇かけて作られたものだろう」
 「これからもなるべく対話ができる食べ物を身体に取り入れたい。学校や塾で詰め込まれる知識よりも、『食』こそ人生の鍵を握っているのではないかと思っている」

 庭の斜面でニワトリを飼うことになった。ヒヨコもネットで買える。メスのヒナが5羽で3千円、希望すればオス1匹がサービスでついてくる。卵を産まず、交尾のためだけのオスは、一群れに1羽しかいらない。
 飼っているうちにメンドリには羽の色、歩き方、トサカの形など、それぞれに個性があることが分かってきた。脚に色ゴムを結び、てきとうな名前をつける。
 小学3年生になった娘の秋は、ゴムの色を見なくても、一瞬でニワトリが見分けられた。「顔を見りゃわかる」と言う。
 人口孵化器で卵から孵すこともやってみた。なぜかメスが生まれる割合が低い。「日曜日ごとにちびオスをシメて鍋やスープにするのは、さすがに気がめいった」

 次男の玄次郎が高校1年の時に、学校を辞めてしまった。「勉強はいつでも自分でできるから、今は好きな絵を思う存分に描きたい」と言った。父親の文祥は「イバラの道だと思う」と話したうえで「基本的にはお前の意思を尊重して、応援する」と付け加えた。

 NHKの「大自然グルメ百名山」という番組で、夫婦と中学生になった秋、犬のナツで新潟・早出川支流にサバイバル登山をすることになった。
 沢登りをし、夜は雨のなか、タープ(雨よけ用の布)を張って野宿した。
 イワナを渓流で釣って刺身や潮汁にし、トノサマガエルと野草のウルイのソテー、同じ野草のコシアブラ丼。岩場で捕まえたシマヘビは口で皮を剥ぎ、たき火で乾燥させて行動食にした。
 「朝起きたら家族がいて、焚き火があり、温かいお茶と会話があるだけで、どんな山奥にいてもいつも同じ暮らしになる」

 巻末に、文祥さんのエッセイが載っている。

 「私が山登りを続けてきたのは、登山という世界なら理想とする自分に近づけそうだと感じたからである。その理想には少なからず『格好いいホモ・サピエンスでいたい(モテたい)』という願望が含まれていた。モテたいの半分は、あけすけにいうと、繁殖したいという本能だと思う」
 「上手に生きると、楽しく生き残るは、微妙にズレている。楽しく生き延びようと思ったら、あまり常識に囚われてはてはいけない」
 「というわけで、うまいこと、小雪を騙し、なだめ、口説き、ときには聞こえない振りをして、繁殖に成功した」

 なるほど、サバイバルに生きるというのは、人間が"繁殖する動物"であることを自覚することなのだ。

 この著書の半分は、小雪さんが描いた下のようなイラストで埋められている。それが、なんとも楽しい。
 その一端は、アマゾンの画像検索でのぞくことができる。

c3daac48a992caab59d427729ee985e7.jpg  20190629-OYT8I50032-1.jpg  vol42_niwatori_02.jpg 

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

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② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
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⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
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⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2014年5月22日

 ロンドン・パリ紀行①「大英博物館㊤・ライオン狩り壁画と大洪水粘土板」2014年4月26日―5月6日



 この5月の連休、若い友人Yさん夫妻に連れられ同行4人でロンドン、パリに出かけた。事前勉強の半分も体験できなかったが、数々の名作や遺産と出会うすばらしい旅となった。

 行った順序は逆になるのだが、大英博物館から始めたい。「大英」とはおおげさな名前だが、正式名称は「British Museum」。日本がかつて自国を「大日本帝国」と尊大に自称していた時期に日英同盟で親しかったこの国を「大英帝国」と呼んだのが、きっかけらしい。

 いつも若者たちがたむろしていたロンドンの繁華街、ピカデリー・サーカスから地下鉄で3駅目の「ホルボーン」駅を降り、比較的細い通りを右に抜けて5分もかからないうちに、古今の文化遺産を集めた世界最大の博物館が見えてきた。ギリシャ・パルテノン神殿に似せた外装は、いささか意図的?に見える。次回にふれてみたい。

 午前中は同行Mと回り、午後からYさん夫妻と合流して一緒に2時間ツアーに参加する予定だったが、それでも1日ではとても全部は回り切れない。事前にテーマを①アッシリアのライオン狩り壁画など古代メソポタニア文明遺産②アテネ・パルテノン神殿の彫刻群、の2つに絞ることにしていた。

 入口を入ると、白い円筒形の図書室を中心にガラス天井に覆われた光あふれるグランド・ギャラリーに出た。2000年に改造された明るい空間だ。 なんと、創館以来入場料は無料なのだが「5ポンド以上のご協力を」と書かれた透明の募金箱なかに各国通貨やコインが見え、簡単な館内地図を積んだ箱にも「1ポンドの寄付を」とあった。

 左にぐるりと回った入口を入ってすぐの「エジプト室」の中央に、ガラスケースに入った同館最大の人気展示物 「ロゼッタ・ストーン」が展示されていた。周りは、2重、3重の参観者。エジプトでフランス軍が発見したが、その後条約によって仏軍を破った英国に所有権が移り、あのナポレオンを地団駄踏んでくやしがらせたという、いわくつきの遺産だ。長年、エジプトからも返還要求が出ていることは、当然のことだろう。

 それをチラリとみて、左に進んだ第6室入り口両側に、4メートルを超える「アッシリアの守護獣神像」が1対デンと据えられていた。頭は人間の顔をした神、身体は翼を持つ牝牛だという。斜め後ろから見ると5本脚。所々に細かいヒビが入っているが、買い取った(英国人)が解体して運んだキズ跡らしい。
   正面に見えるのは「バラワートの門」と呼ばれる青銅帯で補強された杉材の門扉(紀元前9世紀)のレプリカ。

 その隣10室aの両面の壁には「アッシュール・バニパール王の獅子狩り(紀元前7世紀)」をテーマにしたレリーフ(浮き彫り壁画)が次々と掲示されており、長い歴史を越えて生々としたエネルギーで迫ってくる。

 舞台は、長い槍と弓に矢をつないだ兵士の長い2重の列で囲まれた王の狩猟場だ。そこにライオンが放たれ、王自らが戦車で乗り込み、矢を放ち、槍を投げてライオンを仕留める。  戦車に襲いかかったものの、王のナイフと兵士の槍にのど元を突かれ頭を天に向ける雄ライオン。3本の矢を受け瀕死の雄ライオン、その後ろに同じように矢を3本つけたまま必至で雄に1歩でも近づこうともがく雌ライオン。それらの表情はなぜか王や兵士以上に生々しく、ライオンや戦車の馬の筋肉表現がすばらしい。

 ロンドンへの機中で読んだ「シュメル―人類最古の文明」(小林登志子著、中公文庫)には、こう書かれていた。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)
小林 登志子
中央公論新社
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 当時、アッシリアにはライオンがいた。ライオン狩りは武人としての訓練、スポーツの要素を持つとともに宗教的儀式だった。ライオンが「魔」を象徴し、その「魔」を仕留めることで王が宇宙の秩序を整えるという意味があったという。


