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2018年8月31日

読書日記「ふしぎなイギリス」(笠原敏彦著、講談社現代新書、2015年刊)



ふしぎなイギリス (講談社現代新書)
笠原 敏彦
講談社
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 今月初め、消化器の不調で緊急入院するというアクシデントに見舞われてしまった。ほぼ1年がかりで準備してきたイギリス旅行を断念、機中で読むことにしていたこの本を病院のベッドで読むことになった。

 著者、笠原敏彦は元毎日新聞ロンドン特派員。あとがきで「新聞記者の書くフローの情報を系統立てたストック情報にどう転化するか」に苦労したと書いている。

 本は最初に、2011年4月のウイリアム王子とキャサリン妃の成婚にふれている。そのパレードは、ダイアナ元妃の葬送ルートのほぼ逆コースであり、王子はダイアナ元妃の婚約指輪をキャサリン妃に贈るなど、王子は「ダイアナ元妃を自分たちの結婚プロセスに一部に組み込んでいた」という。
 なぜ、そんな必要があったのか。

   ダイアナ元妃が1997年、パリで交通事故死した際、バッキンガム宮殿の前は花束で埋まり国民は悲しみで「集団ヒステリー」に陥った。対照的に冷淡なエリザベス女王の対応に国民の怒りが爆発、王室支持率は急落した。

 それを救ったのが、時の首相トニー・ブレアだった、らしい。ブレア首相は女王やチャールズ皇太子との確執が伝えられていたが、渋る女王に休暇先からロンドンに戻り、宮殿に半旗を掲げるように促した。女王は「王室の存続は国民の支持にかかっているというイギリス立憲君主制の明快な原理」に改めて気づき「国民に寄り添う王室」をアピールするようになった。
 王室は、ダイアナ危機を克服し、国民の7割以上から支持を得るようになった。

 ウイリアム王子とキャサリン妃のロイヤル・カップルは、イギリスの「将来への希望」を象徴すると受け止められている、という。
 昨年のヘンリー王子とメーガン妃の成婚での国民の熱狂も「イギリスの将来への希望」の一環として捉えられるのだろう。

 イギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票が行われた。独立は反対55%でかろうじて否決されたが「一連の騒動はその連合王国という国家の枠組みの矛盾を浮き彫りにした」

 連合王国は、イングランドとスコットランド、ウエールズ、北アイルランドという4つの「Nation」で構成される。「Nation」は「言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体という意味だ」と著者はいう。
 主権を持った「独立国家」を示す「State」という言葉があり、日本のように1つのネーションがそのまま独立国家になっている場合は「ネーション・ステート(国民国家)」といえるが、イギリスは厳密な意味で国民国家とは言い難い、という見方だ。

 いささか分かりにくい。
 ネット検索すると、「countryとnationとstateの違い」という項目が見つかった。「イギリスやカナダなんかは、国の中に複数のnationがあり、日本の場合は、country = nation ( = state)です」と書かれている。

 もう一つわかりにくいのは、日本人がこの国を「イギリス」と呼んでいることだ。連合王国の通称は「Unaited Kingdom(UK)」または「Great Britain」「Britain」。イギリスという名称は、連合王国の1地域にすぎない「イングランドの外来語」が定着したもの、らしい。

イギリスの歴史は、この本と並行して読んだ「イギリス史10講」(近藤和彦著、岩波新書、2013年刊) に詳しい。東大教授の著者の本は、いささか難解。4つの地域が長い歴史のなかで交錯していく様は分かりにくいが、それが連合王国の複雑さを示しているのかもしれない。

 「イギリス史10講」にも、こんな記述がある。
 「イギリスには、『単一民族国家』や「一にして不可分の共和国」といったものとは異なる政治社会が成り立ち、今日、さらに多様性の促進が唱えられている」

 連合王国イギリスは、同じ島国というのに、どっぷり単一民族?の国土につかってきた日本人には「ふしぎな」国であり続けるのかもしれない、とも思った。

2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
宮崎 賢太郎
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かくれキリシタンの起源《信仰と信者の実相》
中園 成生
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


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石牟礼 道子
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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2018年5月11日

 読書日記「注文をまちがえる料理店のつくりかた」(小国士郎著、写真:森嶋夕貴、方丈社刊)


注文をまちがえる料理店のつくりかた
小国士朗
方丈社 (2017-12-17)
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 西宮北口図書館の新刊本棚に並べられているのを見つけ、思わず借りてしまった。

     著者は、NHKのディレクター。大手広告代理店に出向中にある認知症介護施設に取材に行った時に、認知症の入居者がつくる昼食が「ハンバーグのはずだったのに、餃子が出てきた!」。「これ、間違いですよね?」という言葉を飲み込んで思いついたのが、この料理店だった。

 「料理の注文を取るホールスタッフが、みんな"認知症"の状態にある料理店をつくる」。このアイデアに、広告代理店の同僚など多くの人が「それは、おもしろい」と飛びつき、著者がプロジェクトの発起人になった。カメラは、写真家としての実績を積んでいる 森嶋夕貴さんが担当してくれた。

 ホールスタッフは、介護施設の統括マネジャ、和田行男さんが人選、資金は クラウドファンティング会社の 「Readyfor」が、目標800万円を上回る1291万円を24日間で集めてくれた。

 ITやデザイン、外食サービス会社の協力で、ホールスタッフに倍するボランティアのスタッフがたちまち集まった。
 昨年6月、レストランを運営する RANDYがテストキッチンに使っていた東京・六本木の店舗を貸してくれることになった。プロジェクトのイメージどおりの店だった。2日間のプレオープン、3か月後の本格営業3日間だけ、看板を換えることもOKしてもらえた。「注文をまちがえる料理店」の「る」だけが縦書きになっているのは,「"認知症"状態にあるホールスタッフがサービスをする店であることを示している。

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 "認知症"状態のホールスタッフのために特注したエプロンには「間違えて、ごめんねと、ペロリと舌を出す「てへぺろ」のマークがついている。

 店の名前には、認知症スタッフから「間違えることを象徴させるなんて、馬鹿にしているのか」といった怒りの声もでた。途中で「関わりたくない」と帰ってしまった人もいたらしい。

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   メニューは3種類。RANDYが「タンドリーチキンバーガー」、ラーメンの 一風堂の「汁なし担々麺」。汁がないのは「運ぶときに火傷をしないように」という配慮からだ。ジャスミンライスが添えてあるが、認知症スタッフが「お皿に余ったソースをからめて食べてください」と説明できるようになったのは最終日だった。
 それとオムライス。 グリル満点星特製の小海老とホタテ、8種類の野菜が入ったピラフをふわとろの卵でつつんだ。

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 前菜のサラダには、ホールスタッフが大型のミルでコショウをかける。重いミルを扱うのを、お客さんやスタッフが一生懸命応援した。

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 デザートは、羊羹の 虎屋特製の「へぺろ焼」。やわらかいこし餡をしっとり感のある生地で包み「てへぺろ」のロゴを職人がひとつずつ押した。

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   コーヒーは、 カフェ・カンパニー、清涼飲料はサントリーが提供した。

 しめて、料金は1000円。認知症スタッフが疲れないようにと、1コマ90分の総入れ替えにした。1コマのお客さんは」24人、1日4コマ。3日かんで計288人のお客さんを迎えた。2日目は台風がきたが、外は雨を避けて待つ客で満員だった。
 当日券はすぐに売り切れたが、台風の中大阪から夜行バスでかけつけた女性にはキャンセルした翌日の席を確保できた。

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 プレオープンの時には60%だった間違い発生率が、スタッフの努力もあって半減した。

 しかし、事件もあった。さきほどまでホールスタッフとして頑張っていたシズさんが、急に「嫌だ、嫌だ」とエプロンを脱いでしまった。
 休憩時間に控室に行ったら、普段見慣れない人たちがいて急に不安になったのだ。大雨のなか、街を歩き出すシズさんに、サポートスタッフがぴったりと寄り添って歩いた。

 デザートが終わると、若年認知症の三川康子さんのピアノとチェロを弾く夫の一夫さんの演奏が始まる。康子さんは、音大を出て長年音楽の先生をしていたが、この病気になって仕事が続けられなくなった。
 3日目のこと。最初の1章節で康子さんの引く音が少し引っかかった。終わって拍手に包まれても、康子さんは席を立とうとしない。3回、4回・・・。「だめだ・・・」と一夫さんの顔を向いてつぶやいた康子さん。5回目にひっかかりそうになりながら、完璧に弾き終えた。
 「ブラボ!!!」。歓声と割れるような拍手が続いた。

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 プロジェクトを終えて、スタッフ全員は和田さんがリードする「一本締め」で充実感を味わった。

 ITスタッフが発信した情報はSNSで世界を駆け巡り「注文をまちがえる料理店」をやりたいたい、という注文が殺到している、という。

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2018年4月25日

読書日記「六輔 五・七・五」(永六輔著、岩波書店)


六輔 五・七・五
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永 六輔
岩波書店
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 ここ数年、ホトトギスの同人が主宰する俳句の会に月1回、出席していた。  「客観写生」を主唱する伝統俳句を継承するこの会に出て、自然の移ろいを五・七・五に表現するという思わぬ喜びを知った。ただ、季題を中心とした作句のルールは、いささかきゅうくつでもあった。  そこで見つけたのが、この本。軽妙洒脱で知られる 故・永六輔の俳句で、失礼ながら「息抜きを試みよう」と思った。  この著作は、作者の死後、所属していた 東京やなぎ句会話の特集句会の記録などをもとに、家族が選んだ2000句あまりを詠まれた年代順に収めている。そのうち、気になった句を季節ごとに勝手に抜き出してみた。いささか"川柳"っぽい句が多くなったが・・・。

第一章「昭和四十四年?昭和五十五年」

※春
 タンポポ咲いたサーカスが来た
 低すぎて腹をすりむく燕かな
 見上げても見あげても囀る姿なく
 蛇口ひねったままの水しぶきのさくらんぼ
 春の雨濡れて渇いて一人旅
 濡れ手ぬぐい下げて春めく風の中
※夏
 夕焼に一瞬朱い波しぶき
 バトンに続いて神輿照れながら
 吹きぬける風が汗ふく初夏のシャツ
 おぼろ月手をつないでみる老夫婦
 闇の中でひまわりひそと語りあう
※秋
 長袖を通せばかすかな秋立ちぬ
※冬
 波の音湯豆腐の音風の音
 老いてなおビングのホワイトクリスマス
 水たまりひからびて落葉風に浮く
 寒鯉はねて氷と空気を割った
 行く年や書かなかった日記貼一冊


第二章「昭和五十六年?平成四年」

※春
 ぶらんこや地球自転のきしむ音
 庭のない淋しさ抱いて植木市
 酔覚めて又あらためて花疲れ
 寝返りをうてば土筆は目の高さ
 九本のチンポコのどか夏めく湯
 伸びるのがわかる気のする若葉
 春眠や覚めても覚めても夢の中
 煮転がす慈姑の音の軽やかさ
 新緑や濃淡濃淡濃淡淡
※夏
 純白の瀑布緑をぼかしおり
 葉の表葉の裏見せて青嵐
※秋
 仲たがいしてそのままの秋深し
 夏と秋の縫目を飛ぶや赤とんぼ
 たぎる湯に新そば生命をはらみけり
 ずっしりと水の重さの梨をむく
※冬
 野沢菜の歯にひんやりと信濃なり
 浅漬やしかと虫歯のありどころ
 露出あわせれば針先の如き木の芽
 腰痛の農夫牛蒡を引ききれず


第三章「平成五年?平成十五年」

※夏
 とまらない背中のかゆみ薄暑かな
 「あのあたり富士見える筈」梅雨の宿
※秋
 湯上りの汗のひき方冬隣り
 姿なく枝揺れておりホ?ホケキョ
 翅ごときこすって何でこの音色
※冬
 生きてきた通りに生きて春一番
 金縷梅を「まず咲く」と読むひとありき


第四章「平成十六年?平成二十七年」

※春
 囀りの途切れて深き森戻る
 淫美なり裸になった柏餅
※秋
 渡り鳥お前等行くのか帰るのか


2018年2月22日

読書日記「ジーノの家 イタリア10景」(内田洋子著、文春文庫)「対岸のヴェネツイア」(同、集英社刊)


ジーノの家―イタリア10景 (文春文庫)
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対岸のヴェネツィア
対岸のヴェネツィア
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内田 洋子
集英社
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 著者は、イタリア在住のジャーナリスト。長年、日本にイタリアのニュースを届ける仕事を続けてきた。

内田洋子.JPG

 著書「ジーノの家」のあとがきに、こんなことを書いている。
 
イタリアで暮らすうちに、常識や規則でひとくくりにできない、各人各様の生活術を見る。
 行き詰まると、散歩に出かける。公営プールへ行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じつと観る。ときどき、バールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。
 名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。瓢々と暮らす、ふつうのイタリアの人たちがいる。引き出しの奥を覗いては、もっとコレクションを増やしたい、と思う。


 そして、名も無き人を取材するために、イタリア各地で引っ越しを続ける。

 ミラノのバールで、パトロールでコンビを組む男女の警察官と知り合った。
 ミラノには〈黒いミラノ〉と呼ばれる無法地帯があるらしい。2人がついこの間まで、その地区の担当だったと聞き「よほど私は〈しめた〉という顔つきをしたらしい」
 「物好きねえ」と呟いた中年婦人警官のアイデアで、借りた警察犬を暗黒地区の保健所に予防接種に連れて行くという設定になった。

 賑やかな運河地区から徒歩15分の距離というのに、昼下がりの街に人影はない。広場の背後の古びた高層公団住宅のベランダにある錆びついた物置の扉がきしんだ音をたてている。「広場のシャッターの閉まったゴミの山が悪臭とともにむっくりと動き「金をくれないか」と言った。ゴミは、イタリア男だった。

 地区の情報交差点だからと、2人に奨められたバールに飛び込む。店長に出身を聞くと、 カラブリアの出身という。シチリアのマフイア、ナポリのカモッラと並ぶ犯罪組織の拠点だ。

 
一瞬息をのむ私を確認した後、店長は言った。「もし何か困ったことがあったら、頼りになる友人を紹介しますよ」。視線はこちらだが、焦点は空を泳ぎ、その奥は白々と冷えきっている。
 店を出る。早足。小走り。全力疾走。・・・早く帰ろう。犬よ、走れ。
 気ばかり急いて。しかし足はもつれ、なかなか先へは進まなかった。・・・しばらくの間、エスプレッソを飲むたびに、あの日見たミラノの閉ざされた世界の寒々しい様子が目の前に現れて、胃が縮むのだった。


 1年を通して曇りの日が多く、半年は冬の寒さが残るミラノから引っ越そうと、南国・ インペリアの海を一望できる赤い屋根と白壁の小さな家「ジーノの家」を借りた。シチリア、ナポリにも移り住み、ついには定年退職者が海から引き揚げた古式帆船に6年も住んでしまう。

 この本は、ベストセラーになった 「『考える人』は本を読む」 河野通和著、角川新書)で取り上げられていた。

 河野通和は「ジーノの家」の項の巻末で、こんなコメントがつけている。

 「2011年、本作で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。近年私の出会った中でも、著者はもっとも噛(か)み応えのある書き手の一人です。行動力、観察力、記憶力、構成力、文章力......すぐれた特長はいくらでも挙げられますが、イタリアかぶれとは対極の彼女が、イタリア人のありふれた暮らしになぜ引き寄せられてしまうのか ――そのプロセスと謎が、読む者の心を騒がせます」


 「対岸のヴェネツイア」は、内田洋子の最新作。今度はヴェネツィアに引っ越すと伝えると、ミラノの人々エッと驚いた。

 
たいていの人は一瞬押し黙った。ミラノからは近いけれど、遠い町。住めることならぜひ、と誰もが夢見る一方、実際に引っ越す人はたしかに稀かもしれない。うらやましいわ、でもなぜ引っ越したの、家はどのあたり、住み心地はどう、酷い湿気でしょう、冠水は大丈夫なの・・・。


 著者が選んだのは、なんと水草の浮島に建つヴェネツイアと運河を挟んだ対岸にある離島、 ジュデッカ島だった。
 そこから水上バスでせっせと"水の都"に通い、名も無い人に会い続けた。

 
「〈マンマ(母)〉を十個、お願いね!」
 逞しい腕を上げて岸壁に係留している小舟の舟主に、中年女性が注文する。アーティチョークの〈尻〉こと萼(がく)は、そのどっしりした外観からか〈マンマ〉と呼ばれている。

マンマ.jpg

「ざく切りにしてパセリ、ニンニクといっしょに炒める。・・・これ食うと、ああヴェネツィア、という気がするもんよ」
 ほんとほんと、郷土料理の肝心要、そのとりよぇ、と岸壁側の主婦たちは頷いている。


 ただ「心配なことがある」と、内田洋子は, WEB版週刊誌「考える人」(新潮社)で警告している。観光客が殺到しすぎて、ヴェネツィアの都市機能がマヒしようとしているのだ。

 
「裏の路地の隅は、公衆トイレよ」
 「酔っ払ってリアルト橋から下着で運河に飛び込んで泳いだ若者がいたし」
 「サンマルコ広場の回廊にテントを張ろうとした外国人観光客もいたな」

リアルト橋         サンマルコ広場
リアルト橋.jpg  サンマルコ広場.jpg


   「昨日、リアルト橋手前で羊にリードを付けて引いていた男の人を見たよ」
  夏になると、ビーチサンダルにショートパンツ、上半身は裸もしくはビキニ姿も増える。
 老舗は格と歴史を失うまい、と価格をさらに引き上げる。より多く払える客が品格ある客、ではないのに。
 ・・・
 「2017年2月1日までに、過剰な観光客のせいで住民の日常生活が脅かされている現状を打開するための策が講じられないようなら、世界遺産認定を取り消し、『危機にさらされている世界遺産』として登録する」
 昨年7月、ついにユネスコがヴェネツィア市に対して警告を公示した。
 ・・・
 さてどうなる、ヴェネツィア。


2017年11月 2日

 読書日記「バベットの晩餐会」(イサク・ディーネケン著、ちくま文庫)、映画鑑賞記「同」(ガブリエル・アクセル監督、1987年アカデミー賞外国語映画賞受賞)


バベットの晩餐会 (ちくま文庫)
イサク ディーネセン
筑摩書房
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 表題の本はなんどか読んだし、映画も見たが、思いもよらないきっかけで、再読し、DVDまで買うことになった。

 10月中旬の日曜日に久しぶりにカトリック芦屋教会に行ったところ、オプスディの 酒井俊弘神父が説教で1冊の本を紹介された。

   教皇フランシスコが昨年3月に「家庭における愛」について公布した「使徒的勧告 愛のよろこび」。そのなかに、映画「バベットの晩餐会」についての記載があるという。教皇が、公的文書で映画のことを取り上げるのは、稀有の事らしい。

 
人生のもっとも強烈な喜びは、他者を幸せにしようとするときに、天を先取りして訪れるものです。映画『バベットの晩餐会』 の幸せな場面を思い出してみるのがよいでしょう。寛大な料理人バベットは感謝の抱擁を受け、「あなたはどんなにか天使たちを喜ばせるでしょう」と称賛されます。楽しむ姿が見たいからと、他の人を喜ばせようとすることで生まれる喜びは、甘美で慰めに満ちています。こうした喜びは、兄弟愛がもたらす実りであり、自分ばかりを見る人のうぬぼれた喜びではなく、愛をもつて、愛する人の幸せを喜ぶ人の喜びです。相手に注がれる喜びが、その人の中で豊かに実るのです。


 人から無償の愛、幸せ、喜びを受けた者は、他の人にも喜んでもらいたい、と思う。そのようにして「愛の連鎖は、つながっていく」。酒井神父は、説教でそう話された。

 浅学非才の身。酒井神父の解説を聞いても、教皇の言葉をすんなりとは理解できない。その真意を探るためにも「バベットの晩餐会」のあらすじをたどってみることにする。

 ノルウエーのフイヨルドの囲まれた田舎町に、国内でもその名を知られたプロテスタント牧師と美しい姉妹が住んでいた。その宗派は「この世の快楽を悪とみなして断っていた」。

 中年を過ぎたても姉妹は、亡き父の教えを守るために結婚もせずに信者につくしてきたが、地区の信者は年ごとに減り、老人になって、こらえ性がなくなり、怒りっぽくもなっていた。信者同士の喧嘩、口論も絶えず、姉妹を悲しませていた。

 12月15日の牧師生誕100年記念祭が迫っていた。姉妹は、この機会にささやかな夕食会をして、信者たちの平安を取り戻せないものかと、日々悩んでいた。

 姉妹の小さな黄色い部屋にはバベットという家政婦が住んでいた。

 バベットは、パリの有名レストラン「カフェ・アングレ」の料理長だったが、1871年のパリ・コミューン(パリ市民による自治政権)で夫と息子を殺され、パリから命からがら逃げてきて、姉妹に救われたのだ。

 バベットはそれ以来14年間、パリで王侯貴族に提供していたメニューを封印して、毎日タラの干物と古いパンのスープを姉妹と地区の貧しい老人ために作り続けた。

 ある日、バベットは姉妹に驚くようなことを話した。
 「パリの友人に頼んで買っていた富くじ、1万フランが当たりました」。現在価格で1900万円もの価値らしい。

 「生誕100年の祝宴に本物のフランス料理を作らせてください。支払いも私にさせてください」

 「それはだめよ。バベット」と、姉妹はバベットの貴重な金を食べ物や飲み物、それもみんなのために使うことなど、どうしても考えられない」。「だめバベット、それは絶対にだめよ」

 バベットは一歩前に踏み出した。「その動作には、盛り上がる波さながらの威圧するようなものがあった」

 
お嬢さま、自分はいったいこの十四年のあいだに、なにかお願いをしたことがあったでしょうか。ございません。どうしてだとお思いでしょうか、ご主人さま、あなたがたは毎日お祈りをしていらっしゃいます。あなたがたには想像することがおできになるでしょうか。お祈りをしようにもなにひとつ願いごとがないということが、人間の心にとってどんな意味を持っているかということを。いったいこのバベットになにがお祈りできたというのでしょうか。なにひとつないのです。ところが今夜は、自分にはお願いしたいことがあるのです。敬虔で心優しいご主人さま、あなたがたは今夜、こうはお思いにならないでしょうか。十四年のあいだ、善なる神があなたがたのお祈りをお聞きとどけてくださったのと同じ喜びをもって、この願いを聞きとどけてやりたいものだとは。


   たしかに14年で初めての願いごとだった。ふたりは、思案のあげく、こう納得した。1万フランを手に入れた人間には「たった一度のディナーなどどうということもあるまい」と。

 2週間の休暇を得て、バベットが仕入れて来たものは、高価そうなワインやとてつもなく大きなウミガメ、生きたウズラ・・・。

 それらを見た姉のマチーヌは「父の家を魔女の饗宴に明け渡しているように感じた」。バベットが、年老いた信者たちを毒殺する準備をしている夢を見た。マチーヌは「今になってやっと、自分たちが恐ろしい力を持つ危険なことに関わりあっていたことが分かった」と、信者たちに打ち明けた。

 年老いた信者たちは、生まれた時から知っている可愛い姉妹のために、当日の夜は食べ物や飲み物と名のつくもののことはいっさい口にしないで黙っていようと誓い合った。

 晩餐会が始まると、不思議なことにみんなの口が軽くなった。柔和で威厳のあった牧師の思い出を話し合った。

 食事の話しはしなかったが、注がれたものがレモネードと思って飲んだ老女は、思わず舌なめずりをした。シャンパン「ヴーヴ・グリコ」の1860年ものだった。

 悪口をたたきあっていた2人の老姉妹は、手を取り合って牧師の家に出かけた娘時代のことを楽しそうに話していた。商売でペテンをかけた相手の老人に笑いながら謝っている男は、目に涙をにじませていた。若い時に添い遂げられなかった白髪の船長と後家の老女は、気がつくと部屋の隅で長いくちづけをしていた。

 宴が終わって感謝する姉妹に、バベットはもうだれもいないパリにはかえらないし、1万フランは、この晩餐会で使い切った、と話した。

 「わたしはすぐれた芸術家なのです」「わたしが最高の料理を出したとき、あのかたがた(カフェ・アングルの顧客)をこの上なく幸せにすることができたのです」「芸術家が次善のもので喝采を受けるのは、恐ろしいことなのです」

 それをきいた妹のフイリッパは、そっといった。

 
「でもこれで終わりじゃないのよ、バベット。わたしにははっきりと分かるの、これで終わりじゃないって。天国でも、あなたは神さまのおぼしめしどうりの偉大な芸術家になるのだわ。ああ」頬に涙を流しながら。フイリッパはさらにこういった。「ほんとうに、きっとあなたは天使たちをうっとりさせることよ」


※追記:ネットに載っていた晩餐会のメニューと料理の写真

始まった晩餐会
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フルーツを盛り合わせるバベット
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1. ウミガメのコンソメスープ
 アペリティフ:シェリー・アモンティリャード
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2. ブリニのデミドフ風(キャビアとサワークリームの載ったパンケーキ)
 シャンパン:ヴーヴ・グリコの1860年物
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3. ウズラとフォアグラのパイ詰め石棺風 黒トリュフのソース
 赤ワイン:クロ・ヴージョの1845年物
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4. 季節の野菜サラダ

5. チーズの盛り合わせ(カンタル・フルダンベール、フルーオーベルジュ)

6. クグロフ型のサヴァラン ラム酒風味(焼き菓子)
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7. フルーツの盛り合わせ(マスカット、モモ、イチジクなど)

8. コーヒー

9. ディジェスティフ:フィーヌ・シャンパーニュ(コニャック)

2017年9月16日

読書日記「日本の色辞典」(吉岡幸雄著、紫紅社刊)


日本の色辞典 紫紅社刊
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 京都の染色工房を主宰する吉岡幸雄が出演したNHKのBSドキュメンタリー番組「失われた色を求めて」の再放送を何度か見た。

 日本に古くから伝わる植物染織の復活に生涯をかける工房や原料を育てる農家の人々の苦労が伝わってくる。

 そんな時に友人Mが貸してくれたのが、この本。カラ―写真紙を使ったズッシリ重い約300ページの本に、古代からの色彩豊かな衣装、色の染め方や聞いたこともない名前の色見本が詰まっている。

◇赤系の色

 太陽によって一日がアケル。そのアケルという言葉が「アカ」になった。

 
 土のなかから弁柄などの金属化合物の赤を発見し、の根、紅花の花びら、蘇芳の木の芯材、そして虫からも赤色を取り出そうとしたのは、まさに、陽、火、血が人間にとっての新鮮な色で会ったからにほかならならない。


 ▽茜色(あかねいろ)

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    額田王が「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と、万葉集に詠った色。

 茜は、アカネ科の蔓草だが、その赤い根を乾燥させて朱色を出す手法は古くから用いられてきた。しかし、手間がかかり、色が濁って難しいため、その技法は中世の終わりにすたれてしまった。

 著者の工房では、茜の草を試験的に栽培し始めた奈良県の農家の協力で、その製法の再現に挑戦している。しかし、茜の根を煮出した汁から黄色を取り去るために米酢を加えることをやっと発見するなど、古代の色を再現する苦労が続いている。

 ▽深緋(こきあけ、ふかひ)

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    古代色の読み方は難しい。深緋は、茜色をさらに濃く染め上げたもの。

 工房では、平安時代に編さんされた格式(律令の施工細則)である 「延喜式」の比率どおりに茜と紫根を用い、椿の木灰の上澄み液で発色させた。

 ▽曙色(あけぼののいろ)・東雲色(しののめいろ)

あけぼの.jpg

      清少納言が「春は、あけぼの」と詠った「山の端から太陽が昇る前、そのわずかな光が反射して空が白み始める」色である。著者は「多くは茜色がやや淡く霞がかかった感じ」とみている。
 色見本では「茜との黄色を重ねた」

 ▽紅(くれない・べに)

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     紅花が出す赤色である。エジプト原産で、4,5世紀に日本に渡来した、という。

 この紅花から「紅」を染め出すのは、至難の業らしい。
 「自然の色を染める」(吉岡幸雄・福田伝士監修、紫紅社刊)などによると、花びらを水の中で揉み、ざるに取ってきつく絞る作業を繰り返して、花に含まれる黄色を取り去る。この後、藁灰(アルカリ性)を加えて、1-3回、色素を抽出。絹、木綿などの布を入れ、食酢を加えて色を定着させる。さらに布を水洗いして、鳥梅 と呼ばれる未熟な梅の果実を、薫製(くんせい)にしたものの水溶液に漬け、そのクエン酸の力で色素を定着させて乾燥する。
 鳥梅をつくっているのは、奈良県月ヶ瀬村の現在では中西さんという80歳強の梅栽培家だけらしい。「紅」の将来は、どうなるのか。

 このほか辞典では、盛りの桃の花をさす「桃染(ももぞめ・つきぞめ)は、紅花を淡く染めてあらわした、とある。

 「桜色」については、光源氏が、政敵右大臣の宴に招かれた時に「桜の襲(かさね)の 直衣(のうし)で出かけたことが書かれている。

 表が透明な生絹(すずし)、裏は蘇芳か紅花で染められた赤で、光が透過して淡い桜色に見えたのである。その姿は「なまめきたる」美しさであったという。

◇紫系の色

 紫という色を得るのに、中国、日本等東洋の国々では古くから紫草の根(紫根)を染料として用いてきた。

 
 ・・・染液のなかをゆっくりと泳ぐように動いている布の、だんだんと紫色が入っていくさまを見ていると、ほかの色を染めているときとはちがった、妖艶というか、神秘的というのか、眼が、色に吸いつけられて、そのなかに自分が入りこんでいくような気がしてくるのである。


 平安時代。紫は、高貴な人々だけに許された、 禁色(きんじき)であった。

 ▽深紫(こきむらさき)

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   紫根によって、何度も何度も繰り返し染めた黒味が閣下ったような深い紫色。

 紫根は麻の袋の入れ、湯の中でひたすら揉み込んで、色素を取り出す。その抽出液に湯を加え、絹布などで染め、清水で洗う。
 椿の生木を燃やした灰に熱湯を注いで、2,3日置いた上澄み液を越して布を入れる。椿の木灰に含まれたアルミニウム塩が紫の色素を定着させる。

◇青系の色

   青色は、古くから硝子、陶器などに使われてきたが、衣服は藍草で染められてきた。

 中国・戦国時代紀元前403~前221)に書かれた 「荀子」には「青は藍より出でて藍より青し」と記されている。「出藍の誉れ」という諺でも知られる。青という色は藍の葉で染めるが、染め上がった色はその素材より美しい青になることをあらわし、・・・すでに青という色を、藍という染料から得る技術が完成していたことを物語る。

 日本では、奈良時代には愛の染色技法はすでに完璧に完成していたとみえ、正倉院宝物のなかにもいくつかの遺品を見ることができる。

 
 (木綿の栽培が盛んになった)江戸時代に入ると、木綿や麻など植物性の繊維にもよく染まる藍染はより盛んになり、村々に紺屋ができた。 型染 筒描など庶民から将軍大名にいたるまで、藍で染めた青は広く愛される色であった。
 明治のはじめ、日本にやってきた外国人は、そうした状況を目のあたりにして、その藍の色を「ジャパン・ブルー」と読んで称賛したのである。


 ▽藍(あい)

あい.jpg

    日本では、藍を染めるのに タデを使うが、「建染」という手法が確立している。藍が還元発酵して染色可能な状態になったことを「藍が建つ」という。

 木灰に熱湯を注いで二,三日置き、その上澄み液を濾して灰汁を用意しておく。藍甕に ?(すくも)と灰汁を入れて掻き混ぜ、二〇度前後の温度を保ちながら十日くらい置く。その間日に二回掻き混ぜる。十日くらいたったところでふすまを加える。すると、ふすまが栄養剤となって発酵が促され、二、三日すると藍が建ち始め(ふすまを加えてあとは一日に一回掻き混ぜる)、染められるようになるのである。

 ▽縹色・花田色(はなだいろ)

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    藍色より薄く、浅葱色より濃い色をさす。「花田」は当て字。

 ▽浅葱色(あさぎいろ)

あさぎいろ.jpg

    蓼藍で染めた薄い藍色。色見本は蓼藍の新鮮な葉をそのまま使う 生葉染

 田舎出の侍が羽裏に浅葱色の木綿を用いたので「不粋、野暮な人を当時『浅葱裏』と揶揄した」という。

 ▽亀覗(かめのぞき)

かめのぞき.jpg

    もっとも薄い藍染。布を少し漬けて引き上げる。つまり、藍甕のなかをちょっと覗いただけ、という遊び心いっぱいの命名。

◇緑系の色

   著者によると「緑色は、身近にいつもありながら、たやすく再現することができない色といえる」らしい。

 自然のなかにある「緑」を身近な生活のなかにおきたいとと思っても、草木が持つ葉緑素という色素は脆弱で、水に遇うと流れてしまう。しかも、時が経つと汚れたような茶色に変色してしまう。

 聖徳太子が亡くなった622年につくられた日本最古の刺繍が奈良・中宮寺に伝来しており、美しい緑の色糸が随所に使われている。藍色に 苅安 黄蘗(きはだ)という黄色系の染料をかけて染められたものだ。

 ▽萌黄色(もえぎいろ)

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   新緑の萌え出る草木の緑、冴えた黄緑色をいう。工房の色見本は、蓼藍の生葉染めのあとに黄蘗を掛け合わせた。

 ▽柳色(やなぎいろ)

やなぎいろ.jpg

    古い文献によると、柳色の布は、萌黄色の経糸と白の緯糸で織り上げた。

 ▽常盤色(ときわいろ)

ときわいろ.jpg

    松や杉など年中緑色をたたえる常緑樹は「常盤木」と呼ばれている。その常盤木の葉のように、やや茶色を含んだ深い緑の色。

 色見本は、苅安に蓼藍を重ねて深みをだした。

 ▽麹塵(きくじん)青白橡(あおしろつるばみ) 山鳩色(やまばといろ)

きくじん.jpg

    麹塵は、麹黴の色。橡は団栗の古称、青白橡は、夏の終わりから秋のはじまりにかけての青い団栗の実のこと。

 まったく別個の色名に思われるが、平安時代に 源高明が記した宮中の年中行事作法書 「西宮記」に、この2つの色は同じものとあるという。山鳩色も同じ色という説もある。

 「延喜式」にある、その染色法が、また難しい。椿などの生木を燃やしてつくったアルミニウム塩を含む灰汁(あく)を発色剤に苅安や紫草の根から抽出した色素を組み合わせる。著者の工房でも、失敗を重ねて。ようやく染めることができた。

 (後記)

 1項目を読むたびに、著者の工房の苦労を味わい、貴重な古代文献の名を知り、平安朝の 「襲(かさね)の色目」に自然を感じる・・・。
 なんとも興味のつきない本だ。しかし、黄、茶、黒白、金銀の項を残してブログに記すのはこのあたりで止め、座右で楽しむことにしたい。

 なお、各項にある色見本は、ネットにあった、東京カラーズ株式会社の 「色名辞典」からコピーさせてもらった。著者の工房で染めた自然素材の色調とは、当然異なっていると思う。

  ※巻末に、著書にある代表的な色名表を載せ、備忘録にした。

【赤】
 代赭色 (たいしゃいろ) / 茜色 (あかねいろ) / 緋 (あけ) / 紅絹色 (もみいろ) / 韓紅 (からくれない) / 今様色 (いまよういろ) / 桜鼠 (さくらねずみ) / 一斤染 (いっこんぞめ) / 朱華 (はねず) / 赤香色 (あかこういろ) / 赤朽葉 (あかくちば) / 蘇芳色 (すおういろ) / 黄櫨染 (こうろぜん) / 臙脂色 (えんじいろ) / 猩々緋 (しょうじょうひ) など 104色

【紫】
 深紫 (こきむらさき) / 帝王紫 (ていおうむらさき) / 京紫 (きょうむらさき) / 紫鈍 (むらさきにび) / 藤色 (ふじいろ) / 江戸紫 (えどむらさき) / 減紫 (けしむらさき) / 杜若色 (かきつばたいろ) / 楝色 (おうちいろ) / 葡萄色 (えびいろ) / 紫苑色 (しおんいろ) / 二藍 (ふたあい) / 似紫 (にせむらさき) / 茄子紺 (なすこん) / 脂燭色 (しそくいろ) など 46色

【青】
 藍 (あい) / 紺 (こん) / 縹色 (はなだいろ) / 浅葱色 (あさぎいろ) / 甕覗 (かめのぞき) / 褐色 (かちいろ) / 鉄紺色 (てっこんいろ) / 納戸色 (なんどいろ) / 青鈍 (あおにび) / 露草色 (つゆくさいろ) / 空色 (そらいろ) / 群青色 (ぐんじょういろ) / 瑠璃色 (るりいろ) など 60色

【緑】
 柳色 (やなぎいろ) / 裏葉色 (うらはいろ) / 木賊色 (とくさいろ) / 蓬色 (よもぎいろ) / 萌黄色 (もえぎいろ) / 鶸色 (ひわいろ) / 千歳緑 (ちとせみどり) / 若菜色 (わかないろ) / 苗色 (なえいろ) / 麹塵 (きくじん) / 苔色 (こけいろ) / 海松色 (みるいろ) / 秘色 (ひそく) / 虫襖 (むしあお) など 57色

【黄】
 刈安色 (かりやすいろ) / 鬱金色 (うこんいろ) / 山吹色 (やまぶきいろ) / 柑子色 (こうじいろ) / 朽葉色 (くちばいろ) / 黄橡 (きつるばみ) / 波白色 (はじいろ) / 菜の花色 (なのはないろ) / 承和色 (そがいろ) / 芥子色 (からしいろ) / 黄土色 (おうどいろ) / 雌黄 (しおう) など 36色

【茶】
 唐茶 (からちゃ) / 団栗色 (どんぐりいろ) / 榛摺 (はりずり) / 阿仙茶 (あせんしゃ) / 檜皮色 (ひわだいろ) / 肉桂色 (にっけいいろ) / 柿渋色 (かきしぶいろ) / 栗色 (くりいろ) / 白茶 (しらちゃ) / 生壁色 (なまかべいろ) / 木蘭色 (もくらんいろ) / 苦色 (にがいろ) / 団十郎茶 (だんじゅうろうちゃ) / 土器茶 (かわらけちゃ) / 媚茶 (こびちゃ) / 鳶色 (とびいろ) / 雀茶 (すずめちゃ) / 煤竹色 (すすたけいろ) など 107色

【黒・白】
 鈍色 (にびいろ) / 橡色 (つるばみいろ) / 檳榔樹黒 (びんろうじゅぐろ) / 憲法黒 (けんぽうぐろ) / 空五倍子色 (うつぶしいろ) / ?色 (ろういろ) / 利休鼠 (りきゅうねずみ) / 深川鼠 (ふかがわねずみ) / 白土 (はくど) / 胡粉 (ごふん) / 雲母 (きら) / 氷色 (こおりいろ) など 53色

【金・銀】
 金色 (きんいろ) / 白金 (はっきん) / 銀色 (ぎんいろ)



   

2017年8月 9日

読書日記「あの頃 単行本未収録エッセイ集」(武田百合子著、武田花編、中央公論新社刊)「富士日記 上・中・下」(武田百合子著、中公文庫)


あの頃 - 単行本未収録エッセイ集
武田 百合子
中央公論新社
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 「一番好きな作家は?」と聞かれたら、すかさず武田百合子と答えるだろう。

 夫の作家、武田泰淳の死後、書きはじめた数冊の著書が、大変な評判になった。「富士日記」は、富士山ろくに建てた「武田山荘」に週の半分を過ごした日々を坦々と綴っているだけなのに、なぜか引き込まれる。もう10回以上は読んだろうか。

 例えば、こんな文章。

 「夜はまったく晴れて、星がぽたぽた垂れてきそうだ」
 「外川家具店に鏡と棚が一緒になったのを見ないで注文・・・。ヒューマニズムみたいな感じの棚が届いた」
  「朝 ごはん、味噌汁、塩鮭、卵。昼 カツ丼、トースト。夜 ごはん、コンビーフ、チクワとキャベツ煮付、コーンスープ」
 「山の雪道の運転は、体の中の細胞がぱあっとひらいてしまって、シャワーを浴びているように、楽しい」
 「昏れがた、松の芽がいっせいに空に向かってのびているのが、くっきりと目にたつ。花札の絵のようだ。心がざわざわする。私の金銭欲と物欲と性欲」

 百合子が67歳で死んだ時、残されていた日記、メモ、手帳などは遺言ですべて焼却された、という。しかし、雑誌などに書かれた単行本未収録のエッセイが、歿後24年後に本になった。もう読めないと思っていた武田百合子の文章に思いもよらず再会できることになった。

 年代グループ別に編集されているから、最初は、夫・武田泰淳の思い出が多い。

 
 歌の上手な人ではなかったが、たまに歌うこともあった。酔うと寝転んで「どこまでも続くぬかるみぞ」 という軍歌を、よく歌った。体力があったころのことだ。読経の修練をしたことのある、力の入った、張り上げない、低い声で、くり返し、ていねいに歌っていた。「懐かしのメロディー」 などで、どんな歌手が歌うこの歌よりも、武田の歌う『討匪行』は、本当の兵隊ー将校ではなく一兵卒、が歌っているようだった。革臭く、泥臭く、汗臭く、ゲートル臭く、精液臭く、兵隊の苦しさや哀しみがこもっていた。聴いていると部屋の中まで、果てもなく暗く、雨が降りつづいているような気がした。


 
 ・・・初七日、二七日、三七日と、そのことを順々に確かめてゆきながらも、家の中を見まわすと机や座布団やハンコほあるのに、持主だけ虚空へかき消えてしまったことが、何ともわりきれなくて、当分の間はキョトンとした心持だった。・・・そんなときは、お風呂にそそくさと入った。丸まってお湯に浸かり、ケッと泣いた。


 1周忌が近づいたころの文章。

  
 道を歩いていると、夫や私より年長の夫婦らしい二人連れにゆきあう。私はしげしげと二人の全身を眺めまわす。通りすぎてから振り返って、また眺めまわす。羨ましいというのではない。ふしぎなめずらしい生きものをみているようなのだ。


 自分の文章について書いたか所がいくつかある。百合子は、天衣無縫に飛び出した言葉を綴っていたのか、とも思っていた。しかし「編者あとがき」によると、百合子は「雑誌などに書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れていた」という。推敲に推敲を重ねて、やっと絞り出した文章だったのだ。

 
 美しい景色、美しい心、美しい老後など「美しい」という言葉を簡単に使わないようにしたいと思っている。景色が美しいと思ったら。どういう風かくわしく書く。心がどういう風かくわしく書く。・・・「美しい」という言葉がキライなのではない。やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。


 そう考える人が、ただ「蝉が鳴いている」ことを書くと、こうなる。

  
 午前四時半、・・・裏の崖上の林の高い遠くで、かなかな蝉が一匹、息の続く限り鳴いて止む。そのあと、しんとしてしまう。・・・別のかなかな蝉が、離れたところの樹で鳴く。消えかけたその声にかぶせ繋いで、じい一つと気のないような鳴き方で、別の種類の蝉が鳴きはじめ、ひとしきりして止む。止むのを待って、離れたところの同じ種類の蝉が鳴き、ひとしきりして止む。三匹めが鳴きはじめると、一匹めと二匹めも重唱、だんだん調子が出てきて、馴れきって、空気みたいに鳴き出す。しやおんしゃおんと鳴く蝉も混り、もう林全体が蝉の声となる。


 何度も出てくる食べ物の一節。

 
 うな井は、並一人前八十円、沢庵が二切れついていて、お茶がおいしい。蓋をとるとマッチ箱大の蒲焼が二つのっている。耳のうしろをつたう汗を指で払いながら、ひらりと一口、蒲焼を喉に通し、たて続けに、たれのたっぷりしみた御飯をはお張る。酔ったようになる。くたびれた人が汗をふきながら一人入ってきて、もうろうと腰かけて「うな井、並」といった。


 夫が生きていた頃。一人娘と3人で花見に出かけたことがあった。葡萄酒ですっかり酔っぱらった百合子は、娘に絡み始める。

 
 あんたねえ。こんないいところにきて、そんなことじゃあ、この先、生きて行くのはむずかしいよ。嬉しいときは嬉しい顔しなくちゃあ、欲しいときは欲しいと言わなくちゃあ。いったいぜんたい、あんたはどんなこと思って生きているのかえ。どんな考えを持って生きてるのかえ。え、言ってごらん。
 無表情のまま、じいっと押し黙っていた娘は、やがて涙のたまってきた眼のふちを赤らめ、かばそい声を出して言うのだった。「思おうとしても思えないよお。考えても考えがないよお。だけど、あたしは生きていたいよお。ただ生きていたいよお」
 青い空の奥の奥で、かすかな爆音がしていた。見えないその飛行機が、金紙のチラシを撒きつづけているような気がしていた。頭上の桜は、ひとひらだって散ってこない。「ユリコのマケ」限蓋の裏の眼の玉をぐりぐりと動かし、限をつぶったままの夫が、おかしくてたまらぬ風にそう言うのだった。


 この娘がこの本の編者で、著書もいくつかある写真家の武田花さん。このブログでも登場させてもらったことがあるが、浮ついたファンレターめいた文章が、今になって恥ずかしくなる。 YOMIURI ONLAINに載っていた花さんが、お母さんそっくりなのにちょっとびっくりした。

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日?5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

? サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603?06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603?06年頃)

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? サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560?1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9?4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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? サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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? 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605?06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605?06年)
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? パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05?06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05?06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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? ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、?と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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? カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598?99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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? ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602?04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602?04年頃)
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? ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605?06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605?06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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2017年4月26日

展覧会鑑賞記「没後40年 熊谷守一 お前百までわしやいつまでも 」(於・香雪美術館)、読書日記「蒼蠅(あおばえ)」(熊谷守一著、求龍堂刊)


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 熊谷守一のことを知ったのは、どこだったのかとずっと考えていたが、このブログにも書いたが、「偏愛ムラタ美術館 ?発掘篇?」(村田喜代子著、平凡社)だったことをやっと思い出した。

熊谷守一美術館は、大学、職場で大変お世話になった先輩Tさんのご自宅のある東京・豊島区にあるので、Tさんをお訪ねするのを兼ねてと思っていたら、そのTさんが急逝され機会を失っていた。

 それがなんと。神戸・御影の香雪美術館で、「熊谷守一 お前百までわしや」展が開催されているのを知り、桜の開花が少し遅れている雨の4月はじめ、友人Mを誘い、出かけてみた。

 ある、ある!

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   そう広くない美術館の1階に、あのシンプルな線で描かれた「猫」が、縁側でのんぼりとまどろんでいた。手前のガラスケースのなかのスケッチ帳には、のびやかな体や斑の色が字で書きこんであり、ち密な計算で完成された絵であることが分かる。

 村田喜代子は、こう書いている。
 「命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる」

 木のてすりがついた階段を2階に上る。
 右奥に、代表作といわれる「ヤキバノカエリ」が、ひっそりと待っていた。

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    長女・萬の骨壺を持つ長男・黄、次女・榧が並んで歩き、少し前を歩く守一のいずれにも顔がない。デフォルメされた道と木々が一緒になって、静逸さだけが流れている。

 村田は書く。
 「単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような・・・。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする」

 守一は、字もよく描いた。著書の題名「蒼蠅」もそうだ。

 
展覧会で売れないで残る「蒼蠅」という字は。よく書きます。わたしは蒼蠅は格好がいいって思うんだけれど、普通の人はそうとは思わんのでしょうね。病気のときなんて、床の周りをぶんぶん飛んでくると景気よくて退屈しない。この頃は蒼蠅もいなくて淋しいくらいです。
 ところがこの蒼蠅という字のも、ひどくきついのときつくないのとできるんです。蒼蠅がひどく頑張っているのと、そうでないのとね。


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   香雪美術館にも、装丁されたものが展示されていた。
 「これも売れ残った字か」と、ちょっとおかしくなった。きつい字であったかどうかは、よく分からなかった。

     
前は暑い時期には庭にござを敷いて、腰に下げたスケッチブックに、あたりの草花や蝸牛や蛙や蟻や虫などをスケッチしました。疲れると、そこにごろりと横になって眠ったものです。


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      土門拳撮影。著書「蒼蠅」より



 
縁側の端のフレームは、ここにきてすぐに造ったものです。浜木綿、月下美人、野牡丹は毎年よく咲きます。浜木綿はうちのはあまり大きくないけれども、人に分けたのは立派になっているそうです。ナイヤガラの滝の菊というのは秋に、日本の山で見る野菊よりずっと濃い色に咲きます。
 何時だったかの冬に、このフレームに蜂が巣を作ったときは、砂糖水をやりながら蜂の動きを毎日毎日見て過ごしたことがあります。


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わたしの描く裸婦には顔がないんで、女の人の美人をどう思うかって聞かれたことがあります。顔を描かないのは情が移るからで、そりゃ美しい人は美しいと思う。どういう人が美しいかということになると、人それぞれですから一概にはいえませんね。


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       次の言葉は、鷲田清一が毎日の朝日新聞朝刊の1面で書いている小欄「折々のことば」で見つけた。

 
わたしは、ぬけたような青空は好みません。
 まるでお椀でふたをされた感じで、窮屈です。
 それより少し薄雲リの空がいい。
 そんな日のほうが庭に出ても、気楽に遊べるような気がするのです。人の好みって変なものですね。


 「瑕(きず)一つない均質の生地で覆われているようで息が詰まるから? 遠近法がきかない透明な青の深みに吸い込まれそうで不安になるから? なのに、庭に掘った深い穴の底から見上げる空は「円くぬけて」いるみたいで面白い。「人の好みって変なものですね」と自分でも言っている。「画壇の仙人」といわれた画家の言行録「蒼蠅(あおばえ)」から」(2017年4月4日付け朝日新聞より)

 最近、NHKの「日曜絵画館」で見て、興味を引かれた画家で守一が「友人」と書いている、で、長谷川利行のことが、何回か登場する。

 
長谷川利行は飲んべえで、酔うと同じ話ばかり繰り返しました。
 わたしのとこへ遊びにくると、絵を描くことばかりいっている。お前みたいにぐずぐずしているのは損だっていいやがるんです。
 帰るぞといって出て行く。するとすぐまた戻ってきて、同じ話を繰り返しました。
 それでも。いやな感じはぜんぜんなかった。


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まえに写生に行ったとき、描く風景が見つからないので、仕方なく、畑のわきのひがん花を描いていました。
 横でお百姓さんが、黙って畑を耕していました。
 どこからきたのかわからないが、そのひがん花にかまきりが、大きな鎌を振りながら上がってきた。かまきりも入れてまとめると、そう嫌いじゃない絵ができました。
 するとお百姓さんがそばにきて、絵をのぞき、よくできたねとほめてくれました。


 「行ってきましたよ」。東京・亀戸にあるTさんの墓前に、ウイスキーを献杯しがてら、熊谷守一展のことを報告しようと、心に決めた。

 

2017年3月29日

読書日記「オオカミが日本を救う!」(丸山直樹編著、白水社)「日本の森にオオカミの群を放て」(吉家世洋著、丸山直樹監修、ビング・ネット・プレス刊)


オオカミが日本を救う!: 生態系での役割と復活の必要性
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日本の森にオオカミの群れを放て―オオカミ復活プロジェクト進行中
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 このブログにも書いたが、シカの異常繁殖が日本の自然生態系を破壊している実態をかいま見たのは、2008年に北海道・知床を訪ねた時のことだった。

 知床の草地はエゾジカに食べつくされて、すでに「世界遺産・知床から花が消えてしまった」(自然ガイドのTさん)。

  
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ホテルの前庭に群がるオスジカ。見えている白い草花は食べない エゾジカに樹皮を食べられ、立ち枯れたイチイの木
       
 冬になると、ミズナラなどの樹皮をはぎ取り、樹木は枯れてしまう。街中の家屋の前の木々は、金網で覆われているが、葉っぱはほとんど食べられてヒョロリと立っている。
 明治時代に、開拓農民の家畜を襲うエゾオオカミが害獣として絶滅されたため、エゾジカの異常繁殖という自然循環のアンバランスを招いたのだ。

 「オオカミが日本を救う!」の編著者である丸山直樹は、東京農工大学名誉教授。シカの生態を研究するうち、自然生態バランスを維持する食物連鎖「頂点捕食者」である狼に注目、「日本オオカミ協会」を設立して「日本の自然崩壊を救うため、再びオオカミを導入しよう」と、呼びかけている。

 オオカミの再導入によって、シカやサル、イノシシの被害が減少し、里山や土砂の崩壊、流出などの自然破壊を防いだりすることができるという。

 オオカミは、群れで生活し、なわばり内の「頂点捕食者」として、シカやイノシシを食べ、結果的にシカなどの異常繁殖は防ぐことができる。

 しかし、オオカミが人を襲う恐れはないのだろうか。

 これについて編著者は「もともとオオカミは、人への恐れ、警戒感が強く、人との遭遇を避けようとする」という。食物が少なくなって、家畜を襲うことはあっても、健康なオオカミが人を襲った例は、世界的にも報告されていない、という。

 「日本の森にオオカミの群を放て」は、科学ジャーナリストの著者が、丸山氏らが進めているプロジェクトを平易に解説した本。知床なども、オオカミ導入の有力候補らしいが、丸山氏らは、第一候補として日光国立公園に的を絞っているらしい。

 アメリカのイエローストン国立公園では、1995年にオオカミを再導入して成果を上げているようだ。  ネット上で見つけた「オオカミってやっぱりすごい!」というページは、この公園の様子をこう伝えている。

 
 オオカミが捕獲するため、シカの数が減ったが、シカもオオカミに狙われやすい場所を裂けるようになった。
 鹿が近づかなくなったため、植物たちが息を吹き返した。シカに食い尽くされて裸同然だった谷あいの側面はあっという間にアスペンや柳、ハコヤナギが多い茂る森となり、すぐに多くの鳥たちが生息し始めた。
 ツグミやヒバリなどの鳴き鳥の数も増え、渡り鳥の数も大幅に増えた。
 木が増えたため、多くなったビーバーが作るダムは、カワウソやマスクラット、カモ、魚、爬虫類、両生動物など多くの生物の住処となった。また、オオカミがコヨーテを捕食することで、コヨーテの餌食となっていたウサギやネズミの生息数が増加し、それを餌にする「ワシ、イタチ、狐、アナグマなども増えた。
 川の特徴まで変わってきた。それまでの曲がりくねっていた川は緩やかな蛇行流となり、浸食が減り、水路は狭まり、より多くの水のたまり場ができ、野生の生物たちが住みやすい浅瀬ができるようになった。
 川の流れが変わり森林が再生されて、川岸はより安定し、崩れることも少なくなった。そして、川は本来の強さを取り戻し、鹿たちに食尽された谷間の植物たちも再び生い茂り始めた。植物が増えたことにより、土壌の浸食を抑えることにつながった。
 自然が蘇ったのだ。


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      冬のイエローストン公園の頂点にいる捕獲者たち

 日本の北海道標茶町虹別には、20数年前に移り住み、フェンスで囲んだ約2000坪の自宅森林で、14頭のオオカミを飼っている桑原さん夫妻がいる。

 一般の人向けの「オオカミの自然教室」も開いている。

桑原さんが呼ぶと、体重30キロのモンゴルオオカミが飛びつき、ほおをなめた。地面に寝転がり、腹をみせる。「親愛や服従のしるし」と、桑原さんは言う(2013年9月5日、読売新聞夕刊)

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  桑原さんらが飼っている狼たち

狼は、冬の季語である。
 参加させてもらっている「聖書と俳句の会」で昨年末に提出した句が、幸いにも入選した。

     「狼の遠吠え聞けり夢の森

 3月20日付け読売俳壇で3席になっていた栃木県の人の句。

     「日本の何処かで狼生きている」  

2017年2月28日

映画鑑賞記「沈黙―サイレンスー」(パラマウント映画、KAKOKAWA配給、マーティン・スコセッシ監督)、読書日記「沈黙」(遠藤周作著、新潮文庫)


沈黙 (1966年)
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 自宅の本棚で、遠藤周作の単行本「沈黙」を見つけた。なんと昭和41年、社会人になって2年目に初刊本を買っている。表装も現在、56刷を重ねている文庫本のものとは異なる。10年ほど前に多くの所蔵雑本と本棚を処分、寄贈したが、この本だけはなぜか残しておいたようだ。

 アメリカ映画の巨匠、マーティン・スコセッシ監督が、この作品を原作に28年かけて、映画 「沈黙―サイレンスー」を完成させたことを知り、日本封切の日に見に行った。

 隠れキリシタンが捕まって拷問を受けるシーンは、原作記の記述とほぼ同じだった。今年のアカデミー・撮影賞の受賞は逃したが、映像としての迫力はさすがだった。

 水磔(すいたく)という刑があった。

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 海中に立てた木柱に信者たちを縛り付け、満潮になると顔まで漬かる海水で「囚人は漸次に疲憊(ひはい)し、約1週間ほどすると悉く悶死してしまいます。


 熱湯をかける拷問もあった。裸にされて両手両足を縄でくくられ、杓子で熱湯をかけられた。それも、杓子の底にいくつもの穴を開け、苦痛が長引くようにした。

 棄教しようとしないポルトガル・イエズス会司祭2人の前に、どうしても"転ぶ"道を選ぼうとしない男女数人が筵巻きにされて小舟の上から、海に投げ込まれる。司祭の1人、 フランシス・ガルペは役人の手を振り切って海に飛び込み、同じように海中に沈む。

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フランシス・ガルペ  

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 牢に閉じ込められた司祭、セバスチャン・ロドリゴは、夜中に囚人たちが出すいびきのような耐えがたい声を聞いて寝られない。役人は「あれは、囚人たちのいびきではない」と、嘲るように言う。

 牢の前に掘られた穴に汚物が詰められ、囚人たちは逆さ吊りにされる。そのままでは、すぐに死んでしまうので、耳の後ろに小さな傷をつくり、そこから息が漏れていたのだ。

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セバスチャン・ロドリゴ

 ロドリゴの上司だった クリストファン・フェレイラは、この穴釣りの刑の耐えられず、棄教した。

 「日本のキリシタンがあそこまで拷問に絶えたのは、信仰のためだけだっただろうか」。一緒に映画を見た友人Mが言った。

   その答えが、原作にあった。

 
 ロドリゴが、イエズス会本部に送った書簡。
 「牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てる一筋の路を我々の教えに見つけたのです」


   
 隠れキリシタンの女が、ロドリゴに話しかける。
 「 パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると(女に洗礼を授けた)石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓(うえ)も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら」彼女は溜息をついた。「ほんと、この世は苦患(くげん)ばかりじゃけえ。パライソにはそげんものはなかとですね。 パードレ


 映画の封切前に、スコセッシ監督はNHKのインタビューに「この映画には、いくつかの"沈黙"場面がある」と答えていた。

 通辞(通訳の役人)から「あなたが転ばず、キリストの踏絵をふんで棄教しない限り、キリシタン5人の穴吊りの形は続く」と、ロドリゴは言われる。

 Exaudi nos,・・・Sanctum qui custodiat・・・
 (ラテン語)の祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・。


   
 その時、じっと自分に注目している基督の顔を感じた。碧い、澄んだ眼がいたわるように、こちらを見つめ、その顔は静かだが、自信にみち溢れている顔だった。「主よ、あなたは我々をこれ以上、投っておかれないでしょうね」と司祭はその顔にむかって囁いた。すると、「私はお前たちを見棄てはせぬ」その答えを耳にしたような気がした。


   信徒たちへの拷問に耐え切れず、ロドリゴは、ついに転び、踏絵を踏む。

 
 多くの日本人が足をかけたため、銅板をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩擦していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼はが訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)


 ロドリゴは棄教後、死刑になった岡田三右衛門という男の名前とその妻子を与えられ、江戸の切支丹屋敷に住んだ。

 三右衛門が64歳で死去した時。死に装束を着て棺桶に入れられた死体の胸元に、涙ひとつ見せない日本人女房は、懐紙に巻いた手刀を三右衛門の胸元に差し込んだ。同時に、なにかを置いた。

 カメラがアップする。柔らかい光に包まれて、ロドリゴがずっと手元から離さなかった藁で作った十字架が、死体の足元に浮かび上がった。

 スコセッシ監督が描く映像美あふれたラストシーンである。

 この場面は、原作にはない。三右衛門を監視していた切支丹屋敷役人の日記がたんたんと綴られて終わっている。

2017年1月31日

読書日記「俳句の海に潜る」中沢新一、小澤實著、株式会社KADOKAWA刊)


俳句の海に潜る (角川学芸出版単行本)
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 このブログにもUPした「アースダイバー」「大阪アースダイバー」の著者で人類学者の中沢新一と、読売俳壇の選者などを務める俳人の小澤實が、俳句ゆかりの地を何度か訪ねながら対談や講演をした。

   月刊「俳句」(角川文化振興財団刊)で随時掲載されていたのが、1冊にまとまった。中沢新一ファンとしては、読まないわけにはいかない。この人の話しは、あまりに感覚的過ぎて、スーと頭に入ってこないのが難点といえば難点だが・・・。

  「アースダイバー」というのは「カイツブリが海の底からくわえてきた土のかけらが陸地を作った」というアメリカ・インディアンの神話。この本の表題である「俳句の海に潜る」は、この神話から取ったらしい。

 中沢が、アースダイバー論を、そして「俳句はアニミズム(精霊信仰)である」と滔々とぶつのに対し、6歳年下の小沢が謙虚に教えを乞うように見える異色の俳句論である。

 「アヴァンギャルドと神話」と題した第4章では、2人は諏訪を訪ねている。

 諏訪大社発祥の地と言われる前宮に行き、「水眼」の清流を見て、縄文時代からの聖地を感じる。山梨で少年時代を過ごした中沢は、周りの大人たちから「甲斐から諏訪の周辺は縄文時代から変わらないのだよ」とよく言われたという。

 小澤も山梨出身の俳人、飯田蛇笏の「採る茄子の手籠にぎゆアとなきにけり」という句を取り上げ「茄子が単なる野菜ではなく、精霊そのものになっている」と話す。

 中沢は「現代は俳句の危機の時代」だという。

 
 俳句の主題はモノ。この非人間なるものにどうやって「通路」を作っていくかが俳句という芸術の本質。和歌、短歌は人間の世界、しかも根幹は文化だから、都市なんです。ところが、俳句は都市に非ざる世界が必ず広がって、人間ならざる世界と回路を作っていく。そういう芸術だから、むしろ抱えている危機は深い。


 小澤は答える。

 
 切字、文語とか、今の若い人には届きにくい。短歌はそれをほとんど捨ててしまって、若者が飛びつくような詩になっている。・・・切字、文語を使いこなせるようになるまでには、時間がかかってしまう。でも、俳句は切字、文語をどうしても捨てたくない。言霊的なふしぎな力がそなわっている。


 2人が諏訪に旅をした2か月前に、中沢は「俳句のアニミズム」と題した講演をしている。この講演の前に、中沢は小澤に「アニミズムらしい俳句」を10句選んでもらい、講演ではそのいくつかを論評している。

  凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子

 「これをアニミズム的な詩と呼ぶことはできますが、じつは近代的なアニミズムです。魂が抜けて凍蝶になってしまった。宗教学の定義にしたがったアニミズムで、私としては面白くない」

  蟋蟀が深き地中を覗き込む 山口誓子

 「喩表現によって動物の人間化をおこそうとしています。しかし人間が自分の心の『深き地中』を覗き込むときには、人間は逆に蟋蟀に変化していくことによって、人間と非人間に共通する生命の深淵を覗き込むことになります」

  何もかも知ってをるなり竈猫 富安風生

 「猫は犬に比較すると人間の感情や思考に対して無関心で、その分より原始的な生き物だと言えます。その猫が『何もかも知ってをる』のですから、おそろしく原始的な知性に見つめられているわけです。平凡なようでこわい句です」

  泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 永田耕衣

 「地霊→鯰→泥鰌という、深から浅に向かう象徴的思考の運動の背景にあって、神話論的にじつに豊かな俳句だと感じます。泥鰌は水底に近く暮らす魚ですが、どこかトリックスターなひょうきんさがあって、水底と水面のあいだをいったりきたりします。その泥鰌が「底のほうには鯰もいるよ」と報告して、また身を翻して水底に戻っていきます。この鯰が地霊と組んで、地震をおこすのです」

  おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太

 「まさに『東国』のアニミズム感覚です。蛍はお尻を光らせ、その蛍を体につけたおおかみは、目の力をもって存在の光をしめします。・・・私たちの中には、おおかみの目の光の記憶があるように思えます。たぶんこの目の光は、『東国』の自然の放つ霊妙な原始的エネルギーの化身なのでしょう」

 
 こういう目で俳句を見ていますと、俳句とアニミズムが根源的なところでつながっているということがよく分かります。アニミズムと言語の比喩的本質が強く結びついているような。古代的な芸術を残している民族は他ではあまり見かけません。しかもそれが前衛性(アヴァンギャルド)への道も開いている。


2016年12月28日

映画鑑賞記「ニコラス・ウイントンと669人の子どもたち」(マティ・ミナーチェ監 督)、 読書日記「キンダートランスポートの少女」(ヴェラ・ギッシング著、木畑和子 訳、未来社)


キンダートランスポートの少女
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 クリスマスの日。ナチスによるユダヤ人迫害に興味を持ち続けている友人Mに誘われて、この映画を見た。
 主役は、イギリス人のニコラス・ウイントン

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ユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー杉原千畝やこのブログにもアップした小辻節三以外にも、こんな人物がいたことを初めて知った。

 第2次世界大戦直前。ロンドンで株式仲買人をしていた29歳の時、かかってきた1本の電話がニコラス・ウイントンの運命を変えた。

 かけてきたのは、一緒にスイスにスキー旅行に出かける計画をしていたチェコの友人。ナチスによる迫害の危険が迫っており、プラハの街に住むユダヤ人を救援するために旅行をキャンセルしたい、という。

 よく事情が分からないまま、ニコラスはプラハに飛ぶ。そして、ユダヤの子供たちをチェコから連れ出す「キンダートランスポート(子供の輸送)」プロジェクトを始める。しかし、アメリカをはじめ各国はこの計画に冷たく、子供たちの受け入れを拒否した。
 ユダヤ難民の受け入れで、失業者がさらに増え、反ユダヤ主義が高まるのを懸念したのだ。
 ようやく受け入れを認めたのがイギリスだった。ただ、50ポンドの保証金を政府に払い、里親を確保すること、その費用はすべてニコラスらが立ち上げた民間団体が負担する、という条件を付けた。ニコラスは、ロンドンの自宅を事務所にし、プラハとロンドンの友人らに助けられて、旅行許可証や入国許可証を取得するための書類作成や里親を確保する仕事に没頭した。時には、許可証を偽造することまでした。

 そして、最初に200人の子どもを乗せた列車がプラハ・ウイルソン駅(現在のプラハ本駅)を出発、計8本の列車が仕立てられて計669人の子どもたちを逃し、彼らは生き延びた。

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 チェコでの帰属意識や財産、仕事を捨てきれなかったこともあったのか。残った親たちは、その後の第2次世界大戦の勃発によるナチ・ドイツ軍の侵攻で、強制収容所に送られ、ほとんどの人が亡くなった。

cap-03.jpgcap-032.JPG この映画の原案本となった「トランスポートの少女」の著者、ヴェラ・ギッシングも、この列車に乗った1人、当時10歳だった。
ギッシングは、この著書のなかで駅を出発した時のことをこう回想している。




 駅のホームでは不安な面持ちの親たちがあふれかえり、列車は興奮状態の子供たちでいっぱいでした。そこで繰り広げられていたのは、涙と、最後の注意と、最後のはげましと、最後の愛の言葉と、最後の抱擁でした。出発の笛がなると、私は思わず「自由なチェコスロヴァキアでまた会おうね!」と叫びました。その言葉に、私の両親もまわりの人も、近くにいるゲシュタポを気にして不安そうな顔になりました。汽車がゆっくりと動き始めると、多くの人びとの中、私の目には、身を切られるような苦しさを隠そうと必死に笑顔を浮かべる最愛の両親の姿しか入りませんでした。


   確かに映画でも、列車はドイツの軍服に囲まれていた。
 ナチが支配しているなかで、子どもたちだけでも、なぜ出国できたのか?

