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2024年1月 1日

2024年 新年のご挨拶

令和6年 みなさま明けましておめでとうございます

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「ウィンナー・ワルツオーケストラ new year 2023 宮殿祝賀コンサート」 開演前
  2023年1月3日 撮影 東京オペラシティコンサートホール


コロナ禍4年目の昨年、冬になってまた感染者数は増え、第8波となり、日本全国の感染者は累計3千万人を超えました。しかし、春になると感染者数は著しく減少し、5月8日から「5類感染症」に移行され、行動制限も緩和されました。ですが、お盆休みを挟んで再び増加傾向となり、感染者数は5類になって最高になりました。その前後に私どもは6回目、7回目のワクチン接種を受け、幸い今日まで感染せずに過ごしてきました。秋の行楽シーズンには多くの外国人観光客が日本を訪れています。

 昨年もいろいろなことがありました。最も痛ましいことは、パレスチナのイスラム組織ハマスが10月7日、ロケット弾や戦闘員の侵入によってイスラエルへ大規模な攻撃を仕掛け、それに対するイスラエルが報復を開始したことです。死者は2万人を超えています。一方、ロシアのウクライナへの軍事侵攻開始から1年10か月がたち、市民の死者はすでに1万人を超えています。
 5月20日にはゼレンスキー大統領がG7サミット開催中の広島に到着し、岸田首相と会談したのをはじめとして、サミット2日目には各国首脳と相次ぎ会談しています。


 はじめに昨年の世界的な異常気象について振り返ってみたいと思います。

 昨年はほんとに暑い夏でした。もちろん、ところによって異なりましたが、東京の場合は昨年7月~9月の最高気温(月間平均)は、いずれも観測を始めた1875年以降で1位の記録だそうです。35℃を上回る猛暑日は22日もあり、真夏日は90日もありました。私が住む横浜市では、猛暑日は1日だけだったのですが、30℃以上の真夏日は37日ありました。7月10日、八王子では39.2℃の猛烈な暑さでした。
 昨年の日本の平均気温は、統計開始以降最高となりました。平年より、1.34℃高かったそうです。これは、春から秋にかけて上空の偏西風が平年に比べて北寄りに流れ、日本付近が暖かい空気に覆われやすかったことや、日本の南で高気圧の勢力が強かったことが要因とされています。

 2023年の世界の平均気温も、1891年の統計開始以降、2016年を上回り、最も高い値となりました。世界の年平均気温は、様々な変動を繰り返しながら上昇しており、長期的には100年あたり0.76℃の割合で上昇しているといいます。特に1990年代半ば以降、高温となる年が多くなっているそうです。

 11月にはアラブ首長国で、世界の200近い国と地域のほとんどの代表が集まるCOP28が開催されました。気候変動にさらされるカリブ海に浮かぶ人口28万人の島国バルバドスのモトリー首相は、いまの気候変動は死刑宣告に等しい。気候変動によって海面が上昇し、年々海岸線が浸食されている。国の主要産業の観光業にも深刻な影響が広がっているとして、「安全な地球 それが望み」と訴えました。

 今回のCOP28でも日本はまた「化石賞」を受賞してしまったようです。原発のこともありますが、化石燃料の使用を削減するために、日本は非化石エネルギーの技術的な開発で世界をリードし、世界で指導的な立場の国になることを期待したいです。
 全日本空輸(ANA/NH)は12月25日、羽田-八丈島線で代替航空燃料「SAF(Sustainable Aviation Fuel:サフ、持続可能な航空燃料)」を活用した運航を始めたというニュースがありました。期待したいと思います。
 という私もガソリン車を運転し、化石燃料なしでは生活して行けない人間になってしまっていますが、二酸化炭素排出が地球温暖化、地球沸騰化の原因であるとするなら、なんとしてもそれを防がなくてはなりません。

 事象は気温だけではありません。関連して、世界では洪水や、山火事などの大きな被害が出ています。
 日本でも台風6号や、7号などにより、線状降水帯が発生し、大雨の被害が出ていますが、イタリア北部、スペイン、中国湖北省の大雨、パキスタンでは記録的な大雨で国土の3分の1が冠水したとされています。秋にはブラジルでサイクロンによる大雨で大洪水となり32名が死亡しています。リビアでは、大雨でダムが決壊し、洪水で5,300人が亡くなり、1万人が行方不明と伝えられました。このほかにも大雨による多くの被害が報じられています。

 その一方で、日本の近畿地方の水瓶である琵琶湖では深刻な雨不足で、水位は12月26日午前6時の時点で基準となる水位からマイナス75cmとなり、例年のこの時期の平均を40cm下回って、滋賀県が「渇水対策本部」を設置する目安まで下がっているそうです。幻の城の跡が姿を現したとも伝えられます。

 8月のハワイのマウイ島の山火事は100人近い方が亡くなりました。また、ギリシャ、カナダ東部、カナダ北部、スペイン領カナリア諸島、トルコなどでも大きな山火事が発生したと伝えられています。
 また、11月にはパプアニューギニアで大規模な噴火があり、日本への津波の影響も心配されました。12月には、インドネシアのマラピ火山の噴火で登山者11人が死亡したと報じられました。
 直近では、アイスランドの南西部レイキャネスにある火山が12月18日噴火し、溶岩と煙が噴出しました。大地はおよそ4キロにもわたって裂け、噴き出す溶岩の高さは100m以上にもなっていると伝えられています。その前の数週間に、火山活動に伴う地震が頻発しており、レイキャネスの住民約4,000人は先月既に避難しており、近隣の地熱温泉施設も閉鎖されているそうです。

 身近なことで異常気象を感じることとして、東京で平年より10日も早い3月9日に桜の開花宣言がありました。また、私が住む横浜などでは、季節外れの10月下旬に、ソメイヨシノやカワヅザクラが、数輪の花を咲かせました。
 今年はクマが人里に現れ、人的被害が統計開始以降最多となっていると聞きます。クマの主要な餌であるブナの実(ドングリ)が「大凶作」であることが指摘されています。


 さて、スポーツでは明るい話題が多くありました。

 まず、野球はWBCの優勝に始まり、大谷選手の大活躍です。米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手は44本塁打で日本人初の本塁打王に輝きました。また、史上初となる2度目の「満票」でアメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に選出されました。さらに、メジャーリーグ選手会選出のア・リーグ最優秀野手、シルバースラッガー賞、オールMLB・ファーストチームの先発投手/指名打者部門で選出、ハンク・アーロン賞など数々の名誉ある賞を受賞しました。そして、ドジャースと10年契約の7億ドル(約1,015億円)で入団が決まりました。凄いとしか言いようがありません。

 日本のプロ野球では、阪神タイガースが38年ぶりの日本一に輝きました。

 そして、同じく甲子園で、私の出身校である慶應義塾高校が、107年ぶりで優勝しました。神奈川県の代表決定戦も逆転で劇的に勝利し、甲子園に出場、仙台育英高校に勝利して107年ぶりに優勝するまで、毎試合TV中継を見て応援しました。感動し、嬉しかったです。  しかし、10月に鹿児島で行われた秋の国体1回戦で、再び仙台育英と対戦した慶応は、オール3年生で臨み、7回コールドで完敗しました。仙台育英の選手や関係者はどう思われたか、ちょっと気がかりです。

 スポーツ界はこれ以外にも明るい話題があります。女子やり投げの北口榛花選手は、2023年8月23日に行われたブダペスト世界選手権大会で、66m73の大投てきを見せ、日本の陸上女子フィールド種目でオリンピック・世界選手権を通して史上初となる金メダルを獲得しました。今年のパリ・オリンピックでの活躍が期待されます。

 12月のフィギュア・スケート世界選手権で、男子シングルで宇野昌磨選手、女子シングルで坂本花織選手がともに日本史上初の連覇達成です。
 バスケットボール日本代表はアジア1位で、2024年パリ・オリンピック出場権を48年ぶりに自力での獲得しました。バスケットボールがこんなに面白いスポーツであることを知りました。
 12月に帯広で行われたワールドカップ第4戦で、女子1,500mでは高木美帆選手が優勝して今シーズン4連勝を記録、また、男子500mでは新濱立、森重航、村上右磨の各選手が1位から3位まで独占しました。

 卓球では、パリ・オリンピック女子の個人戦出場は早田ひな選手の代表は揺るぎませんが、あと1名の代表枠を平野美宇、伊藤美誠、そしてダークホースとして張本美和の3選手が熾烈なポイント獲得を競ってます。今月行われる全日本選手権で決まります。

 そして、暮れの26日に行われたボクシングで、井上尚弥選手は、スーパーバンタム級の4団体王座統一戦で10ラウンド、ノックアウト勝ちし、史上2人目となるバンタム級に続く2階級での主要4団体の王座統一を成し遂げました。2階級で4団体統一を果たしたのはこれまで、ことし7月にスーパーライト級に続いてウエルター級でも達成したアメリカのテレンス・クロフォード選手のただ1人で、井上尚弥選手は2人目がそうです。国民栄誉賞の声が出そうです。

 私は囲碁、将棋は不調法なのですが、藤井聡太さんの史上初八冠達成というのも、昨年の大きな話題となりました。囲碁はオリンピック正式競技化を目指しているそうですが、将棋もスポーツと思います。

 話は飛びますが、暮れが近づくにつれ、岸田内閣の支持率が25%と過去最低となってしまいました。
 私は、詳しく理解しているわけではありません。感想として述べるのですが、岸田首相は、外交・安全保障を唱え、自由で開かれた国際秩序の維持・強化のための外交を積極的に展開していきたいと、海外へも積極的に出かけ各国首脳と情報交換し、広島でのG7サミットでは、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを訴えました。活動されていると思います。 新しい資本主義 賃上げや企業の投資意欲など足下の前向きな動きを更に力強く拡大すること、こども・子育て政策 少子化は我が国の社会経済全体に関わる先送りのできない「待ったなしの課題」であることを唱えて、進められてきましたが、今一つその声は国民に届いていないようでした。
 そんな時に、自民党の派閥の政治資金パーティー収入が収支報告書に記載されていないという不正問題が持ち上がりました。東京地検による家宅捜査や、関係者の事情聴取が行われています。東京地検は本気で捜査しているようです。
 いわゆるパーティー券売り上げのキックバックを得ていた閣僚は辞職に追い込まれました。
 こうなったのは、自民党という組織、閣僚のガバナンスが甘かったのだろうと思います。
 首相一人ではできません。国民に選ばれた議員さんによる、国民に届く、国民のための政治を、その全員で目を開いて、襟を正して行って欲しいと思います。岸田首相にはリーダーとして、毅然とした立場で改革の推進力になっていただきたいと考えます。

 日本のドル建てGDPは去年、世界全体に占める割合が過去最低の4.2%になり、統計が比較可能な1980年以降で最も低くなりました。2023年はドイツに抜かれ世界4位に後退です。円安で、ドルに換算した場合のGDPが目減りしたことが影響したようですが、2022年のドル建て国民一人当たりのGDPは何と21位だったそうです。


 さて、最後にわたくしの趣味についてです。
 体力も衰えてきていますので、好きな蝶の撮影も高山蝶など珍しい種を撮るために、難しいところへ行くのは困難になっています。もっぱらマイカーで高尾山周辺、箱根などの近いところへ日帰りで行くほかは、近所の公園へ出かけています。普通種をできるだけきれいに撮影してやろうと、シャッターを押しています。それでも昨年は夏にマイカーで入笠山へ行ったのと、バスを利用して上高地へ行ってきました。北海道や先島諸島へも行きたい気持ちはあるのですが足が伸びません。

 秋になるとチョウの数が増えます。特に昨年秋は近くの公園で、多くのチョウが目を楽しませてくれました。鮮やかな黄色のセイタカアワダチソウに、赤銅色のキタテハの秋型が飛来して、蜜を吸う姿は私の好きなシーンです。秋には自宅付近で、約20種のチョウを撮影しました。

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2023年に近くの公園などで撮影したチョウたち

2020年、2021年と、南国のチョウであるクロマダラソテツシジミが我が家の周辺で何回も見られたのですが、一昨年は全く見ることが出来ませんでした。ところが昨年の秋に、数は少ないながらまた見ることが出来ました。これも地球温暖化のなすところなのでしょうか。


 さて、今年はどんな年になるのでしょうか? まずは、ウクライナとロシア、イスラエルとハマスの争いが終わることを祈ります。みなさまにとって令和6年が平穏な良い年になることをお祈りいたします。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2023年12月25日

「時の栖」から山中湖畔へ 2023年11月14日-15日 御殿場「時の栖」で一泊、山中湖から道志へ ②

翌日、朝のうちは富士山の頂まで見えていたが、次第に雲が多くなってきた。遅めの朝食にして10時に「時之栖」を山中湖に向けて出発した。かっては須走から籠坂峠をジグザグと登って山中湖畔の旭日丘に行ったが、1989年に開通した新しい道路(東富士五湖道路)で全長2,995mの籠坂トンネルを抜けて、旭日丘の西側の山中湖インターへ出た。そこから右へ、旭日丘に行く。湖畔に車を止めて、紅葉を見たがあまりきれいではなかった。
 平野から道志村へと続く湖畔の国道413号を、平野の方から沢山の消防車が連なって走ってきた。緊急消防援助隊関東ブロック合同訓練というのがあったらしい。関東の1都6県に長野、静岡、そして地元の山梨、から参加した消防隊の車両が次々と通過していった。

000_231115205 X700 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg
山中湖畔の紅葉 2023年10月15日 山梨県 山中湖畔旭日丘付近