 この本を読むまで気づかなかったが、ライオン狩りをするバニバル王の腰には2本の葦ペンがはさんである。

 アッシリアやシュメール文明を生んだ古代メソポタニア(現在のイラク)を囲むチグリス ユーフラテス川畔には太さ2,3センチもある葦が自生していた、という。

この葦ペンを使って古代メソポタニア人は、世界最古の文字楔形文字を生み、粘土板に様々な記録を書きつけた。

 文武両道の人であったアッシュール・バニパール王は、多くの粘土板記録を集め、 アッシュール・バニパールの図書館と呼ばれる世界最古の図書館まで作ってしまった。

 19世紀にその遺物の一部が発見され、大英博物館は、2002年からイラン・モスル大学と協力し、土に埋もれた粘土板遺産を発掘し、そのほとんど3万点以上が同博物館に所蔵されている、という。

 そのなかでも見逃せない1品「洪水タブレット」があるという、ので2階北側55室に向かった。古代メソポタミアの 「大洪水伝説」を記録したもの、という。

 縦横10数センチの粘土板の表裏にびっしりと楔形文字が横書きされている。古代メソポタミアの文学作品 「ギルガメッシュ叙事詩」第11章の写本である。

 ウトナピシュティムは、神々が洪水を起したときの話をする。エア神の説明により、ウトナピシュティムは船をつくり、自分と自分の家族、船大工、全ての動物を乗船させる。 6日間の嵐の後に人間は粘土になる。ウトナピシュティムの船はニシル山の頂上に着地。 その7日後、ウトナピシュティムは、鳩、ツバメ、カラスを放つ。ウトナピシュティムは船を開け、乗船者を解放した後、神に生け贄を捧げる。エンリル神はウトナピシュティムに永遠の命を与え、ウトナピシュティムは2つの川の合流地点に住む。


 なんと、 旧約聖書に書かれた「ノアの箱舟」の源流は、紀元前3000年近い前に描かれた作品にあったのだ。

 55室の西側にある56室は、シュメール・ ウル期の王墓から発掘された「牡山羊の像」、世界最古の「ゲーム盤」などの逸品が並んでいる。期待していた 「ウルのスタンダード」(旗章と訳されているが、本当は楽器の共鳴板らしい)という小さなモザイクの箱は「テンンポラリー リムーブド」(一時的に移動しました)という表示と一緒に、両面を写真で映した紙製の模型だけが展示されていた。修復のためらしい。

 これらの遺産が発掘された王墓は、シュメール文明では 「ジッグラト」と呼ばれるらしい。焼き煉瓦で天に伸びる何層もの階段状の塔を築き、その上部に神殿を設けてシュメールの神をまつった、という。

 まさに、旧約聖書に書かれている「バベルの塔」のルーツとしか思えない。

 その遺跡の多くが、 今回のイラク戦争で破壊された、と聞く。「多くは、アメリカ軍の行為」と、あるWEBページは批判する。

午後の館内ツアーの最後ごろ。ツアーガイドのSさんが2階のエジプト室を出た時に、こんなことをつぶやいた。

 「旧約聖書にある 出エジプト記で、モーゼが海を切り開いたという奇跡。これは、地中海の サントリニ島の火山爆発による事実、という説もあるのです」

長い年月をかけて語り、書き続けられてきたのであろう旧約聖書。それを生んだ土壌、記述のルーツをこの大英博物館で垣間見ることなど、大英博物館来るまで想像もしていなかった。

新約聖書の神と比べ、あまりに人に厳しい旧約の神が、少し身近に感じられるような気がしてきた。

 午後5:30の閉館直前に、地下のセルフサービスのカフェテリアにはいった。紅茶と一緒に、スコーン クロテッドクリームとイチゴジャムをたっぷりつけて食べた。「まずい」と評判のイギリスの"おいしい"味だった。

写真集:ロンドン大英博物館など

開館直後の大英博物館;クリックすると大きな写真になります。 グランド・ギャラリーのショップ付近;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアの守護獣神像;クリックすると大きな写真になります。 P1040351.JPG
開館直後の大英博物館 グランド・ギャラリーのショップ付近 アッシリアの守護獣神像 アッシリアノライオン狩りレリーフ①
アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 王墓で発掘された「牝山羊の像;クリックすると大きな写真になります。
アッシリアノライオン狩りレリーフ② アッシリアノライオン狩りレリーフ③ アッシリアノライオン狩りレリーフ④ アッシリアノライオン狩りレリーフ⑤
王墓で見つかった「牡山羊の像」;クリックすると大きな写真になります。 「ウルのスタンダード」の模型;クリックすると大きな写真になります。 世界最古のゲーム盤;クリックすると大きな写真になります。 元・図書館のグランド・コート;クリックすると大きな写真になります。
王墓で見つかった「牡山羊の像」 「ウルのスタンダード」の模型 世界最古のゲーム盤 元・図書館のグランド・コート。「ロゼッタ・ストーン」のレプリカがあり、手でさわれる


2013年10月 9日

読書日記「ひと皿の記憶」(四方田犬彦著、ちくま文庫)、「にっぽん全国 百年食堂」(椎名誠著、講談社)、「浅草のおんな」(伊集院静著、文藝春秋)

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)
四方田 犬彦
筑摩書房
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にっぽん全国 百年食堂
椎名 誠
講談社
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 残暑の秋に読んだ食へのこだわり関連本3冊。

 「ひと皿の記憶」には「食神、世界をめぐる」という副題がついている。 著者の本は、数年前に 「四方田犬彦の引っ越し人生」(交通新聞社刊)を読んだことがあるが、日本や世界各地の大学で教べんを取るかたわら、各地の食にこだわり続けたエッセイスト。著書は100冊を越えるという。

 著者が育った大阪・箕面近くの「伊丹の酒粕」から始まって「神戸の洋菓子」「金沢のクナリャ(深海魚の一種)」、そして韓国、台湾、中国、バンコクなどの東南アジア、イタリア、デンマーク、フランスと、つきることなく「ひと皿」への思いが記される。それも高級料理店でない庶民の味に徹しており、読み進むごとに垂ぜんの味わいを楽しめる随筆である。

   
粕汁とは不思議なスープ、いやシチューである。魚やいろいろな野菜を水煮し、そこに酒粕と味噌を流し込んでさらに煮込む。・・・この汁には味檜汁や澄まし汁にはない独特の重たげな魅力があり、一口でも口に含むだけで腹がしっかりと温まる気持ちになった。いうまでもなくそれには酒粕から滲み出るアルコールが作用していたに違いない。加えて白濁した汁の合間に覗く紅い人参や色が透けかかった大根、細かく刻まれた黄色い油揚げといった組み合わせが・・・愉しげな抽象絵画のように思われてくるのだった。


 
(北京の朝)市場のすぐわきの路地に入ると早々と小食店が開いていて、すでに何人もが仕事前の食事をしている。北京では 豆腐脳(トウフナオ)、南方では豆花(タウファー)といって、ひどく柔らかい豆腐椀に盛り、好みで辣油をかけて食べる。店先では大鍋に煮え滾った油のなかで、直径三〇センチほどの巨大な素妙餅(スウチャオビン)が揚げられている。しばらく店内を見回してみると豆腐脳はこの餅を千切りながら匙で口に運ぶものらしいと、見当がついてくる。揚たてのパリパリとした餅と、匙で掬おうとしても崩れてしまうほどに柔らかい豆腐脳の組み合わせには、絶妙なものがある。