 このことについて、「トランスポートの少女」の訳者である木畑和子・成城大学名誉教授は、映画のパンフレットで「当時のナチ政権がまずとったのは、ユダヤ人の強制的出国政策であった」と解説している。この政策の目的の1つは「ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった」

 子どもたちを乗せた列車は、ナチが支配する恐怖のニュールンベルク、ケルンを抜け、オランダのから船でイギリスに渡り、ロンドンに着いた。

 途中、オランダの停車駅では、民族衣装の女性たちがオランダ名産のココアと白いパンをふるまってくれた。
 この白いパンを食べたであろうヴェラ・ギッシングはしかし、著書のなかでは丸くて堅いチェコのパンを何度もなつかしがっている。

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 ニコラスのリストには、出国させるべき6000人の子どもの名前が載っていた。
 しかし、250人の子どもたちを乗せた9本目の列車が出発しようとした1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。計画は中止され、子供たちは強制収容所で死んだ。

 これを悔やんだニコラスは、彼の偉業についてけっして語ろうとせず、里親や助けた子どもたちとも会わなかった。

 それから50年後、1988年のある日。ニコラスの2度目の妻グレタが屋根裏部屋でほこりをかぶった1冊のスクラップブックを見つけた。そこには、ニコラスが救った子どもたちの住所などの詳細な記録が残っていた。

 ニコラスによって生かされた80人の"子どもたち"が見つかり、テレビ番組で対面した。

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 世界中で暮らす"生かされた"子どもたちと、その子や孫は約2200人に及ぶという。

 彼らや、ニコラスの行動に感動した多くの人々は、世界各地で様々なボランティア活動を始めた。それが"ニコラスの遺産"となって、今でも大きく広がり続けている。

 ニコラス自身も、自らの活動を多くの子どもたちに語り始めた。
 エリザベス女王からナイトの爵位を与えられ、チェコの大統領からも栄誉勲章を受けた。2015年、106歳で世を去った。

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 子どもたちが到着したロンドンの リヴァプール・ストリート駅前には、当時の様子を残した銅製の群像が立っている、という。

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2016年11月29日

読書日記・絵本「雑草のくらしーあき地の五年間―」(甲斐信枝 作、福音館書店刊)


雑草のくらし―あき地の五年間 (福音館の科学の本)
甲斐 信枝
福音館書店
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 2回目の白内障手術に出かける前の今月23日。NHKテレビで「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」という番組を放映していた。

 京都・嵯峨野に住む甲斐信枝さんという85歳の絵本作家が、雑草や草花、昆虫を子細に観察して絵本にしていくドキュメンタリー。「こいつら、可愛い」と話しかける姿に引き込まれた。

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 さっそくAMAZONに表題の絵本の購入を申し込んだ。ちょっと遅れて28日に、縦28・5センチ、横30センチの大型本が届いた。

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   なんと1985年発刊と30年以上も前に発刊され、多くの賞を受けたベストセラー絵本だった。

 絵本を開くと見開きのページで菜の花畑の真ん中にある広い空地の絵が、視力1・2に戻った両目に飛び込んできた。

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 甲斐さんは1979年春から5年間この空地を借り、入れ代わり立ち代わり生えては枯れていく雑草たちの栄枯盛衰を観察、水彩画にしてきた。

 最初に「土のなかからわきだすように」緑の葉を出したのは、メヒシバの大群。「ところどころにエノコログサもまじっている」
 エノコログサの穂をこどものころ"猫じゃらし"と呼んで、遊んだことを思い出す。どちらも、近所のどこの空地でも見つけられた草だった。

 一年草であるこれらの雑草は、夏から秋にかけてたくさんの種子を散らし「一生を終わって死んでいく」

 そこへ、向かいの土手からオオアレチノギクの種子が飛んできて芽を出し「寒い冬をのりこえて、大きく育って」いった。空地の主役交代だ。

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 このページに描かれているのは、3年目の春の雑草たち。

 この年の主役は、カラスノエンドウだ。「となりの草にまきついてひきよせ、・・・上から草たちにおおいかぶさって」他の雑草の命をうばっていく。
 この草の鞘を草笛にしてよく遊んだことを思い出す。

 夏になると、鞘が真っ黒になって「パチッ、パチパチッと、・・・ゴマをいるような音」で種をはじけ出し、秋には枯れて死んでいく。

 4年目の春。枯草に阻まれて芽を出すことができなかったカラスノエンドウにかわって「いちめんに花を咲かせたのはスイバの群れ」。表紙に描かれているのは、スイバの雄花と雌花だ。
 スイバは茎が酸っぱく、見つけると「スーイ、スイ」と言いながら口でかみ汁を飲んだものだ。いつもお腹がすいていた子供のころの思い出だ。

そして五年目の春のある日。
 荒れ畑の土が掘りかえされ、草がすっかりとりのぞかれた。
 すると、ぞくぞくと芽をだしてきたのはメヒシバ、エノコログサ。
 短いいのちを終わり、消えていったメヒシバやエノコログサは、
 種子のまま土の中で生きつづけ、自分たちの出番がくる日を、
 じっと待っていたのだ。


 甲斐さんは、草花や虫たちを正確に写し取るため科学絵本と呼ばれる多くの絵本を出している。いつも、雑草や草花、虫たちと同じ目線で描き切る、という。

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2016年10月26日

読書日記「人の樹」(村田喜代子著、潮出版社刊)


人の樹
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村田喜代子
潮出版社
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 村田喜代子の新著を書評欄で見つけ、嬉々として読み始めたが「なんだ、これは!?」

  タンブルウイードという砂漠をクルクル回りながら生きるおかしな草や

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タンブルウィード

 ビッグバンで宇宙が始まった140億年前からという想像を越える年月を生き続けているサバンナ・アカシア

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サバンナ・アカシア

 人間と無理やり結婚させられるニームの木。自分の樹皮に男から接吻されて、その快感に眩暈をもよおしたりする・・・。

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ニームの木

 そんな名前も聞いたことがない木々が、人間たちと不思議な交流を繰り返す。
 なんとも"荒唐無稽"すぎて一度は本を放り出したが「これこそ、新しい村田ワールド」と、再度手にして引きずり込まれてしまった。

 
 「あたしは、シマサルスベリ」
 亜熱帯の生まれだけれど、ヨーロッパらしい寒い国の港の公園に植樹された。

 真紅色が美しい樹皮を持ち、春の終わりから秋まで白い小さな花を溢れるほどつけるから、昼食帰りの商社マンたちが、必ず見上げていく。

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シマサルスベリ



 アジア系らしい「冴えない男」が「あたし」に話しかけてきた。どこの国の言葉かはわからなかったけれど、なぜか言うことが理解できた。

 男が唐突に言った。

 「じつはおれ、昔、木だったことがあるんだ」「君と一緒に海を見下ろす丘に立っていたフェニックスだったんだ」


 男が突然、帰国することになった。仕事に失敗したらしい。大きな船のデッキから、あたしに手を振っているのが見えた。

 
 体がふわりと宙に浮いた。あたしは人間の女になっていた。桟橋に向かって走り、叫んでいた。
 「我?? 我不要???我」(愛しているわ、私をおいていかないで)
 二人は中国生まれの恋人同士だった。

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フェニックス

 人間たちが森をめざしてやってきた。5つの担架を担いでいる。

   重い腸炎で死神に怯える男の子、結核で衰弱しきった若い女性、心臓と血行障害で喘いでいる老人、痛風の痛みで泣いている年寄り、働き過ぎで臓器が悲鳴をあげている中年の男。

 山の木が春から夏にかけて発散する大量の フイトンチッドの成分は百以上ある。ある成分は、ジフテリア菌さえ撃ち殺す。・・・森全体が病原菌の燻蒸所だ。・・・針葉樹や広葉樹では、吐き出す成分がみな違う。

 担架の列は、スギ林やマツ、ヒノキの森をゆっくりくぐりぬけ、クスノキの森に向かう。

   
 クスノキの幹は深い菱形の彫りが美しい。どっしりとして枝張りのおおきな大樹なのに、明るい緑色のヒラヒラした葉をつけている。陰気な針葉樹と違って、クスノキは晴れやかな森の巨人だ。


 担架の若い女の頬に血の気が戻ってきた。血行障害の老人が息子にしゃべり出した。「足の痺れがだいぶ治ってきた」。痛風の年寄りも、少し良くなったらしく泣き止んでいた。「お水が飲みたい」。男の子は、父親がせせらぎでくんできた水をごくん、と飲んだ。

 中年の男が苦しみ出した。スギもクスノキモハリエンジュも、コナラも、懸命に自分の精気を男の方に送った。

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クスノキ



 
 死は生の親である。死んだ亭主の顔に朝の荘厳な光が射している。女房の顔にも射しているぞ。
 そうだ、歩いて行け。そして生き続けてゆく者は、森の精気を一杯吸うのだ。


2016年10月 1日

読書日記「ルーアンの丘」(遠藤周作著、PHP研究所、1998年刊)


ルーアンの丘
ルーアンの丘
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遠藤 周作
PHP研究所
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 なぜか寝づらい日が続いた深夜に、テレビ録画で見ていて表題の本をテーマにしたドキュメンタリー(NHK制作)に引き込まれた。

 題材になっている「ルーアンの丘」は、作者が1950年に戦後最初の留学生としてフランスに渡った時に残していた旅行記「赤ゲットの仏蘭西旅行」と滞仏日記をまとめたものだ。作者の没後に見つかり、1998年に単行本になった。

 県立西宮北口図書館で司書の女性に見つけてもらい、一気に読んだ。

   フランスに同行したのは、生涯の親友となった 故・井上洋治神父ら4人。

 世話をしてくれたフランス人神父の尽力で、フランスの豪華客船・マルセイエーズ号に乗れることになった。ところが、遠藤が別に記しているのによると「船賃は最低の2等Cで16万円」。
 とても貧乏留学生に払える金額でなかったが、その神父の努力で「特別に安い部屋」に乗れることになった。

 大喜びで、フランスの船会社の支店に4人で切符を買いに行き、マルセイエーズ号の模型を囲んで「俺たちの船室はどこだ、どこだ」と大騒ぎしていたら、フランス語の堪能な若い女性が「かなしそうな眼で見ていた」・・・。

   横浜港でマルセイエーズ号に乗り込み、切符を事務長に見せると、せせら笑って「船室は船の一番ハシッコだと答える。

 
皆さん、『奴隷船』という映画を見ましたか。船の端の地下室の光もはいらねえなかで、黒人たちがかなしく歌を歌っている。実に、ぼくらの船室はあそこだったんです。・・・寝床は毛布も何もねえ、キャンプベッドがずらっと並んでいるだけ。鞄をもってきた赤帽君が驚いたね。「あんた、これでフランスに行くんですか」


 港に着く度に、クレーンで荷物がドサット落とされ、船倉ホコリだらけ。食事さえ、自分たちで厨房に行き、バケツに入れて運んでこなければならない。

   シンガポールやマニラでは、日本人は上陸禁止。第二次大戦中の マニラ虐殺などの恨みを忘れらてはいない。しかし、港に着くたびにこの船艙に乗ってくる中国人、インドネシア人、アラビア人、サイゴンで降りた黒人兵は、みな笑顔で接してくる。「なぜ、中国人などを今まで馬鹿にしたり、戦争をしたりしたのだろう」・・・。

 イタリア・ストロンボリイ 火山の火柱をデッキから見ていた時、ボーイの1人が「北朝鮮軍が南に侵入した」と1枚の紙きれを渡してくれた。

 神学生のI君(故・井上洋治神父)は、よく甲板のベンチでロザリオを手にお祈りをしていた。

 ?君は帝大の哲学科を今年出て、日本に修道会の カルメル会を設立することを自分の一生の使命として、遠くフランスのカルメルで修行する決心をしたのです。もう一生家族にも会えない。全ての地上のものを捨て、孤絶した神秘体の中に身を投じる君をぽくは真実、怖ろしく思いました。彼の体は強くない。寂しがりやで気が弱い・・・。そんな彼が人生の孤絶、禁欲ときびしい生の砂漠を歩いていくのを見るのは怖ろしかったのでした。暗い甲板の陰で、ぽくは黙って彼の横に座りました。

 「君、こわくない」
 とぼくはたずねました。
 「もう御両親や御姉弟にも会えぬのだね。もう一生、すべての地上の悦びを捨てねばならぬのだね」
 「少しこわいね。何かちょっと寒けがするような気持だ」
 と彼はうなだれました。


 マルセイユに入港、パリ経由で北仏・ルーアンの駅に着いた。この街に住む建築家・ロビンヌ家で、夏休みの間、ショートステイさせてもらうことになっていた。
 改札口で、中年の美しいマダム・ロビンヌに迎えられた。間もなく、ロビン家の11人の子どもがバラバラと集まってきた。遠藤がどの出口から出てくるか分からないため、前夜から1人ずつ張り番をしていた、という。

 最初にマダムに慣れないこと、不満なこと、困ったことは、何でも話すようにと約束させられた。そして、自分の子どもとして教育するという。

 日本では、ものぐさではどの友人に引けを取らなかったのに、髪をきちんと分け、靴は少しでも汚していると夫人に叱られた。特に、食事などのマナーは厳しかった。

 「食事中葡萄酒を飲む時、前もってナプキンで口を拭くこと」
 「食事中、黙ってはいけません。話さないのは礼儀ではありません」
 「煙草を半分吸って捨てるなんて、アメリカ人のすることです」

 「もう、我慢できないと」と言ったら、夫人は答えた。
 「あなたが大学に行ったら、大学生は無作法に食事したり話したりするでしょう。・・・しかし、典雅に物事をふるまえた上で野蛮に友だちと話せる大学生と、全く無作法な大学生とは違います」

 ある日、長男・ギイやガールフレンドのシモーヌなどとピクニックに出かけた。合唱やダンスを楽しみながら、彼らと空襲や離別の繰り返しだった、わが青春を比較してみた。
 そして、インドの乞食の少女の黒くぬれた眼、マニラの海の底に失われていった青春・・・。

 急にパリに行きたくなった。
  サン・ラザール駅に着いたのは午後6時半を過ぎていた。1つの教会の祈祷台に、倒れ込むように跪いた。

 神様、ぼくは、あなたを何にもまして愛さねばならぬことを知っています。しかし、ぼくは、今、人間を愛し始めたのです。ぼくが、永遠よりも。この人間の幸福のために力をそそぐことはいけないことでしょうか。人間の善きものと美しきものを信じさせて下さい。神様、ぽくに真実を、真実として語る勇気をお与え下さい。・・・自然があれほど美しいのなのに、人間だけが、悲しい瞳をしていてはいけないのです」


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ロビンヌ家の人々と遠藤周作(左端から長男・ギイ、遠藤、マダム・ロビンヌ、末っ子のドミニック)


2016年8月30日

読書日記「おひとりさまの最期」(上野千鶴子著、朝日新聞出版刊)「上野千鶴子が聞く 小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?」(上野千鶴子、小笠原文雄著、同刊)

おひとりさまの最期
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上野千鶴子
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上野千鶴子が聞く  小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?
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 ほぼ1年前の出版で、一読した後、何度かパラパラめくっては放置していた。 元東大名誉教授の有名な社会学者の 著書にしては、ルポと自分の論理が入り組んで、なんだか読みづらいのだ。

 ただ、妻に先立たれ、3人の子供たちも東京に永住しそうな独居老人として、病院や施設でなく、自宅での「おひとりさまの最期」が迎えられたらと思っている。今後の参考になろうかと、再読してみた。

 著者は、前著 「おひとりさまの老後」(文春文庫)で、独居老人に子どもらが同居を申し出てくるのは「悪魔のささやき」と表現。子どもに「わがまま」と言われてもあくまで一人暮らしを貫くのが、幸せな最後を迎えられる最善の道と強調する。
おひとりさまの老後 (文春文庫)
上野 千鶴子
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 同居したばかりに、老後のプランを乱されることがあまりに多く、最後は「介護に疲れた」「自分の時間も持てない」など、子ども側の勝手な?都合で施設や病院に送り出されてしまう。

 しかし、病院は「死は敗北」と考える場所である。救急病棟の延命治療で心臓が止まりかけたかけた心肺を蘇生しようと無理な圧迫して、意識もない老いた患者の肋骨を折ってしまうこともある。しかも家族は ICUから遠ざけられ、呼吸停止を医師が確認して「ご臨終です」と通告されるまで会えない。食欲がなくなれば、無理にでも生かそうとして意識のない患者の胃に穴を開け、栄養物を流し込む。

 施設も、死期が近づくと、高額を払って入った自室から出され、介護居室に移されるか、 病院に搬送されるケースが多いらしい。

 しかし、施設看取り160例を経験した石飛幸三医師の 「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」(講談社文庫) によると、「終末期に痛み緩和のためのモルヒネを使用したことは一度もない」という。
「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか (講談社文庫)
石飛 幸三
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 末期になると、脳から麻薬物質のエンドルフインが出て、モルヒネと同じ作用をするそうだ。だから苦しくないそうだとか。これが「老衰の大往生です」。

 政府も、在宅看取りの方向に重点を移し出した。病院や施設の新設を抑え、在宅診療の医師にわずかながら加算を認める方針を打ち出した。増え続ける医療費削減の一環だ。

 
 一方で「死ぬのは病院で」という「常識」を打ち破ったのは。・・・まず患者たちでした。そんな、無茶な、という「常識」をくつがえして、家に帰った患者たちは、死にかけているのに食欲を取り戻して元気になった、とか、あと数日と思われていたのに何か月も生きるとか、寝たきりだったのに歩き出したとかの「奇跡」を次々と起こしています。
 医師たちが自分たちの及ばない住宅の効果、・・・に目覚めていくのは、そういう経験の蓄積を通じてでした。


 しかし、ここで著者は、大きな疑問符を示す。

 これまでの住宅看取りは、家族の介護力があってのものでした。住宅医療を実践する頼もしい医師たちはようやくあちらこちらに増えてきましたが、・・・家族のいないおひとりさまのわたしのような者は、どうしたらよいのでしょうか?


 在宅医療を実践している専門家たちは、在宅看取りのための4つの条件の1つとして、「介護力のある同居家族の存在」を必ず挙げるという。
 それも老老介護(高齢者が介護する)や認認介護認知症者が介護する)でない、元気な妻か夫、嫁か娘、息子が在宅に同意してくれること、だという。

著者は「(この)条件では、わたしのようなおひとりさまには、やはり在宅死のハードルは高いのか、とがっくり」と言いながら、こう続ける。

 これまで、在宅介護と家族介護は同義に語られてきました。ですが、第一にこれだけ単身世帯が増えると、お年寄りが家にいたいというのはかならずしも家族と共にいたい、という意味と同じではないこと、第二に嫁ではなく娘や息子による介護が増えると、家族介護と言っても別居顔族が通勤介護にあたる例が増えてきたことで、在宅介護=家族介護=同居介護という等号が崩れてきた事実があります。主たる家族介護者といっても、同居介護者とは限りません。単身世帯に別居家族が通勤介護できるなら・・・そこに他人が入っても同じ。


 結論からいえば、在宅ひとり死の条件は、(1)24時間対応の巡回訪問介護、(2)24時間対応の訪問看護、(3)24時間対応の訪問医療の多種連携による3点セット。これさえあれば可能です。


 こういうしくみを事業にしてしまったのが、定時巡回・随時対応型の短時間訪問介護です。一日4回とか必要なら6回、15分から20分までの短時間訪問で巡回し、それに加えて緊急コールがあれば24時間対応します。
 滞在時間がいかにも短いと感じられるかもしれませんが、15分あれば手際よくおむつを換えて体位交換し、後片付けして退去できます。・・・施設でやっていただける介護をおうちに配達する・・・ようなもの。


 終末期になれば、定時巡回のあいまに、息を引き取ることもあるだろうが「ひとり暮らししてきたのだから、ひとりで逝くのはいっこうにかまわない」と思えたら「在宅ひとり死は可能です」。

 ただ、在宅看取りを実践してきた小笠原医師によると「ふしぎなことに、ひとり暮らしのひとがひとりのときに逝くことはめったにない」のだそうだ。後半では、在宅医や訪問看護ステーションが増えない理由を分析しているが、私がネット検索したところ、複数の医師を置き、24時間訪問医療を実施しているところが、複数あった。

 「上野千鶴子が聞く 小笠原先生、ひとりで家で死ねますか?」は、前著の約年半前の著作。上野千鶴子が、日本在宅ホスピス協会会長である小笠原に、一問一答形式で、在宅おひとり死についてきめ細かく聞き出している。

そのなかで小笠原医師は、睡眠薬の力を借りて夜間に深い眠りに入る「夜間セデーション」、尿道留置カテーテルなどのノウハウを紹介している。

そして同医師は、医学教育そのものを変えて行かなければならない、と小笠原医師は著者の質問に答えて強調している。

「高度医療を施すべき患者と、自宅でゆっくり過ごして人生の質を高めてもらったほうがいい患者をきちんと分け、どちらの大切さも教えていかないとだめだと思います」

2016年7月31日

読書日記「孔乙己(kong yi ji)、魯迅著、藤井省三訳、光文社古典新約文庫」

孔乙己
孔乙己
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(2012-10-04)


 毎週金曜日の午前中、神戸中国語言学院(神戸華僑総会内)での中国語教室の新しい?本(科目)が、この小説だった。

 ?本では、この小説の背景などについて、若い学生2人が話し合うという設定だが、おもしろそうなので、帰りに近くのジュンク堂本店に寄ってみた。

 中国語教室の?老?(先生)には「中国語で読みなさい」と言われたが、とりあえず「阿Q正伝」なども収録されている短編集の邦訳文庫本を買った。

 「孔乙己」は、文庫本でたった10ページ。1919年、魯迅38歳の時のほぼ処女作らしいが、訳者は「構成、文体とも見事な出来映え」と、ベタほめしている。

魯迅の故郷である紹興を模した街に咸亨酒店という紹興酒の造り酒屋がある。

咸亨酒店
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 この酒屋は、魯迅の叔父が開業した店で、今でも営業しているらしい。そのカンターで一人、ボロボロでつぎはぎだらけの?衫(chang shan、男性が着る単衣の中国服)を着て、椀で酒を飲む背の高い常連客がいた。定職もなく貧乏なその男は、盗みをしては殴られた傷が絶えず、周りの客から「孔乙己」とあだ名で呼ばれ、バカにされていた。

 ?衫は、もともとインテリが着るものだったが、1911年の辛亥革命で清朝政権が終わりをつげ、世の中の価値観がガラリと変わるなかで、金持ちだけが?衫を着るようになり、彼らは、カーテンで仕切られた奥のテーブル席でご馳走を肴に酒を飲んでいた。

 しかし、インテリの見えが捨てられない「孔乙己」は、短い服を着た労働者が酒を飲むカンターで、ただ一人?衫を着て茴香豆(ういきょうまめ、そら豆をういきょう=八角で煮込んだもの)を肴に、1椀か2椀の紹興酒の熱燗を飲む。話す言葉を「なり・けり・あらんや」の文語調で終わらせ、相手を煙に巻いていた。

?衫                茴香豆    
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 そして、カンターの中で、お燗の番をする小僧に「『回』という字には,いくつの書き方があるのを知っとるか」とインテルぶるのを辞めなかった。

 「回」という字は「囘」「?」などとも書くらしい。

 「孔乙己」は最後には、盗みが見つかって足を折られ、手でいざるようになり、酒場からも姿を消してしまう・・・。

 当時の社会状況を理解できない「孔乙己」を主役にしながら、魯迅は清朝末期の「封建社会」を批判している・・・というのが、この小説の真意らしい。

 現在でも、紹興の咸亨酒店の前には?衫を着た「孔乙己」の銅像があり、観光客の人気になっているという。

 たった10ページだが、ひょんなタイミングで、魯迅の名作に出会うことができた。

2016年6月21日

読書日記「焼野まで」(村田喜代子著、朝日新聞出版)

焼野まで
焼野まで
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村田喜代子
朝日新聞出版
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 なぜか、 村田喜代子の本を見つける、読みたくなる。

   このブログの 「村田喜代子アーカイブ」には、5冊を記録してもらっているが、そのほかに流し読みした本を合わせると10冊近くになるだろう。
 この人の、ちょっぴり奇怪、怪奇的で、ユーモアあふれる文章と構成になんとなく引かれてしまう。

 表題の本は、このアーカイブにもある 「光線」という著書が土台になっている。
 4年前に書かれた「光線」は8つの短篇で構成されていた。2011年3月の東北大震災の直後に著者が子宮がんを患い、鹿児島にある 「オンコロジーセンター」(UMSオンコロジークリニックと改名)に通って、四次元ピンポイント放射線照射治療で完治させるという構成は、「焼野まで」でも一緒だった。「光線」での体験が4年経って、この長編小説に昇華されたようだ。

 著者は、自ら罹った子宮がんだけでなく、知り合いが視神経に絡みついて外科手術ができない脳腫瘍や腹部大動脈を呑み込んだ膵臓がんを、この治療法で完治させた。それだけ、著者の四次元ピンポイント放射線照射治療に対する信頼は厚い。

 ガンはいびつな形をした立方構造をしているらしい。生きている臓器は微妙に動くので、従来の二次、三次元照射では、照射する位置がずれ、正常な臓器を痛めたりする。

 そこで、オンコロジの稲積院長(UMEオンコロジークリニックの 植松稔院長がモデル)は、刻々と時間差でガンの部位を追跡する四次元照射法を考案した。
 それも機械任せではなく、稲積院長が東京から連れてきた5人の放射線技師の「精密な手」がガンを逃さず、追いかける。

 主人公が、初診で会った稲積院長は普通の医者とは異なり、ワイシャツにベストだけのラフな格好で「理系の技術者のよう」だった。

 主人公が通っていた病院から持ってきた画像をざっと見ると、院長はあっさりと言った。
 「大丈夫、このガンは消せますよ」・・・「放射線は正確にかけると、(がんは)消えるものなんです」・・・「放射線は粉に似ていますから、粉を降りかけるんだというふうに思ってください」

 しかし、このような新しい治療法は、一般の人や病院にはなかなか受け入れてもらえない。

 オンコロジーセンターで知り合い、銭湯に一緒にいく仲になった乳がんだという三十歳後半らしいの女性は、こんな経験をした、という。

 「主治医に、セカンドオピニオンを受けたいので、画像を出して欲しいと頼むと、紙袋ごとフイルムを床に放られました」
 それで、しゃがんで・・・画像を拾っていると、頭の上で医者の声がした。
 「死に給え・・・」

 著者の女性主治医は、すぐに画像をそろえてくれたが、こう付け加えた。
 「お出でになるのを止めることはできませんが、どうぞ向こうの先生に即答なさらないでください。何も決めないで、とにかくまた帰って来てください。放射線では消えないのです」

 大学病院婦人科病棟勤務の看護婦である娘には、こんな言葉をぶつけられて、母子断絶となった。
 「あのね、子宮体がんに放射線は効きにくいの。絶対効かないと言ってもいい。・・・選択肢はただ一つ。手遅れにならないうちに切る。それにもう躊躇する理由はないでしょ。要らないじゃない、その齢で」

 ただ、毎日、平服のまま10分弱の放射線治療をうけるだけだが、主人公にはつらい体験がつづいた。

 
 五月三日でここへ来て七日経った。 一日二グレイ収線量)づつ振りかけて、総量十四グレイだ。ただし?線は放射線源のない、身体をすり抜けていくだけの光の失だから、体に降り積もっているわけじゃない。毎日はらはらと粉雪が降る。降った雪は一日で溶けて消える。そして明くる日はまた明くる日の粉雪がはらはらと降る。
 そういうことだとわかっているのに、体は少しずつ消耗していく。食欲がなくなるのと、照射直後の下痢で体重が二キログラムほど落ちた。それなのに体が重くなっていく。頭が重い。肩が重い。背中がずっしりと重い。手が重い。足が重い。重くてだるい。身の置き所のない倦怠感に襲われる。寝ても起きても体を持て余す。


 苦しんでいる間に色々な幽霊に会う。夢のなかの出来事の描写は、村田喜代子の真骨頂である。

 
 センターに通うために借りたウイクリーマンションでぼんやりしていると、焼島(モデルは、鹿児島・ 桜島)のとある店先に立っていた。奥から姐さん被りの年寄りが出てきた。なんと「私の祖母である」
 「お帰り、和美。きつかったじゃろ」。三十六年前に亡くなった祖父と、三十年前に亡くなった祖母と三人で竹藪の小屋で夕食のお膳を囲む。「音のでない映画のようだ」


   グレイ量を五まで増やして六日間。やっと、治療が終わる。

 
 竹藪の小道に入ると、祖父母の住む小屋が見えて来た。  「まあ、何事なの?引っ越しみたい」・・・「おうその引っ越しをするとじゃ」・・・「お前の治療ももう終わる頃やから」
 はたちそこそこの娘が出てきて、祖母が抱いた( 水子)の人形を抱き取った。
 そんならわしらは先に去ぬるぞ」。祖母が言う。・・・娘が振り返って、にっこり微笑んだ。
 自分の母だとふっと気付いた。


 

2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
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 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
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 新約聖書のルカ福音書24章13?31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
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 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593?94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597?98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
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 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5?7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
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 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
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 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
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女占い師 -2
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   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597?98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
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 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615?24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
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 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
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若松 英輔
中央公論新社
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 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4?7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31?32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2016年3月16日

読書日記「新しい須賀敦子」(編者・湯川豊、著者・江國香織、松家仁之、湯川豊 集英社刊) 



新しい須賀敦子
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江國 香織 松家 仁之 湯川 豊
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 そろって、 須賀敦子マニアである作家の 江國香織、元文藝春秋編集者で文芸評論家の湯川豊、元新潮社編集者で作家の 松家仁之が描き出す「新しい」須賀敦子像。

 昨年、 神奈川近代文学館で開催された 「須賀敦子の世界展」での対談、講演などで構成されているが、単純にエッセイを書く人だと思っていた須賀敦子が「実は物語を書いて」いた、しかも61歳になって処女作を出した秘密が明らかになっていく。

 まず、須賀敦子が作家になろうと思ったのは、彼女自身が翻訳もしたイタリアの小説家、 ナタリア・ギンズブルグ 「ある家族の会話」という本に出合ったことにあることが分かってくる。

 このブログでもふれた須賀敦子の 「トリエステの坂道」を読み返してみると、「ある家族の会話」を渡してくれたのは、ミラノの書店に勤めていたイタリア人の夫、ペピーノだった。

 
しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だと思った。


 
はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。
 そして、ナタリアは「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる」ことをしていたのだと「すっとほどける」ように気が付く。


 
こうして、『ある家族の会話』は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。


 夫の死後、ミラノから東京に引き上げていた須賀は、思いがけない縁でナタリアに会う機会に恵まれる。ただ、その後、ナタリアは病を得て亡くなる。

 
書くという私にとって息をするのとおなじくらいの大切なことを、作品を通して教えてくれた、かけがえのない師でもあったナタリアへの哀惜に、雨降りの歩道で、私は身も心もしぼむ思いだった。


  「コルシア書店の仲間たち」でも、須賀敦子は「ある家族の会話」に脱帽したいきさつを、友人に語っている。

自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら、私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。


「ある家族の会話」の「まえがき」で、ナタリアはこう切り出している。

この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったく、ない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことはあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。


よく日本の小説のあとがきなどで「この小説はフィクションであり、現実の登場人物は存在しません」といった文章にお目にかかる。

しかし、ナタリアは現存する人物にあくまでこだわりながら虚構(フィクション)化をする文体を完成させた。

 その作者に対し「羨望と感嘆のいりまじった一種の焦燥感をさえおぼえた」(「ある家族の会話」訳者あとがき)須賀は、ミラノから帰国した約20年後、61歳になってやっと、処女作「ミラノ 霧の風景」を刊行する。
 自分の文体を作り出すのに、それだけの時間がかかったのだ。

 湯川との対談のなかで江國は、こう話している。

事実を伝えるために、事実を書くためにノンフィクションではなくフィクションにする。・・・そういう強い確信がナタリア・ギンズブルグにはあったと思いますし、その確信は須賀さんもあったに違いないと思うんです。須賀さんはエッセイを書かれたわけだけれども、それを伝えるには物語にしなければならないという確信はきっとおありになっただろうと思います。


 湯川は、須賀の文体(文章のスタイル)は「うねるような、呼吸を感じられる、論理的でありながら角ばったところのない」と分析する。

 松家は「ミラノ 霧の風景」について「あのような物語性のある人生を、ながらく時間が経過するのを待って書かれたこと。成熟した文体なのに、新鮮であること。文学というのは、確かにこういうものだと、しばらく忘れていたことを思い出させる本でした」と語る。

 「停留所まで迎えにいったのに、気づかない様子で背広のえりを立てていってしまう夫・ペピーノ」(トリエステの坂道)、「訪ねて行って眠り込んでしまった著者を、困ったような顔で見つめていた友人のガッティ」(ミラノ 霧の風景)、「夫の死後に訪ねたしゅうとめの小さな菜園で、心を通わせる2人」(トリエステの坂道)・・・。

 これらの描写はすべて、須賀敦子が作り出した「読むように書く」文体で繰り出される「物語」(虚構)だったのだ。

 しかし須賀は「エッセイという枠を外して自由に小説の構想なり構造をつくらないと、表現できないものがあることを発見〉〈湯川〉していた。
 そして親しい知人に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と打ち明けていた。

 「アルザスの曲がりくねった道」と名付けられたこの小説は、フランス生まれの修道女を主人公。信仰がテーマだったようだ。

 しかし、未定稿30枚を残して、須賀敦子は病に倒れた。享年69歳だった。

 

2016年2月24日

「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」(山田純大著、NHK出版)

命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民
山田 純大
NHK出版
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 亡命を求めるユダヤ人の求めに応じて、 リトアニアの地で日本行きのビザを発行し、6000人ノユダヤの命を救った日本人外交官 杉原千畝。その名前は、あまりに有名になってしまった。

 しかし、短期ビザで日本に来たはずのユダヤ人は、どうして安住の地に旅立つことができたのか・・・。

 先月、ある会合でこんなことが話題になった時、この会の主唱者である元銀行家のK氏が紹介してくれたのが、この本。

 あまり期待もせずに、図書館で借りた。意外に面白かった。

 小辻節三。始めて聞いた名前だ。この本の表紙などで見ると、口ひげを生やした細おもての朴訥そうな人物。実はこの人が、日本に亡命して来たユダヤ人の「命のビザを繋いだ男」だった。

 京都の神官の家に生まれた小辻はある時聖書に出会い、勘当同然の身で、東京・ 明治学院大学神学部に進学、牧師になる。しかし、新約聖書の教義に疑問を持ち、旧約聖書を学ぶために、妻子を連れて渡米する。

 旧約聖書の研究から、当然のようにユダヤ教に興味を持つ。 古典ヘブライ語の研究で博士号を得て帰国するが、不遇の日々が続く。

 1938(昭和13)年、小辻のもとに南満州鉄道(略称・満鉄)総裁の 松岡洋右(後の外務大臣)から「総裁アドバイザーとして働いてほしい」という招へい状が舞い込み、一家を挙げて満州に渡る。

 当時、日本陸軍は、河豚計画」という奇怪な作戦を進めていた。
 ヨーロッパでナチス・ドイツに迫害されつつあったユダヤ難民を満州に大量移住させ、ユダヤ系米国人の政治力で、満州で米国の協力を得ようとするものだった。

 間接的にこの計画にかかわった小辻は、満州でのユダヤ人との会議で、古典ヘブライ語を駆使した演説をして喝采を博した。

 松岡が、外務大臣になった直後に、小辻も満鉄を辞し、帰国した。

 同じころ、杉原千畝に「命のビザ」をもらった6000人の亡命ユダヤ人は、シベリア鉄道経由で渡日、敦賀経由で神戸に滞在していた。

 ただ、杉原ビザで許可された日本滞在日数はわずか10日。それを過ぎると、ユダヤ難民は強制送還され"死"が待っている。

 ユダヤ難民の代表が、あの感激的なスピーチをした小辻を思い出し、手紙を出した。

 小辻は外務大臣の松岡を訪ねた。しかし、軍部からの圧力で外務省は、すでに強制送還の方針を決めていた。

 しかし、松岡は小辻を外に連れ出し、皇居のお堀に沿って歩きながら、そっと話した。

 「ユダヤ難民のビザを延長する権限は、神戸の自治体にある。もし、君が自治体を動かせたら、外務省は見て見ぬふりをしよう」
 松岡には、ユダヤ人を助けておけば、アメリカとの戦争を回避できるかもしれない、という読みがあった。

 滞在許可を発行する窓口は、警察署だった。小辻は、親戚から資金を借り、警察幹部の接待を繰り返した。ユダヤ人の長期滞在が可能になった。

 日本に滞在するナチス幹部の圧力が続くなかで、小辻は、ユダヤ人たちをやっと目的の国に送り出すことができた。

 1959(昭和34年)、小辻は妻の強い勧めでエルサレムに渡り、ユダヤ教に改宗した。

 1973(昭和48年)、アブラハム小辻は永眠した。享年74歳。小辻の遺体は、本人の希望でエルサレムに空輸され葬られた。

 当時、イスラエルは第4次中東戦争という混乱のまっさい中。尽力したのは、日本から脱出した難民の1人であるイスラエルの宗教大臣、ゾラフ・バルフティックだった。

 この本の著者、山田純大の父は、俳優で歌手の杉良太郎。杉の現在の妻で演歌歌手の伍代 夏子は義母に当たる。

追記(2016/2/27):

 杉原千畝や小辻節三だけでなく、ユダヤ難民の「命のビザ」を繋いだ多くの日本人がいたらしい。

 外務省の訓令を無視して、シベリア鉄道でやって来たユダヤ難民を日本に向けた船に乗せた駐ウラジオストック日本総領事館の 根井三郎総領事代理のことは、上記の本にも記載されている。

 真偽ははっきりしないが、満州の避難してきたユダヤ人を救済した、ハルピン特務機関長の 樋口 季一郎・元陸軍中将などの軍人のほか、ウラジストックからの船の手配に尽力した日本交通公社、日本郵船の社員たち、敦賀では、営業を一日休んで悪臭を放つユダヤ難民に開放した銭湯「朝日湯」の主人などの話しなども文献などに記録されているようだ。

 妹尾河童の自伝小説 「少年H」には、神戸に着いたユダヤ人の汚れた衣服を繕う少年の両親たちの話しが載っていたのも思い出した。

2016年2月 7日

二十四節気・七十二候



平凡社のスマホ向け暦 七十二候
平凡社のスマホ向け暦(二四節気七十二候)は、該当する候(例えば、立秋 末候 蒙霧升降[ふかききりまとう])の五日間(8月19日から24日)のみ表示される。表示されている候以外の71候は、本でも買わないと内容はわからない。
 それで、コピー作成したものを自分の記録のために、サーバー上に残していくことにした。このこよみは、自然と生活との関わりを理解する上で、極めて有用である。
 ただし、著作権の問題があるので、公開はできない。
 下の表の下線のある七十二候の一つをクリックすると、コピー保存したスマホの暦(こよみ)が開く。ただし、IDとパスワードが必要である。
                      

二十四節気七十二候日付
立春 初候(1)東風解凍 はるかぜこおりをとく 2月4日?2月8日
次候(2)黄鴬見睨うぐいすなく 2月9日?2月13日
末候(3)魚上氷うおこおりをのぼる 2月14日?2月18日
雨水 初候(4)土脉潤起 つちのしょううるおいおこる 2月19日?2月23日
次候(5)霞始靆 かすみはじめてたなびく 2月24日?2月28日
末候(6)草木萌動そうもくめばえいずる 3月1日?3月5日
啓蟄初候(7)蟄虫啓戸すごもりむしとをひらく 3月6日? 3月10日
次候(8)桃始笑ももはじめてさく 3月11日? 3月15日
末候(9)菜虫化蝶なむしちょうとなる 3月16日?3月20日
春分 初候(10)雀始巣 すずめはじめてすくう 3月21日? 3月25日
次候(11)櫻始開 さくらはじめてひらく 3月26日? 3月30日
末候(12)雷乃発声 かみなりすなわちこえをはっす 3月31日?4月4日
清明 初候(13)玄鳥至 つばめきたる 4月5日? 4月9日
次候(14)鴻雁北 こうがんかえる4月10日? 4月14日
末候(15)虹始見 にじはじめてあらわる4月15日?4月19日
穀雨 初候(16)葭始生 あしはじめてしょうず4月20日? 4月24日
次候(17)霜止出苗 しもやみてなえいづる4月25日? 4月29日
末候(18)牡丹華 ぼたんはなさく4月30日?5月4日
立夏 初候(19)蛙始鳴 かわずはじめてなく5月5日?5月10日
次候(20)蚯蚓出 みみずいずる5月11日? 5月15日
末候(21)竹笋生 たけのこしょうず5月16日?5月20日
小満 初候(22)蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ5月21日?5月25日
次候(23)紅花栄 べにばなさかう5月26日? 5月30日
末候(24)麦秋至 むぎのときいかる5月31日?6月5日
芒種 初候(25)蟷螂生 かまきりしょうず6月6日?6月10日
次候(26)腐草為螢 くされたるくさほたるとなる6月11日? 6月15日
末候(27)梅子黄 うめのみきばむ6月16日?6月20日
夏至 初候(28)乃東枯 なつかれくさかるる6月21日? 6月26日
次候(29)菖蒲華 あやめはなさく6月27日? 7月1日
末候(30)半夏生 はんげしょうず7月2日?7月6日
小暑 初候(31)温風至 あつかぜいたる7月7日? 7月11日
次候(32)蓮始開 はすはじめてひらく7月12日? 7月17日
末候(33)鷹乃学習 たかすなわちわざをならう7月18日?7月22日
大暑 初候(34)桐始結花 きりはじめてはなをむすぶ7月23日? 7月27日
次候(35)土潤溽暑 つちうるおうてむしあつし7月28日? 8月1日
末候(36)大雨時行 たいうときどきおこなう8月2日?8月6日
立秋 初候(37)涼風至 すずかぜいたる8月7日? 8月11日
次候(38)寒蝉鳴 ひぐらしなく8月12日? 8月16日
末候(39)蒙霧升降 ふかききりまとう8月17日?8月22日
処暑 初候(40)綿柎開 わたのはなしべひらく8月23日? 8月27日
次候(41)天地始粛 てんちはじめてさむし8月28日? 9月1日
末候(42)禾乃登 こくものすなわちみのる9月2日?9月7日
白露 初候(43)草露白 くさのつゆしろし9月8日?9月12日
次候(44)鶺鴒鳴 せきれいなく9月13日?9月17日
末候(45)玄鳥去 つばめさる9月18日?9月22日
秋分 初候(46)雷乃収声 かみなりすなわちこえをおさむ9月23日?9月27日
次候(47)蟄虫坏戸 むしかくれてとをふさぐ9月28日?10月2日
末候(48)水始涸 みずはじめてかるる10月3日?10月7日
寒露 初候(49)鴻雁来 こうがんきたる10月8日?10月12日
次候(50)菊花開 きくのはなひらく10月13日?10月17日
末候(51)蟋蟀在戸 きりぎりすとにあり10月18日?10月22日
霜降 初候(52)霜始降 しもはじめてふる10月23日?10月27日
次候(53)霎時施 こさめときどきふる10月28日?11月1日
末候(54)楓蔦黄 もみじつたきばむ11月2日?11月6日
立冬 初候(55)山茶始開 つばきはじめてひらく11月7日?11月11日
次候(56)地始凍 ちはじめてこおる11月12日?11月16日
末候(57)金盞香 きんせんかさく11月17日?11月21日
小雪 初候(58)虹蔵不見 にじかくれてみえず11月22日?11月26日
次候(59)朔風払葉 きたかぜこのはをはらう11月27日?12月1日
末候(60)橘始黄 たちばなはじめてきばむ12月2日?12月6日
大雪 初候(61)閉塞成冬 そらさむくふゆとなる12月7日?12月11日
次候(62)熊蟄穴 くまあなにこもる12月12日?12月16日
末候(63)鮭魚群 さけのうおむらがる12月17日?12月21日
冬至 初候(64)乃東生 なつかれくさしょうず12月22日?12月26日
次候(65)麋角解 きわしかのつのおつ12月27日?12月31日
末候(66)雪下出麦 ゆきわたりてむぎのびる1月1日?1月4日
小寒 初候(67)芹乃栄 せりすなわちさかう1月5日?1月9日
次候(68)水泉動 しみずあたたかをふくむ1月10日?1月14日
末候(69)雉始鳴 きじはじめてなく1月15日?1月19日
大寒 初候(70)欸冬華 ふきのはなさく1月20日?1月24日
次候(71)水沢腹堅 きわみずこおりつめる1月25日?1月29日
末候(72)鶏始乳 にわとりはじめてとやにつく1月30日?2月3日

2016年1月28日

 読書日記「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文藝春秋刊)


みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記 (文春e-book)
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 著者の作品を読むのは、久しぶりだが、読み終えるまで意外に時間がかかった。「キリシタン」というテーマへの取り組みが尋常ではないほど真摯で、難解な引用文献も多かったせいらしい。

 自分の先祖にキリシタがいたのではないか」と勝手に思い込んだのが「私的キリシタン探訪記」という副題をつけたゆえんらしい。16世紀にローマに派遣された 天正遣欧使節の4人の少年たちが持ち帰り、秀吉の前で演奏を披露したという弦楽器・リュートを買い求めて習い始めることから始め、長崎のキリシタン迫害の地を訪ね歩く。ついには殉教宣教師の故郷であるスペインにまで足をのばす、という時空を超えた異文化漂流記だ。少しはキリシタン文化をかじったことのある自分にも、新しい発見を突き付けられるノンフイクションだった。

 とくに興味を引いたのは、このブログでもなんどかふれたことのある 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推薦への厳しい視線だ。

 筆者はキリシタンに興味を持ちだした2008年に、殉教した天正遣欧使節の1人、 中浦ジュリアンが、ローマ・カトリック教会から 「列福」されるのを知り、長崎を訪れる。

 私も見る機会があった「バチカンの名宝とキリシタン文化展」長崎歴史文化博物館で鑑賞、そこを出た道のはす向かいに 「サン・ドミンゴ教会跡」という碑を見つける。

 
 矢印に誘われるように、地下へ通じる階段を降りた。階段を一段降りるごとに、表を通る車の音は遠ざかっていき、気温が下がっていく。どこへ連れていかれるのか、不安な気持ちのまま降りていくと、ライトアップされた遺構が目の前に現れた。
 ひんやりして静まりかえった構内は、回廊から地下を見下ろす構造になっており、波打った石畳や地下室、排水溝が見えた。壁には市内で出土した磁器や花十字紋瓦(十字架模様のついた瓦)が展示してある。敷地の広さや頑丈な石が多く使われていることから、かつては立派な石造りの建物であったことがうかがえる。


 ここは、現在は 桜町小学校の校庭の一角なのだが、1609年、長崎代官のキリシタン、村山等安が寄進した土地に、薩摩を追われたドミニコ会のフランシスコ・モラーレス神父が建てた、サント・ドミンゴ教会の地下遺構だった。

 長崎には、禁教令以前には13の教会があったが、すべて幕府命で取り壊された。
 世界遺産に推薦された他の教会は、すべて明治の禁教令解禁後に、信者たちが金を持ち寄って建てたものだ。

 壊された教会跡はどうなったのか。

  トードス・オス・サントス(詩聖人)教会の跡地には、春徳寺が建てられた。
 岬の教会は、長崎奉行所西役所から長崎県庁へ。
 サン・ジョアン・バウチスタ教会は、日蓮宗本蓮寺。
 「ミゼリコルディアの組」本部教会は長崎地方法務局。
 サン・フランシスコ教会は、処刑を待つ多くのキリシタンを収容した桜町牢になり、長崎市水道局庁舎へ......。
 そして、 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館! 


 異なる宗教を信じる信徒を弾圧し、そのあとに為政者側の象徴?仏寺や行政機関? を建てることが、長崎では繰り返されたのである。

 長崎は、異国への窓口であり、多くのキリシタンが暮らした街であると同時に、激しい弾圧で多くの血が流された街でもある。

 「国際色豊かな自由な街というイメージは、いったん保留しなければ」と、筆者は思う。

 小学校の広い校庭から発掘されたことで保存が可能になったサン・ドミンゴ教会跡は「日本では真に貴重なキリシタン遺跡」なのに「世界遺産」候補にさえなっていない。隣接して、入場無料の資料館があるだけだ。

 このブログを書いている最中に、たまたま大阪で長崎県と朝日カルチャーセンターの共催で昨年に続いて「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力?」セミナーが開かれた。友人Mを誘って、出席した。

 最初に「長崎県キリスト教史の概要」について講話した長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんによると、キリシタン全盛時代に建設された教会は、13ではなく14。
 これらの教会は、幕府が近隣の藩に取り壊しを命じたが、その作業の徹底ぶりが担当した藩によって差があり、サン・ドミンゴ教会は"ずさん"な作業で埋め立てた上に代官屋敷が建てられてしまい、地下遺跡として残ったらしい。
 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館を建てる時に発掘調査が行われたが「ほとんど、なにも出てこなかった」

 近く、岬の教会があった県庁駐車場の一部発掘が行われるらしいが、明治初期にキリスト教禁教令が解かれてから、あまりに長い年月が経っているのに「〇〇教会跡」という石碑しか残っていない。「(長崎の)キリスト教に対する体温が低いことが気になった」と、星野博美は思う。

 「島原に行ってみるしかない」
 筆者は、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡を訪ねる。

 筆者にとって日野江城は、 セミナリオ(修道士育成の初等学校)を城下に備えた、キリシタン文化の「ゆりかご」という位置づけだった。

 国と長崎県が世界遺産に推薦する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つにもなっているが「道しるべや看板、の類がほとんどなく、ここをアピールしようという積極的な意思がまったく感じられない」。民家の敷地の端にあるセミナリオ跡は、ひさしの下に碑と案内板があったが「バス停と間違えそうだ」

 
前日「ここにはキリシタンの遺跡がほとんどない」と落ち込んだばかりの長崎でも、それが400年前のものではないにせよ、十字架や教会が数多く視界に入った。長崎では、どんな形であれ、キリシタンの記憶は受け継がれている。ここにはそれがない。十字架の類もまったくない。あ、やっと十字架を見つけた、と思ってよくよく見ると、ただの電柱だった。

 いくら禁教令が二五〇年ほど続き、キリスト教が天下の御法度になったとはいえ、その土地の持つ記憶や気配というものは、これほど見事に消せるものだろうか。土地の記憶が、ここでは受け継がれなかったのか。  そこではたと思う。記憶を受け継ぐはずだった人間は、みんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。


 日野城が「ゆりかご」なら、同じ世界遺産候補で島原の乱の決戦場となった 原城跡は「『キリシタンの世紀』の終末を象徴する『墓場』」だ。

 そこは、ほとんど森と化した日野江城跡とは対照的に「一言で言えば、何もない原っぱだった。(本丸大手門跡などの案内板はあるが)ここで三万七〇〇〇もの民が殺されたとう事実を想像するのは難しい」

 幕府軍の大将の記念碑、乱の鎮圧後に赴任した代官が建てた供養塔のほか、祈りをささげる天草四郎像、白い十字架、天草四郎の墓碑はある。しかし、この墓碑は近くに民家の石垣に埋もれていたのが移されたものという。

 
 禁教令が続いた明治初期ならまだしも、もう二十一世紀である。この地の慰霊は、キリスト教会に委ねるべきではないかと私は思うのだが、話はそう単純ではない。
 幕藩体制の根幹を揺るがす反逆と見なされた彼らを、安らかに眠らせてなるものかという「お上」意識を、原城からなんとなく感じるのである。

 (教会にとっても)原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。


 大阪での「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力?」セミナーで、2人目の講師を務めた南島原市教育委員会文化財課課長の松本慎二さんによると、原城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。

   しかし、発掘調査が始まったのは、2000年(平成2年)。しかもそれは、キリスト教史跡の発掘としてではなく、この土地を公園として整備するのが目的だった。

 発掘の結果、鉛弾でつくった十字架、メダイ、ロザリオの珠と同時に、多くの人骨が出土した。首と胴体は切断されてそれぞれ別の場所に埋められた。特に胴体は不自然に切り刻まれ、膝から下を切り落としたものも多い。その上には石垣の巨石がかぶせられていた、という。

 著者は、さらに今回の世界遺産推薦について、こうも書いている。

 
 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、ザビエルの渡日から鎖国までの「キリシタンの世紀」を(長崎・大浦天主堂での) 「信者発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように見える。また、日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 (仮にこれらが世界遺産となったら)弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。


   日本で殉教した外国人宣教師は、故郷でどう受けとめられているのだろうか。 著者は、スペイン巡礼に出かけることにした。

 同行したスペイン在住歴40年の日本通訳は、かってポルトガル国境の町で「おまえたちがスペイン人を殺した」と責め立てられたという。

 福者・ ハシント・オルファーネルの故郷は、 バレンシア州ビナロス近郊の村だった。

 もちろん、村人はハシントンのことを"聖人"としてよく知っていたが、筆者への視線は冷ややかだった。

 教会の神父に頼まれ、筆者は「キリシタンの世紀」とその後の弾圧の事を話した。

 
 最盛期には30-40万人もの信徒が生まれたが、十分な記録がない殉教者は4万人、なんらかの記録がある殉教者は灼4000人。そのうち外国人司祭を含めた福者が393人、42人が聖人になった。「彼らは信仰を棄てるより、神父とともに殉教することを望んだ」


 神父がそれを説教で話すと、会衆から驚きのどよめきが起き、ミサ後、会衆が筆者を取り巻き、次々と話しかけてきた。

 
 (外国人宣教者にしたことは今も世界で)見られている。
 そんな視点を欠いたまま、都合の悪いことは忘れ去り、やれ世界遺産だのなんだと騒ぐことがいかに滑稽であるかは、もはや言うまでもないだろう。


追記(2016/2/16): 

 このブログを書いた直後の2月初め。政府が急きょ、閣議で「長崎教会群」の世界遺産推薦を取り下げることを決めた。

 長崎県や国は今年7月にもユネスコの世界遺産委員会で決定されることを期待していたが、ユネスコ諮問機関である 国際記念物遺跡会議(イコモス)が「2世紀以上にわたるキリスト教禁教の歴史に焦点を当てるべきだ」という中間報告書を日本政府に届けていたのだ。

 政府は2018年以降の登録を改めて目指す方針だが、このブログに取り上げた著者・星野博美が何度も指摘していたように、長い禁教時代に続いた"日本の歴史的恥"をさらすことになるだけに、再検討の道筋は厳しいだろう。

 ブログにもふれたように、今回の「長崎教会群」の推薦内容には「あまりに多くの日本人信徒、外国人宣教師を殺した」という、200年余りにわたる、禁教、殉教の歴史の実証がまったく抜け落ちていた。

 星野博美は、著書の「あとがき」で改めて書いている。

 
もし四〇〇年前、現在のインターネットのような、瞬時に映像が世界中忙伝わる手段があったとしたら、私たちがいま処刑者に向けているおぞましさに満ちた視線は、そのまま私たちに向けられていたことだろう。


 
いや、当時も最速の情報手段で伝わっていたのである。日本で迫害が進行しているさなか、(ヨーロッパでは宣教師が伝えた)殉教録が出版され、・・・教皇庁では列聖調査が進んでいた。とろ火による火あぶりも穴吊りも、そして雲仙温泉の熱湯責めも、同時代に(オランダ船などで運ばれた)絵で伝えられていたのだ。
 国が閉じられ、世界の情報から隔絶された日本人が知らなかっただけで、私たちはあの頃、確かに見られていた。


 それが、今回のイコモスの指摘でもあったのだ。

 「みんな彗星を見ていた」
 この本の表題の意味は、そのことだったのだと気づいた。

2015年11月26日

読書日記「鴨居玲 死を見つめる男」(:著、講談社)、「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧 悌三著、日動出版)「踊り候え」(鴨居玲著、風邪来舎)「鴨居玲画集―夢候」(作品著作権者・鴨居玲、発行者・長谷川徳七)



鴨居玲のことを知ったのは、いつだっか?たぶん、昨年の夏、師事している 酒井俊弘神父からいただいた長崎からの絵葉書から強烈な印象を受けたのが最初だったような気がする。

 表題の最初の著書が出たのを新聞書評欄で知って図書館で借りることができたのが、今月初め。同時になんと作品約100点を集めた巡回展 「没後30年 鴨居玲展―踊り候えー」が伊丹市立美術館に回ってきているのを知って出かけ、鴨居玲の世界をたっぷりと堪能できた。

  長谷川智恵子が、著書の「はじめにー」で「鴨居の作品を知る人は、少なからず『暗鬱だ』『暗い』という印象があるだろう」と書いている。これは 日動画廊副社長という画廊経営者だから出た表現でもあったのではないだろうか。画廊から絵画を買う人は、個人ならたぶん自宅の居間にふさわしい「きれいな」絵を探すだろう。

 しかし「心の叫びを描く」( 長谷川徳七)ことが仕事である画家の作品が「暗い」のは、 ドガ レンブランドの自画像を見ても分かる。

   鴨居の作品には「暗さ」のなかに、光と色彩が巧みに使われ、見る人の心に沁み込んでくるなにかを感じる。

 代表作の1つ 「酔って候う」や「おっかさん」、そして真っ赤に塗り込まれたキャンバスに浮かび出る 「出を待つ道化師」は、その暗さの中に浮き立つ表現力、ユーモア、哀愁に見る人は引きつけられる。

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酔って候う おっかさん 出を待つピエロ


 しかも、これらの絵をじっくり見ていると、描かれた人物が鴨居玲その人であることが分かってくる。鴨居が「 自画像の作家」と呼ばれたゆえんでもある。それは、酔った老人やピエロは、生きることに苦しみ、悩み、酒に助けを求める鴨居自身の姿でもあった。

 長谷川智恵子の著書によると、鴨居は正真正銘の"酔っ払い"であっただけでなく「格好よさ」(没後30年展図録の表紙と裏面より)の美学を貫いた男(おのこ)でもあった。

 著書には、鴨居に会った最初の印象がこう書かかれている。
 「当時、絶大な人気のあった三船敏郎にどこか似ていて、彼より、一回り身体が大きく国際的な雰囲気があった。・・・今まで知っている多くの日本の洋画家とは、まったく異質のもの――異邦人のような空気――を感じた」

 24歳のころ、芦屋市にあった 田中千代服装学園の講師をしていたが、女生徒たちが「素敵な人」と騒ぎ、同じころに教えていた 六甲洋画研究所には、ブルーのシャツ、赤いズボン姿、大型オートバイ 「陸王」に乗って現れた。

 スペインに住んでいた四十三歳の頃には、乗っていたオペルを緑色の ムスタングに乗り換え、パリに移ってからも「格好がいい」と狭い道を無理して乗り回していた。

 鴨居は、四十一歳の時に描いた「静止した刻」で、安井賞を受けて遅まきの画壇デビューをはたした後、スペインの バルデペーニャスに同棲していた写真家の 富山栄美子と3年間住んで村の人々を多く描いたが、その後は描くテーマを探すのにいつも苦悩していた。

 いくつか描いた教会の絵について、鴨居は自著「踊り候え」で「描いているうちに、いろいろな飾りや、窓が邪魔になってきましたので、段々ととりのぞいているうちに、御覧の通りのっぺらぼうになりました」と書いている。

 「ドワはノックされた」は、「アンネの日記」に、「蜘蛛の糸」は、芥川龍之介の作品に触発された。

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静止した刻 教会の絵 ドワはノックされた 蜘蛛の糸


 女性の裸体画にも、日動の長谷川徳七に勧められて挑戦した。富山栄美子をモデルにした「石の花」は、戦後すぐに上映されたソビエト映画に触発され「愛し合う二人が、抱擁したまま石と化してゆく・・・」(「踊り候え」より)姿を描こうとした。
 しかし、裸婦像をうまく描けない鴨居の焦燥感は死ぬまで続いた。

 晩年の代表作「1982年 私」という200号の大作からは、「もう描けない」という悲鳴が聞こえてきそうだ。
 白いキャンバスを前に描かれた鴨居の自画像は絵筆も持たずぼう然としている。後ろを向いている裸婦、魂を抜かれたような酔っ払いやピエロ、心配そうに画布をのぞき込む片腕を亡くした「廃兵」・・・。いずれも、鴨居が過去に生き生きと描いてきたモデルたちだ。

 最後の作品である「肖像」は、自らの顔をはぎ取って手に持った顔のない自画像である。鴨居は、死ぬ前「キリストの『最後の晩餐』を描きたい」と、大きな長方形のテーブルを買っていた、という。長谷川智恵子は「この顔のない人間は鴨居の『最後の晩餐』を予告する作品であったのだろうか」と書いている。

石の花.JPG 1982年 私.JPG 肖像.JPG
石の花 1982年 私 肖像


 鴨居は、満足する作品ができるたびに、なぜか自殺未遂騒動を起こした。
 昭和60年9月7日。鴨居は、自宅前に止めた自動車のなかで排ガスを吸って息を引き取った。長谷川は「自殺」をにおわし、「一期(いちご)は夢よ』の著者、瀧悌三は事故とみている。57歳だった。

 なきがらは、姉・ 鴨居洋子の希望で、西宮市にある母の墓の横に葬れている。

 

2015年10月28日

読書日記「エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」(梨木果歩著、新潮社)


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 ナチュラリスト、梨木果歩の真骨頂あふれる紀行文。

エストニアの首都タリンに着き、旧市街(世界遺産「タリン歴史地区」)に出かけてすぐに、著者らは「なんだか場違いなほど壮麗なタマネギ屋根のロシア正教の教会に出会う。



  アレクサンドル・ネフスキー聖堂と言います。なんだかこの建物、悪目立ちしますよね、この町では」
 通訳兼ガイドで、地元の大学で日本語を教えている宮野さんは、この教会の特色に「ぴったりと当てはまる」言葉を言ってのけた。

 フインランド湾に面するエストニアは、北と東の国境をロシアに接し、常にこの国の支配と脅威にさらされてきた。「悪目立ち」する教会も帝政ロシアの支配時代に建てられたものだった。

P1080325.JPG  以前にポーランドの首都・ワルシャワに行った際、ホテルの前に旧ソ連占領時代に建てられた異常に威嚇的な宮殿風の建物(=写真:「スターリンがポーランドに贈与したという摩天楼・文化科学館」)に違和感を覚えたことがある。それと同じような感覚だろうか。








 午後の新市街で訪ねた宮殿(ロシアのピョートル1世が建てた カドリオルグ宮殿では、庭のあちこちで新婚カップルが記念撮影をしていた。

 
 市井の善男善女が人生のスタートを祝うに十分な晴れがましさと無難さ。だがやはり、この半日回っただけでこんなに惹きつけられているエストニアの魅力とは無縁のもののように感じた。あのロシア正教の派手な寺院と同じように、「浮いて」いる。これから回ることになるエストニアのあちこちでも、北欧やドイツのエッセンスが感じられることはあっても、かつての占領国・ロシアの文化のある部分は、癒蓋のようにいつまでも同化せずに、あるいは同化を拒まれ、「浮いて」いた。けれどその癖蓋もまた、長い年月のうちには、この国に特徴的などこか痛々しく切ない陰影に見えてくるのだろうか。東ヨーロッパのいくつかの国々のように。


「歌の原」は、この宮殿の東にある。

   1988年9月11日、この場所にソ連からの独立を強く願った国民30万人、エストニア国民の3分の1に当たる人が全国から集まり、演説の合間にエストニア第2の国歌といわれる 「わが祖国はわが愛」を歌った。

これが結果的に民族の独立への気運を高め、1991年の独立回復へと繋がっていく。この無血の独立達成は、「歌う革命」と言われる。

 
 しかし、実際その場所に立つと、え、ここが、あの? と、半信半疑になるほど、ガランとしたひと気のない草地、グラウンドのようにも見えるが、奥の方に野外ステージらしきものが建っているので、やはり、ここが、そうなのだ、と往時の緊張と興奮を自分の中で想像してみる。その歴史的な「エストニアの歌」から約一年後、一九八九年八月二十三日に、ここ、タリンから隣国ラトビアリガリトアニアヴイリニュス (バルト三国という言い方もあるが、使わない)(=それぞれ違う歴史を刻んできたから、という意味だろうか)に至る六百キロメートル以上、約二百万の人々が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくつた。スターリンとヒトラーにより五十年前に締結された、この三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の存在を国際社会に訴え、暴力に依らず、静かに抗議の意思を表明するデモンストレーションだった。


 北の端、タリンから南下したヴォルという町にあるホテルは「厚い森」に囲まれていた。

 窓から広がるエゾマツやトドマツの森を見ていると、著者は「こうしてはいられない、という気になって」、スーツケースから旅には必ず持っていく長靴、ウンドパーカー、双眼鏡を取り出す。

 赤い土の小道の両側の木々は厚い緑の苔で覆われている。苔の上には、紅や濃紺のベリーをつけた灌木が茂り、茸の ヤマドリタケの仲間があちこちに見える。遠くでシカの声も聞こえる。転がっていた丸太に腰を下ろす。

 
 しばらくじつとして、森の声に耳を傾ける。ゆっくりと深呼吸して、少しだけ目を閉じる。右斜め前方から、左上へ、それから後方へ、松頼の昔が走っていく。走っていく先へ先へと、私の意識が追いつき世界が彫られていく。北の国独特の乾いた静けさ。


  キフィヌ島に入る。ここに住む女性が着る 赤い縦じまのスカートや織物は無形世界遺産。それらをIT技術をいかして世界に売っているという、テレビドキュメンタリーを見たことがある。

 森と森の中間にある木立に建つ一軒家で昼食をごちそうになる。大麦の自家製ビール、黒パン、燻製の魚、温かな魚のスープ。すべて、島のおばあさんたちの手作りだ。

 機を織っていたおばあさんがふと織るのをやめ、ぽつんと「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。

 旅から帰国してすぐにリーマンショックが起きた。

 「あのおばあさんの言葉は『金持ちになれないけれど、自給自足は出来る』ということであった」と著者は悟った。

 サーレマー島は、エストニアで一番大きな島。車に乗り込んできたきさくなガイドの女性は、最後まで律儀な英語で話した。

 
 この島は、古いエストニアそのままの生態系が保持されています。それというのも、ソ連時代、軍事拠点だったせいでサーレマー島はほとんど孤島も同然、ソ連は西側からの侵入やにしがわへの逃亡を警戒して・・・そんな中、自然だけは見事なほど保たれました。ムース(ヘラジカ)やイノシシは約1万薮、オオカミ、オオヤマネコ、クマ、カワウソは数百匹が確認されています。・・・
  ――ではクロライチヨウキバシオオライチョウも・...‥。
 ――もちろんです。カワウソだっています。


 
 この時、私は本気で後半生をこの島で過ごすことを考えた。


 このところ、どうもピンと来る本に出合わない。「介護民俗学」とうたった本や今年度の谷崎潤一郎受賞作品のページを開いては途中下車ばかりしていた。やむをえず、本棚にあったこの本を取り出した。やはり、この著者の本は、老化した脳にもすっきり沁み込んでくれる。

 同じ著者の「不思議な羅針盤」(新潮文庫)が文庫本になったので、これも同時進行で読んだ。「サステナビリティー(持続可能性)のある生活」を考える、しっとりとしたエッセイ集だった。

2015年9月30日

読書日記「ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ」(山本朋史著、朝日新聞出版)

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山本朋史
朝日新聞出版 (2014-12-05)
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 著者は、62歳(発刊当時)の週刊朝日記者。60歳の定年後も1年契約の編集委員として取材を続けていたが、最近もの忘れがひどくなってきたことが、気になってしかたなかった。

 必要な書類をどこに置いたのかを忘れてしまう。テレビを見ていて俳優の名前がでてこないことにイラつく。取材の約束を忘れることもあった。住所録をめくってみても、知人の名前が出てこない。取材したことがある政治家の名前さえ忘れてしまっている。

 電車で降りるべき駅を乗り越すことが増え、取材の途中で、次の質問の言葉が出てこないこともある。それに、最近怒りっぽくなった。「威圧的な発言も認知症の第一歩」と、聞いたことがある。

 「取材の日程をダブルブッキングしてしまう」という、記者として致命的ともいえる"事件"を起こして、ついにもの忘れ外来を受診する決心がついた。

 担当記者に相談して筑波大学教授で、東京医科歯科大学の特任教授として、週に1回、もの忘れ外来を担当している朝田隆医師の診断を受けることになった。

 最初に朝田医師と助手の女性から、様々なテストを受けた。

 医師の言うグー、チョキ、パーの形を右手で作り、左手でそれに勝てる形を作る。両親や兄弟の名前や年齢などの記憶力を聞かれ、助手からは文章力、図形力、常識力などを調べられた。

 読まれた300字ほどの文章を聞いて記憶、5分後と40分後に同じ内容を言わされた。テストは、2時間ほどで終わった。

 これは 「認知機能検査(MMSE)」と呼ばれ、この本の巻末に収められている。同じような検査は、WEB上でもいくつかUPされている。

 最寄りの病院で、 CT MRIの検査を受けるように言われ、紹介状を渡された。本来はいけないのだろうが、開封して詠んでみた。

 
 「認知症の疑いが強いため、克明に調べてください」
 認知症!その文字を見て、「がーん」となった。


 朝田医師からは「 軽度認知障害(MCI)の疑いがあるが、それほど症状は進んでいません。MRIもCTもこれからの治療の基礎資料にするためです」と、言われていた。しかし、気休めの言葉としか聞こえなかった。

 認知症治療についての知識が皆無だった筆者は、2度目の診断でいくつかの質問を朝田医師にぶつけた。

 認知症によい食べ物は?
 「ビタミンA,C、Eがいい。それにDHA。青身魚に含まれている成分が効果的であることは間違いない。ゴマ油がいいとか鶏の胸肉が効果的という意見もありますが、まだはっきりした症例結果があるわけではないので・・・」

 酒好きで、今も毎日ですが?
 「アルコール依存症のレベルまでいったら話は別ですが、アルコールと認知症の関係は、これまでの症例結果からすると、せいぜい1%「あるかないかですよ」

 アルコールの覚醒作用のせいで、睡眠導入剤を常用している?
 「アルコールと睡眠導入剤ですか。それは、いいことではありません。しかし、それで認知症が進むという因果関係は少ないと思います」

 3度目の診察では、CTとMRI画像が届いていた。

 CT画像では、白く映っている血管が少し太くなっている部分が3か所ほど見つかった。
 「太くなったところは、血流が止まったり、詰まったりする箇所。こういう部分で脳梗塞が起きる可能性がありますが、山本さんぐらいの年齢になるとどなたにもあり、特に心配はいりません」

 いよいよ問題のMRI画像だ。
 特に、海馬は、 β―アミロイドの攻撃で脳神経がたくさん壊され、 アルツハイマー型の認知症を告知されたら・・・。

 「ここが海馬です。黒く欠けたような部分が少なく、あまり萎縮していません。・・・現段階では7まだ認知症の心配はないと思われます」

 実は朝田医師は、筆者の認知機能検査や手指の動かし方テストで、手先の器用さや機敏性が衰えているのかもしれないと最初から考えていた。
 「平常時に注意力が散漫になることがしばしばありませんか』と聞かれたが、まさにその通りだった。

 筑波大学附属病院で週に2回行われている認知力アップトレーニングへの参加を勧められた。

 筋力トレーニングで胸の筋肉がピクピクするまで体力が回復して認知力がアップしたケースもある。絵画や音楽で認知力が向上したケースもある。
 「アタマ倶楽部」という頭脳力アップゲームを使うほか、料理のプログラムも始めた、という。

 筋力トレーニングでは、のっけからショッキングなことがあった。

 指導するのは、ボディビルダーの 本山輝幸さん。

 「初めてですね。まず、いすに軽く腰掛けて、右足を水平より高く上げてください。はい10秒間」
 ぼくはわけがわからないまま、ただ、言われる通りに足を上げた。
 「1、2、......10。はい、足を下ろしてください。右足はいま痛いですか」
 最初は、痛いという意識はまったくなかった。
 「ほとんどといっていいほど、痛くありません」

 ぼくの言葉を聞いて、本山先生の顔つきが変わった。

「痛くないということは、感覚神経が脳に繋(つな)がっていないということを意味します。あなたはMCI(軽度認知症)になっているのかもしれません。でも、心配されることはありません。筋肉に刺激を与えてトレーニングすれば、3カ月ぐらいで感覚神経が脳に繋がります。後は治りは早いはず」


 これだけのトレーニングだけで、本山さんに「すぐに軽度認知症かグレーゾーンにかかっていると見抜かれてしまった。

 本山さんは言う。
  「トレーニングをする場合、鍛えるべき筋肉に自分の神経を集中して。脳と体の感覚神経ノネットワークを構築するよう心がけたほうがいい。鍛えている際に筋肉の痛みや刺激をより強く感じられるようになってきたら、脳と体の感覚神経がつながってきた証拠です」