022_231115141 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 22.朝6時の富士山
前日は早く就寝し、ぐっすり寝られたので、朝は5時ごろには起きてしまった。カーテンを開けてみるとまだ真っ暗である。朝のテレビを見ているうちに、薄明りとなり、窓から富士山が見える。この写真を撮ったのは朝6時12分。御殿場市のこの日の日の出時刻は6時19分だった。天気がちょっと心配である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.6 1/320秒 24mm ISO6400 )
023_231115150m X900 御殿場 時之栖 0627 Z50 Z18-140.jpg 23.朝焼けの富士山
6時27分、富士山に朝日が当たってきた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f22 1/160秒 140mm ISO6400 )
024_231115167 X900 御殿場 時之栖 柘榴 Z50 Z18-140.jpg 24.柘榴の木
タオルを絞ったような気が生えていた。ザクロと書かれた札が掛けられていたので何の木なのか分かった。以前トルコへ旅行した時にはたくさんのザクロの木を見た。wikipediaで調べてみると、ザクロは「西南アジアや中東の原産といわれ、原産地については、トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジアとする説、南ヨーロッパ原産とする説およびカルタゴなど北アフリカ原産とする説などがある」と記されていた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 26mm ISO3200 )
025_231115169 X900 御殿場 時之栖 柘榴 Z50 Z18-140.jpg 25.柘榴の実
木の上を見ると、ザクロの実が3っ、4っ、真っ赤になっていた。ちょうど食べごろのようだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.0 1/500秒 120mm ISO2800 )
026_231115175 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 26.朝の「時之栖」の様子
7時半、明るくなった「時之栖」を歩いてみる。昨夜とは違った様があった。これは、当然まだ閉まっていたが、GKワイン(御殿場高原ワイン)のショップである。また、「GK Winery 富士の夢 神山ヴィンヤード」という「富士の夢」という品種のワインを製造するワイナリーもある。「富士の夢」という品種は、山葡萄とメルローの交配品種で、日本で生まれたブドウ品種だそうで、アントシアニンとポリフェノールが豊富でキレイな赤紫色をしているそうだ。「御殿場ブラン」と名付けられた、御殿場高原ヴィンヤードのシャルドネ、ソーヴィニヨンブランのワインもある。「ヴィンヤード」とは、ぶどう畑のこと。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.0 1/500秒 20mm ISO110 )
027_231115178 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 27.「初夢の橋」と富士山
昨夜みた「初夢の橋」を見に行った。橋の左上に富士山が見えた。「初夢の橋」の左隣りには「鷹」がいて、その下に「茄子」のオブジェがあった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.5 1/500秒 18mm ISO100 )
028_231115184 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 28.GKB ガーデン
この辺りに御殿場高原ビールが関わるレストランがいくつかある。右側の建物が昨夜食事をした地ビールレストラン「グランドテーブル」だ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO140 )
029_231115170 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 29.タカのオブジェ
サッカーグラウドがある方へ歩いてみた。ここにもまた、大きなタカのオブジェがあった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.6 1/500秒 102mm ISO320 )
030_231115187 X900 御殿場 時之栖 Z50 Z18-140.jpg 30.桜の礼拝堂の塔(石碑)
このタカのオブジェは、御殿場高原教会(結婚式場である)の敷地内にある石塔の上にのっていた。塔には「念ずれば花ひらく」と刻まれている。一遍の生き方に共感し、癒やしの詩人と言われる坂村真民の随筆で、特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられているという。だが、それとタカとの関わりをいろいろと検索してみたが解らなかった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 28mm ISO125 )
031_231115189 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 31.山中湖畔の紅葉
「時之栖」を10時に出発して、山中湖へ向かった。まっすぐ国道138号線を北上する。須走から東富士五湖道路に入り籠坂峠のトンネルを抜けて、山中湖畔に出た。山中湖畔の国道413号線を走っていると紅葉が綺麗なところがあったので、道路わきの空き地に車を止めて少し歩いてみた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 26mm ISO560 )
032_231115194m X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 32.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -1
旭日丘の近くの湖畔にあった駐車場に車を入れる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.2 1/500秒 35mm ISO400 )
033_231115196 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 33.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -2
曇っているので今一つ紅葉が輝かない。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.3 1/500秒 85mm ISO1100 )
034_231115201 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 34.消防自動車の列
国道413号線を平野の方から消防自動車が連なって走って来た。関東各県の消防隊のようだ。調べてみると、14日から15日にかけて緊急消防援助隊関東ブロック合同訓練が富士五胡地域を中心に行われていたようだ。車列は修了式が行われた平野にある「山中湖交流プラザきらら」からの戻りと思われる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.0 1/500秒 125mm ISO900 ) 
035_231115206m X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 35.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -3
山中湖畔では密集した紅葉は見られなかった。ところどころできれいに色づいたカエデがある。これはオオモミジのようだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.8 1/500秒 48mm ISO900 )
036_231115208m X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 36.オオモミジと山中湖遊覧船
オオモミジにピントを合わせたのでボケてしまっているが、山中湖の遊覧船「白鳥の湖号」が旭日丘桟橋のりばに戻ってきた。一周約25分で大人一人1,100円だそうだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/500秒 79mm ISO100 )
037_231115216m X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 37.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -4
車を置いたまま少し平野の方へ歩いてみる。朝はまだ晴れていたが今はすっかり曇り空になってしまい、肌寒い。ストロボを発光して撮った。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.5 1/200秒 40mm ISO100 )
038_231115217m X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 38.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -5
人が少なくて静かだ。湖の対岸の紅葉はきれいなところがありそうに見える。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.0 1/500秒 56mm ISO200 )
039_231115220 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 39.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -6
晴れていないのが残念だった。ホワイトバランスは auto にしていたが、その割にはモミジの色が良く出たと思う。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.0 1/500秒 110mm ISO640 )
040_231115223 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 40.KABA BUS
湖から水陸両用のKABA BUSが上がってきた。お客さんが乗っている。KABA BUSは旭日丘バスターミナルを出発して、湖に入り一周してくる。所要時間は30分くらいだろうか。7-8月は大人一人2,500円だが、今の時期は2,300円である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.0 1/500秒 56mm ISO280 )
041_231115227 X900 山中湖畔 旭が丘付近 Z50 Z18-140.jpg 41.山中湖畔 旭日丘付近の紅葉 -7
時刻は12時少し前。そろそろ駐車場に戻る。ここから山中湖の東端の平野へ出て、右へ、国道413号線を道志村へ向かう。山中湖は面積は6.57km2あり、富士五湖の中で最大の面積を持つ。また、湖面の標高は富士五湖の中では最も高い位置にあり、日本全体でも第3位。逆に水深は富士五湖の中で最も浅い 13.3mだそうだ。以前は全面結氷していた山中湖だが、その最後は16年前だそうだ。かつて冬にはアイススケートでにぎわったが最近は低迷しているという。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.2 1/500秒 37mm ISO320 )
042_231115237m X900 〇道志川 Z50 Z18-140.jpg 42.道志村
この日の昼食は道志村馬場の「水源の森 名水九割蕎麦」で食べようということになった。カーナビに誘導されて、道志川に架かる橋を渡って、水源の森キャンプ場方面への細い道に入る。しかし、一向にそれらしき場所はないし、ほとんど車も通らないのではないかと思われる落ち葉で覆われた道になってきた。やがて道の下の方にキャンプ場らしき建物が見えたので車を止めてそこまで歩いていき「水源の森 名水九割蕎麦」の場所を訪ねてみたところ、その店は10年くらい前にやめてしまっているとのこと。仕方なく、国道に戻って宮ケ瀬ダムに向かって車を走らせ、ちょうど山梨県と神奈川県の県境になるところに「両国屋」という食堂があったので、そこでほうとうを食べることにした。素朴な味だが美味しかった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.0 1/500秒 1100mm ISO320 )

2022年12月13日

金沢紀行 11月20日~22日 その5 金沢城公園① 11月21日

兼六園の桂坂口を出て、蓮池門通りを渡ると石川城への入り口である石川橋を渡る。石川橋の下はお堀通りが通っている。
 金沢城は江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。
 1580年(天正8年)佐久間盛政により築城された。1592年築という天守の構造は不明。御三階櫓(望楼型3重4階 1603年築)も現存していない。廃城になったのは明治4年(1871年)だそうだ。
 石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫は指定文化財で国の重要文化財である。城跡は金沢城跡として、国の史跡となっている。
 城址を含む一帯は金沢城公園として整備されている。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形にちなむ。台地先端を山の尾とみなした)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦(東洋建築に用いられた煉瓦)を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風(破風は屋根の妻側の端の部分のこと)や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
 ということで、訪れたところは金沢城ではなく、国指定史跡 金沢城公園というのが正しい。菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋・鼠多門・玉泉院丸庭園 が再建造物として存在する。金沢城公園は28.5haあり、兼六園の11.4haの倍以上の広さだ。
 というわけで、古くて新しい観光名所なのだ。江戸時代には、加賀藩主前田家の居城であり、明治時代から戦争までは帝国陸軍が、戦後は金沢大学が所有していたことから、市民がお城に入れるようになったのは2001年のことだそうだ。
 記述については石川県HPの金沢城公園サイトや、wikipediaなどを参照させていただいている。

000_221121699 X700 金沢 金沢城 橋爪門続櫓 Z50 Z18-140.jpg
金沢城再建造物 五十間長屋と橋詰門続櫓 2022年11月21日 石川県 金沢城公園

108_221121663 X800 金沢 金沢城 石川橋 Z50 Z18-140.jpg 108.石川門
石川橋を渡り石川門へ向かう。石川門は宝暦9年(1759年)の大火によって全焼したが、11代藩主 治脩の代に再建され、その後修理等を重ねて現在の姿になった。現在の石川門は、天明8年(1788年)に再建され、重要文化財に指定されている。金沢城の搦手(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門になっている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f7.1 1/500秒 26mm ISO100 ) 露出補正 なしり
109_221121665 X800 金沢 金沢城 石川橋 お堀通り Z50 Z18-140.jpg 109.石川橋を渡る
兼六園の桂坂口からお堀通りの上に架かるこの石川橋を渡って石川門口へ入る。今朝、百万石通りの広坂の交差点から兼六園の真弓坂口に入ってきたが、真弓坂口に行かず、左の広い道を行くとお堀通りになる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 60mm ISO180 ) 露出補正 なし
110_221121667 X800 金沢 金沢城 石川門 Z50 Z18-140.jpg 110.石川櫓
石川橋を渡ると、石川門の一の門(高麗門)を入る。一の門を入るといわゆる枡形虎口になっていて、右に90度曲がったところにもうひとつの門、二の門(櫓門)がある。続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門になっている。石川門は白門とも呼ばれている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR プログラムオートで撮影  ( f8 1/500秒 18mm ISO100 ) 露出補正 なし
111_221121671 X800 金沢 金沢城 石川門 Z50 Z18-140.jpg 111.石川門の二の門(櫓門)
高麗門を入って右に直角に曲がって二の門(櫓門)がある。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 18mm ISO110 ) 露出補正 なし
112_221121673 X800 金沢 金沢城 石川門 Z50 Z18-140.jpg 112.一の門(高麗門)の扉
重厚な鉄扉である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 21mm ISO450 ) 露出補正 なし
113_221121674 X800 金沢 金沢城 三の丸広場 Z50 Z18-140.jpg 113.三の丸広場 松ともみじ
石川門を抜けると目の前の松ともみじの向こうに三の丸広場が広がっていた。その向こうに五十間長屋が見え、左側に橋爪門続櫓、右側には菱櫓が見える。さらにその右に河北門が見えた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO180 ) 露出補正 なし
114_221121679 X800 〇金沢 金沢城 三の丸広場から五十間長屋 Z50 Z18-140.jpg 114.三の丸広場
芝生の三の丸広場が広がる。三ノ丸は石川門、河北門の内部の郭を指し、利家が入城した後、 重臣の居邸が建てられたが、その後、これらを城外へ移し、高知番所、 物頭番所が置かれた。正面に見える五十間長屋は平成13年7月に完成した、延べ床面積1894.23㎡の復元建物で、石川門や三十間長屋と同様、鉛瓦や海鼠塀が外観の特徴だそうだ。明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、大径木の事前調達や土台石垣の解体、修築を含め、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて造られた。五十間長屋の右側が菱櫓で、左側の櫓が橋爪門続櫓である。3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。五十間長屋は武器等の倉庫であった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f7.1 1/500秒 18mm ISO100 ) 露出補正 なし
115_221121680 X800 〇金沢 金沢城 橋爪門続櫓 Z50 Z18-140.jpg 115.橋爪門続櫓
橋爪門続櫓は二の丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓であった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.3 1/500秒 69mm ISO100 ) 露出補正 なし
116_221121695 X800 〇金沢 金沢城 菱櫓 Z50 Z18-140.jpg 116.菱櫓
菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/500秒 31mm ISO110 ) 露出補正 なし
117_221121687 X800 〇金沢 金沢城 河北門前から五十間長屋 Z50 Z18-140.jpg 117.河北門の二の門
河北門は金沢城の実質的な正門であり、約130年ぶりに往時の姿で再建された。河北門は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面である。河北門は高麗門である一の門、櫓門であるニの門、枡形土堀及び続櫓の機能を持つニラミ櫓台(一の門の右脇に設置された二重櫓)により防御機能を持った構成となっている。写真は三の丸側から見た河北門のニの門である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f8 1/500秒 18mm ISO110 ) 露出補正 なし
118_221121688 X800 〇金沢 金沢城 河北門前と湿生園 Z50 Z18-140.jpg 118.河北門の一の門と湿生園
河北門の一の門の外側と、湿生園を三の丸園地から眺められるよう展望台が造られていた。河北門の復元建物は、安永元年(1772年)に再建され、明治15年(1882年)ごろまで存続していた河北門の姿を多数の資料の調査と検証に基づいて再現された。この一の門の右側に見えるのがニラミ櫓である。外側に広がる湿生園は、江戸時代後期の古絵図や埋蔵文化財の発掘調査結果に基づき、護岸は往時の新丸南堀の外郭が再現されている。掘をイメージした親水空間には、ハナショウブやミズアオイ、ヒメスイレンなどの湿性植物が楽しめるそうだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO125 ) 露出補正 なし
119_221121689 X800 〇金沢 金沢城 河北門 Z50 Z18-140.jpg 119.河北門の一の門
石川門(重要文化財)と橋爪門と共に金沢城三御門と呼ばれているが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、三御門の中で最初に安永元年(1772年)に再建された重要な門である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO125 ) 露出補正 なし
120_221121702 X800 金沢 金沢城 橋爪門 Z50 Z18-140.jpg 120.橋爪門
三の丸広場の芝生のわきをまっすぐ西へ進み、橋爪門の一の門にでた。 橋爪門は、寛永8年(1631年)の大火後に整備された二の丸の正門である。高麗門形式の一の門、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の二の門からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇る。二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門だった。文化五年(1808年)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(1809年)に再建された姿を復元している。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.6 1/500秒 28mm ISO140 ) 露出補正 なし
121_221121703 X800 金沢 金沢城 橋爪門 Z50 Z18-140.jpg 121.橋爪門の二の門
橋詰橋を渡って、石垣と二重塀で囲われた枡形に入る。そして、その右側にこの櫓門形式の二の門がある。先は二の丸広場だ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 30mm ISO220 ) 露出補正 なし
122_221121706 X800 金沢 金沢城 橋爪門敷石 Z50 Z18-140.jpg 122.橋爪門敷石
寛永8年(1631年)の大火を契機として、本丸にあった御殿は二の丸に移り、二の丸御殿が藩政の中心となった。二の丸の正面に当たる橋爪門は二の門床に御殿の玄関周りと同じく四半敷き(正方形の石を縁に対し45度になるよう斜めに敷いたもの)で戸室石が敷かれ格式の高い門であったことを示しているとの説明板があった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 26mm ISO4500 ) 露出補正 なし
123_221121711 X800 〇金沢 金沢城 二の丸広場 Z50 Z18-140.jpg 123.二の丸御殿跡
橋詰門を抜けると、二の丸情報館があった。一休みしようと中に入る。復元整備中の二の丸広場を右(北)に見る。石川県のホームページによれば、現在、二の丸御殿の復元整備事業が行われている。二の丸御殿は江戸時代においても二度の火災による焼失・再建を経て姿を変えながら、幕末・維新期まで御殿としての役割を担い続けていた。廃藩後は軍隊の管轄に置かれ、兵舎として利用されたが、明治14 年(1881年)に失火により焼失し、威容は失われてしまったそうだ。石川県では、平成30年(2018年)より、専門の学識者による検討や各種調査等を行い、御殿の復元整備に向けた取り組みを進め、令和3年(2021年)3月に御殿の復元整備に向けた基本方針を策定した。令和3年度(2021年)からは、復元整備事業に着手し、基本方針に沿って調査や設計等の取り組みを進めている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f7.1 1/500秒 20mm ISO110 ) 露出補正 なし
124_221121717 X800〇金沢 金沢城 極楽橋と三十間長屋Z50 Z18-140.jpg 124.極楽橋と三十間長屋
二の丸情報館を出て、さらに西へ進むと左手に極楽橋が架かり、三十間長屋が見えた。二の丸と本丸の拡張部である本丸附段の間の空堀に架かる極楽橋の名前は江戸時代から使われており、金沢御堂(金沢城の前身は加賀一向一揆の拠点、金沢御堂で、本丸跡付近にあった)に由来すると伝えられる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.2 1/500秒 36mm ISO100 ) 露出補正 なし
125_221121721 X800 〇金沢 金沢城 三十間長屋 Z50 Z18-140.jpg 125.三十間長屋 -1
極楽橋を通り過ぎたところから、北側から三十間長屋を見上げる。本丸附段にある2層2階の多聞櫓で、石川門と同様に重要文化財に指定されている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 65mm ISO160 ) 露出補正 なし
126_221121725 X800 〇金沢 金沢城 三十間長屋 Z50 Z18-140.jpg 126.三十間長屋 -2
段を上がって東側から三十間長屋を見る。宝暦の大火(1759年)の後、長く再建されず、安政5年(1858年)に再建された。大火以前は食器などを収めていたが幕末の再建後は武器弾薬を納めたといわれている。現在の長さは26間半だそうだ。南面は入母屋造りだが、北面は土台の石組よりも外壁がさがっており、切妻造りである。金沢城にはこの他に全部で14の長屋があったと伝えられている。18mmでは全長を収められなかった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.5 1/500秒 18mm ISO100 ) 露出補正 なし
127_221121730 X800 〇金沢 金沢城 三十間長屋 Z50 Z18-140.jpg 127.紅葉のグラデーション
紅葉するイロハモミジが枝先の方は紅くなり、もとの方は緑のまま残っていた。イロハモミジは、1本の木、1枝からも緑色に赤や黄色、オレンジなど、カラフルないろどりを楽しめる。三十間長屋を東へ、本丸園地の方へ歩いてみた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.3 1/500秒 18mm ISO3200 ) 露出補正 なし