 牡蠣のついての記述も多い。とくにこれまで3回訪ねた米国・ニューヨークで計10回近く通ったグランド・セントラル駅の「オイスターバア」についても書かれている。

 
そこには主にアメリカの東海岸で採られた、実に多様な牡蠣があった。ずんぐりとした殻をもつブラスドールもあれば、底の深いブロンも、強い刻み目をもつキルセンもあった。一番巨大な牡蠣をと狙ってメーンを注文したところ、水っぽすぎて落胆したこともあった。もっとも小さいのはカタイグチと呼ばれ、伝説の牡蠣クマモトの一統だった。わたしは最初に訪れたときには盛り合わせを頼み、それからは気に入ったものを半ダースほど改めて注文することで、少しずつ牡蠣の個性を学んでいった。


 デンマーク・コペンハーゲンのスモーブローについての記述も、かってこの街に行った時に何軒もの店頭で見つけたことがなつかしい。バターをたっぷり塗ったパンの上にサーモンやニシンなどの具材をトッピングしたものだが、なにか寿司の"デンマーク版"と感じた覚えがある。

 「ロンドンにおいていい食堂を見分ける5つの条件」という項もある。フイッシュ&チップスの名店や鰻の煮こごりの店が記述されている。いつかロンドンを訪ねる機会があれば参考にしようと思う。

 この本の最後近くに出てくる「肉」についてのうんちくは、世界中で食べ歩いた著者の真骨頂だろう。

 
牛肉はそれ自体で自立した味の個性をもち、どのように調理されても自分のアイデンティティを崩すことがない。ローストビーフであれ、カルビ焼きであれ、そもそも牛の調理とは、いかにその本来の肉の味を引き出すかという一点にかかっている。だが牛は、どこまで行っても牛肉が牛という宿命から逃れることができない。中華料理において素材としての牛肉が豚肉と比べて圧倒的に不振であるのは、もっぱらこの自己完結性によるものである。羊の強烈な個性にしても同様。羊であることを消し去って羊料理を作ることはできない。鴨またしかり。では逆に鶏は、兎はどうだろう。鶏は鴨とは逆に、味が万事において控えめであり、とても塩漬けや角煮といった荒事に向きそうにない。兎は先天的に脂気が欠けているので、しばしばベーコンなどを添えて調理しなければならない。こうして一長一短がある他の肉と比べてみたとき、豚の卓越性は否定しようがない。人間がもっぱら食べるためだけに改良を重ねてきたプロの肉という気がするのである。


 「にっぽん全国 百年食堂」は、雑誌「自遊人」に2008年7月号から2011年11月号連載されたものを単行本にしたもの。 著者が編集者3人と全国の地方都市で百年前後続いている大衆食堂を延々と食べ歩く。

 先取の気概に満ちている県民性の新潟には、洋食をいち早く取り入れた百年食堂の候補がいっぱいあるという。
   「元祖洋食レストラン キリン」の代表メニューは、オムライス。 「鍋とフライパンを上手に使い、タマゴは殆ど半焼けぐらいの状態でかまわずそこにチキンライスをのせてドバッと皿の上にひっくりかえすともう完成」(千二百円)
 上野・精養軒で修業した先々代が、コメがうまいからという理由だけで新潟に来て「首が長いから長持ちするだろう」と、かなりいい加減な理屈で店名を決めた。

 長野県の小諸駅前にある 「揚羽屋」は、島崎藤村直筆の看板がある店として有名。藤村は「千曲川のスケッチ」のなかで、こう書いている、という。
 「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った」

 茨城県水戸市の 「富士食堂」は、メニューが百種類はある「フアミリーレストラン」の元祖。味はもうひとつだが、著者はこう書く。
 「要するに『土地のヒトが安心する味』というのが厳然としてあって、これを東京で流行っている味だの盛りつけだのにしてしまうと、百年食堂でなくなってしまう、という数値であらわせない『長続きの公式』があるような気がする」

 北海道古平町の 「堀食堂」は、かってニシン漁が盛んだった頃の開店。
 ラーメンにエビの天ぷらが二本のった「天ぷらラーメン」や鶏肉にヒミツの味つけをして衣をつけて揚げた「ザンギ定食」など重労働のヤン衆に好まれそうなメニューが人気だが「実は、二つともニシン漁がすたれた後に始めたもの」と聞いて、取材の一行は不思議そうな顔。

 北海道釧路市の 「竹老園 東家総本店」は、御殿のような造りで、観光バスで団体客がやって来るほど人気のある蕎麦屋。
 極上の上更科粉に新鮮な卵黄をつなぎにしている「藍切りそば」など、蕎麦の種類で変えている「つゆ」がどれもうまく「百年のあいだに積み重ねられた、本物の老舗の味」。暖簾分けで26軒の支店がある、というのもすごい。

 千葉県野田市の 「やよい食堂」は「大盛り」で超有名。
 一人前で、4,5合使うカレーやカツ丼は、皿や丼からこぼれてもよいように受け皿がついている。「安い値段でお腹いっぱい食べさせてあげたい」という思いがふくらみ、歴史を重ねるごとに盛りが大きくなったという。タマネギと肉だけの昔ながらのカレーライスが一番人気だが、大盛りで五百八十円という安さ。

 取材の最後近くで、著者はこう結論付ける。
 「地元の人の好みに変わらず応える味と人間づきあいが、百年を生きる正直な原動力になっている」
 そして駐車場が大きく、厨房が広くて清潔で使用人が沢山いて活気があるのが、流行っている「百年食堂」の二大ポイントだという。

   「あさくさの女」は、伊集院静らしい哀感あふれる艶っぽい小説だが、主人公が浅草の小さな居酒屋の女主人だから、出て来る酒の肴の描写がなかなかいい。

 
志万はすぐに裏に行き、朝方干しておいた柳鰈(やなぎがれい)を取り込み、灰汁(あく)抜きの蕨(わらび)を漬けておいた金ボウルを手に調理場に入った。冷蔵庫の中から朝のうちに開いておいたぐじを包んだ布をほどいた。ふたつの小鍋に火を入れ、 がめ煮と、京菜油揚げの炊き合わせの準備にかかった。氷水を金ボウルに入れ、そこに鰺をつけ、・・・。真空パックから白魚を出す。・・・鍋を洗って天豆(そらまめ)を湯搔(ゆが)く。・・・


 
今日の一番はちらし寿司である。留次が好きだった鯯(つなし)をたっぷりまぶしたちらしである。店裏からいい匂いがしてきた。美智江が椎茸を煮込みはじめている。志万はサヤエンドウを湯搔いている。冷蔵庫から鮪(まぐろ)を出して柵(さく)に分けていく。


 
「ほう、突き出しが天豆に鱲子(からすみ)とは、この不況でもここだけは贅沢だね」
 「贅沢じゃなくて親切でしょう。春から、"志万田(しまだ)"は料金を安くしてくれてるのよ」・・・
 「(肴は)きんぴら、インゲンのゴマ和え、じゅんさい」・・・
 「・・・私は鱧に鴨ロース、それにポテトサラダ」


 