 筋力トレーニングの効果は少しずつ出てきた。音楽、絵画、料理療法も受けたが、定期的に受ける認知機能検査の数値は、もうひとつ良くならない。

 しかし、認知力アップトレーニング・デイケアでの仲間も増えた。「三歩進んで、二歩下がる」「ボケてたまるか!」・・・。山本さんの挑戦は続く。

2015年8月31日

読書日記「石牟礼道子全句集 泣きなが原」(石牟礼道子著、藤原書店)

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新装版 苦海浄土 (講談社文庫)
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 4大公害病と言われた 水俣病を告発した「苦海浄土」の著者が、40数年にわたってこつこつと詠んできた全句集がでた。

 著者の句集が生まれるまでには、2人の俳人の努力があったことが、この全句集を読み進むとわかってくる。

祈るべき天とおもえど天の病む


 大分県九重町に生まれた俳人、故・穴井太が、新聞の学芸欄でなにげなく、この句を主見出しに採った石牟礼道子の原稿を見つけたのは、昭和48年の夏だった。

 「水俣病犠牲者たちの、くらやみに棄て去られた魂への鎮魂の文章であった」と穴井は思った。

 地中海のほとりが、ギリシャ古代国家の遺跡であるのと相似て、水俣・不知火の海と空は、現代国家の滅亡の端緒の地として、紺碧の色をいよいよ深くする。たぶんそして、地中海よりは、不知火・有明のはとりは、よりやさしくかれんなたたずまいにちがいない。


 
 そのような意味で、知られなかった東洋の僻村の不知火・有明の海と空の青さをいまこのときに見出して、霊感のおののきを感じるひとびとは、空とか海とか歴史とか、神々などというものは、どこにでもこのようにして、ついいましがたまで在ったのだということに気付くにちがいない。


穴井は、こう思った。

「『神々などというものは、ついいましがたまで在った』という石牟礼道子さんの思いの果てが、やがて断念という万斛(こく)の想いを秘めながら『祈るべき天とおもえど天の病む』という句へ結晶していった」

穴井は、九重高原・涌蓋(わいた)山の山麓にある、通称「泣きなが原」という草原での吟行に石牟礼を誘った。

死におくれ死におくれして彼岸花


三界の火宅も秋ぞ霧の道


死に化粧嫋嫋(じょうじょう)として山すすき


前の世のわれかもしれず薄野にて


そのとき高原は深い霧につつまれ、深い闇につつまれていた。

  穴井は、この後、断わりもせずに作った石牟礼の句集「天」の編集後記に、こう書いた。

「裸足になって歩き出した石牟礼さんを、『泣きなが原』のお地蔵さんが、しきりに手招きしていたようだ」

 2015年2月。女流俳人で、日経俳壇の選者でもある黒田杏子(ももこ)は、東京で開かれた「藤原書店二五周年」会に招かれ、会場に並べられている石牟礼の対談集を求め、会場の一隅で一挙に読了した。

 
 これまで人間が長年かけてつくりあげてきた文明は、結局、金儲けのための文明でしかないようです。いま日本では、金儲けが最高の倫理になっておりますが、それをふり捨てて、もっと人間らしい、人間の魂の絆を大切にする倫理を立て直さなければ、いまの文明の勢いを止めることはできません。


 この後、黒田杏子は、藤原書店の社長に「句集『天』はまぼろしの名句集となっています。石牟礼さんの全句集を出して下さい」と直訴した。二日後、発刊決定の電話があった。

 黒田は、石牟礼の句のなかでも、「「祈るべき天とおもえど天の病む」に並んで、次の句が心に沁む、という。

 
さくらさくらわが不知火はひかり凪


 石牟礼が84歳の誕生日を迎えた、5年前の3月11日。地震と津波が東北を襲った。

 石牟礼は、水俣と同じことが福島でも起こる。「この国は塵芥のように人間を棄てる」と思った。

 
毒死列島身悶えしつつ野辺の花


2015年7月26日

読書日記「長いお別れ」(中島京子著、文藝春秋刊)

長いお別れ
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 元中学校長で公立図書館長もした東昇平の病名がはっきりしたのは、3年前のことだった。
 頻繁に物がなくなり、記憶違いも続いていたある年の夏、昇平は2年に1回、同じ場所で行われている高校の同窓会に辿り着けなかった。

 認知症外来で、「ミニメンタルステート検査」を受けたところ、30点満点で20点だった。初期の アルツハイマー型認知症と診断され「3年から5年、進行をゆっくりにします」と、薬を処方された。それから、もう3年が経っていた・・・。

 昇平は妻の曜子と一緒に、長女の茉莉が夫赴の赴任について行っているサンフランシスコに出かけた。行く時から着いてからも「俺は帰る、帰る」と繰り返した。
 昼食のたびに生牡蠣を食べ「牡蠣を食べるなんて、久しぶりだよ!」と、いつも同じ言葉を繰り返した。

 夏休みに日本に一時帰国した茉莉の長男・潤が昇平と2人、留守番をしたことがあった。

 
 「それで、あんたは誰だったっけ?」
 という質問に、五分に一度くらい、潤だと答えさえすれば、
 「おう、そうだった」
 「潤だな」
 「ずいぶん、大きくなったじゃないか」
 「それで、あんたのお母さんは誰だったっけな」
 「二中だったよね?」・・・
 いつのまにか、潤は昇平の孫ではなくて、何か失態を演じて校長室に呼ばれた生徒として扱われているようでもあった。
 「だけどまあ、そういうこともあるからな。あんたが初めてじゃないんだ。次からちゃんとやればいいんだ」
 と、唐突に祖父は言ったりした。


 しかし、元国語教師の昇平は、デイサービスセンターから持ち帰った「難解漢字」のテストを見事に読み解いて、孫の度胆を抜いた。

 
 屠蘇(とそ)、熨斗(のし)、御神酒(おみき)、独楽(こま)、獅子舞(ししまい)
 簾(すだれ)、筧(かけひ)、笊(ざる)、簪(かんざし)、筵(むしろ)


 潤の弟の崇が宿題の絵日記に描いたスケッチブックの隅に、昇平は「蟋蟀(こおろぎ)」と迷うことなく書いて、驚かせたこともあった。

 しかし、昇平の症状はどんどん悪化していった。

 電話に出た三女の芙美に、昇平は興奮気味に話した。

 
 「おほらのゆうこおうが、そっちであれして、こう、うわーっと、二階にさ、こっとるというか、なんというか、その、そもろるようなことが、あるだろう?」・・・
 「すふぁっと。すふぁっと、と言ったかなあ、あれは。ゆみかいのときにだね、うーつとあびてらの感じが、そういう、あれだ、いくまっと、いくまっとじゃない、なんだっけ、なんと言った、あれは?」


 アメリカから、長女の茉莉が国際便で送ってきたアルツハイマー治療の新薬は、昇平の話す意欲に働きかけても、失われた語彙を甦らせることはできなかった。

 症状はさらに進んだ。話す意志を失った昇平は、訪問入浴に来た介護スタッフに「やだ!」を繰り返したり、睡眠中に紙おむつにしたうんこを妻・曜子のベッドに並べたりした。
 曜子が網膜剥離で緊急入院している間に、昇平も発熱して入院した。右足を骨折していた。隣にいない妻を探し求めてベッドから落ちたためらしい。
 昇平はほとんど言葉を失い、病院のベッドで終日うつらうつらしていた。

 妻・曜子は思う。

 
 ええ。ええ、忘れてますとも。わたしが誰だかなんてまっさきに忘れてしまいましたよ。
 ・・・妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。・・・
 それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。


 米国・カルフォルニア州の公立中学の校長室。
 呼び出された孫の崇は「祖父がおととい死にました。長い間、認知症の病気でした」と話した。
 校長は、自分の祖母も同じ病気だったと言った。

 
 「『長いお別れ(ロンググッドバイ)』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていくから」


   直木賞受賞作 「小さなおうち」も書いた 筆者自身も、認知症で実父を失くしている、という。

 この本の題名は、 レイモンド・チャンドラー 同名小説にちなんだものらしい。

 

2015年7月 8日

読書日記「牡蠣とトランク」(畠山重篤著、ワック株式会社刊)


牡蠣とトランク
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著者は、東北・気仙沼の著名な牡蠣養殖漁業家で NPO法人「森は海の恋人」理事長。 このブログでも何度か紹介させてもらっている。

「牡蠣大好き人間」としては、読まずにはいられない。新聞広告を見て申し込んだ翌日にAMAZONから届き、その日の晩に一挙に読んだ。

本は、気仙沼湾にそそぐ大川上流の室根山で昨年行われた「森は海の恋人植樹祭」での 2人の男同士の会話で始まる。
 1人は著者、もう1人はフランスの高級バッグメーカー、 ルイ・ヴィトン社の5代目当主、パトリック・ルイ・ヴイトン氏。

「この木が大きくなると、いいトランクになりますよ」
 「私はいい牡蠣を想像しましたよ」
 「やっぱり」
 二人は顔を見合わせ大きな声で笑った。

トランク(旅行用の大型鞄)は、ルイ・ヴィトン社の創業商品。もともと婦人服用の白木の箱を作る職人であった創業者が独立して作り始めたのが木製の軽いトランクだった。「トランクも牡蠣も、原点は森にある」というわけだ。

50年以上も前、生牡蠣文化の発祥の地であるフランスで、牡蠣が全滅しかけたことがあった。稚貝のウイルス性の病気が発生したのだ。

それを救ったのが、宮城県の養殖業者だった。ミヤギ種のマガキの稚貝を空輸、ローヌ川が注ぐラングドック大河ロワールが注ぐブルターニュなどで養殖された。現在では、フランス産の牡蠣のほとんどはマガキだという。

 

1984年、40歳の著者は、仙台市の「かき研究所」に勉強に来ていたフランスの女性研究者の案内で、ブルターニュの牡蠣産地を訪ねた。

 
干潟に点在するタイドプール (潮だまり) に目をやると、おびただしい数の生きものがうごめいていた。ヤドカリ、カニ、タツノオトシゴ、イソギンチャク、ハゼやカレイの小魚など、子供の頃、我が家の前の干潟で遊び相手であった面々である。思わず涙がこみあげてくるような懐しさを感じた。自分の子供たちにも経験させようと浜に連れ出したとき、三陸の海辺からこうした生きものたちは姿を消していたのだ。
 「ここは、川が健全なのだ」と反射的に閃いた。
 

川沿いのレストランでは、シラスウナギ(ウナギの稚魚)や ジビエ(食用の野生の鳥獣)料理が名物だった。川の上流には、深い森が続いている、という。

小さいとき父に連れられ、キジ、ヤマドリ、ウサギなどの猟に行った。野鳥やウサギなどがいるのは決まって実のなる落葉広葉樹の森であった。その後、国策で森が常緑針葉樹の杉山に変わると、なんにもいなくなつたからである。
 ・・・フランス人はジビュ料理を食べたいがために落葉広葉樹の森を保護してい るのではないか。そこは腐葉土層も深い。大雨が降ってもスポンジ状の腐葉土に浸み込み地下水を滴養する。結果として、川は清流となり川魚も増える。河口域の海では牡蠣、オマールエビ、ヒラメ等の海産物も豊富に捕れるのだ。
 沿岸の海で暮らす漁民は、海のことだけ考えていては駄目なのではないか。
 

その頃、気仙沼の海に「問題が生じていた」。海が汚れて赤潮が発生、牡蠣の生長が悪くなってきていたのだ。

 

大川沿いに歩いてみると、農薬を使う水田には生きものの姿はなく、輸入材に押されて売れなくなった杉山は放置され、乾燥した土が雨に流されて川や海が濁っている。

 

「大川源流の室根の山に落葉広葉樹の森をつくろう」。漁民たちが語らい、室根村の賛同を得た。1989年9月、室根の山頂に大漁旗が翻った。植林運動「森は海の恋人」運動はこうして始まった。子供たちを対象にした体験学習も続けた。室根の村は、農業を環境保全型に切り替えた。

 

「海に青さが戻ってきた。牡蠣の生長は順調になり、秋にはサケの大群が大川に帰ってくるようになり、メバルやウナギも姿を見せるようになった」

 

そんな矢先、2011年3月11日、巨大津波が襲ってきた。

 高台にあった著者の自宅はかろうじて残ったが、牡蠣の養殖施設や工場、船のすべてが津波にのまれた。老人ホームに入所していた母親も助からなかった。

 

海辺から生きものの姿が消えたことも心配だった。「海が死んだのではないか」と疑った。

「森里連環学」を提唱している、京都大学の 森克名誉教授のチームが調査にやって来た。

 

「畠山さん、大丈夫です。牡蠣の餌となる植物プランクトンのキートセロスが、牡蠣が喰いきれないほどいます」
 「今回の津波を冷静に判断すると、被害が大きいのは干潟を埋めた埋立地です。川や背景の森林はほとんど被害がありません。海が撹拝されて養分が海底から浮上してきたところに、森の養分は川を通して安定的に供給されています。海の生き物は戻ってきます。・・・」

 

海の瓦礫が片づき養殖いかだを浮かべれば、家業が続けられると確信した。

 

フランスから支援の申し出が次々にあった。50年前、フランスの牡蠣が絶滅しかかった時、宮城県産の種苗が救ったことへの恩返しだという。

 

ルイ・ヴィトン社から、森と海の恋人運動に支援の申し出のメールが突然、届いた。

 

建物や物品の購入だけでなく、いかだを浮かべる漁場づくりに働く人たちの給料も、ルイ・ヴィトン社は支援の対象にしてくれた。

 

2012年の正月過ぎ、養殖場の跡取りである長男の哲が「牡蠣の筏が沈みそうになっている」と言った。通常は2年かけて生長する牡蠣がわずか半年で出荷できるまでに育ったのだ。「喰いきれないほど餌のプランクトンがいる」おかげだった。



2015年6月29日

読書日記「東京藝大物語」(茂木健一郎著、講談社刊)


東京藝大物語
東京藝大物語
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茂木 健一郎
講談社
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脳科学者であり、マスコミにしばしば賑やかに登場している「著者初の小説」

そんなご本人発のツイッターが、このところしきりに私のメールに飛び込んできていた。

知人が著者のツイッターのフォロワーになっているためらしい。

なにかプライバシーを侵されているようで、あまりいい気分ではないが「久しぶりにエンターテイメントを楽しむのもいいか」と、この本を買ってみた。

小説というより、著者が2002年から5年間、東京藝大の非常勤講師をした時の学生と講師陣との交流の記録に近い。学生と著者らが繰り出す葛藤、心の交流は、著者自身を含めた「青春小説」のスタイルだが、登場するのは、すべて実在の人物であるようだ。

この"小説"の主人公の1人は、4浪して東京藝大に入った植田工(たくみ)。「てかてかと赤い顔をして・・・両手をジャガーのようにそろえて、前のめりに飛びかかろう」とするから、つけたあだ名が「ジャガー」

 

現在は、茂木健一郎の"書生"をしながら、アートの勉強を続けている。

もう一人は1浪の蓮沼昌宏。ちょっとどもる癖があり「公園の鳩をスケッチする」ことに燃えているから、あだ名は「ハト沼」

現在は、町田市在住。藝大で博士号を取得、ハトの絵は描き続けている。

教壇に立った茂木は当初、自分の持論である「クオリア(意識のなかの質感)」や色彩の知覚などの話しをしていたが、呑み会をするようになって、茂木講座はがぜん盛り上がるようになる。

場所は、大学と同じ上野公園にある東京都美術館(通称・トビカン)前の広場。丸い椅子や砂場などがある場所だ。

いつも、著者が出したなにがしかの金を握って、ジャガーとハト沼が缶ビールやワイン、日本酒を買ってくる。

何人かが「面倒くさそうな芸術談議」をしており、ハト沼はいつのまにか衣装デザインをしている菜穂子と近くのブランコで揺れている。

ふらりと、講義にも出ていない杉原信幸(あだ名・杉ちゃん)が現れる。

杉原は、奇行が絶えない。近くの食堂ノガラスの天井に泥や椅子、テーブルの芸術作品を作ったり、日韓合同のアート展で首から上だけ出して土に埋まったり・・・。卒業展では、縄文原人姿で現れ、自分の作品を壊して、下のホールに突き落としてしまった。

今は、長野県在住のアーティスト。一昨年には、朝日新聞文化財団の助成で「原始感覚美術展」を開いた。

様々なアーティストなどが講義のゲストに来るようになる。

最初は束芋(たばいも)さん。アニメーション作品 「にっぽんの台所」で一躍時代の寵児となった若手女流作家。

聴講もぐりを含めて満員の会場に登壇した束芋さんは、芸術論は一切語らず「就職活動って、どういうことか分かっていますか」と、学生たちに「必殺の一発」をかました。

束芋さんは、 京都造形芸術大学に入学する時も、卒業時の就職活動でも、いくつもの辛酸をなめた経験がある。

 

東京藝大に合格した学生で、作品を売って食えるのは、ほんの一握り。一説には、十年に一人出れば良い、という。だから大抵の者は、喝采も浴びず、話題にもされず、ただ黙々と、・・・キャンパスに向い会い続ける。下手をすれば、東京藝術大学に合格した時が、人生の頂点だった、ということになりかねない。



現代アートの旗手と呼ばれる大竹伸郎さんがゲストで来た時には、満員の教室全体が「おお?」とどよめいた。

 
大竹さんは、開口一番、烈しい口調で断じた。

「おまえら、分かっているのか!東京藝大なんて来ているようじゃ、アーティストとしてダメだ、そもそも、美大になんか意味がないっー・」

指を突き出す。目がぎょろり。誰も見返すことなどできない。 ・・・

それから打って変った穏やかな口調で、大竹さんは自分自身の辿ってきた道を振り返り始めた。

・・・

権威とも、大組織とも関係なく、自分の道を追求してきた大竹伸朗さん。たえざる努力と貫く反骨。そんな生き方をしてきたアーティストだけが持つ説得力。・・・学生たちが、ぐっと惹きつけられる。



呑み会の席で、杉ちゃんが大竹さんにしきりに絡みだした。

 
「お前の作品になんか、興味がないんだよー⊥
「なにい!?」・・・
 
大竹伸朗さんが、仁王のような形相で、杉ちゃんをにらんでいる。杉ちゃんも負けずに、にらみ返している。
・・・
大竹さんは、すっと公園の暗がりの方に歩いていった。
・・・
その時である。
「てめ?、この野郎!」  
突然、大竹伸朗さんが、踵を返すと、森を駆ける熊のような勢いで駆け戻ってきた。・・・
 
あっという間もなく、大竹伸朗さんの右足が、杉ちゃんに向かって蹴り上げられた。・・・
大竹伸朗さんのつま先が、見事に、杉ちゃんが持っていた紙コップをとらえた。
 
紙コップは、杉ちゃんの手を離れ、放物線を描いて、夜の上野公園の暗闇の中を飛んでいく。中に入っていたビールが、動く流体彫刻となって、ほとばしる。・・・
期せずして、拍手が起こった。


 

「卒業制作」が近づいたころ、学生たちが熱望していた福武總一郎さんが講義に来てくれることになった。
ベネッセ・コーポレーションの会長である福武さんは、私費を投じてはげ山だった 直島を「現代アートの聖地」にしたことで知られる。

 福武さんはいきなり、「東京なんてキライだ」と叫んで、学生たちの度肝を抜いた。それから、「東京の真ん中の、こんな芸術大学で学んでいても、アートのことなんかわかりはしないー・」と断じた。
・・・

「公立の美術館だと、作品選定など、どうしても総花的になってしまうんです。とりわけ、現代アートの作家を収蔵するのはなかなか難しいと言われている。その点、個人の思いがかたちになった 地中美術館は、特色を出すことができるのです。そもそも、アートというものは個の思いが結実したものであり、最大公約数を求めるものではありません。それに対して、東京や、東京牽大のようなところは、最初から中心や、最大公約数を求めすぎるんじゃないのかな。」



   

呑み会では、福武さんは砂場の横の丸椅子の上に立って、またぶった。

「大衆を鼓舞し、先導し、この素晴らしい国を創るために、アートは存在するんだっ!下手くそな画学生よ、君たちの芸術には、本当は、世の中を変える力がある。それほどアートは、人を煽動する、そして洗脳する、そんな力がある。君らは、アーティス一になりたいのか、それとも、作品を通して、世の中を変えたいのか。お前らはこの世の中をよりよいものに変えるために、どういうポジションを、目指そうとしているのか。今日は、私はそれが言いたいがために来た。しかし、あの、東京藝大の教室という、オフィシャルな席では絶対に言えない。だから、こういう席で、こういうことを言うのが、私の、最後の、未来への遺言なんだよ、諸君!」


「卒業制作展」では、1人の日本画専攻の女学生・松井久子の作品 「世界中の子と友達になれる」が、入場者の目を惹いた。

満開の、藤の花が描かれている。上から垂れている花の群れの中を、ひとりの女の子が、前屈みになりながら進んでいる。・・・
もっと近づいて、よくよく見ると、美しい藤の花の連なりの先に、黒く垂れ下がっているものがある。・・・じつくりと観察してみると、それは、「熊ん蜂」の群れなのである。・・・
 
ぶーんと、彼らの立てる羽音が通奏低音として聞こえてくるような、そんな不気味さが、 美しく、可憐な藤の花の先に隠されている。その中を、無邪気に歩んでいるかのように見えた可憐な少女も、改めて見ると、その目に底光りする狂気をはらんでいる。


 
真剣な顔をして隣で見ていたジャガーに声をかけた。
「お前ら、やられたなあ。」
「へいっ。」
「完敗だなあ。」
「へいっ。」
「これで、終わったな。」
「へいっ。」


2015年6月 4日

読書日記「井上洋治著作集5 遺稿集『南無アッバ』の祈り」(日本キリスト教団出版局)


遺稿集「南無アッバ」の祈り (井上洋治著作選集)
井上 洋治
日本キリスト教団出版局
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昨春亡くなった故・井上洋治神父 の著作集を先月初めに、朝日新聞書評欄で見つけた。なつかしく、かつ正直ちょっと驚いた、というのが実感だった。


 もう50年以上も前のこと。大学を出て新聞社に就職、信仰からも教会から遠ざかっていた時期に、この著者の本を買い込んだ記憶がある。

 数年前から、2度の引っ越しをした機会にあふれかえっていた所蔵本を本棚ごと整理したのだが、わずかに残した書棚に、著者の本がなんと5冊も残っていた。
 カトリックの信仰が身につかず、それなりに悩んでいた時期に出合った著書をなんとなく捨てがたかったのだろう。

 しかし、この「『南無アッバ』の祈り」は、私が知らなかった井上神父が築き上げた世界を描き出したものだった。

 「著作集5」は、遺稿集と銘打っており、様々な講演、講話、対談集などが収められている。晩年に書かれた自伝的エッセイ「漂流――「南無アッバまで」のなかに、神父が見たある夢が記録されている。

 
 ある夜。神父は、中年の長い髪の女性に「長い間、お待ちしていました」と、暗い森が広がる道へと案内される。そこへ、突然大聖堂が浮かび上がる。神父はそこへ女性を連れて行こうとするが、女性は「このなかにははいれないのです」と涙を流す。


 「カトリック教会は、信者同士で結婚した場合、離婚を認めません。ですから私のように、信者同士で結婚してから離婚し、いまいちど好きな人ができて再婚した場合、国はその結婚を認めてくれても、教会は認めてくれません。ですから日曜のミサにあずかっても、祭壇に近づいてパンを頂く友人たちの後ろ姿を哀しい思いでながめるだけ。決して祭壇に近づくことはできず、一番後ろの席で涙を流しているしか仕方がないのです。あの森のなかには、そういう私の仲間たちが淋しく集まってお祈りをしているのです」


   1950年、東京大学を卒業した井上青年は、親の反対を押し切ってフランスの カルメル会男子修道院に入会しようと、豪華船「マルセイエーズ号」に乗り込んだ。暗い4等船室で、留学に行く遠藤周作とたまたま同室になった。

 修道院で井上修道士は、20世紀の有名なフランスの神学者、ジャン・ダニエルーの「過去をひきずりすぎているキリスト教は、もう現代人のからだに合わなくなっている。現代人のからだに会うように・、キリスト教という洋服を仕立て直さなければならない」という言葉に出会う。

 「既存のキリスト教がからだにピタッとこなくて、着にくいな、不愉快だな・・・そう思いながらじたばたしてきた」井上青年は、この「服の仕立て直し」が自分に課せられて大きな課題だと気づいた。

 1957年に帰国した井上元修道士(カルメル会を退会した)は、カトリック東京教区の神学生として受け入れられる。

 帰国してびっくりしたのは「日本のカトリック教会がすっぽりと浸りこんでしまっている、呑気というか平和というか、少し理解に苦しむ、とにかく何の問題意識すら感じられないその雰囲気であった」

 その当時の先進的なフランスのカトリック教会は、保守的なバチカンとの間のきしみもあり、まさに疾風にあおられたような危機感にゆれていた。そこから帰国してきた私は、危機感の一片すら感じられない日本のカトリック教会やローマ以上にローマ式に思えた神学教育に、ただ唖然とするばかりであった。
 「ヨーロッパ・キリスト教という豪華な、しかしダブダブの着づらい服を仕立て直さなければ駄目だ」などということを口にしようものなら変人扱いされそうな雰囲気のなかで、再び窒息感にとらわれた私は、一縷の望みをいだいて、遠藤周作さんを訪ねた。


 「生涯の同志」となった遠藤周作が「洋服の仕立て直し」の第一作ともいえる小説 「沈黙」を出版したのは、1966年の春だった。

 「沈黙」は、切支丹迫害時代、日本に宣教にやってきた宣教師ロドリゴが捕らえられ、精神的に追いつめられた末、踏絵を踏んでイエスを裏切り棄教する、という物語。このロドリゴの裏切りを、遠藤さんはイエスの一番弟子のベトロの裏切りと重ね合わせて措いていく。師イエスを裏切ったベトロは、自分を赦してくださっているイエスのあたたかな慈母のような慈愛のまなざしにふれて、神は、「言うことをきく者には限りない祝福を。しかし言うことをきかない者には、三代、四代までの呪いと罰を」という「旧約聖書」「申命記」にいわれているような父性原理の強い神ではなく、もっと裏切り者をも包みこんでくださる母性原理の強い神であることに目覚めていく。そのベトロのようにロドリゴも、師イエスが告げておられた母性の原理が強く、やさしくあたたかな神に目覚めていくという点が、ここでもっとも大切なのである。


                                    ′
 しかし、この「沈黙」が与えた影響は、キリスト教世界において、全く私たちの予想を大きく裏切るものとなっていった。
 「沈黙」に対して轟々たる非難、批判の言葉が降りそそいだのである。そしてその批判は、もっぱら次の一点に集中していた。すなわち、イエスが、踏み絵を前にしたロドリゴにむかって、「踏むがいい」と言ったという点に対してである。踏み絵を踏んでしまって痛悔したロドリゴをイエスが赦すのは当然としても、ロドリゴに棄教という悪行をイエスがすすめたりするわけがない、というのである。


 ・・・たしかに倫理的分野での一般論からすれば、イエスが罪となる悪行をすすめたり、命令したりするはずはない。その通りであろう。しかし、「最後の晩餐」の席上でのイエスのベトロに向けられたまなざしは、「お前がつかまって処刑されるのをこわがっている気持ちは痛いほどよくわかるよ。裏切ってもいいよ。私はあなたをうらみはしない。ガリラヤで待っているよ」という、母のような、ひろいあたたかな赦しのまなざしであり、ベトロに対してもユダに対しても、裏切りの行為を決して力ずくで止めようとなどなさっておられなかったこともまた確かである。〃イエスは一体何を私たちに告げたかったのか、イエスはその十字架まで背負った苦難の生涯で、何を私たちに語りかけていたのか......。もっと、しっかり「新約聖書」に取りくんで、それを知らなければならない"。これが遠藤さんの「沈黙」が私に投げかけた強烈な課題であった。


 聖書の勉強を続けるうちに、井上神父は「心の琴線をぎゅっとつかまえてかきならす」言葉に出会う。エレミアスとい著名な聖書学者が残した「イエスの示した神はアッバと呼べる神なのだ」という指摘だった。

「エレミアスによれば、アッパというのは、イエスが日常弟子たちと話していたアラム語という言語において、赤ん坊が乳離れをしたむきに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという。」

 神は「旧約聖書」の「申命記」が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッパは教えてくださった。


 先週の日曜日、たまたまこの本を持って東京に出かけた。四谷のイグナチオ教会で「三位一体の主日」ミサを受けた。第2朗読で使徒パウロの「神の霊によって導かれた者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ人への手紙8章14?15)が読まれた。

 イエス・キリストはまた、十字架の貼り付けになる前夜、 ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」(マルコ書14章36)と、神に祈っている。

 やがて井上神父は「アッバの導きで、法然上人に出会う」ことになる。

 (四十三歳で京都に下山するまで、ひとり比叡山の黒谷の青龍寺で道を求めておられた(法然)上人を苦しめた課題、すなわち、"金のある人は寺にお布施をすることによって、頭の良い人間はお経を学ぶことによって、意志の強い人は戒律を厳守することによって救われよう。しかし金もなく、頭も悪く、意志も弱い人はどうしたら救われるのだろうか。ただ涙するしかないのか〃、というのがまさに上人から私の心に烈しく問いつめられてきた思いだったのである。
 上人のように、独り、暗い杉木立の道を、人々の哀しみや痛みや涙をともにするため自らの叡山を降りるべきなのか。
 私は辛かった。苦しんだ。そして、この問いをさけようと、浴びるように酒をのんだ。


  そして、このブログの冒頭に書いた「夢」を見る。

  2001年、故井上神父は「法然 イエスの面影をしのばせる人(筑摩書房)という本を書き、法然上人の生涯をこんな言葉で締めくくった。

 あるいは富がなく、あるいは学問がなく、あるいは強い意志がなく、あるいは女として生まれたことによって、救いの道をとざされていた人たちにただ一筋の南無阿弥陀仏によって救いの道を開き、国家権力、朝廷権力にこびることもなく、ついに最後まで無位無冠、墨染の衣一枚で生きぬいたその生涯であった。


 社会の下積みの生活に喘ぎ、そのうえ救いへの遺さえ閉ざされていた人たちの哀しみや痛みをご自分の心にうつしとり、救いの門をその人たちに開かれたため、あの孤独と苦悩と屈辱の死をとげられた、師イエスの生涯の真骨頂を、アッパは法然上人の生涯を通して私に示してくださったのだといまも私は信じている。


  1986年、井上神父は当時の東京教区の白柳誠一大司教(後の枢機卿)から、 インカルチュレーション(文化内開花)担当司祭としての任命書を受けた。
 ただし?カトリックの小教区教会では活動しない?ミサで使う言葉、少なくとも「奉献文」決して変えない、という条件がついた。

  神父は、マンションの1室を借りて、 「風の家」という活動を始めた。

  風の家で挙げられるミサでは「南無アッバ」の祈りが奉げられる。「南無」は法然の「南無阿弥陀仏」から取った「全面的にすべてをおまかせします」という意味だという。

  しかし井上神父の死後、ミサのなかでこの「南無アッバ」の祈りが唱えられることはほとんどなくなったらしい。

  井上神父は、著書でこう書いている。

 神は「モーセ五書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の『創世 神は 「モーセ五書」が伝えるような、厳しい 「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」 (お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」 のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の「創世記」に記されているように「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』一章二八節)ではなく、パウロが『ローマの信徒への手紙』八草で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。


高齢化社会に向かうなかで、カトリック教会は井上神父が「夢」に見た厳しい戒律を変えようとしない。社会が認知に向かっている同性愛につても結論を出せずにいる。


神は、井上神父が語っているように、ユダの裏切りもペトロの3度の裏切に対しても、直接言わなくても「裏切ってもいいよ」と、やさしいまなざしを見せている。それが「新約聖書」の正しい読み方ではないのか。そんな確信を強くした。


2015年4月26日

読書日記「くさい食べ物大全」(小泉武夫著、東京堂出)


くさい食べもの大全
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小泉 武夫
東京堂出版
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 神戸・三宮の書店で見つけ、衝動買いしてしまった本。発酵食品の分野では、この人の右に出る人はいないであろう小泉武夫の新刊だ。

 小泉が世界を歩いて食べつくした魚類から魚醤、肉類、納豆、大豆製品、野菜・果物、虫類、酒類、チーズ、漬物まで「くさい(もちろん、腐っていない)食べ物」159点について、うんちくを傾けている。

 各食べ物には、★(1つ星)から★★★★★(5つ星)まで「くさい度数」がついている。
 「のけぞるほどくさい。咳き込み、涙することもある」★★★★や「失神するほどくさい。ときには命の危険も」の★★★★★もすごいが、この本の真骨頂は「★★★★★以上」にランクされた、くさーい食べ物があること。列挙してみたくなる。

 ▽シュール・ストレミング

 「地球上で最も強烈なにおいの食べ物」と著者が認める、スウエーデン特産のニシンの発酵缶詰。加熱殺菌しないため、詰めた後も発酵が続くため缶がパンパンに膨れて売られているらしい。
 小泉は、ホテルで缶切りの刃先を入れたが、とたんに中の発酵物が噴き出した。「腐敗したタマネギに、くさやの漬け汁を加え、それにブルーチーズとフナ鮓、古くなったダイコンの糠漬け、さらには道端に落ちて靴に踏まれたギンナンを混ぜ合わせたような空前絶後の凄絶なにおい」が体じゅうにまみれてしまった。
 においの強さを調べる アラバスターという機器で測定すると「10870Auと断トツ」という記述があるが、ネット上に出てくる小泉の他の著書から引用された数字とかなり違っている。この数字は、たぶん誤植だろう。

 ▽ホンオ・フェ

 韓国・全羅南道の港町、木浦市の郷土料理。魚のエイ(?)を生のままかめのなかで10日ほど熟成・発酵させると、猛烈なアンモニア臭を出す。それを刺身にしてサラダ菜に包み、コチュジャンをつけて食べる。
 「アンモニアの刺激で涙までポロポロ出てきた。・・・あまりのくささに・・・深呼吸したら、目の前がスパークして・・・意識を失いそうになった」

 ▽ くさや

 伊豆七島の特産。ムロアジなどの青魚を開き、漬け汁(発酵した海水)に数時間着けてから干物にする。焼くと、不精香(ぶしょうこう・微生物、特にバクテリアの作用で生じるにおい)が出て、くさいが増す。
 学生時代に御蔵島に旅行した際、確かくさやを食べたが「くさい」という記憶がない。あれは、別の干物だったのだろうか。

   ▽ キビヤック

 北極近くに住む イヌイット エスキモー)が食べる漬物。
 巨大アザラシの肉や内臓を取ったあとに、アパリアスというツバメより二回りほど大きい水鳥の羽をつけたまま50?100羽詰め込み、アザラシの腹を縫い合わせて、土のなかに2,3年埋めておく。夏の間だけ、微生物が働き、徐々に発酵していく。
 どろどろに溶けたアザラシから水鳥を取り出し、肛門に口をつけ、発酵した体液をちゅうちゅう吸い出して味わう。
 「とびきりうまいくさやにチーズを加え、マグロの酒盗塩(塩辛)を混ぜ合わせた」味わいだが、そのにおいや「くさや、鮒ずし、ゴルゴンゾーラ・チーズ、白酒、腐ったギンナン、ウンチ」を合わせた強烈猛烈激烈な臭気だという。

 ▽ 臭豆腐

 多くの発酵食品のなかでも「ベスト5に入る・・・鼻曲がらせの食べ物」。そのくさみは「くさやと鮒ずし、ギンナンを踏みつぶしたものに、くさやの漬け汁を再びかけ、肥溜めとウンチの匂いを混ぜたような」壮絶なものだという。
 中国・浙江省や福建省、台湾などで食べられるが、豆腐そのものを納豆菌酪酸菌で発酵させたものをさらに発酵させた塩汁に漬けて発酵・熟成させたものと、酪酸菌や乳酸菌、納豆菌、 プロピオン酸菌などで強烈なにおいをもつ発酵漬け汁に豆腐を漬ける2種類がある。
 4センチ角くらいに切ったのを油で揚げて辛子醤油で食べるが「店内の悪臭がウソのように、香ばしいにおいに大変身する」発酵のマジックを見せる、という。

 ▽エピキュアー・チーズ

 ニュージランド産。シュール・ストレミングと同じように缶詰のなかで発酵させるので、缶はまん丸く膨張している。
 缶を開けると、中の猛烈なにおいが一気に出て「思わず立ちくらみするほど」だが、その匂いに魅了されると、ブルーチーズのにおいなんか「屁みたいに感じて物足りなくなり、その酸味が強いコクのある味もやみつきになる」

※参照した本

▽「納豆の快楽」(小泉武夫著、講談社)
 最近、なぜか納豆に凝りはじめ、数か月まえにAMAZONで買った。文庫本が絶版で、古書店ルートの単行本だったが、納豆についての著者のうんちくが満載。
 さっそく、干し納豆を通販で買って、おやつにボリボリやっている。納豆汁も、検討の要あり。

▽「逃避めし」(吉田戦車著、イースト・プレス)
 漫画家の著者が「締切が近づくと作りたくなる」創作?料理集。
 トマトと納豆に辛子、醤油を混ぜただけの「トマト納豆」、薄焼き卵に納豆をのせてくるむ「納豆オムレツ」は試作済み。マーマー。
  「山形の旨だし」に納豆と卵黄を割り込むメニューは、常備菜になった。

2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

nagasaki-1.JPG



 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八?十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは?この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた?キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。

2015年3月16日

読書日記「日本文学全集 01 古事記」(池澤夏樹訳、河出書房新社刊)


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

河出書房新社 (2014-11-14)
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 池澤夏樹が 「古事記」の現代語訳を昨年末に出した。西宮市立図書館に予約したが、結局借りられたのは、年明けの2月末だった。

  古事記にまず登場するのは、おなじみ伊邪那岐(イザナキ)伊邪那美(イザナミ)兄妹神の「国産み」神話である。

 二人が天と地の間に架かった天の浮橋に立って、天の沼矛を下ろして「こおろこおろ」と賑やかに掻き回して引き上げると、矛の先から滴った塩水が自(おの)ずから凝り固まって島になった。
 そこでこの島の名を淑能碁呂島(オノゴロシマ) と呼ぶことにした。


 著者は、前文で「古事記には、固有名詞にいちいち意味があり、・・・イザナキとイザナミという名には『互いに成功を誘(いざな)う』という意味がある」と解説。「天の沼矛は男性器の象徴という説があるが、納得できる」としている。
 塩水が凝(かたま)って陸地を生んだのは「海のほとりの製塩の現場に由来するのではないか」という見かたも分かりやすい。

 オノコロシマがどこにあるかは諸説があるようだが、兵庫県民としては、長く淡路島の近くにある沼島がそれという伝説に頼ってきた。
 しかし著者は「淑能碁呂島(オノゴロシマ)は、自ら凝ってできた島という意味で、実在の特定の島ではない」と、あっさり片づけている。

 天照大御神(アマテラス)が、弟神・建速須佐之男命(スサノヲのミコト)の乱暴に困って天石屋戸(岩戸)に隠れたという神話を改めて読んで、1昨年9月に宮崎・高千穂「記紀編さん130年記念ツアー」に参加したことを思い出した。

 そこ(岩戸のすきまから差し込まれた鏡)に映った顔を見ていよいよ不思議に思ったアマテラスが外を覗いて少しだけ戸から出てきたところで、蔭に隠れていた天手力男(アメノタヂカラヲのカミ)が手を取って引き出した。
 布刀田命(フトダマのミコト)はすぐアマテラスの後ろに尻くめ縄を張り、「もうここから中へは戻らないで下さい」と言った。
 アマテラスが出てきたので高天の原 葦原中国もすっかり明るくなった。


 高千穂地方には右から7,5,3本の藁茎を下げる「七五三縄」と呼ばれるしめ縄が神社だけでなく道沿いの民家にも張られていた。神を迎えるしめ縄は、この神話の尻くめ縄に起源があったのだ。

 池澤は、日本列島には、南島づたいに来た東南アジア系の人々、朝鮮半島から来た北東アジアの人々、そしてサハリン経由の人々という3つのルートから渡ってきており、それぞれが自分たちの神話を持ってやってきた、と見る。

 そして、皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされるアマテラスについて、こんな解説をしている。

 「天の権威によって統治者を立てるという思想はたぶん北東アジアから来た。本来はタカミムスヒが最も高位にいる神であって、それがある時点でアマテラスに置き換えられたという説がある。それかあらぬかアマテラスは最高神にしては機能が弱い。高天の原でスサノヲを迎える時は 「髪をはどいて男のような みづら型に巻き直し」戦闘モードに入ったが、 うけいの後はスサノヲの乱暴におろおろするばかり。最後には拗ねて岩屋に蔑もってしまい、他の神々の計略でようやく外に出る。自分の権能がわかっていないという感じで、その先のいくつもの判断にしても一々タカギ 思金神(オモイカネ)などの知恵を借りている。早い話が、『古事記』においてアマラス登場の場面はスサノヲに比べてずっと少ない。(古事記の編者である)太安万侶はいわば彼女を最上階に導いた上で梯子を外してしまった。」

 出雲の国に住む国つ神であるオオクニヌシが天つ神であるアマテラスの遣わした神々に葦原中国(アシハラノナカツクニ)を譲る 国譲り神話についても、古事記は多くの記述をしている。

 オホクニヌシは、「私の二人の子供が言ったのと同じことを私も申します。この葦原中国はすっかりそちらにお渡ししますから好きなようになさってください。ただ一つ、私が住む場所を天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)の欠けるところのないお住まいと同じように造りなおし、深い岩の上に太い柱を立てて、高天の原まで届くほどの高い 千木を伸ばしていただければ、私は百に足らぬ八十の道を辿った果てにあるこの出雲で隠棲して暮らします。私の子である 百八十神(ももややそがみ)、なかでも コトシロヌシはみなさんの先になり後になりして、お仕えいたします。逆らう者はいないでしょう」と言った。


 この神話については、このブログでも 「出雲紀行・下」 「葬られた王朝」(梅原猛著)でもふれたが、池澤はこう解説する。

 「そもそも、アマテラスを始めとする天上界の神々はなぜオホクニヌシが統一した地上界を自分たちに譲らせるという迂遠(うえん)な方法を経て統治権を確立したのか? 日本神話の神々はエホバのように全知全能ではない。地域ごとのまつろわぬ豪族どもを平定して国家を造るのにずいぶん苦労している。平定と中央集権の実現までの(たぶん現実の歴史に沿った)過程をどこかに反映している。出雲の勢力は 倭(やまと)の政権にとって最大の競争相手であって、その統合ないし懐柔は七世紀末になってもまだ伝承された記憶に生々しかったのだろう。だから『古事記』は『日本書紀』のようにあっさり出雲神話を無視できなかった。『日本書紀』が想定した読者はこの列島内だけでなく唐は長安の外務官僚たちも含んでいたから王権の正統性を強調せざるを得なかっただろうが、『古事記』にはそんな遠い慮(おもんばか)りは要らなかった。」

 「国譲り」神話には、こんな記述もある。

 タカムスヒがアマテラスの名のもとに 八百万の神々を天の安河の河原に集めて会議を開き、思金神(オモイカネ)の知恵を求めた。タカムスヒが言うようには、「この葦原中国は私の子が治める国と定めた国である。だがこの国には猛々しく乱暴な国つ神どもがたくさんいるらしい。どの神を遭わして説得して服従させればいいだろうか」と言った。
 オモヒカネは八百万の神々と合議して「 天菩比神(アメのホヒのカミ)を遣わすのがよろしいかと存じます」と申し上げた。
 そこで天菩比神(アメのホヒのカミ)を送ったところ、オホクニヌシに心服してしまって、三年たっても戻って報告をしなかった。


 古事記のなかには、スサノヲの ヤマタノオロチ退治など、強権を駆使した地方豪族征伐を示唆した寓話や親、子供殺しの話しも出てくるが、登場する神々は総じて心優しく,戦いを挑む前にまず説得に乗り出す。
 池澤は、こう語る。  「『古事記』には負けた側への同情の色が濃い。おおよそこの国の君主は古代以来ずっと政敵への報復に消極的で、反逆者当人は殺しても一族を根絶やしにすることはしなかった。そのうちに具体的な権力への執着を捨てて、摂関政治の後は神事と和歌などの文化の伝承だけを任務として悠然と暮らすようになる。これはまこと賢い判断であって、こんなのんきな王権は他に例を見ない。その萌芽を『古事記』 に読み取ることができる。」

 古事記には、イザナキ、イザナミの 「神産み」に続いて、400近い神々が次々と誕生する。なかには、稲田で鳥を追う 山田の曾富騰(そほど)、つまり山田の案山子(かかし)や窯やトイレの神々のほか、 大阪のおかあちゃんの始祖とも言われる阿加流比売(アカル・ヒメ)もちゃんと登場する。
     ホデリとホヲリ 山幸彦と海幸彦の話しは「そのままインドネシアの民話にある」という。
 大和(倭)の政権に反抗した 隼人の伝統にふれた箇所や朝鮮の 新羅を侵略した寓話まで記述されている。

 古事記は、なかなか奥深く、興味はつきない。池澤は「豊饒と混乱、目前に聳える未だ整理のつかない宝の山」と結んでいる。

 

2015年2月23日

読書日記「トリエステの坂道」(須賀敦子著、新潮文庫)


トリエステの坂道 (新潮文庫)
須賀 敦子
新潮社
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 著者が、自ら日本語に翻訳した詩集も刊行されているウンベルト・サバ は、急死した夫が愛し続けた詩人だった。
 この本は、12章で構成されている。表題と同じ「トリエステの坂道」は、夫の死後、日本に帰って20年ぶりにサバの故郷であるトリエステの街を訪ねた時のことを綴っている。

 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、まぎれもない辺境の町であるトリエステまで来たのも、サバをもっと知りたい一念からだと自分にいい聞かせながらも、いっぽうでは、そんな自分をこころもとなく思っている。サバを理解したいのならなぜ彼自身が編集した詩集『カンツォニューレ』をたんねんに読むことに専念しないのか。彼の詩の世界を明確に把握するためには、それしかないのではないか。実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか。サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。その《なにか》は、たしかにサバの生きた軌跡につながってはいるのだけれど、同時にどこかでサバを通り越して、その先にあるような気もした。トリエステをたずねないことには、その先が見えてこなかった。


 
 ・・・列車の窓から、海の向こうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、自分がミラノで暮らしていたころ、あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。たぶんトリエステの坂のうえでは、きょうも地中海の青を目に映した《ふたつの世界の書店主》、私のサバが、ゆったりと愛用のパイプをふかしているはずだった。


 イタリアのあまり裕福でない男たちは、雨でも傘を持たないのが風習らしい。雨のなかを行く時、背広のえりを立て、両手で上着の前をきっちり合わせて走り出すのが、イタリアの男たちのスタイルだ。
 「雨のなかを走る男たち」で描かれるのは、20年たっても鮮明に思い出す夫・ペッピーノの姿だった。

 ・・・停留所のまえで待っていると、夫が電車から降りてきた。降りしなに、たしかに私と視線があったと思ったのに、彼は知らん顔をして、信号をどんどん渡って行ってしまった。迎えに来られて照れくさかったのだろうか。それとも出迎えを押しつけがましく感じたのだろうか。家に帰ってからたずねても、彼は見えなかったの一点張りで、喧嘩にもならなかった。私としては、彼は私をたしかに見たと、いまでも確信がある。私を置き去りにしたあのときの彼も、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて、走っていった。


 「ガードのむこう側」は、義父ルイーズを主人公にした小説風に書かれている。この一家にとりついて離れない"貧乏"と"不幸"が象徴的に描かれる。

 俺の一生はいったいなんだったのだろう。淋しいルイージ氏は歩きながら考える。九つで両親に死にわかれ、それからは村の居酒屋の仕事を手伝わせてもらって、どうにか食べてはいけた。鉄道の職員になって、居酒直の八番目の娘と結婚し、子供たちがつぎつぎに生まれころは、これでやっと人間なみの暮らしができると思ったのに、ファッシスト政権が天下をとって、戦争は始まるしで、まったくろくなことはなしだった。そしてマリオ(長男)が死に、ブルーナ(長女)が死んだ。
 空地を通りぬけ、製菓工場のすこし先の大通りまで足をのばせば、市電の停留所のまえにいつも行く飲み屋がある。まずは安い《赤》を一杯。塩づけのカタクチイワシを一匹とれば、それを肴に、夜の時間はゆっくり流れるはずだった。


 「セレネッラ(リラ、ライラック)の花の咲くころ」でも、"貧乏"と"不幸"を背負って生きるイタリアの庶民階級の人々が、清明な文章で綴られる。

 ・・・(亡夫の実家は)鉄道員官舎と呼ばれてはいたけれど、その家に私が出入りするようになったころはすでに、もともと世帯主であるはずの鉄道員たちは、どうしてこの家の住人ばかりがと思うほど、大半が戦争や病気やはては鉄道事故などで亡くなっていて、あとに残されたもう若くはない妻たちが、前歯が抜け落ちたような侘しさのなかで、乏しい年金をたよりにひっそりと暮らしていた。貧しく生まれたものは貧しいまま、老年、そしてやがては死を迎える。まるで目に見えない神様にそう申し渡されたみたいに、彼らは運命に逆らわず、小学校は出たがその先はとても、といった息子や娘たちも、いつのまにか親と同じ底辺の暮らしに吸い込まれていった。彼らのあきらめとも鋭い怒りともつかない感情のわだかまりが、あちこち汚れた階段口の白壁や、片手に大きな黒い皮製の買物袋をさげ、もういっぽうの手で手すりに体重をあずけて、ゆっくりと階段を登っていく、しゆうとめと同年輩の老女たちのうしろ姿にこびりついていた。


 著者が、義弟アルドからその妻の実家であるシルヴァーナの故郷である山村・フォルガリアへの旅行に誘われたのは、亡夫が急死して2年ほど過ぎた時だった。

 岩に穿った細いトンネルをいくつかくぐりぬけ、林が牧草地に変わるころからしだいに空気が軽くなり、青い実をつけたリンゴの木が一本、澄んだ空を背に風に逆らって立っている角を大きく曲ったあたりで始まるフォルガリアは、それまでミラノの周辺で私が知っていた湿度の高い平野の農地の重い感触や、飼っていた乳牛一頭が栄養源のすべてだったというシルヴァーナの子供時代の哀しい貧乏話から想像していた《寒村》のイメージとはほど遠い、みずみずしい緑と乾いた明るさに満ちた、のびやかな高原の村だった。


 アルドからミラノを引き払ってフォルガリアに家を建てるという手紙が来たのは、著者が日本に帰って20年近く経ってからだった。戦後の経済復興でスキー場の開発などが進み、この山村も様変わりしていた。新居は、アルド夫妻がやっと見つけた安住の地だった。
 「山の村に越してしまっても、きみの部屋はちゃんとつくっておく。・・・忘れないでほしい。ぼくらの家はきみの家だということを」

※(寄り道)
 この本の最終章「ふるえる手」には、著者がローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会に立ち寄り、カラヴァッジョの聖マタイの召命(マッテオの召し出し)」を2回にわたって見る記述がある。
 私も9年前のイタリア巡礼に同行した際、この絵に見とれたことを、昨日のように思い出す。

カラヴァッジョの聖マタイの召命
Michelangelo_Caravaggio_040.jpg



 「聖マタイの召命」では、右端のキリストが召し出そうとしているのは誰か、というのが長年、論議されてきた。

 Wikipediaには、こう記されている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始めた。・・・。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、・・・この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイは・・・次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。」

   しかし、須賀敦子は「マタイ(マッテオ)は正面の中年男だ」という考えを崩さず、こう書く。

 私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。
 カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ。そう私は思った。


※(付記)
 松山巌著「須賀敦子の方へ」(新潮社刊)
 毎日新聞の書評委員同士で、長年の親友同士だった小説・評論家である 松山巌が「私はこれから須賀敦子のことを辿ろうと思う」と、須賀敦子が過ごした兵庫県西宮市や小野市、東京・麻布、広尾、四谷などに親類や友人、知人を訪ね歩き、須賀敦子への"熱き"思いを語った1冊だ。

 孤独は人間が一人になることではない。自分がどこを向いて歩いているのか、わからなくなるとき、人は孤独の穴に落ち、もがく。たとえ苦しくとも進むべき道が見えるならば、孤独からは救われる。だがしかし、自明な道などあるはずもない。結局のところ、孤独であることにもがき悩み、その悩みの末に抜けだすしかないのだろう。だから須賀は『コルシア書店の仲間たち』のエピグラフにウンベルト・サバの一句、「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない」を置き、同時に巻末を「弧独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」 の一言で結び、この思いを膨らまして、孤独の荒野を全休のテーマとして『ヴェネツィアの宿』を書こうと思ったのだ。


 この本は、須賀敦子がパリに旅立つところで終わっている。これからも、須賀敦子を訪ねる旅は続くらしい。

2015年2月 6日

読書日記「ヴェネツィアの宿」(須賀敦子著、文春文庫)


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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 この作品は、著者が長年過ごしたイタリア・ミラノを舞台にした2つの前作とは、構成、題材とも大きく違っている。

 月刊誌「文學界」に1年間連載されたもので12篇はそれぞれ独立しているが、テーマは大きく分けて2つある。1つは、父・母・夫への思い、2つ目は、ヨーロッパという異郷を理解しようとして苦悩する姿。巧みな構成と文章で綴られた須賀敦子の"自分史"を覗く思いがする。

 1つ目のテーマでは、特に父親の思い出が多い。冒頭の「ヴェネツィアの宿」で父が愛人といるのを見つけたエピソードが、「夜半のうた声」では父と母を和解させようとする長女・敦子の試みが語られ、父の最後を看取る最終篇「オリエント・エクスプレス」へとつながっていく。

 
 すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがえすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。そんな格好で父が知らない女の人と歩いていることの不思議さが、とっさに理解できないほど、なにか自然な感じでふたりは近づいてきた。どうしよう。自分がこんなところまで来てしまったことの無謀さがこわくなった。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。こまった、という気持と、いなくなった父に会えたよろこびに、頬がほてった。
 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。なにも言わないで家を出てしまうから。父は一瞬こまった顔をした。お父さまはおかげんがわるいんです。父をかばうように連れの女が言った。あまりくさくさするので、そこまでお散歩に出たところです。ちょっとざらざらするような声だった。


   
 右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな叫び声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。
 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。
 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。


 
 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス......は?
 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきた ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と(オリエント・エクスプレスの車掌長から分けてもらった)白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。


須賀敦子という人物の意志の強さをうかがい知ると同時に、この本の随所にちりばめられた流麗、静謐な文章に引き込まれる。

イタリアから日本に帰って教職についていた60歳過ぎの著者は、シンポジウムに招かれて久しぶりに訪れた「ヴェネツィアの宿」で、「古い記憶」を思い出し西洋と日本の間を「ほこりにまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分の姿」を見つめる。

 ある夏の夕方、南フランスの古都 アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、 ロマラン(ローズマリー)の茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しつかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。


ローマ留学時代を綴った「カラが咲く庭」。このなかで、寄宿舎の院長であるマリ・ノエル修道女は、著者にこう問いかける。

「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかのヨーロッパは育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

「大聖堂まで」では、パリに留学した際、 ノートルダム大聖堂から シャルトル大聖堂までの巡礼の体験が語られる。
 カトリック左派の 労働司祭の指導で、約3万人の若者が議論をしながら約80キロの道を歩き、夜は農家の納屋に泊めてもらう。
 はじめてヨーロッパに来た著者は、言葉の壁だけでなく「この国の人たちのものの考え方の文法みたいなものへの手がかりがつかめない」ことで苦しんでいた。それをなんとか「自分の手でさぐりあてたい」と思ったのが、この巡礼に参加したきっかけだった。

 2日間、歩き続けて疲れ切っているのに、満員の大聖堂にさえ入れず、有名な シャルトル・ブルーのステンドグラスも見られなかった。だが、教会の外壁に並んだくぼみで、 洗礼者ヨハネの像を見つける。(キリストが世に出るのを)待ちあぐねて「ほとほと弱ったという表情」は「私たちにぴったりね」と、フランスと中国人を父母に持つ友人・モニックと話す。

 パリの寄宿舎でルームメイトだったドイツ人のカティア・ミューラーは、公立中学の先生を辞めてやってきた。
 「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい」「いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」(「カティアが歩いた道」から)

 同じ思いでいた著者にとって「カティアはなかなか手ごたえのある同居人だった」

 ※(追記)
 須賀敦子は、敬けんなカトリック教徒だったが、61歳から8年間、怒涛のように書き綴った作品のなかでは、その信仰のことにほとんど触れていない。  ところが先日、 オプスディ・セイドー文化センターでの勉強会で、テキストのなかに「愛するとは・・・」という著者の言葉を見つけて、出典を探した。

 
 生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。


     
 キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。


(須賀敦子全集・第8巻に所収されている雑誌「聖心の使徒」掲載「教会と平信徒と」より抜粋)



2015年1月21日

読書日記「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子著、文春文庫)


コルシア書店の仲間たち (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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 コルシア書店のことは、前回のこのブログでもふれた。著者がローマでの留学生生活を辞め、ミラノに移って勉強と仕事を結局11年続けることになった大切な場所だった。

 コルシア書店は、単なる本屋さんではない。戦時中、 反ファシシズム・パルチザン運動の同志だったダヴィッド・マリア・トウロルドとカミッロ・デ・ピアツという2人の司祭が戦後間もなく始めたカトリック左派による生活共同体活動の拠点でもあった。

 ダヴィッド神父に心酔した須賀は、この本の冒頭近くで、詩人としても知られた神父の作品を紹介している。
 1945年4月25日「ファッシスト政権とドイツ軍の圧政からの解放を勝ち取った歓喜を、都会の夏の夕立に託した作品」だ。

 
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 奇跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の叩きのかなたから。


カトリック左派の活動について、著者はこう解説している。

 
 カトリック左派の思想は、遠くは十三世紀、階級的な中世の教会制度に刷新をもたらしたアッシジのフランシスコなどに起源がもとめられるが、二十世紀におけるそれは、フランス革命以来、あらゆる社会制度の進展に背をむけて、かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動として、第二次世界大戦後のフランスで最高潮に達した。
 一九三〇年代に起こった、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「あたらしい神学」が、多くの哲学者や神学者、そして、 モリアック ベルナノスのような作家や、失意のキリストを描いて、宗教画に転機をもたらした ルオーなどを生んだが、一方、この神学を一種のイデオロギーとして社会的な運動にまで進展させたのが、 エマニュエル・ムニエだった。一九五〇年代の初頭、パリ大学を中心に活躍したカトリック学生のあいだに、熱病のようにひろまっていった。教会の内部における、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索が、彼らを活動に駆りたてていた。


 しかし、聖心女子大時代にカトリック学生運動に属して反 破防法運動などをしたこともある須賀にとって、パリ留学中にふれたカトリック左派活動は「純粋を重んじて頭脳的つめたさをまぬがれない」感じがして肌に合わなかった。

そして、パリから一時帰国した際に、イタリアのコルシア書店の活動を知り「フランスの左派にくらべて、ずっとと人間的にみえて」引かれていく。再びローマ留学のチャンスをつかみ、ダヴィッド神父にローマやロンドンで何度か会った須賀は、コルシア書店の激流の中に、運命に導かれるように飛び込んでいく。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニヤの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ秘密だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のバスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダゲイデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。フアンファーニが、ネンニらと、政治談義に花が咲かせる。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


コルシア書店での交流を通じて、須賀敦子の活動は大きく花開いていく。 ミニコミ誌「どんぐりのたわごと」を前回のブログでも出てきたガッティに教わりながら編集、日本の知人に送り始め、後に急死した夫のペッピーノを介してイタリアの詩人や文学者の作品を深く知り、日本の小説などの翻訳もするようになる。
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しかし、コルシア書店のこんな急進的な活動を「教会当局が黙認するはずがなかった」

 一九五〇年から七〇年代までのはぼ二十年間に、こうして多くの若者が育っていったコルシア・デイ・セルヴイ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ、そのたびに友人たちは集会をひらいて、善後策を講じなければならなかった。


 
 コルシア・デイ・セルヴイ書店に、最初の具体的な危機がおとずれたのは、一九五八年の春だった。ダヴイデとカミッロが、ほとんど同時に、教会当局のさしがねで、ミラノにいられなくなったのである。ダヴイデが大聖堂でインターナショナルを歌って、善男善女をまどわしたとか、カミッロが若者に資本論を読ませているとか、理由はいろいろ取り沙汰されたけれど、実際には、彼らリーダーを書店から遠ざけることによって、書店の「危険な」活動に水をさそうというわが教会の意図であったことは、だれの目にもあきらかだった。


  その後コルシア書店は、政治活動を辞めるか、移転かの2者選択を教会当局から迫られて都心に移転したが、後に経営不振で人手に渡った。
  サン・カルロ教会の軒先を借りていたコルシア書店の跡は、ある修道会が運営するサン・カルロ書店になっている。
 今でも人気が絶えないダヴィッド神父の作品を並べたコーナーがあるという。

 前回のブログでも引用した「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著)によると、1992年2月に死去したダヴィッドの葬儀は、サン・カルロ教会で行われ、多くの 枢機卿が参列した。当時、ミラノの統括していたマルティーニ枢機卿は「ローマ教会は(ダヴィッド・)トウロルド神父を誤解しており、生前、大変な苦渋を味わわせた。彼に赦しを乞いたい」と語った。

 コルシカ書店が、聖と俗の垣根を払う活動を始めた同じ時期に、教皇 ヨハネス23世が提唱した 第2バチカン公会議が始まり、 信徒使徒職などカトリック教会の大改革が着手された。

 「須賀敦子全集・第1巻」の別冊に、当時82歳になっていたカミッロ神父のインタビューが載っている。神父は、こう答えている。「コルシア・ディ・セルヴィは、ある意味で第二ヴァティカン公会議を先取りしていたものといえます」

 この本の「あとがき」で、著者は記している。

 
 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、 人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったよ うに思う。


 須賀敦子は夫が死去して帰国して2年後、42歳の時、東京・練馬区に、貧者のために廃品回収などをする「 エマウスの家」を設立、責任者となった。いつもGパン姿で、自ら小型トラックを運転することもあった、という。

2015年1月13日

読書日記「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子著、白水社刊)


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 著者の本は、これまで何度か手にしたことがある。しかし、そのたびに自分の知的水準がその内容についていけず"途中下車"していた。

 昨年末、ふとしたきっかけで、表題の処女作エッセイ初め4冊の新書、文庫本を買って、少しずつのめり込んでいった。

著者は、聖心女子大を卒業、パリ留学を経てイタリアに渡り、日本文学をイタリア語に翻訳する仕事をしていたものの、イタリア人の最愛の夫に死に別れて42歳で帰国、いくつかの大学で教えた。

 この作品を書いたのは、なんと61歳の時。その後ほとばしるように創作の道を突き進み、 69歳で急死した後には、全8巻〈別巻1〉の 「須賀敦子全集」(河出書房新社)が残された。

 須賀敦子は、13年に及んだイタリア生活のほとんどをミラノで過ごした。勉学と仕事の場であった コルシア・ディ・セルヴィ書店と自宅のアパートを市電で通う毎日だった。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の渡さを透かして見るのだった。


 霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のよぅな、堀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。


 
 ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている。


 著者は、様々な人とのつながりを広げていくなかで、イタリアの上流社会をかいま見ることもあった。

カミッラ・チェデルナは、ミラノのモードや上流社会のゴシップを軽妙な都会的タッチで描いてみせることで有名な評論家、だという。

 イタリアではチュデルナの名を聞いただけで、またあのゴシップ好きが、と顔をしかめるむきも少なくないのであるが、私たち外国人にとって、彼女はなかなか貴重な存在である。それは彼女がふつう「よそもの」には扉を閉ざしている世界、歴史や社会学の本には書いてないヨーロッパ社会のひとつの面について教えてくれるからである。この閉ざされた社会、すなわち、目に見えぬところでヨーロッパを動かしている、いや、動かすとまでは行かぬまでも、そこにずっしりと存在している社会、とくに貴族たちについて、もっと正確に言えば、この特殊な「種族」が社会の一隅でひそやかに発散しつづける、そこはかとない匂いのようなものについて、彼女は教えてくれるからである。


 ミラノに来て2年目に、コルシア・ディ・セルヴィ書店の仕事仲間であるペッピーノと結婚することになり、結婚指輪を買うためにある店を紹介される。

 実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。


 著者は、コルシア・ディ・セルヴィ書店でガッティというちょっと風変わりな男性と知り合い、長い友情を続けることになる。

 ガッティは、あの忍耐ぶかい、ゆっくりした語調で、原稿の校正の手順や、レイアウトのこつを教えてくれることもあった。すこしふやけたような、あおじろい、指先の平べったいガッティの手が、編集用の黒い金属のものさしで行間の寸法を計ったり、紙の角を折ったりするのを、私は吸いこまれるように眺めていた。全体のじじむさい感じとは対照的に、よく手入れされた神経質な手だった。


 (夫ペッピーノが急死して4年後)日本に引きあげることになったある日、私はガッティの家をなにかの用で訪ねた。まだ翻訳やら、書評やらの仕事が残っていて、私は夜もろくろく寝ていない日が多かった。ガッティはなにやら、校正のような仕事をしていたので、私は区切りのよいところまで待つあいだ、ソファで新聞を読んでいた。そのうち、まったく不覚にも、私は眠りこんでしまった。いったい、どれくらい寝たのだろうか。ふと気がつくと、ガソティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。


 何年か後著者は、アルツハイマー症になってミラノ郊外の老人ホームに入っているガッティを訪ねた。

 まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンをロに運びはじめた。
 幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。


 須賀敦子のミラノでの足跡を訪ねた「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著、河出書房新社)という本には「ガッティはアツコのことが好きで、・・・(想像だが)アツコがミラノにずっといれば、ガッティはあんなふうにならずにすんだかもしれない」というコルシア書店時代の若い友人、ピッチョリの言葉が載っている。
須賀敦子のミラノ
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 「ミラノ 霧の風景」には、ジャコモ・レオパルディジョバンニ・パスコリエリオ・ヴィットリーニカルロ・ゴルドーニウンベルト・サバ など、浅学菲才が初めて知ったイタリアの詩人、作家についての記述がちりばめられており、著者の知的水準の高さをうかがうことができる。

 サバについては、著者自身が日本語に訳して出版しており「あとがき」の最初のその1節が引用されている。

 死んでしまったもの、失われた痛みの、
 ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。


 そして、こう続ける。

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。


2014年12月15日

読書日記「ランドセル俳人の五・七・五」(小林 凛著、ブックマン社刊)「冬の薔薇立ち向かうことを恐れずに」(同)




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 小林 凛君の第2句集「冬の薔薇立ち向かうことを恐れずに」を本屋で見つけたのは数か月前のことだ。

 第1句集もパラリとめくったことはあったのだが「ランドセル俳人・・・」という表題に老人としてはいささかの抵抗感があって敬遠していた。だが「冬の薔薇・・・」を読んですぐに第1句集も買いに走った。

 朝日俳壇の選者の1人である金子兜太さんが「冬の薔薇・・・」の巻末で「凛君のように、抵抗しているものを自分の内面で消化し表現できる子は、辛くても(いじめに)耐え抜ける」という巻末語に引かれたのだ。

 いじめに会って自らの命を絶ってしまう子供が多いなかで、凛君はどうしていじめに耐え抜けたのか?