2022年8月16日

明治村 7月8日

名和昆虫博物館と、もう一か所是非行って見たいところがあった。明治村である。明治村の正式名称は「博物館明治村」で愛知県犬山市にある野外博物館・テーマパークだ。岐阜公園から、途中やなであゆを賞味した時間を除けば、約30km、1時間かかり、思っていたより遠かった。
 以下、wikipediaから引用させていただくと、明治村は1965年(昭和40年)3月18日、名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助(基金拠出)し、犬山市の入鹿池の畔に開館した。明治時代の建造物等を移築して公開し、また明治時代の歴史的資料を収集し、社会文化の向上に寄与することを目的とした。第四高等学校(後の金沢大学)の同窓生だった谷口吉郎(博物館明治村初代館長)と土川元夫 (名古屋鉄道会長) が、戦後の急速な経済成長の蔭で失われつつある明治時代の建築物のうち、歴史上にも文化芸術上にも価値があるものを末永く保ちたいとの意見で一致し、そのための財団設立を構想したのが「明治村」の発端である。
 開村当時の施設は札幌電話交換局、京都聖ヨハネ教会堂、森鷗外・夏目漱石住宅など15件だったが、2007年現在では67件(蒸気機関車等も含む)に達している。博物館の敷地も2倍近くの100万㎡に広がっている。移築された建物には重要文化財に指定されたものが11件(14棟)あり、それ以外のほとんどの建物も登録有形文化財になっている。鉄道、郵便、酒造業、病院、裁判所、芝居小屋、学校、教会、灯台など明治の社会、文化の様々な領域を取り上げ、当時の建物とその内部の関連の展示で、一望することが出来るようになっている。歴史的に貴重な文化財を保存しているとともに、明治時代を追体験できる日本のテーマパークの嚆矢である。鉄道資料は静態保存だけでなく、旧京都電気鉄道(後に京都市電)の車両(狭軌1型)や蒸気機関車(名古屋鉄道12号 - 旧鉄道院160形)など、明治の車両を動態保存していることも特筆すべきことである。京都市電は1967年(昭和42年)3月18日、蒸気機関車は1974年(昭和49年)3月18日運行が開始され、いずれも村内移動用の乗り物として実際に乗車できる。京都市電と蒸気機関車は2010年12月20日より老朽による調査・点検のため一時運休していたが、京都市電は2012年9月28日より、蒸気機関車は12号のみ2012年11月8日よりそれぞれ運行を再開した。9号 - 旧富士身延鉄道1形も2015年3月15日運行再開。なお、名電1号は展示である。
 敷地面積が大きく、日本のテーマパークとしては同じく名鉄インプレスが経営するリトルワールドに次いで第3位である。歴史的建造物の多さやその広さから、ドラマの撮影やアニメのモチーフに頻繁に使われている。また明治東亰恋伽などゲームとのコラボレーションや、世界コスプレサミットのサブ会場としての提供なども実施しているという。
 説明文は、明治村のホームページ、現場の説明書きを参照されていただいている。
 明治村に到着したのは午後2時半だった。遅くとも4時には離村したい。明治村は1丁目から5丁目迄ある。北口から入ると5丁目から周り始めることになる。

000_220708212 X700 〇明治村 Z50 18-140.jpg
旧帝国ホテル中央玄関部を望む 大正12年築 昭和51年移築 2022年7月8日 愛知県犬山市 博物館明治村