2013年5月29日

 トルコ紀行・上「イスタンブール」(2013・4・27―5・6)



 トルコ・イスタンブールのアタテュルク空港に着いたのは、4月28日の早朝6時前だった。

 さっそく、空港の銀行出張所で日本円3万円をトルコリラ(TL)に替える。ガイドブックには1TL=40円と書いてあったが、急激に進んだ円安で、関西空港の両替所では1TL=75円と言われてびっくり。アタテュルク空港では55・5円だった。しかし、超円高が続いた1年も前に友人が先行して格安往復航空券を手に入れてくれていたから、おかげで気分は悠々である。

 予約しておいたタクシーは、高台に世界遺産の トプカプ宮殿を望む ボスポラス海峡沿いの旧市街地を快適に飛ばす。
 道沿いに 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代の古いレンガ造りの城壁が続いている。

 機中で読んだ塩野七生の 「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)によると、現在の新市街に布陣したオスマントルコ軍の大砲から飛んでくる巨大な石弾が難攻不落といわれた城壁を壊し、 コンスタンティノープル(現在の イスタンブール)市民を震撼させたらしい。
 しかし、主戦場は北西の陸側城門の攻防だったから、海峡沿いの城壁は現在でもよく保存されているように見える。

旧市街から金角湾を渡るガラダ橋を通り新市街地に。早朝から橋の2階歩道から釣り人が長い糸をたれている。1階はすべて魚専門のレストランフロワーで、釣りは禁止らしい。釣り人の収穫のほとんどは、イワシかベラに似た赤っぽい小魚。昼食に1階の店で食べてみたが、唐揚げにレモンと塩が結構いけた。

新市街の高台にあるホテルに荷物を置き、先行していた友人ら計4人で、タクシム広場から、イスタンタンブール最大の繁華街「イスティイクラル通り」を港の方へ下る。

1両編成の赤いアインティーク調の路面電車と車数台が時々行き交うだけで、ほとんど歩行者天国。朝食の定番というトマトやレンズ豆のチョルバ(スープ)がいける。特産のナッツ屋、蜂蜜などを使ったお菓子屋、伸びるアイスクリーム・、ドンヅオウルマの店、「濡れハンバーク(パンの上下を特製ソースに浸けてある)」は意外にうまい。
魚市場「バルック・バザール」というアーケードに入る。友人が揚げるのを試したムール貝の串揚げを楽しみ、貝に詰めたムール貝のピラフは少々冷たい。欧米にも広がっているという 「ドネル・ケパブ」(回転焼肉)は、ほとんどの店が焼く準備中だった。

イスラム教の国なのに、道沿いに様々な宗教の教会があるのが、不思議だった。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後、イスタンブールと名前を変えたこの都市をヨーロッパとアジアを結ぶ世界都市とするため、他宗教の施設を認め、移民を奨励した。住民の4割ほどが ムスリム(イスラム教徒)以外が占める政策を取った。

「オスマン帝国」(講談社現代新書)の著者・鈴木薫は、これを「イスラム世界の『柔らかい専制』」と名付けている。

イスラム教では、礼拝堂・ モスクの大規模なものを「ジャーミイ」と呼ぶ。イスティイクラル通りに入ってすぐ北の路地にある「アー・ジャーミイ」に入ってみようと思ったが、道沿いのベンチで トルココーヒーをすすっていた男性が「2ヶ月後まで工事中。この裏のバザールはやっているよ」と巧みな日本語で教えてくれた。

 ちょうど日曜日。通りの左にあるカトリックの聖アントニオ教会では、朝8時からのミサの最中で欧米からの観光客もいて超満員だった。ビザンチン時代の1221年に修道院ができ、オスマン時代の木造教会はなんどか火災で損傷、1912年に現在の バジリカ方式のレンガ造り教会になった。イスタンブール最大のカトリック教会で、完成の時にはローマから代表団も来た、という。

 翌週、土曜日の朝、再びイスティイクラル通りを歩いていて、聖アントニオ教会の向かいに ギリシャ正教の大理石造りらしい教会を見つけた。

 入ってみて驚いた。白いあごひげを付け赤い祭服に金色の ミトラ(宝冠)をかぶった 主教が、司祭たちに抱えさせた幅1・5メートルはある竹籠にあふれた月桂樹らしい葉を群がり寄る老若男女の体に投げ、祝福を与えているのだ。なぜだか、参加者の顔が喜びに輝いている。

 なんとギリシャ正教では、翌日5月5日が、十字架上で死んだキリストの復活を祝う 復活祭(イースター)なのだ。カトリック教会では3月31日に終わっているだが、両教会の暦の違いらしい。カリック教会では、前日の聖土曜日は静かな祈りのうちに過ごすが、ギリシャ正教会では、 聖大スポタと呼び、キリストの復活を先取りするお祝いをするようだ。

 ちなみに、来年のイースターはギリシャ正教、カトリックとも4月21日・・・。

 ギリシャ正教を統括する 「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、コンスタンティノーブル没落後も スルターン メフメト2世に許され、今だにここコンスタンティノーブルの金角湾沿いの教会内にある。

 「民族も宗教も異にする多種多様な人々をゆるやかに包み込む」(前述「オスマン帝国」)「"柔らかい専制"」は、世界の歴史でも、あまり例がないのではないかと思う。

  「イスタンブル」(長場紘著、慶応義塾大学出版会)によると、現在イスタンブールには2000近いモスクがあるが、オスマンに滅ぼされたギリシャ正教教会が80,シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)15,キリスト教がカトリック、プロテスタントを合わせて10,その他アルメニア正教20,その他にロシア正教、ブルガリア正教、アルメニア・カトリック・・・。

 そんな宗教建築に混じって、欧米の観光客、スカーフ姿のトルコ女性やアジア系の人も多く、ちょっと他では見られない世界都市の風景が描き出されている。

 スルターンは勝利後、3日間の略奪は許したが、捕虜になることを免れた旧市民は保護され、帰宅させた。港に寄留していた ジェノヴァ人の多くも保護された。

 ユダヤ人地区が旧住民の攻撃を受けた際には、自らの軍隊で撃退し、これを知ったエジプトなどから多くのユダヤ人も移民してきた。

 一方で、スルターンは、かってのギリシャ正教総主教座聖堂 「ハギ・ソフイア聖堂(現在の世界遺産『アヤソフイア博物館』)」など多くのキリスト教会を、イスラム教のモスクに変えた。

改造されたモスクでは、堂内正面にメッカに向かって礼拝するための 「ミフラーブ」と呼ばれるアーチ型の壁が作られた、イスラム教には、祭壇はない。博物館になっているアヤソフイアでは、旧祭壇に横にメッカに方向を向いたミフラーブが斜めの方向に向けて作られていた。

礼拝への誘い 「アザーン」を肉声で呼びかけるための尖塔 (ミナレット)も何本かモスク脇に建設された。

 今では、肉声に代って拡声器で「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なるかな)」に始まる、祈りへの誘いが、イスタンブールの街中に流れる。