 「ランドセル・・・」の冒頭で、凛君自身が、こう語っている。

 この日本には、いじめられている人がたくさんいる。
 僕もその中の1人だ。いじめは一年生から始まった。
 からかわれ、殴られ、蹴られ、時には「消えろ、クズ!」とののしられた。それが小五まで続いた。僕は生まれる時、小さく生まれた。「ふつうの赤ちゃんの半分もなかったんだよ。一キロもなかったんだよ」、とお母さんは思い出すように言う。
 だから、いじめっ子の絶好の標的となった。危険ないじめを受けるたびに、不登校になってしまった。そんな時、毎日にように野山に出て、俳句を作った。
 「冬蜘蛛が糸にからまる受難かな」
 これは、僕が八歳の時の句だ。
 「紅葉で神が染めたる天地かな」
 この句は、僕のお気に入りだ。
 僕は、学校に行きたいけど行けない状況の中で、家にいて安らぎの時間を過ごす間に、たくさんの俳句を詠んだ。僕を支えてくれたのは、俳句だった。不登校は無駄ではなかったのだ。いじめから自分を遠ざけた時期にできた句は、三百句を超えている。
 今、僕は、俳句があるから、いじめと闘えている。


 凛君は、離婚した教師の母と祖母の3人と大阪府岸和田市で暮らしている。

   「僕のお気に入り」という「紅葉で神が染めたる天地かな」という句は、2010年12月、小学校3年(8歳)の時に朝日俳壇に初めて投句して入選したものだ。

 朝日俳壇の選者の1人である金子兜太は、著書「語る兜太」(岩波書店)のなかで「毎週5,6000もの投句があり、入選するのは新聞俳壇のなかで最難関だろう」と語っている。俳句を生きがいにしている人々に伍しての初入選だった。
語る 兜太――わが俳句人生
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 凛の最初の投句では「紅葉や」となっていたが、選者の長谷川櫂さんが「紅葉で」と添削した。「なぜ直されたのだろう」。母子は、俳句の入門書を買い、季語や切字、五七五といった俳句の基本を学んでいった。

 朝日俳壇での入選は続いた。

 
 「影長し竹馬のぼくピエロかな」(9歳、金子兜太選)
 「黄金虫とりどりの動く虹」(10歳、長谷川櫂選)
 「ブーメラン返らず蝶となりにけり」(10歳、長谷川選)
 「万華鏡小部屋に上がる花火かな」(金子選)
 「コルク栓夏の宴の名残かな」(10歳、金子選)
 「迷い来て野鳥も授業受ける夏」(13歳、長谷川選)
 「枯葉舞う名も無き樹々の手紙かな」(13歳、長谷川選)


 朝日俳壇では、入選者の句は5週間空かないと再掲載されないというから、すごい入選率だ。

 幼稚園の時に初めて俳句を知った凛君が俳句の世界に本格的に入ったのは、冒頭の凛君の言葉にあるように通っていた小学校ですさまじいいじめに会い、不登校になったからだった。

 入学して1週間目。突然後ろから突き飛ばされて顔の左を強打、目が開けられないほどの腫瘍を作った。水頭症の疑いがある凛君には致命的になりかねない。腎臓の上の腹部に大きな皮下出血があるのを母親が見つけたこともあった。

 「僕、学校に行きたくない。〇〇が僕の顔を見るたびに空手チョップをするねん、僕、机の下に隠れるねん」「先生は僕がいじめを訴えても"してない、してない"と受け付けてくれない」「〇〇が両手の人指し指を後ろからお尻に突っ込んで、毎日僕にカンチョーする」―――。

 2年生になってクラスが変わると、新たないじめが始まった。いきなり後ろから来て両足首をつかんで転ばせようとする。熱い給食の鍋を当番と2人で運んでいる時、突然教室から出てきて足を蹴る。

 「どうして命の危険を感じながらも、毎朝地獄に送り出さなければいけないのか」。母親は自主休学という選択をした。

 中学に進む時、いじめが尾を引くこと懸念がある地域を避けて、電車で通う私立中学に合格した。しかし、ここでもこれまでにない危険な悪ふざけが始まった。顔の前でペンを振り上げる。「凛太郎(凛君の本名)を殴って来い」と命令された子が来たこともあった。

 中学の管理職は、こう言った。「相手の子はしていないと言っています」「西村君、することが遅いので回り子がイライラしています」・・・。母親は3週間で転校を決意した。

 凛君は現在、市内の公立学校に元気に通っている。

 校庭に捨てられていた子猫が翌日死んでいるのを見つけ、先生方とお墓を作った。

 
「猫の墓師と手向けたるすみれ草」


 「彼の俳句も、成長と共に変化を見せてきた。季節の移ろいや生き物を詠む自然詠の句から、心の心情を詠むようになった」。母親の史さんは、第2句集のあとがきで記している。

 凛君の身長は、母親の「背を越した」

 
「空蝉のひとつひとつに魂こもる」
 「紅雨とは焼かれし虫の涙とも」
 (いずれも12歳、第2句集より)


2014年10月 5日

読書日記「太陽の棘(とげ)」(原田マハ著、文藝春秋)


太陽の棘(とげ)
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原田 マハ
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 物語は、米国・サンフランシスコの小高い丘の上に診療所を持つ、84歳の精神科の医師、エドワード・ウイルソンが午睡から覚め、目の前に飾られた1枚の絵の思い出から始まる。

 
 少し毛羽立った、けれどリズムカルな筆致は、さざ波の上で跳ねている太陽の光を、大地を豊かに覆う夏草を、そのあいだをかき分けて通りすぎる風を感じさせる。
 この海は、はるかな沖縄の海。


 1948年、スタンフォード大学を出たばかりの24歳のエドは、在沖縄アメリカ陸軍の従軍医として那覇に赴任した。

 休みの日に、親から送ってもらった真っ赤なオープンカー・ポンティアックに、同僚のアランを乗せ、デコボコ道の坂を上り切ったところで、粗末な木切れに書かれたアルファベットらしい文字を見つけた。

 「NISHIMUI ART VILAGE( ニシムイ・アート・ヴィレッジ)」

 
 エンジンの音を聞きつけて板とトタンで作った家々から、人々がひとり、ふたりと出てきた。・・・
 どの顔にもいかなる戦(おのの)きもなかった。どの顔も、ただ、光に満ちていた。
 こうして、私は、出会ってしまった。――出会いようもない人々と。
 ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たちと。太陽の、息子たちと。


 沖縄の言葉で「北の森」を指す「ニシムイ」にあるこの集落は、米国人好みに肖像画やクリスマスカードを売って生計を立てながら、自分たちの作品を作成していこうとしている芸術家たちのコロニーだった。

 ほとんどが、東京美術学校(現在の国立東京芸術大学)の出身で、後に沖縄画壇のリードする若者たちだ。

 セイキチ・タイラと名乗る若者に案内されて1軒のアトリエに入った。安っぽい合板の壁にぎっしりと油絵がかかっている。その多くは風景画。女性の人物像もあった。

 
 すばやいタッチ、鮮やかな色彩、おおらかな色面。一見すると、セザンヌか、ゴーギャンか、マティスか、・・・。それでいて、誰にも似ていない。きわめて個性的(ユニーク)だ。
 これは・・・とんでもないものをみつけたぞ。
 体の隅々までもがじわりと痺れてくるのを私は感じた。・・・上出来のナパ・ワインを口に含んだ瞬間によく似ていた。


 宿舎に帰ってからもエドは、眠るに眠れずにいた。

 
 夏空に湧き上がる入道雲のような、力強い絵画。激しい色彩とほとばしる感性。荒々しさの中にも、均整のとれた構図のせいか、不思議な安定感がある。・・・  むせかえるような光に満ちた。絵だった。


 こうして、若い米軍精神医と日本の芸術家の卵らとの交流が始まった。

 エドは、昔習っていた油絵を再開し、アランもタイラに絵の手ほどきを受け始めた。

 エドたちは米国の実家から送ってもらった絵具やカンヴァスをニシムイの芸術家に贈り、タイラはエドの肖像や自画像を渡した。

原田マハ「太陽の棘」の表紙には「事物よりちょっとハンサムに描かれた」エドの肖像画、裏表紙には、タイラ(実名は玉那覇正吉)の自画像が掲載されている。荒々しいほど力強いタッチで描いたタイラは、挑むような眼鏡越しの眼差しで、見る人を見つめる。

玉那覇正吉は後に「ひめゆりの塔」を設計し、その慰霊碑の右にある「百合の花」のレリーフも制作、長く琉球大の教授を務めた。

 エド(実名は、スタンレー・スタインバーグ) はニシムイの若き芸術家たちのかなりの作品を購入したが、2009年に里帰りし、沖縄県立博物館・美術館でニシムイ・コレクション展が開かれた。同館には、ニシムイ出身の芸術家の作品も多くを所蔵されている。

2014年9月30日

読書日記「海うそ」(梨木果歩著、岩波書店)



海うそ
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 今年の暑さには、年のせいかいささか参った。そこへ、風邪のヴィールスが悪さしたとかで、軽いふらつきがでるおかしな症状まで見舞われた。

 本は、けっこう読んでいるのだが、どうもブログに書く気が起こらない。

 この本も、図書館で2回目に借りたまま放置していたのだが、 著者の新作が出るというAMAZONのPRメールを見たとたん、なぜか急にこの本のページを繰り直す気になった。

 昭和の初め、K大学で人文地理学を研究する秋野は、南九州にある遅島を調査のために訪ねた。

 かなり大きな島で、以前には修験道の「紫雲山法興寺」という大きな寺院があり、一時は西高野山と呼ばれるほどの隆盛を誇った。しかし今では、木々と藪で覆われていた跡地とかっての地名だけが残っている。

 秋野は2年前に許嫁が理由も分からず自殺し、1年前に両親を相次いで亡くし、今年、指導教授を亡くしていた。そんな寂寞と孤独感のなかで、教授の残した報告書にあったこの島に心を惹かれたのだ。

 護持谷、権現川、胎蔵山、薬師寺・・・その地名のついた風景のなかに立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。


 照葉樹林帯の湿気と高温に囲まれたこの島には、様々な昔話伝説、風俗習慣が残っていた。

 宿を借りた老婆は話す。

 「昔は、こういう雨の日には、よく海から雨坊主がやってきて、縁先にずらりと並んでおんおん泣いていたというたもんやけど」・・・
 「しけのとき遭難した船子たちじゃね。こんな雨になると陸(おか)に上がりやすいがね」


 入江には、もともとアワビやウニをとるための小舟が、高齢者の島になって使われずに、風に曝されている。

 「こまい船やが、船霊(ふなだま)はちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
 「この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊をつけて、仕事を終えるからねえ」
 「船のどこに」・・・
 「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」・・・「女の子の髪やったり、歯やったり、いろいろやねえ」


 船で島を回ると、島の突端の小藪のなかに無理に壊された廃墟が見えた。

 「あそこは、モノミミさんがおいやったところじゃ」・・・  「病気を治したり、探し物を当ててもろたり、死んだ人からの伝言を伝えたり、そんなことをする人のこと」


 南西諸島の ユタ ノロに当たるものか、と秋野は思う。

 島の大寺院が跡かたもなくなったのは、明治初年前後の廃仏毀釈で壊されたためだった。

 「明治政府は神仏分離を宣言しただけで、廃仏毀釈までは指示していません。・・・が、長年仏教に下に見られることに屈辱を感じていた神道の関係者たちが、ここぞとばかりに暴走したのです」


 「政府は、ともかく浸透を国体として確固たるものにしなければならなかった。キリスト教とともに迫ってくるような諸外国に対しても、すっきりと論理的に説明できる力強い独自の宗教が欲しかった。そういう意味で、本当は、仏教より排除したかったものがあった」・・・
 「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まずその標的になりました」

 法興寺の遺跡を訪ね歩いて、秋野は胸を引き千切られるような寂寥感に陥る。

 「空は底知れぬほど青く、山々は緑濃く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶるるほどにつらい」


 50年後、その遅島で一大レジャー開発計画が持ち上がる。次男がそのプロジェクトを担当していることを知り、秋野は島を訪ねる。

 そして開発の結果見つかった膨大な木簡のなかから、この島は平家の人々が都を落ちてきたところだった証拠を見つける。

 海岸に良信という僧がたった一人で奥深い山から石を切り出し、海岸に築いた長大な石壁は、追っ手から守る防塁だったのかもしれない。

 樹冠の緑から海へと視線を移すと、見覚えのあるものが、目に入った。遅島の人々は古来から「海うそ」と呼んでいた蜃気楼だった。

 揺らめい見える風景のなかで、白い壁が幾重にも積み重なり、長く連なっていた。それは、良信の築いた防塁のようにも見えた。

 「海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。」

  「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が増えていくことなのだ。・・・私の遅島は時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。・・・喪失が、実在の輪郭を帯びて輝き始めていた。」

2014年8月19日

読書日記「バルテュス、自身を語る」(聞き手 アラン・ヴィルコンドレ、鳥取絹子訳 河出書房新社)「バルテュスとの対話」(コスタンツオ・コスタンティーニ編、北代美和子訳 白水社)「評伝 バルテュス」(クロード・ロワ著、輿謝野文子訳 河出書房新社)


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バルテュスとの対話
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評伝 バルテュス
評伝 バルテュス
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クロード・ロワ
河出書房新社
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バルテュスの名前を友人Mに聞き、お盆前に京都市美術館で開かれている「バルテュス展」に出かけた。

 その主な作品は「バルテュス展」のホームページにある「展覧会紹介」コーナーに掲載されているが、事前に友人Mがネットで購入していた展覧会図録を見て「なぜこんな絵を」「バルテュスってなにもの?」と、驚きが入り混じった興味がつのってきた。

描くテーマの多くが、「夢見るテレーズ」「美しい日々」など、あどけない少女たちが胸を見せ、膝をあらわにしたポーズなのだ。

 当然、発表当初からこれらの絵を巡る賛否両論が渦巻いたらしい。

 しかし、京都での展覧会では、これらの少女像や風景画に引き込まれ、個人の展覧会としては2時間半という自分でも異例の時間を過ごし、不思議な感動に包まれて美術館を後にした。

 帰ってからも、バルテュスなる人物への興味はつきず、標題の本を買ったり、図書館で借りたりすることになった。

 最初の2冊は、作家やジャーナリストによるインタビューをまとめたもの、最後のは小説家による評伝だが、やはりバルテュス描く少女たちがテーマの中心になっている。

 
人は私が描く服を脱いだ少女たちをエロチックだと言い張りました。私はそんな意図を持って描いたことは一度もありません。・・・少女たちを沈黙と深遠の光で囲み、彼女たちのまわりに目がくらむ世界を創りだしたかった。それだから私は少女たちを天使だと思っていました。(「バルテュス、自身を語る」より)


バルテュスは同じ本で「私はこれらの少女をたちとはつねに自然に、下心なく共謀してきました」とも語っている。

 「バルテュスとの対話」のなかで、バルテュスはここまで言い切る。

 
人がわたしの絵のなかに見出すエロティシズムは、それを見る人間の目、その精神、あるいはその創造力のなかにあるのです。聖パウロは言っています。淫らさは見る者の目のなかにある、と。


 
――あるフランスの雑誌によると、描いたのは天使だけだとおっしゃったそうですね。ほんとうですか?
 バルテュス ええ、そうだと思います。
  ――ちょっと淫らな天使たち?
 バルテュス なぜです?淫らなのはあなたのほうですよ!どうして天使が淫らになりえるでしょう?天使は天使なのですから。・・・わたしは宗教画家です。


 ただ、少女を「挑発的に描いた」ことが1回だけある、という。

1934年にパリ・ピエール画廊での個展に出された「ギターのレッスン」。「あまりにスキャンダラス」という批判が出るのを心配した画廊主は、この絵をカーテンの後ろに隠し、一部の人にしか見せなかった。

 
「ギターのレッスン」が引き起こしたスキャンダルは計画されたものでした。わたしはあの絵を、スキャンダルを呼ぶために描き、展示しました。ただお金が必要としていたからでしたが、私はすぐに有名になりたかった。残念なことに、あのころパリで有名になる唯一の方法はスキャンダルでした。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、風景画「樹のある大きな風景」に見られるように、光を大切にする"光の画家"でもあった。

 
光を待ち構えることを学ばなければなりません。光の屈折。逃げていく光、そして通りすぎる光、・・・今日は絵が描けるかどうか、絵という神秘のなかで前進しているものが深まるかどうか。


 
毎朝、光の状態を見つめます。私は自然な光でしか描きません。・・・空の動きに合わせて変化し、ゆらめく光だけが絵を組み立て、光沢を与えます。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
朝早く、まだ人びとが眠り、村を重い沈黙が支配するときには、美しい光があります。しかし、わずかの時間しか続かない光だ。・・・この冬のようにロシニエールに雪が降るとき、光は特別です。クリスタルのようで、純粋で、目を眩ませる。しかし、それははかない光。蜃気楼のように、わずかの時間しか続かない奇跡です。(「バルテュスとの対話」より)


 バルテュスは、光と同時に素描(デッサン)を大切にした。

 京都での展覧会では、生涯の友人だった彫刻家、アルベルト・ジャコメッティを描いた「アルベルト・ジャコメッティの肖像」など、多くの素描を見ることができた。

 
夢見る少女たちの顔やポーズをさまざまにデッサンする。私にとってこれ以上厳しい課題は見当たりません。・・・愛撫のように優しくデッサンするなかで、すぐに消えゆく子供時代の優美さ・・・を見いだす。・・・まだ何も知らない卵形の顔、天使の顔に近い形を、黒鉛で紙の上に見いだそうとする。


 
デッサンの仕事は絵より厳しく、おそらくより神秘的で、火、真っ赤に燃え上がる火にたどりつくことを意味します。ときに数本の線だけで火は奪われ、とらえられ、いまにも消えそうな状態でも、かすかに見てとれる閃光でもつかまえられる。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 
「常に素描(デッサン)をしなければなりません。鉛筆ではできないときは眼で素描(デッサン)しなければなりません」。・・・彼は、同時に、形態を「撫でる」ために、そして理解するために、そしてその形態と結ばれるために、そしてその形態を見抜くために、接触の暖かさそして知性の精密さを得るために、素描をするのである。(「評伝 バルテュス」より)


   バルテュスは、若い時からルーブル美術館などに通い有名画家の作品の模写を繰り返した。特に、14?16世紀に画法の中心だったフレスコ画に興味を持った。13歳の時にスイスのトウ―ン湖を望む小さな教会にフレスコ画を描こうとしたこともある。

 イタリア・フレンツエのサンタ・マリア・ノヴェラ教会パオロ・ウッチェツロ作やアッシッジのサン・フランチェスコ教会上・下院にあるチマブーエジョットの絵に「雷に打たれた」ようになり、模写を繰り返した。

 
油彩の持つ艶に対しては、つねになにか耐えがたいものを感じてきました。そのために50年代からカゼアルティ(カゼインに石灰を混ぜたもの),卵白のテンペラを使い始めたのです。(いずれも「バルテュス、自身を語る」より)


 バルテュスが若いときから学び、身体に染みついたフレスコ画の技法は、後年、バルテュスが、当時のフランス文化相だったアンドレ・マルローに委嘱されてローマに於けるフランス芸術の拠点、 ヴィラ・メディチ(メディチ館)の館長になり、すぐに始めた同館の壁の修復に生かされた。

 
メディチ館の壁面や建物の塗装にたずさわった職人たちは、バルテュスの式や数々の試みにあらわれた正確さ細やかさにすっかり敬服した。「バルテュス塗り」などというのは、二、三の塗料を混ぜ合わせてから、スポンジを使って塗る面にたたきつけたり、はけで軽く染みこませていく。そのようにして得られるのは、内にこもった振動のような感覚、表面が生きている感覚を与える彩りである。(「評伝 バルテュス」より)


 京都の展覧会での話題作品の1つが、「朱色の机と日本の女」だったが、じっくり見て驚いた。

図録では、ただ白い絵具を塗ったとしか見られなかった「日本の女」の肌が、ザラザラとした立体感のあるフレスコに似た画法で描かれていたのだ。

 この絵については、こう書かれている。

 
《朱色の机と日本の女》はバルテュスの仕事のなかで、遠近法に支配された西欧絵画と、造形的要素や色彩が奥行より重きを置かれる中国的・日本的宇宙観との間の縫目をなしている。この際の背景とモデルは、それまでにもけっこう豊富な可能性を示していた芸術家をして、新たな表現方法や新たな側面を実験させる気分にならせた。・・・ 節子、それがその人の名だった。(「評伝 バルテュス」より)


    節子とは、旧姓・出田節子さん。「朱色の机と日本の女」のモデルでもある。

 バルテュスと結婚し、その死後も2人が愛したスイスの木造建築「グランド・シャーレ」に住み、バルテュスから指導を受けた画法で絵画を描き続けている、という。

 バルテュスは、表題の著書のいくつかで、こんな言葉を繰り返している。

 
わたしは「芸術家」という言葉が大嫌いです。漫画『タンタン』(バルテュスが娘の春美さんが小さかった頃に一緒に見た本)に登場するアドック船長が使う最上級の侮辱語は「芸術家!」です。ピカソもまたこの言葉を毛嫌いしていました。「わたしは芸術家ではない、画家だ」と言ったものです。わたしも同じことが申せます。わたしは画家、あるいたよりよく言えば職人です。


 ピカソは、かなり年下のバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と高く評価、後にバルテュスの作品「ブランシャール家の子どもたち」を購入している。この作品は現在、フランスのパリ・マレ地区にある国立ピカソ美術館が所蔵している。

 「バルテュスとの対話」の最後は、こんな独白で終わる。「死を恐れない。私はカトリック教徒です。(肉体の死を越えた個人の来世を)信じていると思います」

 
人は神を想像したりしません。どうやったら生命を想像できるのです?神がわれわれを取り巻く現実に、自然のなかに、物と世界の美のなかに、現在それらになされている破壊にもかかわらず存在しています。神がその創造の驚異すべてを廃墟へ追いやるとお決めになった、そう思うことはわたしにはどうしてもできません。


  ▽ (付記)
朝涼やバルテュスの光こもれきて


2014年7月28日

読書日記「屋根屋」(村田喜代子著、講談社)



屋根屋
屋根屋
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村田 喜代子
講談社
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  この5月の連休にパリとロンドンの街を歩く機会があって、気づいたことがある。「なぜヨーロッパの人達って、こんなに塔が好きなのだろう」

  パリの教会群やエッフエル塔 バスティーユ ヴァンドーム広場の記念塔、 コンコルド広場 オベリスク 凱旋門

  ロンドンでも、 セント・マーティン教会の白い塔や時計台で有名な ビック・ベン ケンジントン・ガーデンズ アルバート記念碑 トラファルガー広場 ネルソン記念柱 ピカデリー・サーカスのエロス像に群がる若者たち。塔の形はそれぞれに違っている・・・。

  旅から帰って、これも老化現象の1つなのだろう。時差ボケが2週間ほども解消できず、明け方まで目がさえて眠れない。

  そんな時に、図書館で借りたのが、この本。なんだか、その時の気分にピッタリ合って一晩で読んでしまった。それからも、なにか手放したくなくて、借入期間の延長、再貸出し、延長を繰り返して、2か月経った今でも、手元にこの本はある。途中で、巻末に載っていた参考資料まで買ってしまった。いつもなら、気に入った本は読んだ後でもAMAZONですぐ買ってしまうのが悪い癖なのだが・・・。

  村田喜代子の作品は、この ブログでもなんどか登場ねがったが、この著書はこれまでのものとは一味違う、なにか飄々とした浮遊感が漂う大人の童話なのだ。

  主人公は、ゴルフ好きの夫と高校生の息子と3人で北九州に住む主婦「私」。

  ある日、雨漏りを直しに来た永瀬という「屋根屋」の男から不思議なことを聞く。

  以前に病気になり、医者に勧められて夢日記をつけるようになってから、自由に自分の見たい夢を見られるようになった、という。

  それを聞いて「私」はとんでもないことを口に出す。「私、屋根の夢がみたいんです」

  「奥さんが、上手に見ることが出来るごとなったら、私がそのうち素晴らしか所へ案内はしましょう」「奥さんがびっくりして溜息ばつくような、すごか屋根のある所です」

  「私」は自宅のベッドで夫と一緒に寝て、永瀬は自分の工務店の布団のなかにいても、同じ夢の場所に連れていける、という。

  ただ、それにはいくつかの手順が必要だ。

 
 1つは、夢を見る「レム睡眠」の直後に目が覚めるように、睡眠時間を調整すること。
 2つ目は、近い場所なら行きたい場所に先に行って体験し、遠いところや現実に行けない場所なら写真やインターネットのデータで想像させ「私」がうまく意識の鎖を解いて夢の場所に到着したら、・・・永瀬は無意識のさらにもっと深い所の、集合的無意識まで降りて行き、・・・「私」の夢に入り込む。


  永瀬は最初にまず、自宅に近い福岡の「真言宗東経寺」を見に行くように言う。

 
 東経寺の大屋根は明るい昼間の外光に背くように、ずっしり重くうずくまっている。ただ軒が反り返っているので、この重量を載せて西方浄土へかどこか、不意にぐらっと飛び立ちそうな感じもする。


   
 ベッドに入って目を瞑ると、昔、プールへ潜ったときの深い呼吸を思い出した。・・・あの薄緑色のゆらゆらした無重力の世界へ潜って行く。・・・下の方に黒いものが見えて来た。・・・昨日、自分で行った東経寺の本堂の大屋根に違いない。・・・私はその屋根に軽く着地した。・・・そしていつもの作業着で遅れて飛んできた永瀬と屋根の上で会う。


 
 「これは私の夢ですか?」・・・「何度も言いますが、これは奥さんの夢です。しかし、同時に私の夢でもあるのですよ」「ということは共同の夢ということ?」「厳密に言うと、違うですたい」・・・「それじゃ、この夢は一つにドッキングした夢なの?」「いや別々です」・・・「それなら、あなたの見る夢と、私の見る夢は少し違うんですか?・・・」「まるきり同じです」


  別々に、同じ夢を見るのにも、すこしずつ慣れてくる。奈良のお寺の屋根も、法隆寺の五重塔も自由自在。

  夢のなかで「私」の夢のことなどなにも知らない夫が金茶の大虎となって吠えかかってきたり、10年前に癌で死んだ屋根屋の女房がオレンジ色の火の玉となって襲ってきたりする"おまけ"までつく。

  いよいよ本番。夢のなかの飛行機でフランスに飛び、いつものように水のなからパリの空港に到着する。

   ノートルダム寺院の鍾塔を登る。

 
 「こんな大きな建物なのに、何でここは狭いのかしら」・・・「大聖堂には屋上はなかでしょうが。屋根の上にあるのはもう神の国だけです。つまり教会は屋根の天辺に登る用事はなかとですよ」


  次は黒い白鳥になって、パリから南西に80キロ離れた シャルトル大聖堂まで。

 
 神の砦でありながら、何て暗鬱な、禍々しい、巨大な建造物。長すぎる歳月にすっかり黒ずんだ石造りは、もう現代に使い途がないほどでか過ぎて、天から堕ちて来た地獄の砦のように見える。そこから磁力がじんじんと発せられる。


  永瀬が告白する。「私と一緒にここに残りませんか。もしよかったら二人で残って、ここでずっと暮らさんですか」

 今度は黒鳥になるのをやめて、列車でハムとビールを楽しみながら アミアン大聖堂に行く。

 
 私たちは大きな石の建造物の屋根にいる。見渡す限り堅固な石の城砦のようだ。人間は自分の身体だけでは物足らず、こんな途轍もない建物まで造った。高く大きく堅固に造れば造るほど、建物には執着がこびりついてくるのではないか。執着が増大するのではないか。


  帰りは、成層圏まで登り、ヒラヤマの峰々をのぞく。

 
 「永瀬さん。ここに瓦、葺きたくない?」・・・「こうなるともう、自然にまかせるしかなかですなあ」・・・「手も足も出まっせん」


  ▽著者が巻末に載せている参考資料のなかで、買った本
  ※「ゴシックとはなにか 大聖堂の精神史」( 酒井健著、ちくま学芸文庫)
ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
酒井 健
筑摩書房
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  ※「塔とは何か」(林章著、ウエッジ選書)
塔とは何か―建てる、見る、昇る (ウェッジ選書)
林 章
ウェッジ
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  ▽ (付記)
聖五月外つ国の塔天拓く


     聖五月というのは、カトリックでは「マリア月」とも言うが、ちゃんと歳時記にも採用されている季語である。

  この4月、 「聖書と俳句の会」を知り、72歳で初めて俳句の世界をのぞく機会に恵まれた。上記の句は、パリ、ロンドンから帰った直後の句会に出して見事に落選、講師の酒井湧水師の添削を受けたものだ。

  添削のおかげでゴツゴツした散文的文章が、韻をふくんだリズム感のある句に生まれ変わった。

  「天拓く」は自分の最初の句のままだが「天めざす」と言う方が気分に合っているような気もする。しかし、平凡すぎるか。難しい・・・。

写真集:パリ・ロンドンの塔
パリ・バスティーユ広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・ヴァンドール広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 パリ・凱旋門;クリックすると大きな写真になります。
パリ・バスティーユ広場の記念塔 パリ・ヴァンドール広場の記念塔 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会 パリ・凱旋門
パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリ・オランジェリー美術館の塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会;クリックすると大きな写真になります。
パリの教会(名称不明) パリの教会(名称不明) パリ・オランジェリー美術館の塔 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔);クリックすると大きな写真になります。 パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・アルバート記念碑;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンのビック・ベン;クリックすると大きな写真になります。
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔) パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔) ロンドン・アルバート記念碑 ロンドンのビック・ベン
ロンドン・ネルソン記念柱;クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像;クリックすると大きな写真になります。
ロンドン・ネルソン記念柱 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中) ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像


2014年7月20日

パリ・ロンドン紀行?・終「パリの景観」2014年4月26日―5月1日



パリに出かける前に読んだ「フランスの景観を読む 保存と規制の現代都市計画」(和田幸信著、鹿島出版会)という本の序文に、ちょっとびっくりするような記述があった。

フランスの「建築に関する法律」第1条にはこう書いてある、という。

フランスの景観を読む―保存と規制の現代都市計画
和田 幸信
鹿島出版会
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 「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の室、これらを環境に調和させること、自然景観や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公器である」

 これに対し、日本の建築基準法第2条では建築物を「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの・・・」と、なんとも素っ気ない記述しかない。

 日本の法律には、建築や景観と公益あるいは公共性についてはまったく規定されていない。要するに建築は私権に属することであり、個人の好きなように建てられることになっている。この結果、日本中どこの街に行っても、高い建物や低い建物、陸屋根のビルや切妻の建物、灰色の日本瓦の住宅や。青やオレンジ色のスペイン瓦の住宅、さらにはケバケバしいゲームセンターやパチンコ屋などが、おもちゃ箱をひっくり返したように溢れることになる。


 フランスの景観は決して何もせずにきたわけではなく、フランスの文化と伝統を反映した街並みを公益として保存しょうとする国や自治体の意思と、これらを公共の財産として受け継ごうとする市民の意識により支えられて、現在の姿を留めているのである。


 「華のパリ」の別名がある通り、パリは厳しい景観保全政策で、その"美観"を維持している。そのきっかけになったのが、ドゴール政権下で文化相だった アンドレ・マルローによって作られた マルロー法(1962年8月4日法)らしい。

 この法律によって、パリでは第1号の歴史的建築保存地区となった マレ地区にぜひ行ってみたいと思った。旅に同行してくれたパリ通のYさん夫妻に案内してもらった。

 マレ地区は、オペラ座近くのホテルからも歩いて行けるセーヌ河右岸のパリ3区と4区一帯。途中、若い日本人女性にも人気という「ラデュレ」で、この店の名物であるフレンチトーストの朝食を楽しみ、マレ地区に入ったのは、午前10時半過ぎ。

 緑の並木に囲まれた小さな路地があるかと思ったら、両側に自動車をびっしり止めた小路がある・・・。意外に狭い石畳の道路の両側に同じ高さでそろった石造りの古い建物が続く。なんだか狭苦しい雰囲気で「ここが、パリの誇る景観地区なのか」と、意外な感じがする。素人目には、周辺の街区との違いが見つけられない。

 マレ地区は17世紀には優美な貴族の館が並ぶ街だった。それが18世紀になると、貴族に替って手工業者や低所得層が住む街になり、建物の崩壊を防ぐために道路の上に木材の梁を渡すという荒廃した街になっていった、という。

 長くユダヤ人の住む場所でもあった。このブログでもふれた「サラの鍵」の舞台にもなった「ゲットー」(ユダヤ人強制居住地域)も作られ、建物の内部を監視するための広場が強制的に作られたという。その後ユダヤ人は強制移送され、一時マレ地区から姿を消した悲しい歴史も刻んでいる。

 この法律による保全地区では、 フランス建築物建築家(ABF)という専門官が建造物の新築や改変を厳しく管理している。

そのせいか、多くの貴族の館が、パリ市などに買収され、博物館や美術館になっている。

 カルナヴァル博物館は、17世紀のセヴィニュエ侯爵夫人邸だったし、かつて塩税請負人が住んだサレ(塩)館は、国立のピカソ美術館になっている。

 建築家の ル・コルビッジェの業績などを紹介している スイス文化センターのある行き止まりの小路は、落書きばかりが目立つ場所だったが・・・。

 マレ地区の東端にある ヴオージュ広場と周辺の館は「パリを世界で最も美しい都にしたい」と、16世紀の王、 アンリ4世が作らせたという。

 正方形の公園を囲んで建てられた、オレンジとベージュのレンガや黒い屋根のファサード(建物正面のデザイン)で統一された36の館は、 ブルボン王朝初代の王が目指したパリで最古の建築景観を現在に残し、ほれぼれと見とれてしまう。

   ただ、マレ地区全体は「貴族館の保存」という最初の目的からちょっぴりはずれ、観光客に人気の街になったようだ。

 各通りの1階には、瀟洒な店やギャラリー、カフェ、日本でも有名な紅茶専門店の マリアージュ・フレールなどが軒を並べ、ユダヤ料理などのレストランも多い。

 昼食は、ユダヤ人学校前広場近くのユダヤ料理店屋外テーブルで陽光を浴びながら取った。なすびのパテや ファラフエルと呼ばれるひよこ豆のコロッケなど野菜料理ばかり。パリ滞在中に連れて行ってもらった レバノン料理に似てスパイスがきつくない野菜料理がワインに合う。考えてみると、イスラエルとレバノンは、紛争の地の隣国同士だ。

 ヴォージュ広場から歩いてすぐの バスティーユ広場から、69番のバスに乗り、パリ最古の橋・「ボン・ヌフ」で降りる.。

ボン・ヌフから見渡せるのが、世界遺産の 「パリ・セーヌ河岸」。ルーブル美術館、 ノートルダム寺院 オルセー美術館、さらには エッフェル塔まで約8キロに及ぶパリ最大の景観地区である。

 この地区は、マルロー法に先立つ19世紀に ナポレオン3世の指示で、セーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが断行した「パリ大改造」の一環として実現した。

 ノートルダム寺院のあるシテ島は、大改造まで貧民窟だった、という。

 セーヌ河をのぞき込むと、右岸のトンネルから出て、すぐにまたトンネルに消える自動車専用道路が少し見える。大阪や東京の河の景観を無視して縦横に走る高速道路に比べ、なんと風格のある都市設計だろう。

 ボン・ヌフを渡りきると、マルロ法にパリ2号目の歴史建築物保存地区・ サン・ジェルマン地区だ。

 「17世紀にマレ地区に住んでいた貴族たちが手狭になった館を嫌って、この地区に移ってきた」と文献にあったが、第2次世界大戦以降は、知識、文化人の一大中心地でもあったらしい。

 現在は、街の中心にある サン・ジェルマン・デ・プレ教会を中心にブティックやカフェが並び、観光客でごった返している。Yさん夫妻について行った小さなチョコレート店は、あふれる注文客を日本人男性 パテイシエ1人がきりきり舞いで応対していた。

 保存地区の広告規制が厳しいらしい。店舗のディスプレーも控えめだ。小さな白い「M」のマークをつけただけのマクドナルドの店舗が、なにかほほえましく見えた。

 パリの景観で忘れられないのは、初日の夕方に訪れたエッフェル塔だった。

 早くも電飾に輝くこの塔は、広い シャン・ド・マルス公園の真ん中に4本の柱に支えられて真っ直ぐに伸び、レースで編んだような半円形の鉄製アーチの間に立つと、セーヌ川の向こうに シャイヨ宮が望める。

 振り向いても、もういちど前を見ても、周りに高い建物はなにもない。胸いっぱいに空気を吸い込み、ため息をつきたくなる。そんなすがすがしい空(そら)空間が広がる。

 なんと、Yさんがこの塔にある1ツ星レストラン 「ル・ジュール・ヴェルス」に予約を入れてくれていた。アーチ型の脚の間に設置されている専用エレベーターで高さ125メートルのレストランに入る。

 窓際の席からパリの街が一望できる。見事に同じ高さにそろった石造りの建物群。その間を「パリ大改造」で作られた通りが放射線状に延び、細い路地が入り組んだように建物の間を縫っている。

 右手の黒い塊は、 ブローニュの森だろうか。正面に見えるのは、悪名高い高層ビル 「モンパルナス・タワー」

 ところが、その素晴らしい風景を撮ったカメラを、翌日、ルーブル美術館で盗難にあって失ってしまった。カメラそのものは、入っていた海外旅行保険のおかげで8%の消費税付きで代金が戻ってきたが、あのすばらしいパリの景観の写真は戻ってこない。

 かつてエッフエル塔が出来た時に、この塔の建設に反対した、かのモーパッサンは「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と、エッフエル塔のレストランによく通った、という。

 機会があったら、もう一度、このパリの景観を見に来たいと思う。今度は「モンパルナス・タワー」からエッフエル塔の建つパリの街を見るために。

▽参考に読んだ、その他の本

※ 「パリ神話と都市景観 マレ保全地区に7置ける浄化と排除の論理」(荒又美陽著、明石書店)

パリ神話と都市景観―マレ保全地区における浄化と排除の論理―
荒又 美陽
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 ※ 「セーヌの川辺」池澤夏樹著、集英社)

※ 「美館都市パリ 18の景観を読み解く」(和田幸信著、鹿島出版会)

美観都市パリ―18の景観を読み解く
和田 幸信
鹿島出版会
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パリの景観:写真集
パリ・オペラ座の天井部外観;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の小路;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 ユダヤ人街でのレストラン;クリックすると大きな写真になります。 マレ地区・スイス文化デンター小路;クリックすると大きな写真になります。
パリ・オペラ座の天井部外観。「パリ大改造」計画では、この外観が見通せるように広いオペラ通りが造られたという マレ地区の小路 マレ地区の通り。見事に建物の高さがそろっている ユダヤ人街でのレストラン マレ地区・スイス文化センター小路。落書きがなぜか。
カリナヴァル博物館;クリックすると大きな写真になります。 ヴォージュ広場;クリックすると大きな写真になります。 バスティーユ広場;クリックすると大きな写真になります。 セーヌ河岸の自動車専用道路;クリックすると大きな写真になります。" ノートルダム寺院;クリックすると大きな写真になります。
カリナヴァル博物館 ヴォージュ広場 バスティーユ広場。後ろに見えるのは新オペレ座 セーヌ河岸の自動車専用道路 ノートルダム寺院
サンジェルマン地区の通り;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 サンジェルマン地区のマクドナルド店;クリックすると大きな写真になります。 雨の凱旋門;クリックすると大きな写真になります。 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔;クリックすると大きな写真になります。
サンジェルマン地区の通り サンジェルマン・デ・フレ教会 サンジェルマン地区のマクドナルド店 雨の凱旋門 世界遺産・セーヌ川岸とエッフエル塔
パリの地下鉄車内;クリックすると大きな写真になります。 P1040167.JPG
パリの地下鉄車内。けっこう黒い人が・・・。 設立当初は賛否両論だったルーブル美術館のガラスのピラミッド入口。周りの景観との違和感はない


2014年7月 9日

パリ・ロンドン紀行?「ルーブル美術館?」2014年4月30日(水)



 ルーブル美術館休館日明けの水曜日。この日は地下鉄を利用してリヴォリ通り沿いのリシュリュー翼3階18室「ギャラリー・メディティスの間」に入った。

 なんと女性警備員2人が、ガラス天井の下の大広間真ん中で朝の打合せをしている以外、観覧者はまだ1人もいない。同行Mが勧めた「開館直後の午前9時に入ろう」という作戦は大成功だった。

 広間の両側を飾っている24枚の大作は、イタリア・ メディチ家からフランス王・ アンリ4世の妃になった マリード・メディティスが、自らの生涯を描くようバロックの巨匠・ ルーベンスに依頼したもの。

 王妃メディシスはいささかメタボ気味で27歳の晩婚。国王アンリ4世は女好きで、ルーブル宮殿ではその愛人と一緒に住まわされ、フランス語がしゃべれないメディシスはいつも孤独だった。やっと息子 ルイ13世に恵まれたが、夫アンリ4世が暗殺されてしまったうえに、ルイ13世の取り巻きの貴族群に嫌われ、国外に追放されてしまう。

 こんな生涯を"自画自賛"の絵に描くよう依頼されたルーベンスは、神話の世界に仕立てることを思いつく。

 2人は、リヨンの町で初めて対面する設定になっているが、夫はローマ神話の神 ユーピテル、妻は女神ユーノーとして描かれる。下で馬車を曳くのはリヨンにちなんだ「LIYON(ライオン)と、寓話性にあふれている。

 間もなくこの広間に模写に現れた男性のキャンバスに描かれているのは、フランス・マルセイユ港にイタリアから到着したメディシスを歓迎する海の妖精たちだ。

この大広間の周辺には、17世紀 フランドルをはじめ、オランダ、ドイツなどの作品の部屋が続いている。

 24室には、フランドル出身の ヴァン・ダイクが描いた 「狩り場のチャールズ1世」が、38室にはあの ヤン・フェルメール 「レースを編む女」(24×21センチ)が宝石のように置かれていた。

 その間の部屋にあるはずの レンブランド 「バテシバ」を見つけることができなかったのは残念だった。旧約聖書に書かれている ダビデ王に横恋慕された家臣の妻の水浴姿というテーマは、それまでも何人もの画家が挑戦している。

  中野京子 「はじめてのルーヴル」によると、モデルは乳癌で亡くなったレンブランドの愛人で「左の乳房の明瞭な影がその証拠ということが、近代になって分かってきた」という。

 「光と闇の画家」と呼ばれたレンブランドが描く、モデルと「バテシバ」の"影"。その絵が飾られているはずの部屋番号まで事前に調べたのに、見落としてしまったのは「もう一度おいで」というルーブルの魔法をかけられたせいだろうか。

 もう1つの裸体画、10室にあるフォンテンブロー派 「ガブリエル・デストレとその妹」は、ちゃんと見つけることができた。

 入浴中の左側の女性が右側の女性の乳首をつまみ、懐妊を示唆している。つままれているのは、アンリ4世の愛人の愛妾・ガブレリエル・デストレ、つまんでいるのはその妹という不思議な構図だ。

 中野京子は 「怖い絵2」(朝日出版社)のなかで、こう書いている。

 
手と指の描写に、いささかデッサンの狂いが見られ、その狂いがかえって奇妙な効果を上げている。まるで白い蟹(かに)がガブリエルの柔肌を這(は)いまわっているような、エロティックでもあり、ユーモラスでもあり不気味でもあるいわく言いがたい皮膚感覚を、見る者に呼び起こす。


 ここで、いったん地下まで降り、ピラミッド経由で、見学初日に見落としていたドウノン2階の「大作の間」に入った。ここには、19世紀フランスを代表する大型絵画が、隣の「ナポレオンの間」と同じ赤い壁紙が張られている。

 入って正面左にあるのが、19世紀・ ロマン主義を代表するジェリコー 「メデューズ号の筏」。491×716センチという大作だ。

 難破したフランス艦から筏で脱出した150人の兵士のなかで生き残ったのは15人。ジェリコーは、それらの人々から取材を重ね、臨場感あふれた作品に仕上げた。

その右側には、 ドラクロアの代表作「民衆を導く自由の女神」がある。

 1830年の 7月革命を記念して描かれたものだ。女神の左にいる山高帽の男はドラクロア自身と言われる。しかし、革命は3日間で終わって王政は続き、この絵は国家に買い上げられたものの、人の目に触れることはなく、公開されたのは約40年後の共和制復活後だった、という。

 その隣にある、同じドラクロアの「サルダナパロスの死」にも引きつけられる。

 紀元前7世紀、死期が近いことを知ったアッシリア王・ サルダナパロスが、自分に仕えた人々を虐殺させるのを平然と見ている。画面には血は一滴も流れていないのに、赤いベッドと女体の肌色の色彩感で異常な光景を見事に演出している。

 ドラクロアのライバルであった新古典主義の アングルの代表作 「グランド・オダリスク」を見に「ナポレオンの戴冠式」のある75室に戻る。

 「オダリスク」というのは、トルコのハーレムに仕えた女性のこと。アングルは背中を異常に長く描いてその優美さを強調することで、絵画史上でも最も有名な裸婦像を完成させた。

  同じアングルの 「カロリーヌ・リヴィエール嬢」という肖像画にも引き込まれる。ルーブル美術館のWEBページでは、この絵のことを「少女の清新性と女性の悦楽という両義性を描いた」と解説している。

 最後に、グランド・ギャラリー経由でシュリー翼3階に向かう。 ロココを中心とした17?19世紀のフランス絵画が展示されている。

 ルーブルに寄贈された数百点のロココ絵画のなかでも、ヴァトー 「ピエロ(古称・ジル)」は、心引かれる絵画だ。白い道化服を着た等身大のピエロが、もの悲しい気な目で見る人をじっと見つめている。

 同じ18世紀ロココ時代を代表する フラゴナール 「水浴の女たち」「霊感」などにまじって、ちょっと不思議な絵が、窓際にそっと飾られていた。

  グルーズ「壊れた甕」だ。
 美しい少女が、左胸をあらわにし、乱れた服装のままでたたずんでいる。膝の上で抱えているバラの花と右腕にかけたひび割れたかめは、彼女が純潔を失ったばかりであることを表している、という。

 19世紀を代表する コローの作品は、 「真珠の女」などと並んで、一連の風景画が印象的だ。「次世代の 印象派への橋渡しをした画家」と言われるゆえんだろう。

 一番奥に、ルーブルが誇る逸品、 ラ・トウールの作品群が誇らしげに並んでいた。

 ラ・トウールは17世紀に活躍した画家だったが、その後何世紀も忘れられ20世紀初めに再認識された、という。再発見したのは、ルーブルの学芸員たち。

 明らかにカラヴァッジョの影響を受けて、光と闇に包まれた宗教画を描き続けたラ・トウールの作品のなかでも、「いかさま師」は、異色かつ不思議な作品だ。

 若い善良そうな若者に、他の3人がまさにいかさまを仕掛けようと目配せをしており、男が背中に隠したダイヤのエースのカードを抜きだそうとしている・・・。

 ルーブル美術館が主導して刊行、世界各国語に訳されている 「ルーヴル美術館 収蔵絵画のすべて」(日本語版・ディスカヴァー・ツエンティワン刊)は「『いかさま師』には3つの主題が隠されている」と解説している。

 
(それは)17世紀に最大の罪とされていた3つの悪徳、賭博、飲酒、淫蕩。・・・若者(無垢の擬人化)は自分を自分を待ち受けている悪徳に全く気づいていない。・・・ダイヤのエースを抜き取っているいかさま師の右手の先には。黄色いスカーフを頭に巻いた若い女性が2つ目の罪を表すワインを手にしている。テーブルの真ん中に座っているのは、宝石をたくさん着飾って豪華な服を着た娼婦である。彼女は女性の誘惑の象徴で、視線と手振りで、2人の仲間に今がチャンスだと合図を送っているようだ。


 NHKの番組によると、ラ・トウルが20世紀初めに再認識された時、ルーブルが所蔵していたのは 「羊飼いの礼拝」1点だけだった。

 しかし、その後全国的な募金活動をしたりして、現在は世界で十数点しかないといわれる作品のうち、ルーブルは8点を所蔵している。「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」は、パリ近郊の村の教会の壁にあったのを偶然に発見され 「ルーブル美術館友の会」が購入を決め、ルーブルに寄贈した、という。

ルーブル美術館写真集(2)
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面);クリックすると大きな写真になります。" ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」;クリックすると大きな写真になります。 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」;クリックすると大きな写真になります。 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」;クリックすると大きな写真になります。
ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(リヨンでの対面)」 ルーベンス「マリード・メディシスの生涯(王妃マルセイユに上陸)」 ヴァン・ダイク「狩り場のチャールズ1世」 フェルメール「レースを編む女」 フォンテンブロー派「ガブリエル・デストレとその妹」
アングル「グランド・オダリスク」;クリックすると大きな写真になります。 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」;クリックすると大きな写真になります。 ジェリコー「メデューズ号の筏」;クリックすると大きな写真になります。 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」;クリックすると大きな写真になります。 同「サルダナバロスの死」;クリックすると大きな写真になります。
アングル「グランド・オダリスク」 同「カロリーヌ・リヴィエール嬢」 ジェリコー「メデューズ号の筏」 ドラクロア「民衆を導く自由の女神」 同「サルダナバロスの死」
ヴァトー「ピエロ」;クリックすると大きな写真になります。 フラゴナール「水浴の女たち」;クリックすると大きな写真になります。 1フラゴナール「霊感」;クリックすると大きな写真になります。 グルーズ「壊れた甕」;クリックすると大きな写真になります。 コロー「真珠の女」;クリックすると大きな写真になります。
ヴァトー「ピエロ」 フラゴナール「水浴の女たち」 フラゴナール「霊感」 グルーズ「壊れた甕」 コロー「真珠の女」
16-20140428_141516.jpg ラ・トウール「羊飼いの礼拝」;クリックすると大きな写真になります。 「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」;クリックすると大きな写真になります。
ラ・トウール「いかさま師」 ラ・トウール「羊飼いの礼拝」 ラ・トウール「聖イレネに介抱される聖セバティアヌス」


2014年6月18日

パリ・ロンドン紀行?「ルーブル美術館?」2014年4月28日(月)、30日(水)



  ルーブル美術館は、泊まっていた オペラ座(オペラ・ガルニエ)近くのホテルからオペラ通りを歩いて15分ほど。現地でチケットを買おうとすると1時間は並ばなければならないらしい。途中、通りをちょっと入ったフランス政府観光局まで別行動のYさん夫妻に案内してもらい、28、30日の2日分のチケットを手に入れた。同行の友人Mと合わせて49・5ユーロ。29日の火曜日は残念ながら休館日だ。

 チケットがあると列も別で、手荷物検査もかばんのチャックを開いてちょっと見せるだけ。ガラスのピラミッド地下の入り口にすぐに入場できた。それでも10時過ぎというのに、かなり混雑している。

 まずセーヌ河沿いにあるドウノン翼2階75室「ナポレオンの間」に入った。「あった、あった!」。広間中央左壁に 新古典主義の大家、ダヴィッドが3年かけて描いた 「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」がデーンと飾られていた。

 この絵については、以前にこの ブログでもふれたが、縦6・3メートル、横9・7メートルのほんものの迫力は違う。自らの手で妃・ジョセフイーヌに冠を載せようとしているナポレオン、渋い顔の教皇ピウス7世、白いドレスのナポレオンの妹たち、そして作者・ダヴィッド自身もそっくりに描かれている。

 額縁の下に、主な登場人物の似顔絵が名前入りで書かれているのもおもしろい。

ミロのヴィーナス;クリックすると大きな写真になります。 この絵は、ルーブルでも1,2を争う人気作品だから、とにかく混んでいる。後で見た 「ミロのヴィーナス」像の周囲より混んでいた気がする。

 この部屋にはそのほか、ダヴィッド作,社交界の花形女性 「レカミエ夫人」(ダヴィッドが気に入らず未完の作だが、ルーブル美術館がダヴィッドの遺産のなかから買い上げたらしい)、ローマ共和国への忠誠を描いた 「ホラティウス兄弟の誓い」 「自画像」などの名作が並んでいる。

 新古典主義の絵画というのは様式美に優れている感じで、それまでフランス宮廷絵画を支配してきたという装飾がすぎる ロココ主義の絵画よりずっと分かりやすい。

 豪華な天井画の76室(ドウノン室というらしい)を右折したところが、あの 「モナ・リザ」(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像像)のある7室だ。

 この部屋は、何度も盗難などに会った「モナ・リザ」を守るため2005年に大改修されている。彼女は、特殊な防弾ガラスのケースのなかにいる。内部の木の床のなかには、防弾ガラスのために緑がかって見えるのを防ぐ特殊LED照明(東芝製)や最新の湿度管理システムが収納され、作者・ レオナルド・ダ・ヴィンチが駆使した スフマート(ぼかし技法)を自然光のなかで見られる工夫がされている。

 写真を撮ろうとすると、何重もの観覧者をかきわけて前に出るしかない。特殊ケースを囲む囲いのなかにいる大柄な警備員になにか大声で指さされたので振り返ると、男性が男の子を肩車させてなんとか見せようとしていた。これは「危険行為」ということらしい。

 振り返ると、隣は隔壁のないまま広がる6室。一番奥に、ヴェロネーゼ作の 「カナの婚宴」が飾られていた。

 広い部屋の両端にある77センチ×55センチの小さな「モナ・リザ」と、6・66メートル×9・90メートルというルーブル最大の壁画が見事なバランスを取っている。心憎い空間設計だ。

 「カナの婚宴」は、カナの地で開かれた婚宴で水を葡萄酒に変えるというキリスト最初の奇跡を描いたものだが、ナポレオンが北イタリアに遠征した際、 ヴェネツイアサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂にあったものを奪ってきた作品だ。

 ナポレオン失脚後、いくつかの芸術作品は所有国に返されたが、この作品がフランスに残ったいきさつについてふれた WEBページもなかなか興味深い。

 6室をつなぐ狭い空間を抜けたところが、待ちに待った 「グランド・ギャラリー」ルネサンス期をふくむ13?18世紀のイタリア絵画が、長さ450メートルという長い寄木細工廊下の両側に所せましと並べられ、いっぱいに人々があふれている。

 さて、どう回るか・・・。向かい側の壁に、ダ・ヴィンチの作品群を見つけた。

「岩窟の聖母」は、狭い岩窟のなかで、幼き聖イエスと聖母マリア、聖マリアの母・聖アンナ、これも幼い洗礼者・聖ヨゼフが一緒にいるという聖書ではありえない設定だ。

 隣の 「聖アンナと聖母子」は、聖アンナの膝に聖母マリアが腰かけ、幼き聖イエスを抱き上げようとしている不思議な構図。幼き聖イエスが子羊を抱いているのは、将来の受難をあらわしているというのだが・・・。この2作品とも「モナ・リザ」と同じ、スフマート(ぼかし)技法が使われている。

 そのすぐ左が 「洗礼者ヨハネ」。右手で天を指しているのは分かるが、表情が女性ぽっくちょっと理解しがたい。いささか不可解な作品だ。

 反対の壁面に、ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠の1人といわれる ラファエロの代表作「美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)」があった。慈しみあふれた表情の聖母マリアを中心としたピラミッド型の構図。やわらかな光につつまれた明るい画面はいつまででも見飽きないやさしさにあふれている。

 反対側の壁の柱の陰にかくれるように掲げられている、同じラファエロの男性貴族肖像 「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」。来る前に見たNHKのBS番組 「あなたの知らないルーブル美術館」で「男のヴィーナス、と呼ばれている」と聞いていなかったら、見落としていただろう。
 斜め前に体を向け、顔が正面に向いているからそう呼ばれているようだが、じっとこちらを見る青い眼に引き込まれる。

 同じく来る前に読んだ 「はじめてのルーヴル(集英社)」という本で、著者の中野京子は、この絵のことを「ルーベンスも模写したというこの傑作は、・・・レンブランドを先取りしたような表現だ」と絶賛している。廊下は人であふれているが、この絵の前で立ち止まる観覧者はマーいないから、じっくり鑑賞できる。なんだか得をした気分になる。

 カラヴァッジョ「聖母の死」はどうしても見たいと思っていた。グランド・ギャラリーのなかにあるはずなのにどうしても見つからない。結局、2日目の30日に再度、同ギャラリーを訪ねてやっと対面することができた。

 7年ほど前のイタリア巡礼でイタリア・ローマのいくつかの教会で接した大作に比べると、意外に小さく見える。そして、いささか異様な作品でもある。

 真ん中に横たわる聖母の腹部は膨れ、顔も神々しさからはほど遠い。「娼婦の水死体をモデルにした」といううわさが流れ、祭壇画として発注した教会は引き取りを拒否した、という。

 しかし、カラヴァッジョらしい光と闇のコントラストは健在で、それを評価されたのか、ちゃんと、こうしてルーブルの収蔵品として収まっている。

 この ブログでもなんどかふれたが、カラヴァッジョ大好き人間。またローマへ"カラヴァッジョ巡礼"に出かけたくなった。

ルーブル美術館写真集(1)
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
朝から行列ができるルーブル美術館のピラミッド入口 ダヴィッド「ナポレオンの戴冠」 額縁下にある似顔絵。左端がナポレオン ダヴィッド「レカミエ夫人」 ダヴィッド「ホラティウス兄弟の誓い」
;クリックすると大きな写真になります。 P1040182.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダヴィッド「自画像」 ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」 ヴェロネーゼ「カナの婚宴」 混乱するグランド・ギャラリー(イタリア絵画展示場) ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」 ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」 ラファエロ「美しき女庭師」 ラファエロ「バルダッサレの肖像」 カラヴァッジョ「聖母の死」
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
アルチンボルド「秋」 マンテーニャ「聖セバスティアヌス」 マンテーニャ「磔刑」 ギルランディオ「老人と少年」


2014年6月10日

ロンドン・パリ紀行?「大英博物館?パルテノン・ギャラリー」(2014年5月3日)



  大英博物館1階西端にある幅をたっぷりとった長い空間・18室が、この博物館で最大の観覧者を集めると言われる「パルテノン・ギャラリー」。世界遺産である古代ギリシャのパルテノン神殿を飾っていた大理石(マーブル)の彫刻群が陳列されている。

 大英博物館の正面が、パルテノン神殿に似せて作られているのは、このギャラリーがあるからこそ。この彫刻群をギリシャから持ち出した英国の元・駐ギリシャ大使、 エルギン卿の名前を採って、このコレクションが別名「エルギン・マーブル」と称されている。それが、古代ギリシャ絶頂期の最高傑作がここロンドンにある理由なのだ。

 参観者の多くは、圧倒されたように言葉も少なく両脇壁に飾られた彫刻群を見入っている。まず一番奥まで進み、3段の低い階段を上ってみた。正面台座にあるのは、立体彫刻群。パルテノン神殿正面の東破風(はふ、大屋根の下の三角形をした部分)に飾られていたものだ。

 破風にあったから、左から大屋根を登るように段々と高くなっていく。まず「ディオニュソスと女神たち」。左の男性裸像は、酒神ディオニュソスヘラクレスという。女神たちを乗せた馬車を駈っているように見える。真ん中の空間になっている台座の上には、すでに失われた アテナ女神の像があったらしい。

 さらに右へ低く流れるように3体の「女神たち」。体を包む衣の襞(ひだ)が彫刻とは思えない優美な明暗を生んでいる。

 台座右端にある「セレネの馬」は、大英博物館でも自慢の所蔵品らしい。月の神 セレネを乗せて夜を徹して天を駆けてきた馬の頭部は、口をあえぐように開き、眼と鼻は膨らみ、首をたれて息絶え絶えの表情だ。

 この立体彫刻群は、台座を回って、群像の裏側を見ることができる。高い大屋根の下にある破風の裏まで覗けるはずがないのに、女神たちの衣装のひだ、背中のふくらみまで、2500年前の姿そのままに彫り込まれている。造った工匠たちのこだわりを越えた意気込みを感じる。

 さらに右に進むと「西破風」を構成していた彫像の一部が続く。「女神イリス」は風を受けて空中を舞う姿を表し、横たわる男性像「イリッソス」はアテネ周辺の川を象徴している、という。

 広間中央部の両側には、神殿を支える46本の円柱の上に渡されている梁(はり)の部分に1面づつはめ込まれて半立体の大理石版「メトープ」と、神殿内部の廊下の上を飾っていた浮彫大理石板「フリーズ」の1部が飾られている。

  「メトープ」には、ギリシャ神話に登場する半人半馬「 ケンタウロス」と人間の争いが、「フリーズ」は、古代アテネで4年に1度行われる「 パンアテナイア大祭」の祭礼行列が描かれており、「騎士たちの行列」や「座せる神々」「行列を先導する乙女たち」が次々と登場する。

  このコレクションに関連した本などには、そろって「古代ギリシャが生んだ"人類の至宝"」と書かれている。確かに、そうなのだろうが・・・。

  しかし数度にわたって見るたびに、なんともいえない"殺伐感"を感じてしまうのはなぜだろうか。

  馬を駆っているように見える男性彫像の両手足は途中で切られ、女神の立体彫像には頭部がない。台座にデンと置かれた首から切られた馬の頭部は、神に捧げらた"いけにえ"に見える。
  メトープやフリーズも、大きなノミで無理やり切り取られたようで、不自然な形をしている。

  午後の日本語ツアーの時に、ガイドのSさんはこう説明した。「これらの彫刻群の多くは、ギリシャがオスマントルコに占領されていた際、ヴェネツイア共和国の攻撃で崩落したものです。エルギン卿の関係者は、残っていた一部も切り取って持ち帰ったようですが・・・」

  ただ、旅に出る前に読んだ『パルテノン・スキャンダル 大英博物館の「略奪美術品」』(朽木ゆり子著、新潮選書)のなかには、エルギン卿の秘書が神殿から彫刻を取り外す作業を指揮しているのを目撃した、という英国の考古学者の著書の一部が引用されている。
パルテノン・スキャンダル (新潮選書)
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 最初のギリシャ巡遊で、私はパルテノンから最良の彫刻が強奪される瞬間に立ち合い、そして建築物の一部が落下するのを見るという何ともいえない屈辱を経験することになりました。
 神殿のもっとも南東にあるメトープのいくつかが、外されるのを目撃したのです。メトープはその両側が トリグリュフ(縦に溝がついている束石)と呼ばれている溝(板)にはめ込まれていたので、それを取り外すために、その上に載っている美しい軒蛇腹( コーニスが地上に投げ捨てられました。破風の南東の角の部分も同じ運命をたどりました。そして私が一番最初に見た絵のような美しい気高い姿に代わって、それらは無残な廃墟と化してしまいました。


 アテネの一般住民、それどころかトルコ人ですらこの荒廃を前にその場に居合わせ、この行為が全員に巻き起こした憤りの念を観察、いやそれに参加するチャンスを得ました。作業全体が非常に評判が悪いので、労働者はこのような冒?に力を貸すために普通よりかなり高い労賃を払われる必要がありました。


  高い労賃でしか雇用できなかった労働者が"人類の至宝"を乱暴に扱う様子が目に見えるようだ。

  もちろん、ギリシャは国際世論の力も借りて長年、この彫刻群の返還を求めてきた。
 しかし、著書「パルテノン・スキャンダル」などによると、英国側は国会などの場で「大気汚染のひどいギリシャでは、大理石にダメージを与える」などと反論し、大英博物館の館長自身が「全人類のためには、ギリシャより世界から観覧者が集まる大英博物館に留まるのがふさわしい」と、いささか苦しい言い訳を公表している。

 この間、大英博物館内部でとんでもないスキャンダルが起きていた。

 午前中、友人Mと「パルテノン・ギャラリー」を見た後、近くの小さな小部屋に迷い込んだ。一番奥の壁面に取り付けられたDVD画面で「メトープの一部が青く着色されている」ことを特殊カメラで撮影した映像を繰り返し放映していた。
 長年"白い"と信じられていた大理石彫刻群が、実は「華やかな色で彩られていた」というのだ。

 20世紀半ば、ヨーロッパでは「大理石は白い」というイメージが定着していた。そこで大英博物館のスタッフは、密かに彫刻群の表面を金属たわしと研磨剤でこすり、白いむきだしの状態にするという荒っぽい洗浄作業を行った。
 「彫刻群は、大気汚染のひどいアテネよりロンドンに置くのがふさわしい」ことを"実証"するためにも・・・。

 この小部屋は、大英博物館側が、それらを率直に明らかにし、弁明するための資料コーナらしい。

 ギリシャ区画にある 「ネレイデス・モニュメント」(イオニア式の墓廟の模型)は、記念撮影の人気スポット。いつも各国の参観者で混んでいる。

;クリックすると大きな写真になります。  午後からのガイドツアーで、この墓廟の裏に回ったところ、目立たない場所にそっと立つ乙女の立像を見つけた。「彼女はここにいたのか」

 この像は、パルテノン神殿の奥にある神殿 エレクティオンの張り出し屋根を支えていた6体の女性の柱像( カリアティード)の1つなのだ。

 大英博物館に行きたいと思うきっかけになった本 「パレオマニア 大英博物館からの13の旅」(集英社文庫)のなかで、著者の 池澤夏樹は、彼女のことを「恋人」と呼んで、何度もロンドンまで会いに行っている。
パレオマニア―大英博物館からの13の旅 (集英社文庫)
池澤 夏樹
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 左の膝をわずかに前に出した形で、すっくと立っている。台の上に載っているから見上げる形になるが、背は男とさほど違わない。ああ、変わっていないと男は安心した。
 彼女は実は建物の梁を全身で支えて立っているのだが、そのなにげない挙措からはそれを重荷に思っている風はまったくない。あくまでも普通に立っている。胸は豊かだけれども、肩幅があるので今の時代に理想とされる女たちの身体(からだ)のように一部が奇形的に突出してはいない。いかにも健康そうな力強い乙女(おとめ)。
  顔の細部は(なにしろ二千年以上風雨にさらされていたのだから)失われてしまった。
 が、それでも気品のある顔立ちはまだ見てとることができる。顎の線が美しいと男はいつ見ても思う。


 著者は「道で行き会ったらどぎまぎするだろう」と書いているが、私には「彼女」が必死に悲しみをこらえているように見えた。

 さきほどの著書「パルテノン・スキャンダル」によると、実はこの乙女像もエルギン・グル―プが1803年初頭に切り取って」ロンドンに持ち帰ったのだ。

 現在、アテネのエレクティオンを支えている6体のカリアティードは、すべてレプリカ(模造品)だ。

 持ち去られた1体を除く5体は新しく建設されたアクロポリス博物館に移された。

 しかし、その5体は、天井の低いガラス張りのなかに押し込まれて「辛(つら)そうにみえた」(池澤「パレオマニア」)という。

 2007年に新博物館が建設された際、ギリシャ政府は「新博物館がエルギン・マーブル返還運動の一助となることを望む」という声明を発表した。

 しかし、財政危機でEU諸国の援助でやっと生き延びているギリシャに大英博物館のコレクションを移すべきだという、国際世論の高まりは見られない。

 "人類の至宝"を未来に生かすためには、なにが最善の方法なのか。今の私にはわからない。

大英博物館での写真
;クリックすると大きな写真になります。P1040372.JPG ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
パルテノン・ギャラリー? フリーズ「騎士たちの行列 同? メトープ「半人半馬と人間の争い 同? 西破風の立体彫刻「イリッソス 同? 同「女神イリス」 同? パルテノン・ギャラリーの大広間
;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
同? 東破風の立体彫像 同? 同「女神たち 同? 同「セレネの馬 同? 着色されたメトープのCG 「ネレイデス・モニュメント」(墓廟の模型)


2014年5月22日

 ロンドン・パリ紀行?「大英博物館?・ライオン狩り壁画と大洪水粘土板」2014年4月26日―5月6日



 この5月の連休、若い友人Yさん夫妻に連れられ同行4人でロンドン、パリに出かけた。事前勉強の半分も体験できなかったが、数々の名作や遺産と出会うすばらしい旅となった。

 行った順序は逆になるのだが、大英博物館から始めたい。「大英」とはおおげさな名前だが、正式名称は「British Museum」。日本がかつて自国を「大日本帝国」と尊大に自称していた時期に日英同盟で親しかったこの国を「大英帝国」と呼んだのが、きっかけらしい。

 いつも若者たちがたむろしていたロンドンの繁華街、ピカデリー・サーカスから地下鉄で3駅目の「ホルボーン」駅を降り、比較的細い通りを右に抜けて5分もかからないうちに、古今の文化遺産を集めた世界最大の博物館が見えてきた。ギリシャ・パルテノン神殿に似せた外装は、いささか意図的?に見える。次回にふれてみたい。

 午前中は同行Mと回り、午後からYさん夫妻と合流して一緒に2時間ツアーに参加する予定だったが、それでも1日ではとても全部は回り切れない。事前にテーマを?アッシリアのライオン狩り壁画など古代メソポタニア文明遺産?アテネ・パルテノン神殿の彫刻群、の2つに絞ることにしていた。

 入口を入ると、白い円筒形の図書室を中心にガラス天井に覆われた光あふれるグランド・ギャラリーに出た。2000年に改造された明るい空間だ。 なんと、創館以来入場料は無料なのだが「5ポンド以上のご協力を」と書かれた透明の募金箱なかに各国通貨やコインが見え、簡単な館内地図を積んだ箱にも「1ポンドの寄付を」とあった。

 左にぐるりと回った入口を入ってすぐの「エジプト室」の中央に、ガラスケースに入った同館最大の人気展示物 「ロゼッタ・ストーン」が展示されていた。周りは、2重、3重の参観者。エジプトでフランス軍が発見したが、その後条約によって仏軍を破った英国に所有権が移り、あのナポレオンを地団駄踏んでくやしがらせたという、いわくつきの遺産だ。長年、エジプトからも返還要求が出ていることは、当然のことだろう。

 それをチラリとみて、左に進んだ第6室入り口両側に、4メートルを超える「アッシリアの守護獣神像」が1対デンと据えられていた。頭は人間の顔をした神、身体は翼を持つ牝牛だという。斜め後ろから見ると5本脚。所々に細かいヒビが入っているが、買い取った(英国人)が解体して運んだキズ跡らしい。
   正面に見えるのは「バラワートの門」と呼ばれる青銅帯で補強された杉材の門扉(紀元前9世紀)のレプリカ。

 その隣10室aの両面の壁には「アッシュール・バニパール王の獅子狩り(紀元前7世紀)」をテーマにしたレリーフ(浮き彫り壁画)が次々と掲示されており、長い歴史を越えて生々としたエネルギーで迫ってくる。

 舞台は、長い槍と弓に矢をつないだ兵士の長い2重の列で囲まれた王の狩猟場だ。そこにライオンが放たれ、王自らが戦車で乗り込み、矢を放ち、槍を投げてライオンを仕留める。  戦車に襲いかかったものの、王のナイフと兵士の槍にのど元を突かれ頭を天に向ける雄ライオン。3本の矢を受け瀕死の雄ライオン、その後ろに同じように矢を3本つけたまま必至で雄に1歩でも近づこうともがく雌ライオン。それらの表情はなぜか王や兵士以上に生々しく、ライオンや戦車の馬の筋肉表現がすばらしい。

 ロンドンへの機中で読んだ「シュメル―人類最古の文明」(小林登志子著、中公文庫)には、こう書かれていた。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)
小林 登志子
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 当時、アッシリアにはライオンがいた。ライオン狩りは武人としての訓練、スポーツの要素を持つとともに宗教的儀式だった。ライオンが「魔」を象徴し、その「魔」を仕留めることで王が宇宙の秩序を整えるという意味があったという。


 この本を読むまで気づかなかったが、ライオン狩りをするバニバル王の腰には2本の葦ペンがはさんである。

 アッシリアやシュメール文明を生んだ古代メソポタニア(現在のイラク)を囲むチグリス ユーフラテス川畔には太さ2,3センチもある葦が自生していた、という。

この葦ペンを使って古代メソポタニア人は、世界最古の文字楔形文字を生み、粘土板に様々な記録を書きつけた。

 文武両道の人であったアッシュール・バニパール王は、多くの粘土板記録を集め、 アッシュール・バニパールの図書館と呼ばれる世界最古の図書館まで作ってしまった。

 19世紀にその遺物の一部が発見され、大英博物館は、2002年からイラン・モスル大学と協力し、土に埋もれた粘土板遺産を発掘し、そのほとんど3万点以上が同博物館に所蔵されている、という。

 そのなかでも見逃せない1品「洪水タブレット」があるという、ので2階北側55室に向かった。古代メソポタミアの 「大洪水伝説」を記録したもの、という。

 縦横10数センチの粘土板の表裏にびっしりと楔形文字が横書きされている。古代メソポタミアの文学作品 「ギルガメッシュ叙事詩」第11章の写本である。

 ウトナピシュティムは、神々が洪水を起したときの話をする。エア神の説明により、ウトナピシュティムは船をつくり、自分と自分の家族、船大工、全ての動物を乗船させる。 6日間の嵐の後に人間は粘土になる。ウトナピシュティムの船はニシル山の頂上に着地。 その7日後、ウトナピシュティムは、鳩、ツバメ、カラスを放つ。ウトナピシュティムは船を開け、乗船者を解放した後、神に生け贄を捧げる。エンリル神はウトナピシュティムに永遠の命を与え、ウトナピシュティムは2つの川の合流地点に住む。


 なんと、 旧約聖書に書かれた「ノアの箱舟」の源流は、紀元前3000年近い前に描かれた作品にあったのだ。

 55室の西側にある56室は、シュメール・ ウル期の王墓から発掘された「牡山羊の像」、世界最古の「ゲーム盤」などの逸品が並んでいる。期待していた 「ウルのスタンダード」(旗章と訳されているが、本当は楽器の共鳴板らしい)という小さなモザイクの箱は「テンンポラリー リムーブド」(一時的に移動しました)という表示と一緒に、両面を写真で映した紙製の模型だけが展示されていた。修復のためらしい。

 これらの遺産が発掘された王墓は、シュメール文明では 「ジッグラト」と呼ばれるらしい。焼き煉瓦で天に伸びる何層もの階段状の塔を築き、その上部に神殿を設けてシュメールの神をまつった、という。