033_220708199 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 33.9号機関車 「SLとうきゃう駅」機関庫
村内には蒸気機関車が牽く列車と旧京都市電が、村内移動用の乗り物として走っている。明治5年(1872年)、日本で初めての鉄道(新橋-横浜間)が開通し、現在の明治村では、当時から走り続けている蒸気機関車12号・9号が村内の「SLなごや駅」と「SLとうきゃう駅」の間を繋いでいる。これはその9号機関車である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.6 1/500秒 99mm ISO 2800 ) 露出補正 なし
034_220708201 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 34.三等客車
実際に乗ることができる客車も、明治41年(1908年)製造のハフ11、明治45年(1912年)製造のハフ13・14の計3両あり、機関車も含めてすべて明治時代の車両で編成が組まれている。この日は走行中の列車を見ることが出来なかった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.3 1/500秒 72mm ISO 5000 ) 露出補正 なし
035_220708203 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 35.旧帝国ホテル 玄関付近
北口から蒸気機関車・客車を見ながら地下通路をくぐってくると、旧帝国ホテルの脇に出てくる。写真右手がファサードである。昭和43年(1968年)に解体され、1951年(1976年)にここに移築されている。明治村ながらこの建物は大正12年(1923年)に建てられた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO 125 ) 露出補正 なし
036_220708209 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 36.旧帝国ホテル玄関内
旧帝国ホテルの玄関を内側から撮った。首都の迎賓施設にふさわい華やかさと、設計者のフランク・ロイド・ライト(1867年-1959年)独自の設計思想が隅々まで行き渡り、全体の設計から各客室に至るまで、多様で他に類を見ない空間が実現されていたと評される。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 24mm ISO 640 ) 露出補正 なし
037_220708210 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 37.旧帝国ホテル メインロビー
メインロビー中央は、3階までの吹き抜け空間になっている。中央玄関内のすべての空間は、この吹き抜けを囲むように配置されている。それぞれの空間で床の高さ、天井の高さが異なっており、大階段と左右の廻り階段を昇るごとに、新たな視界を楽しませてくれるのだ。建物の内外は、彫刻された大谷石、透しテラコッタによって様々に装飾。とりわけ左右ラウンジ前の大谷石の壁泉と、吹き抜けの「光の籠柱」と大谷石の柱、食堂前の「孔雀の羽」と呼ばれる大谷石の大きなブラケットは、見る人を圧倒する美しさである。大空間の中を光が上下左右に錯綜し、まわりの彫刻に微妙な陰影を与えることで、ロビーで過ごす時間を特別なものにしてくれると解説されていた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3 1/180秒 24mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
038_220708215 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 38.金沢監獄中央看守所・監房 -1
左手に隅田川新大橋を見ながらまっすぐ進むと八角屋根の建物が見えてきた。金沢監獄中央看守所・監房である。中央看守所の屋根には見張塔がある。金沢監獄は明治5年(1872年)制定の「監獄則並図式」(監獄法)に沿って造られた監獄。八角形の看守所を中心に5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置である。監視室からは各監房棟の中廊下が一望に見渡せ、外部については看守所上部の見張り櫓から監獄全域の状況を把握できるため、管理上非常に効果的であった。石川県金沢市にあったものを、昭和46年(1971年)に解体され、47年(1972年)に移築された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 26mm ISO 250 ) 露出補正 なし
039_220708218 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 39.金沢監獄中央看守所・監房 -2
そのうち中央看守所と独居房として使用された監房の一部分が移築された。なお中央に置かれている監視室は網走監獄で使用されたものだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f8 1/500秒 18mm ISO 100 ) 露出補正 なし
040_220708220 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 40.金沢監獄中央看守所・監房 -3
広い中廊下の左右には、独居監房の重い扉が整然と並んでいる。写真の左側にあるのが「書信室」で、主人たちが家族などへ手紙を書くところだ。廊下の右側に見えるのは独居監房で、扉の上にある換気用の高窓から、独房内の衛生面への配慮がうかがえる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/160秒 18mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
041_220708223 X800 明治村 Z50 18-140 - コピー.jpg 41.東京駅警備巡査派出所
右側の赤レンガの建物が、東京駅の丸の内側広場の中央にあった派出所。壮大な駅舎の竣工にあわせて建てられた。東京駅の駅舎は、辰野金吾の設計で大正3年(1914年)に竣工。一方でこの建物は、警視庁の設計によって同時期に建てたと伝えられている。東京駅駅舎との調和が図られている。建設年は大正3年(1914年)頃で、昭和43年(1968年)に解体、昭和47年(1972年)に移築された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.5 1/160秒 29mm ISO 100 ) 露出補正 なし
042_220708225 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 42.天童眼鏡橋
山形県天童市の倉津川に架けられた石造アーチ橋。もともとの名は多嘉橋。幅7.7m、長さ13.3mの規模で、地元産の山寺石を積んで造られている。日本のアーチ橋は、江戸初期に建造が始まり、長崎の眼鏡橋などが有名である。中国から伝来した技術が用いられたため、九州地方に多く架けられた。明治に入ると、欧米の技術も取り入れられ、各地で見られるようになった。東北地方のアーチ橋は、当時の県令(日本において、1871年・明治4年から1886年・明治19年まで置かれた県の長官)であった三島通庸による土木政策からも大きな影響を受けた。長崎の眼鏡橋が湾曲した床面を持つのに対し、この橋は、ローマの水道橋のような水平な床面になっている。建設年は明治20年(1887年)、昭和45年(1970年)に解体され、昭和51年(1976年)に移築された。向こうに見えるのは川崎銀行本店。左側の青い鉄骨は隅田川新大橋。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 31mm ISO 160 ) 露出補正 なし
043_220708231 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 43.聖ザビエル天主堂 ファサード
16世紀に来日したフランシスコ・ザビエルを記念し、京都・河原町三条に建てられたカトリック教会堂。近代の京都でのカトリック布教は、明治12年(1879年)、パリ外国宣教会のヴィリオン神父が入洛したことが始まりとされている。フランスの篤志家から寄付を募って資金を集め、河原町三条にあった旧大名の蔵屋敷を購入して、明治23年(1890年)に、この教会堂が建てられた。昭和42年(1967年)に解体され、昭和48年(1973年)に移築された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f7.1 1/500秒 18mm ISO 100 ) 露出補正 なし
044_220708234 X800 〇明治村 Z50 18-140.jpg 44.聖ザビエル天主堂 内部
建設にあたり、図面はフランスから取り寄せたとも言われている。設計は東京で在日宣教師の一人であったパピノ神父が担ったそうだ。信者であり、大阪で大工の棟梁をしていた横田彦左衛門が施工したと伝えられている。内陣には7体の聖像が鎮座する。右から、聖ステファノ(最初の殉職者)、聖ペテロ(十二使徒の第一使徒)、聖ヨセフ(聖母マリアの配偶者)、聖フランシスコ・ザビエル、大天使ミカエル、洗礼者聖ヨハネ(キリストに洗礼を施した人)、アッシジの聖フランチェスコ(フランシスコ会創設者)が配置されている。室内は身廊(入口から主祭壇に向かう中央通路のうちの袖廊に至るまでの部分)と側廊からなる三廊式で、大アーケード、トリフォリウム、クリアストーリーの3層による典型的なゴシック様式。天井は交差リブ・ヴォールト天井で、4本の柱で囲われた1つの区画の天井を、リブで四分割する四分ヴォールトとしている。柱やリブにはケヤキ材が用いられている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/320秒 18mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
045_220708237 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 45.聖ザビエル天主堂 バラ窓と十字架
バラ窓はゴシック様式の教会堂建築における特徴のひとつで、はめ込まれたステンド・グラスからの美しい光が、壮麗な空間を演出する。ここに展示されていたバラ窓は昭和48年、京都から移築するにあたり、保管と保存のため取り外したオリジナルと説明されていた。右側の十字架は、聖ザビエル天主堂が京都にあった当時、建物正面に立っていた。ケヤキを使い、一本から全体を彫り出した「丸彫」という技法で作られている。移築調査時、表面の劣化が進んでいたため、複製した新しい十字架を載せた。現在立っている十字架も風雪による劣化のため、明治村でも二代目になっている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/320秒 18mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
046_220708240 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 46.銭湯 半田東湯
知らないうちに4丁目に入った。4丁目には病院・硝子製造所・鉄道寮といった近代化する時代のなかで登場した施設はもちろん、江戸時代からの系譜を継いできた芝居小屋や銭湯なども立ち並ぶ。また、ブラジルやハワイなど、移民した日本人の住まいも見られる。この建物は、知多半島の港町に建てられた風呂屋。1階奥の浴室に置かれた浴槽は男湯と女湯がつながっていて、目隠しだけで仕切られている。銭湯は江戸時代以来、地域の社交場として欠かせない存在で、湯上がりの常連客などは、2階に上がって雑談に時を過ごしたという。表構え、番台などに江戸時代の湯屋のおもかげをとどめている。明治末年(1910年)頃に建てられ、昭和46年(1971年)に解体、移築は昭和55年(1980年)である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 28mm ISO 280 ) 露出補正 なし
047_220708242 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 47.村営バス停留所
帝国ホテルと正門の間を約20分で行ったり来たりしている。呉服座(次の写真)の前にあるのは、村内にある9っの停留所の中のひとつだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 28mm ISO 180 ) 露出補正 なし
048_220708243 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 48.呉服座
銭湯・半田東湯の左隣に国指定重要文化財の呉服座があった。大阪府池田市西本町猪名川の川岸にあった芝居小屋で、もとは池田市本町にあった明治7年創業の戎座を、明治25年(1892年)に西本町へ移築したもので、このときに名称も「呉服座」と改められたそうだ。構造は江戸時代から続く伝統建築の名残をとどめた、木造2階建ての杉皮葺きである。建てられたのは明治25年(1892年)、解体は昭和44年(1969年)で、昭和46年(1971年)にここに移築された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO 160 ) 露出補正 なし
049_220708244 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 49.小泉八雲避暑の家
小泉八雲(1850年-1904年)はもとの名をラフカディオ・ハーンと言い、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた。アイルランドで教育を受けた後、アメリカで新聞記者などを経て、明治23年(1890年)に来日し、英語教師として松江中学を始め各地へ赴任した。、20年くらい前になるが、皆生温泉へ行った時に、松江では1年3か月弱暮らしたという小泉八雲の旧家を見てきた記憶が残っている。明治29年(1896)に日本に帰化し、同年東京帝国大学に招かれ教鞭をとるようになると、毎年夏を焼津で過ごすようになったそうだ。この家は魚屋の山口乙吉という人の家で、1階に通り土間を備えた典型的な町家(商人の家)である。建設年は明治初年(1868年)、 昭和43年(1968年)に解体され、 昭和46年(1971年)に移築された。 軒先を借りるように、昔懐かしい駄菓子が所狭しと並んでいる。一歩中に入る。竹とんぼや紙風船などの懐かしいおもちゃもあった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO 400 ) 露出補正 なし
050_220708245 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 50.駄菓子屋 八雲
小泉八雲避暑の家の軒先を借りるように、昔懐かしい駄菓子が所狭しと並んでいる。一歩中に入ると、竹とんぼや紙風船などの懐かしおもちゃもあった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/320秒 18mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
051_220708247 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 51.本郷喜之床
東京の文京区本郷にあった屋号を「喜之床」と称する理髪店で、明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物である。店の正面をガラス張りにしているのは当時の新しいスタイル。床屋は、ハイカラには、バーバーともいわれ、庶民の暮らしに欠かせない店屋だった。この建物の2階二間を明治42年(1909年)から間借りして家族と生活していたのが、歌人石川啄木だったそうだ。処女歌集「一握の砂」はここで暮らしているときに出版された。建てられたのは明治末年(1910年)頃。解体は昭和53年(1978年)、移築は昭和55年(1980年)だそうだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
052_220708250 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 52.村営バス
呉服座の前を村営バスが通る。ナンバー・プレートにハイカラ4号とあるので、少なくとも4台は走っているのだろう。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.3 1/500秒 72mm ISO 800 ) 露出補正 なし
053_220708259 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 53.鉄道寮新橋新橋工場(機械館) 活版印刷機
大きな建物があった。鉄道寮新橋工場は日本で初めて鉄道が走った新橋-横浜間の起点、新橋停車場に機関車修復所として建てられた。日本の鉄道はあらゆる技術をイギリスから導入して開発され、機関車や線路はすべてイギリス製だった。この機械館も柱、外壁、サッシ等、すべてイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建てられ、鉄造プレハブ建築として重要な建物であり、構造力学の理にかなったシンプルな美しさが魅力の建物である。内部には日本の近代化の過程で使われた多数の貴重な機械類が展示されていたが、写真はその一つ、旧国鉄の札幌印刷所で使われていた活版印刷機である。この機会を作った東京築地活版製造所は、明治6年(1873年)に日本で初めて本格的な活版印刷機の製造を開始した日本の活版技術のパイオニア 平野富二よって設立された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/100秒 28mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
054_220708261 X800 〇明治村 Z50 18-140.jpg 54.尾西鉄道蒸気機関車1号 -1
明治29年(1896年)に尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車。「2B1」と呼ばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式蒸気機関車だ。明治31年(1898年)、弥冨ー津島間、同33年(1900年)の弥冨ー新一宮間が開通した尾西鉄道の1号機として、現在の名古屋鉄道尾西線を中心に活躍した。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 32mm ISO 640 ) 露出補正 なし
055_220708269 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 55.尾西鉄道蒸気機関車1号 -2
大正14年(1925年)に尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した際、この車両は名古屋鉄道の所有になり、その後、昭和10年(1935年)からは新潟県の信越線二本木駅に隣接する日本曹達株式会社内の工場専用機として使用され、入替作業に従事したという。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO 160 ) 露出補正 なし
056_220708272 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 56.入鹿池
明治村の東側には大きな池があった。wikipediaによれば、入鹿池(いるかいけ)は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定され、2015年(平成27年)には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録された。周囲 は約16kmあり、貯水量 は 15,181 km3、面積 は 1521㎢あるという。池ではなく湖のようだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 58mm ISO 125 ) 露出補正 なし
057_220708280 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 57.第四高等学校武術道場 弓道場
金沢の第四高等学校(現 金沢大学)に建てられたもので、柔道、剣道、弓道3つの道場からなる武道場。写真に写っていない母屋は、木造平屋建て、切妻造りの桟瓦葺きの建物。主屋正面の中央に切妻造りの玄関がつく。主屋内部は剣道場と柔道場の2つに分かれ、両妻の落ち棟に師範台と更衣室、背後に浴室を設けていた。この写真は弓道場で、主屋と土間を介してつながり、同じく木造平屋建て、切妻造りの桟瓦葺きの建物である。的屋は茅葺きで、厚く深い軒の下に的が置かれている。大正6年(1917年)に建てられ、昭和44年(1969年)に解体、翌年(1970年)に移築された。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 28mm ISO 360 ) 露出補正 なし
058_220708286 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 58.名電1号形 22号
明治村開村50周年、名鉄創業120周年を記念して札幌市電に譲渡され交通資料館に保存されていた22号が期間限定で里帰りした。明治31年(1898年)京都についで日本で2番目に運行を開始したのは名古屋電気鉄道である。名電1号形は明治34年(1901年)に名古屋で製造され、明治40年代まで名古屋市内で運用されていた26人乗りの車両である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 24mm ISO 450 ) 露出補正 なし
059_220708290 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 59.名電1号形 22号 車内
しかし、乗降客の増加に伴い、この形の車両は使用されなくなり、予備車両として保管されていた。大正7年(1918年)に札幌電気軌道がこれらの車両20両余りを購入し改造を加え、運行を開始し、昭和11年ごろまで札幌市民の足として親しまれた。展示されている車両は札幌に譲渡された車両のうち唯一現存する車両である。2014年から2020年まで6年間の貸出展示の予定であったようだが、まだ展示されていた。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 18mm ISO 1000 ) 露出補正 なし
060_220708296 X800 〇明治村 Z50 18-140.jpg 60.レンガ通り通りと東山梨郡役所
3丁目を飛ばして2丁目に入っていた。レンガ通りの向こうに東山梨郡役所が見えて、着物姿のお嬢さん二人がこちらに歩いてくる。明治11年(1878年)に施行された「郡区町村編成法」により、県令(後の県知事)の任命する郡長が、郡内の行政を指揮監督することになり、各地に郡役所が置かれました。東山梨郡では、明治18年(1885年)にこの建物が日下部村に落成。当時の山梨県令であった藤村紫朗は、地元に多くの洋風建築を建てさせたという。突き当りに見えた東山梨郡役所は明治18年(1885年)に建てられ、昭和39年(1964年)に解体、昭和40年(1965年)に移築された。重要文化財である。レンガ通りの手前右側に、安田銀行会津支店の建物(明治40年・1907年築)があったが、そこはハイカラ衣装館となっていて、1人1着3,500円で着物を着て散策が出来る。2人のお嬢さんは、そこで着物を借り、返しに行くところだった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.6 1/500秒 87mm ISO 110 ) 露出補正 なし
061_220708282 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 61.京都市電の線路
明治村で楽しみにしていたのは京都市電である。村内の市電名古屋駅ー京都七条駅ー品川灯台駅を往復している。レンガ通りを出たところに、京都七条駅があり、その線路が見えた。京都市電は明治28年(1895年)、現在の京都駅近くから伏見までの約6.4kmで開業。同年4月から岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会の会場輸送の「足」として大いに利用された。世界では1881年ドイツで初めて電車の営業が開始されたが、日本での電車の営業においてはこの京都市電が最初となっている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.5 1/500秒 44mm ISO 250 ) 露出補正
062_220708304x 800 〇明治村 Z50 18-140.jpg 62.走行中の京都市電
現在明治村にある車両は、明治43年から44年にかけて製造された大型の車両という。京都で50年以上も使用していたため、大きく改造されていたようだが、8号車がオリジナルな形に復元された。京都市電2両は村内に静態保存されていたが、開村2年後の昭和42年3月から運転をはじめた。昭和36年に廃止された京都市電北野線で走っていた車両である。子供の頃(昭和22年頃)、両親とこの北野線に乗ったかすかな記憶がある。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/500秒 91mm ISO 100 ) 露出補正 なし
063_220708311 X800 明治村 Z50 18-140.jpg 63.蒸気機関車 SL名古屋駅
ふと時計を見ると午後4時になろうとしている。そろそろ引き上げなくてはいけない。北口に戻る途中、SLの終点、SL名古屋駅があった。汽車は1時間に1~2本しかない。走行中の汽車を見ることはできなかった。乗車区間は短く、乗車時間は5分である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 22mm ISO 250
064_220708313 X800 〇明治村 Z50 18-140.jpg 64.帝国ホテル 撮影スポット
帝国ホテルまで戻ってきた。こんな撮影スポットが設けられていた。結局、1丁目から5丁目迄ある明治村を、北口から入ったので、5丁目と4丁目の主だったところと、3丁目のほんの一部しか見て来られなかった。広大な敷地に、充実した展示物が、70件近くもある。ゆっくりと見て歩くと1日かけても無理だと思う。次の機会に1丁目~3丁目を見たいと思うが、81歳の私には叶わないだろう。付き合ってくれた友人に、車で名古屋駅まで送ってもらったが、その車の中で、安倍晋三元首相が狙撃されたことを知った。そして帰りの新幹線の中で奈良県立医大病院で亡くなられたことを知った。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 26mm ISO 100


2022年8月12日

岐阜公園と名和昆虫博物館 7月8日

岐阜駅前のホテルにもどり、ゆっくり朝食をした。この日は朝10時に名古屋在住の親友がホテルまで迎えに来てくれる。チェックアウトをして、少し早めにホテルを出ると、すでに到着し、待ってくれていた。
 まずは名和昆虫博物館がある岐阜公園を目指す。15分くらい走って、岐阜公園の駐車場に入った。「若き日の織田信長像」と題された織田信長の銅像がある正門から岐阜公園に入った。まだ、人影は少ない。ゆっくりと緑に浸りながら、公園内を歩く。
 岐阜公園のいちばん南側の奥に「名和昆虫博物館」はあった。この日は金曜日、博物館は火、水、木曜日が休館日であったが、事前にこれを知り、ほっとしていた。入館料ひとり600円を支払って館内に入る。1階と2階が展示室になっていて、それほど広くはない。専門家だけではなく、一般の人や、子供たちにも理解でき、楽しませるような展示になっていた。受付では、標本も販売されている。記念にキナバルオナガタイマイ(ボルネオ)1頭を購入した。岐阜公園茶室、立礼茶席「華松軒」において抹茶と和菓子で一休みした。落ち着く。
 駐車場へ戻る道筋でゴマダラチョウを撮って、明治村へ移動する前に、昼食の話になった。友人から長良川沿いのやなであゆを食べないかと提案があり、賛成する。甘露煮、お造り,南蛮漬、塩焼き、みそ煮,フライ.と次々と出てきて全部で10尾ほど食べたのではなかろうか。特に新鮮な鮎の塩焼きの味は最高だった。骨抜きも上手くできた。

000_220708162 X700 〇岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg
名和昆虫博物館入口 2022年7月8日 岐阜市大宮町(岐阜公園内)