 男たちは、この拡声器に誘われるようにモスクにやってきて、水場で足と手を洗い、顔を水でぬぐって、モスクに入っていく。礼拝の時間は30分ほどだが「夜明け、夜明け以降、三回目は影が自分の身長と同じになるまで、そして日没から日がなくなるまで、最後は夜」の計5回。
 といっても、集まって来るのは、1回に5,60人程度だ。それに比べると。路地のベンチでコーヒーやチャ(紅茶のこと、オレンジ・チャがうまい!)を飲んでいる男性のほうが多いように見える。

 女性の姿があまり見えないが、1日ツアーのガイドに聞くと「ほとんど家で祈る」という。モスクに来ても、入り口近くの透かし壁で囲まれた狭い空間で祈っている。厳しい"男尊女卑"に同行した女性軍は憤慨気味である。

 スカーフから衣装まで黒尽くめの女性は意外に少ない。多くの女性は青スーツに紫のスカーーフを合わせたりして、なかなかファッショナブルだ。トルコ・民主制の成果だろうか、スカーフで顔を隠さない女性も多い。エジプシャンバザールのコーヒー売り場で、スカーフをしていない女性にカメラを向けたたら、にらみ返された。

  「偶像礼拝を禁ずる」イスラムの教えにそって、モスクに変わったキリスト教会の聖像などは取り外されたり、白い漆喰で塗りつぶされたりはしたが、柱や大ドームの見事なビザンチン壁画は、幸いそのまま残された。

   「アヤソフイア博物館」では、1931年、アメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領・ アタテュルクは、翌年ここを博物館とし、一般公開した。

 同じような事情で現代にまで生き残ったというビザンチン壁画を、どうしても見たいと思った。

カーリエ博物館(旧コーラ修道院)は、コンスタンティノープル陥落のきっかけになった、テオドシウスの城壁の近くにある。ホテルからは、地下ケーブルカーとトラム2本を乗り継いで行く。駅員は「駅か博物館までは分かりにくい」と・・・。

 車中で一緒になったハンガリーの若い男女4人と一緒になって探す。結局、見つけたのは「年の功」の我々だった。入る前に、道路を隔てたレストランにはいったが、アルコールル禁止だったので、しぼりたてのザクロのジュースでのどをうるおした。悠々と「水パイプ」を楽しむ客もいた。

 カーリエ博物館は、小さな庭に囲まれたレンガ造りの小づくりの建物。モスクに変えさ世良田ことを示す尖塔も1本残っている。20世紀中頃に、やはりアメリカのビザンツ研究所によって、13,14世紀に描かれたキリストや聖母マリアのモザイク画が発見された。天井や壁に描かれた見事なモザイク画を、欧米から来たと思われる観光客がほうけたように見上げている。歴史が、現代に生き返った輝きを実感する。

   ビザンチン美術だけでなく、イスラム社会が生んだ芸術にも圧倒され続けた。

 シルエットが美しいイエニ・ジャーミイ、香辛料はじめ食料品を買う客でごった返すエジプシャンバザールを楽しみ、店舗の間の狭い石段をやっと見つけ、 「リュステム・パシャ・ジャーミイ」にたどり着いた。

 ここは、訪れる観光客はおおくないが、外壁や内部の柱などをおおう 「イズミック・タイル」の美しさに目を見張る。とくに、トルコ特産のチューリップの赤とコバルトブルーの対比にはいつまでも見飽きない。

 歴史地区・スルタンアメフット地区の中心にある スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)は、朝から観光客の長い列ができていた。
 信徒とは別の入口から入り、スカーフを持たない女性は入り口で貸してもらい、男女とも靴を脱いで入る。

 同じイスラム教の国でも、サウジアラビアのメッカなどにはイスラム教徒しか入れない、という。こここにも「柔らかい専制」の伝統が生きているのだろうか。

 内部は数万枚の青いイズニクタイルで飾られ、大ドームを飾る260ものステンドグラスの窓からもれる光で青く輝いている。6つの尖塔を持つのも、世界でこのモスクだけだという。

 「トプカプ宮殿」は現在は博物館になっているが、最後の展示室は、イスラム教の開祖者であるモハメッド( ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ) の白髪、モハメッドの「足型」など、モハメッドを"神聖化"する陳列物が目白押しに置いてある。

 しかしイスラム教ではモハメッドは、モーゼ、イエス・キリストに続く最後の預言者である、という位置づけをしており、神は 「アッラー」と呼ぶ。

 つまり、イスラム教では「キリストを人間と認めながら、神性はきっぱりと否定」しているのだ。キリスト教とは、まったく相容れない宗教である。

 イスラムの聖典 「コーラン」の日本語訳を見ると「聖母マリア」の項があってびっくりする。「コーラン」には、聖書と似たところや矛盾する記述があり、簡単には理解できそうにない。

 そして、そのイスラム世界にイスラエルがカネの力で国を建設して以来、パレスチナでイラク、レバノン、シリアで・・・民族間の紛争が絶え間ない。

 昔の「柔らかい専制(共和制)」をイスタンブールの街に見つけながら、それとはほど遠い、現実の世界にりつ然とするしかないのである。

トルコ旅行写真集

下に掲載した写真はクリックすると大きくなります。また、拡大写真の左部分をクリックすると一枚前の写真が、右部分をクリックすると次の写真が表示されます。キーボードの [→] [←] キーでも戻ったり、次の写真をスライドショウ的に見ることができます。
「濡れハンバーク」;クリックすると大きな写真になります 魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ;クリックすると大きな写真になります 開店準備中の野菜・果物店;クリックすると大きな写真になります 聖アントニオ・カトリック教会;クリックすると大きな写真になります トルコ特産、ナッツ専門店;クリックすると大きな写真になります
「濡れハンバーク」
 約140円
魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ 開店準備中の野菜・果物店 聖アントニオ・カトリック教会 トルコ特産、ナッツ専門店
ドネル・ケバブは、焼く準備中;クリックすると大きな写真になります トルコの炉端焼き盛り合わせ;クリックすると大きな写真になります 朝食はスープにパン、チャが定番;クリックすると大きな写真になります ブルーモスク;クリックすると大きな写真になります 港沿いイエニ・ジャーミイ;クリックすると大きな写真になります
ドネル・ケバブは、焼く準備中 トルコの炉端焼き盛り合わせ 朝食はスープにパン、チャが定番 ブルーモスク 港沿いイエニ・ジャーミイ
エミノニュ港名物「サバサンド」;クリックすると大きな写真になります ごった返すエジプシャン・バザール;クリックすると大きな写真になります 長い列ができるトルココーヒー店;クリックすると大きな写真になります 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・;クリックすると大きな写真になります リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂;クリックすると大きな写真になります
エミノニュ港名物「サバサンド」。生タマネギとレタスもたっぷり ごった返すエジプシャン・バザール 長い列ができるトルココーヒー店 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・ リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所;クリックすると大きな写真になります ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所;クリックすると大きな写真になります ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地;クリックすると大きな写真になります レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する;クリックすると大きな写真になります 元気なトルコの女性たちら;クリックすると大きな写真になります
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所 ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所 ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地 レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する 元気なトルコの女性たちら
アヤソフイア博物館;クリックすると大きな写真になります 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい);クリックすると大きな写真になります 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト;クリックすると大きな写真になります 聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります
アヤソフイア博物館 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい) 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト 聖母子のモザイク
キリスと皇后ゾエら;クリックすると大きな写真になります ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿;クリックすると大きな写真になります 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像;クリックすると大きな写真になります トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい;クリックすると大きな写真になります 斬新なデザインに驚く「植物の間;クリックすると大きな写真になります
キリストと皇后ゾエラ ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像 トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい 斬新なデザインに驚く「植物の間
宮殿の中庭。対岸は新市街;クリックすると大きな写真になります 閑散とした6時過ぎのグランドバザール;クリックすると大きな写真になります 陶器を物色するトルコ人母子;クリックすると大きな写真になります ディナー付きベリーダンスショー;クリックすると大きな写真になります イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会;クリックすると大きな写真になります
宮殿の中庭。対岸は新市街 閑散とした6時過ぎのグランドバザール 陶器を物色するトルコ人母子 ディナー付きベリーダンスショー イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています);クリックすると大きな写真になります
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています)