 まさに、旧約聖書に書かれている「バベルの塔」のルーツとしか思えない。

 その遺跡の多くが、 今回のイラク戦争で破壊された、と聞く。「多くは、アメリカ軍の行為」と、あるWEBページは批判する。

午後の館内ツアーの最後ごろ。ツアーガイドのSさんが2階のエジプト室を出た時に、こんなことをつぶやいた。

 「旧約聖書にある 出エジプト記で、モーゼが海を切り開いたという奇跡。これは、地中海の サントリニ島の火山爆発による事実、という説もあるのです」

長い年月をかけて語り、書き続けられてきたのであろう旧約聖書。それを生んだ土壌、記述のルーツをこの大英博物館で垣間見ることなど、大英博物館来るまで想像もしていなかった。

新約聖書の神と比べ、あまりに人に厳しい旧約の神が、少し身近に感じられるような気がしてきた。

 午後5:30の閉館直前に、地下のセルフサービスのカフェテリアにはいった。紅茶と一緒に、スコーン クロテッドクリームとイチゴジャムをたっぷりつけて食べた。「まずい」と評判のイギリスの"おいしい"味だった。

写真集:ロンドン大英博物館など

開館直後の大英博物館;クリックすると大きな写真になります。 グランド・ギャラリーのショップ付近;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアの守護獣神像;クリックすると大きな写真になります。 P1040351.JPG
開館直後の大英博物館 グランド・ギャラリーのショップ付近 アッシリアの守護獣神像 アッシリアノライオン狩りレリーフ?
アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 アッシリアノライオン狩りレリーフ;クリックすると大きな写真になります。 王墓で発掘された「牝山羊の像;クリックすると大きな写真になります。
アッシリアノライオン狩りレリーフ? アッシリアノライオン狩りレリーフ? アッシリアノライオン狩りレリーフ? アッシリアノライオン狩りレリーフ?
王墓で見つかった「牡山羊の像」;クリックすると大きな写真になります。 「ウルのスタンダード」の模型;クリックすると大きな写真になります。 世界最古のゲーム盤;クリックすると大きな写真になります。 元・図書館のグランド・コート;クリックすると大きな写真になります。
王墓で見つかった「牡山羊の像」 「ウルのスタンダード」の模型 世界最古のゲーム盤 元・図書館のグランド・コート。「ロゼッタ・ストーン」のレプリカがあり、手でさわれる


2014年3月20日

読書日記「渡りの足跡」(梨木果歩著、新潮文庫)、「鳥たちの旅 渡り鳥の衛星追跡」(樋口広芳著、NHKブックス


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 先月の始め、引っ越してきた伊丹の家の近くにある昆陽池に渡り鳥を見に出かけた。このブログの管理者で野鳥観察が趣味のn-shuheiさんに誘われたのだ。

 その後、伊丹図書館南分館で、梨木果歩の「渡りの足跡」が文庫本になっているのを見つけた。n-shuheiさんがこの本のことを自分のブログに書いていたのを思い出して借りてしまった。

 著者の本にはなぜか引かれ、このブログでも何度か触れているが、この本だけは読んでいなかった。

 著者はいくつかの著書の"主役"の1つである植物だけでなく、渡り鳥についても玄人はだしの観察者らしい。この本は、北海道や新潟、信州、諏訪湖、さらにシベリア・カムチャッカにいたる渡り鳥"追っかけ"ルポだった。

 最初のオオワシを訪ねて知床にでかける章で、 「ワタリガラス」の名前を見つけてエッ!と思った。

 つい数日前に読んだ 池澤夏樹のパレオマニア」という本でこんな記述を見つけたばかりだったからだ。

   
 大英博物館でいちばん大きい収蔵物、・・・高さ十一メートルのトーテムポール。カナダ先住民族が残した巨大な米杉の柱の下部に・・・「神話的な動物、海の熊、あるいは嘴を折られたワタリガラス」を・・・見ることができる。


 池澤は「カナダ太平洋岸の先住民の神話では、ワタリガラスは創造主である」と書いているが、梨木も「ワタリガラスは、北米先住民族たちの創世神話でよく英雄として登場する、神秘的なカラスだ」と、まだ学生だったころにいた英国で、ワタリガラスの不思議な話しを聞いたことを思い出している。

 WEB上でも、そんな神話の数々をいくつも見つけることができる。

 それだけに梨木は「くぽおうん、くぽおうん」と優しい声で鳴くワタリガラスが、この日本にも"ワタッて"きていることが「にわかに信じがたかった」のだ。

 パレオ(ギリシャ語で古代の意)の昔から、渡り鳥と人との間で紡ぎだされてきた不思議なかかわりあいを知り、興味が深まった。

 一方で梨木は、渡り鳥が現在の自然破壊に巻き込まれている厳しい現実を知り「世界は一つであり、繋がっているのだという紛れもない事実に圧倒されそうになる。」

 
 日本に冬鳥として渡ってくる鳥たちの多くは、シベリア、カムチャッカ、サハリン、或いはアムール川流域等を繁殖地として使っている。アムール川ではソビエト連邦崩壊後、環境汚染が年々進んでおり、年間百五十億トンのエ場排水が垂れ流しにされている。その結果鱗(うろこ)がない等の奇形の魚が多く、アムール川の魚は食べないように言われている・・・。河口は広々とした湿原で、水鳥の格好の繁殖地だ。その魚を食べるな、その水を飲むなと、どうして鳥に知らせたらいいのか。また、鳥の多くは東南アジアの雷雨林で越冬していると見られるが、ここ数十年程の森林面積のすさまじい減少が、あるいは使用されている農薬が、最近夏山で彼らの嘲りが聞こえなくなった原因ではないかと言っている学者もいる。


 しかし、渡り鳥にとって取れる対策は皆無、といというのが厳しい現実だ。

 
 渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と問わりながら自分の進路を切り拓いていく、旅の物語の集合体である。その環境が自分の以前見知っていたものと違っていたとしても、飲むべき水も憩うべき森も草原もなくなっていたとしても、次に取 るべき行動は(引き返すという選択も含めて)最善の方向を目指すため、今出来るこ とを(とにかく何らかの手段でエネ?ギー補給をする、等)ただ実行してゆくことだ けで、鳥に嘆いている暇などはない。


 この本の中盤で、渡り鳥観察者の醍醐味と言ってよい表現が出てくる。

   
 車からスコープ一式を運んでくる。昨日教えてもらった通りに三脚を立て、スコープを雲台にはめ込み、固定する。それから倍率を合わせる。合ったけれども、そしてどうもなにか大きな鳥(近くにカラスと思しき鳥が数羽いるのでその大きさから比して)らしいのだけれど、ぼんやりして見えない。しばらくあれこれして、ああ、そうだ。ピントはここで合わせるんだった、と、カバーの陰で見えにくくなっていたピント合わせのダイヤルのカバーを外し、動かす。次の瞬間、黄色い囁(くちばし)、黒い体に白いマフラーをかけたような肩線、それからまっすぐこちらを見つめている鋭い視線がレンズにくつきりと入る。目が合って、思わず息を呑む。まちがいない。
 オオワシだ。


 ただ、著者は専門家ではないので、渡り鳥の"渡り"の生態については、表題の2冊目にある「鳥たちの旅」 を何度か引用している。この本は図書館になく、AMAZONで買ってしまった。

著者は、人工衛星を用い、発信器を着けた渡り鳥の移動ルートを解明した研究者だ。

 「渡り鳥はなぜ渡るのか」という素朴な疑問に樋口は、こう答える。

 鳥が渡るのは、食物を十分に確保するためである。たとえば、ツバメは飛びながら空中にいる昆虫を捕って食べる。しかし、日本のような温帯地域では、秋から冬にかけて昆虫は姿を消してしまう。そこでツバメは、冬でもそれらが得られる暖かい南方の地域まで渡っていくのである。同様に、ガンやハクチョウが秋、日本に渡ってくるのは、繁殖地のシベリアが冬には雪と氷に閉ざされ、食物が得られなくなるからである。


それでは「なぜ渡り鳥は、春、越冬地から北に向かって戻っていくの ろうか? 冬の聞くらせる場所であるならば、それ以外の季節だって生活できるはず」だ。

 
 これらの鳥が北に向けて旅立つのは、春から夏にかけては北方に、春から夏にかけて北方に食物になる動物がより多く発生するからである。・・・
 また、北方地域からは冬の問、多くの鳥がいなくなっている。春にそこに行けば、越冬地に残っているよりも、個体あたりにより多くの食物を確保することができる。しかも、この春から夏にかけては、鳥たちにとって繁殖時期であり、多くの子供を育て上げるのに豊富な食物を必要としている。
 したがって、危険をおかしてでも北方まで行けば、自分自身が生活しやすいだけでなく、より確実に子育てを行なうことができるのである。


 最大の疑問点。渡り鳥は「渡る先をどうやって知るのか」だ。

 
 昼間渡る鳥たちは、太陽の位置を体内時計で補正しながら渡っているらしい。・・・夜間には星座を利用する。・・・地磁気も渡る方向を定める重要な手がかりにしているらしい。・・・鳥たちによっては、地形や季節風、日没の位置、においなども定位に利用しているようだ。・・・鳥たちは「かなりすぐれた地図情報をもっているに違いない。


 樋口は、エピローグでこう警告する。

 一つの渡来地の破壊にともなう渡り鳥の減少は、遠く離れた別の渡来地の生態系の破壊をもたらす吋能性がある。たとえば、東南アジアの熱帯雨林の破壊は、そこで越冬し日本に渡ってくる夏鳥(夏に飛来する渡り鳥)の減少を通じて、日本の里山や森林の生態系のバランスを崩す可能牲がある。一方、日本の干潟の破壊は、そこを通過する多数のシギ・チドリ類の消滅を通じて、フィリピンやオーストラリア、あるいはロシアの湿地生態系をおびやかすことになるかもしれない。
 異なる地域、国の自然は互いに独立しているように見えるが、実際には渡り鳥によってつながっている。渡り鳥の保全は、単に対象となる鳥の保全にとどまらず、遠く離れたいくつもの生態系の保仝を意味し、ひいては地球環境全体の保全にもつながっているのである。


 梨木と樋口の思いは、世界中の自然を愛する人々と共通する思いである。

2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


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 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。

2014年2月27日

読書日記「オレがマリオ」(俵万智著、文藝春秋刊)


オレがマリオ
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 「サラダ記念日」で衝撃的なデビューをした著者の第5歌集。世間の評判におされて、つい図書館で借りてしまった。

 2011年3月11日14時46分、著者は出張で東京の新聞社の会議室にいた。夕刊締め切り直後の新聞社のけん騒から、この歌集は始まる。

 「震度7!」「号外出ます!」新聞社あらがいがたく活気づくなり


 40歳で我が子を産んだシングルマザーの著者は、4日後に両親と息子のいる仙台に帰り着く。そして余震と原発事故が落ち着くまでと7歳の息子を連れ西に向かう。

 
 ゆきずりの人に貰いしゆでたまご子よ忘れるなそのゆでたまご


 
 子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え


 
 空腹を訴える子と手をつなぐ百円あれどおにぎりあらず


 友人を頼って落ち着いたのは、沖縄・石垣島。豊かな自然のなかで、息子はすこやかに育っていく。

 
 「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ


 
 子は眠る カンムリワシを見たことを今日一日の勲章として


 
 ぷふぷふと頬ふくらます子に聞けば釣られて焦るフグのものまね


 
 縁側に並んでスイカを食べているぷぷぷぷぷっと我が子島の子


 
 「ケンカしちゃダメ」と言いつつおさな子は蝶の交尾をほぐしておりぬ


 「ただいま」を言え言えと言われれば「ただいません」と返すおさなご


 息子の成長をつぶやいている著者自身の ツイッターを記録したWEBも見つけた。

 つかの間のつもりが、この島の豊かな自然に引かれた。2人はいまだにこの島に住み続けている。

 
 ストローがざくざく落ちてくるようだ島を濡らしてゆく通り雨


 
 潮満ちて終了となるモズク採りすなわちこれを潮時という


 
 人の子を呼び捨てにして可愛がる島の緑に注ぐスコール


 
 オヒルギの花ぼとぼと落ちる午後 無言の川をカヤックで行く


 「子どもの歌は、刺身で出せる。・・・恋の歌は、じっくり寝かせ、ソースやスパイス、盛りつけや器にも心を砕かねば・・・」。発行社・ 文藝春秋のWEBページで、著者自身が 動画で語っている。

 
 湯上りのビールのように抱きあえり女男(めを)なれば他にありようもなく


 
 石鹸の香りを選ぶひとときに思い浮かべている人のある


 
 こんな笑顔持っていたのか子は君に追いかけられて抱きあげられて


 いのちとは心が感じるものだからいつでも会えるあなたに会える


2014年2月18日

読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)


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 月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。

 表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。

 名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。

 象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。

 著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。

 本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。


 最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。

 この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。

 しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。

 バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。

 ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニ ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。

 ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。

 第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。

 一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。

 ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。

 
 (ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。


 この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。  しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。

 いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。


 歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。

  この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。

 教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。

 ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」

  ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」

 ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」

 1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。

 1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。

 1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。

 新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。

 ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。

 1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。

 歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。

 中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。

 ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。

クラコフの宿舎2階に飾られているヨハネ・パウロ2世の写真P1080354.JPG


2014年1月20日

読書日記「ナツエラツトの男」(山浦玄嗣著、ぷねうま舎刊)、「『ユダ福音書』の謎を解く」(エレーヌ・ペイゲルス、カレン・L・キング著、山形孝夫、新免貢訳、河出書房新社刊)、 「駆け込み訴え」(太宰治作、岩波文庫)

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(2012-09-27)

  「ナツエラツトの男」(2013年7月刊)を読んだのは昨年の秋。どうも気になる本で、長い間書斎机の上に置かれたままになっていた。

  著者は、このブログでもふれたことがある 「イエスの言葉 ケセン語訳」などを書いた岩手県大船渡市在住の医師。

  独学でギリシャ語を学び新約聖書4福音書の新訳 「ガリラヤのイエシュ」を世に出した著者が書いた新著のテーマはなにかと思ったら、なんとイエス・キリストと12使徒をめぐる物語。「ナツエラツト」は、イエスが育った 「ナザレ」のヘブライ語だった。

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 その時代にふさわしく、イエスと12使徒がいささか誇張して荒くれだった人たちに描かれているが、驚いたのは12使徒の1人だった ユダについての記述。新約聖書などで書かれている銀貨30枚でイエスを祭司長らに売った裏切り者とはまったく違う姿で登場してくることだ。

 ユダは、粗野な他の弟子たちとは一味違って礼節と教養があり、寄進を受けたお金や物品の管理をイエスからまかされる抜きんでた存在だった。こみいった話になると、イエスはケフア(ペトロ)などには目もくれず、小声で何事かを言いつけていた。

 ペトロたち、他の弟子はそれが気に入らない。なにかと、ユダにけんかを売ることも多かった。

 福音4書にでてくるあの有名な最後の晩餐のシーンは、ユダの独白で綴られる。

  
 師匠(イエス)はふと真顔になって、誰に言うこともなく、ぼそりとつぶやいた。
  「しっかと言っておく。お前たちのうちの誰かがおれを引き渡すことになる」
  われわれは思わず息を呑んだ。・・・
  ヨハンナ(ヨハネ)は・・・イエッシュさまに尋ねた。「師匠、それは誰のことなんですか?」
  イエシュさまはかすかに苦笑いして言った。
  「ああ、おれがこのパンを皿鉢の汁に浸して渡すのがそれだな」・・・


 
 イエッシュさまがわたしにパンを渡し、わたしが軽く押しいただいて嬉しく口にする。するとイエッシュさまが小声で言う。
  「ユダ、やらなければならないことをすませてくれ」
 師匠は特にそれ以外は言わなかったが、わたしにはその内容がよくわかっていた。
  「わかりました」
  わたしはニッコリ笑って会釈し、そのまま席を立って外に出た。


 ユダは、イエルウシャライム(エルサレム)でも指折りの大商人の軒先で家令からズシリと重い財布と食糧の入った大きな袋の寄進を受け取った。その後、穢れ谷に行き、隠れ住む腐れ病( ハンセン病?)の人たちに食糧を「イエッシュさまからの贈り物」だと渡した。

 イエッシュと弟子たちのところを帰り、イエッシュの耳元に「万事、お言いつけの通りにしました」と、小声でささやいた。

 そこへ大勢の武装兵と大祭司の手の者が現れた。「裏切ったな、ユダ」。ペトロが鬼のような形相で叫んだ。イエスは捕えられ、弟子たちはてんでに逃げた。

 翌日の夜。1軒のあばら家に弟子たちが集まっていた。「悪いのはユダだ。あいつが裏切ったんだ」「野郎がやってきたちょうどそのとき、大祭司の手下がきた。あまりにでき過ぎている。あいつが手引きしたんだ」・・・。ユダは、その家の壊れかけている窓の板戸に向けて、銀貨30枚が入った財布を投げつけた。そして、姿を消した。

 14年後、ユダはすっかり白髪になっていた。ずっと穢れ谷に住み、腐れ病の人たちの世話をして暮らしてきた。
 ある時、最後まで神さまの悪口を言い続けていた1人の老人が死ぬ間際、ユダに一言「ありがとう」と言った。その老人の顔が不意にイエスの顔になったのを思い出ていた。

 4福音書の新約「ガリラヤのイエシュ」では、ユダの裏切りを正確に翻訳した山浦医師が、まったく違ったユダ像を描いた意図はなになのか。

 さきに、このブログでふれた 「最後の晩餐の真実」で明らかにされたように、キリストの磔刑が神の啓示による歴史的事実とすれば、ユダの裏切りという行為は、はたして必要だったのか。

 そんな疑問が消えなかった折。朝日新聞の読書欄(1月12日付け)で『ユダ福音書』の謎を解く」(2013年10月刊)という本が紹介されていた。伊丹市立図書館ですぐに借りることができた。

  「ユダ福音書」はユダの死後訳100年後に書かれたが、初期キリスト教会から異端の書として排斥された。1978年に偶然、エジプトの洞窟の中から写本が発見され、長い曲折を経て、2006年に非常に傷んでいた写本の復元がなんとか完成し、 「原典 ユダの福音書」(ロドルフ・カッセルら編、日経ナショナル・グラフイイク社刊)という名で発刊された。

原典 ユダの福音書
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  「『ユダ福音書』の謎を解く」は、米国の宗教研究者でプリンストン大学教授のエレーヌ・ペイゲルスとハーヴァード大学教授のカレン・L・キングが「ユダ福音書」に書かれた内容からユダの実像に迫る第一部「ユダを読む」と、カレン・L・キングが新たに訳したらしい 「ユダ福音書」と長い注釈から成る第二部「ユダ福音書」で構成されており、複雑かつ難解な内容だ。

  第一、第二部からユダに関する記述を拾っていくことが精いっぱいだった。

 
 イエスはユダを選んだ。そして「ほかの者から離れなさい。そうすれば、お前に王国がどこにあるか、その秘密を話そう。・・・だが、あなたは悲しみにくれる者になるでしょう」(『ユダ福音書2章25?28節』)と告げた。それを聞いて、ユダは、・・・不吉な夢についてイエスに語った。「私は幻のなかであの12人(11人?)の弟子が私に石を投げつけ、[私を激しく]虐げるのをみたのです」(同9章6?8節)と。ユダの夢は、仲間の弟子たちがやがて彼に向ける憎悪と罵りの警告であったから、・・・


 
 新約聖書のすべての福音書がユダの裏切りを神の意志であったとみなしているということがひとたびわかりさえすれば、『ユダ福音書』が述べているようにユダがイエスの指示にしたがってイエスを引き渡したと考えることはそれほど奇妙ではないように思われる。


  
 『ユダ福音書』の終末は、惨めすぎる不幸でもって終わっているように見える。イエスは裏切られ、ユダは仲間の弟子たちから投石され、殺害される。だが、・・・すでに両者の救いは成就されている。イエスの犠牲は、わたしたちの中に根本的な霊性本性を認める限り、死自体の終結を知らせている。ユダは上方へ目を凝らし、輝かしい雲のなかへと入って行きつつ、イエスに倣う者たちの、まさにその初穂になる。


    太宰治 「駆け込み訴え」は、WEBでユダのことを検索していて知り、「富嶽百景」などと一緒に載っている文庫本をAMAZONで買った。
   青空文庫」でも無料で読めた。

  ここで登場するユダは、イエスを誰よりも愛し、かつ憎悪する非常に人間的人物として描かれる。

 
 申し上げます。申し上げます。だんなさま。あの人(イエス)はひどい。ひどい。はい。いやなやつです。悪い人です。ああ。がまんならない。生かしておけねえ。


 
 私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき従ってきたのに、・・・あの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。


 
 金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。




2014年1月 8日

読書日記「冬虫夏草」(梨木果歩著、新潮社刊)

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 この年末、年始を読書三昧で暮らそうと、昨年末にかなりの本を買い込んだり、図書館で借りたりした。しかし、そのほとんどは本棚に収まったり、図書館に返されたりして、読み終えたのはほんの数冊。表題書はその1冊だ。

 自分のブログを検索してみたら、梨木果歩の著書、訳書のことを書くのは,今回でなんと6冊目。たぶん同じ著者では最多だろう。児童書、ファンタジーに分類されることが多い著書に、前期高齢者のじじいが飛びつくのもいかなるものかという気がしないでもないが、この人の名前を見ると読みたくなるのだからいかんともしがたい。

 表題書は、2004年に発売されて2005年の本屋大賞3位に入った家守綺譚 (新潮文庫)の続編。

 各章に木々や草花の名前がつけられているという構成も、綿貫征四郎という物書きが、行方不明になった友人・高堂の父親に頼まれた庭付き、池付きの一軒家に住み、自然界の「気」と交流するという筋書きも、約100年前の話しだという時代設定も引き継がれている。

 読んでいて、なんとなくホッとするのは、本のあちこちに出てくる植物についての記述だ。出てくる草花のほとんどを自宅に植えているという著者の真骨頂だろう。

 
 まだ赤茶が障った、芽吹いたばかりのの新芽が、午前の陽の光につやつやと光っている。
 思わず摘みとって口に入れたくなる。だがそう思うだけで摘みとりもしないし、口に入れもしない。入れたら苦いだろう。その苦さがいやだというのではない。春の雅趣があるだろう。が、察するだけで、今は充分だ。


 
 翌朝は打って変わって、雲一つ無い晴天。庭に出ると、ぽつぽつと、あちこちに薄青の、雨の名残のような滴が残っている、と見れば、それは露草であった。
 露草が湖面のような垂日をたたえて、いっせいに花開いた、今年最初の朝であった。 昨日の雨はこの青を連れてきたのかと合点する。


 
 帰りは久しぶりに吉田山を越えた。頂上近く、稲荷社に向かう参道には、列なす鳥居の足下に、延延と彼岸花が咲いていた。それが風に揺れるさまは、まるで松明の焔が揺らぐよう、道行きの覚悟を迫りながら辺りを照らしているかのようだった。しかしそれはあの気味の悪い稲荷社へ行く者へ迫る覚悟だろう。


 
 ――あの花は、なんというのですか。
 薄茶の繊細な造りの花が、まるで野辺のタンポポのように辺りに群生をつくっていた。
 ――あれは マツムシソウです。私の一番好きな花。西洋の天国の夢のようでしょう。それからあの雲。あの雲は、まるで大礼の烏帽子を被った神官のよう。


 表題の「冬虫夏草」については、訪ねて来た大学時代の友人で、菌類の研究者である南川が説明してくれる。

 
 ――サナギタケとは何だい。
 ――冬虫夏草だよ。漢方では珍重されている薬になる。だが、漢方で使う本物は支那の奥に棲みついているコウモリガの蛹の変化した物だ。こんなところで出るのは別種のやつだ。
 それがこの辺りで異常なくらいに大発生しているのだ。それも、冬虫夏草には違いないがね。


 死んだはずの高堂も時々、前著と同じように床の間の掛け軸の向こうからやって来る。

 
 ――おどかすな。来たら声をかけろ。・・・
 ――秋も老いた。 と(高堂は)呟いた。秋がオータムの秋であることを了解するのに暫し時間を要した。
 ――秋も老いるかね。秋が老いたら、冬ということではないか。
 ――いや、まだ冬ではない。秋が疲れているのだ。家の垣根の隅で、野菊の弱弱しく打ちしおれているのに気づいていないか。


 自然の「気」にもしばしば出会う。

  
 夜半、ふと水音のした気がして目が覚めた。
 起きて勝手へ行くと、だいぶ傾いた月の明かりが吹き抜けの高い窓から差していて、流しに置いたままにしていた木地皿を照らしていた。よく見ると、皿の真ん中が波紋のように揺らいでいる。目をこすってさらによく見ると、そこから小さな魚がちゃぼんと跳ね、再び皿のなかに吸い込まれて消えた。消えた後はいつもの皿に戻っている。・・・
 「水の道があるのだ」
 南川が云った言葉を思い出した。


 行方不明になった飼い犬のゴローを見つけに鈴鹿の山中に分け入り、河童の少年や風に乗って飛ぶ天狗に出合い、イワナの夫婦がやっている安宿に泊まり、いくつもの不思議な体験をする。

 イワナの夫婦は急に立ち去ることになり、宿屋は河童の少年とふもとの宿屋で仲居をしている母親の河童と一緒に山に行ったまま帰らない父親を待つことになる。

 さらに山深く分け入り、竜神の滝という壮大な瀑布に見入る。
 高堂はこの滝に消え、ゴローは高堂を助けてなにかの役目をはたしていたらしい。  向こう側の斜面に動くものを見つける。

 
 大声で、ゴローと叫ぶ。・・・斜面を駆け下り、渕に飛び込んで走って来る。・・・
 来い。
 来い、ゴロー。
 家へ、帰るぞ。


 (おわり)

 (追記)

   2008年に著者の本 「西の魔女が死んだ」のことを書いたブログでふれた「家守綺譚の植物アルバム」のURLが変わっていた。
 相変わらず、すばらしい木々や草花の写真集だ。近いうちに「冬虫夏草の植物アルバム」もUPされることを期待したい。

2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

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  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2013年12月 3日

読書日記「土と生きる 循環農場から」(小泉秀政著、岩波新書)

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 半年前ほどから、長野県小川村から有機野菜のダンボールの小さな箱が2週に一度届くようになった。おかげで独居老人の食生活が大きく変わりつつある。

 これまでは、冬は鍋物、夏は炒め物などでごまかしていたのだが、最近はカブの甘酢漬け、ニンジン、ジャガイモ、サラダ菜と軽く炒めたベーコンのサラダ、カボチャと鶏肉のクリームスープ、大根と厚揚げ、ゴボ天の炊き合わせ。冬瓜は大きく切りすぎて豚肉との炒め物はちょっと失敗。先週届いたビーツには、ウーン!どう向かい会うか・・・。

 届けてくれるのは、いとこの娘さん夫婦。なんと、ご主人は大手建設会社をあっさり辞めてしまい、3人の子供を含め家族で数年前に信州に移住してしまったのだ。
 いとこによると「かっこいいシティボーイだったが、すっかり農家の主人らしい顔になってきた」

 1948年生まれの著者は、成田国際空港建設反対運動に参加したのをきっかけに千葉県成田市三里塚に移住、地元農婦の養子になった。「循環農場」と称する里山の落ち葉などを使った微生物農法で有機野菜を消費者に産地直送する「ワンパック(セット詰め)」販売のさきがけとなって30年になる。

 ダイオキシン、ゴミは出したくないと、ビニールハウスやトンネル、ポロマルチを使わなくなって10年にはなる。

 苗床は、落ち葉に水をかけながら踏み込んでいき、その発酵熱を利用する。ある日、落ち葉の上にかぶせた古い毛布をめくってみると、ミミズたちがニョロリと顔を出し、落ち葉はミミズたちに分解されてボロボロ状態のいい堆肥になっていた。

 
「これは大発見! ミミズが山からやって来た」


 茅ぶき屋根の建物が解体される聞き、大型トラックに山盛り7台分ほどの茅を運んでもらったことがある。

 近所の農家の人には「堆肥になるには3年はかかるぞ」と言われたが、出荷の度に出るネギや里芋のひげ根、葉物の枯れっ葉などの野菜くずをコンテナ3杯ほど茅の上に乗せていたら、1年もかからずに茅の堆肥ができた。
 ほかにも、三軒分の茅屋根からでた茅が大きな堆肥の山となっており「ポカポカと湯気をだし、循環農場の未来を温めてくれている」

 猛暑の夏の時期、近所の畑ではスプリンクラーがフル回転し、軽トラックで水が運ばれる。しかし、著者は野菜の生命力を信じ、水を与えない農業を続けてきた。

 照り続ける太陽に、サニーレタスは外葉から枯れていき、モロヘイヤの苗も力なくうなだれていた。
 不安な日々が何日も続いた後、わずかに残ったサニーレタスの中心の葉に赤味がよみがえった。

「地中にある命の水をつかみとったという知らせだった」


モロヘイヤの苗も息を吹き返してきた。植えた時と大きさは変わらないが、強じんな姿をしている。

 
「野菜は強い、すごい、どこにそんな力を秘めているのだろうか。・・・ありがとう野菜たち」


 10数年も耕作していない畑を借りることにした。農薬の残留がない安全な土地で、特に化学物質過敏症のユーザーのための畑に適していると思ったのだ。
 できた葉物や里芋を、化学物質過敏症の人に送った。その人は、届いた箱をあけるなり、入っていた小松菜にかじりついたという。「これは無肥料畑で育ったのです」というメモは食べた後で見た、という便りが届いた。

「メモより何よりも、その小松菜が化学物質過敏症の方に飛びついていったのだ」


ある本から学び、トラクターの耕運を控えることにした。重量のあるトラクターを畑に入れる事によって、畑は踏み固められ、更に煩雑に土をかき混ぜることによって、土の中の世界を壊してしまうことになる。トラクターの使用を最低限に抑え、それに代わるものとして、軽量の管理機の活用、さらに除草の道具の開発が目標になった。次に、落ち葉、あるいは落ち葉堆肥で、土の表面を覆うことだ。地表を裸にしない事によって、土壌に生きる土壌生物、微生物、菌類達は活発に働くことが出来る。・・・米ぬか発酵肥料の量を少な目にし、落ち葉堆肥主体の栽培に持っていく。

そんな畑を実現させようとした矢先、福島の原子力発電所の大事故が起きた。

「ここから地続きの場所で起こっている痛ましい惨状、目に見えない放射能物質に対する恐れと不安。・・・野菜を会員の人々にいいものかどうか、迷う日々が続いた」


菜っ葉やキャベツなどの検査では、検出限界5ベクトル/kgで不検出だったが、東北から関東一帯、汚染されていることは事実で、安心、安全という言葉は使えなくなった。

妊娠されている人や育児中の人々など、会員をやめざるをえない人々が続出した。

「電話の向こうで涙を流される若いお母さんもいて、何もできなかったことを申し訳なく思った」


 原発事故以前に集めた落ち葉堆肥の山が、間もなく使い終わる。

 秋から春にかけての、野菜の出来が思わしくない。・・・踏み床温床用に集めた落ち葉を、ある程度腐熟させてから測定してみたら、330ベクトル/kgだった。国の指針では堆肥として使用できる範囲内の数値ではあるが、まだ使用しようという気にならない。

「被災地の方々が語る『一歩ずつ』という言葉が、とても身にしみる冬だった。失ったものは多いけれど、ここから一歩ずつ、気のついたことを一つずつ進めていくしかない。この夏、その続きの秋、冬を目ざして」


2013年11月10日

「最後の晩餐の真実」(コリン・J・ハンフリーズ著、黒川由美訳、太田出版刊)


最後の晩餐の真実 (ヒストリカル・スタディーズ)
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 昨年の新書大賞を取った「ふしぎなキリスト教」の対談者の1人である大澤真幸が「 最後の晩餐の真実」巻末の解題で、こう書いている。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
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本書は、最高の探偵小説である


 新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの4福音書に記されたイエスの最期の週の出来事には、いくつもの食い違いがあるのは、長い間、聖書学者の間で論議を呼んできたらしい。まして、私のような"エセ"信者には理解を超える範ちゅうの話しでしかなかった。

 著者によると、オクスフォード大学のリチャード・ドーキンス元教授は、著書「神は妄想である」のなかで「福音書は太古のフイクションである」とまで断定している、という。

 そこで、聖書学者であると同時に半導体研究などの科学者である著者は、コンピューターを駆使し、過去の暦の歴史、古代エジプトや バビロニアの文献までひも解いて「磔刑や最後の晩餐に関する四福音書の記述が本当の意味では矛盾せず、一貫している」と証明してしまったのがこの本。

 著者は、解明されるべき謎を4つに分類する。

  1. 金曜の磔刑の前々日である水曜日について、4福音書の記述がなにもないのはなぜなのか。この水曜日にイエスは何をしていたのか。

  2. マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、最後の晩餐が 過越の食事だとはっきり書かれているのに、ヨハネ書には、過越の食事の前に行われたと明言している。なぜなのか。

  3. イエスの裁判を含め、イエスの逮捕から磔刑までに起きたと福音書に記されている出来事がすべて実際にあったとみなすには、時間が足りないのではないか。

  4. 木曜の日没後に催された最後の晩餐から翌朝9時ごろの磔刑までに行われた出来事がすべて事実とすれば、イエスの裁判は夜に執り行われることになる。しかし、死刑執行に関するユダヤの律法では、夜に裁判を行うことは禁じられている。イエスの裁判がユダヤ教の法的手続きを明らかに無視して行われた理由が不明だ。

 この4つの謎解きのための各章の最後に簡単「まとめ」が書かれてあり、私のようなせっかち、素人人間にはありがたい。

イエスが西暦三三年四月三日、金曜日の午後三時に死去したことは、磔刑の日付に関するすべての証拠によって裏付けられた。この日は 〈ユダヤ暦〉では二サン十四日」(二サンはユダヤ暦の第一の月で、現在の暦の三月から四月に当たる)


磔刑の日からおよそ七週間後、五旬祭の日の演説でペテロは、・・・(イエスが昇天した時)『太陽が暗くなり、月が血のように赤くなった』(新約聖書・ 使徒言行録2章)と述べた。・・・(太陽が暗くなった)現象はおそらく、 ハムシンと呼ばれる砂嵐によって起きたのだろう。・・・『月が血のように赤くなった』というのは月食の様子を表現したもの。・・・天文学的計算の結果、西暦三三年四月三日の金曜日にエルサレムで月食が見えたことが明らかになった。磔刑の日は、二つの別個に独立した手法で導き出された


共観福音書 (マタイ、マルコ、ルカ伝)では、一日が日の出とともに始まる〈捕囚前の暦〉(バビロンの捕囚以前の古代イスラエルで使われていた太陰暦)に従っているので、最後の晩餐が過越の食事とされている。それに対してヨハネ書では、一日が日没後に始まる〈公式のユダヤ暦〉が使われ、最後の晩餐もイエスの裁判も磔刑も、すべて公式の過越の食事が行われる前に起きたことが記述される


 つまり、最初に著者があげた四つの謎の二つ目。4福音書の記述の違いは、用いた暦の違いであることが分かったのだ。

 この春、 「イスタンブル」に旅行した際、とっくに終わっているはずの 復活祭前日の祝いがギリシャ正教の寺院で祝っているのを見てびっくりしたが、これはギリシャ正教が世界で使われている 〈グレゴリオ暦〉ではなく、 〈ユリウス暦〉に基づいて祝っていることもこの本で知った。

以前に読んだ 冲方丁の「天地明察」でも記載されていた暦の世界の深さに思いをいたした。

 話しがわきにそれた。表題書はさらに、天文物理学者の助力を得て、1世紀の〈公式のユダヤ暦〉と〈捕囚前のユダヤ暦〉を再現、それをもとに詳細な解明を続ける。

福音書を詳しく分析することで、最後の晩餐は水曜日の夜に催され、ユダヤの最高法院によるイエスの本裁判は木曜の日中に行われ、その後、金曜の夜明けに最高法院による二回目の短い裁判が開かれてイエスの死刑が確定したことがわかった


磔刑があった年、〈捕囚前の暦〉では最後の晩餐は水曜日だった。最後の晩餐が行われたのが水曜で、磔刑が金曜だったとすれば、最後の晩餐から磔刑までのあいだに起きたと福音書に記されているすべての出来事が、時間の流れのなかにしっかり収まることがわかるだろう


 それでは、なぜイエスは〈捕囚前の暦〉を使ったのだろうか。

イエスは、 「出エジプト記」に書かれた最初の過越祭と同じ記念日に、最後の晩餐を真正なる過越の食事会として開いた。そうすることで、自分自身を新たなモーセと位置づけ、新たな契約を結び、神の民を解放しようとした。イエスは〈公式のユダヤ暦〉で二サン一四日の午後三時ごろ、過越の子羊が屠られた時刻に絶命し、地震を過越のいけにえと重ね合わせた。こうした見事な象徴的行動も歴史上の出来事に基づいたものだと言える


 「愛」を説いているキリスト教が、「律法」を重んじるあまりに厳しく人々に接する神を表現する「旧約聖書」をなぜ大切にする必要があるのか。

 長年、持ち続けてきた疑問の一部が氷解したように感じた。

2013年10月15日

「宮崎・高千穂紀行」(2013年9月21?23日)



 9月末の連休に、友人Mらと日向伝説・天孫降臨の地といわれる宮崎県高千穂町を訪ねた。

 今年初めの「出雲紀行」に続く"神話帰り"の一環といえばかっこいいが、たまたま飛行機が取れたので、急きょ出かけることにした。日程も短く天孫降臨伝説のもう1つの候補地である鹿児島県霧島の高千穂峰を訪ねる余裕がないのはいささか片手落ちの感もあったが・・・。

 21日夕方に宮崎空港に着き、市内のホテルに向かうタクシーの運転手さんが、さすが観光立国の案内人。高千穂の 天岩戸神社などに行くと言うと、アマテラス以降の神々の系譜や天岩戸神話などをとうとうとしゃべり始め、こう質問してきた。

 「弟の スサノオの乱暴に困ってアマテラスがお隠れるになった天岩戸をこじ開けた神様・ アメノタジカラオが力いっぱい投げた岩戸はどこに落ちたか知ってる?」

 「長野県の戸隠でしょう(こちらも少しは事前勉強をしてきた)」 「それじゃあ、その神様が岩戸を投げた技の名前は」「知らない・・・」「神技(かみわざ)!」 ユーモアあふれる案内人に恵まれて、幸先の良いスタートとなった。

 来る前に読んだ「高千穂幻想」(千田稔著、PHP文庫)、「鬼降る森」(高山文彦著、幻戯書房刊)などによると、天孫降臨の地を巡って宮崎、鹿児島両県で長年の対立が続いてきたという。ところが、宮崎県人であるこの運転手さんやその夜、漁獲が解禁になったばかりというイセエビの活造りを楽しんだ寿司屋の主人は「それは鹿児島・高千穂峰でしょう」と、あっさり言うのが不思議といえば不思議だった。

 それでは、明日訪ねる高千穂町の天岩戸神社や神々がお隠れになったアマテラスを引き出す協議をするために神さまたちが集まったという天安河原って、なに?・・・。

 神話は長い間に人々が伝承として作り上げられたものというのが真実だろうし、高千穂町の天の岩戸神社や天安河原も、後世の人がそれらしい場所にかぶせた名称と考えるのが正解だと思う。

 白洲正子 「名人は危うきに遊ぶ」(新潮文庫)の「神の国 高千穂」の項でこう記している。

おそらく古代の語り部から、中世の山伏、信仰心の篤い高千穂の里人に至るまで、こぞって造りあげたのがこの高天原の聖地ではなかったか。・・・はるか遠くの国から渡来した民族が、祖先の事蹟を伝えるために、風光明媚な高千穂の地をえらんだとしても不思議はない。


 白洲正子にならい、せっかく神話の里を訪ねる機会をたっぷり楽しんでやろうと翌22日、宮崎駅午前8時発の「記紀編さん1300年記念 神話巡り・高千穂コースツアー」バスに乗り込んだ。

 このツアー、記紀1300年ツアーということで、県の補助も若干出ているらしくけっこうな人気で数日前にキャンセルが出てやっと参加することができた。

 高千穂町までは片道約3時間もかかる長旅だ。高千穂町に近づくにつれて狭い山間に日本棚田百選に選ばれたという稲の収穫ま近かの棚田が続く。

  梅原猛が著書天皇家の"ふるさと"日向をゆく」(新潮文庫)で「シラス台地の霧島と異なり、水と稲作に恵まれたここが天孫族が〈いと吉き地〉とほめたたえた高千穂に違いない」と断言しているのもうなずける。

 11時過ぎに 高千穂神社にやっと着く。急な石段を登ると垂仁天皇時代に創建されたという高千穂八十八社の総社は、スギの大木に囲まれた比較的小さなお社だった。

 右から7,5,3本の藁茎を下げる「七五三縄」と呼ばれる 注連縄(しめなわ)が珍しい。アマテラスが再び天岩戸にこもらないように張り巡らされた縄に起源があるという。

 周囲の民家の軒先にも同じような注連縄があり、地元銀行の支店玄関にあるのは特大。ここは"神々の町"であることが分かる。

 昼食の後、天然記念物の高千穂峡の奇岩を見た後、天岩戸神社西本宮に向かった。特別ツアーということだろうか拝殿(ここには本殿はない)裏を神官に特別に案内してもらい、対岸にある撮影禁止の天岩戸を見ることができた。この岩戸がご神体なのだ。

 木樹におおわれ、長い年月で崩れかけた洞くつのようだが、梅原猛は「女性の(あそこの)形によく似ている」と前著に書いている。男性や女性のあの個所を大切に思う縄文時代からの信仰心の現れなのだろうか。

 梅原猛は、こうも書いている。

 
ニニギノミコトが天降られたこの地に(天上にあるべき)高天原にあるべき天岩戸があるのはたしかにおかしいが、ニニギノミコトの身になって考えれば、やはり自分をこの国にお遣わしになった祖母アマテラスをお祀りする場所を作らないほうがおかしい。それでニニギノミコトは天岩戸に似た洞窟を探してアマテラスを祀ったのであろう。


 この日はこの神社の秋の大祭にあたり、拝殿横の神楽殿ではお神楽が奉納されていた。神楽殿の四方に「彫り物(えりもん)」と呼ばれる和紙の切り絵が張られている。

 拝殿横に植わっている 古代イチョウや天岩戸の前で アメノウズメの神が枝を持って踊ったと伝わる オガタマノキの大樹も珍しい。神官が見せてくれた古代イチョウの実は細長く、普通のぎんなんとまるで形が違っている。

 天安河原への入り口は、天岩戸神社から5,6分。細い道を下っていく途中の橋から上流に向かって手をかざすとパワーを感じる、という。試してみたが「左手がなにかピリピリする」感じがした・・・?。道は、パワースポット巡りの若者たちなどでけっこう混雑している。

 降りきった広い河原が、神々が天岩戸に隠れたアマテラスの出現を願って集まった天安河原という。ベテランのバスガイド(定年になったが、最近のスピリツアルブームで引っぱりだされたらしい)によると「ここは(神々が協議した)日本最古の国会議事堂」。

 すぐ横に 「仰慕窟(ぎょうぼがいわ)」といわれる不気味なほど大きな洞窟がある。その一番奥に「八百万の神」を祀る小さなお宮まである。

 なんとも舞台装置がそろいすぎた感があるが、これも「小さな子どもでも拝殿の作法を知っている」という高千穂の人々の信仰心の深さから出たのだろう。

 その夜は、宮崎特産の宮崎牛や 地頭鶏(じどっこ)を楽しみ、翌朝はイザナギノミコトが禊(みそぎ)をしたといわれる 阿波岐原(あわきがはら)を訪ねた。

 市民の森になっている広大な深い森の一角にイザナギ、イザナミを祀る 江田神社があり、根本が3本に分かれた力強いクスノキやオダタマノキの大樹に囲まれた森閑とした細長い参道が続く。その後ろにある みそぎ池(御池)では睡蓮が咲き始めていた。

 神武天皇を祀る宮崎神宮にも参った。鳥居の前にそびえる ラクウショウの巨樹は初めて見た樹だった。

 この後、空港でグラス売りをしていた宮崎産の焼酎で乾杯し、正午前の飛行機に乗った。いささかあわただしかったが、これまで食わず嫌いの感があった古代神話を垣間見れたなかなかいい旅だった。

高千穂紀行での写真
高千穂神社。両脇に五穀豊穣を願うアワの鉢植えが置かれていた;クリックすると大きな写真になります。 神楽を舞う「神庭」にはられる切り絵「えりもの」;クリックすると大きな写真になります。 高千穂峡ではボート遊びが楽しめる;クリックすると大きな写真になります。 天岩戸神社。右が拝殿、正面に神楽殿。左の樹がオダマキ、右は古代イチョウ;クリックすると大きな写真になります。 秋の大祭で奉納されるお神楽;クリックすると大きな写真になります。
高千穂神社。両脇に五穀豊穣を願うアワの鉢植えが置かれていた 神楽を舞う「神庭」にはられる切り絵「えりもの」 高千穂峡ではボート遊びが楽しめる 天岩戸神社。右が拝殿、正面に神楽殿。左の樹がオダマキ、右は古代イチョウ 秋の大祭で奉納されるお神楽
スピリチュアルあふれた天安河原;クリックすると大きな写真になります。 昼なお暗い「仰慕窟」;クリックすると大きな写真になります。 江田神社参道沿いのクスノキの樹;クリックすると大きな写真になります。 同じく参道沿いのオダマキ;クリックすると大きな写真になります。 ;クリックすると大きな写真になります。
スピリチュアルあふれた天安河原 昼なお暗い「仰慕窟」 江田神社参道沿いのクスノキの樹 同じく参道沿いのオダマキ 江田神社の参道。奥に見えるのが本殿
森閑とした「みそぎ池」;クリックすると大きな写真になります。
宮崎神社の起源も古いらしい;クリックすると大きな写真になります。" 鳥居の前にあるラクウショウの巨木;クリックすると大きな写真になります。
森閑とした「みそぎ池」 宮崎神社の起源も古いらしい 鳥居の前にあるラクウショウの巨木


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2013年10月 9日

読書日記「ひと皿の記憶」(四方田犬彦著、ちくま文庫)、「にっぽん全国 百年食堂」(椎名誠著、講談社)、「浅草のおんな」(伊集院静著、文藝春秋)

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)
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にっぽん全国 百年食堂
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 残暑の秋に読んだ食へのこだわり関連本3冊。

 「ひと皿の記憶」には「食神、世界をめぐる」という副題がついている。 著者の本は、数年前に 「四方田犬彦の引っ越し人生」(交通新聞社刊)を読んだことがあるが、日本や世界各地の大学で教べんを取るかたわら、各地の食にこだわり続けたエッセイスト。著書は100冊を越えるという。

 著者が育った大阪・箕面近くの「伊丹の酒粕」から始まって「神戸の洋菓子」「金沢のクナリャ(深海魚の一種)」、そして韓国、台湾、中国、バンコクなどの東南アジア、イタリア、デンマーク、フランスと、つきることなく「ひと皿」への思いが記される。それも高級料理店でない庶民の味に徹しており、読み進むごとに垂ぜんの味わいを楽しめる随筆である。

   
粕汁とは不思議なスープ、いやシチューである。魚やいろいろな野菜を水煮し、そこに酒粕と味噌を流し込んでさらに煮込む。・・・この汁には味檜汁や澄まし汁にはない独特の重たげな魅力があり、一口でも口に含むだけで腹がしっかりと温まる気持ちになった。いうまでもなくそれには酒粕から滲み出るアルコールが作用していたに違いない。加えて白濁した汁の合間に覗く紅い人参や色が透けかかった大根、細かく刻まれた黄色い油揚げといった組み合わせが・・・愉しげな抽象絵画のように思われてくるのだった。


 
(北京の朝)市場のすぐわきの路地に入ると早々と小食店が開いていて、すでに何人もが仕事前の食事をしている。北京では 豆腐脳(トウフナオ)、南方では豆花(タウファー)といって、ひどく柔らかい豆腐椀に盛り、好みで辣油をかけて食べる。店先では大鍋に煮え滾った油のなかで、直径三〇センチほどの巨大な素妙餅(スウチャオビン)が揚げられている。しばらく店内を見回してみると豆腐脳はこの餅を千切りながら匙で口に運ぶものらしいと、見当がついてくる。揚たてのパリパリとした餅と、匙で掬おうとしても崩れてしまうほどに柔らかい豆腐脳の組み合わせには、絶妙なものがある。


 牡蠣のついての記述も多い。とくにこれまで3回訪ねた米国・ニューヨークで計10回近く通ったグランド・セントラル駅の「オイスターバア」についても書かれている。

 
そこには主にアメリカの東海岸で採られた、実に多様な牡蠣があった。ずんぐりとした殻をもつブラスドールもあれば、底の深いブロンも、強い刻み目をもつキルセンもあった。一番巨大な牡蠣をと狙ってメーンを注文したところ、水っぽすぎて落胆したこともあった。もっとも小さいのはカタイグチと呼ばれ、伝説の牡蠣クマモトの一統だった。わたしは最初に訪れたときには盛り合わせを頼み、それからは気に入ったものを半ダースほど改めて注文することで、少しずつ牡蠣の個性を学んでいった。


 デンマーク・コペンハーゲンのスモーブローについての記述も、かってこの街に行った時に何軒もの店頭で見つけたことがなつかしい。バターをたっぷり塗ったパンの上にサーモンやニシンなどの具材をトッピングしたものだが、なにか寿司の"デンマーク版"と感じた覚えがある。

 「ロンドンにおいていい食堂を見分ける5つの条件」という項もある。フイッシュ&チップスの名店や鰻の煮こごりの店が記述されている。いつかロンドンを訪ねる機会があれば参考にしようと思う。

 この本の最後近くに出てくる「肉」についてのうんちくは、世界中で食べ歩いた著者の真骨頂だろう。

 
牛肉はそれ自体で自立した味の個性をもち、どのように調理されても自分のアイデンティティを崩すことがない。ローストビーフであれ、カルビ焼きであれ、そもそも牛の調理とは、いかにその本来の肉の味を引き出すかという一点にかかっている。だが牛は、どこまで行っても牛肉が牛という宿命から逃れることができない。中華料理において素材としての牛肉が豚肉と比べて圧倒的に不振であるのは、もっぱらこの自己完結性によるものである。羊の強烈な個性にしても同様。羊であることを消し去って羊料理を作ることはできない。鴨またしかり。では逆に鶏は、兎はどうだろう。鶏は鴨とは逆に、味が万事において控えめであり、とても塩漬けや角煮といった荒事に向きそうにない。兎は先天的に脂気が欠けているので、しばしばベーコンなどを添えて調理しなければならない。こうして一長一短がある他の肉と比べてみたとき、豚の卓越性は否定しようがない。人間がもっぱら食べるためだけに改良を重ねてきたプロの肉という気がするのである。


 「にっぽん全国 百年食堂」は、雑誌「自遊人」に2008年7月号から2011年11月号連載されたものを単行本にしたもの。 著者が編集者3人と全国の地方都市で百年前後続いている大衆食堂を延々と食べ歩く。

 先取の気概に満ちている県民性の新潟には、洋食をいち早く取り入れた百年食堂の候補がいっぱいあるという。
   「元祖洋食レストラン キリン」の代表メニューは、オムライス。 「鍋とフライパンを上手に使い、タマゴは殆ど半焼けぐらいの状態でかまわずそこにチキンライスをのせてドバッと皿の上にひっくりかえすともう完成」(千二百円)
 上野・精養軒で修業した先々代が、コメがうまいからという理由だけで新潟に来て「首が長いから長持ちするだろう」と、かなりいい加減な理屈で店名を決めた。

 長野県の小諸駅前にある 「揚羽屋」は、島崎藤村直筆の看板がある店として有名。藤村は「千曲川のスケッチ」のなかで、こう書いている、という。
 「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った」

 茨城県水戸市の 「富士食堂」は、メニューが百種類はある「フアミリーレストラン」の元祖。味はもうひとつだが、著者はこう書く。
 「要するに『土地のヒトが安心する味』というのが厳然としてあって、これを東京で流行っている味だの盛りつけだのにしてしまうと、百年食堂でなくなってしまう、という数値であらわせない『長続きの公式』があるような気がする」

 北海道古平町の 「堀食堂」は、かってニシン漁が盛んだった頃の開店。
 ラーメンにエビの天ぷらが二本のった「天ぷらラーメン」や鶏肉にヒミツの味つけをして衣をつけて揚げた「ザンギ定食」など重労働のヤン衆に好まれそうなメニューが人気だが「実は、二つともニシン漁がすたれた後に始めたもの」と聞いて、取材の一行は不思議そうな顔。

 北海道釧路市の 「竹老園 東家総本店」は、御殿のような造りで、観光バスで団体客がやって来るほど人気のある蕎麦屋。
 極上の上更科粉に新鮮な卵黄をつなぎにしている「藍切りそば」など、蕎麦の種類で変えている「つゆ」がどれもうまく「百年のあいだに積み重ねられた、本物の老舗の味」。暖簾分けで26軒の支店がある、というのもすごい。

 千葉県野田市の 「やよい食堂」は「大盛り」で超有名。
 一人前で、4,5合使うカレーやカツ丼は、皿や丼からこぼれてもよいように受け皿がついている。「安い値段でお腹いっぱい食べさせてあげたい」という思いがふくらみ、歴史を重ねるごとに盛りが大きくなったという。タマネギと肉だけの昔ながらのカレーライスが一番人気だが、大盛りで五百八十円という安さ。

 取材の最後近くで、著者はこう結論付ける。
 「地元の人の好みに変わらず応える味と人間づきあいが、百年を生きる正直な原動力になっている」
 そして駐車場が大きく、厨房が広くて清潔で使用人が沢山いて活気があるのが、流行っている「百年食堂」の二大ポイントだという。

   「あさくさの女」は、伊集院静らしい哀感あふれる艶っぽい小説だが、主人公が浅草の小さな居酒屋の女主人だから、出て来る酒の肴の描写がなかなかいい。

 
志万はすぐに裏に行き、朝方干しておいた柳鰈(やなぎがれい)を取り込み、灰汁(あく)抜きの蕨(わらび)を漬けておいた金ボウルを手に調理場に入った。冷蔵庫の中から朝のうちに開いておいたぐじを包んだ布をほどいた。ふたつの小鍋に火を入れ、 がめ煮と、京菜油揚げの炊き合わせの準備にかかった。氷水を金ボウルに入れ、そこに鰺をつけ、・・・。真空パックから白魚を出す。・・・鍋を洗って天豆(そらまめ)を湯?(ゆが)く。・・・


 
今日の一番はちらし寿司である。留次が好きだった?(つなし)をたっぷりまぶしたちらしである。店裏からいい匂いがしてきた。美智江が椎茸を煮込みはじめている。志万はサヤエンドウを湯?いている。冷蔵庫から鮪(まぐろ)を出して柵(さく)に分けていく。


 
「ほう、突き出しが天豆に?子(からすみ)とは、この不況でもここだけは贅沢だね」
 「贅沢じゃなくて親切でしょう。春から、"志万田(しまだ)"は料金を安くしてくれてるのよ」・・・
 「(肴は)きんぴら、インゲンのゴマ和え、じゅんさい」・・・
 「・・・私は鱧に鴨ロース、それにポテトサラダ」


 

2013年9月20日

読書日記「四つの小さなパン切れ」(マグダ・オランデール=ラフォン著、高橋啓訳、みすず書房刊)


四つの小さなパン切れ
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 この本は、昨年5月のポーランド・ アウシュヴィッツ訪問に同行してくれた若い友人Yさんが自分のブログでふれているので知った。
 Yさんは、あの旅行を自分の人生のなかでかみしめようとして、この本に出会ったのだろう。図書館で、さっそく借りた。

 訳者によると、ハンガリー生まれのユダヤ人である著者は、 アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に収容された家族のなかでただ1人生き残った。しかし、長い間そこでの体験を封印してきた。「語りはじめるには、まず自分自身について勉強し、自分の人生に意味を与えるところから始めるしかなかった」
 ベルギー、フランスへと渡り、教職の資格を取得し、心理学を修めた過程で彼女は自らの意志でカトリックの洗礼を受けた。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「パン」の経験が、福音書のなかにある言葉とつながったからだ。

 そして、解放されて32年後に沈黙を破って刊行されたのがこの本の前半の「時のみちすじ」。周囲の人たちは驚いた。「いつもほほえみをたやさない明るいマグダさんが、こんな壮絶な過去を持っていたなんて」
 これを機会に彼女は地元の中高校生に自分の体験を語るようになった。その後に書かれた後半部「闇から喜びへ」を加えて、マグダさんが85才の昨年、この本が上梓された。

 「時のみちすじ」「闇から喜びへ」でも、マグダさんは過去の経験を詳しく語ろうとはしない。短い詩と文章で1篇、1篇が構成されている。
 彼女の体験は、巻末に2人のインタビューヤーなどによる「著者の生きた時代について」に詳しく掲載されている。

 炉がはぜる。
 空は低く、灰色と黄色に染まっている。
 風に舞い散る彼らの灰をわたしたちは吸う。
 あれから三十年
 わたしは自分の記憶のぶ厚い壁に穴を開け、揺する。
 希望をほしがっていたたくさんのまなざしが
 ほこりとなって
 消えてしまわないように。(時のみちすじ・まなざし)


 1944年春。ハンガリーから毎日1万2千から1万5千ものハンガリーのユダヤ人がビルケナウ収容所に貨物列車で送り込まれた。すでに収容されていた1人が命がけでなんどか列のなかに入ってきて、唇を動かさずに「おまえは18歳、18歳だからね」というのをマグダは耳にした。
 年齢をたずねられた16歳のマグダは「18歳」と答えた。18歳以上の若い女性は、労働に耐えられるだろうからと右の列に、母と妹は左に行かされた。
 家族の行方をたずねるマグダに女性のブロック長は、炎と煙が見える火葬場の煙突を指さし答えた。「もうあそこに入っているだよ・・・」

 厳しい労働が続いた。バラックの周囲の遺体を集め、人間の遺灰を荷車で近くの湖まで運んだ。マグダは何度もこの湖に身を投じようと思った。

 「生きることを信じよう。絶望を払いのけよう。・・・弱い人はここでは生きていけない。わたしたちは生きのびなければならない。わたしたちには生き証人が必要なのよ」
 これは、見知らぬ修道女の口から出た言葉だった。この言葉は、わたしの心の奥に根を下ろし、衰弱したときに生きる力を与えつづけてくれた。(時のみちすじ・生きる)


 
 (労働に駆り出された帰り)ゴール兼スタートの正門まで、わたしたちは駆けていかなければならない。それは、わたしたちがまだ労働に耐えられるかどうかを調べるための日課のようなものだ。・・・わたしたちは走る、恐怖で麻痺したまま。・・・鞭や杖でぶたれないように、犬に噛みつかれないようにするために、ドタ靴や木靴は捨てる。・・・死に至る選別。(時のみちすじ・足)


 瀕死の女性が合図を送ってきた。手のひらに黴びた四つのパン切れ、かろうじて聞き取れる声で、わたしに言った。「ほら、これをあげる。あんたは若いんだから、ここで起こったことを証言するために生きておくれ」。わたしは四つのパン切れを受け取り、彼女の目の前で食べた。見つめる彼女の目のなかには、善意と自棄の両方があった。わたしは若く、この行為とそれを支える重みをどう受け取ればいいかわからず途方に暮れた。(闇から喜びへ・わたしの人生の意味)


 8月の点呼のとき、自分のいる列に並ぶ人々の背中と足取りが衰弱しきっているのを感じ、マグダはこっそり隣の列に移り、ガス室に行くのをまぬがれた。

 収容所にいたときは、自分の身に何が起きたかを理解しようと思ったことはない。直感の声に耳を傾けながら、本能的に状況に合わせていただけだった。直感とは生のもつ知性だ。わたしたちのなかから出てくるものではないけれども、光のほうへ導いてくれる霊感。(闇から喜びへ・直感)


 フランクフルトに近い収容所で、鉄路に沿って枕木を地面に固定する作業をさせられた。

 親切はたびたびわたしを訪れた。・・・(靴を盗まれてしまい)・・・凍りついた足の痛みはおそろしいほど生き生きとしている。・・・(労働者でもある看守の)男が、人目の届かない焚き火の近くまでわたしを連れていき、新聞紙を丸めて、わたしの足をこすった。・・・バッグから木靴を一足取り出し、わたしにはかせた。この無償の行為によって、彼はわたしを生かしてくれると同時に、自分のいのちを危険にさらしたのだ。(時のみちすじ・親切な看守)


 女性たちは徒歩で出発した。徒歩のグループにはマグダも含まれていて、四人のハンガリー出身の女性たちとともに隊列から逃れることに成功した。彼女たちは近くの森に六日間隠れていた。・・・たまたまアメリカ軍の戦車が森の縁で止まった。・・・ほとんど骸骨同然に痩せこけ、疥癬(かいせん)に蝕まれ・・・。

 一九四五年五月、四人の収容所仲間といっしょにベルギー・ ナミュール駅に到着したとき、わたしたちを待っていたのはパンだった。いい香りがした。思わずパンに向かって満面の笑みを送った。喜びが心に満ちていた。(闇から喜びへ・再生)


 あるとき、適当に聖書のページを開き、マタイ福音書の第二十五章〔三十五説から三十六節〕を読んだ。ふいに感動がやってきた。「わたしが飢えていたとき、あなたは食べ物をわたしにくれた。渇いているときに飲み物をくれた。裸でいるときは、服を着せてくれた」
 わたしは心でつぶやいた。「ここにわたしの知り合いになりたいと思う人がいる」。それ以来〈彼〉はずっとわたしといっしょにいる。(闇から喜びへ・神の顔)


 わたしは確信している。神よ、あなたは ショアを望んだわけではなく、わたしたちひとりひとりの苦しみはあなたご自身の苦しみであったことを。
 幾多の戦争の、あらゆる兄弟殺しの責任を負うべきは、わたしたちがつくり出す偽の神なのだとわたしは思う。(闇から喜びへ・希望の熱烈な支持者)


 昨年、アウシュヴィッツで感じた 「神の沈黙」への疑問に対する答えがここにあった。

 

2013年9月17日

読書日記「昭和三十年代 演習」(関川夏央著、岩波書店刊)


昭和三十年代 演習
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 著者と若い編集者が、昭和30年代によく読まれた本や映画などをテキストに勉強会を開く。著者をリーダーに、若い世代が現在につながるこの時代の意識を知ろうという狙い。だから「演習」というわけらしい。

 この時代を中学生から大学生までを過ごした前期高齢者としては「演習」に出て来る素材のほとんどがなつかしい。かつ「ああ!あの時代を無為にすごしてしまったなあ」という感覚、感情がなんとなくツーンと胸を衝いた。

 「BOOK」データベースには、こうある。

  
昭和三十年代とは、どのような時代だったのだろう。明るく輝き、誰もが希望に胸をふくらませていた時代だったのだろうか。貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい―そんな複雑でおもしろい当時の実相を、回顧とは異なる、具体的な作品と事象の読み解きを通して浮き彫りにする。歴史はどのようにつくられ、伝えられてゆくのか。歴史的誤解と時代の誤読を批判的に検討する。


 松本清張の初期短編 「張り込み」を映画化した昭和33年の同名映画の冒頭10分間は、真夏の夜行列車の車中の描写だった。本筋とは深い関係はないのに「監督の野村芳太郎が描きかったのは、実は日本の夏の蒸し暑さではなかったか」と、著者は書く。

 
暑い。ものすごく混雑している。汗でべたべたする。誰もが扇子をあわただしく使います。なんとか座席を確保できた人は、それが男性なら、ほぼ間違いなくズボンと上着を脱ぎ、ワイシャツまで脱いでステテコの下着姿になります。・・・
 それほど、当時の旅行は一種の力仕事でした。


 中学2年の頃だっただろうか。ある団体に参加を許されて、東京に国会議事堂見学や靖国神社参拝の夜行列車に乗ったことがある。トンネルに入る度に、蒸気機関車の煙が入らないよう、あわてて窓を閉めた。ウトウトして目覚めた明けがた、引率者がくれた初めての冷凍ミカンの味がいまだに忘れられない。

 昭和30年代は「いちおう戦後復興をとげた敗戦国日本が痛切に『世界復帰』を願った時代」でもあった。

 南極観測の世界会議に日本は無理やりという感じで出席した。「日本はまだ国際社会復帰の資格はない」という冷たい雰囲気のなかで、なんとか参加が認められた。この時、割り当てられたプリンス・ハラルド海岸は「実は接岸不能とされた地図空白地帯でした」

 外国から借りるつもりだった観測船は実現せず、結局、海上保安庁の老補給船 「宗谷」が使われた。初の越冬隊を残し帰国の途についた「宗谷」は堅い氷海に閉じ込められ、ソ連の砕氷船「オビ」に救援された。

 
果敢なのに貧弱な装備しか持たない「宗谷」と越冬隊の姿は、戦後日本の姿そのもののようでした。子どもたちは、「不当に」世界から置き去られている日本と、氷海に閉じ込められた「宗谷」を自分の一部とみなし、その遭難と脱出のニュースを、文字どおり手に汗握って聞いたのです。


 「普通の日本人が、外国を一挙に実感する『事件』が昭和37年8月に起きた」。 堀江謙一青年のヨットによる単独太平洋横断だ。

 サンフランシスコに着いた堀江青年は、ぼさぼさに髪が伸びた頭に工員帽をかぶり、素足にサンダルでガニ股、はにかんだ青年の写真は「まさに絵にかいたようなプロレタリアの姿」だった。

  
堀江謙一の冒険は、一気にアメリカを日本に近づけました。それまで、弱い円と乏しい外貨のせいで事実上の鎖国を強いられ、政務か商用、あるいはフルブライト留学生くらいしか行けなかったアメリカを、いわば「プロレタリアでも行けるアメリカ」にかえたのでした。・・・堀江青年の冒険は、敗戦国からの脱皮という意味で大きなできごとでした。


 内モンゴルの研究をしていた梅棹忠夫は「中央公論」の昭和32年2月号に載せた論文 「文明の生態史観序説」で「日本はアジアではない」「アジアという実体は存在しない」という考えを初めて明らかにした。

 
日本はユーラシア大陸東辺の海中にあったからこそ、遊牧民の破壊的エネルギーからまぬがれた。結果、小ぶりな閉鎖系とはいえ独自文明の名に値するものを生み出し得た。そのような環境条件は、ユーラシア大陸の反対側、西方の海中にある英国とおなじだったーーー・・・
 「アジアでなくてもよい」とは、日本が欧米の仲間だというのではありません。日本は「海のアジア」であって「大陸のアジア」ではない、せっかく海の存在によって大陸と距離をおくことができたのだから、「大陸アジア」と無理に親和する必要はないというのです。


 さきにこのブログでふれた鼎談集 「時代の風音」司馬遼太郎が「日本は、アジアの国々とは別の国」と語っていたのを思い出した。
 梅棹忠夫と司馬遼太郎は、モンゴル研究を通じて長年の友人だったそうだから、両氏の意見が似ているのも当然のことだったのだ。

 しかし「大陸・中国」が最近、露骨に海の覇権を握ろうとする動きを強めるなかで、日本は「海のアジア」とノホホンとし続けられるのか。

 世界の異端児・北朝鮮が「一部とはいえ『世界の楽園』と賞讃」されたのも、昭和30年代。昭和34年には、在日コリアンの北朝鮮への「帰国運動」も始まった。

 父親を戦争でなくし母一人の手で育てられ、ボロ家に住み続けた昭和30年代。どこから回ってきたのか、北朝鮮の華やかなカラー雑誌を見ながら「北朝鮮に行ってみようか」と一時は真剣に思ったことを、戦慄を持って思いだす。

 昭和39年秋に 東京オリンピックが開催された。

 昭和三十八年夏から秋、(オリンピックの)工事で穴だらけになった東京の姿は、まだ若かった篠田正浩石原慎太郎の小説を映画化した松竹作品 『乾いた花』に記録されています。
 建設途中で一部のみ開通した首都高速道路を加賀まりこがスポーツカーを走らせます。助手席にいるのは 池辺良です。・・・
 このくだりは、石原慎太郎が・・・第二京阪国道でスポーツカーと自然に競争になり、あとで相手は 力道山だったと気付いた、というエピソードから発想されています。

 当時、東京のど真ん中・四谷にあった大学の4回生だった。貧乏学生にチケットを買う余裕などない。開会式の日、自衛隊の 「ブルーインパルス」が空中に描いた五輪のマークを見上げたのが、唯一のオリンピック体験だった。

 昭和39年10月24日、国立競技場の閉会式の「雑感」を読売新聞の遊軍記者、 本田靖春は、社に電話送稿した。

白い顔も、黒い顔も、黄色い顔も・・・若ものたちはしっかりスクラムを組んで一つになり、喜びのエールを観客とかわしながら、ロイヤル・ボックスの前を、"エイ、エイ"とばかりに押し通った。
 その前を行く日本チームの 福井誠旗手は、あっという間に一団にのみこまれ、次の瞬間、かれのからだは若ものたちの肩の上にあった。かれがささげる日の丸は、そのミコシの上で、右へ、左へ、大きく揺れた。


 2020年に東京オリンピックが、56年ぶりに開催されることが決まった。

 その招致プレゼンテーションで、安倍首相は「福島原発の汚染水は、完全のコントロールされており、日本のどこもが安全だ」と大見得を切った。しかし、汚染水対策解決の見通しなどまったく立っていないというのが真実だ。首相は、世界に向けて事実とは異なる発言で、2回目のオリンピックを勝ち取った。

 「世界への復帰」を熱望した昭和30年代という時代を経て、 G7(先進国首脳会議)のメンバーになるほどの経済成長をとげた日本は、どんなポジションで2020年を迎えるのだろうか。

 Amazonの「カスタマーレビュー」に、この著書が取り上げた本などの抜粋が載っていた。

  • 西岸良平『三丁目の夕日 夕焼けの詩』
  • 松本清張『日本の黒い霧』『点と線』『西郷札』『或る「小倉日記」伝』『ゼロの焦点』 『けものみち』『砂の器』『眼の壁』
  • 石原慎太郎『太陽の季節』
  • 森鴎外『舞姫』『阿部一族』『渋江抽斎』
  • 三島由紀夫『午後の曳航』『豊饒の海」『鏡子の家』『宴のあと』『憂国』『仮面の告白』 『金閣寺』『鹿鳴館』『愛の渇き』『青の時代』
  • 山本嘉次郎監督『綴方教室』
  • 成瀬巳喜男監督『浮雲』
  • 井筒和幸監督『パッチギ!』
  • 芥川龍之介『舞踏会』
  • 山田風太郎『エドの舞踏会』
  • フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』
  • 堀江謙一『太平洋ひとりぼっち』
  • 木下恵介監督『喜びも悲しみも幾年月』
  • 大庭秀雄監督『君の名は』
  • 安部公房『砂の女』
  • 寺尾五郎『38度線の北』
  • 金元祚『凍土の共和国―北朝鮮幻滅紀行 』
  • 安本末子『にあんちゃん』
  • 山田洋次監督『男はつらいよ』
  • 浦山桐郎監督『キュ?ポラのある街』
  • 石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『若い人』『青い山脈』
  • 大江健三郎『ヒロシマ・ノート』
  • 大島みち子・河野実『愛と死をみつめて―ある純愛の記録』
  • 高野悦子『二十歳の原点』
  • 本田靖春『不当逮捕』
  • 市川崑監督『ビルマの竪琴』
  • 川島雄三監督『幕末太陽傳』
  • 田中絹代監督『乳房よ永遠なれ』
  • 中平康監督『狂った果実』
  • 今井昌平監督『豚と軍艦』
  • 舛田利雄監督『赤いハンカチ』
  • 江崎実生監督『夜霧よ今夜もありがとう』
  • マイケル・カーティス監督『カサブランカ』
  • キャロル・リード監督『第三の男』
  • ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『望郷』
  • 早坂暁脚本『夢千代日記』
  • 小松左京『日本沈没』


 ああ昭和、30年代は遠くなりにけり!