011_220708058 X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 11.「天下布武」印
岐阜公園を名和昆虫博物館を目ざして南へ進む。石囲いに腰かけて、女性がひとりスマホを使っていた。貨幣を形どったような造作がある。何だろうと思ったが、すぐそばに答えがあった。これは、織田信長の「天下布武」印と花押(いわばサイン)の石碑であった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 21mm ISO 110 ) 露出補正 なし
012_220708057 X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 12.「天下布武」印の説明書き
織田信長は、永禄8年(1565年)9月頃から文書に麟(りん)の字をかたどった花押を使用するようになり、永禄10年(1567年)9月に岐阜に居城を移し、同年11月、「天下布武」印を使い始めたことが分かっているそうだ。この「天下布武」印によって、この文書が信長の意志によって作成され、それを伝えるものであることが示されている。「天下布武」という文面は、武力によって天下に号令するとの意志を示している。この翌年、信長は足利義昭を奉じて京都に進出するが、この印章の使用は、すでに岐阜を手に入れた段階で、天下を治める構想を練っていたことを示しているのだろうと目されている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 21mm ISO 450 ) 露出補正 なし
013_220708062 X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 13.「信長の庭」
岐阜市のホームページでは、「天下統一を夢見た、岐阜ゆかりの武将 織田信長公 が駆け抜けた戦国時代の荒々しさをイメージした庭園です。永年にわたって岐阜公園を見つめてきた巨木を取り込み、長良川流域の巨大な石(約1,000t)を使った石庭として、当時の石組みの技法を用いて「剛」「静」「雅」の3つの滝と池からなり、近隣にはない規模の日本庭園です。また、当時の井戸を出土した場所に再現し、岐阜城下をイメージした「信長の町」やせせらぎ水路など、信長が居城していた時代を思い巡らしながら、四季折々の風景美と調和した素晴らしい眺めを楽しんでいただけます。」と紹介されている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.8 1/500秒 54mm ISO 6400 ) 露出補正 なし
014_220708065 X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 14.冠木門
「信長の庭」の池が終わるところの左側(東側)に信長の居城跡が保存整備されているが、その居館跡の入り口には冠木門が設置され、館が建てられていた頃の雰囲気をしのばせている。ここより上の段には巨石列で区画された城主の居館があった。この冠木門は市内のロータリークラブから寄贈されたものであるが、当時の入り口はもう少し南側だったようだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 20mm ISO 640 ) 露出補正 なし
015_220708069m X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 15.三重塔 -1
信長の居館跡辺りから三重塔が良く見えた。大正天皇御大典記念事業として大正6年(1917年)に、かっての長良橋の材木で建築された登録有形文化財だそうだ。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.8 1/500秒 45mm ISO 360 ) 露出補正 なし
016_220708079 X800 〇岐阜公園 Z50 18-140.jpg 16.三重塔 -2
日本画の巨匠として知られる川合玉堂が位置を定めたと言われている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5.6 1/500秒 92mm ISO 280 ) 露出補正 なし
017_220708088 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 17.名和昆虫博物館 看板
岐阜公園を南へ進んでいくと名和昆虫博物館の看板が見えてきた。パンフレットによると、名和昆虫博物館は大正8年(1919年)10月26日に財団法人名和昆虫研究所の付属施設として、開館したという。当初は主に農作物害虫やシロアリなど家屋の害虫駆除のための啓蒙普及の場として先駆的な役割を果たした。時代とともに公共の害虫研究機関が発達するにあたり、その使命を自然教育の一環としての昆虫啓蒙普及に活動してきた。昆虫専門の博物館でしかも、全くの個人が設立し5代にわたって、今なお活動し続けている点で、他に類を見ないユニークな博物館と言える「日本で最も長い歴史を誇る昆虫専門の博物館」である。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 22mm ISO 110 ) 露出補正 なし
018_220708087 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 18.名和昆虫研究所記念昆虫館 (標本収蔵庫)
博物館の手前に、明治40年(1907年)6月に竣工した名和昆虫研究所記念昆虫館が見えた。この建物は標本収蔵庫として建てられた。昆虫博物館とともに近代日本を代表する建築家 武田五一氏の設計によるもので、歴史的にも価値がある。博物館は登録有形文化財、記念館のほうは岐阜市重要文化財に指定されている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 32mm ISO 110 ) 露出補正 なし
019_220708089 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 19.名和昆虫研究所記念昆虫館の側面
なお、名和昆虫研究所は明治29年(1896年)に、農作物や家屋の害虫の研究を主な目的として、名和靖 が独力で設立した。現在は一般財団法人組織なっている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 22mm ISO 400 ) 露出補正 なし
020_220708090 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 20.名和昆虫博物館 受付
歴史的な建物である博物館の入り口を入り、呼び鈴を押した。係の方が後ろの事務所から出て来られ、入館料をお支払いする。展示されている標本やパネルを撮影してよいかと尋ねたところOKとのこと。これは、ここで販売されている標本の写真である。標本製作は確かな技術を持った、当博物館の2名の経験豊かな職員の方がおこなっているとのこと。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 26mm ISO 3200 ) 露出補正 なし
021_220708102 X800 〇岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 21.ルードルフィア・ラインについてのパネル
名和昆虫研究所の創設者である名和靖氏は、研究所設立前の1883年(明治16年)に岐阜県郡上郡祖師野村(現在の下呂市金山町祖師野)で、のちに「ギフチョウ」と命名されるチョウを発見した。日本にはルードルフィア属として、ギフチョウとヒメギフチョウの2種が生息し、大まかに西にギフチョウ、東にヒメギフチョウと明確に棲み分けをしており、基本的にこの2種が同時に見られる事はない。両者はごく一部の混生地(山形の最上川流域や新潟県の糸魚川~長野県白馬村など)を除いて見事に棲み分けていて、その境界線をルードルフィア・ラインという。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 24mm ISO 2800 ) 露出補正 なし
022_220708103 X800 〇岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 22.ギフチョウに近い仲間
さすが、ギフチョウに関連する展示が多数あった。これは中国などに棲むシボリアゲハの仲間である。2011年8月中旬に、日本の調査隊6人が、ブータン政府の調査団とともに渓谷奥地の秘境で、78年ぶりにブータンシボリアゲハを確認した。このことはテレビでも詳しく報道された。来日したブータン国王夫妻が、日本の協力へのお礼としてブータンシボリアゲハ2頭を寄贈されたことが話題となった。ブータンシボリアゲハは「ヒマラヤの貴婦人」と呼ばれる幻の大蝶として知られている。ブータンシボリアゲハのほか、この仲間には、シボリアゲハ、シナシボリアゲハ、ウンナンシボリアゲハの3種が知られている。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.2 1/500秒 36mm ISO 3200 ) 露出補正 なし
023_220708126 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 23.2階展示室
1階の展示室は、外国のカブトムシやクワガタの展示も多かった。そして、2階の展示室に上がる。華麗なチョウを集めた世界の美チョウ・コーナーが目を引く。自然教育の一環としての昆虫啓蒙普及を目的としてか「クイズで遊ぼう、学ぼう、不思議な昆虫の世界」と題した実物昆虫標本によるクイズ形式の展示が多くあった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.8 1/500秒 24mm ISO 3200 ) 露出補正 なし
024_220708131 X800 岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 24.モルフォ
世界の美チョウがグループ分けして展示されている。これは南米に生息するモルフォチョウの仲間で、中央の4頭はヘレナモルフォ、その周りを、レテノールモルフォなどが取り囲む。このグループは日本には生息していない。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.8 1/500秒 54mm ISO 4000 ) 露出補正 なし
025_220708149 X800 〇岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 25.各地のツマベニチョウの仲間
東南アジアに多く生息するが、日本にも沖縄県、鹿児島県に1種のツマベニチョウがいる。シロチョウ科最大のチョウで見栄えが良い。少年時代には憧れたチョウである。多摩動物園や足立区生物園の温室には飼育されたツマベニチョウが翔んでいる。私は那覇の公園でハイビスカスにきたツマベニチョウの写真を一度だけ撮影したことがある。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4 1/500秒 29mm ISO 4000 ) 露出補正 なし
026_220708142 X800 〇岐阜公園 名和昆虫博物館 Z50 18-140.jpg 26.世界の美チョウ ギフチョウはどれ?
クイズ形式の標本展示である。東南アジアに棲むトリバネアゲハの仲間、中央アメリカ・南アメリカに住むミイロタテハの仲間、モルフォチョウの仲間を世界の3大美チョウという。この標本箱の中には、それ以外の美しい蝶も収められている。ギフチョウも入っている。博物館にお展示されているすべての標本を丁寧に見ることはできなかったし、写真に撮ることもできなかった。後日、このブログのため、ネット検索したところ、ほぼ完ぺきに名和昆虫博物館の展示について網羅されている Life Designs というサイトがヒットした。ヒナバルオナガタウマイ(ボルネオ)という蝶の標本を記念に購入した。見事な展翅である。外に出ると、先生に引率された幼稚園の子供たちだろうか、見学に来ていた。(トップの写真)

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f3.5 1/500秒 22mm ISO 3200 ) 露出補正 なし
027_220708170 X800 岐阜公園 華松軒 Z50 18-140.jpg 27.抹茶カフェ -1
名和昆虫博物館を退出し、駐車場へと歩き始めると右手に 立札茶房「華松軒」というところがあった。気温も上がってきて喉が渇いていた。和菓子で抹茶を楽しもうということになった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f5 1/500秒 48mm ISO 100 ) 露出補正 なし
028_220708165 X800 岐阜公園 華松軒 Z50 18-140.jpg 28.抹茶カフェ -2
落ち着いた気分になる。岐阜市政100周年を記念して昭和63年(1988年)に開室した茶室「華松軒」の立礼茶席で、80歳の男2人で和菓子と冷たい抹茶で涼をとる。抹茶は滅多にいただくことはないが、立ち寄ってよかった。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.2 1/500秒 36mm ISO 400 ) 露出補正 なし
029_220708173tm X800 岐阜公園 岐阜城 Z50 18-140.jpg 29.岐阜城
茶室「華松軒」を出て、振り返ると岐阜城が見えた。岐阜城は鎌倉時代に二階堂氏が築城した山城である。斎藤道三の居城の時は稲葉山城と呼ばれ、信長が天下統一の足掛かりとした居城としても有名である。現在の城は昭和31年に再築された。標高329mの金華山山上に建ち、最上階からは、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、東には恵那山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、北には乗鞍、日本アルプスが連なっている。また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃尾の大平野が豊かに開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめることができるという。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/2500秒 140mm ISO 100 ) 露出補正 なし
030_220708071 X800 岐阜公園 Z50 18-140.jpg 30.三重塔と「ぎふ金華山ロープウェイ」
1955年(昭和30年)に「信長の庭」の傍から金華山山上へ上がるロープウェイが、開通している。天気も良いので上に上がって、信長の気分になってみたかったが、ロープウェイの山上駅から城まで徒歩8分あるという。時間が足りないので、今回は割愛する。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f4.8 1/500秒 45mm ISO 200 ) 露出補正 なし
031_220708178 X800 〇岐阜公園 エノキ Z50 18-140.jpg 31.ゴマダラチョウ -1
左側をせせらぎが流れる。そこで何かが翔んだ。近寄ってみるとゴマダラチョウだった。最近、ゴマダラチョウの写真を撮っていない。これはこれで嬉しい。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/500秒 140mm ISO 2000 ) 露出補正 なし
032_220708192 X800 ◎岐阜公園 エノキ Z50 18-140.jpg 32.ゴマダラチョウ -2
お腹が大きい。雌のようだ。止まっている葉もエノキのようである。NIKKOR Z DX 18-140mm というレンズは扱いやすい。チョウを撮るときも、チョウから40cmくらいに近づくことが出来る。だが、いかんせん暗い。105mm macro f2,8 が欲しくなる。

Nikon Z50 NIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VR
プログラムオートで撮影  ( f6.3 1/500秒 140mm ISO 280 ) 露出補正 なし


2021年9月26日

クロマダラソテツシジミ  その4 & ツマグロヒョウモン雌  9月13日

舞岡公園から帰ってきて車をガレージに入れ、その足でクロマダラソテツシジミを見に近くの公園へ行った。
 ところがこの日はセンニチコウの咲く花壇にはクロマダラソテツシジミは見られなかった。その代わり、ツマグロヒョウモンのきれいな雌が姿を見せた。TAMRON 90mm macro で撮る。
 ソテツの鉢植えが玄関先におかれている公園近くのお宅を見ると、クロマダラソテツシジミらしきチョウがソテツの鉢植えの周りを飛び、その鉢植えのソテツの根元に潜り込んでいった。雌だと思う。

000_210913246x X700 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg
羽化後早々のツマグロヒョウモン雌 2021年8月13日 横浜市

019_210913199 X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 19.ツマグロヒョウモン雌 -1
クロマダラソテツシジミがいないかとセンニチコウの花壇を目を凝らしてみていたら、ツマグロヒョウモンの雌が飛来して、傍に植えられて咲いていたダリアの花にとまり、吸蜜を始めた。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO100 ) 露出補正 なし
020_210913202 X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 20.ツマグロヒョウモン雌 -2
前翅裏面の 薄紅色とでもいうのだろうか、前翅の淡いピンクが好きだ。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO110 ) 露出補正 なし
021_210913217m X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 21.ツマグロヒョウモン雌 -3
何処から見ても傷ひとつない完全な姿である。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO200 ) 露出補正 なし
022_210913224 X800 ◎峰岡公園 ヤマト D5300 TAMRON 90.jpg 22.ヤマトシジミ雌
白いセンニチコウの花にはヤマトシジミのが来ていた。高温期型である。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO140 ) 露出補正 なし
023_210913228x X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 23.ツマグロヒョウモン雌 -4
先ほどまでダリアの花で吸蜜していたが、白いセンニチコウへ移ってきた。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO140 ) 露出補正 なし
024_210913241 X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 24.ツマグロヒョウモン雌 -5
ツマグロヒョウモンはもともと南方系のチョウである。wikipediaによれば、「本州では1980年代まで近畿地方以西でしか見られなかったが、徐々に生息域が北上し1990年代以降には東海地方から関東地方南部、富山県・新潟県の平野部で観察されるようになった。2002年には関東地方北部でも目撃報告がある。2006年現在、関東地方北部でもほぼ定着し、普通種になりつつある。」とある。だが、私が小学生の頃、小仏峠から高尾山への尾瀬道で、前方から飛んでくる本種をネット一閃、捕った思い出がある。1950年代のことだ。また、標高の高いところでは、近年、長野県の池の平湿原(標高2,000m)で撮ったこともある。もはや、自宅付近でも普通種である。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO140 ) 露出補正 なし
025_210913263x X800 ◎峰岡公園 D5300 TAMRON 90.jpg 25.ツマグロヒョウモン雌 -6
また、名古屋大学の伊藤嘉明先生の「琉球の蝶 ツマグロヒョウモンの北進と擬態の謎にせまる」という著書では、ツマグロヒョウモンの分布北上は、温暖化だけでなく、食草となるパンジーが高密度に存在することが重要であったと記されていた。パンジーの鉢の縁を、黒に赤銅色のストライプが入った幼虫をしばしば見かける。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO110 ) 露出補正 なし
026_210913270 X800 ◎峰岡公園 ヤマト D5300 TAMRON 90.jpg 26.ヤマトシジミ雄
開翅はしてくれなかったがブルーに黒い縁がある雄だった。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO140 ) 露出補正 なし
027_210913280m X800 〇峰岡公園 民家 クマソ D5300 TAMRON 90.jpg 27.クロマダラソテツシジミ雌?
公園の近くのあるお宅の玄関先に置かれた鉢植えのソテツでは、その根元に潜り込んでいくクロマダラソテツシジミがいた。産卵しようとしているのだろうか?破損のないきれいな個体だった。