  
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2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
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池澤 夏樹
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2010年6月23日

「デンマーク紀行」(20104・29-5.5)・下

 デンマークから帰ってから、同行した友人Mが知り合いの骨董屋の亭主から、こんなことを聞いてきた。「あそこは"世界一美しい美術館"と言われているんです」

 ルイジアナ現代美術館。デンマーク語とは思えないこの美術館の名前は、オーナーの妻の名から取られたものらしい。クロンボー城のあるヘルシオンの3つ手前のフムレベック駅から歩いて15分ほどの住宅地のなかにある。
 ツタに囲まれた瀟洒な邸宅のドアーを押すと世界が一変する。ガラス張りの明るいロビーが広がり、大きなガラスと木の柱と天井でできた渡り廊下が直角に曲がり、曲線を描いて伸びていく。その向こうには、大木と芝生の庭園、スエーデンを臨むオアスン海峡の碧い海。
  渡り廊下の曲り角に、そして池を臨む吹き抜けのガラス窓の脇に、ジャコメッティの作品がさりげなく置かれている。この彫刻家の作品は今年2月、ロンドンでのオークションで94億円もの高値で落札されたばかりだ。
 美術館のホームページでは、広い展示場の真ん中に展示されている巨大な金色の親指像が、行った日はなぜか、人でごった返すカフエの片隅にデンと据えられていた。

 渡り廊下が結ぶ建物は、庭と碧い海に溶け込むように建っている。大きな建物は地下に潜っている。5期にわたる拡張工事で一番大切にされたのは、周囲の環境との調和だった、という。
 「デンマーク デザインの国」(島崎 信著、学芸出版社)という本には、この美術館について「池と踏み石や、庭木の配置なども、日本の建物と庭・・・から大きな影響を受けたと設計者自身が述べている」と書かれている。
 そう言えば、渡り廊下から柳と笹の木越しに見えた庭の一隅。濃い緑のツタに埋もれた石柱の向こうにあった石像は、なにか"お地蔵さん"に似ていたような。

 午前中の雨もやっと止んだ。庭園にあるヘンリー・ムーアアレクサンダー・カルダーイサム・ノグチの作品群をなんども巡回、大木を仰ぐ。入り江に降りる階段に座ってほおづえを突く。北海の時間が悠々と過ぎてゆく・・・。

 帰りはバスに乗ろうと思って、つい大勢の人が待っていたのにつられてヘルシオンの街まで戻ってしまった。
 おかげで約20分。デンマークのリビエラといわれる美しい海岸線を満喫。茅葺の屋根を載せたコテッジがいくつもあった。

 朝の9時半すぎにアメリエンボー宮殿に着いたら、今は宝物展示室になっているクリスチャン8世王宮殿の前にもう観光客の長い列ができていた。
 隣の宮殿にはデンマーク国旗が翻っていたから、現・女王が在宮しておられるということらしい。その隣の宮殿は国賓のレセプションルームとして使われ、もう1つは宮内庁。4つの宮殿が広場を囲んでいる。どこかの国とは大違いの簡素ぶりだ。
 宮殿の周りを熊の毛皮帽をかぶった衛兵が巡回している。衛兵の赤い待機小屋をよく見ると、ハート型ののぞき穴があいている。これも、デンマーク・デザイン?

   時間つぶしに近くのチャーチル公園を歩き、有名デザイナーのものらしいオフイス・チェアのショウルームをのぞき、デンマーク工芸博物館で午前11時の開館を待つ。デザイン専攻らしい3人の若者も自転車でやってきた。元は王立の病院だったらしい。

 入って左側すぐのところが日本や中国の日用品展示コーナーで、寿司屋のノレンやヒノキの風呂まで並んでいる。デンマークのモダン様式デザインを創設したアルネ・ヤコブセンが生涯作り続けた簡素なチェアのコーナーや歩行者天国・ストロイエに本店のあるロイヤル・コペンハーゲンの作品群、細く長い木箱に保存されている精緻な刺繍コレクションの前で、デザイン好きの友人は動こうとしない。

 アルネ・ヤコブセンといえば、コペンハーゲン滞在中に泊ったSASロイヤルホテル も、この人が1960年に設計し"デザイン・ホテル"と呼ばれる。20階建て、ガラス張りの高層ビルは市内のどこからも探せて、旅行者には便利だが、当時の市民は驚いたことだろう。
 建物だけでなく、家具、照明、テキスタイル、ナイフやスプーンまでデザインしている。一階カフェにある皮張りの「セブンチェア」や筒型の「AJランプ」、最上階のレストランにある、体を包み込むような「スワンチェア」、ロビーの「エッグチェア」。いまだに作り続けられている逸品である。

 「質素でも実り多い生活、自立のための福祉、木への愛着・・・」
先の本の著者、島崎 新・武蔵野美術大学名誉教授は、デンマークのデザイン力を支えるものとして、こんなことを挙げている。

そんな現場にふれられる機会が来る日を夢みつつ・・・。

デンマーク紀行写真集 3
ルイジアナ現代美術館;クリックすると大きな写真になります中国人作家の作品;クリックすると大きな写真になります廊下から見る石庭;クリックすると大きな写真になります彫刻と海、空、庭園のコラボレーション;クリックすると大きな写真になります
池を臨むロビーのそこかしこに、ジャコメッティの作品が(ルイジアナ現代美術館で)屋内展示場で展示されている中国人作家の作品ガラス張りの廊下から見る石庭彫刻と海、空、庭園のコラボレーション
ヘンリー・ムーアと北海;クリックすると大きな写真になりますアメリエンボー宮殿;クリックすると大きな写真になります衛兵と赤い待機所。;クリックすると大きな写真になります公園のチャーチル像;クリックすると大きな写真になります
ヘンリー・ムーアと北海女王在宮。デンマーク国旗がはためく(アメリエンボー宮殿で)衛兵と赤い待機所。小さくハートののぞき穴が公園のチャーチル像。ナチス・ドイツに占領されたデンマークの解放に努力したという。下を向いているのは、落とした葉巻を探しているためとか
家具のショールーム;クリックすると大きな写真になります日本の日用品のコレクションコーナー;クリックすると大きな写真になりますロイヤル・コペンハーゲンの作品;クリックすると大きな写真になりますオートバイと木製いす;クリックすると大きな写真になります
この付近には、家具のショールームが多い日本の日用品のコレクションコーナー精緻なロイヤル・コペンハーゲンの作品オートバイと木製いす。モダン様式の歩み
博物館の中庭;クリックすると大きな写真になりますSASロイヤルホテルで;クリックすると大きな写真になります「セブンチェア」;クリックすると大きな写真になりますカフェ柱の「AJランプ」;クリックすると大きな写真になります
菩提樹の並木が続く博物館の中庭最上階レストランにあるヤコブセンの写真と「スワンチェア」(SASロイヤルホテルで)1階カフェに並ぶ「セブンチェア」カフェ柱の「AJランプ」
テーブルの支柱;クリックすると大きな写真になります
ふと足元を見ると・・・。テーブルの支柱にこんなデザインが。


book
デンマーク デザインの国―豊かな暮らしを創る人と造形
島崎 信
学芸出版社
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4 心地よい・生活に密着したデザインを一考する上で、必須かも
5 多くの名作家具デザイナーを生み出した国を訪れる