2013年9月 4日

読書日記「森の力 植物生態学者の理論と実践」(宮脇 昭著、講談社現代新書)

森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書)
宮脇 昭
講談社
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 横浜国立大学名誉教授の  著者は、85歳の現在まで、ポット苗という40年前に発案した植樹法で国内外1700カ所に4000万本もの木を植え続けてきたという驚異の人。

 最近は、東北被災地の再生に取り組む 公益法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」副理事長や 「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」名誉会長として「120歳まで生きて、このプロジェクトの完成を見届けたい」と、人々に勇気を与えずにはおれないエネルギーあふれた活動をしている。

 著者はまず、ボランティアによって植樹された東北被災地の30年後の「ふるさとの森」へと案内してくれる。

 
ひときわ目立つ背の高い樹は、タブノキ。多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」という宮脇理論によって、シラカシ ウラジロガシ アカガシ スダジイも見事に育っている。

 森の中に入ってみる。

 タブノキなどの高木が太陽の光のエネルギーを吸収するため、森の中は薄暗い。
 そのなかでも、 モチノキヤブツバキ シロダモなどの亜高木が育っている。

ヒサカキ アオキヤツデなど、海岸近くでは シャリンバイ ハマヒサカイなどの低木も元気いっぱいだ。トベラの花からは甘い香りが漂ってくる。

 足元には ヤブコウジ テイカカズラ ベニシダイタチシダ ヤブラン ジャノヒゲなどの草本植物が確認できる。


 著者が、長く学んだドイツには「森の下にもう一つの森がある」ということわざがあるという。「一見すると邪魔ものに思える下草や低木などの"下の森"こそが、青々と茂る"上の森"を支えている」という意味だそうだ。

  自然植生の森には、人間の手が入る必要はない。森に生きる微生物や昆虫、動物の循環システムが確立しているからだ。

 しかしこれまで我々は、森林従業者の老齢化と安い輸入ない南洋材におされて、マツ、スギやヒノキの森の下草刈りなどが行われず、森が荒れてしまったと、様々な機会に聞かされてきた。

 著者によると、マツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、第二次大戦後の木材需要に対応するための人工林。その土地になじんだ自然植生でない 代償植生であり「極端な表現を許されるなら、ニセモノの森」である、という。

 「もともと無理をして土地本来の森を伐採してまで客員樹種として植えられてきたスギ、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、アカマツなどの針葉樹。その土地に合わないために、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間による管理を止めた途端に、 ネザサ、ススキ、ツル植物の クズ ヤマブドウ、などの林縁植物が林内に侵入繁茂します。そのため山は荒れているように見えるのです」

 マツ、スギなどの針葉樹は、成長が早いかわりに自然災害や山火事、松くい虫などの病虫害を受けやすい。最近、大きな問題になっている花粉症も「あまりに多くの針葉樹が大量に植えられたことが影響しているのではないか」と、著者は疑う。

7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。;クリックすると大きな写真になります。" P1080967.JPG;クリックすると大きな写真になります。
7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。 高田松原再生を願う横幕。マツの替わりにタブノキを植える動きも、全国各地で見られるという。
 昨年、東北へボランティアを兼ねた旅に出かけた際、陸前高田市の海岸に植えられていた約7万本の松林が見事に津波に打ち倒された荒漠とした風景を目にした。

 近くの橋には「国営メモリアム公園を高田松原へ」という大きな横幕が張られていた。松林を再生しよう、というのだ。

 著者は「確かに クロマツは海辺の環境に強い。・・・人がしっかり管理し続けられるところでは、必要に応じて今後もマツ、スギ、ヒノキをよいと思います」と言う一方「東日本大震災を経験したいまこそ『守るべきは、人為的な慣習・前例なのか、・・・景観なのか。それともいのちなのか』を考えてみる必要があるのではないでしょうか」と語っている。

 著者は、日本の土地本来の主役である木々が、人々の命を救った例をいくつかあげている。

 昭和51年10月に起きた山形県酒井市の大火で、 酒井家という旧家に屋敷林として植えられていたタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、同市では「タブノキ1本、消防車1台」を合言葉に植林運動が続けられている、という。

 対象12年9月の関東大震災の時には、「 旧岩崎別邸の敷地を囲むように植えられていたタブノキ、 シイ カシ類の常用広葉樹が『緑の壁』となって、(逃げ込んだ)人々を火災から守った」

 平成7年1月の阪神大震災の際、著者は熱帯雨林再生調査のためにボルネオにいたが、苦労して神戸に入った。

 長田区にある小さな公園では常緑広葉樹の アラカシの並木が、その裏のアパートへの類焼を食い止めたことを目にした。
 鎮守の森
の調査でもシイノキ、カシノキ、モチノキ、シロダモなどは「葉の一部が焼け落ちても、しっかり生きていた」
  神戸市の依頼で植生調査をしたことがある六甲山の高級住宅地の上にある斜面でも「土地本来の常緑広葉樹のアラカシ、ウラジオガシ、シラカシ、 コジイ、スダジイ、モチノキ、ヤブツバキなどが元気に繁っていた」

img1_04.jpg 平成13年3月の東日本大震災の直後に、なんどか調査に行った。仙台のイオン・多賀城店の近くでは、平成5年に建築廃材を混ぜた幅2,3メートルのマウンド(土手)の上に地元の人と一緒に植えたタブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジオガシ、 ヤマモモなどの木々は「大津波で流されてきた大量の自動車などをしっかり受け止めでもなお倒れていなかった」

 土地本来のホンモノの樹種は、深根性、直根性、つまり根を深く、まっすぐ降ろして、その下にある石などをしっかりつかむため、家事や地震、洪水にもびくともしない。

 著者は、すべて瓦礫と化した被災地に言葉を失ったが「この瓦礫は使える」とも確信した。東北の本来種であるタブノキなどを植樹すれば、深く根を降ろし、埋めてあった瓦礫をしっかりつかんで、大津波も防いでくれる。それが、冒頭に著者が30年後の世界として案内してくれた"自然植生の森"なのだ。

 海岸などに瓦礫を混ぜたマウンド(土堤)をつくり、ボランティアの人々が拾い集めたドングリで育てたポット苗を植林する。「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」による小さな森が、こうして東北各地で少しずつ育ち始めている。



2013年8月28日

読書日記「時代の風音」(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎 駿著、朝日文芸文庫・朝日新聞刊)


時代の風音 (朝日文芸文庫)
堀田 善衛 宮崎 駿 司馬 遼太郎
朝日新聞社
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 8月4日付け読売新聞読書欄で「私のイチオシ文庫」という2ページ特集で取り上げられていた文庫本を、?猛暑払い"に何冊か読んだうちの1つ。

 宮崎 駿が、尊敬する堀田善衛 司馬遼太郎の話しを聞きたいと出版社に持ちかけ「どうせなら3人の鼎談で」ということで実現した本。宮崎は、主宰する スタジオジブリから堀田の著書をシリーズで発刊するなど「自分の位置が分からなくなった時、堀田さんに何度も助けられた」と語っているし、司馬遼の国家論に「ひじょうに感動した」と話しており、鼎談と言いながら宮崎は司会役に徹している。

 単行本が1992年、文庫本になったのが1997年と20年ほども前のバブル崩壊以前の鼎談だから、その後の21世紀の展望については「ちょっと違っているな」と思う部分もあるが、世界を知りつくした堀田と司馬遼の国家、文化、時代論には、目を開かせる思いがする。

 「BOOK」データベースには、この本はこう紹介されている。

20世紀とはどんな時代だったのか―。21世紀を「地球人」としていかに生きるべきか―。歴史の潮流の中から「国家」「宗教」、そして「日本人」がどう育ち、どこへ行こうとしているのかを読み解く。それぞれに世界的視野を持ちつつ日本を見つめ続けた三人が語る「未来への教科書」


 20世紀と言う時代を振り返り、ソ連崩壊について堀田は「ソ連(ロシア)は難治の国。・・・イデオリギー独裁だったので、プルーラリズム(複数主義)の用意がない」と切り出し、司馬遼は「ロシア史というものに、政治、経済、文化の成熟はない」と受けて立つ。

 堀田によると「ロシア革命のとき、農民が二人、レーニンに会いにいった。戻ってきていうには『今日はレーニンというツアー(ロシア皇帝の称号)に会った』(笑)という話がある」と紹介すると、司馬遼は「ソ連には、共産党というツア―がいる」と、この大国の変わらないであろう体質を分析している。

 もう一つの大国、中国について宮崎が「 ウイグルとか チベットが中国領というのは信じ難い」と切り出すと、堀田は「困ったことに征服そのものがあの国の歴史の実体」と話し、司馬遼も「ロシアと中国という二つの古い帝国が世界のお荷物になりつつある」と言う。

 北方四島や尖閣諸島の未来が予測できるような発言だ。

 さらに、 アゼルバイジャン スロヴェニア クロアチアなどで「小さな紛争は(冷戦時代より)かえってすごくなるでしょう」(堀田)、「いまや人類にとって(話しの通じない)外国とは、北朝鮮であり、イスラエルかもしれません」(司馬遼)と、その後の世界情勢をピタリと言い当てている。

 スペインに10年滞在した経験のある堀田は「ヨーロッパ人というのは、大ざっぱにいえば二種類ある」と話す。

  
一つは貴族を含む上層階級で、親戚がヨーロッパじゅうにいる。・・・この連中は、戦争が起こると困るわけです。インターナショナルというより、むしろコスモポリタンです。
 もう一つの中産階級から下というのは、これはナショナリストです。・・・
 いまのイギリスの王室はドイツのハノーバー家からきたプロテスタントの人たちです。・・・つい近年までドイツのしっぽをつけていたわけです。・・・
  スペインの王さまといえば、フランスのブルボン朝の人で、嫁さんのソフイーアさんはギリシャの人です。
 上の階層はそういう流動構造になっている。だから、常に平和でありたいと思っている。ヒトラーみたいなのが出てきて、「ガンバロー」とあおったときナショナリスティックに頑張っちゃったのは、中産階級とその下だった。そういう構造になっている。


 そして堀田は、EC統合によって「ヨーロッパは国境のなかった中世に戻ることになり、レジョナリズム(地方分権主義)の塊になっていく」と予測する。

 一方、司馬遼は「日本がアジアの孤児であることは、鎌倉幕府の成立から決まった。精密な封建制をつくったことで、中国や高麗、その他のアジアとは体制として別な国民になった」と言い、アジアが1つの?塊"になることはありえないと見ている。
 堀田は、元西ドイツ首相のシュミットに「あなたたちはアジアの友達を持っていない」と言われ、ガーンときたという。

   日本がアジア諸国と違う国になったというのは「封建制の中で、人間が物事をやる能力が身につく。・・・日本人の考え方を製造業に向くようにもっていった」と司馬遼は語る。  もう一つよく分からないが、一度は経済大国にのし上がった日本は、アジア諸国とは異質の体制国家であるということだろうか・・・。

 司馬遼はさらに、これから日本の人口が減っていくなかで「われわれの20パーセントぐらい外国系がはいると思う。・・・憲法下で万人が平等という大原則があるから、日本も小さな合衆国になるでしょう。・・・そうなることをいまから覚悟して・・・決して差別してはいけない。差別はわれわれの没落につながります」と話す。司馬遼が今、目の前にいて話しているような錯覚に陥りそうになる明確な時代予想だ。

 読み終えて、 このブログで「司馬遼太郎が書いたこと、書かなかったこと」(小林竜雄著)でふれた、司馬遼の歴史観を思いだした。

 「時代の風音」で、堀田、司馬遼の両氏が「これまで書き続けてきたのは、戦時中の自分に手紙をだすつもりだったから」と、共に語ったことも印象的だった。
 宮崎が「あとがき」で書いているように「人間は度しがたい」と堀田、司馬遼両氏が呼応するように語ったことも・・・。

 先日、宮崎駿監督の最近作のアニメ映画 「風立ちぬ」を見た。

 「鯖(サバ)の骨のように軽やかな翼を持つ」飛行機の制作を夢見て、 零戦戦闘機を開発した技術者が主人公。なぜ、終戦の日を待っていたように、零戦開発物語なのかと思ったが、零戦を開発し終えた主人公に「あの物量豊かな米国相手に、なぜ戦争を仕掛けのか」と独白させている。

 宮崎監督は「時代の風音」で堀田、司馬遼両氏から教わった「時代の風を読めない愚かさ」を訴えたかったのだと、気がついた。

 

2013年8月18日

読書日記「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原 猛著、集英社文庫)


日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)
梅原 猛
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 もう1年近く前の話しになってしまったが・・・。この ブログでもふれたが、東北・大船渡にボランティアに出かけた際、ホテル近くの寿司店のカウンターで同席した地元の元中学校校長、金野俊さんの言葉がなぜか、いまだに忘れられない。

 「私は、日本人とは思っていません。 縄文人と 弥生人が"和合"した子孫です」

それ以来、東北と縄文文化に関連した本をいくつか読み、東北が縄文文化の中心であり、日本の"故郷"でもあることを確信するようになった。表題の本も、その一つだ。

著者は、こう切り出す。

「縄文時代という時代、特に後期から晩期にかけて、東北はまさに日本文化の中心地であった」
「特に青森県を中心とした晩期縄文文化は、まことに素晴らしい。・・・縄文晩期、つまり、いまから三千年から二千年前くらいまで、東北、特に津軽の地には日本最高の狩猟採集文化があったといえる」

 著者は、近著「縄文の神秘」(学研M文庫)のなかでも「縄文時代の人口の十分の九は東日本にいた」と言う考古学者、 小山修三・元国立民族博物館名誉教授の説を紹介。同時に、西日本が照葉樹林帯であるのに対し、落葉樹のナラ、クリ、トチなど豊かな実を実らせる東日本の"森の文明"が縄文文化の背景にあった、と説明している。

 当時、日本は千島列島とつながってアジア大陸の一部であり、人口のほとんどが東日本に住んでいたとすると、朝鮮などから渡来してきた弥生人が攻めのぼるまでは、東北が"日本"の中心の地であったことは、かなり明確になる。

 青森県 東北町では、 「日本中央の碑(いしぶみ」という石柱が発見され、保存館まであるらしい。 自然石に「日本中央」という文字が刻まれているらしいが、縄文時代に文字があったという記録もなく、この碑が本物であることは、歴史的には定かではない。

 しかし梅原氏は、「蝦夷の地は、かって 『日本』と呼ばれていた」という高橋富雄・東北大名誉教授の説を紹介、中国・唐代の歴史書である 「旧唐書(くとうじょ)」 「新唐書」に「倭の国(大和朝廷)が日本の国を合して日本と名乗った」といった記述があることにふれている。

 日本とは「日の本(ひのもと)」。あの「日出ずる国」を意味する。
   それを知るだけで、日本の源流である東北の存在感への重みはいやがうえにも増してくるのだ。

 梅原氏は「古い日本の文化、いってみれば日本の深層を知るには縄文文化を知らなければならない」と、この本の表題の意味を明らかにする。

 ただ、ひとつの文化を知るには(土偶など)物の遺品だけでなく、その精神、言葉、宗教を知らなければならないが「縄文時代には、その言葉も分からず、その宗教は見当もつかない」ため「縄文研究に絶望していた」という。

 しかし、アイヌ文化を研究することによって「 アイヌ語 日本古代語の霊に関する言葉はほとんど同一であり、その意味するところもほぼ同じ」であることを発見「アイヌは、縄文人の遺民である」という結論を得る。そして、アイヌ語の研究を足がかりに縄文文化の解明に分け入ろうとする。

 そして「日本の文化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を知ることで明らかになるはずだ」と、東北への旅に出る。   なかでも、世界遺産、 平泉に関する記述がおもしろい。そして、中尊寺の国宝・ 金色堂の御物のなかに、蝦夷文化の遺産を見つけ、それがアイヌとも関係があることを示唆している。

 さらに、柳田國男 宮沢賢治の作品に縄文からの遺産をみつけ、 マタギ、山人(やまびと)が縄文の遺民であることを知る。

 そして、青森や弘前の ねぶた祭りには「縄文文化の伝統があることはまちがいない。爆発するエネルギー、そしてねぶたの外まではみ出してくるようなダイナミズム。そして人間とも妖怪ともわからない世界にさ迷うミスチシズム(神秘主義)、すべてそれは、縄文的なものである」と断言。「なまはげは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に殺された蝦夷の霊を祀る祭りである」といった見解を展開する。

 最後には再度「日本の文化、特に東北の文化の根底には、縄文文化の精神が強く残っている」と結んでいる。

 昨年の9月に、金野さんから聞いた言葉は「私は、縄文人の心を失っていない東北人です」という意味だったのか、と初めて気づかされた思いだった。

 ※その他、参考にした本
  • 「君は弥生人か縄文人か」(梅原 猛、中上健次著、集英社文庫)
      梅原猛と「縄文文化の名残りの地」と言われる和歌山県・熊野をテーマにした小説を書き続けた故中上健次との対談集。「鍋料理は縄文のなごり」という項がある。
  • 「東北ルネサンス」(赤坂憲雄編、小学館文庫)
     民族学者で、福島県立博物館館長の編者と東北に詳しい7人との対話集。編者が創った 東北芸術工科大学・東北文化研究センターの設立宣言文には、こう書いてあるという。
     「弥生史観の暗闇の中から、縄文の光が次第に大きく日本の魂を揺さぶりはじめている。・・・この東北こそ、日本に残された最後の自然―母なる大地―である。現代文明の過ちを克服し人間の尊厳を取り戻す戦いの砦である」
  • 「世界遺産 縄文遺跡」(小林達雄編著、同成社刊)
     青森県の三内丸山遺跡など、政府のよって世界遺産国内候補として2008年に指定された 「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」を解説した本。編著者は、この遺跡がある地域を「縄文津軽海峡文化圏」と呼ぶ。
  • 「縄文人に学ぶ」(上田 篤著、新潮新書)
     建築家で元阪大教授でありながら、縄文研究を続けてきた人の近著。「遺された縄文人の遺体に殺されたとみられる痕跡がほとんどない。この時代には戦争、殺人がなかった」「縄文時代が一万年以上も続いたのは母系制社会だったから」といった記述がある。


2013年8月 2日

トルコ紀行・下「カッパドキア、そして、またイスタンンブール」


 突然、舞い込んだ家事にとらわれ、このブログもすっかりご無沙汰してしまった。

 トルコに行ってからもう3カ月も経ってしまったが「上」編を書いた以上「下」編でとりあえず、締めくくらないとなんとなく気持ちが収まらない。思いだしつつ、短くともまとめてしまおう。

 トルコ3日目の4月30日。世界遺産・ カッパドキアを見るため、昼前にトルコ中部・アナトリア高原のカイセリ空港に着いた。

 アンカラ大学日本語科出身の女性ガイド、Oya(オヤ)さんに迎えられて車に乗る。ブッシュのような低木しか生えていない荒涼とした道を進む。

 「高度が1000?1500メートルあり、木が生えない」ということだったが、どこかで見た風景だと思った。このブログを始めた5年半前に旅ををしたシルクロード・黄土高原の風景とそっくりなのだ。そういえば、この地域もヨーロッパに向かうシルクロードの一部だったのだと気づいた。

 カッパドキアは、数億年まえに噴火した火山の灰と溶岩が積み重なってできた地層が風雨の浸食でできた 凝灰岩台地といわれる地形。比較的柔らかいので、多くの洞窟が掘られているほか、長年の風雨が奇岩を作りだしている。

 最初に訪ねた国立公園 「ギョレメ屋外博物館」には、重なる山に大小数十もの 岩窟教会が残っている。

 保存のために、写真撮影が禁止なのは残念だったが、単純な十字架を描いたものから、聖書の物語を見事なフレスコ画まで、多彩な遺産である。

 ユダヤ人やローマ帝国の迫害から逃れた初期キリスト教徒から始まって、10?13世紀にかけて多くの修道僧が信仰生活を続けながら描き続けたのだ。

 帰国した後、5月19日の「精霊降臨の主日」のミサで読まれた聖書「使徒言行録」のなかに「カッパドキア(カパドキア)」の文字があったことからも、ここの教会群の歴史の古さが証明されている。

 ガイドのオヤさんに、熱気球フライトに乗らないか、と誘われた。

 今年の2月にエジプトで、過去最大の 熱気球墜落死亡事故があったばかりなので「乗らないでおこう」と"堅い"決意で来たのだが、オヤさんの熱意に負けて、翌日の早朝4時半起きで、同行4人ともバルーンに乗ることになった。

 広場に点在する十数個のバルーンが、ガスの熱を受けて浮かび上がり、お互いに接触する"危険"も見せながら、雄大な岩の奇形を上下し、風に流され約1時間。

「気持ちいいー!」。トルコ人パイロットの掛け声に、ほとんどが日本人の乗客が声を合わせる。降りると、なんと草の上に木机が出され、シャンパンまで抜かれて・・・。

 ところが、同じ場所で5月末に 気球の墜落事故が起き、英国人1人が死去した。

 旅の安全についての教訓がもう一つ。

  ユルギュップのきのこ岩(現地では、妖精の煙突と呼ばれている)を見た後、オープンしたばかりという洞窟ホテルで夕食をしていて気付いた。「財布がない!」

 翌日、帰りの空港でガイドのオヤさんに事情を話し、パスポートのコピーを渡して置いたら、なんとギョレメの観光案内所に預けられていたのを見つけてくれ、イスタンブールのホテルにカーゴ便で届けてくれた。
 今から思うとラッキー以外のなにものでもないのだが「旅は細心の注意を」という教訓が残った。

 イスタンブールに帰り、国立考古学博物館でトロイの出土品やアレキサンダー大王の石棺を鑑賞、かっては貯水池だった地下宮殿のコリンント様式の柱の敷石に使われたギリシャの女神 メドウ―サの顔にギョッとし、ブルーモスクの南にあるモザイク博物館の見事な組み込みに驚嘆した。

 そのたびに、ホテルの近くにあるゲジ公園と隣の タクシム広場を抜けて、トラムなどを利用した。

 ところが帰国後の6月初め。そのタクシム広場で大規模な 反政府デモが起きたという報道に接した。

 イスタンブールで数少ない緑の憩いを感じられるゲジ公園を2020年五輪開催を目指して商業施設を建設しようとしたことにイスラム色を強める現政権への反発が加わり、デモは一時、首都アンカラまで広がった。

 そういえば、イスタンブールに滞在中、ゲジ公園のかなりの敷地を鉄のゲートに囲まれて警官隊が常駐し「メーデーの5月1日はタクシム広場は使えそうにない」というホテルからの忠告を受けたのを思い出した。

 一触即発の状況が近付いていたなかで、我々はのんびり観光を楽しんでいたのだ・・・。

トルコ紀行写真
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ギュレメ国立公園?;クリックすると大きな写真になります。
ギュレメ国立公園?;クリックすると大きな写真になります。
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トラムのなかで モザイク博物館? モザイク博物館? モザイク博物館?

2013年5月29日

 トルコ紀行・上「イスタンブール」(2013・4・27―5・6)



 トルコ・イスタンブールのアタテュルク空港に着いたのは、4月28日の早朝6時前だった。

 さっそく、空港の銀行出張所で日本円3万円をトルコリラ(TL)に替える。ガイドブックには1TL=40円と書いてあったが、急激に進んだ円安で、関西空港の両替所では1TL=75円と言われてびっくり。アタテュルク空港では55・5円だった。しかし、超円高が続いた1年も前に友人が先行して格安往復航空券を手に入れてくれていたから、おかげで気分は悠々である。

 予約しておいたタクシーは、高台に世界遺産の トプカプ宮殿を望む ボスポラス海峡沿いの旧市街地を快適に飛ばす。
 道沿いに 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代の古いレンガ造りの城壁が続いている。

 機中で読んだ塩野七生の 「コンスタンティノープルの陥落」(新潮文庫)によると、現在の新市街に布陣したオスマントルコ軍の大砲から飛んでくる巨大な石弾が難攻不落といわれた城壁を壊し、 コンスタンティノープル(現在の イスタンブール)市民を震撼させたらしい。
 しかし、主戦場は北西の陸側城門の攻防だったから、海峡沿いの城壁は現在でもよく保存されているように見える。

旧市街から金角湾を渡るガラダ橋を通り新市街地に。早朝から橋の2階歩道から釣り人が長い糸をたれている。1階はすべて魚専門のレストランフロワーで、釣りは禁止らしい。釣り人の収穫のほとんどは、イワシかベラに似た赤っぽい小魚。昼食に1階の店で食べてみたが、唐揚げにレモンと塩が結構いけた。

新市街の高台にあるホテルに荷物を置き、先行していた友人ら計4人で、タクシム広場から、イスタンタンブール最大の繁華街「イスティイクラル通り」を港の方へ下る。

1両編成の赤いアインティーク調の路面電車と車数台が時々行き交うだけで、ほとんど歩行者天国。朝食の定番というトマトやレンズ豆のチョルバ(スープ)がいける。特産のナッツ屋、蜂蜜などを使ったお菓子屋、伸びるアイスクリーム・、ドンヅオウルマの店、「濡れハンバーク(パンの上下を特製ソースに浸けてある)」は意外にうまい。
魚市場「バルック・バザール」というアーケードに入る。友人が揚げるのを試したムール貝の串揚げを楽しみ、貝に詰めたムール貝のピラフは少々冷たい。欧米にも広がっているという 「ドネル・ケパブ」(回転焼肉)は、ほとんどの店が焼く準備中だった。

イスラム教の国なのに、道沿いに様々な宗教の教会があるのが、不思議だった。

オスマン帝国は、コンスタンティノープル陥落後、イスタンブールと名前を変えたこの都市をヨーロッパとアジアを結ぶ世界都市とするため、他宗教の施設を認め、移民を奨励した。住民の4割ほどが ムスリム(イスラム教徒)以外が占める政策を取った。

「オスマン帝国」(講談社現代新書)の著者・鈴木薫は、これを「イスラム世界の『柔らかい専制』」と名付けている。

イスラム教では、礼拝堂・ モスクの大規模なものを「ジャーミイ」と呼ぶ。イスティイクラル通りに入ってすぐ北の路地にある「アー・ジャーミイ」に入ってみようと思ったが、道沿いのベンチで トルココーヒーをすすっていた男性が「2ヶ月後まで工事中。この裏のバザールはやっているよ」と巧みな日本語で教えてくれた。

 ちょうど日曜日。通りの左にあるカトリックの聖アントニオ教会では、朝8時からのミサの最中で欧米からの観光客もいて超満員だった。ビザンチン時代の1221年に修道院ができ、オスマン時代の木造教会はなんどか火災で損傷、1912年に現在の バジリカ方式のレンガ造り教会になった。イスタンブール最大のカトリック教会で、完成の時にはローマから代表団も来た、という。

 翌週、土曜日の朝、再びイスティイクラル通りを歩いていて、聖アントニオ教会の向かいに ギリシャ正教の大理石造りらしい教会を見つけた。

 入ってみて驚いた。白いあごひげを付け赤い祭服に金色の ミトラ(宝冠)をかぶった 主教が、司祭たちに抱えさせた幅1・5メートルはある竹籠にあふれた月桂樹らしい葉を群がり寄る老若男女の体に投げ、祝福を与えているのだ。なぜだか、参加者の顔が喜びに輝いている。

 なんとギリシャ正教では、翌日5月5日が、十字架上で死んだキリストの復活を祝う 復活祭(イースター)なのだ。カトリック教会では3月31日に終わっているだが、両教会の暦の違いらしい。カリック教会では、前日の聖土曜日は静かな祈りのうちに過ごすが、ギリシャ正教会では、 聖大スポタと呼び、キリストの復活を先取りするお祝いをするようだ。

 ちなみに、来年のイースターはギリシャ正教、カトリックとも4月21日・・・。

 ギリシャ正教を統括する 「コンスタンディヌーポリ総主教庁」は、コンスタンティノーブル没落後も スルターン メフメト2世に許され、今だにここコンスタンティノーブルの金角湾沿いの教会内にある。

 「民族も宗教も異にする多種多様な人々をゆるやかに包み込む」(前述「オスマン帝国」)「"柔らかい専制"」は、世界の歴史でも、あまり例がないのではないかと思う。

  「イスタンブル」(長場紘著、慶応義塾大学出版会)によると、現在イスタンブールには2000近いモスクがあるが、オスマンに滅ぼされたギリシャ正教教会が80,シナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)15,キリスト教がカトリック、プロテスタントを合わせて10,その他アルメニア正教20,その他にロシア正教、ブルガリア正教、アルメニア・カトリック・・・。

 そんな宗教建築に混じって、欧米の観光客、スカーフ姿のトルコ女性やアジア系の人も多く、ちょっと他では見られない世界都市の風景が描き出されている。

 スルターンは勝利後、3日間の略奪は許したが、捕虜になることを免れた旧市民は保護され、帰宅させた。港に寄留していた ジェノヴァ人の多くも保護された。

 ユダヤ人地区が旧住民の攻撃を受けた際には、自らの軍隊で撃退し、これを知ったエジプトなどから多くのユダヤ人も移民してきた。

 一方で、スルターンは、かってのギリシャ正教総主教座聖堂 「ハギ・ソフイア聖堂(現在の世界遺産『アヤソフイア博物館』)」など多くのキリスト教会を、イスラム教のモスクに変えた。

改造されたモスクでは、堂内正面にメッカに向かって礼拝するための 「ミフラーブ」と呼ばれるアーチ型の壁が作られた、イスラム教には、祭壇はない。博物館になっているアヤソフイアでは、旧祭壇に横にメッカに方向を向いたミフラーブが斜めの方向に向けて作られていた。

礼拝への誘い 「アザーン」を肉声で呼びかけるための尖塔 (ミナレット)も何本かモスク脇に建設された。

 今では、肉声に代って拡声器で「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なるかな)」に始まる、祈りへの誘いが、イスタンブールの街中に流れる。

 男たちは、この拡声器に誘われるようにモスクにやってきて、水場で足と手を洗い、顔を水でぬぐって、モスクに入っていく。礼拝の時間は30分ほどだが「夜明け、夜明け以降、三回目は影が自分の身長と同じになるまで、そして日没から日がなくなるまで、最後は夜」の計5回。
 といっても、集まって来るのは、1回に5,60人程度だ。それに比べると。路地のベンチでコーヒーやチャ(紅茶のこと、オレンジ・チャがうまい!)を飲んでいる男性のほうが多いように見える。

 女性の姿があまり見えないが、1日ツアーのガイドに聞くと「ほとんど家で祈る」という。モスクに来ても、入り口近くの透かし壁で囲まれた狭い空間で祈っている。厳しい"男尊女卑"に同行した女性軍は憤慨気味である。

 スカーフから衣装まで黒尽くめの女性は意外に少ない。多くの女性は青スーツに紫のスカーーフを合わせたりして、なかなかファッショナブルだ。トルコ・民主制の成果だろうか、スカーフで顔を隠さない女性も多い。エジプシャンバザールのコーヒー売り場で、スカーフをしていない女性にカメラを向けたたら、にらみ返された。

  「偶像礼拝を禁ずる」イスラムの教えにそって、モスクに変わったキリスト教会の聖像などは取り外されたり、白い漆喰で塗りつぶされたりはしたが、柱や大ドームの見事なビザンチン壁画は、幸いそのまま残された。

   「アヤソフイア博物館」では、1931年、アメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見され、トルコ共和国の初代大統領・ アタテュルクは、翌年ここを博物館とし、一般公開した。

 同じような事情で現代にまで生き残ったというビザンチン壁画を、どうしても見たいと思った。

カーリエ博物館(旧コーラ修道院)は、コンスタンティノープル陥落のきっかけになった、テオドシウスの城壁の近くにある。ホテルからは、地下ケーブルカーとトラム2本を乗り継いで行く。駅員は「駅か博物館までは分かりにくい」と・・・。

 車中で一緒になったハンガリーの若い男女4人と一緒になって探す。結局、見つけたのは「年の功」の我々だった。入る前に、道路を隔てたレストランにはいったが、アルコールル禁止だったので、しぼりたてのザクロのジュースでのどをうるおした。悠々と「水パイプ」を楽しむ客もいた。

 カーリエ博物館は、小さな庭に囲まれたレンガ造りの小づくりの建物。モスクに変えさ世良田ことを示す尖塔も1本残っている。20世紀中頃に、やはりアメリカのビザンツ研究所によって、13,14世紀に描かれたキリストや聖母マリアのモザイク画が発見された。天井や壁に描かれた見事なモザイク画を、欧米から来たと思われる観光客がほうけたように見上げている。歴史が、現代に生き返った輝きを実感する。

   ビザンチン美術だけでなく、イスラム社会が生んだ芸術にも圧倒され続けた。

 シルエットが美しいイエニ・ジャーミイ、香辛料はじめ食料品を買う客でごった返すエジプシャンバザールを楽しみ、店舗の間の狭い石段をやっと見つけ、 「リュステム・パシャ・ジャーミイ」にたどり着いた。

 ここは、訪れる観光客はおおくないが、外壁や内部の柱などをおおう 「イズミック・タイル」の美しさに目を見張る。とくに、トルコ特産のチューリップの赤とコバルトブルーの対比にはいつまでも見飽きない。

 歴史地区・スルタンアメフット地区の中心にある スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)は、朝から観光客の長い列ができていた。
 信徒とは別の入口から入り、スカーフを持たない女性は入り口で貸してもらい、男女とも靴を脱いで入る。

 同じイスラム教の国でも、サウジアラビアのメッカなどにはイスラム教徒しか入れない、という。こここにも「柔らかい専制」の伝統が生きているのだろうか。

 内部は数万枚の青いイズニクタイルで飾られ、大ドームを飾る260ものステンドグラスの窓からもれる光で青く輝いている。6つの尖塔を持つのも、世界でこのモスクだけだという。

 「トプカプ宮殿」は現在は博物館になっているが、最後の展示室は、イスラム教の開祖者であるモハメッド( ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ) の白髪、モハメッドの「足型」など、モハメッドを"神聖化"する陳列物が目白押しに置いてある。

 しかしイスラム教ではモハメッドは、モーゼ、イエス・キリストに続く最後の預言者である、という位置づけをしており、神は 「アッラー」と呼ぶ。

 つまり、イスラム教では「キリストを人間と認めながら、神性はきっぱりと否定」しているのだ。キリスト教とは、まったく相容れない宗教である。

 イスラムの聖典 「コーラン」の日本語訳を見ると「聖母マリア」の項があってびっくりする。「コーラン」には、聖書と似たところや矛盾する記述があり、簡単には理解できそうにない。

 そして、そのイスラム世界にイスラエルがカネの力で国を建設して以来、パレスチナでイラク、レバノン、シリアで・・・民族間の紛争が絶え間ない。

 昔の「柔らかい専制(共和制)」をイスタンブールの街に見つけながら、それとはほど遠い、現実の世界にりつ然とするしかないのである。

トルコ旅行写真集

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「濡れハンバーク」;クリックすると大きな写真になります 魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ;クリックすると大きな写真になります 開店準備中の野菜・果物店;クリックすると大きな写真になります 聖アントニオ・カトリック教会;クリックすると大きな写真になります トルコ特産、ナッツ専門店;クリックすると大きな写真になります
「濡れハンバーク」
 約140円
魚市場のムール貝のフライと殻に入ったピラフ 開店準備中の野菜・果物店 聖アントニオ・カトリック教会 トルコ特産、ナッツ専門店
ドネル・ケバブは、焼く準備中;クリックすると大きな写真になります トルコの炉端焼き盛り合わせ;クリックすると大きな写真になります 朝食はスープにパン、チャが定番;クリックすると大きな写真になります ブルーモスク;クリックすると大きな写真になります 港沿いイエニ・ジャーミイ;クリックすると大きな写真になります
ドネル・ケバブは、焼く準備中 トルコの炉端焼き盛り合わせ 朝食はスープにパン、チャが定番 ブルーモスク 港沿いイエニ・ジャーミイ
エミノニュ港名物「サバサンド」;クリックすると大きな写真になります ごった返すエジプシャン・バザール;クリックすると大きな写真になります 長い列ができるトルココーヒー店;クリックすると大きな写真になります 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・;クリックすると大きな写真になります リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂;クリックすると大きな写真になります
エミノニュ港名物「サバサンド」。生タマネギとレタスもたっぷり ごった返すエジプシャン・バザール 長い列ができるトルココーヒー店 黒い衣装に赤ちゃんを背負い・・・ リュステム・パシャ・ジャーミイの礼拝堂
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所;クリックすると大きな写真になります ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所;クリックすると大きな写真になります ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地;クリックすると大きな写真になります レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する;クリックすると大きな写真になります 元気なトルコの女性たちら;クリックすると大きな写真になります
イズニックタイル。その下の囲いは女性の祈る場所 ジャーミイの1階にある足や手などを清める場所 ホテルから見たボスポラス海峡。向こうは旧市街地 レストランでは、まず好きな前菜を取り、メインを注文する 元気なトルコの女性たちら
アヤソフイア博物館;クリックすると大きな写真になります 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい);クリックすると大きな写真になります 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト;クリックすると大きな写真になります 聖母子のモザイク;クリックすると大きな写真になります
アヤソフイア博物館 皇帝たちに囲まれた聖母子のモザイク 削り取られた中門の十字架(修復の計画があるらしい) 漆喰の下から現れた中央のイエス・キリスト 聖母子のモザイク
キリスと皇后ゾエら;クリックすると大きな写真になります ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿;クリックすると大きな写真になります 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像;クリックすると大きな写真になります トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい;クリックすると大きな写真になります 斬新なデザインに驚く「植物の間;クリックすると大きな写真になります
キリストと皇后ゾエラ ビザンチン時代の貯水場だった地下宮殿 地下宮殿の円柱の土台に使われたギリシャ神話・メドウーサの彫像 トプカプ宮殿の大ドーム。果物の木々が美しい 斬新なデザインに驚く「植物の間
宮殿の中庭。対岸は新市街;クリックすると大きな写真になります 閑散とした6時過ぎのグランドバザール;クリックすると大きな写真になります 陶器を物色するトルコ人母子;クリックすると大きな写真になります ディナー付きベリーダンスショー;クリックすると大きな写真になります イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会;クリックすると大きな写真になります
宮殿の中庭。対岸は新市街 閑散とした6時過ぎのグランドバザール 陶器を物色するトルコ人母子 ディナー付きベリーダンスショー イスティクラル通り沿いのギリシャ正教教会
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています);クリックすると大きな写真になります
聖大スポタの祝福を与える赤い祭服の主教(ぼけています)


  
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2013年4月11日

読書日記「カウントダウン・メルトダウンン 上・下」(船橋洋一著、文藝春秋刊)



カウントダウン・メルトダウン 上
船橋 洋一
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 著者とはちょっと面識がある。ご本人は覚えておられないだろうが、現役の経済記者だったころ、東京・某中央官庁の同じ記者クラブに所属していた。
 ずっと大阪にいたので「東京はすごい記者がいるなあ」と驚愕かつ恐れを持ったものだが、著者はそのなかでも抜きん出ていた。
 確か、京都で国際会議があった際、先斗町の飲み屋で一緒に軽くやった記憶もあり、元ボンクラ記者のなれのはてながら、その活動ぶりには注目していた。

最近は新しい著書を見かけないなあと思っていたら、すごい仕事をしておられた。

福島原発事故の後、シンクタンク 「財団法人 日本再建イニシアティブ」を設立し、この事故を民間の立場で検証する 「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」を立ち上げた。

 著者は「あとがき」で書いているように、民間事故調のレポートを出した後も、日本の危機管理のあり方に危惧感を持ち、自ら取材を始めた。

たまたま先月、東京の日本記者クラブで開かれた著者の講演を録画したYouTubeのなかでも本にした意図を話しておられるので、それらに沿って、この上・下計450ページにわたる大著をひもといてみた。

 著者はこの著者やいくつかのインタビューで「政府(官邸、官僚機構)のなかに、リスクに対応するガバナンス(統治能力)、リーダーシップが欠けていた」と、何度も繰り返している。

 
午後5時40分。NHKが、福島第一原発の2基の原子炉冷却装置が停止したと報道した。・・・
 菅(直人・首相)は、誰彼なしに、質問を浴びせた。
 「おまえら、この電源が止まったということがどれほどのことかわかっているのか」
 「大変なことだよ、これは。チェルノブイリと同じことだぞ」
 その言葉を、うわごとのようにくり返した。
 下村(健一・内閣官房審議官)は、メモの余白に書いた。
 「菅に冷却水必要」


   
池田(元久・経済産業副大臣・原子力災害現地対策本部長)は、深く感ずるものがあった。
 (政治指導者に必要なのは大局観だ。いま、日本が直面しているのは福島原発事故だけでなく地震・津波もある。すべて人々の生存の可能性が高い初動の72時間が勝負だ。そういうときは、総理はどんと構えて、司令塔の役割を果たさなければならない。総理たるもの、所作、言動、言葉遣い、それなりの風格がなければならない。それがこの人には感じられない)


 このブログでもふれたことがある俳人・長谷川櫂の 「震災歌集」に、こんな和歌があったのを思い出した。「かかるときかかる首相をいだきてかかる目に遭う日本の不幸」

 しかし著者は同時に日本記者クラブでの講演で「(管首相には)東京電力を福島から絶対に撤退させないという動物的生存能力があった」とも評価している。

 ガバナンスとリーダーシップのなさは、それまで我が国を代表する大企業と見られていた東京電力社内でもすぐに露呈した。

吉田(昌郎福島第一発電所所長)は、所長席脇の固定電話にかかってきた電話に出た。
 武黒(一郎東京電力フエロー、元副社長で官邸との連絡役)はいきなり、言った。
 「おまえ、海水注入は」
 「やってますよ」
 武黒は仰天した。「えっ。おいおい、やってんのか。止めろ」・・・
 吉田がいまさら止めるわけにはいかないと言い張ると、武黒はいきり立った。
 「おまえ、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ」・・・
 吉田は(指揮命令系統がもうグチャグチャだ。これではダメだ。最後は自分の判断でやる以外ない)と割り切ることにした。


当時の社長、清水正孝は"フクシマからの撤退"の言質をなんとか政府から得ようと、海江田万里・経済産業大臣に何度も電話で連絡をとろうとした。仮に、放射能による死者が出た場合に訴訟で訴えられるのをおそれたからだといわれる。

(清水は)「退避を考えなければならなくなるかもしれません」という内容を言葉少なに話した。
 ボソボソ話したかと思うと、黙ってしまう。
 「あー、そうですかあ」と相づちとも何とも言えない言葉を埋め草のように差し込む。
 「ぜひ、ご了解いただきたいと思いまして」
 そう清水が言ったのに対して、海江田は、「それはないでしょう」と突き放し、電話を切った。


 清水は、枝野幸男官房長官にも同じような電話攻勢をかけた。

   
枝野は、撤退には難色を示したが、清水はねばった。
 「いや、でも何とか。とても現場はこれ以上持ちません」
 枝野は、逆に聞いた。
 「そんなことをしたらコントロールができなくて、どんどん事態が悪化をしていってとめようがなくなるじゃないですか」
 清水は口ごもった。


本店の言い分だけでは、現場がどうなっているのか皆目見当がつかない。枝野は、福島の吉田所長に電話した。
「まだやれますね」
 「やります。がんばります」 電話を切った枝野は憤激した。
 「本店の方は何を撤退だなんて言ってんだ。現場と意思疎通できていないじゃないか」


東電の企業体質を如実に表す、管首相と東電会長・勝俣恒久のやりとりも記録されている。

「おまえ、死ぬ気でやれよ」
 勝俣(恒久東京電力代表取締役会長)が答えた。
 「わかっています。大丈夫です」
 「子会社にやらせます」
 「子会社に」
 その言葉に、寺田(学・内閣総理大臣補佐官)は驚愕した。


 日本記者クラブで著者が話した「日米同盟がどう対応したか」というテーマは、下巻の最初で展開される。ホワイトハウスはじめ米国側に強いネットワークを持つ著者の真骨頂だ。

   米国海軍のシュミレーションだと、風向き次第では、ブルーム(放射性雲)が東京にも届く可能性を示していた。

   
15日朝。横須賀にいた空母ジョージ・ワシントンの放射線センサーが鳴った。
 震災後、いち早く三陸沖に到達した空母ロナルド・レーガンはセンサーが鳴ったとたんに離脱し、その後二度と近づかなかった。
 空母ジョージ・ワシントンも、ただちに出港の態勢に入った。


   「米海軍関係者」としか著者が書いていない匿名談話が載っている。

 
「これらについても米国の同盟維持へのコミットメントの観点からは、ちょっとどうかという見方もあるだろう。自分もロナルド・レーガンに乗っていたが、沖の方遠くへと離れる時は個人的には申し訳ないと思った」
 「しかし、空母というのは米国の国家防衛の王冠のようなものなのだ。もし、空母が放射能汚染された場合、世界を回ることができなくなる。各国ともわれわれを追い返すだろう。アクセスが難しくなるもしそうになつた場合、国家安全保障上の大問題となる。ウイラード海軍大将(ロバート・ウイラード米太平洋軍司令官)はその点を早くから見抜いていた。この問題は今日だけの問題ではない。それは向こう30年、40年に及んで深刻な影響をもたらす、それを彼は怖れたのだ」


 一方で米軍は、JSK(統合支援部隊)が行うトモダチ作戦の司令部を設け日米共同で除染作戦をした。
 米国務省も、日本側と支援のための協議を続けた。しかし、日本側の態度はかたくなで、情報が伝わってこなかった。

 
情報なしに支援はできない。
 日本は支援される作法を知らないのではないか。
 「『Trust us(信じて)』と言われても、こちらは支援できない。・・・」  米国務省高官(これも匿名)は、そう言った後、つけ加えた。
 「二国間同盟でもっとも緊張するときというのは、われわれは相手の中に本当のところは入れてもらっていないのではないかと疑い、苦悩するときなのだ。日本側は(炉や燃料プールの状況を)知らないのか、それとも知っているのに何かの理由でわれわれと共有しょうとしないのか、われわれはそれもわからなかった」


 米政府は、危機の過程で「政府一丸(whole of government)で対応してほしい、と何度も求めた、という。
 「日本政府は統治能力を欠いているのではないか。と彼らは怖れたのである」

海上自衛隊将校の1人はこう述懐した。

「有事のときのアメリカ、それはない。そのことを思い知った。いざというとき、アメリカは逃げる。軍属の安全をタテに逃げるだろう。日本の安全、アメリカが最後の頼り、それもない、それらはすべてフィクションだった」
 「アメリカがホコ、日本がタテ、といった役割分担、それは現実には起こらない。日本がホコにならない限り、アメリカは日本を助けに来ない」


官邸内では「最悪のシナリオ」について、様々な"イメージ"が飛び交っていた。官邸スタッフの1人は、こう語ったという。

「原子炉の中の水が減ってきて、燃料棒がばたんと倒れたら、原子炉の底が抜けて核物質がドーンと落ちる。コンクリートを突き破って、いずれ地下水に至れば、そこで大水蒸気爆発。そうなればチエルノブィリだ。福島第一、第二あわせて10機の炉が吹っ飛ぶことになる。総理は『そうなれば、東アジア全体が大変なことになるんだぞ』と、おっしゃっていた。大規模核汚染をわれわれは本当に心配していた」


伊藤(哲朗)は、内閣危機管理監として「官邸機能の維持」に責任を持っている。
 (関西地方に逃げる以外ない。ホテルを借り切って、そこで一時的にしのぐ以外ないのではないか)
 そんな考えが頭をよぎつた。
 それから、天皇皇后両陛下に避難していただかなくてはならない。
 (こちらは九州まで足を延ばしていただくことになるかもしれない)


原子炉の内部を探索するのに、米国製のロボットが活躍した。しかし「ロボットは、日本のお家芸ではなかったのか」という疑問が著者の頭から消えなかった。取材の結果、こんなことが分かった。

米国では電力会社が、原発事故対処用のロボット開発のパトロンとなったのに対して、日本では、電力会社がロボットは安全神話を毀損するものと警戒し、抑えつける側に回った。結局、原子力災害用のロボット開発には補正予算を一回つけたきりで終わった。
 補正一度限りにするため、「維持費も大変」という理由をつけた。
 政府もまた、電力会社に追随し、一緒になつて安全神話を担いだのである。


今回の福島原発事故から得た教訓は、管(元首相が)が、2012年5月の「国会事故調」で述べたことに尽きるのではないか。
 そんな思いからだろうか。そこでの管の証言でこの本は終っている。

「かつてソ連首相を務められたゴルバチョフ氏がその回想録のなかで、チェルノブイリ事故は我が国体制全体の病根を照らし出したと、こう述べておられます。私は、今回の福島原発事故は同じことが言える。我が国の全体のある意味で病根を照らし出したと、そのように認識をいたしております」


「戦前、軍部が政治の実権を掌握していきました。そのプロセスに、東電と電事連を中心とするいわゆる原子力ムラと呼ばれるものが私には重なって見えてまいりました。つまり、東電と電事連を中心に、原子力行政の実権をこの40年間の問に次第に掌握をして、そして批判的な専門家や政治家、官僚は村のおきてによって村八分にされ、主流から外されてきたんだと思います。そして、それを見ていた多くの関係者は、自己保身と事なかれ主義に陥ってそれを眺めていた。これは私自身の反省を込めて申し上げておきます」


チェルノブイリ事故をきっかけにソ連が崩壊したことは、以前にこのブログでやはりふれたことがある。

はたして日本は、このまま崩壊していくのか。それとも放射能汚染のない新しいステージに向けて再出発する勇気と決断を持つことができるのか?

著者は、日本記者クラブでの質問に答えて、これからの危機管理で長期的に考えなければならないのは、人口問題、国債問題、そして福島事故の今後の3つだと答えた。

不毛の地となったフクシマを再生する責任は誰がどこまでとり、生活の場を奪われた人々の生活を以前のようにとりもどせるのか、原発再開の動きが知らない間に現実となろうとするなかで、今回の危機管理不在の状況を教訓とできるのか・・・。

そのことをぜひ続編で書いてほしいと、元ボンクラ記者は切に願う。

(付記)
 日本記者クラブでの講演録画で聞いたある質問にア然とさせられた。
 「著者が民間事故調でレポートを出してから、この本を書いたのはなぜなのか。ジャーナリストなら、最初からこの本を書くべきではなかったのか。やり方が"あざとく"みえる」
 質問者は、筆者がいた新聞社の人らしいが「男のしっと」発言としか思えない。ジャーナリストを自称する人種のなかには、あまり品のよろしくない方もおられるようで・・・。

2013年3月28日

出雲紀行・下「出雲大社」、読書日記「古代出雲大社の復元」(大林組プロジェクトチーム編)、講話「出雲大社巨大本殿は実在したか」(黒田龍二・神戸大大学院教授)



古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて

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 昨年の11月3日。松江市で 「松本竣介展」を見た後、出雲大社へと急いだ。大社周辺で 「神話しまね博」が開かれている連休とあって混雑を覚悟していたが、それほどでもない。神話博の評判はもう一つだったらしい。

 出雲大社では、60年に一度の 「平成の大遷宮」が今年の5月10日に行われるのを目前にして本殿周辺は工事用の塀で囲まれていたが、拝殿(現在は御祭神、大国主大神の仮の住まいである御仮殿)近くから見ると、 大社造り、茅葺きの大屋根はほぼ葺き終わったように見える。屋根の上の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ) が後ろの八雲山の頂上に迫るように大きく見える(写真?)。高さ8丈(約24メートル)と、日本一高い神社だ。

神楽殿の注連縄(しめなわ)も長さ13メートル、重さ5トンと日本最大級(写真?)。前の広場にある国旗掲揚台の日章旗も日本最大。古代出雲王朝の"遺産"はけたはずれに大きい。

 拝殿の前にもう1つ、どでかい"遺産"が残っていた。

 拝殿前のコンクリートの広場に、円を3つ束ねた橙色のサークルが3ヶ所に印されており、参拝者がしきりにカメラを向けている(写真?)。

 これが2000年4月に発見された巨大な3本柱遺跡を示すものだった。直径1・1?1・4メートルの杉材を3本1組に束ね、合わせて直径が約3メートルにもなる巨大な柱の跡が3ヶ所から出土したのだ。

 発見されたうち手前3本の 「宇豆柱(うづばしら)」は保存処理を終わり重要文化財に指定されて、いつもなら近くの 島根県立古代出雲博物館のロビーに展示されているが、ちょうど東京国立博物館で開かれていた 特別展「出雲―聖地の至宝―」に出品されていて留守。それでも、境内の「宝物館」の前に展示されているコンクリート製の模型からも、遺跡の柱が支えていたかっての出雲大社の巨大さがうかがえる(写真?)。ちなみに、現在の本殿の柱は、1組0・7メートル強から1メートル強らしい。

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ);クリックすると大きな写真になります 神楽殿の注連縄(しめなわ);クリックすると大きな写真になります 巨大な3本柱遺跡;クリックすると大きな写真になります 「宇豆柱(うづばしら)」の模型;クリックすると大きな写真になります
写真? 写真? 写真? 写真?


 平安時代に編纂された児童教養書 「口遊(くちずさみ)」 「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という数え歌が載っているという。当時の「大屋(巨大な建物)」のうち、出雲大社が太郎で1番、大和の大仏殿が2番、3番が京都の大極殿、というのだ。
 それを スケッチすると、こんな比較になるようだ。

当時の大仏殿の高さは約約15丈(約45メートル)。出雲大社には「上古32丈、中古16丈」という口伝が残されている。現在でも8丈(約24メートル)もの高さを誇る出雲大社は上古には32丈(約96メートル)、中古には16丈(約48メートル)と大仏殿より高かった、という。 48メートルといえば、14階建ての高層ビルに匹敵する。

 オオクニヌシが「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことを条件に、お隠れになったという古事記の記述にそって、こんな巨大な神殿が造られたのか。

 それとも、日本海沿岸各地に残る真脇遺跡 チカモリ遺跡などの縄文遺跡や諏訪大社御柱祭に受け継がれてきた巨木文化、巨木信仰が、出雲大社を高く、大きく建造しようとした源なのか。

 それよりなにより「上古32丈、中古16丈」という口伝は真実なのだろうか。

 "巨大神殿"のロマンを探しに、拝殿から歩いて10分弱の県立古代出雲博物館に向かった。

予想外に混んでいる。ロビーから左に入った展示室の大きなガラスケースのなかに「出雲大社御本殿復元模型」(写真?、?)が5つ並べられていた。

5人の古代建築史の研究者が、自分の持つ学説にそって、発見された巨木遺跡の全体像を50分の1の模型で再現しようしたものだ。向かって左の一番低いものが現在の大社と同じ8丈(約24メートル)、真ん中の2つが11丈(約33メートル)、右側2つは16丈(約48メートル)と、一番高い。

それぞれの研究者の再現根拠を説明したボードも掲示してあるが、なぜかガラスケースの向かって左側に、十六丈神殿の10分の1模型(写真?、?)が天井まで届くように展示されてある。
 「やはり十六丈の高さが見栄えがする」という、その筋のお声がかりで出来上がったとか。制作は、松江工業高校の生徒たちだという。

「出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります
写真?:出雲大社御本殿復元模型 写真?:出雲大社御本殿復元模型 写真?:十六丈神殿の10分の1模型 写真?:十六丈神殿の10分の1模型


izumo taisha-00.jpg  大手ゼネコン(建設会社)の大林組は、この16丈本殿の建設が可能であったかを実証し、CG(コンピューター・グラフィックス)上で、巨大神殿を復元(右図?)してしまった。拝殿前で、巨木遺跡が出土した10年も前のことだ。

 この成果は、当初、同社の技術誌「古代出雲大社の復元 失われたかたちを求めて」(上掲)(監修・故・福山敏男、大林組プロジェクトチーム編、学生社刊)として発刊された。

 故・福山京大名誉教授、大林組が、16丈本殿実玄の根拠としたのは、出雲大社の歴代宮司家である 千家國造家に秘蔵されてき神殿の平面設計図・「金輪御造営差図」だった。

 この差図(設計図)には、3本の柱を金輪(鉄の輪)でくくって直径3メートルの柱とし、正方形の9ヶ所に建てた平面図。後に見つかった巨木遺跡とそっくりなのだ。  残念ながら高さは書いてなかったが、階段(引橋)の長さが1町(約109メートル)と書いてあった。

 プロジェクトチームは、これを第1次資料に、コンピューター上で構造解析や地震時の揺れのシュミレーションなどを繰り返し「16丈本殿の建設は可能だった」という結論を導き出した。

 この結論に反論しているのが、島根県立古代出雲博物館で「11丈模型」を制作した 黒田龍二・神戸大大学院教授

 出雲大社に同行した友人Mから「『出雲大社巨大本殿は実在したか』という講話があるようだ」と聞き、朝日カルチャーセンター川西教室で1月から月1回、計3回行われた黒田教授の話しを聞きに行った。

 渡されたレジメには「16丈本殿論争は明治時代から続いており」「その1つが、平成元年からの『黒田龍二VS大林組』」という記載があった。

講話のなかで黒田教授は、長く神社建築史を研究してきた立場から「9本の柱で、100メートルの階段(引橋)を支えるのは難しい」「ただ高い、というのは異様であり、大仏殿より高いというのは論理がねじれている」と、「金輪御造営差図」や「雲太、和二、京三」から、高さ16丈の本殿が実在したというのは無理がある、と主張した。

 黒田教授が「11丈本殿」の根拠にしたは、鎌倉時代のものといわれる出雲大社の古絵図;クリックすると大きな写真になります"出雲大社の古絵図 「神郷絵図」(左:図?)。「門と本殿の高さの釣り合いが取れている。11丈でも少し高いと思うが、根拠になるものが、これ以外にはない」という。

 ただ、平安末期から鎌倉中期にかけて「本殿は5度にわたって倒壊した」という記録が残っている。しかも、大陸から石の土台を築く技術が伝わっても、掘立柱の巨大神殿にこだわったのではなぜだろうか。

 そこに、古代王朝から脈々と伝えられてきた出雲文化の独自性とロマンが感じとれて、興味が尽きないのだ。

(追記:20130/3/29)  このブログを書いた翌日の読売新聞社会面に「出雲大社 本殿造営の記録」という記事が載った。  島根県立出雲歴史博物館が、 「北島國造家」の調査したところ、慶長年間(1596年?1615年)に豊臣秀頼によって本殿を造営した際の「本殿の規模などを記した記録が見つかった」と書いてある。
 江戸時代の延亨元年(1744年)に造営された現在の本殿より以前のものだから「ひょっとすると、16丈本殿?」と、同博物館に問い合わせてみた。
 残念ながら、6丈5尺(約20メートル)と現在の本殿の8丈(約24メートル)より小さかったことが分かっという。同博物館学芸員の記述によると「中世の社会的混乱もあり、16世紀末には4丈5尺(約13・5メートル)の高さになってしまった」という歴史の流れが生んだ高さなのだろう。  しかし、驚くような事実も分かった。「天井に龍が描かれ、極彩色がほどこされていた」と記録されていたのだ。同感の学芸員は「当時の豪華華麗な 桃山文化を反映したものだろう」と話す。  徳川時代の「延亨遷宮」のときも、幕府はこの流れを継承しようとしたが、出雲大社側の強い要望で、現在の白木の簡素な神殿になったらしい。  "16丈伝説"への夢はつきないが、こんな事実が後世に突然顔を見せてくれるから、歴史っておもしろい!