Nikon D5300 TAMRON AF90mm f/2.8 Di macro
絞り優先オートで撮影 ( f4.5 1/500秒 90mm ISO400 ) 露出補正 なし


2020年12月27日

琵琶湖をぐるっとGo To トラベル 11月25日~27日 (7)百済寺 11/26

ツアー2日目の最後は湖東三山の残るひとつ、百済寺だ。約45分ほどバスに揺られて、午後3時15分、 琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する湖東三山最古の寺院、百済寺に到着した。百済寺もまた天台宗の寺院である。
 wikipediaによれば、琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となって、「湖東の小叡山」や「天台別院」とも称されるようになった。
 三山の中で百済寺の参道は、入口にあたる山門(赤門)から本堂までの長さが最も長いという。しかし、バスの駐車場はその参道を半分以上上がったところにあり、表門が受付になっていた。そこから本堂への参道は石段になっているが、なだら坂という迂回する脇参道もある。往きは、石段の表参道を上がり、本堂からの戻りはなだら坂を下りてきた。
 そのなだら坂を下りて来ると、別名を「天下遠望の名園」と称される本坊庭園の上の「遠望台」 に出る。そこからは西に琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山が眺められ、広大なパノラマ展望が開けるた。
 以下、写真の説明は、wikipedia、百済寺のホームページ、境内にある説明板を参照させていただいている。

百済寺境内案内図 百済寺ホームページより X600.jpg
百済寺境内案内図 百済寺ホームページより

午後4時過ぎに百済寺を出て、宿のある草津へ戻る。この日の夕食は各自自由にということだった。折角のチャンスと思い、ホテルの人に教えてもらい、薦められた草津駅西口近くの「安田良」で近江牛を味わうことにした。
 食後、草津駅近くの繁華街を歩いてみたが、すっかり新しくなっていて、私が育ったころの田舎は影も形もない。当たり前だ。もう70年以上も前のことである。

142.長寿桜
バスの駐車場から受付のある表門へ行く途中に長寿桜が咲いていた。西明寺では不断桜と呼ばれていたが、ここでは長寿桜だ。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 10mm ISO400 ) 露出補正 -0.3段
201126632_142 X800 百済寺 RX10M4.jpg
143.歩かなかった参道
表門から参道に入り左へ行くと、本堂である。ふと右側を見ると、赤門から続く参道があった。ここは人が通らい。誰もいない参道は落ち葉が敷き詰められていた。 その参道が通用門からの道にぶつかるところに柵があるが、そこで三脚を立てたカメラマンが立っていた。撮影のお邪魔にならないように引き下がる。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 16mm ISO2500 ) 露出補正 -0.3段
201126637_143 X800 百済寺 RX10M4.jpg
144.石段と落葉
仁王門へと参道を歩く。まだ3時半前だが日が傾くと暗くなる。参道の石段に落ち葉が落ちていた。  

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 29mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126639_144 X800 百済寺 RX10M4.jpg
145.仁王門と参道
仁王門が見えてきた。 長い参道の本堂近くに立つ仁王門は、江戸時代初期、慶安3年(1650年)に本堂、赤門、とともに再建されたという。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/125秒 18mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126644_145 X800 百済寺 RX10M4.jpg
146.仁王門
三間二間で一対の金剛力士像が向きあっている。金剛と力士の仁王像は寺を守る守護神で、金剛は阿形(開口)、力士は吽形(閉口)で勇猛、剛健、とくに健脚の両足に草鞋を履く「印度発祥の東洋的な神様」だそうだ。  

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/80秒 87mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126640_146 X800 百済寺 RX10M4.jpg
147.仁王門の草履
  仁王門の両側に百済寺のシンボル「大草鞋」が掛けられている。一昨年8年ぶりに掛け替えられたそうだ。 大草鞋は仁王が履くものとされ、触れると身体健康・無病息災の御利益があると伝えられている。草鞋が大きいほど御利益も大きいとされて、どんどん大型になっていき、今回は全長約2.5mのものが作られた。地元の方々が、約10年毎に新調するそうだ。(2018年大草鞋新調)

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/160秒 12mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126646_147 X800 百済寺 RX10M4.jpg
148.弁財天
慶安3年(1650年)に本堂とともに建立された弁天堂は、昭和の豪雪で倒壊し、平成8年に新築した御堂が平成24年の春の風害で再び倒壊し、現在は平成25年に再建された、七転び八起きの弁財天が祀られている。弁財天は、もともとインドの水を司る「河川の神」で、怒ると大洪水を、治まると台地に肥沃な恵みをもたらす「女神」として崇められ、仏教に取り入れられてからは七福神の一人として、貧困を救い財産を与える「弁財天」となったと説明されていた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/160秒 26mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126649_148 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
149.本堂 重要文化財
本堂は室町時代の明応7年(1498年)の火災、文亀3年(1503年)に兵火をうけ、さらに織田信長によって天正元年(1573年)全山焼失した。その後天正12年に堀秀政により仮本堂が建立。のち天海僧正の高弟亮算が入寺し、堂舎再興の勅許を得て諸国に勧進し、江戸時代の慶安3年(1650)現在の本堂が竣工したという。本堂は、入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築で、2004年(平成16年)に重要文化財に指定されている。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。また、旧本堂の右方(南)には五重塔が建っていた。本尊は木造十一面観音像である。全高3.2m。寺伝によると聖徳太子が百済博士の慧慈(高句麗僧)の案内でこの山中に分け入り、杉の大木の上半分が、百済国・龍雲寺の御本尊十一面観音のために百済まで運び出された事を知り、下半分の根の付いたままの巨木に十一面観音を刻んだことから、別名「植木観音さま」という名で崇められている。秘仏であり普段は拝観できない。一生に一度拝観出来るか出来ないかだが。2006年には、天台宗開宗1200年記念で湖東三山一斉に御開帳された。また、特例として2014年には湖東三山IC開設記念の御開帳も行われた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/1200秒 212mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126655_149 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
150.鐘楼
現在の梵鐘は3代目で1955年(昭和30年)の鋳造だそうだ。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、2代目(江戸時代に鋳造)は先の大戦で供出している。  

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 30mm ISO2500 ) 露出補正 -0.7段
201126659_150 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
151.鐘楼ともみじ -1
金剛輪寺、西明寺に比べると百済寺のもみじは鮮やかさがなかった。少し時期が遅かったし、夕方近くになって、光量も乏しい。ここの梵鐘も参拝者が自由に打つことが出来る。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/400秒 11mm ISO3200 ) 露出補正 -0.3段
201126666_151 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
152.鐘楼ともみじ -2
鐘楼の間から、鐘ともみじを狙ってみたが、良い色が出せなかった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 30mm ISO3200 ) 露出補正 -1.0段
201126674_152 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
153.なだら坂
本堂、鐘楼から右回りになだら坂を下りる。とても歩き易い道だ。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 26mm ISO2500 ) 露出補正 -1.0段
201126679_153 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
154.ミツマタの群落
なだら坂の途中にミツマタの群落あった。漢字で「三椏」と書く。説明板には中国原産のジンチョウゲ科の植物で、日本の高額紙幣の原料と記されていた。3月上旬から開花をはじめ、4月下旬にかけて芳香を放ちながら萌黄色から橙色へと色合いを深めていく。観音様にお参りして三椏の花びらに優しく触れて匂いを嗅ぐと大きな「金運」と「ご利益」恵まれると伝えられているそうだ。春には舞岡公園でもさいているが、こんな群落は始めて見た。俯いて花のように見えるのは蕾だろうか?

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO2800 ) 露出補正 -1.0段
201126680_154 X800 〇百済寺 ミツマタ群落 RX10M4.jpg
155.弥勒半跏思惟石像
像高27cmの百済寺寺宝の金銅製弥勒半跏思惟像(こんどうみろくはんかしいぞう)は、 百済寺の起源に係わる仏像としてその制作年代については諸説があったが、飛鳥・白鳳時代作が最有力だそうだ。全身に火災を受けて痛々しい姿ながら、歴史を見つめてきた 秘仏であり、末永く安置、保存されることとなった。普段は見ることが出来ない。この 座高1.75m、全高3.3mの石像は平素の参拝のために拡大したもので、2000年のミレニアムを記念して、平成12年9月に建立された。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 19mm ISO3200 ) 露出補正 -0.7段
201126683_155 X800 百済寺 RX10M4.jpg
156.庭園遠望台
不動堂、本坊・喜見院の上に下りてきた。まだ緑色の葉が残る木々の向こうに、琵琶湖方面の眺めが開ける所だ。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 20mm ISO1000 ) 露出補正 -0.7段
201126686m_156 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
157.カエデの落ち葉
本坊外縁の辺りは人が踏み入らない敷地があり、カエデの落ち葉が敷かれていた。  

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 16mm ISO2000 ) 露出補正 -0.7段
201126687_157 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
158.天下遠望
遠望台からは、喜見院の屋根越しに、湖東平野と琵琶湖をかすめて西の遠方50kmほど先に富士山のようにそびえる比叡山(標高848.3m)が眺められた。さらにその延長880km先には百済国がり、渡来人が望郷の念を抱いて眺め、母国を偲んだという。そのスケールの大きさから喜見院の庭園は「天下遠望の名園」と称されている。赤く染まる空を期待したが、まだ時間的に早かった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 29mm ISO1000 ) 露出補正 -0.7段
201126691_158 X800 百済寺 RX10M4.jpg
159.本坊庭園
喜見院は今とは別の場所にあったが、元文元年(1736年)に焼失、翌元文2年(1737年)に仁王門下の左方に移転し、1940年(昭和15年)に現在地に移転して本坊となっている。この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園で 現代鈍穴流  の作法で作庭されている。とくに聖徳太子の願文に「一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る」とあるというが、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石が配されている。 これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭された。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 23mm ISO2000 ) 露出補正 -0.7段
201126695_159 X800 百済寺 RX10M4.jpg
160.百済寺の長寿桜
バスが待っている広場にも長寿桜が咲いていた。花びらを良く見てみると、西明寺のフダンザクラとは異なる品種のようだ。フユザクラとの書き込みもあったが、定かでない。フユザクラ(コバザクラとも呼ばれる)は本州を原産とするバラ科の落葉高木。来歴には諸説あるが、一般的にはヤマザクラとマメザクラが自然に交配してできたものとされ、伊豆半島と房総半島には自生も見られる。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 23mm ISO2000 ) 露出補正 -0.7段
2011266702_160 X800 〇百済寺 RX10M4.jpg
161.草津駅西口  エイスクエア(大型ショッピングモール)
草津のホテルには夕方5時半前に戻ってきた。先に記したように、今夜は近江牛を食べようと、ホテルのフロントで聞いて、草津駅の近くの「安田良本店」という店に行くことにした。タクシーに5分ほど乗ることになった。JR草津駅の繁華街は東口であったが、「安田良本店」は西口のビルの中にあった。JR草津駅西口は、1968年(昭和43年)3月に完成し、3400㎡の駅前広場と幅員22m、延長65mの取り付け道路が新設され、琵琶湖方面へのバスターミナルが併設されていた。 1996年3月26日に約3,000台の駐車場を有する大型ショッピングモールが開業し、ホテルなどが林立、大発展をしている。70数年前の草津からは全く想像もできない。近江牛は流石に美味かった。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/200秒 28mm ISO3200 ) 露出補正 +0.3段
201126910_161  X800 2日目 草津駅周辺 G7X.jpg
162.草津駅東口へ
西口から駅構内に入り、東口へ行く。駅構内には、親からも草津の名物として聞いていた 「うばがもち」  の店があったので、買ってみた。伊勢の「赤福」のような食感だった。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/1000秒 23mm ISO800 ) 露出補正 +0.3段  
201126921_162 X800 2日目 草津駅周辺 G7X.jpg
163.草津駅東口
東口へ出てみた。夜8時ごろであるが、人通りは少ない。ペットボトルに何かを入れ、逆さに吊るして組んだツリーが面白い。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/1000秒 23mm ISO800 ) 露出補正 +0.3段
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164.草津の街
この辺が繁華街なのかなと歩いてみたが、人通りは少なかった。ホテルに帰るタクシーの運転手さんに聞いてみたが、やはり、コロナのため、人出がめっきり少なくなっているという。発展した草津を感じることは出来た。最近では、大津市とほぼ同じ規模となった草津市について、wikipediaには、「織田  信長は、室町将軍足利義昭から提示された管領または副将軍の職を辞退し、代わりに堺・大津・草津の支配権の承認を求めた。当時の草津は東海道・中山道および湖上交通を結ぶ交通の要衝として、世界的な貿易港の役割を持ち鉄砲の名産地として知られる堺や、京都の外港あるいは衛星都市としての役割を持つ大津と並び重視されていた。江戸時代には東海道と中山道の両者にまたがる宿場町(草津宿)として発展した。」との記述があった。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/1000秒 23mm ISO800 ) 露出補正 +0.3段
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2020年1月 1日

2020年 新年のご挨拶

謹んで新春をお慶び申し上げます

昨年もStudio YAMAKO をたびたびお訪ねくださり、ありがとうございました。n-shuhei さんのサイトに居候をさせていただき、n-shuhei さんのお力をお借りしているのですが、いつまでも、何から何までお手を煩わせるわけにもいかず、ご指導を仰ぎながら自分でアップをするようになりました。自分でやってみて、今までかけていたご苦労を改めて実感した次第です。写真を撮ってきて、コメントを付けてアップしていくのですが、チョウの写真はともかくとして、旅行の写真は、そのコメントを書くのにいろいろと調べなくてはなりません。昔なら図書館にでも行って調べられるかどうかというところですが、今はインタネットがあります。IT革命を実感しています。撮ってきた旅行の写真を見ながら、これは何処、なぜといった疑問をインタネットで検索していくのですが、これも楽しい作業です。2度旅行をし、改めて知識を得ています。今後も週1~2回の更新を目標にしていきたいともいますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 昨年のチョウの写真撮影は、4月にギフチョウを狙って新潟県の妙高高原へ、5月には家族旅行で台湾台北へ、7月には北海道は「なつぞら」ブームの十勝地方へ行きました、8月は高原のチョウを撮りに上高地へ日帰りのバス旅をしました。また、一昨年は7月に行った湯の丸高原へ、昨年は季節を変えて8月にベニヒカゲを撮りに行ってきました。9月には軽井沢のゴルフの帰りに、信濃追分の花咲山にある「蝶の里」というところへアサギマダラを目的に寄ってみました。フジバカマに集うアサギマダラには時期尚早だったのですが、シータテハ、ミヤマカラスアゲハなどが撮影できました。
 ここのところ毎年のように、日帰り、あるいは泊りがけで出かけている長野県東御市の湯の丸高原で撮ったチョウを選んでみました。ここはミヤマシロチョウ、ミヤマモンキチョウ、そしてベニヒカゲという3種の高山蝶が生息するところです。