2009年11月 2日

紀行「没後10年(於・軽井沢高原文庫) &読書日記「背教者ユリアヌス 上、中、下」

紀行「没後10年 辻 邦生展 豊饒なロマンの世界」(於・軽井沢高原文庫、2009・1011)  
読書日記「背教者ユリアヌス 上、中、下」(辻 邦生著、中公文庫)



背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)
辻 邦生
中央公論新社
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5 序章から魅了されること間違いなし
5 ひたむきに生きる糧となる小説
5 堂々たる諧謔
5 文学と芸術と美学の融合
5 芸術としての文学


「辻 邦生展」のパンフレット:クリックすると大きな写真になります 軽井沢・塩沢湖畔で、辻 邦生の「没後10年展」をやっているという記事をみつけ、どうしても行きたくなった。

 小さな森に囲まれた高原文庫の2階には、作品の原稿や創作ノート、写真、手紙のほか、書斎の一部が再現されており、熱心なファンがじっとのぞきこんで動かない。作品の一部を抜粋したパネルもある。「モンマルトル日記」(集英社文庫)の一節に引き込まれた。

 今は、はっきりいって、傑作の森のために精魂をかたむける以外にどんな生きようもない。あらゆることをこの中に埋没しよう。欲望も名声も傲慢も不遜も甘えも弱気も何もなく、・・・。小説について考えぬき、いまは、生の広い意味の快適さのための物語芸術を、その「面白さ・たのしさ」と「甘美な詩」を湛えた容器として、差し出す以外は、いったいどんな生があるのか。


 パリ滞在中に大作「背教者ユリアヌス」の連載を始めた著者は、同時に「天草の雅歌」第二部と「嵯峨野明月記」第二部の連載も始めた、という。

 高原文庫1階のコーナーで「言葉の箱 小説を書くということ」(中公文庫)を買った。辻 邦生はこう書いている。

 「ピアニストがピアノを弾くように」といつも言うんですけれども、・・・いちばん大事なことは、やはり胸のなかに書くことがいっぱいあることです。・・・そのために絶えず書く。・・・たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。


 生きる喜び、死ぬことの意味を考え続けた辻 邦生の気迫に圧倒される。こんな小説家の作品を読めることを幸せに思う。

  同じ辻 邦生ファンである友人Mに「没後10年展に行こうと思う」とメールしたら「最近『背教者ユリアヌス』を読み返した。帰ってきたら、議論したい」という返信があった。
  あわてて、本棚の色あせた文庫本3冊を抜き出した。昭和49年の発行。活字が小さい!老眼鏡を強いのに換えた。

 ユリアヌスは、ローマ帝国の皇帝として生きた「フラウイス・クラウディウス・ユリアヌス」という実在の人物である。かってローマ帝国を支えた古代ギリシャの信仰の復活を願い、キリスト教への優遇を改めたため、後の世の人から「背教者」と呼ばれるようになった皇帝の波乱の生涯を、辻 邦生はとうとうとした一大叙事文学に仕立てあげた。

 この小説で一番好きなのは、出だしと最後の数節だ。

 出だしは、こう始まる。
 濃い霧が海から匍いあがっていた。
 もちろん海も見えなければ、陸も見えなかった。ただ夜明け前の風に送られて、足早に動いている白い団塊が、どことはっきり定めがたい空間を、ひたすら流れつづけている感じがあるだけだった。


夫人の辻 佐保子さんは、著書「『たえず書く人』辻邦生と暮らして」のなかで「雲間や渦巻く霧に見え隠れしながら市街がしだいに現れ出る忘れ難い光景は(旅の途中で霧のたちこめるイスタンブールの空港に着陸したという)偶然の賜物が無ければ誕生しなかったことだろう」と書いている。

 しかし、霧の軽井沢ともいわれる霧の多い土地に建てられた別荘の窓から著者がいつも見ていた風景が、コンスタンティノーブル(現在のイスタンブル)の城さいから見る記述に重なっていった、ということはないのだろうか。
塩沢湖畔の軽井沢高原文庫:クリックすると大きな写真になります  辻佐保子著「辻 邦生のために」(新潮社)には、磯崎新が設計し、辻 邦生が住んだ別荘について、こんな記述がある。
 コンコルドと呼んでいた三つの階段が合流する中間のスペースを経て、・・・。一定のモデュールによる立方体の結合からなる主要な構造の他にも、寝室の先端には三角形が、南のテラスには大きな雨戸を移動させるための円弧の台が加わって、この魔術的な空間は、私たちの身体感覚を日々豊かに養ってくれた。


 ユリアヌスがプラトンを愛し、ギリシャの神々に引かれていく記述に迫力があるのは、著者・辻 邦生が「啓示」と呼ぶ体験をギリシャでしたせいかもしれない。
 アテネの町に入ったときに、パルテノンの神殿がアクロポリスの丘の上に建っていて、それを下から見た瞬間に、Revelation(啓示)の光、ある不思議な光が神殿からぼくの胸を貫いていった。(言葉の箱から)


 反対に「ユリアヌスが本当は背教者ではなかった」と思えるような記述を著者はいくつかしている。
 「彼(ユリアヌス)が(キリスト教の)洗礼に踏み切ったのは、・・・ぼろをまとい、裸足で町々を歩き回って喜捨を集める人々、教会の前に集まる貧者や病者に対し、温かい汁をつくり、パンを分けてやる修道僧たちの姿を、日々、・・・眺めていたからである。


 辻 邦生がユリアヌスを通して描きたかったのは、権力と結びついて「露骨に勢力の拡張を図る」キリスト教関係者への嫌悪感であったことが、文中のそこかしこでうかがえる。

 作品「背教者ユリアヌス」は、砂嵐のなかを進むユリアヌスの葬列の描写で終わる。
 三六三年七月、ローマ軍団は皇帝ユリアヌスの遺骸を皇帝旗に包み、香料と腐敗止めを詰めて、メソポタミアの砂漠を北に向かって歩きつづけた。激し風が東から西に砂を巻き上げて吹き、終日、空の奥で音が鳴りつづけた。
  ・・・・
 すでに夕映えは消えていた。・・・砂はまるで生物のように動いて、兵隊たちの踏んでいった足跡の乱れを、濃くなる闇のなかで、消しつづけていた。


   参照:このブログでこれまで書いた著者関連の記事。
「西行花伝」(2008年4月24日)
辻 佐保子著「『たえず書く人』辻邦生と暮らして」(2008年8月9日)