2013年3月22日

読書日記「葬られた王朝―古代出雲の謎を解くー」(梅原 猛著、新潮文庫)


葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫)
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 昨年末、松江に「松本竣介展」を見に行くのを機会に「出雲大社」に寄ってみようと思った。

 ちょうど大社周辺では、古事記編纂1300年などを記念して 「神話博しまね」が開催されていることも知り、事前に古代出雲や神話の本を読みあさった。

 これほど多くの関連本があふれているとは・・・。考古学者や歴史学者、博物館の学芸員、出雲国造と呼ばれる宮司、街の学者といわれる人などが、口々に「出雲王朝は現存したが、大和王朝に抹殺された」「出雲に支配勢力など存在しなかった」「いや実は、ヤマトをつくったのは出雲人」などと、てんでに主張している。

 そんななかで遭遇したのが、表題の本。分からないままに3回ほど読み返し、古代出雲王朝と古代神話とのつじつまが合うように思えて、古代出雲への興味が深まっていった。

 実はこの本の「はじめに」でふれているように、著者は40年ほど前に刊行した「神々の流竄 」 (集英社文庫)に記載したことが誤りであったことを自ら証明するために、表題の本を書いたと告白している。

神々の流竄 (集英社文庫)
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    「神々の流竄 」で梅原氏は「出雲神話は大和神話を出雲に仮託したもの」と主張した。古事記には、出雲神話が全体の3分の1を占めているが「出雲」という国や勢力が実在したわけではなく、出雲神話は大和の政権内で起きた数々の事件を、出雲の地に置き換えて語っている、としたのだ。

 これでは「出雲神話ばかりか、日本の神話そのものを全くのフィクションと考える津田左右吉の説と変わりがない」。戦後の歴史家の多くもこの説を採用し続けた。
 それは「出雲には神話にふさわしい遺跡がない」ことも根拠になっていた。

 ところが、出雲では考古学上の大発見が相次いだ。1984年、85年には、出雲市斐川町の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が見つかった。銅剣の本数は当時の国内出土総数を上回る数である。1996年には、荒神谷遺跡から山を隔てて3キロ強しか離れていない雲南市加茂町の 加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これまた日本最大の銅鐸出土数であった。

 そこで梅原氏は「学問的良心を持つ限り、出雲神話が全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならない」と、古事記に書かれた神話がいかに考古学的遺物によって裏付けられるかを確かめるために出雲への旅に出る。

 筆者はまず「出雲王国は スサノオから始まった」と、 「ヤマタノオロチ」伝説の分析から始める。

 古事記には、次のように書かれている。

   「その目はほおずきのように赤く、八つの頭と八つの尾があり、その身体には苔と 槍と杉が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、その腹はい っも爛れています(抄訳・筆者)」

 
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。・・・ヤマタノオロチとは、人民を苦しめる強くて悪い豪族を指すのかもしれない。出雲王国の交易範囲は、西は朝鮮半島・ 新羅から東は(こし、現在の北陸地方)に及んでいた・・・。そしてこの越の国からやってきた豪族が出雲の山々を支配し、・・・人々を苦しめていたのではなかろうか。その強く悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませ、油断させ、皆殺しにしたのではなかろうか。


 スサノオから数えて6代目の子孫である 国津神 オオクニヌシ「国引き神話」について、著者はこう解説する。

 オオクニヌシは、朝鮮半島・新羅の岬や隠岐、越の国から余った土地を引いてきて現在の島根半島を完成させた、というのが「国引き神話」の骨子。

 
この国引きをどう考えるかは問題だが、それは、かつて島であった島根半島が海面下の地盤が隆起によって本州と陸続きになり、また火山灰が堆積するなどして陸地が飛躍的に増えたことを祝賀する話であると考えるべきであろう。
 日本列島において海面が最も高くなった縄文海進は、今から約六千年前のこととされる。その後、時間の経過とともに海面下の地盤が隆起し、火山灰が堆積して現在のような広大な平野ができたと考えられている。ちょうどその頃が弥生時代にあたり、出雲の稲作農業に携わった当時の民衆は耕地が増えたことを心から喜んだに違いない。


 「因幡(いなば)の素兎(しろうさぎ)」という話しには「他愛のないメルヘンではあるが、・・・政治的な意味合いが含まれている」と、梅原氏は見る。

 
ウサギが住んでいたのは隠岐島であるが、対岸の因幡の地は鳥取の 妻木晩田(むきばんだ)遺跡が示すように、豊穣な地であり、農業文明が繁栄していたとかんがえられる。そのような本土の地を、繁栄とはほど遠い隠岐島に住でいた素兎は羨望し、なんとか海を越えて本土に渡ろうとしたのであろう。その手段として、ワニを欺いたわけである。しかし、最後まで嘘を貫けばよかったのに、どこか正直者で嘘をつけない素兎はつい本当のことをしやべってしまった。
 これは、隠岐島から本土へ移住しょうとする島民と、その移住を手伝った船頭との間に起きたトラブルを思わせる話である。


 その後、出雲の王国を継いだオオクニヌシは、越も支配し、日本海沿岸に強大な勢力を持つ大国となり、続いて南進して、ヤマトを征服しようとする。
 このヤマト征服の旅は「オオクニヌシの大勝利に終わったことは間違いない」と著者は語る。

   
関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名を伝える場所がはなはだ多い。・・・
古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地を多くの出雲人が住んでいたとみるのが、もっとも自然だろう。


 しかし、オオクニヌシの出雲王国は、内部分裂と韓の国からきた アメノヒビコという強力な神に追い詰められて崩壊の危機にたつ。そして、ついにヤマトから使者がやってくる。
  「国譲り」神話である。

 オオクニヌシは、大きな大社を建造することを条件にお隠れになる。

 梅原氏は「隠居」とも「稲作の海に隠れた」とも書いている。"自決した"という事かもしれない。

 次に梅原氏は、さきに書いた荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した青銅器が、どのような形でスサノオ、オオオクニヌシの「出雲王朝の歴史に結びつくのか」を考えるために調査を続け「銅鐸の起源は出雲にある」という結論を得る。

 そして「これほど大量の青銅器を所有したのは地方の豪族であるか、それとも王であるのか」と、考古学者や歴史学者に問いかけた、という。

彼らはしばらく沈黙し、首を傾げながら「王としか考えられませんね」と答えた。王だと言えば、私とともに彼らが今まで信じていた「出雲王朝は存在しなかった」という説は覆ってしまうのである。・・・これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく出雲王朝の大王であり、おそらくオオクニヌシといわれる「人」であったに違いない。


 さらに「荒神谷遺跡などから出土した銅器に『?』印がついているのは、死者に贈られたものの印だろう」とする一方、こんな推論をしている。

荒神谷遺跡は 「出雲風土記」に記された ヤマトタケルの家来が住みついた地であった。それは出雲の神の反乱を恐れたヤマト朝廷が派遣した進駐軍のような軍隊であったと思われる。おそらくそこはかつてイズモタケルが住んでいたところで、イズモタケルは、『古事記』 が語るようなオオクニヌシ政権崩壊後もなお細々ながら十七代紋いた出雲王朝の最後の王であったのではなかろうか。とすれば、そこはかつてオオクニヌシの住んでいた宮殿があったところである。そしてその町外れの小さな丘の中腹に、オオクニヌシの大切にしていた青銅器を埋めて、黄泉の回の王となったオオクニヌシに贈り届けようとしたものと考えてもおかしくはない。


 ちなみに、現在オオクニヌシが祀られている出雲大社は、荒神谷遺跡から西北に10数キロのところにある。

▽その他、参考にした本

  • 「出雲と大和」( 村井康彦著、岩波新書、2013年1月刊)
      大和の中心三輪山に出雲系の神が祭られていることなどを理由に「出雲勢力は早くから大和に進出し、< 邪馬台国も出雲人が立てたクニだった」という新説を打ち出した。
      著書には、茶の湯などいわゆる京都学のものが多いが、突然の"古代史"帰り・・・?。

  • 「出雲大社の暗号」( 関 裕二著、講談社刊)「『出雲抹殺』の謎」(同、PHP文庫)
      著者は、独学で日本古代史を研究した歴史作家。「出雲を解くヒントは、祟りである」と書く。

  • 「出雲の古代史」(門脇禎二著、日本放送教会刊)「古代日本の『地域王朝』と『ヤマト王朝』(上)」(同、学生社刊)
     著者は、京都府立大名誉教授の歴史学者。「1世紀ごろスサノオに率いられた朝鮮の東海岸から渡来した新羅人系統集団 "スサ族" が先住の 海人族を駆逐、2世紀には出雲の砂鉄地帯を占領した」と解説している。

  • 「『出雲』からたどる古代日本の謎」(瀧音能之著、青春出版社刊)
     著者は、日本子古代史が専門の駒沢大学教授。「出雲と九州・宗像との親密な関係」についての記述が興味をひく。「ヤマト王国が出雲にこだわったのは、新羅を仮想敵国と見ていたから」とも。

  • 「古代史コレクション? 古代史を疑う」(古田武彦著、ミネルヴァ書房刊)
     著者は、高校の教師を長く勤めた異色の古代史研究家。「古代、中世には多くの王朝が並列していた」という 「多元王朝説」を展開している。

     

2013年2月20日

読書日記「偏愛ムラタ美術館 ?発掘篇?」(村田喜代子著、平凡社)


偏愛ムラタ美術館 発掘篇
村田 喜代子
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    前著  「偏愛ムラタ美術館」のことをこのブログに書いたのは、もう3年前になる。

 著者は最近、熱い気持ちで絵画を鑑賞する気持ちがなくなってきた、という。「そこへ編集部から『もう一度やりませんか』と声がかかった。『うれしい。また好きな絵にたっぷり浸ってみよう』と、この本が誕生することになった」

 1970年代のイギリス。アルフレッド・ウオリスという船乗り上がりの老人が「老妻に死なれた70歳過ぎになって、誰に習うともなく翻然と海と船の絵を描き始めた」
 その家の前を通りかかった2人の画家が、家のなかの壁という壁に、船用のペンキで船や海を描いた板切れや厚紙の切れ端やらが釘で打ち付けられているのを見つけた。

「青い船」(1934年頃、 テート・ギャラリー蔵)は「たぶんウオリスの書いた船のなかで一番美しい絵」と著者は言う。たまに、展覧会などに貸し出されると黒山の人らしい。

 しかし多くの絵は船や灯台、建物がみんな勝手な方向を向いている。ウオリスは、1つを書き終えると紙を回して次の端を手前にして描くため「画面には天地が何通りもできる」ようだ。

 著者は山下清の文章を思い出す。

 
山下清の文章は超現在進行形だ。今、今、今というふうに現在が連なっている。出来事を時間の経緯の中で書くことができないのだ。山下清もぐるぐると紙を回しているのである。


 例えば、こんな文章。
 「犬が二匹あとからついて来てしばらくたってから犬が向こうへ行ってしまつた」

 
天地無用のウォリスの絵にも、その時間軸が抜け落ちている。絵をぐるりと回して今描いている部分が、唯一の真正面、現在というわけだ。そうやって眺めると、ウォリスの絵には過去がない。思い出がすべてといえる海の絵なのに、昔がない。天地無用のペンキの絵には、犬やおじさんのことを書いていた山下清の文章みたいに、現在だけが強烈にあり、そして過去がないのだから未来もない。その無時間性がペンキのくすんだ玩具箱に漂っている。


   細密画家の瀬戸照の絵を見て「よくこんなにそっくり描いたなあ、とシロウトはまずそこから感心する」と、著者は切り出す。

  「石」2008年)は「下書きを始めて五年ほどかかったという。・・・本物そっくりだ。いや、本物の石より、石らしい。・・・わざわざ絵に描くのだから、狙いは本物そっくりではなく、それを越えたものだろう」

    
絵を細かく措くときは、点描が適していると彼はいう。細かい点を重ねると、複雑な色の効果が出るらしい。
  面相筆を二本使って、細い筆で点を置き中細で面を塗る。葉などを措くときは葉脈で囲まれたところを1ブロックとして、その中を丹念に描くようにする。葉の起伏がはつきりしてくるころから、いよいよ点で塗り始める。
 ・・・いったいこれらの絵は、どのくらいの移しい点が打たれたのだろうと思わずにはいられない。こんな根気のいる細密画は、絵描きの精神世界を覗くようである。


 先月初め、東京が大雪に見舞われた前日に東京・竹橋の 東京国立近代美術館 開館60周年記念特別展「美術にぶるっ!」を見に出かけた。閉展前日とあって、かなりの人で混んでいたが、人の間に見えた絵画に見覚えがある。

 この本で見た、日本画家・横山操の代表作、「塔」(1957年、東京国立近代美術館蔵)だった。東京谷中の五重塔が無理真鍮の男女によって放火、炎上した事件を題材にしたものだ。

  
壊れてはいない。五重塔の外皮を剥ぎ取って、建物の稲妻のようなスピリチュアルだけが立っている。むしろ焼けて不動の中身が、今こそ露わになった。そんな感じだ。このふてぶてしい骨組み。塔は気合いで立っていて、グラリとも揺れていない。まるで、世の中のことはこのようにあらねばと言っているようだ。
 無惨さも痛ましさもない。人間世界の感傷とは無関係に、ただもう大地に食い割って土台を下ろした、五重塔のダイナミズムが立ちはだかっている。
 弁慶の立ち往生だ。


 著者は、映画監督黒澤明の絵コンテが好きだ。  ところが、著者の芥川賞受賞作「鍋の中」を原作に1991年に公開された 「八月の狂詩曲」の1場面 「『八月の狂詩曲』ピカの日」には驚いた。長崎原爆の日、最初はなにもない青空に、突然、閃光が走り、大目玉がすこしずつせり出してくる。

  
この目玉のまん丸い中心の凄いこと。細かな縦線をびっしりと措き込んで、ぼうぼうと生えた睦毛といい、見る者をギョツと驚かせる。添え書きの文句といい、黒澤がいかにこの場面に執着したかがうかがわれる。
 しかし原作の『鍋の中』には、原爆の話は一度も出てこないのである。田舎の祖母の薄れかかった記憶の底に原爆の巨大な影を染め付けたのは、黒揮監督の勝手な脚色だった。
 年寄りの不確かな記憶の他にこそ恐ろしさと面白さを込めて書いたのに、映画ではピカの大目玉が炸裂して謎解きをしてしまったというわけだ。


 著者がシナリオを読んだときには、撮影はもう進んできた。「会いたい」という黒澤監督の要請を、著者は「ずうーっと」拒否した。

 しかし映画を見た感想を、著者は雑誌にこう書いた。
 「ラストで許そう黒澤明・・・。」

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 著者は「長い間、熊谷守一という長寿の画家の絵には、とんと関心が湧かなかった」

 それが数年前に 「ヤキバノカエリ」(1948?56年、岐阜県美術館蔵)という絵を見て衝撃を受けた。

  
この絵には・・・人焼きのすんだ後のからんとした情景が頼りないほど単純化してしまっている。遺骨の入った白い箱を抱えた顔のない家族が、何だかさっぱりしたような、脱力したような、ふわふわした足取りで帰路を歩いてくる。
 あんまり妙な絵なのでじっと見ていると、息が詰まってくる。単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような......。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする。

  「白猫」(1959年、豊島区立熊谷守一美術館蔵)の「輪郭線は命の形のぎりぎりをなぞっているように思う」

  
命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる。


 「まずは、この不敵な老婆の群像を見てほしい」と著者は切り出す。

 2005年に死去した画家貝原浩が描いた、26年前の チェルノブイリ原発事故の風下の村々の住んでいた「ベラルーシの婆さまたち」(2003年、貝原浩の仕事の会蔵)の「風貌のいかついこと。・・・猛々しく、頑固でギョロ眼をむいた、屈強な老婆が・・・ずらり十三人」

  
村々には立ち入り禁止の放射能マークが立つ。その村には「サマショーロ」と呼ばれる人々が暮らしている。行政の立ち退き指示に従わず戻ってきた「わがままな人」という意味だ。老婆たちの面構えには、その「サマショーロ」の真骨頂が現れている。


 著書の後半部で 「松本竣介」が登場したのには、ちょっとびっくりした。

 実は、横山操の項で書いた「美術にぶるっ!展」を見に東京まで出かけたのは、昨年秋に松江市で開催された「生誕100年 松本竣介」で見ることができなかった竣介の遺作「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)をどうしても見たくなったためだった。 

 近代美術館のすごいコレクションに圧倒され、同行した友人Mに注意されなければ、この絵をもう少しで見落とすところだった。だが、この絵の前に立った人たちは皆、この絵が竣介の遺作であり、現在「生誕100年展」が巡回している東京・ 世田谷美術館では見られないことを話題にしていた。

 著者は、ふと両手で耳をふさぎ、また離してみて、竣介が13歳で聴力を失うまでは音の世界を知っていたことに気付く。

  
そうか。そうだったのか。そのようにして見ると、遺作となった『建物』は、なぜかそれまでの絵と違って空気の止まった感がない。それどころか何か音楽が湧き出ているような自然さで、白い建物は闇に咲き出た白薔薇みたいに美しい。
 ステンドグラスの丸い窓がついたこの建物は、大聖堂のようである。白い壁は柔らかで中にいる者を包み込むように優しい。外は夜の闇がたちこめて、建物の内部は明かりが灯って人影らしきものが透けて見える。賛美歌が漏れ出してきそうな気配である。
 どうしてこの絵には閉塞感がないのか。世界は今宵ふっと息を吹き返したようである。
 安息の安らぎのようなものがある。短い人生の最後に奇蹟みたいに松本竣介がこの美しい 夜の聖堂の絵に辿り着いたと思うと、私は嬉しい。


2013年1月30日

読書日記「原発をつくらせない人びとーー祝島から未来へ」(山秋真著、岩波新書)


原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)
山秋 真
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  著者は、能登半島・珠洲の原発建設反対運動を長く取材してきた女性ジャーナリスト。

  祝島のことは、この ブログでもふれたことがあるが、著者は対岸の半島に計画された 上関原子力発電所建設に反対する、島のおばちゃんたちのすさまじい闘争の歴史を綴っている。

 「1982年から30年間、毎週月曜日のデモ(島の中を30分歩く)は1150回を数えた」「寝間着を着て寝ることもなく、夜中の"警報発令"に備え、島の女性は夏も冬もズボンをはくようになった」

 「スイシン(原発推進派)の議員が夜の便で帰ってきたのを、おばちゃんたちが船着場に集まって、あがらせんかったこともあった。・・・機動隊がきても、それをあがらせんかった」

 海の埋め立て工事が始まった2010年からは女性(多くは80歳を過ぎた!)女性を中心に数名づつ、祝島から 田ノ浦へ毎日交替で通い始めた。浜にブルーシートを敷いて寝転んでいるだけ。「どんな言葉より雄弁な意思表示だ」

 原発計画が浮上して間もないころ、祝島の漁港前の看板に、こんな歌詞が書かれた。

       
上関原発音頭
(四)
 オシャカ様さえ言い残す
 金より命が大事だ
 人間ほろびて町が在り
 魚が死んで海が在り
 それでも原発欲しいなら
 東京 京都 大阪と
 オエライさんの住む町に
 原発ドンドン建てりやよい
 ここは孫子に残す
 原発いらないヨヨイのヨ
 反対反対ヨヨイのヨイ


 中部電力は、田ノ浦の浜を封鎖しようと、警備員を使ってスクラムを組み、人間の壁を作った。
 スクラムのなかで身体をはる人に食べ物を届けたくても、聞いてもらえない。仕方なく、食べ物を上から投げ込んだ。それでも「食べる暇ないし、食べたい気もしなくて、気づいたら三日ぐらいで三キロ痩せていた」

 中電は、田ノ浦湾に海上から出入りさせないために入り江の入り口にオイルフェンスを張ろうとした。カヤックに乗った応援のひとたちがフェンスの端をつかみ、陸へと引っぱりつづけた。それを女性たちが岩のうえへと引き上げた。
 中電側は工事施工区域で妨害するなと大音量マイクでくりかえしたが、祝島の船からは「ここは公有水面じゃろうが」という声が飛んだ。「海を汚さないように、ずっとお願いしているんですよ」。祝島の漁師たちは、反対を始めた最初からの"規範"を忘れず繰り返した。

 2011年3月11日の不幸な事故の4日後、中電は工事の「一時中断」を発表した。

 「漁に出る回数が多くなりました。・・・工事中断後、 カンムリウミスズメという絶滅危惧種にあう機会も多くなりました」

 しかし、漁業補償金をめぐるゆさぶりは続き、島の過疎化は進み、賛成と反対派住民との"亀裂"も消えない・・・。

 ▽参考にした本
 ※「原発のコストーーエネルギー転換の視点」( 大島堅一著、岩波新書)
 著者は、立命館大国際関係学部教授。これまで政府などが、どのエネルギー資源よりやすいとPRしてきた原子力発電について、国民や被災者が負担する社会的コストを綿密に計算し発電コストの実績値は火力や水力より高いとはじき出した。「脱原発を実施しても電力供給は大丈夫」と明確に示している。第12回 大佛次郎論壇賞受賞が決まった。

※「震災後のことば 8・15からのまなざし」( 宮川 匡司=ただし編、日本経済新聞出版社刊)
 1945年8月15日を体験した識者へのインタビュー集。

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)
大島 堅一
岩波書店
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震災後のことば―8・15からのまなざし
吉本 隆明 中村 稔 竹西 寛子 野坂 昭如 山折 哲雄 桶谷 秀昭 古井 由吉
日本経済新聞出版社
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2013年1月26日

読書日記「昔日の客」(関口良雄著、夏葉社刊)


昔日の客
昔日の客
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関口 良雄
夏葉社
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 朝8時からのNHK第1ラジオを聞きながら家事をこなすのが習慣だったが、突然女性2人がそろってかん高い声を出すというとんでもない番組に変わってしまい、静寂の朝が続いていた。それでも、なにかのついでにスイッチを入れてしまった時に飛び込んできたのが、この本を出版した 島田潤一郎さんへのインタビュー。

 たった1人で 夏葉(なつは)社という出版社を立ち上げ、出版から営業までこなす島田さんは、世の中で埋もれた絶版本を再版するのをテーマにしてきた。この本も絶版になって以来、たまに古書店に並ぶと1万5000円という値がつく古書ファンには垂涎の本だったらしい。同社が1000部を再版したところ、すぐに3版にまでなった、という。

 このへんの事情は、島田さんは自分のブログに 一文を書いている。「文学を尊敬する人を尊敬する。そういった佇まいが、本から香ってきて、たまらない気持ちになった」そうだ。

 さっそく図書館で借りてきてビックリした。「なんだ、この本読んだことがある!」

 図書館窓口業務のボランティアをしていた時に、ある日チームを組んだNさんから「この本おもしろいよ」と教えられたことを思い出した。
 その時は、なんとなく読み流して終わったが、今回、読み返してみると、古本屋の亭主と近くの 「馬込文士村」と呼ばれた地区に住む作家たちとの交流がなんともゆったり、陶然としていて心がなごんでくる。

 本を読む時の雰囲気、心の持ちようで、文字が目に飛び込んでくる感覚がまったく違ってくる。本とは、そういうものなのかなあと思ったりした。

 戦後、東京・大森で古書店「山王書房」を開いた 関口良雄は、ある日正宗白鳥の初版本20数冊を落札した。最初から自分の蔵書にし 売るつもりはなかった。

 その当時、正宗の作品は「この世から消え失せん事を希われている」状態だった。手に 入れた著書の1部を2つの風呂敷に包み、矢も盾もたまらず、正宗の自宅である赤い屋根の洋館を訪ねた。

 台所から非常に粗末ななりをした正宗夫人らしい老婆に「先生の古い本を沢山持ってきたので見て頂きたい」と頼む。とても署名を頼める雰囲気ではなく、関口は「一寸しょげた振りをして風の中に立っていた。夫人も黙って立っている」

 
そのうちに私の事を可哀想にでも思ったのか「それでは私が一寸みましょう。こちらへ」と言う。私は何処へ連れられて行くのかと思っていると、鶏小屋の前に連れて行かれた。さあここへと言って、夫人は鶏小屋のトタン屋根のガラクタを両手で払いのけた。私は一寸戸惑ったが言われるままに風呂敷包みを拡げた。
 正宗先生の初期のものばかり三十冊、それも本が実にきれいなので夫人は瞬間一寸驚かれた様子、「よく貴方はこんなにきれいな本ばかり集められたですねー」と私は正宗先生に期待していた言葉を正宗夫人から聞いた。嬉しくなって「私は家にはまだこの三倍位あります。この本を買うには二万円以上の金を出しました」と言うと「ヘー二万円、貴方はお金持ちですねー、偉い方ですねー」と盛んに褒めてくれる。


 古本屋亭主としての失敗談もおもしろい。

 4ヶ月前から客の1人に 「虫のいろいろ」の初版本を欲しい、と頼まれていた。
暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 (岩波文庫)
尾崎 一雄
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振手の前には戦後の仙花紙ザラ紙の雑本が三、四十冊も積まれた。一山にして 売るのだ。
 「サア、いくら」ときた。
 「五十円ッ」と、最初の声が飛んだ。
 「七十円ッ」「八十円ッ」と、小きざみにセリ上がって行く。
 私もその山をヒョイと見た。
 「虫のいろいろ」が入っている。
 私は期を見て「三百円ッ」と飛んだ。こういう場合よほどのライバルがいない限り、一声で仕止めることが出来るものだ。仲間達が値を飛ばれてハッと思い、追いかけようか、どうしようかととまどっているうちに、本が落ちてしまうのだ。三百円の山は私に落ちた。・・・
 その夜遅くまでかかっで、仕入れできた古本の整理をした。楽しいひとときである。・・・
 そしてもう一度「虫のいろいろ」を手にとつて、驚いた。なんと、てっきり「虫のいろいろ」と思って買ってきた本は「虫のいどころ」という昭和六年に出た民謡の本であった。


 上林暁を阿佐ヶ谷の質素な自宅に訪ね、やはり旧著に署名を依頼したこともあった。

 
先生は快く承諾され机に向かった。私は署名の間、部屋の隅々に置かれた本箱や床の間の本箱にぎっしりつまってしる明治・大正の文学書を眺めていた。
  背中の黒ずんだそれらの文学書は 純粋な文学一途に生きてこられたこの孤独な文学者のつつましいお部屋に、高雅な調和を保っているように思われた。「これでいいですか」と先生は筆をおかれた きちんとした正しし字で「本を愛する人に悪人はない」と誌してあった。
 瞬間私は、こりゃあ悪人にはなれないぞと思った。
 私は先生にお別れして帰る途すがら、ほんとうの文学者に会ったという感動で胸が一杯になり、何回も何回も署名本に見入った。


 42歳で急逝した野呂邦暢は、若いころ関口の家の近くに部屋を借り、上野のガソリンスタンドに住んでいたことがあった。よく店に本を買いに来た。
 家の事情で勤めをやめ郷里に帰ることになったが、野呂は筑摩書房から出たばかりの「ブルデルの彫刻集」がどうしても欲しかった。1500円したが、旅費のことなどを考えると千円位しか都合がつかない。関口は「それなら千円で結構です」と言った。

 昭和四十九年2月。関口は野呂の芥川賞授賞式に招かれた。2,3日して娘の嫁入り道具を運び出す日に、野呂夫妻が店に訪ねてきた。野呂は「素早く上衣を脱ぎ、次々と荷物を運んで下さった」

 
話の途中で野呂さんは、何かお土産をと思ったけれど、僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんに贈りたいと言って、作品集「海辺の広い庭」を下さった。  その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。

 「昔日の客より感謝をもって」 野呂邦暢

海辺の広い庭 (角川文庫)
野呂 邦暢
角川書店


(付記:2013/3/12) 同じ夏葉社の「冬の本」を読んだ。
 84人の人に、冬に関する本についてたった2ページの随想を書いてもらった「小さな本」だ。

冬の本
冬の本
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天野祐吉 佐伯一麦 柴田元幸 山田太一 武田花 友部正人 町田康 安西水丸 穂村弘 堀込高樹 ホンマタカシ 万城目学 又吉直樹 いがらしみきお 池内 紀 伊藤比呂美 角田光代 片岡義男 北村薫 久住昌之
夏葉社
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 そのなかに、ミュージシャンの直枝政広が「昔日の客」を題材に書いている。題して「関口良雄の葉書」

 
大森にあった山王書房主人であり、最近復刊された名著『昔日の客』の著者、関口良雄の旬入りの葉書が「オークションに出ている」との連絡を長男の関口直人さんから受けた。「いいですねー」と返信すると「もし気に入ったのならあなたが落札してください」と言う。邦楽CDl枚程度の金額だったし、気楽にかまえていたら縁あって落札できた。
 商品情報で伏せられていた葉書の宛名を直人さんに知らせると「開店して間もなくから の常連さん」とのこと。もう少し調べてみると稀覿本の研究本を執筆された方と同姓同名でもあるようで、その熱心な本マニアの方が手放したか、何らかの理由で市場に流れたものと思われる。この句は関口良雄『銀杏子句集』(三茶書房)にも収められていない。
 「冬川の果て○心が流れけり」銀杏子
 その「果て」のあとの○の字が特殊でわからないので直人さんに聞いてみたら大昔の「を」の変体仮名ということもわかった。
 葉書を写真立てに入れ、作業場に飾って眺めることにした。
  「冬川の果てを心が流れけり」銀杏子
 とてつもなく静かだ。ピンと張りつめた冬空が浮かび、地平の果てからシンとした一昔が聴こえてくるようだ。この句には気持ちを落ち着かせる効用がある。
 ヵーネーション『swEE→岩MANCE』の作業の問はこの句がいつも傍らにあった。
 作詞で煮詰まった時にはよくこの葉書を眺めた。時空を超えたいくつかのサジェッションあったのかもしれない。珍しく作詞で悩む事はなかった。
 
 この額を心の中で「良雄さん」と呼ぶようになった。・・・


 

2013年1月11日

読書日記「大阪アースダイバー」(中沢新一著、講談社刊)


大阪アースダイバー
大阪アースダイバー
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中沢 新一
講談社
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 一昨年の11月に、このブログで著者が書いた縄文時代から説き起こす東京論 「アースダイバー」についてふれた。その時にも少し書いた「大阪アースダイバー」が、昨年10月にやっと単行本になった。予想通りの人気で、図書館で借りることができたのは、昨年暮になってしまった。

 中沢は、江戸時代に大阪・道頓堀の芝居小屋で始まったと言われる「とざい、とうざい」という 「東西声」には、単に芝居前の口上ではない「もっと重い大阪的意味がこめられている」と、思いもよらない切り口で大阪都市論を始める。

 現代の大阪の街では、南北を走る「筋」という道が自動車道路などとして優先されている。しかし、実際に徒歩で大阪の街を歩き、古地図を見ても東西に走る「通り」のほうが、大阪の街の成り立ちとして重要だというのが、著者の"第六感"。

東京のように皇居(江戸城)を中心とした権力思想の都市でも、京都のように中国から輸入された観念論的に設計された都市でもなく、・・・大阪は太陽が動く東西の軸を基に設計する「自然思想」が都市の土台になっており「古代人のような自然なおおらかさと、人間の野生が都市の構造に組み込まれている」・・・


この大阪の東西方向を走るその見えない軸を、著者は自然と野生を象徴するものとして「 ディオニュソス軸」と名付け、大阪の深層をこの軸上に描き出そうとする。

 縄文の昔、人々は 河内湖(現在の大阪平野)という巨大な潟の岸辺近くにムラをつくり、生駒山の自然と河内湖のもたらす幸に恵まれて生活していた。
 人が住むことができる土地は、生駒山麓とその対岸の細長い半島(現在の 上町台地)のような地面しかなかった。

map1;クリックすると大きな写真になります ネット検索で見つけた 画像?(左)に見られるように二千年ほど前には、大阪平野は、河内湖の底にあり、上町台地の東西に広がる西成と東成も水の底にあった。天満も船場も・・・軟弱な土砂層の上にあって海水に洗われていたし、ミナミなどは影も形もなかった。

 ウメダも、 前述したように同じ状態。梅田は埋田の異名もあり、かっては海の底だったのだ。

 大化の改新(7世紀)の後、皇徳天皇は、上町台地の突端に近い高台に難波宮を建設した。この都の中央には 朱雀大路が、そのまた南には「難波大道」が続いていた。

map2;クリックすると大きな写真になります 著者は、この軸線を「生命力が美しい形と威力をもって立ち上がる『アポロンの軸』」と呼ぶ。軸沿いには、画像?(右)に見るように、四天王寺、住吉大社、古墳群など「死に関係するスポット」が連なっていった。

   この南北の軸に対抗して生駒山地から発する東西の軸が、目には見えない「ディオニュソス軸」。

 この2つの軸を「自分の骨格のうちに強力に組み込むことによって、ほかの都市とは違う『大阪』となった」と、著者は主張する。
 権力思考の「アポロン軸」に対し、民衆的な野生の思考軸のせめぎあいが、大阪の活力を支えてきた、という論法だ。

 「ディオニュソス軸」上に育まれてきた「 船場の商人道は、我が国の資本主義の発祥となった」

ナニワの商人世界は、まさに敗者のオンパレードである。船場に屋敷を構えた有名どころを調べてみても、鴻池家は滅亡した尼子氏の出、住友家は秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣として、立派な敗軍の将であった。関ケ原の戦いで西軍方について戦って、破れた武将の関係者も多い。淀屋、心斎橋筋の大丸下村家の大文字屋呉服店など、静々たる豪商の多くが、戦場で戦って破れた敗北者を先祖としている。
 そうした敗者にたいして、大阪は聖徳太子以来の寛容さをもってふるまった。


 「アポロン軸」の西にあるミナミの繁華街・ 千日前界隈は、中世までは海の底だったところが砂州となり、陸地になった場所。かっては墓地、刑場があり、火屋(火葬場)もあった。そこが整地され、寄席、見世物小屋、芝居小屋が雨後のタケノコのように出現した。

座席の下には、二百数十年もの間、営々と埋葬され続けた人骨が眠り、その上で吉本の芸人たちが演ずる・・・芸に、人々は笑い転げてきた。・・・
 まったくここにはむきだしの人類がいる。まるで、カラカラと歯を鳴らして、白骨が笑っているように、人々が笑っている。日本中を席巻し続けてきた大阪ミナミの笑いは、このような ネクロポリス(死者の都)の上に、比類のない成長をとげてきたのである。


  漫才も「このネクロポリスで誕生」し、上町台地の 生玉(生國魂)神社の境内で「最初の落語と言われる「『彦八ばなし』が演じられた。
 「芸能の王とは、なにあろう死なのである」  著者はあとがき「エピローグにかえて」のなかで、こんなことを書いている。

東京で「アースダイバー」をやった後に、つぎは大阪でやると私が言いましたら、それはまずできないでしょうと、おもに関西出身者たちから言われました。なぜかといえば、アースダイバー的に力の強い場所を探っていきますと、大阪ではかならず微妙な問題にふれていくことになる、早い話が差別に関わる微妙な問題に抵触せざるを得ないから、東京でやったみたいに気楽な気持ちではできないよと、その人たちは忠告してくれるのです。


 しかし著者は、「あいりん地区」「コリア世界」、そして「被差別発祥の地」という「ディープな大阪」に果敢に切り込んでいく。

 おもしろいのは「大阪のおばちゃん」の原点を、朝鮮・ 新羅の女神に見つけようとしていることだ。

 この神話はけっこう有名らしく、先日の出雲旅行の際にも聞いた覚えがある。

その昔、新羅のアグ沼のほとりで、一人の若い女がしどけない格好で昼寝をしていた。その様子を太陽の神が見て、うれしくなった。太陽神は一筋の日光に身を変えて、目の前に広げられた女の股間にまっしぐら、光はみごと女陰への侵入を果たした。妊娠した女は不思議なことに、一つの赤玉を産み落とした。赤玉は美しい少女に姿を変え、成長して、新羅の王子である「アメノヒボコ(天之日矛)」の妻になった。つまり彼女は母親と同じように、あるいは母親とは違う意味で、「太陽の妻=ヒルメ=ヒメ」となったのである。・・・
 ヒルメ(日妻)となった彼女が、ある日突然、自分の故郷はここではなく、日本列島にあると言い出したのである。これには新羅の王家も困った。いくら説得しても聞く耳もたない彼女は、ついに小舟に乗って船出をして、日本にたどり着き、北九州を経てついに大阪湾に入り、・・・上町台地に上陸したのである。『古事記』には、「このお方こそがナニワの ヒメコソ神社にいまします アカルヒメである」と善かれている。


 「太陽の妻」の子孫である「大阪のおばちゃん」というという存在の背後には「恐ろしいほどに深い歴史の真実が隠されている」と、著者はおばちゃんたちに喝采を送る。

 そして「エピローグにかえて」の最後で、こんなことまで書く。

大阪の空洞化をさらに加速しようとしているのは、 新自由主義的グローバリズムです(その通り!)。・・・そういう問題に維新の会はどう対処しているのでしょうか。橋下市長と維新の会の背後に、私はどうしても新自由主義を語り続けて来た人々の野望を感じ取ってしまいます。・・・  しかし問題は、現在大阪に疲弊をもたらしているものが、これまでの大阪の ポピュリズムを突き動かしてきたものとは、異質な原理であるという点です。・・・  しかしどうも最近「大阪のおばちゃんたち」はそのことに少し疑問をいだきはじめているように感じます。・・・もう少し時間が経てば、かならず強靭な「大阪の原理」「大阪の理性」が再び働き始めるはずです・・・。




2013年1月 5日

読書日記「松本竣介 線と言葉」(コロナ・ブックス編集部編)「『生誕100年 松本竣介展』図録」(岩手県立美術館など編) 出雲紀行・上「島根県立美術館・松本竣介展」


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平凡社
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ネット検索をしていた昨秋、盛岡の 岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた画家松本竣介の生誕100年展を知った。
 ちょうど東北ボランティア行を計画していた時期だったが、残念ながら盛岡の会期は終わり、松江市に巡回していた。

 本屋で買ってきた 「新潮日本美術文庫45 松本竣介」(日本アート・センター編)で、青を基調にした清逸でいて透明感のあふれた色調に引かれた。矢も楯もたまらず、友人Mらと昨年11月の連休に松江市に飛んだ。

 2日の夕方、空港から宿に向かうバスの窓から宍道湖に映える夕日のなかに浮かびあがった会場の島根県立美術館を見る僥倖に恵まれた。この 「夕日の見える美術館」は、湖岸の芝生から夕日を楽しんでもらうために閉館時間を「日没後30分」にするという、自治体としてはなかなかシャレたことをしている。

 翌日朝、松江大橋の北端にある宿から美術館までは、整備された宍道湖畔の遊歩道を歩いて20分弱。開館時間の少し前に会場に入ることができた。

 竣介は、旧盛岡中学1年の時に、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになったが、昭和4年中学を3年で中退し上京してしまう。

建物;クリックすると大きな写真になります このため、広い会場に展示された作品に、盛岡時代の作品は少ない。すぐに、透明感のある青い絵の具の上に、太い黒い線で形どられた 「建物」(1935年、福島県立美術館蔵)や「婦人蔵」(1936年、個人蔵)などが並んでいる。

 素人目にも明らかに、ルオーやモヂリアニの影響が見てとれる。

 竣介自身「モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった」「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」と記している。

 竣介は「線に生きた」画家だった。「線は僕の気質などだ、子供の時からのものだった」という言葉が「松本竣介 線と言葉」のなかにある。同時に「線は僕の メフストフェレス(悪魔)なのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった」という言葉も引用されいる。

 岩手県立美術館の原田光館長は「『線描家』序説」(「松本竣介 線と言葉」より引用)という短文に、こう書いている。

 
烏口で引いた硬質の線、何度でもなぞり返して生まれる細線の束、太線の流動、子どもの絵にでてくるような奔放な線、それぞれの線の質を生かすため、青の加減の目くばりがさえたとき、線は街になり、街歩きする人々の姿へと転じる。竣介は無闇な線描家ではない。したたかな計算によって線を生かす工夫に余念がない。デッサンを繰り返してからでないと画家竣介の基本の確立であったろう。

白い建物;クリックすると大きな写真になります
 「線の画家」竣介は、同時に「青の画家」でもあった。

 作家堀江敏幸が自著「郊外へ」(白水Uブック刊)の表紙カバーに竣介の 「白い建物」(1941年、宮城県立美術館蔵)を選んだ理由について「線と言葉」の冒頭文に書いている。

 
空の青みは、中央を左右に横切る高架線のホームの上、画面の四分の一ほどにすぎず、残りを占めているのは、建物の壁だ。白、灰色、茶色、黒、灰緑色。粗塗りのようでいてそうではなく、面で捉えられているようでいて、そのじつ線のリズムがすべてを支えている。青はいたるところ沁みだして白を上書きし、灰に溶け込み、さらにまた藍鼠や桝花に変化する。鉄骨のいかにも重そうな建造 物なのに、海に浮かぷ空っぼの貨物船を思わせる相対的な軽みがあり、人の気配を消しつつ負の印象を与えない。この絵を措いている(私)は、幾度も表面を削られ、また絵の具を乗せられて出来あがった見えない多重露出像となって、青と同様、壁のいたるところに在しているようだ。
  画布ではない板の堅さと、透明な絵具を溶いて薄め、乾いている絵具の上に薄く塗って膜をつくるグラツシの技法が硬質な輝きをもたらしている反面、青を水槽のガラスにうっすらと張り付いた苔のように、鈍く、半透明にひろげていく。画家はこの膜に身を包んで画面のなかに姿を消し、耳を澄ますという行為さえ許されない静寂に身を潜めている。ここには、ある種の若さにしかない繊細さと脆さが、そして若さだけでは持ち得ない時間と沈黙の積み重ねがある。


 浅学非才の身。これほど1つの絵画に惚れ込み、入り込み、表現した文章に会った経験がない。
 ただ、じっと透き通るような空の青に引きこまれ、白い壁の合間に浮かぶブルーに目をこらすしかなかった。

立てる像;クリックすると大きな写真になります 自画像;クリックすると大きな写真になります  竣介の作品なかで、最も迫力があり、名が知れているのは、 「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)竣介がよく描くさびれた街の風景のなかに、等身大にも見える大きな人物がスクッと立っている。人物は、 作品「顔(自画像)」(1940年、個人蔵)とそっくり。モデルは、竣介自身であることが分かる。

 神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「『生誕100年 松本竣介展』図録」に寄せた文によると、子どもたちにこの絵を見せると「画面の中から帰ってきたかの様子で戦争が描いてあるね』」と答えたという。

 廃虚の仁王立ちになっている竣介は、耳が聞こえないために兵役を免れている不安と虚無感を浮かべつつ、戦争に反対する不退転の決意を作品にしたように見える。

五人;クリックすると大きな写真になります  作品「五人」(1943年、個人蔵)からも「家族と共に生き残ってみせる。負けないぞ」という叫びが聞こえてくる。縦1・6メートル、横1.3メートルの大作だ。

 竣介「反戦の画家」とも言われる。

 日中戦争が始まった翌年。美術雑誌「みづゑ」新年号に掲載された「国防国家と美術」とい座談会で、陸軍省の将校らが「大事なのは国家であって文化は国家の産物にすぎない。だから総力戦に備えて絵描きも国策に協力すべきだ」と発言したのに対し、竣介は猛然と反論に出たことがある。

 4月号に掲載された「生きてゐる画家」は、いささか分かりにくい長文のものだが、冒頭だけをみても、時局に逆らう決断とした言葉が満ちている。

 
沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遥か身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。そのやうな私が、現実の推進力となつてゐる方達の言説に嘴(くちばし)をはさむといふことは甚だしい借越であるかも知れない。だが、座談会『国防国家と美術』の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかつたことを甚だ残念に思ふものである。今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しいのではないと信じる。


 出雲の出かける直前に、図書館から借りることができた「 舟越保武随筆集 巨岩と花びら ほか」(求龍堂刊)を開いて、アッと思った、舟越保武はなんと、旧岩手中学の同級生で、上京してからも絵画と彫刻とジャンルは違っても互いに励まし合ってきた仲だったのだ。

 この随筆集に「松本竣介の死に寄せて」(岩手新報 1948年8月14日号)が収録されている。

  
水晶のような男だった
 透明な結晶体のような男だった
 適確な中心をえて円満であり
 しかもその稜ほ十分に切れる鋭さをそなえでいた
 構いなく冴えた画家だった
 美についで底の底まで掘りさげて語り合える
 これは得難い友であった
 言葉少なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
 自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず我が身を鞭うって、精励する真の作家であった
 その竣介が
 突然死んでしまった
 竣介の絵の前で、幾多の既成作家、浸心の大家たちが、冷汗をかいて反省したことであろう
 美術界はかけがえのない作家を失った
 美術家の真の生き方を、純粋な声で絶叫しつづけた
 竣介は
 今は骸になってしまった
 水族館のように静かな青い光のアトリエには
 飽くことのない探究の記録、数々の素描油絵の
 習作が輝いていた
 心ある画家、文芸家たちにほんとうに愛されていた竣介が、なんということだ
 死んでしまうとは
 「アトハキミガヤレ」
 と死んだ竣介はいうにちがいない
 イヤだ、
 も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
 君ののこした子供の絵を仕上げてくれ
 竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける
 なぜ断りなしに死んだのだ


 どうしても見たいと思っていた1枚の絵があった。

 竣介の絶筆となった「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)だ。

 画集を見ただけでも、不思議な感覚に抱かれる絵だ。竣介の「青」をおおうように白と茶色ではみ出すように描かれているのは、教会だろうか。その上に描かれた竣介の細い「線」太い「線」・・・。まるで2枚の絵を重ねたように、荘厳さと立体感にあふれた絵だ。

 島根県立美術館を歩きまわった数時間、この絵を見つけることはできなかった。出口近くで係の人に聞いたら、近くで鑑賞していた女性が「その絵、この展覧会に来ていないのです。私も、見たかったのですが」と、声をかけてくれた。

 この絵は、現在世田谷美術館に巡回中の「生誕100年 松本竣介展」にも展示されておらず、所蔵している東京国立近代美術館の「60周年記念特別展 美術にぶるっ!」で見れる、という。

 会期末の14日直前に東京に行く用事がある。のぞくことができればと思う。

 ▽参考にした本
 ・「求道の画家 松本竣介」(宇佐美 承著、中公新書)
 ・「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中野淳著、中公文庫)
 ・「アヴァンギャルドの戦争体験―松本竣介、滝口修造そして画学生たち」(小沢節子著、青木書店刊)

求道の画家 松本竣介―ひたむきの三十六年 (中公新書)
宇佐美 承
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青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
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2012年12月 5日

読書日記「原発危機と『東大説法』 傍観者の論理・欺瞞の言語」(安富 歩著、明石書店刊)、「幻影からの脱出 原発危機と東大説法を超えて」(同)

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
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幻影からの脱出―原発危機と東大話法を越えて―
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 福島第一原発事故時に、原発の安全性をNHKテレビなどで声高に主張していた東大の原子力専攻教授陣が、被害の拡大とともに画面から姿を消したことを不思議かつ、けしからんことだと思っていた。

 これら2冊の本は、これら教授たちの話しぶりの「傍観者性と欺瞞さ」を暴きだしたものだという。

 しかも 著者は、京大出身ではあるが、同じ東大の 東洋文化研究所の教授。

 一般には知識人の代表と見られている東大というムラ社会にいながら、そのムラ社会の欺瞞さを暴こうとしている。

 「You Tube」の 公開対談に映っている著者は、黒のソフト帽に白のTシャツ、茶色の皮ズボンという"ヤーサン・スタイル"。自らの ブログに載せている 写真も、顔をおおうヒゲとサングラスに迷彩服?と、とても"教授"ズラには見えないことも、仕掛けた"けんか"をおもしろくしているように見える。

  「東大話法」という言葉は、すでに「Wikipedia」でも紹介されており、著書の最初にも載っている下記のような「東大話法規則一覧」が掲載されている。

  1. 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。 
  2. 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。 
  3. 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
  4. 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
  5. どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
  6. 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
  7. その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
  8. 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
  9. 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
  10. スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
  11. 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
  12. 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
  13. 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
  14. 羊頭狗肉。
  15. わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
  16. わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
  17. ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
  18. ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
  19. 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
  20. 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。


    1.  20もあると、いささか煩雑でわかりにくいが、著書の裏表紙には、代表的な例として、規則2,3,5を挙げている。

       安富教授は、以前から東大で見聞きする「自分が所属する立場ばかりにこだわる」姿勢に違和感を持っていた。「東大話法」という言葉を発案したのは、福島第一原発1号機が爆発した際、NHKに登場した東大大学院の原子力工学の専門家である 関村直人教授(= 写真)が 「爆破弁を作動させた可能性がある」と発言したのを聞いて、驚愕したのがきっかけだった、という。

       関村教授は「原発は安全」という「立場」から 水素爆発はありえない」と繰り返してきたため、建屋が吹き飛ぶ水素爆発事故を、爆破弁という減圧装置の作動という「詭弁」を平然と使った。

       まさしく、「東大話法」の規則2であり、3であり、5でもある、という。  関村教授がトップをしている東大 「原子力国際専攻」のホームページに掲載されている 「原子力工学を学ぼうとする学生向けのメッセージ 福島第一原子力発電所事故後のビジョン」にも「厚顔無恥な『東大話法』が使われている」と、安富教授は書く。

       
      この文書は「世界は、人類が地球環境と調和しつつ平和で豊かな暮らしを続けるための現実的なエネルギー源として、原子力発電の利用拡大を進め始めていました」という言葉で始まっている。
       いきなり「世界は」と書き始めるという感覚に驚かされます。彼らは自分が「世界」を代表しうる資格を持っている、と認識しているわけです。しかもそこに善かれている内容は、手前味噌の無責任な自己正当化にほかなりません。
       「世界は‥...・原子力発電の利用拡大を進め始めていました」と書いていますが、原子力発電の利用拡大を進めていたのは、もちろん「世界」ではありません。世界」にそんなことはできません。一部の国の、愚かで強欲な、政治家・官僚・電力会社と、それを支える原子力関係の御用学者・技術者が推進してきたのです
       「世界は」と言うことによって、そういう責任関係を暖昧にし、つまりは自分自身を免責しているのです。


       「幻影からの脱出」は「原発危機と『東大説法』」の続編。

       このなかで著者は「プルトニウムは、水に溶けにくいので飲んでも大丈夫」と発言した 同じ原子力工学の専門家である 大橋弘忠=( 写真)・東大教授について「『東大話法』を使う人は、この話法がうまいのでなくむしろ下手なのだ。だからその欺瞞と隠蔽が露呈してしまう。特に下手くそなのが大橋教授」と、大橋教授が公開した 「プルサーマル公開討論会に関する経緯について」という文書をやり玉に挙げている。

      安富教授は、こう書く。

       
      この文書が恐ろしいのは、何よりも「格納容器は一億年に一回しか壊れない」など、いわゆる
       「原発推進トーク」を連発しておいて、それが事実によって否定された、という点を、完全に無視していることです。原発関係者は、そういうことが、認識から自動的に排除されるようになっているのです。これは、大橋氏が特別に変わった人だから、ではありません。彼らは基本的に、こういうふうに考えているのです。こういう連中に、原子力などという危険なものを弄ばせてよいものか、本当によく考えないといけません。


       確かに、今年の2月に書かれたこの文書には、福島原発事故については、1度もふれられていない。

       恐ろし、恐ろし!

      著者は「東大話法」について「この話法は、東大関係者やOBだけでなく、政治や社会をリードしてきたリーダー、知識人の間で平気で使われている」と、何度も書いている。

      そして「幻影からの脱出」のなかで、千数百回も リツイートされた、自らのツイート(2012年4月7日発)を紹介している。

      政府が大飯原発の再稼働に固執するのは、原発ゼロで夏を乗り切れば、もう再稼働の口実がなくなるからだ。そうなると原発を支えたシステム全体が問われることになる。そのシステムは、国債や年金や天下りにも繋がっており、日本の全システムを揺るがすことになる。まさに、日本戦後史の関ケ原である。


       「原発危機と東大話法」は今年の1月、「幻影からの脱出」は7月の発刊だが、9月には、同じ著者の「もう『東大話法』にはだまされない」(講談社+アルファ新書)が出ている。
       著者の主張する『立場主義」をサラリーマン社会や夫婦関係にまで拡大しているが、読後感は「もう、ひとつ」


       

2012年11月23日

読書日記「ヤッさん」(原 宏一著、双葉社刊)



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 著者のことはまったく知らなかったが、新聞広告を見て図書館で借りた。

 IT企業を辞めて食い詰め、ホームレスになった若者「タカオ」が、築地市場や有名グルメ店にやたらと詳しい同じホームレスの「ヤッさん」に弟子入りし「驚愕のグルメ生活」を味わうという、なんとも人畜無害のエンターテーメント短編集。

 それだけの本なのだが、根っからの牡蠣、それも牡蠣フライ好きが、よだれをたらしそうになりながら何度も読み返した1節がある。

 それを記録しておきたい。ただ、それだけの理由でこのブログに登場させた。たぶん、これまでで最短量。スミマセン。

 
目の前の皿には揚げ立ての牡蠣フライが五粒、小高く盛りつけられていた。的矢湾産の極上物らしくぷっくりとした大粒の牡蠣で、黄金色のとげとげした衣をまとっている。
 その奥には金糸のごとく繊細に千切りされた生のキャベツがこんもりと添えられ、半球形に抜かれたポテトサラダとケチャップ色のスパゲティナポリタンが脇を固め、さらに緑鮮やかなパセリと櫛形にカットされたレモンがちょこんと飾られている。
 テーブルの上にはウスターソースと洋ガラシが用意されていたが、タカオはまずレモンだけで食べることにした。櫛形のレモンを大粒の牡蠣フライにキュツと搾りかけてから、フォークを突き刺してかぶりついた。
 とげとげの衣に前歯が当たった瞬間、からりと揚がったパン粉の香ばしさが鼻腔に広がった。そのまま噛み締めると、さくりと心地よく衣が砕け、ぷりつとした牡蠣の身に前歯が食い込むと同時に、濃厚な旨みを凝縮した牡蠣のジュースが口の中に満ちた。
 うん、と小さくうなずいた。薄めにつけられた衣はからりと揚がっているのに、牡蠣自体は見事に半生状態だったからだ。牡蠣の身の隅々まで熱が入っているのに、とろりとした生の食感と滋味深い海の香りはちゃんと残っている。


2012年11月13日

 読書日記「戦後史の正体 1945?2012」(孫? 享=まごさき うける=著、創元社刊)



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 「『米国からの圧力』という視点で読み解いた戦後70年史」
  そんな新聞広告見出しに引かれて買ってみようと思ったものの・・・。 著者は、元外務省・国際情報局長!?
 「なんだ、元エリート官僚の著書か」と、まゆにつばをつけて読みだした。以外や以外、以前から頭のすみにこびりついていた「米国の圧力」という言葉の"もやもや"を吹き飛ばしてくれる、痛快極まりない本だった。

 著者は、序文「はじめに」でこう書き出す。

 
たとえば普天間問題を例にとってみましょう。
 「普天間基地は住宅の密集地にあり、非常に危険である。もともと米軍基地はあまりにも沖縄に集中しすぎている。だから普天間基地を県外または国外へ移設しょう。そのことを米国にも理解してもらおう」
 とするのが「自主」路線といわれる立場です。
 一方、「米国は普天間基地を同じ沖縄県内の辺野古に移転するのが望ましいと考えている。米国の意向に反するような案を出せば、日米関係全体にマイナスになる。だからできるだけ米国のいうとおりにしよう」
 とするのが「対米追随」路線といわれる立場です。
 このふたつの外交路線の相克が、実は第二次大戦以降、日本の歴史全体の骨格になっているのです。


 さらに「序章」のなかで、戦後の首相たちを、こう分類する。

 
多くの政治家が「対米追随」と「自主」 のあいだで苦悩し、ときに「自主」路線を選択しまし。歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。ざっとみても、 重光葵 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 細川護熙 鳩山由紀夫などがいます。意外かもしれませんが、 竹下登 福田康夫も、おそらく排斥されたグループに入るでしょう。外務省、大蔵省(現・財務省)、通産省(現・経産省)などで自主路線を追求し、米国から圧力をかけられた官僚は私の周辺にも数多くいます。


 鳩山由紀夫が実現のメドもないまま「基地の県外移転」と言っただけで「毅然と米国に立ち向かった」政治家と書かれるのは、いささか疑問符を打ちたくなるが・・・。

著者は特に、傲慢な態度でワンマン宰相と呼ばれ、米国占領軍とも対等にわたりあったと一般に評価されてきた 吉田茂のイメージを徹底的に打ち砕くエピソードを紹介している。

 ダグラス・マッカーサー連合軍司令官の情報参謀として占領政策を牛耳っていた チャールズ・ウイロビー GHQ参謀第2部(G2)部長の著書だ。このなかでウイロビーは、 犬丸徹三・元帝国ホテル社長の談話を引用している。

 
「ウイロビーはたいへんな吉田びいきだったねえ。
 帝国ホテルのウィロビーの部屋へ、吉田さんは裏庭から忍ぶようにしてやって来たりしたよ。裏階段を登ってくる吉田さんとバッタリということが何度もあったな。(略)
 あのころは、みんな政治家は米大使館(マッカーサーの宿舎)には行かず、ウイロビーのところで総理大臣になったり、あそこで組閣したりだった」


 こそこそ裏口からやって来て、GHQの意向をさぐるのにやっきになっている吉田首相・・・。戦後政治をリードした傑出した宰相という、これまでのイメージは覆されてしまう。

 孫?は、はっきりとこう書く。「吉田首相の役割は、『米国からの要求にすべてしたがう』ことにありました・・・」
 そして、吉田茂が、長く首相として居座ったことが「保守本流という従米路線が戦後60年も続くという日本最大の悲劇を生んだのです」

 これに対し、「自主路線」を貫こうとした重光葵の歩んだ道は厳しかった。「・・・今日において敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様にようにあつかっている。その態度は皇室から庶民まで同じだ」と日記で嘆いたが、 ミズリー号で降伏文書に署名したわずか2週間後に外務大臣を辞任させられ、A級戦犯の有罪判決を受けている。

 GHQの終戦処理費増額に抵抗した石橋湛山(当時・大蔵大臣)は公職追放され、米軍の「有事駐留案」を提唱した芦田均は、G2に昭和電工事件をしかけられ、7か月で首相を失脚した。

 米国は占領した日本を助けるためでなく、自国の利益のために利用しようとした。
 冷戦が始まると、米国は「ソ連への対抗上、日本の経済力、工業力を利用しよう」とし、朝鮮戦争が起こると「その軍事力も利用しよう」と考えるようになった。

?米国が在日米軍基地を半永久的に使用できるようになったのは、講和条約でも安保条約でもなく 行政協定(現在の地位協定) だった
 ?ソ連との北方領土返還交渉がさっぱり解決しないのは、米国が「日ソの間に、解決不能な紛争のタネをうめこんだため
 ?日本の原子力開発が始まったのは、米国の意向を反映したものだ。
 米国が自国の利益を最優先にしてきた事実を次々と列挙されている。

 組閣後に「自主外交の確立を期す」と表明した石橋湛山は「われわれがラッキーなら」という米国側の英国への秘密電報通り、なぜか2カ月で病気になり退陣、首相になって「駐留米軍の最大限の撤退」を求めた 岸信介首相は「安保闘争デモは、当初の目的をまったくはたせなかった」のに失脚した。安保闘争に金を出したのは、親米派の財界人だった、という。

 一方で、沖縄返還が実現できたきっかけは、 佐藤栄作の力ではなく、当時の ライシャワー米国大使の功績だったというのも、ちょっと驚かされる記述だ。

 田中角栄が、 ロッキード事件によって政治的に抹殺された本当の理由は、田中角栄の 日中国交正常化だった、という主張も興味深い。

 キッシンジャーにとり、人生最大の業績は一九七二年二月の ニクソン訪中です。・・・しかし中国との国交樹立は一九七九年までできませんでした。・・・米国議会が賛成しなかったからです。
 そんななか、・・・田中角栄は七二年九月、日中国交正常化を実現しました。結果としてニクソン訪中の果実を横どりしたことになります。
 キッシンジャーは一九七二年八月の日米首脳ハワイ会談の直前に、バンカー駐南ベトナム大使と会談し、ここで日本に対する怒りを爆発させています。「汚い裏切り者どものなかで、よりによって日本人野郎がケーキを横どりした」


 
「キッシンジャーは『日中国交正常化を延期して欲しい』と頼んだのですが、田中総理は一蹴しました。・・・キッシンジャーは(ハワイ会談のために)飛行場に降りた田中総理をすごい形相でにらみつけていました」(著者が元朝日新聞記者から聞いた話し)


 経済戦争でも「米国の圧力』は、続いた。

 一九八五年九月の プラザ合意、それに続く新通商戦略による自動車の対米自主輸出規制、日米半導体協定、通商法三〇一条によるパソコンなどの関税一〇〇%引き上げ、 日米構造問題協議 BIS規制・・・。  一連の「圧力」で円高が恒常化し、日本経済は見事に空洞化してしまった。

「現在の TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加問題もまったく同じ流れのなかにある」。著者は、明確に書いている。「TPPは米国が、日本の国内にある富を、扉をこじあけ、吸い上げる仕組みです」

 (付記)

 20万部を越えるベストセラーになった「この本がなぜ、あまり新聞の書評に登場しないのだろう」と思っていたら、新聞書評界に前代未聞とも言える"事件"が起こっていた。

 9月30日付け朝日新聞読書欄「売れてる本」で、 「戦後史の正体」を取り上げたところ、著者の孫?氏が、自らの ツイターで「書評に『米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという』と書かれているのは、事実無根」と猛烈に抗議し、この書評を批判する他のブログも相次いだ。

 孫?氏は「私は、米国が、日本の政治家を追い落とすパターンを?占領軍の指示で公職追放?検察起訴?政権内の主要人物切り捨て?党内反対勢力高める?大衆動員と分けた」と、執拗に朝日側を問い詰めた。

 朝日新聞もついに、10月21日付け朝刊に「9月30日付け「売れてる本『戦後史の正体』」の記事で、1段落目の記事に事実誤認がありました。この段落10行分を削除します。」という「訂正」を掲載したのだ。

   削除されたのは「ロッキード事件から郵政民営化、TPPまで、すべては米国の陰謀だったという本。米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという。著者の元外務省国際情報局長という立派な肩書も後押ししているのか。たいへん売れている。しかし本書は典型的な謀略史観でしかない」という部分。

 書評を書いた 佐々木俊尚の著書は、私も何冊か読んだことがあるが、もともとネットメディア最前線の話題をさらりと書くのが得意な人と思っていたが・・・。

 刊行元の創元社が、 YouTubeで、12分にわたる著者・孫?亨の談話を流したり、この本の最初88ページ分を PDFにして無料でネット公開したりするなど、普通のベストセラー作りとはちょっと違う対応を続けているのも、この本への思いが伝わってきて興味深い。

   

2012年10月17日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・下



 大船渡市市赤崎町に住む金野俊さんという元中学校の校長先生に出会った。

 話しているうちに、金野さんの口からこんな言葉が飛び出した。「私は、日本人とは思っていません。 縄文人 弥生人が"和合"した子孫です」

 金野さんの話しは、東北・ 蝦夷征伐の英雄、 坂上田村麻呂と蝦夷(アイヌ)の指導者、アテルイの抗争と和解にまで及んだ。

 東北の地は1万年に及ぶ縄文文化にはぐくまれてきた土地であることに気づかされた。

 大船渡港に入るさんま漁船などが目標にするという尾崎三山。その南端の岬にある 「尾崎神社」に行ってみた。縄文人の流れをくむアイヌが神事に使う 「イナウ」に似たものが宝物として納められている、という。海岸の鳥居を抜け、揺拝殿までの境内は、このブログでもふれた 中沢新一の「アースダイバー」に書かれた縄文の霊性の世界。そんなパワー・スポットだった。

 たった3日間だけだったが、 カリタス大船渡ベース「地ノ森いこいの家」 で御世話になりながらのボランティア活動中も、縄文の昔からの「地の力」とそこで震災と闘い続ける「人の力」を不思議な思いで受けとめた。

 大船渡ベースは、カトリック大阪管区が管轄しており、管区の各教会の信者が交替でボランティアに来ているが、東京などから週末の連休を利用して来る若いサラリーマンも多い。

 初日の3日は、牡蠣の養殖をしている下船渡の漁場で、舟のアンカーや養殖棚の重しに使う土のう作り。60キロ入りの袋に浜の小石を詰め、運ぶ作業はけっこうきつい。軽いぎっくり腰になったのには参った。
 午後は、仮設住宅の草抜きをしていた女性グループと合流、堤防のすぐ後ろにある漁師の方の住宅跡の草抜き。腰をかばうのか、反対の膝まで痛くなり、裏返したバケツに座って作業をする始末。まさに「年寄りの冷や水」

 2日目は、漁師さんたちが住む末?町・大豆沢仮設住宅へ。倉庫を作る資材を運び上げたが、すぐれ(時雨=しぐれ)が降りだし、台風も近付いているというので、作業は中止。仮設の集会場で、仮設に住む人たち(老人が多い)の世話をする支援員の人たちと「お茶っこ(お茶飲み会)」。パソコンの写真を見せがら津波直後の話しがほとばしるように出てくる。瓦礫の山を避けて、山によじ登りながら家族や知り合いを必死に探した、という。
 午後はベースに帰り、リーダーの深堀さんが買ってきた材料キットで仮設の住民が使うベンチ作り。これも慣れない作業だったが、比較的短時間で完成し、皆でバンザイ。

 3日目は、再び大豆沢仮設住宅で、再度、倉庫造りに挑戦した。といっても、仮設住宅支援員の永井さん、志田さんの指示に従って砂利土を掘り下げてコンクリートの土台を埋め、床材を組み、支柱を打ち込み、床にベニア板を張る・・・。電動ドライバーの使い方にやっと慣れたころ、その日の作業は終了となった。

 午後の「お茶っこ」の時間に、女性支援員の村上さんが「最近ゆうれいが出る、という話しをよく聞く・・・」と言いだした。男たちは「そんなバカな」と笑いとばしたが、まだ行方不明になっている親類や知人を抱えている人は多い。「ここは多くの方が亡くなられた鎮魂の土地なのだ」と、改めて気づかされた。

「大船渡魚市場」でサンマの仕分けをしていた 鮮魚商「シタボ」の村上さん(61)は、末?町の家と店舗を流された。テント張りの店を再開しながら、近くの仮設住宅に来るボランティアやNPOの世話役も買って出ている。たくましい笑顔を絶やさない人だったが、津波でスーパーに勤めていた24歳の娘さんを亡くしたことを、他の人から聞くまで一言ももらさなかった。

元中学校長の金野さんが、ホテルに1枚のDVDを届けてくれた。
 地元の新聞社「東海新報社」が、社屋近くの広場から津波が襲ってくる様子を撮影したものだった。「湾内から脱出できず、転覆して亡くなった方の船も映っています。その場面では手を合わせていただければと思います」。そう書かれた手紙が添えられていた。

 「いこいの家」に常駐しているシスター(カトリックの修道女)の野上さんから「ここに来た若い方がたは、不思議に変わって帰られます」という話しをきいた。
  「ああ、アウシュヴィッツにボランティアとして来るドイツの高校生と同じだな」と思った。

 私も、少しは変われたろうか。縄文時代から培われた「地と人の力」、そして「鎮魂の思い」に揺り動かされ続けたたったの1週間だったが・・・。

 ※参考にした本
 ▽ 「白鳥伝説」 (谷川健一著、集英社刊)
 東北には、白鳥を大切にする白鳥伝説が伝えられている。その伝説を探りながら縄文・弥生の連続性を探った本。大船渡「尾崎神社」にもページを割いている。

 ▽「東北ルネサンス」(赤坂典雄編、小学館文庫)
 東北学を提唱している 赤坂典雄の対談集。
 このなかで、対談者の1人、 高橋克彦は「蝦夷は血とか民族ではなくて、・・・東北の土地という風土が拵(こしらえ)るもの」と話している。
 同じ対談者の1人の 井上ひさしは、岩手県に独立王国をつくる 「吉里吉里人」という小説を書いた意図について「我々一人ひとり、日本の国から独立して自分の国をつくるれぞということをどこかに置いておかないと、また兵隊をよこせ、女工さんをよこせ、女郎さんをよこせ、出稼ぎを言われつづけける東北になってしまうのではないか」と書いている。
 「原発の電気をよこせ」の一言は書かれていない。

尾崎神社;クリックすると大きな写真になります 鮮魚商の村上さん;クリックすると大きな写真になります 大船渡魚市場;クリックすると大きな写真になります
森閑とした尾崎神社。市内には、国の史跡に指定された縄文時代の貝塚も多い サンマの仕分けをする鮮魚商の村上さん。今年は、三陸沖の水温が高く、北海道産しか、あがっていない カモメが群れ飛ぶ大船渡魚市場。市場が古くなり、新市場を隣に建設中だが、完成まじかに震災に見舞われた
地ノ森いこいの家;クリックすると大きな写真になります 60キロの土のう;クリックすると大きな写真になります 仮設住宅の倉庫作り作業;クリックすると大きな写真になります
「地ノ森いこいの家」。ボランティア男女各8名が2食付き無料で泊れる 60キロの土のうを計66個。いや、きつい! 仮設住宅の倉庫作り作業。電動ドライバーも、慣れた手つきで?


付記・2012年11月21日

 ▽読書日記「気仙川(けせんがわ)」(畠山直哉著、河出書房新社刊)

 岩手県陸前高田市出身の写真家である著者が出した写真集。

 ちょうど、陸前高田市の隣の大船渡市のボランティアに行く準備をしていた9月中旬。 池澤夏樹の新聞書評でこの本のことを知り、図書館に購入申し込みをし、先週借りることができた。

 不思議な迫力で迫ってくる本である。前半は、著者が「カメラを持って故郷を散歩中にふと撮りたくなった」カラー写真が続く。
 ところが、ページの上半分は空白。下半分に載った風景は、もう見ることができない三陸の普通の風景・・・。戦慄が走る。

 写真の合い間に、著者が家族の安否を確認するためオートバイで故郷に向かう文章が挟み込まれている。これも、上半分は空白である。

「いまどこ?」「山形県の酒田。雪で進めなくて」「あたしは角地(かくち)。これから母さんと姉さん捜しに行くから」「え、一緒じゃないの?」「なに言ってるの」「だって避難者名簿に出てたんだから、末崎の天理教に三人一緒にいるつて」「宗教なんて信じちゃ駄目よ」「いやそうじやなくて」「後ろに待ってる人がいるから、じやあね」。あ、待って、切らないで。くそったれ。じゃあ、あれは存在する結果ではなかったのか。固い床の上で寄り添って、毛布を被っている三人なんて、いなかったというのか。あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか。


 真白な1ページをはさんで、写真は一変する。空白はない。

 津波が引き上げた跡の陸前高田市。瓦礫が積み重なり、民家の屋根だけが残り、杉林に自動車の残骸が押し込まれ、陸橋が浜辺の砂に埋まっている。

 これは、同じ場所の写真なのだろうか。この10月に見ただだっぴろい平野にコンクリートの建物と民家の土台だけが残っていた陸前高田市。

 しかし、行った時には切り倒されていた一本松も、大きな水門も、「幽霊が出る」といううわさが消えないホテルも、橋が流出して渡れなかった気仙川も、確かに写っている・・・。

 写真集の後半部には、文章はない。

「あとがきにかえて」には、こう書かれている。

あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。


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2012年10月13日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・上


 岩手県大船渡市の港近く。「大商人橋」のバス停を降りて10分弱のホテルは、津波で家屋が流されてコンクリートの土台だけが残る空き地にポツリと建っていた。
 昨年末に営業を再開したが、敷地周りの地盤沈下した商業地に大潮の海水が満ち、どこが入り口かさえ分かりにくい。

 ホテルの前に、盛り土をして急ごしらえで舗装された狭い2車線が走っており、その両脇はかってはにぎやかな商店街だったらしい。折れて数十センチだけ残された茶色の外灯が数メートル置きに残されている。根元に「茶屋前商店街」と刻まれていた。
 南側にある須崎川沿いの桜並木も、太い根元が無残に折れて残されている。近くに再建された寿司店の壁に、見事な桜並木を囲むように建つ家屋や商店の写真の額が飾ってあった。

 新築して営業を始めた飲食店がポツリ、ポツリと3軒ほど。それに、16軒の仮設屋台村、スーパーストアとコインランドリー、ちょっと離れてコンビニが1軒。仮設の商店街は、スーパーの再開で野菜などが売れなくなった、と聞いた。

 瓦礫は港沿いの2次処理場にほとんど移されたが、大船渡の下町にはまだ、復興にはほど遠い荒ばくとした風景が広がっている。

 10月1日の朝。ボランティア行にご一緒させてもらうことになったカトリック夙川教会(兵庫県西宮市)の一行4人(リーダーの河野さんと、水口さん、谷垣さん、野口さんの女性3人=年齢不詳につき順不同)と、教会バザーなどで販売する産地直送海産物探しを兼ねて、隣の陸前高田市に出かけた。

 巧みなドライブさばきを見せる水口さんがナビで設定した「陸前高田市市街地中心」には、だだっ広いコンクリート土台と、窓ガラスが吹き飛んだ鉄筋建物だけが残っていた。大船渡市の何倍もの広さに津波のつめあとが広がっている。

 白い建物のわきで青いシートを広げ、書類を乾かしている十人近くのマスク姿の男女がいた。ここは元の市役所。11月から取り壊しにかかり、跡地の利用は決まっていない、という。

 周辺では、大船渡でほぼ終わっている瓦礫の2次処理のためのクレーン起重機十数台が、いまだにフル活動している。

 枯れた1本松で有名になった高田松原の近くに特産品を売る仮設商店があるというので、ナビも駆使して探し回ったが、見つからない。

 「通行禁止」の綱を乗り越え、歩き回って、高田松原の"跡地"だけがやっと見つけた。少しだけ残された砂浜に枯れた松の切り株が十本近く残っているだけのすさまじい風景だ。

 「1本松のことばかりマスコミは書くけれど、あの2キロにわたる見事な砂浜がさらわれたことを、なぜ書かないのか・・・」。大船渡の寿司屋の亭主が嘆いていたのを思いだした。

 翌日、宮城県 気仙沼市に仮設店舗に鮮魚店などが集まったさかなの市場「さかなの駅」があると聞き、再度、産地直送海産物探しに出かけた。ここでしか売られていないという「サメの心臓」(別名・モウカの星)もあるらしい。

 街に入り、県道210号線と34号線が交差する場所でギョッとする風景にぶつかった。 巨大な船が、赤さびた船底を丸出しにして打ち上げられている。約60メートル、330トンもの巨大な巻き網漁船。船腹には「第十八共徳丸」とあった。
 気仙沼港から津波に流され、家屋をこわし、人をなぎ倒して北へ500メートルも流されたのだ。

 船体は、片側3本の鉄骨で支えられ、船底横にお地蔵さんの像と花が飾られ、手を合わせる人が絶えない。
 近くの保育園の保母さんによると、子供たちは、この船のことを「ころしぶね」と呼ぶ。通園バスで横を通る時に PTSD(心的外傷後ストレス障害) の症状を見せる園児もいる、という。この船を解体するのかどうかは、まだ決まっていない。

 6日に同行4人と別れ、学生時代に中学校の先生をしていた先輩を訪ねたことのある旧・ 田老町 (現在は宮古市に合併)まで、バスを乗り継いで行った。

 このブログでもふれたことがある 吉村昭の「三陸海岸大津波」にもくわしいいが、ここには、過去の津波の経験を生かし「万里の長城」の異名を持つ高さ10メートルの大防潮堤を築かれた。チリ地震津波でも被害が軽微だったことで有名になった。

 しかし、今回の地震では、津波は場所によっては高さ50メートルも越え、町は壊滅した。

 一部破壊された大堤防の上に立つと、右に田老の港と漁港、左に壊滅した町がほぼ等分に広がる。

 山が、意外に近く見える。「堤防に頼らず、まず山に逃げていたら・・・」。なんとも、せつない思いが胸を衝いた。

 「陸前高田市震災復興計画?『海と緑と太陽との共生・海浜新都市の創造』?」  陸前高田市のホームページに載っている、夢いっぱいの復興計画だ。三陸海岸各市も、同様のりっぱな復興計画をそろえている。

 しかし、防潮堤1つを取っても、県や各市、住民や漁業者の間で議論が絶えず、かんじんの高さがなかなか決まらないらしい。

 大船渡市は、比較的山に近いが、復興住宅の高台建設を巡って、市と民間の山林所有者で価格交渉が難航している、という。

 大船渡市立末崎小学校にある仮設住宅の支援員をしている永井さん(65)は、自宅再建はあきらめ、復興住宅に入るつもりだ。
 「いつ入れるやら、このままだと仮設暮らしが後5年、いやそれ以上・・・」

 たった2日間の出会いだったが、いつも明るく接してくれた永井さんの目が、少し遠くを見ているようだった。

現地の写真集
JR大船渡線・大船渡駅跡;クリックすると大きな写真になります 盛り土をした車道;クリックすると大きな写真になります 仮設の「大船渡屋台村」の朝。;クリックすると大きな写真になります さびついた大船渡線のレール;クリックすると大きな写真になります
JR大船渡線・大船渡駅跡。なにもない駅前広場は、タクシーの待機場になっていた。 盛り土をした車道。左の水中に歩道用の白いラインが見える。 仮設の「大船渡屋台村」の朝。 さびついた大船渡線のレール。バス専用道路にする話しがあるが・・
「茶屋前商店街」;クリックすると大きな写真になります 瓦礫処理;クリックすると大きな写真になります 旧陸前高田市役所;クリックすると大きな写真になります 無残な高田松原跡;クリックすると大きな写真になります
商業地の真ん中でにぎわっていた「茶屋前商店街」 陸前高田市の中心で続く瓦礫処理 旧陸前高田市役所。青いシートの下で書類の処理が続く 無残な高田松原跡。近くの橋に「国営メモリアル公園を高田松原へ」 と書かれた横幕が張られていた。
陸上を走った巻き網漁船;クリックすると大きな写真になります 旧田老町の大堤防;クリックすると大きな写真になります
気仙沼港から500メートルも陸上を走った巻き網漁船 旧田老町の大堤防に打ちつけられた瓦礫の処理は終わったが・・


2012年9月21日

読書日記「風の島へようこそ」(アラン・ドラモンド著、松村由利子訳、福音館書店刊)「ロラン島のエコ・チャレンジ」(ニールセン北村朋子著、野草社刊)



風の島へようこそ (福音館の科学シリーズ)
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ロラン島のエコ・チャレンジ―デンマーク発、100%自然エネルギーの島
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 2冊とも、風車などで「自然エネルギー100%自給」を実現したデンマークの島の話しである。

 「風の島へようこそ」は、変形版40ページの絵本。舞台は、デンマークの首都コペンハーゲンから西100キロの海峡にある面積114平方キロ、人口4300人の小さな島、 サムソ島だ。  
あるとき、デンマーク政府が1つの計画を思いつきました。
 どこかの島をえらび、そこでつかうエネルギーをすべてその島でつくろうという計画です。そして、いくつかの島の中から、わたしたちの島がえらばれたのでした。


 この計画のリーダーになったのが、この島で生まれ育ち、島の中学校で環境学を教えていた ソーレン・ハーマンセンさん(現サムソ・エネルギー・アカデミー代表)(52)。
 ソーレンさんの提案に、こどもたちはわくわくした。「でも、おとなたちがわくわくしはじめるには、もうちょっと時間がかかりました」  
ある日、電気工のブリーアン・ケアさんが、ハーマンさんをよびだしました。
 「うちに中古の風車をとりつけたいと思うんだ」


 ある夜、激しいみぞれまじりの雪が降り、停電になった。  
でも、ケアさんの家には、あかりがついていました。「停電なんてへっちゃらだ!」
 ケアさんは大きな声でいいました。「家の風車は動いている!電気をつくっているんだ」
 小さな風車は、ぶんぶんとたのもしい音をたててまわっていました。


 これがきっかけで、島民たちの自然エネルギー熱に火がついた。銀行から融資を受けて大きな風車を建て、法律による電力の固定価格買い取り制を使って電力を電力会社に売る人が出てきた。農場に太陽パネルを並べて電力をまかなう人、ナタネから採った油でトラクターを動かす人・・・。島にたっぷりある藁や木片を燃やすバイオマス暖房プラントが立ち上がり、環境保全に目覚めて電気自動車や自転車に乗る人が増えた。  現在、島には1メガワットの風力発電が11基稼働しており、島内の全電力需要をまかない、洋上にある2メガワットの風力タービン10基も、売電で年率6?7%の利益を生み出している。