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湯の丸高原で撮ったチョウたち

左上から右へ順次
  • コキマダラセセリ♀ 2016年7月24日 池の平湿原
  • メスアカミドリシジミ♂ 2018年7月21日 鹿沢園地
  • スジボソヤマキチョウ♂ 2018年7月20日 池の平湿原
  • エルタテハ♂ 2018年7月21日 湯の丸牧場
  • ベニヒカゲ♀ 2019年8月27日 池の平湿原
  • ミヤマシロチョウ♂ 2018年7月21日 湯の丸牧場
  • ミヤマモンキチョウ♂ 2016年7月24日 池の平湿原
  • クジャクチョウ♂ 2019年8月27日 池の平湿原
  • キバネセセリ♀ 2018年7月21日 鹿沢園地
  • ミヤマモンキチョウ♀ 2018年7月20日 池の平湿原
  • ベニヒカゲ♀ 2019年8月27日 池の平湿原
  • ミヤマシロチョウ♀ 2015年7月21日 烏帽子岳登山道
  • アサギマダラ♂ 2019年8月27日 湯の丸林道
  • ミドリヒョウモン♂ 2018年7月21日 湯の丸牧場
  • ゴイシシジミ♂ 2016年7月24日 池の平湿原
  • フタスジチョウ♀ 2018年7月21日 湯の丸地蔵峠

昨年は新しい御代となり4月1日に新元号「令和」の元年を迎えました。約200年ぶりになる歴史的な皇位継承で平成天皇は上皇になられ、美智子さまは上皇后になられました。新元号「令和」は万葉集の梅の花の歌から引用され「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味だそうです。一人ひとりの日本人が明日の希望とともに、それぞれの花を大きく抱かせることが出来る、そうした日本でありたいという願いと、若い世代が活躍できる時代が来て欲しいとの願いが込められています。
 10月22日、海外191ヵ国、423人、国内1,576人の参列者が集い「即位の礼」が行われましたが、式の直前まで降っていた雨が急に止み、青空が見え、虹が現れました。まるで用意された演出のようでした。

 一昨年も災害の多い年でしたが、昨年のもまた、日本列島は自然の猛威に襲われました。9月9日未明に千葉県に上陸した台風15号では、関東地方を中心に記録的な暴風が吹き荒れ、午前4時28分に千葉市で最大瞬間風速57.5mが観測されました。私が住む横浜市でも午前3時12分に41.8mが記録されています。強風でゴルフ練習場の鉄塔が倒れ、住宅の屋根が壊されるなど風による直接の被害が多く出たほか、東京電力管内で一時93万戸が停電し、電気、水道といった生活のためのインフラの被害で、2週間と言われた完全復旧まで住民の方々が不自由な生活を強いられたことは、お舞いの言葉もありません。私の存じ上げている方のなかにも、屋根が壊されたり、電気が止まってしまったといった被害を受けられた方がおられました。 さらに10月12日から13日にかけて、今度は台風19号が強風とともに大雨をもたらしました。だんだん明らかになっていく被害状況では、堤防の決壊は10月25日現在で千曲川や利根川水系の河川など71河川で135か所に達し、洪水により亡くなられた方は86人に及びました。謹んでお悔やみ申し上げます。
 長野県の千曲川流域にある長野新幹線車両センターも浸水し、10編成120車両が水に浸かり、11月6日には全車両廃止の決定が下されました。150億円近い損害だそうです。 また、紅葉シーズンを控えた箱根では雨量1,000mmが記録され、箱根登山鉄道は全線長期間運休となり、復旧は今年(2020年)秋の運行再開を目指すということになってしまいました。
 台風以外でも昨年の気象は異常であり、6月末から7月初めにかけては、梅雨前線に南から暖かい空気が入り込み線状降水帯ができ、熊本、鹿児島、宮崎では記録的な雨量となりました。7月に入っても、都心は異例に連続して雨が降る梅雨となり、日照時間3時間未満という日が19日間も続きました。7月はチョウの写真を撮りに出かけるトップ・シーズンなのですが、なかなか予定が立てられませんでした。

 世界の気象も異常でした。ヨーロッパ各地は猛暑に見舞われました。ドイツやポーランド、チェコでは最高気温が38度を超えるなど、6月の観測史上最高を記録したそうです。 フランスやスイスの一部地域でも、観測史上で最も高い気温に達したと伝えられました。フランスは40℃を越え、高地のアルプスでさえ、30度を記録したということでした。世界気象機関(WMO)は9月に温室効果ガスの影響で、世界の平均気温は過去5年間で観測史上最も暑くなるなど、地球温暖化の兆候やその影響が加速していると発表しています。
 南米アマゾンで発生した山火事は深刻な状況になっています。熱帯雨林であるアマゾンでは、火災は通常は早い段階で鎮静化するのだそうですが、いま原因の大半は森林を手っ取り早く伐採するため人間が火を付けたことだとみられ、加えて乾期のため火の勢いが増してます。アマゾンの熱帯雨林は豊かな多様性を維持しています。地球上の10分の1の生物が生息するアマゾンでの大規模な森林火災は、動植物の絶滅危機を招くことに違いありません。

 一方、9月に発生したオーストラリアの山火事は今も猛威を振るってます。最も被害が大きいのはオーストラリア最大の都市シドニーがあるニューサウスウェールズ州です。165万ヘクタール(1万6500平方キロ)が焼失し、住宅600戸以上が破壊されました。10月末現在でコアラが350匹焼死したと伝えらています。シドニーで12月10日、郊外の山火事による大気汚染が悪化してます、オペラハウスやハーバーブリッジなど、観光名所も濃い煙に覆われたと報道されました。火災報知器の誤作動が相次ぎ、シドニー湾のフェリーは欠航となったそうです。

 さて、世界情勢は、トランプ大統領と金正恩大統領との対話は2月にベトナムの首都ハノイで会談したあと、6月にトランプ大統領が突然板門店を訪れたりしましたが、その後、一向に進まず、また、慰安婦問題をきっかけに、徴用工問題に関する韓国大法院の判決に端を発した日韓両国の不仲も一向に解決の兆しがありません。韓国という国はなかなか話がしにくい相手のようです。米中貿易摩擦もあり、アメリカを交えた日本、中国、韓国を取り巻く環境は不穏な一年でした。

 逃亡犯条例改正案に反対するデモが発端となった香港は、10月時点では「五大要求」の達成を要求する反政府デモとなっています。香港返還後初めての戒厳令に近い権限を行政長官に与える超法規的措置が発動されました。

 フランスでは4月15日~16日にノートルダム大聖堂の火災があり、修復作業中だった尖塔が焼けて崩落し、木材で骨格が作られていた屋根の3分の2が焼失しましたが、日本でも沖縄の首里城公園で10月31日未明に火災が発生し、世界遺産に指定されている首里城の正殿に加え、北殿、南殿など複数の建物が全焼してしまいました。原因は電気系統とのことですが、とても残念なことでした。

 年の瀬になった2019年12月4日、アフガニスタンにわたり20年以上も医療、用水路の建設に貢献されてきた、福岡市のNGO(非政府組織)「ペシャワール会」の現地代表中村哲先生が、アフガニスタンのジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、亡くなられたとの悲報が伝えられました。中村先生は1984年にパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任、30年以上にわたり、現地で医療と用水路の建設に尽力されました。水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、専門外でありながら、自分で重機を動かし、福岡県の山田堰をモデルにして建設されていました。そして、ガンベリー砂漠まで総延長25kmを超える用水路が2010年に完成しました。約10万人の農民が暮らしていける基盤を作られたそうです。2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章され、2019年10月7日にはアフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権を授与されたばかりでした。ご遺体は12月9日午前、ご家族とともに福岡に到着されました。

 日本人として嬉しいこととして、2018年の本庶侑氏のノーベル医学・生理学賞に続き、昨年も12月に 京都大学で石油化学を専攻され、旭化成に入社されていた吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞されたことがあります。リチウムイオン電池の負極に炭素材料を使う方式を開発し、幅広く普及させるための基本技術を確立したことが評価されました。

 スポーツの世界に目をやると、昨年も日本選手の活躍が目立った1年であったと思います。
 1月に行われた全豪オープンテニスで、大坂なおみ選手は2018年8月の全米オープンに続きグランドスラム2連勝、世界ランク1位に上がりました。3月には小林陵侑選手がノルディックスキー・ジャンプのW杯個人総合優勝を決めました。同じく3月21日に東京で行われた米大リーグ開幕公式戦のマリナーズとアスレティックス第2戦でイチロー選手が引退を決めたことも大きな話題です。ゴルフでは、石川遼選手が日本プロで優勝、また、12月の日本シリーズJTカップでもプレーオフを制し優勝し、史上最年少で生涯獲得賞金10億円を超えました。また、タイガー・ウッヅの14年ぶりのマスターズ優勝をテレビで見て感動しました。女子は渋野日向子選手です。昨年それまで2勝して出場権を得た全英女子オープンで、大会前の目標は予選通過だったそうですが、見事優勝をしました。惜しくもLPGA賞金女王には届きませんでしたが、明るい笑顔はチャーミングです。
 卓球もTVで、さらに多くの試合が放映されるようになり、男子では張本選手、女子では、伊藤、石川、平野各選手らの活躍が楽しませてくれています。昨年12月は東京オリンピッの代表を掛けて、石川選手と平野選手の熾烈な競い合いがありました。シングルスの東京五輪の出場権は石川佳純選手が獲得しましたが、平野選手の素晴らしい高速ラリーには絶賛を送りたいと思います。それにしても、世界各国で行われるワールドカップなどの試合数の多さには驚いた次第です。
 日本で開催されたラグビー・ワールドカップ、日本の桜軍団がOne Teamとなってイングランドに勝ってベスト8に進出し、日本中が沸きました。。予選敗退したカナダチームが釜石で台風19号の被災地復旧のボランティアをしてくれたというのも良い話だったと感動しました。

 大きな災害や、出来事など記憶に残ったことを調べながら、整理せずに書き綴ってきましたが、私自身の備忘録としてお許しいただきたいと思います。
昨年はお陰様で風邪ひとつひかず元気に過ごすことが出来ました。キョウヨウ(今日は用がある)とキョウイク(今日は行くところがある)はシニアが心がける生活態度だと教えられました。人様のお役に立つようなことが出来ないでいることを恥じていますが、少なくとも人様に迷惑を掛けないように過ごしたいと思っています。

 最後になりましたが、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2019年7月15日

山中湖文学の森 6月4日

6月5日にゴルフをやろうと、その前日、仲間が会員になっているエキシブ山中湖に泊ることになった。そこで、集合時間の前にチョウの写真でも撮ろうと思い、自宅を早めに出発した。チョウのいそうなポイントが分からぬまま、行き先を「山中湖文学の森公園」にした。
 須走から国道138号線を20分ほど走ると山中湖畔旭日丘に突き当たる。そこを少し左に走ると「山中湖文学の森公園」 の入り口があった。入り口から少し坂を上がったところに駐車場があったが、閑散としていた。  曇り空で気温も低く、チョウはスジグリシロチョウしか飛んでいない。
 それにしても山中湖を見下ろす高台にある園地は、施設も立派で、落ち着きがあるところだった。入園料も不要で、園内を散策できる。ここの事業主は山中湖村で、管理運営は山中湖村教育委員会だそうだ。こちらは有料だが、三島由紀夫文学館や徳富蘇峰館もあった。
 その日の夜は宴会をして、夕食後は久しぶりにカラオケを楽しんだ。みんな上手い。翌日は絶好のゴルフ日和となり、友達同士で馬鹿を言いながら楽しいラウンドだった。

  1.文学の森公園案内図
山中湖へは何回か来ているが、ここは初めて来る。富士ゴルフコースが近い。チョウの写真を撮りたいと思って、この辺りへ行こうと思って来た。案内図を見ると、文学の森公園は三島由紀夫文学館や徳富蘇峰館があり、湖畔まで下りるいくつかの散策路がある。

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プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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2.徳富蘇峰館
駐車場から園内へ進むとすぐ右手に徳富蘇峰館が、左手に三島由紀夫文学館があった。この建物は徳富蘇峰館 である。立派な建物だ。ジャーナリストとして、著述家として、また歴史家として明治・大正・昭和史に大きな足跡を残し、山中湖の自然をこよなく愛した蘇峰をさまざまな角度から紹介しているという。

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プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 11mm ISO320 ) 露出補正 -0.3段
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3.三島由紀夫文学館
wikipediaによると、三島由紀夫 唯一の文学館として、1999年(平成11年)7月3日にここに開館した。公的機関での三島資料の保存・利用を希望する三島の遺族の意向と、「山中湖文学の森公園」建設の構想が一致したことから、三島文学の研究と普及を基本理念として設立されたそうだ。

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プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 9mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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4.三島由紀夫文学館の庭
三島由紀夫文学館の前を左に回り込むと庭園となっていた。この中庭は、三島邸(大田区南馬込)の一部のイメージが再現されているという。

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プログラムオートで撮影 ( f4 1/640秒 10mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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5. 富安風正句碑 「庭として 花野を湖に かたむくる」
  園内には、しゃくなげの道とか、かえでの道と名付けられた何本かの散策路がある。かえでの道からあやめの道を歩き、湖畔のほうへ降りていくと、与謝野晶子句碑やこの富安風正句碑あった。wikipediaによれば、富安風正は愛知県出身の俳人で高浜虚子に師事した。昭和28年8月より旭日丘の湖畔の山荘を落葉松荘と命名し、昭和53年まで避暑地として毎夏山中湖で過ごし、山中湖村青年俳人のグループ「月の江会」の句会で選句、指導するとともに句を読んでいたという。

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プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO800 ) 露出補正 -0.3段
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6.文学の小径案内図
その富安風正句碑の少し先にこの案内図が立っていた。富安風正句碑は8っあった。

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プログラムオートで撮影 ( f3.5 1/500秒 15mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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7.山中湖 湖畔 -1
湖畔から少し高くなったところに山中湖村平野地区の代表的旧家「旧天野次郎宅」を移築した「蒼生庵」とか、山中湖にゆかりのある近代俳句の巨匠・富安風生自筆の色紙や短冊等を展示した「俳句の館 風生庵」などがある。湖畔が眺められるが、富士山は湖の左側でここからは見えない。