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5 邦生と佐保子の物語
4 辻邦生との生の日々を夫人が語る


2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


2008年11月11日

読書日記「菜菜ごはん」「ますます菜菜ごはん」(カノウユミコ著、柴田書店)


 3年前に女房を亡くしてから月に1回だが、料理教室に通いだした。

 レシピ、特に調味料のさじ加減を間違わないとしっかり、ちゃんとしたものができる。ちょっと料理がおもしろくなってきた。しかし先月、ハンバーグの付け合わせに作った「人参のグラッセ(人参の砂糖、バター煮)」には、いささか辟易した。もっと素朴な野菜料理が食べたくなる年齢なのに。

 ニューヨークに野菜料理の勉強に行っている次女が先日、一時帰国。紹介してくれた数冊の本の一つがこれ。「菜菜」は「なな」と読むのだそうだ。

 二女は外では肉や魚を食べることはあっても、作る料理は野菜が基本(ブログ「ニューヨークベジ生活」だそうだが、この本も「野菜・豆etc・すべて植物素材でつくる満足レシピ集」とある。それでも、本棚にあるいささか精進料理くさい「粗食のすすめ」(幕内秀夫著、東洋経済新報社)のレシピ集(春夏秋冬ごとに4冊)より、魅力的な料理が並んでいる。

  • キャベツの豆腐ソースグラタン
      キャベツとマッシュルーム、長ねぎを炒め、塩で下味。ミキサーにかけたリーブ油、レモン汁のソースをかけ、パン粉をふってオーブンで焼く
  • 大根の塩味グリル
      オリーブ油と塩をまぶした大根の表面ににんにくをのせ、天板をはさんでオーブンで焼く
  • 大豆のパエリア
  • 油揚げの焼き豚風
  • アスパラとエリンギの酒かすソースグラタン
  • セロリの葉と納豆のチャーハン
  • 万能ねぎのとろろ焼き
  • もやしのベトナム風お好み焼き


 カラー写真の出来もよいのだろう。見るからにおいしそうなのがいい。レシピが簡単で、ちょっと作ってみたくなるのもいい。
 この2冊。芦屋市立図書館に申し込んだら、最初の「菜菜ごはん」は三田市立図書館がから回ってきて、後の「ますます菜菜ごはん」だけ芦屋の図書館にあった。それだけ、借りられるまで時間がかかった。よく分からない仕組みだ。

最近、読んだ本
    •   「ボックス」(百田尚樹著、太田出版)  
      この著者の本を、このブログに書くのは「永遠の〇」「聖夜の贈り物」に続いて3冊目だが、いささか拙速感が・・・。
       高校ボクシング部を取り上げた青春小説だが、ストーリーの盛り上がりは、もう一つ。表題の「ボックス」というのは「レフエリーの"戦え"という合図」という説明から始まって、ボクシングのテクニックの紹介に多くのページが割かれる。
       「エピローグ」で、ボクシンブの顧問でこの小説の語り部役だった女性教師がつぶやく。
      ――その時、誰もいないリングに風が吹いたような気がした。・・・『あの子は・・・風みたいな子やった』

       そう、そんなさわやかさはたっぷり味わえる。
       文中に「英和辞書で『science』を引くと『ボクシングの攻防技術』と書かれていた」という記述がある。これは、知りませんでした。私の電子辞書には載っていなかったけれど。


    •   「詩のこころを読む」(茨木のり子著、岩波ジュニア新書)
        スタジオ・ジブリのプロデューサである鈴木敏夫氏が著書「仕事道楽」のなかで「宮崎駿監督に勧められた」と書いている本。
       茨木のり子という詩人は気になる作家だったが、当方は根っからの散文的人間。昔から、詩というものがサッパリ分からずにきた。読んでみたが、やはり詩が分からないことを再認識した。
       ただ、引用された詩への茨木のり子の静ひつさに満ちたコメントが分かりやすい。「詩というのも、いいものだな」。ちょっと、そう思えた。


    •   「折り返し点 1997~2008」(宮崎駿著、岩波書店)
       「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」から、最新作「崖の上のポニョ」完成までの、企画書、エッセイ、インタビューなどを収録したもの。「仕事道楽」と一緒に借り入れの申し込みをしたのが、やっと手元に届いた。
       同時に何冊かを借り、返却期限が迫ったので、500ページのほとんどを読めなかった。そのなかで、2001年の「千と千尋の神隠し」の記述から、気になった箇所をいくつか。
       かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがぼんやりしか感じられない日常のなかで、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単にはおもしろがりませんよウというぶちゃまくれの表情はその象徴なのだ。けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し。果断な判断力や行動力を発揮する生命を自分がかかえていることに気づくはずだ

        『現実を直視しろ、直視しろ』ってやたらに言うけれども、現実を直視したら自信をなくしてしまう人間が、とりあえずそこで主人公になれる空間を持つっていうことがフアンタジーのだと思うんです

         ――両親をなぜ豚に変えてしまったのですか
       千尋が主人公になるために邪魔だったからです。『はやくしなさい』の連呼とかフレンドリーにご機嫌をとる両親の下では、子供は自分の力を発揮できません

       ――豚になった千尋の両親たちは、自分が豚になっていたことを覚えているのでしょうか
       覚えてないですよ。不景気だ、エサ箱が足りないって今もわめきつづけているじゃないですか


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    3 再度レビューします
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    5 これは感激
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    2 一般人には不向き?
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    5 図書館で借りて二日間(3時間半)で読了
    4 おもしろいおもしろい
    5 名作マンガ「ピンポン」と「柔道部物語」をあわせて読んだ感じ
    5 カタルシスは訪れない。
    5 今年のマイベスト!

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    5 本書を読めば、詩を読んでより広く、深く反応するヒントをもらえる
    5 ずっと手元に置いておきたい本です
    4 すばらしいのだと思います。
    5 小さな宝物のような本
    5 詩・文学への優しい優しい招待状

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    4 「もののけ姫」「千と千尋」まで
    5 子供のために
    5 12年間に渡る作品の軌跡


    (追記)
    読書日記「菜菜おつまみ②」(カノウユミコ著、柴田書店)=2011年6月17日
     先日、JR芦屋駅前の市立図書館大原分室に行ったら、返却棚でこの本を見つけ"衝動借り"してしまった。

     「菜菜ごはん」を買ったのがもう2年半も前だったのに改めて驚いたが、この「おつまみ」編にも、魅力的野菜料理が並んでいる。

     例えば、半分に切って焼いた米ナスに、とろろとオリーブ油、レモン汁、ネギの小口切りを合わせたソースをたっぷりかけた「焼き米ナスのねぎとろろがけ」。「マーボかぼちゃ」に「焼きごぼうのみそ添え」「いんげんの塩蒸し」・・・。

     蒸したブロッコリーに、充填豆腐などのソースを合わせて「ブロッコリーのベジマヨネーズサラダ」は、昨夜のビーフシチューのすばらしいわき役となった。

     最近、干し野菜にいささかこっているので「きゅうりの天日干し、カレー炒め」は、プランターのきゅうりがそろそろ食べごろなので、さっそく試してみよう。
     簡単なピクルス、漬物類に挑戦してみるのも楽しみだ。