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プログラムオートで撮影 ( f4 1/1000秒 15mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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8.「山中尋常高等小学校」
山中湖情報創造館につながるように「山中尋常高等小学校」という札が掛かった建物があった。「山中尋常高等小学校」は明治時代に建築され、校舎としての役割を終えた後も公共施設として最近までいろいろな形で活用されてきたそうだ。今は歴史文化の体験と継承を図ると共に、情報創造館の学習室、研修室として活用する事を目的に文学の森公園内に移築されている。

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プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 15mm ISO200 ) 露出補正 -0.3段
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9.「 俳句の館 風生庵」
山中湖村平野地区の代表的旧家であった「旧天野次郎宅」が古民家の保存と活用のために「文学の森公園」内に山中湖にゆかりのある近代俳句の巨匠・富安風生、俳句の館として移築された。 この建物は、富士北麓の典型的な農家のスタイルを伝えており、築後150年以上といわれている。入母屋風甲(かぶと)づくりの萱葺き屋根であったが、移築に際し銅板葺きに改修されている。

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プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/500秒 12mm ISO640 ) 露出補正 -0.3段
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10.森の小径
木漏れ日が差し込む散策路はすがすがしい。

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プログラムオートで撮影 ( f4 1/500秒 50mm ISO2000 ) 露出補正 -0.3段
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11.スジグロシロチョウ
チョウの写真を撮りたいと思ってここへ来たのだが、チョウは少なかった。

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プログラムオートで撮影 ( f4 1/500秒 164mm ISO160 ) 露出補正 -0.3段
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12.徳富蘇峰館入口
玄関へのアプローチの両脇に大きな岩があり、向かって右の岩には「千秋」と、左の岩には「万歳」と彫られていた。徳富蘇峰館の中には入らなかったが、蘇峰の直筆原稿、掛軸、扁額、書簡、絵画、愛用品、肖像写真、著書、研究書、関連雑誌等の資料を所蔵し、約150点の資料を展示されているという。1998年(平成10)7月25日にオープンした。 徳富蘇峰は昭和7年(1932年)から昭和20年(1945年)の毎夏を湖畔の山荘「双宜荘」で過ごした。「旭日丘」の名付け親だそうだ。

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プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO200 ) 露出補正 -0.3段
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13.三島由紀夫文学館 アポロ像
駐車したところまでまた上ってきた。三島由紀夫文学館の中庭をさらに回って、入り口の反対側に回り込む。アポロ像があった。三島由紀夫の自宅(大田区南馬込)の庭にあるアポロ像のレプリカだそうだ。文学館内の窓からは正面から見ることができるように立っている。この時三島由紀夫文学館では、開館20周年特集展として、「20歳(はたち)の歩み」が開催中であった。

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プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 9mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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14.除雪車
除雪車が置かれていた。冬は雪深いのだろう。余談になるが、除雪車というのは日本ではまあまあ需要はあると思うが、どのようなメーカーがあるのかな興味を持った。小型(家庭用など)としてはホンダやヤマハがある。大型・中型の除雪車は建機メーカー(コマツなど)や、 農機メーカー(ヤンマーなど)があり、除雪機の専門メーカーとして札幌に本社があるNICHIJOというのがあった。ここに置かれていた除雪車はコマツ製のように見えるが定かではない。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO125 ) 露出補正 -0.3段
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15.山中湖 湖畔 -2
さて、午後3時半になった。車に戻って、平野の方へ向かう。途中で湖畔の駐車場に車を停め、湖畔に下りてみた。外国人観光客もちらほらと見える。これは北東の方角を見ているが、今夜宿泊するエキシブ山中湖が見える。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/1000秒 22mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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16.山中湖畔の富士山
雲で見えないかと思った富士山だったが、てっぺんまで見えていた。山中湖から見る富士山は、湖畔の対岸、マリモ通りから眺めるのがすそ野が広がって美しい。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f6.3 1/1000秒 41mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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17.翌朝の富士山
エキシブ山中湖で迎えた翌朝は晴れとは言い難かったが、梅雨の時期には珍しく富士山は全容を見せてくれていた。この日プレーする富士スピードウェイの近くにあるゴルフ場へは三国峠を越えていく。富士山は途中にある展望台からもきれいに見ることだ出来た。展望台には大勢のカメラマンの姿があった。

Canon PowerShot G12 f2.8-4.5 6.1- 30.5 10.0 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/200秒 21mm ISO80 ) 露出補正 なし
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2019年7月 4日

岩手・秋田・山形 ドライブ旅行<5月19日~22日> (5) 羽黒山と五重塔 5月22日

3泊4日の東北ドライブ旅行も最終日になった。この日は朝から晴れ間が広がっている。休暇村庄内羽黒は、スキー場、キャンプ場に隣接している。朝の散歩にはもってこいだ。南に月山も見えていた。
 チェック・アウトして、まず、羽黒山有料道路を標高414m羽黒山へ上がる。出羽三山というのは、この羽黒山、月山、湯殿山のことだ。羽黒山山頂には、出羽三山の神々を合祀する山で「三神合祭殿」があった。「三神合祭殿」近くの草むらで、ギフチョウに会えたのは驚きだった。はじめはアゲハかと思った。しかし、飛び方が緩やかだし、アゲハの♀より黄色い。ヒメギフチョウか、ギフチョウかと思えた。ファインダーで確認してギフチョウとわかったが、やはり時期的には遅く、大分破損していた。後で調べたら、羽黒山はギフチョウの多産地として知られ、採集者も多いようだ。ギフチョウが生息する北限は秋田県の鳥海山麓と聞いている。
 羽黒山を下りて、月山ビジター・センターに寄って、羽黒山の南側を周るようにして、五重塔へ向かった。途中月山がきれいに見える展望台があった。この羽黒山五重塔は東北地方では最古の塔と言われ、平将門の創建と伝えられているという。高さ29m。昭和41年には国宝に指定されている。塔の内側を見学してきた。次は先日(6/18夜)地震の被害があった鶴岡市へ向かう。

1.休暇村庄内羽黒 スキー場
朝7時前、休暇村庄内羽黒の外へ出てみる。北側にはスキーのゲレンデがあった。このゲレンデの上が羽黒山山頂の方向だ。

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.8 1/1250秒 21mm ISO125 ) 露出補正 なし
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2.月山
休暇村庄内羽黒 の上に月山(海抜1,984m)の姿が見えた。その8合目までの道路は、今年はまだ開通していないという。(今年、 県道211号月山公園線が八合目まで開通したのは6月24日だったそうだ)

Canon PowerShot G7X f1.8-2.8 8.8-36.8mm 20.2 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/1250秒 37mm ISO125 ) 露出補正 なし
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3.国立公園出羽三山案内図
朝食を済ませ出発。羽黒山有料道路を上って、羽黒山山頂へ行く。駐車場から「三神合祭殿」のほうへ歩くと、写真のような案内図があった。出羽三山といっても実は羽黒山の案内図だった。私は許す限りこのような案内板は撮っておくことにしている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/640秒 20mm ISO100 ) 露出補正 なし
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4.世界平和塔
正面の建物は参集殿でその前にあるのは世界平和塔。あとで調べてみたが、台座に乗る球は地球を表し、縦と横の線は日本人と外国人が手をつなぎ、平和であるようにとの願いが込められているという。球は開祖蜂子皇子を羽黒山に導いた三本足の八咫烏(ヤタガラス)を戴いている。上下ちぐはぐな感じがするが、実は明治の廃仏毀釈までは、「宝篋印塔」があり、台座のみが残ったのか上部は昭和に造られたもののようだ。丸い部分は地球、青いラインは日本、赤いラインは日本以外で亡くなった方々の霊を意味するそうだ。左側奥に「三神合祭殿」が見える。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 16mm ISO125 ) 露出補正 なし
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5.鐘楼と梵鐘
鐘楼は元和3年(1617年)台風で倒れたのを翌年山形城主最上源五郎家信が再建した。寛延2年(1749年)柱の根継が行われたとある。梵鐘は社伝によれば、文永11年(1274年)10月の蒙古来襲の折、幕府より所望され、祈願したところ、鏡池(「三神合祭殿」の前にある池)より九頭竜王の光影が出て酒田の港に飛んで行ったところ、蒙古の舟は残らず海中に没した。このことにより鎌倉幕府より鐘を寄付されたとされている。この巨鐘は、日本第3の大鐘で「羽黒山の大鐘」ともいわれ、「建治元年乙亥(1275年)8月27日」の年紀があるといわれている。国指定重要文化財になっている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO160 ) 露出補正 なし
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6.「三神合祭殿」 -1 内部 wikipediaによれば、出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆(殺害)された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏(ヤタガラス)の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝えられる。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/200秒 9mm ISO3200 ) 露出補正 -0.7段
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7.「三神合祭殿」 -2 内部
同じくwikipediaを参照すると、江戸時代以前、出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。 天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。 羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/200秒 9mm ISO3200 ) 露出補正 -0.7段
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8.「三神合祭殿」 -3 正面
「三神合祭殿」 の正面の祭壇へと上がると、中央に月山神社、左側に湯殿山神社、そして右側に羽黒山出羽神社の扁額が上がっている。「三神合祭殿」は月山、羽黒山、湯殿山の三神を合祭した日本随一の大社殿。厚さ2.1mの萱葺の屋根、総漆塗の内部など、迫力があって見ごたえがある。「三神合祭殿」は後方にある本殿と、前面の拝殿が一体となった複合建築である。文化8年(1811年)に焼失し、文政元年(1818年)8月に完成したものだそうだ。国指定重要文化財になっている。手前の鏡池は、神秘の池として古来より多くの信仰を集め、羽黒信仰の中心でもあった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/200秒 9mm ISO3200 ) 露出補正 -0.7段
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9.スジグロシロチョウ ♂
ここまで、チョウは全く見なかったが、「三神合祭殿」の手前にある草むらでスジグロシロチョウが飛んでいた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/1000秒 181mm ISO100 ) 露出補正 -0.7段
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10.ギフチョウ
スジグロシロチョウを撮っていると、少し離れた前方にアゲハのようなチョウが飛んでいる。ヒメギフチョウかとも思ったが、ギフチョウのようだ。いったん視界から消えてしまったが、また戻ってきてくれ、ササの葉に止まった。ちょっと離れていたが、撮れるところまで近づくことができた。擦れて破損した個体だし、良い写真ではないが、記念になった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f4 1/640秒 220mm ISO100 ) 露出補正 -0.7段
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11.蜂子皇子の墓
駐車場へ戻る途中に、欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる蜂子皇子の墓があった。後に蜂子皇子は出羽三山を開いたとされている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/500秒 10mm ISO1250 ) 露出補正 -0.7段
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12.羽黒山神社の末社
出羽三山には百一末社と称し、羽黒山を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。写真の末社は右手前から、思兼神社、 白山神社、大山祗神社、稲荷神社、健角身神社、大雷神社であるが、思兼神社の手前にもうひとつ画に入らなかった八坂神社がある。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/500秒 9mm ISO160 ) 露出補正 -0.7段
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13.月山全容
五重塔へ向かう途中に車を停められる展望台があり、抜けるような青い空とはいかなかったが、そこからは月山(海抜1,984m)の全容が見えた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5.6 1/1000秒 70mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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14.羽黒山 随神門
私たちは有料道路を車で「三神合祭殿」のあるところまで上ってしまったが、羽黒山の入り口は五重塔のある、こちら側である。随神門より内は出羽三山の神域となり、神域は遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は初め仁王門として元禄年間秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離の折り、随身像を祀り随神門と名付けられた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.5 1/500秒 9mm ISO500 ) 露出補正 -0.3段
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15.羽黒山天地金神社(末社)
随神門の右手前の石段の上に、朱塗りのお社が見えた。後で調べてみると、羽黒山神社の末社の一つで、天地金神社という。出羽三山神社のホームページでは、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。とあった。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 20mm ISO640 ) 露出補正 -0.3段
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16.神橋と祓川と須賀の滝
随神門をくぐって、五重塔へと歩く。継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出る。出羽三山神社のホームページでは、昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途についた。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しい。滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けた。又、一般的には神域とは随神門と伝えられているが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいたそうだ。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 20mm ISO640 ) 露出補正 -0.3段
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17.国宝羽黒山五重塔 -1
やがて、左手の杉木立のなかに国宝羽黒山五重塔が見えた。渋い。五重塔への道に入らず、まっすぐ進むと、一の坂、二の坂、三の坂と続き、先ほど行ってきた羽黒山山頂に至る参詣登山道である。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 20mm ISO640 ) 露出補正 -0.3段
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18.国宝羽黒山五重塔 -2
随神門から羽黒山頂までの1.7kmの参道の両側に立ち並ぶ杉並木は、総数約600本、樹齢300年~500年の老木で、慶長初期から寛永(1596年~1643年)にかけて、第48代 宥源、第49代 宥俊、第50代 天宥の三代にわたる別当が十数年の歳月をかけて植林したという。特別天然記念物になっている。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f3.2 1/500秒 17mm ISO800 ) 露出補正 -0.3段
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19.国宝羽黒山五重塔 -3
さて、国宝羽黒山五重塔であるが、は西暦931年から939年の承平年中、平将門創建と伝えられ、昭和41年国宝に指定されている。高さ29.4メートル、杉材による三間五層の素木作り、屋根は杉板厚さ2.4ミリの木羽を重ね合わせた杮葺きである。その後幾度も修復され、中世には庄内地方を治めていた武藤政氏が1372年から1374年の文中年間に再興したと伝えられ、現在の塔は建築様式からこの時のものと云われている。お釈迦様のお墓に見立てた五重塔は、昔この周辺を龍水寺が治めていたことから明治までは瀧水寺の塔と呼ばれていたそうだ。羽黒山に残る建造物として最も古い国宝羽黒山五重塔は、明治以降公に開扉した記録はないそうだ。今年は平成から令和への御世代わりの年にあたり、また、1400年以上の歴史を持つ出羽三山神社においても、昨年「三神合祭殿」再建200年という佳年を迎えた。これらを奉祝し、4月27日~11月30日までの間、これまで秘中の秘とされてきた国宝羽黒山五重塔の扉を開き、内部特別拝観として一般公開されていた。折角の機会だったので、拝観料500円をお支払いして、開かれた扉から体を乗り出して塔の中を拝観してきた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f2.4 1/500秒 9mm ISO800 ) 露出補正 -0.3段
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20.鶴岡へ
午前10時半、五重塔の拝観を終え、鶴岡へ向かった。鶴岡までは車で30分ほどだ。左手には庄内平野の田んぼの向こうに月山が眺められた。

SONY Cyber-shot RX10 Ⅳ f2.4-4 8.8-220mm 20.1 Mega Pixels
プログラムオートで撮影 ( f5 1/1000秒 31mm ISO100 ) 露出補正 -0.3段
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