 今や、サムソ島は「エネルギーの島」として世界的に有名になり、日本のNHKなどの取材が絶えない。

 ソーレン・ハーマンセンさんも、福島原発の事故以降しばしば訪日し、講演やインタビューなどをこなし「自然エネルギー100%」を推奨している。

 「ロラン島のエコ・チャレンジ」の舞台となっているロラン島は、サムソ島と同じ「自然エネルギー100%自給の島」。 著者は、ロラン島にデンマーク人の夫、小学生の息子と住む日本人環境ジャーナリストだ。

 この島は、約1200平方キロ、人口約6万9000人とサムソ島に比べるとかなり大きく、可動橋で結ばれている東隣の ファルスタ島と合わせると風車は陸上、洋上を合わせて550基以上もある。つくられた電力の一部は、首都コペンハーゲンまで供給されている、という。

 著書には、1973年のオイルショックで政府は一時、原発推進を決め、ロラン島も原発2つの建設予定地の1つだったことが書かれている。しかし、島民など国をあげてての根強い草の根運動で政府は原発を断念、それがデンマークを再生可能エネルギーの先進国にしたきっかけになった。

 大きかったのは、政府が「原子力政策推進」のために設置したはずの「エネルギー情報委員会(EOU)が、原発建設論議で公平な活動を貫いたことだった。

 著者は、こう書く。  
EOUの事務局長であったウフエ・ゲアトセンが、インタビューで語ってくれた言葉が、私たち日本人にとってはとても心に響く。
 「日本は今、エネルギー問題について考える重要な岐路にある。日本にとって大事なことは、公平な第三者委員会を立ち上げて正しい情報を提供、共有し、原発やそれ以外のエネルギーや社会について、国民と共にホリスティックに議論することだ。そこで重要なのは、見識者、専門家は 『独立した』『政府や権力の息のかかっていない』『中立的な立場』 の人選をすること。それなくして、公正な議論は成り立たない」
 はたして、今の日本は、そういう選択ができているだろうか。


 ロラン島はかって造船で栄えた街だった。それが、日本などに追われて造船業が衰退、周辺地域も含めて地形がバナナに似ていたため、長く「腐ったバナナ」と呼ばれていた。それが、廃業した造船所跡に風力発電機メーカーを誘致、自然エネルギーのメッカになることで「グリーン・バナナ」と名前を換えた。

 しかし、今回の金融危機や中国など新興国の追い上げで、人件費の高いデンマーク経済は苦境に陥り、風力発電機メーカーも大幅な工場閉鎖、人員閉鎖に追い込まれた。

 しかしロラン島自治体は、2つのプロジェクトで「自然エネルギー先進国」の看板をさらに推進しようとしている。  1つは、風力発電機メンテナンスの専門技術者を育てる職業訓練学校を設立するなど環境関連ビジネスの推進、もう1つは燃料電池で熱と電気をまかなう水素プロジェクトの開発だ。

 在デンマーク日本大使館の 住田智子さんのレポートによると、バルト海に浮かぶ デンマーク・ボーンホルム島でも「ブライト・グリーン・アイランド戦略」というプロジェクトを展開、「カーボン・ニュートラル」を目指している。

 日本にも 「エネルギー自給100%を目指す島」がある。

 対岸の原発建設計画に反対し続けている瀬戸内海、 祝島の住民が、 「祝島 自然エネルギー100%プロジェクト」を推し進めている、という。

 「エネルギー自給100%を目指す」のは、小さな島でしかできないのだろうか。

 絵本「風の島へようこそ」に、こんな1節がある。  
ちょっと考えてみてください。
 地球は、宇宙にうかぶ、とても小さな島みたいなものです。
 だから、あなたがどこの国の人であっても、
 わたしたちと同じように「島にすむ人」だと考えていいと思います。
 地球という島を守るために、あなたのできることがあるはずです。


 日本も、地球に浮かぶ島の1つ。そして揺れ動く岩盤と活断層の上の薄い地表に、 54基もの原発を建ててしまった。

 もし原発のメルトダウンが再度、起きたら 「日本沈没」 ディアスポラ(民族離散)・・・。

 ※参考にした本
 ▽「グリーン経済最前線」(井田徹治、末吉竹次郎著、岩波新書)
 共著者の1人、井田徹治さんは、表題の絵本「風の島へようこそ」でも、巻末解説を書いている。
 サムソ、ロラン島をはじめ「21世紀に目指すべき自然環境と調和した新しい『グリーン経済』への胎動を紹介している。
グリーン経済最前線 (岩波新書)
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   ▽画集「井上よう子作品集」( 井上よう子著、 ギャラリー島田刊)
 兵庫県西宮市在住の画家だが、長年デンマークに滞在していた。その作品の多くに風車が描かれる。深くすんだ青い色調のなかにとけこんだ風車がなんとものびやかで、たくましくみえる。
 この6月にギャラリー島田で開かれた 展覧会に出かけた。作品はとても買えなかったが、求めた画集を時々めくりながら、1昨年、デンマークで聞いたのと同じ風車の音が聞こえてきたような気がしている。

2012年9月13日

読書日記「光線」(村田喜代子著、文藝春秋刊)、「原発禍を生きる」(佐々木孝著、論創造社刊)



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 福島第一原発にからんだ本を続けて読んだ。

 「光線」の 著者の本について、このブログで書くのは、 「あなたと共に逝きましょう」 「偏愛ムラタ美術館」以来、3回目。

 「あなたと共に逝きましょう」は夫が大動脈瘤に患うことがテーマだったが、今度は、妻(著者)が子宮体ガンになってしまう。
 しかも、その病魔は、奇妙なタイミングでやってきた。「あとがき」にこうある。

 
二〇一一年の三月がきて、突然、東日本の大地が揺れた。いや、海が揺れた。海を持ち上げて海底の地殻が揺れた。そしてじつはその一ケ月前くらいから私の身体にも変動が起きていて、地震の数日後にガンの疑いが現われたのだった。


 著書に収められているのは8つの短編集だが、このうち「光線」「原子海岸」は、ガンになった妻を見守る夫・秋山の立場で書かれている。

 
思えば治療前に撮ったPET画像のガンは、妻の下腹部で鶏卵大のオレンジ色の炎のようにあかあかと燃えていた。・・・
 それが、鹿児島で行われていることを知った治療法でガンは消えてしまった・・・。(原子海岸)


 
放射線治療で妻の子宮体ガンが消えたとき、秋山は焚き火の燃えた後の灰を見るような気がした。日曜祭日なし連続三十日間の四次元ピンポイント照射で、ガンの焚き火は鎮火したのだ。(同)


 
自分の妻が乳ガンや子宮ガンに罷ったら、男はどういう気持ちになるだろうかと秋山は思う。病気の軽重ではない、臓器の部位だ。妻の乳房や子宮は結婚以来長い年月かけて付き合ってきたもので、肺や胃や腸などとはまた違う。妻が病院で検査を受けるのも無惨な思いがする。(光線)


 この治療法でガンを克服した患者たちの"同窓旅行"の席上、秋山の妻は院長に思わず聞いてしまった。

「あのう、私たちがかけられる放射能って、原発で出来るのですか」。・・・周囲の人々もにわかに静かになって院長を見る。(原子海岸)


 日々、東北の人々を苦しめている原発への恐怖と放射能に助けられたという思いがないまぜになって、思わず出てきた素朴な質問だった。

私のガンが見つかったのは三・一一の明くる日でした。もう日本中がどんどん放射能に震えののし上がっていった頃です。大きな鬼が暴れまくつているときに、日本中がその鬼を憎んで罵って 石投げてるときに、車一台買えるくらいのお金を持って、その鬼の毒を貰いに行ったようで、何とも言えない気分だったの。(同)


放射線治療をして助かった者だけじゃありませんよ。この時期はきっと、手術で助かった人も、抗ガン剤で助かった人も、ガンとは別の病気で命を取り戻した人も、事故で命拾いした人も、子どもが就職できた人もです。大学受かった人も、何か良いことがあった人、幸福を得た人はみんな今度のことではそんな気持ちじゃないでしょうか。良かったって言えない。叫べない。みんな、どこかで苦しいんじゃないですか。(同)


私ね、治療から帰ると途中から放射線宿酔が始まるので、帰り着くとベッドに倒れ込むの。それで毎日毎日見たくないのにやっぱりテレビを見てしまうの。ほら、もうすぐ煙が出る。私は布団をずり上げて眼を覆うの。あそこから出る見えない光線と、今自分の下腹にかけられてるものが、混ざり合ってしまう。あっちのと、こつちのとは、同じじゃないのに、なぜか同じになってしまうの。(同)


   「あとがき」は、こんな言葉で結ばれている。

 
その頃、鹿児島の桜島は年間の観測史上最高となる爆発回数を記録し、私が滞在中の四月と五月の噴火は百六十人回を数えた。市内には黒い灰が臭気を伴って降り積んでいた。地球の深部は放射性元素の崩壊が行なわれている。核分裂の火が燃えているのだ。人間世界の動きから眼を空に移すと、太陽は核融合する巨大な裸の原子炉だ。そして地上では人間の手で造られた福島原発の炉に一大事が起こつている。
 私が鹿児島の火山灰の舞う町で日々めぐらせた思いは、これもまた一つの3・11に続く体験というしかない。原発への恐怖と、放射線治療の恩恵と、太陽を燃やし地球を鳴動させる巨き世界への驚異である。


 「原発禍を生きる」は、 「フクシマを歩いて ディアスポラの眼から」( 徐京植著、毎日新聞刊)を読んで、知った。

  著者・佐々木孝は、福島第一原発から約25キロ、屋内非難地域に指定されている南相馬市で「私は放射能から逃げない」と、認知症(元・高校教師)の妻と暮らす反骨のスペイン思想研究家。永年、 ブログ「モノディアロゴス」を書き続けてきたが、大震災後1日に5000件ものアクセスが集中、単行本化された。

 著者は、緊急避難地域、屋内非難地域といった政府の方針に翻弄され、発表される放射線測定に不信感を強めた住民の多くが「避難民化」している状況について「三月十九日午後十一時半」付けブログで、こう書く。

 
だれも言わないのではっきり言おう。いま各地の避難所にいる避難民(!)のうち、おそらく一割は、例えば南相馬市からの避難者のように、家屋も損壊せず電気や水道も通っている我が家を見捨てて過酷な避難所生活に入っているのである。もっとはっきり言えば無用な避難生活を選んでしまった人たちなのだ。・・・私の知っている或る人は、この無用の生活を選んでしまった。高齢で病身であるにも拘らず、そして家屋損壊もなく、電気・水道が通っている我が家を離れ、たとえば30キロ圏外をわずか逸れた町の体育館で不便きわまりない避難生活をしている。・・・その人が避難生活を送っている場所は、この南相馬市より放射線の測定値が六倍もある場所なのに。


  一方で、国家命令に毅然として立ち向かった「東北のばっぱさん(4月十二日付け)」のことが忘れられない。

 
時おりあのおばあさんの姿が目の前にちらつく。双葉町だったか、10キロ圏内ながら迎えに行った役場の人に向かって避難することを丁重に断って家の中に消えたあのおばあさんである。・・・「私は自分の意志でここに留まります」といった意味の老婆の言葉に、困惑した迎え人がつぶやく、「そういう問題じゃないんだけどなー」
いやいや、そういう問題なんですよ。君の受けた教育、君のこれまでの経験からは、おばあちゃんの言葉は理解できるはずもない。ここには、個人と国家の究極の、ぎりぎりの関係、換言すれば、個人の自由に国家はどこまで干渉できるか、という究極の問題が露出している。


 「人類を破滅の危険に晒されることになった」原子力を「早急に封印する方向に叡智を結集すべきではなかろうか」と書く一方で、被災地に住んでいると、こんな発言にも違和感を持つ。

 このブログでも書いた 小出裕章・京大原子炉実験所助教は、5月の参議院員会で「もし現在の日本の法律を厳密に適用するなら、福島県全体と言ってもいい広大な土地を放棄しなければならない。それを避けようとすれば住民の被曝限度を引き上げなければならない...これから住民たちはふるさとを奪われ、生活が崩壊していくことになるはずだと私は思っています」と述べ。その 動画がWEB上でおおきな話題を読んだ。

 これに対しても著者は「被災者目線 五月二十六日」という一文で、ズバリ被災地住民の怒りを率直にぶつける。

「ふざけんな、と言いたいね。代議士先生たちを前に滔々と歯切れよく演説をぶったつもりだろうが、てめえは被災者が今どんな気持ちで毎日を送っているのか少しでも考えたことがあるのか聞きたいね。てめえが全滅と抜かしおった福島県で、こうして元気に生きているし、これからだって生き抜いてみせるぜ。ただちに健康に被害はない、と言われる放射線の中で、ちょうど酷暑や極寒、旱魃や洪水にも耐え抜いてきた先祖たちに負けないくらいしたたかに生き抜いてやらーな」


 怒りをぶつけながらも、被災地で認知症の妻を抱える現状をユーモラスにさえ描く「或る終末論 四月十一日付け」という一文に、読む人は釘づけになる。

妻は言葉で意志表示ができません。ですから便器に坐らせても、それが大なのか小なのか、分からないのです。空しく十分くらい待って、結局何も出ないことだってあります。だから耳を澄ませて、あっ今は小の音だ、あっ今度のは大が水に落ちる音だ、と判断しなければなりません。そのときの喜び、分かります?・・・私にとって、一日のうちの大仕事がそのとき無事完了するのであります。・・・ 先日も便所の中に一緒に居るときに揺れが始まりました。一瞬、ここで死ぬのはイヤだ、と思いましたが、でもここで終末を迎えるのは時宜にかなったことかな、とも思ったのであります。地震よ、大地の揺れよ、汝など我ら夫婦の終末に較ぶれば、なんぞ怖るるに足らん!


 地元紙「福島民報」の9月11付け 記事に掲載された夫婦の相寄る写真がいい。 本の帯び封に載った愛する孫との3ショットもいい写真だが、被災地での壮絶な生活ぶりを浮かび上がらせる。

 

2012年8月22日

読書日記「ハーバード 白熱日本史教室」(北川智子著、新潮新書)



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 「ハーバード」「白熱教室」とくれば、 NHKの公開番組でも評判になったあの マイケル・サンデル教授のことと思うが、そのハーバード大学に、もう1人日本史を教える白熱教師(レクチャラー)がいる(正確には「いた」。詳しくは後述)らしい。

 その 北川智子さんが書いたこの本、すでに11刷7・7万部という歴史書籍としては空前のベストセラーとなっている。

 ところが8月12日付け朝日新聞の読書欄で、精神科医の 斎藤環氏が、こんなことを書いている。「この本、妙に評判が悪い。いわく自慢話ばかり、理系出身なのに歴史を語るな、そもそも歴史認識がおかしい、などなど・・・」。

 ただ斎藤氏も書いているように、この本は弱冠32歳の美人教師が書いた「サクセスストーリー」として読むと、かなりおもしろい。
 先日終わったロンドン五輪で、若い競泳選手が晴れの舞台で自己記録を更新していくのと同じように、あっけらかんと我が実績に胸を張る姿勢に、ある種の痛快ささえ感じるのだ。
 かっての島国「内弁慶」を抜け出せなかったオリンピック選手と違って、おくすることなくグローバルな世界に伍している若者たちは「たいしたものだ」と・・・。

 福岡の高校を卒業して、カナダの州立大学で数学と生命科学を専攻した根っからの理系学生だった著者が、この大学の大学院で日本史を専攻することになったのは、たまたま担当教授のアシスタントのアルバイトをしたのが、きっかけだった。

 ハーバード大学のサマースクールに行ってみたいと思った。「ブランドに憧れる、そんな年頃だった。ネームバリューのある名門校に、ただ行ってみたかった」

 ところが学費が高くて、受けたかった数学や政治のコースは無理。唯一受講できたのは「ザ・サムライ」という日本史のクラスだけだった。「ヴィトンが欲しいがバックには手が届かず、仕方なくお財布を買うような論理だった」

 教鞭を取るハロルド・ボライソ教授の膨大なサムライ・コレクションには感服した。源義経と弁慶の間に生まれる闘争心と忠誠心、楠正成のゲリラ戦法、徳川三家に、ハイライトは明治の志士たち・・・。そのうち、講義がつまらなく思えてきた。

 昼休みに芝生に寝そべりながらクラスメイトたちに切り出した。「サムライのクラスに女の人がでてこないのは変じゃない?」「Lady Samuraiは絶対いたと思う」

 「この会話が私をハーバード大学の先生に導くきっかけになった」

 カナダの州立大学で博士号を取り、米国・プリンストン大学で日本史の博士課程に進んだ。東大史料編纂所研究員の1年を経て、普通なら5年から10年かかる博士号を3年で取った。

 そしてハーバード大学が新設した、大学院を出た新米が1,2年教えられる「カレッジ・フェロー」に採用された。「熱意が伝わってしまった」

 「ザ・サムライ」のクラスを「Lady Samurai」に替えて新しいカリキュラムをつくった。1年目のクラスの受講生は16人、2年目には104人、3年目は251人となった。「モストスタイリッシュ・プロフェッサー」賞をもらったり、その年の卒業アルバムに載せる「フエバリット・プロフェッサー(思い出に残る教授)」に投票で選ばれたりした。3年目の秋からは、数学史の先生も兼ねた。学生に最も支持された教師に与えられる「ティーチング・アワード」も3年連続で受賞した。

 著者が、2度の博士論文に書き、ハーバードの学生を沸かせた「Lady Samurai」は「戦わずに、かつ蔭で大いに活躍する女性たち」に焦点を当てた。とくに戦国大名の妻は「ペア・ルーラー(夫婦統治者)」として「Samurai」と同等に扱われたという主張。豊臣秀吉の妻・ねねや前田利家の妻・まつなどを例として挙げている。

   ところがこの歴史認識に、マスコミやNET上で非難の嵐が巻き起こっている。

「壇ノ浦の戦いで水に身を投げた女官たちは、単に平家の逃避行について行っていただけ」「三条河原で豊臣秀次の側室たちが処刑されたのを『サムライらしい最後』と書いているが、罪人として斬首されたのだ」「ねねやまつは例外。戦国大名の妻がすべてペア・ルーラーと書くのは、なんという事実誤認」「フジヤマゲイシャレベルの間違った概念が広まって、日本の歴史学者たちは困惑しています」・・・。

ただ著者は、こんなことも書いている。

 
武士道は、サムライという男性名詞を前提に創られた、(新渡戸稲造による)20世紀の日本文化です。今日、その概念の創成から100年が経ち、人々はもっと深く日本を知る時にきています。「Lady Samurai」のクラスは、新しい歴史の見方や捉え方を提案し、男性だけで成り立ってきた日本史に、女性の生き方と命を組み込む、21世紀感覚の日本史のクラスなのです。


 そして、なによりすばらしいのは、著者が周到に準備したカリキュラムに学生たちを同時代的に立ち入らせる アクティブ・ラーニングの手法だ。

 「Lady Samurai」とほぼ同時に始めた「KYOTO」というクラスでは、まず16,7世紀の地図をコピーすることによって、学生たちはその時代の「KYOTO」にタイムトラベルし、自らが主役のラジオや4D映画まで製作させられる。
 最後の講義と学生たちの4D映画観賞会では、20秒間もスタンディング・オベーションが続いた、という。

 
海外の大学で教えられる日本史は、それ自身がいわば「外交官」的役割を持っています。とりわけ、長い歴史がある京都には、日本のイメージをよりポジティブにできる要素がたくさんあります。日本の歴史の一部分を学生が気に入ってくれること、または自らの一部のように思ってもらえるように教えることは、きっと将来、何かの役に立つことでしょう。このように、国家としての外交政策とは違った学校からのソフトな取り組みが、現実の外交にも何かしらの効果を果たしうるのではないかと考えています。


 実は、著者はもうハーバード大学にはいない。当初から1,2年が通例だった「カレッジ・フェロー」を退職、7月から英国の科学史研究所 「ニーダム研究所」の客員研究員として数学史を研究している。1年間の予定、という。著者の次の舞台は、なんなのだろうか。

 ご健闘を「北川智子さん」。がんばれ、グローバル化に目覚めた日本の若者たち!

 ロートル・年金生活者からの、気持ちばかりのエールである。

2012年8月 8日

読書日記「くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記」(うつくしいくらしかた研究所・編集、株式会社電通、株式会社平凡社・制作 )





 もともと「くらしのこよみ」は、スマートフォン用の 無料アプリとして開発された。

 以前にNHKラジオ朝の番組 「ラジオ・ビタミン」で旧暦を楽しむ暮らし方の特集を時々聞くことがあり、おもしろいなあと思っていた。

このアプリは、旧暦のならわしである季節を立春、夏至、秋分、大雪などに分ける 二十四節気と、それをさらに七十二候に分類し、その期間の季節の解説、旬のさかな、やさい、催しなどを巻物のようにスクロールしながら楽しむことができる。

 さっそく、私が使っているアンドロイド版のスマホにアップロードしたが、とにかくデジタル写真がすばらしい。このブログを書いている八月六日の大暑・第三十六候「大雨時行(たいう ときどきに ふる)」には「季節のたのしみ」という項目に「冷たいものは控え、温かい食べ物を」といったアドバイスまであって「そうか、今日の昼は温かいにゆうめんにしようか」と思ったりする。

 ただ、この無料アプリは七十二候、つまり五日ごとに更新されて、前後の「候」を見ることができない。

 そこで、七十二候のソフトが完成した時点で、1年分をまとめて出版(税別2980円)したのがこの本。同時に、アプリのほうでも iPhoneについては、3?72候分を170?2200円で販売している。予定通りの商業主義に乗せられたきらいがないでもないが、すぐさまAMAZONで買ってしまった。

スマホの画面イメージ【くらしのこよみ】
スクロールの右端から左へ移動してください。
 八月七日からは二十四節気で 「立秋」入り。日本間にすだれがかかる青いトーンの写真続いて、七十二候の第三十七候「涼風至(すずかぜ いたる)」が説明されている。

 
立秋を過ぎ、お盆を迎える時期になると、熱風の中にふと秋の気配を感じることがあります。まぶしいほど輝いていた太陽も心なしか日射しを和らげ、日が落ちると草むらから虫たちの涼しげな音色が聞こえてきます。真夏日や熱帯夜が続き、暑さは今がたけなわですが、季節は少しずつ、しかし確実に進んでいます。


 原発再開のための「計画停電」という電力会社の"脅し"にもめげず、例年にない猛暑を耐え抜いてきた70歳の老人に、そっと冷風を運んでくれるような文章である。

   そして季節は「寒蝉鳴(ひぐらし なく)」(第三十八候)「蒙霧升降(ふかき きり まとう)」(第三十九)候と進み、二十四節気の 「処暑」に入ると、もう八月もあと数日となる。

 そんな季節のうつろいのページを繰り、コスモスの名所を挙げた記述に旅への思いをつのらせてみたりする。  以前、このブログで稲葉真弓の 「半島へ」という本にふれたことがある。その時には書かなかったが、著者が、同じ半島(志摩半島)で生活する自然染め作家に二十四節気を織り込んだカレンダーを楽しむ暮らしを教えてもらう記述が出てくる。

「いつどんな植物が顔を出すか。この暦だとわかりやすい。春分のころを見てみると、ヨモギやセリ、ツタシって書いてある。あ、そろそろだ、とこの暦を見て野に出て春のものを染めるわけやね。春分が過ぎれば、桜の時期。花見の準備もするが、若い枝の皮をそいで煮だして染めるのに最適。穀雨って言葉もいいでしょう?字の通り、穀物を育てる雨がやってくる。芭種が来たら、藍や茜の種をまく。已種の巴は忙とも書くらしい。草取りもあるし、やたら忙しい時期ですわ。そんなわけでね、僕らの一年は十二カ月ではなく、二十四節気。この暦は僕らの仕事の水先案内人です」


 
「よく五感を研ぎ澄ますって言いますよね。このごろ思うんです。人間は五感どころか、二十四の感覚を身につけているんやないかってね。・・・たとえば、このあたりには桐や粟の木が多いが、半月もすると花のにおいの違いがわかる。同じ花なのに喚寛が違ってくるんです。あ、今日はにおいが濃いな、あ、花が腐り始めているなんてことがわかるのは、もっと微妙な感覚が入り交じっているせいやないかと思うんやけど。温度とか、その日の感情、生理感覚なんかで受け取るにおいが変ってくる。なんや不思議だなぁと思っているうち、ものの本で人間の感覚は十二あるという説を見つけてね。でもねぇ、二十四節気を基準に暮らしてると、どうもそれも少ないような気がする。半月ごとに二十四感覚、人の体も動いているんやないかな」


 感覚をとぎすまして、季節の変化を体で受けとめていく・・・。そんな生活をうらやましく感じる

 著者は、二十四節気を強調した暦を使っているらしい。「暦には、小さな文字でその季節の特徴、しなければならないことが書いてある」

   
立夏。花木の花後の努定。球根や苗の植えつけ。一年草の種まき。挿し芽。ソラマメ、アスパラガス、ワケギなどの収穫。ナス、トマ?ピーマンの植えつけ。Etcー

 小満。鹿児島でアジサイ開花。ウツギ、サツキ、シロツメクサ開花。アサガオ、ヨルガオ、ケイトウなど一年草の種まき。キキョウ、タチアオイなど宿根草の種まき。サヤエンドウ、イチゴの収穫。etcー


 こんなカレンダーを手に入れたくてNET検索してみたが、どうもこれだというものがヒットしない。なんとか手に入れたいのだが・・・。

 もう1冊「日本の七十二候を楽しむー旧暦のある暮らし」(白井明大/文、有賀一広/絵、東邦出版刊)を図書館で2度にわたって借りた。
日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―
白井 明大
東邦出版
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 「くらしのこよみ」のデジタル写真に負けているかなと思ったが、詩人の言葉とちらばめられている色彩豊かなスケッチがなんとも味わい深い。

 絵手紙を描くのが好きという知人に薦めてみようと思う。

     

2012年7月19日

 読書日記「愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選 1992?1997」



愉快な本と立派な本  毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1992~1997)
丸谷 才一 池澤 夏樹
毎日新聞社
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  「快楽としての読書 日本篇 海外篇」(丸谷才一著、ちくま文庫)の後を追うように出版された。前著が週間朝日に掲載された丸谷才一の書評を選んでいるのに対し、表題書は毎日新聞の書評欄に様々な評者が書いたものを丸谷才一、池澤夏樹両氏が選び出したもの。

 図書館に買ってもらい、パラパラめくりながら、気になるページにポスト・イットをはさんでいくと、結果的に丸谷才一の書評が一番多くなった。  「カサノヴァの帰還」、(A・シュニッツラー著、金井英一、小林俊明訳、集英社)の評には「小説は大好きだが、今出来のものは辛気くさくて鬱陶(うつとう)しくてどうもいけないと言う人にすすめる」とある。  18世紀の高名な色事師カサノヴァの50代を19世紀末の「世紀末ウイーンの恋愛小説の名手シュニッツラーが老境にさしかかって描いた作品とか。シュニッツラーは「社会の約束事を踏みにじった人間の研究をしようとして、絶好の題材を得た」。何年か前に、「世紀末ウイーン探訪の旅をしたことを思い出した。

カサノヴァの帰還 (ちくま文庫)
アルトゥール シュニッツラー
筑摩書房
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ミステリー・映画評論家「瀬戸川猛資」の「夢想の研究 活字と映像の想像力」(早川書房)についての項では「嘱望する評論家の出現。じつにおもしろい本をひっさげて彼はやって来た」と絶賛している。
 瀬戸川の説は「突拍子もないが、説得力がある」という。例えば「オーソン・ウエルズの「『市民ケーン』はエラリー・クイーンの「 『Xの悲劇』の換骨奪胎」「アメリカ映画に聖書物が多いのは、ハリウッドの帝王たちがみなユダヤ人で、ユダヤ教の信仰を捨てていないから」など・・・。
 丸谷は、毎日の書評欄を引きうける際、瀬戸川とエッセイストの「 向井敏を評者に起用したが、この2人は若くして世を去った。丸谷は表題書のまえがきで「桃と桜に分かれたような大きな喪失感を味わされた」と悼んでいる。

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)
瀬戸川 猛資
東京創元社
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 その瀬戸川が「丸谷才一 不思議な文学史を生きる」(丸谷才一著、新井敏記編 文藝春秋)を評して「誰だぁ? 文学をおもしろくないなんて言うのは?」と切り出している。
 新井の丸谷へのインタビューで編成させているのだが、過激かつ戦闘的な内容に満ちている。  「鴎外は小説家の才能としては、そんなに恵まれていなかった人じゃないかと思いますね。想像力による構築という才能がないでしょう」「小説家的才能においては、夏目漱石のほうがずっとあったと思いますね」
 特注のお奨め品だそうである。

marutani.jpg
丸谷 才一
文藝春秋
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 向井敏の書評もかなり掲載されているが「丸谷才一批評集 全6巻」(文藝春秋)も、堂々と評している。
 丸谷がはじめての評論集「梨のつぶて」(晶文社)を公にしたのは昭和41年のことだそうだが、向井が一読して驚くのはその守備範囲の広大さ。
 古典から近代文学。英米文学に王朝物語や和歌。正宗白鳥の空想論、菊池寛の市民文学、北杜夫のユーモアを語る・・・。その守備範囲の広さの脳裏には「日本の近代文学を袋小路に追い込んできた実感信仰、実生活偏重から救いだす」という大きな構想があったという。  そして今回の全6巻批評集は、丸谷がしっかりした基盤のうえに批評を築いてきた証になっているという。
 それに花を添えているのが、各巻巻末の対談らしい。池澤夏樹、渡辺保川本三郎ら若い気鋭の批評家の大胆不敵な仮説や機敏を衝く問いに「著者(丸谷)はしばしばたじろぎ、・・・感無量だったのではあるまいか」

 丸谷の書評を、もう1篇。

 「泥棒たちの昼休み」(新潮社)の著者・結城昌治のことを、丸谷は「舌を巻くしかないくらい文体がよい。常に事柄がすっきりと頭にはいって、文章の足どりがきれいだ」と絶賛している。
 この本は、刑務所の木工場で働く懲役囚が昼休みにする話しを綴った短編集だが、明らかに阿部譲二「堀の中の懲りない面々」に刺激された設定。それが「次々と新しい工夫で読者を驚かし、(結城自身が)何年か(刑務所に)入っていたのかと疑いたくなる」出来栄えらしい。
 「近代日本小説の主流の筆法と対立する、いわば西欧的な書き方を、こんなに自然な感じで身につけている探偵作家は、ほかにいなかった」
 希代の書評家にこれだけほめらると、天国の結城も作家冥利につきると照れていることだろう。

泥棒たちの昼休み (講談社文庫)
結城 昌治
講談社
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   書評集というのは、これまではどちらかというと敬遠していたが、浅学菲才の身に新しい知的刺激を与えてくれる。なかなか捨てがたい味わいを感じた。

 ところで、この表題の本。丸谷と池澤夏樹の共編になっているのだが、丸谷に並ぶ書評家として勝手に"尊敬"して池澤の文章が「書評者が選ぶ・・・」などの短文にしか見当たらないのが、なぜなのか。いささかもの足りない。

 

2012年7月 7日

読書日記「雪と珊瑚と」(梨木果歩著、角川書店刊)

雪と珊瑚と
雪と珊瑚と
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梨木 香歩
角川書店(角川グループパブリッシング)
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著者の追っかけ"をしているつもりはないのだが、この人の新しい作品が出ると読みたくなる。

 このブログで著書にふれるのは、 「西の魔女が死んだ」 「僕は、僕たちはどう生きるか」と訳書の 「ある小さなスズメの記録」に続いて4冊目になる。そのほかにも読んだ本が数冊。自分でも、いささか驚いた。

 この本の購読希望も多く、図書館に申し込んで借りられるまで3カ月待たされた。

 それぞれの筋立ては異なるが、キーとなる縦糸は変わらないような気がする。自然への憧憬や愛着、食べ物の大切さ、そして人を思いやる心・・・。

 主人公の珊瑚は、追い詰められていた。今年で21歳になったが、1年前に結婚した同い年の男は定職もなく、珊瑚が働いていたパン屋の収入を当てにしていた。男から言われて、すぐに離婚した。赤ん坊の雪は7か月。ようやくお座りができるようになったばかりだった。

 働かなければならないのに、公立の保育園も個人経営の託児所も受け入れてくれなかった。ただでさえ、少なかった貯金はみるみる底を突いてきた。

 小学校の時、母親が何も食べ物を置かずに家を出て行き、スクールカウンセラーのところでもらったトーストとミルクで生き延びたことがあった。それ以降も、自分の力でやってきた。しかし今は雪がいた。

 
貰いものの重いバギーに雪を乗せ、向かい風の吹く中を散歩しているうち、気がつけば下を向いて泣いていた。
 自分は泣いているのだ、と気づくのに、一瞬間があった。「泣く」という行為が、かつて自分のとろうとする行動の選択肢にあったためしはなく、とった行動にあったためしもなかった。


 歩いてきた通行人を避けるために、慌てて曲がった道沿いの古びた家に小さな貼り紙があった。

 「赤ちゃん、お預かりします」

 主人の薮内くららは、外国生活が長い元・カトリックの修道女。有名な聖人である アッシジの聖フランシスコを敬愛していた。くららという名前は、聖フランシスコの教えを体現化した クララ(アッシジのキアラ)からつけていた。

くららは、総菜を作る天才だった。

 珊瑚が翌日訪ねた時に出てきたのが「おかずケーキ」。具は、おかずの残り物。シチューやマッシュルームとピーマンを炒めた物、茹でたアスパラガスの残りが入っていた。

 そのやわらかいところをチキンスープに浸して、雪の口にそっと差し込んだ。二回目にスプーンを持っていくと腕を上下させ「ぶわぁ」と言った。「もっとくれ」という意思表示だった。

 クローヴを入れたスネ肉の煮込み、フェンネルのパウダー入りコールスロー。アトピーの子供に食べさせる長芋と、うるち米の粉、蜂蜜でつくったパン。
 有機栽培のキャベツの外葉(売り物にならず、捨てるところ)を炊いてどろどろにし、ベシャメル・ソースを混ぜたスープ、魚のタラとジャガイモ、サワークリームを使ったコロッケ。
 油揚げと小松菜、水菜を油なしに炒めたもの、大根の茹で汁に塩を入れただけの吸い物。小玉タマネギをコンソメスープで半透明になるまで煮たカップ入りのスープ。タコサラダに、ニンジン、クレソンンとプルーンのサラダ。ホウレンソウは大鍋で茹でて、ソテーに生クリーム煮、ポタージュ、キッシュ・・・。

くららに教えてもらいながら「これらの総菜を提供する店を作りたい」。珊瑚は、こんな夢を膨らませていった。
 周りの人たちの思いもよらない協力で、それが現実となっていく。資金は政府系機関の起業家資金400万円を借り、食品衛生責任者の講習も受けた。

店は、保護樹林付きの古い空家を借りることができた。
 庭には、時々タヌキが出た。「西の魔女」の庭や「僕は、僕たちは・・・」の「ユージン君」が住む家の庭によく似ている。

店の名前はズバリ「雪と珊瑚」。門から店までの道は雨になるとぬかるんだ。わざわざ厚底の靴を履いて来る常連に「舗装はしないでください」と頼まれた。

  常連の1人になっていたエッセイストが雑誌に掲載した文章が、評判になった。

「......そのいわば鎮守の杜になんとカフェが出来たのです。最初感じたのは、小さな憤慨と落胆でした。けれどそこでなにやら工事のようなものが始まったとき、あれ? と思いました。木が、一本も切られなかったのです......いつも閉ざされていた門扉は開け放たれ、細い小道を堂々と歩くことが出来るようになりました。小道は、普通の民家のようなカフェの入口まで続いており、天気の良い日は、鳥のさえずる声が陽の光と共に木々の枝を通して降り注ぐし、雨の降る日は、木々の菓を伝う滴の音が辺りに響いて、深い森の中にいるようです。この小道に足を踏み入れた時から、すでにカフェ 『雪と珊瑚』 は始まっているのです」


目の回るような忙しさが続いた。

 その成功を見て「あなたの無意識な計算高さ、ずる賢さ・・・が、鼻についてたまらない」とそしる手紙を送ってきた元同僚がいた。

 疲れとショックで珊瑚は寝込んでしまい、雪もひどい熱を出して夜泣きが続いた。

 それを、周りが支えた。別れた男の母親が突然現れた。養育費をと何度も申し出た。「なんだか炊きたてのご飯のように温かい人だ」と、珊瑚は思った。

 自分を捨てた母親に、開店資金を借りる保証人を頼んだら「あんたの保証ならできる」と断言した。「母性などないに等しい女性だったが、少なくとも子どもを信頼していた」

 
雪はサトイモの含め煮をスプーンにのせ、自分で口に運んだ。そしてもぐもぐと口を動かした後、呑み込むと、楽しそうに体を揺らし、歌うように繰り返した。 「おいちいねえ、ああ、ちゃーちぇ(幸せ)ねえ」


(追記?)
 この本の冒頭近くで詩人・ 石原吉郎(よしろう)の名前が突然出てきて、びっくりした。
 このブログに書いた辺見庸の 「瓦礫の中から言葉を」で紹介されていた詩人である。
 梨木果歩は、主人公の珊瑚に「私は好きでした。なんか、きゅーと気持ちが集中していく感じが」と語らせている。作者の心の琴線にどうふれ、作品に反映しているのか・・・?図書館で石原吉郎の詩集を借り直してみようと思う。

(追記?)
 この小説のちょうど真ん中あたりで、1997年に アッシジの聖フランチェスコ大聖堂を地震が襲った事件が出てくる。4人が死亡、上部大聖堂のフレスコ画が粉々になった。修道女だった薮内くららが現場で、被災者の支援活動をした、という想定だ。
 この時、多くのボランティアが30万個に及ぶフレスコ画の破片を拾い集め、修復のプロがジグソーパズルのような作業を続け、2006年4月にほとんどのフレスコ画を元に戻した。私が巡礼団に参加して、この再現されたフレスコ画を見たのは、その年の9月だった。

 くららは語る。
 
「どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しょうと立ち上がる力がある。その試みは、いつか、必ずなされる。でも、それを、現実的な足場から確実なものにしていくのは温かい飲み物や食べ物――スープでもお茶でも、たとえ一杯のさ湯でも。そういうことも、見えてきました」 


 この小説は、東北大震災の被災者への応援歌でもあった。

 

2012年6月27日

 読書日記「快楽としての読書 [日本篇]」(丸谷才一著、ちくま文庫)


快楽としての読書 日本篇 (ちくま文庫)
丸谷 才一
筑摩書房
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 著者が、週刊朝日や毎日新聞などに1960年代から2000年代初めにかけて書いた全書評のうち、約3分の1の122篇を選びだした本。

 この「読書ブログ」も、気ままに選んだ本の内容をほとんど引き写してきただけで、もう5年近くになる。たまにはプロの書評集を読んでみるのもいいかと、図書館に購入依頼したが、これがすこぶるおもしろかった。

 「気になっていた本」「読んでみたくなる本」「おもしろそうだが、とても手におえそうにない本」などなど・・・。一流の教養人が書くうんちくに酔いしれる"快楽"に、はからずものめり込んでしまった。

 私も以前にこのブログで書いたことがある 辻邦生 「背教者ユリアヌス」(中公文庫)。
 書評者は「作者が何に促されて書いたかといふことはやはり解説しておかなければならない」と、かねてからの疑問に「待ってました」とばかりに答えてくれる。

 
もちろんこれはあくまでも推測だが、第一にこの作家は日本文学には珍しく形而上学的な魂の陶酔に憑かれてゐて、それにふさはしい人物をこの主人公に見出だしたといふ事情がある。ユリアヌスが「背教者」であることもまた、日本人である自分と重ね合せるのに好都合だつたにちがひない。
 そしてもう一つ、戦争中に青春を生きた作者としては、当時の、もしできることなら何とかして軍事にたづさはることなく、学問と詩を楽しんでゐたいといふ切実な欲求が人生の最初の体験となつてゐて、それがこの大作を最も深いところで支へてゐるやうに思はれる。つまりここには歴史的世界への呪祖(じゆそ)があるのだ。


 好きな作家の1人である、 池波正太郎の 「散歩のときに何か食べたくなって」(新潮文庫)では「最も印象的なのは、(店の)主人の描写」とある。

 
(東京・室町のてんぷら屋「はやし」の主人の)本姓は斎藤だが、ただし岐阜の斎藤で、あの油売りから美濃の国主となつた斎藤道三の流れ。
 そこで主人は言ふ。
 「はい、やはり、油には縁が深いのでしょうな」
 小説家の藝だから、人物描写がうまいのは当り前だが、最高級の天ぶら屋の老主人の姿が、眼前に浮びあがるではないか。


散歩のとき何か食べたくなって (新潮文庫)
池波 正太郎
新潮社
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 これまでの江戸文学研究書について「(おおむね志が低く、?末な事象にこだわる)通人か、(江戸の美意識と真っ向から対立する十九世紀西欧の美意識にあやつられている)学者にゆだねられており、指南役としてふさわしくない」と、こてんぱんにやっつけている。 そして 「江戸文學掌記」(講談社文芸文庫)の著者、 石川淳に言及していく。

 
この小説家ならば、当代の文学を古代以来の日本文学の伝統のなかにとらへることも、中国との関連において眺めることも、そしてまた十九世紀の偏向にしばられずに西欧文学全般からの照明の下に見ることも可能なのだ。構へが大きく感覚がすぐれてゐることは、言ひ添へるまでもない。


江戸文学掌記 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
石川 淳
講談社
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高島俊男著「中国の大盗賊」(講談社現代新書)の最後には、あの毛沢東が登場してくる。

 
言はれてみれば、たしかに中華人民共和国は新種の盗賊王朝かもしれない。マルクシズムを宗教に見立てていいのはもはや常識だし、毛は一時、生き神様だつたし、それに長征といふのはたしかに流賊だつた。


中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)
高島 俊男
講談社
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中村隆英の「昭和史1(1926-45)」(東洋新報社)には、二・二六事件後に中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句が詠まれたことを指摘。そして中村自身が「明治以来の安定が、このとき完全に失われたことへの憤りと解釈している」ことを紹介している。

 書評者は「経済学者にして置くには惜しい(失礼!)小太刀の冴え」と、粋な一言を放っている。

昭和史〈1(1926‐45)〉
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中村 隆英
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中村元の「インド人の思惟方法」 「日本人の思惟方法」「チベット・韓国人の思惟方法」(すべて春秋社)では「浩瀚(こうかん)な著作をわずかな紙数で推薦するのだから、遠慮しないで読んでくれ、ぜったい損はしないからと請合ふしかない」と書く。
 そのついでに、読む順番は「シナ人の巻から取りかかって、日本人、インド人、チベット人および韓国人とゆくのがいいやうな気がする」と、誠に親切な読書指導まで。

 中村元の、こんな記述も紹介している。
 
たとえば、南アジアの国々の仏教僧は、酒は決して飲まないが、煙草は平気で吸う。釈尊のころ煙草がなかったから当たり前だが、「煙草を吸ふなかれ」といふ戒律がないのをいいことに、プカブカやるのださうである。
 ところが韓国の僧は煙草をいつさい口にしない。戒律に禁止されてゐなくても、その底にある精神を大事にするのが韓国仏教なのである。
 これは韓国仏教についての上手な説明だが、中村のこの本は、いつもかういふ調子で読者をおもしろがらせてくれる。










 これらだけではない。各篇ごとに原作のなかからすくいあげた文章が、玉のように輝いて見える。

 インドのタミル語が日本語成立の源流だが、最近は「朝鮮の学者によって、朝鮮語とタミル語との対応が言われ出した」( 大野晋著 「日本語の起源 新版」=岩波新書)

日本語の起源 新版 (岩波新書)
大野 晋
岩波書店
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岡本かの子の 「生々流転」(講談社文芸文庫)は、夫・ 岡本一平がかの子の死後に書き足した合作長編である。

生々流転 (講談社文芸文庫)
岡本 かの子
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 「関ヶ原合戦での東軍の勝利は、豊臣系諸将の家康への贈り物だった。これによって、(徳川幕府は)国持大名の領内政治に介入しないという、分権・多元的な政治形態を近世日本にもたらした」( 笠谷和比古著「関ヶ原合戦」=講談社学術文庫)

関ヶ原合戦  家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)
笠谷 和比古
講談社
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 「セーラー服が女学校の制服として定着したのは、海軍⇒女児⇒軍艦⇒女陰という隠語が意識下にある」( 鹿島茂著「セーラー服とエッフェル塔」=文春文庫)

セーラー服とエッフェル塔 (文春文庫)
鹿島 茂
文藝春秋
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 「再読 日本近代文学」(集英社)のなかで、中村真一郎小林秀雄が培った近代日本文学論の常識に反旗を翻していること紹介しながら、書評者自らも「多少の異論」を試みているのも、考えたらまったくぜいたくな1篇だ・・・。

再読 日本近代文学
再読 日本近代文学
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中村 真一郎
集英社
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この本の最初に、著者の小エッセイが載っている。

いまわたしたちが読むやうな形の本、つまり
 1  本文が白い洋紙で、
 2  その両面に、
 3  主として活字で組んだ組版を黒いインクで印刷し、
 4  各ページにノンブルを打ち、
 5  それを重ねて綴ぢ、
 6  表紙をつけてある
 ものは、ずいぶん便利だなと感心する。


 
この形勢は当分つづきさうである。将来、年老いた村上春樹の新作長篇小説も、中年の俵万智の新作歌集も、まづ本として売出されるだらう。レーザー・ディスクやテープ、あるいはもつと新しい何かで出るとしても本が主体だらう。
 二十一世紀になつても、小学校用算数教科書、経済白書、六法全書、『広辞苑』第十何版、最後の社会主義国某国の全史の翻訳、卑弥呼のもらつた金印の発見をめぐる学術報告、貴乃花の回想録、マリリン・モンローとケネディの往復書簡集の翻訳などが、本といふ容器をぬきにして出ることは考へにくいのである。
 わたしたちは本の制覇の時代に生きてゐる。


 1993年に朝日新聞から刊行された「春も秋も本! 週間図書館40年」(1993年刊)という「週間朝日」の読書欄誕生40周年記念した本に所収されているのだが、現在の電子書籍をまったく意識していない牧歌的にも思える書籍礼讃がおもしろい。

春も秋も本! (週刊図書館40年)

朝日新聞
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 ところが、この文庫本の表題裏に、出版社の注意書きが小さい活字で掲載されており、業者による "自炊" 行為などに警告している。


  本書をコピー、スキャニング等の方法により
 無許諾で複製することは、法令に規定された
 場合を除いて禁止されています。
 請負業者等
 の第三者によるデジタル化は一切認められて
 いませんので、ご注意ください。


 書籍、それも文庫本に、このような"警告文"が載るのは、これまであったのだろうか。書評のなかで出版各社の書籍を引用しているという事情もあるのだろうが、それだけ出版社側のデジタル化への警戒感が現れていて、丸谷のエッセイとの対比がおもしろい。

 このブログでも、著書のいくつかを引用させてもらっており、この警告に"抵触"しているのだろう。
 「この著書のすばらしさを記録したいだけの個人プレー。大目に見てください『株式会社 筑摩書房様』」とわびるしかない。

  

2012年6月12日

読書日記「サラの鍵」(タチアナ・ド・ロネ著、高見浩訳、新潮社クレスト・ブックス)



サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)
タチアナ・ド ロネ
新潮社
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  この本が原作の映画は数カ月前に見た。友人から借りて、長い間サイドテーブルに積んだままだった 原作を読んだのは、このゴールデンウィークにポーランドのアウシュヴィッツを訪ねた後だった。

 映画は、第23回東京国際映画祭で監督賞、観客賞をW受賞するなど評価が高かったようだ。ただ、 「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた クリスティン・スコット・トーマスが演じる米国人の女性ジャーナリスト・ジュリアの役割をもう一つ理解できないで終わっってしまった。ユダヤ人少女サラが生きた第二次世界大戦の時代と、ジュリアが生活している現代という2つの時空が交錯するストーリーにいささか戸惑ったせいかもしれない。

 しかし、この本を読んでみると、ジュリアの悩みや生きざま、視点が目や心に焼きついてくる。これは、先日のアウシュヴィッツ体験の結果だったようにも思える。ジュリアが繰り返した「ただ、伝えたい。決してあなたをわすれはしないと」という言葉を、あの場所でも聞いたような気がしてきて・・・。

 この小説はフィクションだが、フランス・パリで起きた1つの史実が軸になっている。

 フランスがナチス・ドイツの占領されていた親ナチスの ヴィシ政権(1940?1944)下で起きた「ヴェルディヴ事件」は、半年ほど前に見た映画「黄色い星の子供たち」の主題でもある。

 映画「サラの鍵」のパンフレットに、 渡辺和行・奈良女子大学教授の小エッセイが載っていた。

フランスは1942年、パリを中心にユダヤ人の一斉検挙に踏み切った。検挙の主役はフランス警察や憲兵で、パリを占領していたドイツ軍の姿はなかった。約13000人が逮捕され、うち家族連れ8000人がパリ郊外の自転車競技場「ヴェルディヴ」に収容された。食糧、水不足で病人も出るなか、数日後にはアウシュヴィッツに移送、子供たちはそのままガス室に送り込まれた。フランスからユダヤ人を乗せた移送列車は計74回、7万6000人を運んだ。


 シラク大統領が「時効のない負債」とフランス政府の責任を認めたのは1995年7月16日。53年前の一斉検挙と同じ日だった。「ヴェルディヴ」跡地に建てられた記念碑には「道行く人よ、忘れるな!」と刻まれている。


 1942年のその日、10歳のユダヤ人少女・サラは、住んでいたアパート来た警官に両親とともに連行されるが、すぐに戻れると信じて怖がる弟を秘密の納戸に隠して鍵をかける。「なんとか、弟を助けなければ」という一念から収容所を脱出したサラは、住んでいたアパートにたどり着くが・・・。

 パリ在住のアメリカ人を対象にした雑誌に勤務していたジュリアは、編集長から「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられ「正真正銘のフランス国民だったユダヤ人を、フランス政府自身が迫害していた」事実に衝撃を受ける。

 取材を始めたジュリアは、収容所に送られたはずのサラと弟が行方不明者として名簿にないことをつきとめる。サラ探しを始めたジュリアは、驚くべき事実に直面する。

 ジュリアが愛する夫と引っ越そうとしていたサントンジュ通りアパート。夫の祖母から譲り受けたものだった。
 「そこに、かってサラが住んでいた」・・・。

「あの女の子」(義父の)エドウアールはくり返した。奇妙な響きを帯びた、くぐもった声で。「あの女の子はな、もどってきたんだ。サントンジュ通りに。わたしはそのとき、まだ十二歳の少年だった。でも、忘れられない。この先も忘れられないだろう、サラ・スタジンスキーのことは」


サラと少年(義父)は、納戸の奥で「膝を抱いてまるくなって・・・すっかり黒ずんで、眼鼻立ちもくずれた」小さな人間の塊を見た。サラは「ミッシェル」と絶叫した。


   ジュリアは、収容所から脱出したサラをかくまった老夫婦の孫・ガスパール・デュフォールに会うことができた。

 サラの行方を知りたいと懇願するジュリアに、デュフォールは鋭い眼を向けて何度も尋ねた。「それを知ることが、なぜあんたにとってそれほど重要なのだ。・・・アメリカ人のあんたに」

 
わたしは答えた、サラに伝えたいんです。わたしはいまも彼女のことを思っている。わたしたちは忘れていない、と。・・・


   
「わたし、自分が何も知らなかったことを謝りたいんです。ええ、四十五歳になりながら、何も知らなかったことを」


   サラは1952年の末にアメリカに渡っていた。そして、結婚して子供までもうけながら、自動車で立ち木に激突して死去していた。自殺だった・・・。

 ジュリアは、45歳で恵まれた子供を産むことに反対された夫と別れ、ニューヨークに住むことになった。

 生まれた子供を「サラ」と名付けた。

 
他の名前など、考えられなかった。この子はサラ。私のサラ。もう一人の、別のサラの谺(こだま)。あの黄色い星をつけた、私の人生を根底から変えた少女の谺。


2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
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池澤 夏樹
文藝春秋
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19?25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります


2012年4月24日

読書日記「虚空の冠(こくうのかん)上・下」(楡周平著、新潮社刊)

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 著者の作品を読むのは初めてだが、新聞書評欄で電子書籍を巡る攻防がテーマだと知って、図書館に購読予約してみた。なかなかの人気で時間がかかったが、うまく、上・下巻2冊を同時に借りることができた。

 新聞、ラジオ、テレビの隆盛を経て電子メディアに向かう変遷を縦軸に、それぞれの段階で熱く語られるビジネスプランが重要な横軸になっている。著者が大学院を出た外資系企業のビジネスマン出身だからだろうか。

 昔、新聞社にいたころ、新聞、テレビの繁栄を支えてきたビジネスプランが崩壊の危機にあることを目の当たりにしてきた。メディアの変遷はそれなりに読み飛ばしたものの、電子書籍を巡る過酷な競争の記述が「紙」から「電子」への近未来を予測しているようで、いささか複雑な気分に陥った。

 日本第3位の通信事業会社グローバル・テレコムの芦野英太郎社長と新原亮輔常務は、同じ大学の研究室の先輩、後輩であるだけでなく、ベンチャー企業として創業して以来の同志でもある。

 芦野に呼ばれた亮輔は、アメリカのネット書籍販売最大手のアトランティス(私もよく使うアマゾンがモデルらしい)が発売したばかりの携帯型書籍端末を見せられる。

 通信機能を内臓、携帯通信回線網を使ってアトランティスのプラットフォーム にアクセス、パソコンなどを通さなくても読みたい本がいつでも読めるほか、購読予約しておけば新聞、週刊、月刊誌も自動的に受信できる。

 私も、この正月から遅ればせながら スマートフォンを使い始めた。
 そのタブレット型に近いようだが、液晶ではなく「反射光で活字を見るEペーパー」が使われ、紙そのもののように読める。しかも、すぐに電池切れを起こすスマホに比べ、一度フル充電しておけば100時間は持つすぐれもの・・・。ただ、端末の価格が450ドルもするため、あまり普及はしていない。

 芦野は「このビジネスを一からウチで立ち上げよう」と、亮輔に担当を命じる。しかも、端末は無料で配って自社の携帯電話収入を一挙に引き上て業界トップをうかがう一方、自社で立ち上げる電子出版プラットフォームで「日本の活字メディア制覇」を狙う計画だ。

 
芦野の目が爛爛と輝き出す。


 
「俺はな、今のネットは、そう遠からずして最初の総括の時を迎えるんじゃねえかと思ってるんだ。確かにネットは便利な代物さ。キーワードを入れれば、該当する項目がずらりと表示される。しかも、それらのほとんどが無料だ。まさに、膨大な数の利用者が作り上げた巨大なデータベースそのものだ。だが、良く言われているように、玉石混交、真贋入り乱れるという致命的欠陥がある。それでも利用者が減らないのは、情報を欲している人間がいるということだ。第一、ネットだって情報の多くは活字で伝えられるんだぜ。この事実一つとっても、活字を読むという行為そのものは放棄しちゃいないってことだろ。変ったのは、活字を読ませる媒体でありツールだ」


  このビジネスプランのポイントは、新聞や出版、テレビ会社などコンテンツの出し手とどう手を結ぶかにかかっている。

 亮輔は義父のつてを頼って、新聞、出版、テレビ、ラジオと日本最大級のメディアグループを率いる極東日報会長の渋沢大将に会い、自社のプロジェクトを説明、共同で事業を立ち上げようと持ちかける。電子メディアに押されて極東グループは、新聞販売部数、広告の減少で、深刻な経営危機に陥りつつあった。

 
「この話しに乗った場合、我々に想定されるリスクは?」
渋沢は、直裁に訊ねた。
「強いて言うならコストでしょうか。新聞ならば、電子端末用に記事をレイアウトし直す作業が必要となります。加えて、紙媒体用のデータをそのまま転用しょうとすると、フォーマットの違いから、文字化けが起きます。その修正作業が必要になりますが、単行本はともかく、新聞、週刊誌は校閲の手間が一回増える程度のことです。あとは完成データを我々のサイトにアップロードしていただくだけです」


 
亮輔の最後の言葉を聞いた瞬間、渋沢ははっとした。この話に素直に乗れぬと思っていた何か。その正体がはっきりと分かったからだ。
我々のサイトに乗せる。それは情報の発信元を一手に握られ、強大な権力を与えてしまうことを意味するからだ。


 クリスマスに、グローバル・テレコムの新事業は、極東日報に替わって毎朝新聞が参加して花々しくスタートした。

 その動きを冷静に見ながら、渋沢は秘かに大手出版六社、第1位の携帯電話会社ワールドフォン、大手家電メーカー、パシフック電器と新たなプラットフォームを立ち上げる準備を進めていた。経済界に強い影響力を持つ渋沢だからこそできたグループ化だった。

 6月に投入された電子書籍端末「ノア」は、コンテンツの多様さと価格の安さの相乗効果で一気にシェアーを伸ばし、先駆者グローバル・テレコムが「切り開いた沃野を奪い去った」。

 「紙か電子か」の選択を迫られるなかで、渋沢は冷徹に自らを育ててくれた「紙」を捨てた。新聞販売店が経営危機に陥ったが、渋沢は民間人に与えられる最高位の勲章 「旭日大綬章」を受けることになった。「新メディアの確立に貢献した功績」を評価されて・・・。

 亮輔の義父新原孝造は、終戦直後、新聞社の大切な情報伝達手段だった伝書鳩の飼育担当だった。その仕事が時代の流れでなくなり、先輩である渋沢の世話で新聞販売店を経営していた。その店がつぶれるのも目に見えている。その旗振り役が渋沢と知って驚く。

 孝造は、箪笥のなかから古い書類を取りだし、伝書鳩の通信管に入れ、極東日報のライバル社毎朝新聞に向けて飛ばした。

 その書類には、渋沢が綬勲した「旭日大綬章」を地に落とし「虚空の冠」にしてしまうであろう通信文が書かれていた。

 

2012年3月30日

読書日記「蜩ノ記 ひぐらしのき」(葉室 麟著、祥伝社刊)


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 この本を知ったのは昨年末。和歌山の山小屋に夫婦で暮らす友人のブログ 「森に暮らすひまじん日記」でだった。

 その時にも気にはなっていたのだが、この1月初めに直木賞の候補になったのを知って図書館に貸出予約を入れた。16人待ちだったのが、先日やっと順番が回ってきて、一気に読んだ。無事、今年の直木賞に決まったから、私の後にはまだ70人近い購読希望者が待っている。

「森に暮らすひまじん日記」に書かれた、あらすじを借りることにしよう。

 九州は豊後の小藩で奥祐筆を勤める壇野庄三郎は、城内で刃傷沙汰を起こした。切腹は免れたが、山村に幽閉され、藩史の編纂を続ける元郡奉行戸田秋谷の監視と編纂の手伝いを命じられた。

 戸田は、前藩主の側室と密通した罪で幽閉され、10年後には切腹するよう言い渡されていた。それまでは藩史編纂が課せられ、命を区切られた人生を生きて行く。庄三郎が戸田の幽閉先に赴いたのは、切腹まで残り3年に迫っていた。

 庄三郎は、戸田の凛とした生き方に心を動かされ、不義密通にも疑問を持つようになった。妻と子供二人は戸田の生き方を信じ、切腹までの残された日々を見つめながら健気に生きて行く。

 「蜩ノ記」とは、山村に幽閉されて家譜編纂に携わってきた戸田秋谷が書いてきた日記の名前だ。
 
「夏がくるとこのあたりはよく蜩が鳴きます。とくに秋の気配が近づくと、夏が終わるのを哀しむかのような鳴き声に聞こえます。それがしも、来る日一日を懸命に生きる身の上でござれば、日暮らしの意味合いを寵(こ)めて名づけました」   


 庄三郎は、訪ねてきた親友・信吾に戸田を助けられないかと、無理を承知であることを頼む。信吾は、城内で刃傷沙汰を起こした当の相手だ。

 
「・・・ここに来て(三浦家譜)編纂を手伝ううちに、わたしは武士とは何なのかを考えるようになった」
 ・・・「御家(おいえ)には昔から対立や争いがあったようだ。時にそれは、村の百姓も巻き込んでいる。村に住んでみて、武士というものがいかに居丈高なものか、徐々にわかってきた」
 ・・・「しかし、戸田様はさような武士の在り方とは違って、百姓たちとともに生きようとなされておる。わたしはそのような戸田様の武士としての生き方に感じ入った。それゆえ、戸田様をお守り いたしたいと思っておるのだ」


 著者は、直木賞を受賞した際の1月18日付読売新聞「顔」欄で「編集者から武士の矜持(きょうじ)をと言われ、スッピンのストレートの思いを書いた」と、正直に答えている。そんな注文を小説に仕立てられるのは、さすがプロの作家である。

 物語は、百姓の息子で戸田の嫡男、郁太郎の親友である源吉が、お家の奉行の拷問を受けで死んだことでクライマックスを迎える。

 源吉のかたきを討つため、私欲で策を弄していた家老の屋敷に押しかける決心をする。庄太郎は「道案内をする」と、同行を申し出る。

 そっと出ていった2人を心配する妻と娘に、戸田は静かに答える。

 
「武士(もののふ)の心があれば、いまの郁太郎は止められぬ。檀野(庄太郎」殿は郁太郎を見守るつもりで追ってくれたのであろう」
 「檀野殿は武士だ。おのれがなそうと意を固めたならば、必ずなさずにはおられまい。檀野殿の 心を黙って受けるほかないのだ」


 郁太郎と庄太郎は、家老家に押し入り、見事な技で家老の助っ人を退け、家老が武士にあるまじき"命乞い"の言葉を出すまでに追い詰める。

 家老がどうしてもほしかった文書を手に家老宅に来た戸田は、家老の胸倉をつかみ、顔を殴りつけると、静かに話した。

 
「源吉が受けた痛みは、かようなものではなかったのでござる。領民の痛みをわが痛みとせねば家老は務まりますまい」


 郁太郎と庄太郎とともに、山村に帰った戸田は、約束されていた8月8日の朝。検分役の見守る前で、見事に切腹をしてはてた。

 読売「顔」欄で、著者はこうも答えている。

 「東日本大震災を経た今、日本人のありようが問われている。・・・日本人古来の生き方を描く時代小説だからこそ、できることがきっとある」

2012年3月17日

読書日記「僕は、僕たちはどう生きるか」(梨木果歩著、理論社)


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 図書館に予約してから借りれるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。

著者の作品を、このブログに書くのは 「西の魔女が死んだ」以来。このブログの管理者 n-shuheiさんが紹介していた 「渡りの足跡」といった著書もあるナチュラリストだけに、久しぶりに"梨木ワールド"に遊ぶことができそうだと、ページを繰った。

 ところがなんとなんと、この本は、自然の素晴らしさなどを描く少年少女小説の形をとりながら、随所に社会批判の厳しい塊が埋め込まれているハードな読み物だった。

 あだ名が「コペル君」という14歳の少年が「僕の人生に重大な影響を与えたと確信している」長い1日の出来事を自ら綴っていく。コペルというのは 「コペルニクス」の略。コペル君は事情があって、現在1人住まいだ。

   1冊の種本がある。
 巻末の参考文献になかに、 吉野源三郎が、昭和12年に書いた「君たちは、どう生きるか」という小説が載っている。その主人公である中学2年の少年のあだ名が、やはり「コペル君」。
君たちはどう生きるか (岩波文庫)
吉野 源三郎
岩波書店
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 吉野源三郎の本は、満州事変が始まり、軍国主義が勢力を強める時期に書かれた。「せめて少年少女だけは、時勢の悪い影響から守りたい」と思い立って書かれたという。今でも読み継がれている名作だ。

 2つの小説の筋書きはまったく違うが、梨木果歩は、あえて主人公を同じ「コペル君」と名付けた。いじめや性的虐待、原発にふるさとを追われるなど、少年少女が生きにくくなっている今の時代を「どう生きていくのか」について問いかけるため、らしい。

 コペル君は叔父さん(母親の弟)の「ノボちゃん」と、同級生の友人「ユージン」がやはり1人で住む家を訪ねる。その家の庭は、町のなかにあるのになぜか深い森に囲まれている。

 
 「シイ、カシ、ヤブツバキ。エノキにケヤキか。いい森だなあ。この匂いは、クスノキも あるな」
 今ノボちゃんがあげた樹種は、みんな立派な大木だ。他にもハノキやら細い木もいろいろあるけれど、詳しくはよく分からない。照葉樹のちょっとほの暗い感じと、爽やかな明るい落葉樹の感じがとても良く交じり合って、陽の光があちこち木漏れ日になって差し、町中にあるのに深山幽谷の雰囲気を出している。その木漏れ日の一つが、濃い黄色の花にあたっている。一重の ヤマブキそっくりだけど‥...・。僕の視線の先に気づいたノボちゃんが、 「ヤマブキソウ」だと呟いた。
 それから二人同時に、あ、と声を上げた。派手な黄色のヤマブキソウにばかり目を引かれていたけれど、その向こうの、青々とした若葉が美しいカエデの木の根元に、何十だか分からないぐらいの数の クマガイソウの群落を見つけたのだ。
 「奇跡だな、これは」
 ノボちゃんが呟いた。思わずため息が出る。


 歩いていくと、  エビネが何本も株立ちし、 キンラン ギンラン ニリンソウの茂みがある・・・。いずれも、ユージンのおばあさんが、開発が進む付近の土地から移植したものだ。

 100年前なら、こんな風景があたり一帯に広がっていたのに「緑を見ると、コンクリートで固めてしまおう、と手ぐすね引いている人たち」がいる。「ユージンは、これからそういう人たちを相手に戦わなければならない」。そのことを、コペルは虚を衝かれたように感じる。

 木立の向こうの池には、 オオアメンボがおり、、コウホネヒシといった水草が生え、 カラスヘビが泳いでいる。

 ノボちゃんは草木染めに使うヨモギを刈り、ユージンのいとこの「ショウコ」もやって来て、 ウコギの葉を刻みこんだご飯を炊き、ゆでたスベリヒユをベーコンで炒めて昼食にする。

 食べながら、ユージンとコペルがノボちゃんに連れられて「駒追山」という山中に入り込み、人が住んでいた形跡が残る洞穴を見つけたことが話題になる。

 そこには戦時中、召集令状を拒否した男が「群れから離れて」住んでいた。戦争が終わって皆に気づかれずに出ていった男は、数十年に帰ってきた。その男は、そんなところに 籠ってずっと考えいたことについて、こう答えた。「僕は、そして僕たちは、どう生きるかについて」

 ノボちゃんは、さらに続ける。
 「彼が洞窟の中で考えていたことだけど こんなことも言ってた。群れのために、滅私奉公というか、自分の命まで簡単に、道具のように投げ出すことは、アリやハチでもやる。つまり、生物は、昆虫レベルでこそ、そういうこと、すごく得意なんだ。動物は、人間は、もっと進化した、『群れのため』にできる行動があるはずじゃないかって......」

 巻末の参考文献には、トルストイ関連の著書が多い北御門二郎の 「ある徴兵拒否者の歩み」が、挙げられている。
ある徴兵拒否者の歩み
北御門二郎
みすず書房
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 ノボちゃんはまた、コペルがまだ小さかったころ、一部の国会議員などが「最近の若者は軟弱だ」と言いだすなど、徴兵制度復活へのきなくさい空気があったことを話す。

 「こういう動きは、あれよあれよとどうなっていくか分からないのが世の常だ。だから、コボルのお母さんは、ギリギリの妥協として良心的兵役拒否の条項を入れてもらうために戦う覚悟をしていた」

 コペル君は、父親に教えられた土壌のなかの生き物を探すのが趣味だ。ユージンと2人で庭の土壌を掘ってみると、出て来る、出て来る。ダンゴムシの?種、 オカダンゴムシセグロコシビロダンゴムシ・・・。豊かな自然が残っている証拠だ。

 土壌の虫を探しながら、ユージンは長年登校拒否をしていた理由を初めてコペル君に話す。

 可愛がっていたニワトリを飼えなくなり、校長に頼んで学校で育ててもらうことにした。
 ユージンを嫌いだったらしい担任の男の先生はクラスの皆に提案する。「今、そこのある命が自分の血や肉になるという体験をしてもらいたい」
 クラスメイトはしぶしぶ賛成し、ニワトリはその日、唐揚げや炊き込みご飯に調理された。ユージンが手をつけられないのを、教師は見ていた。
   翌日、給食が終わった後、教師は言った。「さっき君が飲んだスープは、昨日のあのニワトリのガラから採ったものだよ」。ユージンは、激しく吐いた。

 小さな人間に、取り返しのつかない残酷な行為をする大人は、ほかにもいた。

 この庭に「インジャ」と呼ばれる少女が、隠れ住んでいたことが分かる。
そのいきさつは、本文中で特にゴシック文字で書かれている。

 インジャは、図書館で少年少女向け雑誌にAVビデオの監督が書いたエッセイを読んで「アルバイトでもできるかも」と、書かれていたメールアドレスに連絡した。出版社と著者が組んだ「巧妙な素人モデル募集広告」だった。密室に閉じ込められて"レイプ"されるのを撮られた。
 部屋のなかにいるだけで呼吸困難になったインジャは、友人のショウコに勧められ、家主のユージンらにも知られず、この庭に住みついた。

 参考文献の「御直披(おんちょくひ)」(板谷利加子著、角川文庫)には「レイプ被害者が戦った、勇気の記録」と、注釈がある。
御直披―レイプ被害者が闘った、勇気の記録 (角川文庫)
板谷 利加子
角川書店
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 ショウコの母の友人であるオーストラリアの青年、マークがやってきて、庭で焚火をすることになった。

 
 ショウコは(土壌を痛めないために)アルミホイルをざっと長く引き出し、一メートルほどの長さを、地面の上に敷いた。それを数回繰り返して、一メートル四方の風呂敷を敷いた形をつくった。
 ・・・その真ん中に、真っ直ぐな枝を一本突き刺し、それを囲むようにして、枯れ葉の残っているようなワシャワシャした細い小枝を立てかけていった。
 ・・・ 風向きを調べ、風上に向かって小枝の塊に隙間をつくった。
 ・・・新聞紙を破ってくしやくしやにし、さらにそれをひねって棒状にしたものをつくった。風上に自分の体を持っていって、それの先にマッチで火を つけ、さっきつくった小枝の隙間に差し入れた。
 火はパチパチと機嫌良く、クリスマスツリーのイルミネーションみたいに火花を散らした。


 長年、スカウト活動をしてきたショウコの見事な技だった。

 そっと、インジャを焚火に誘ってみた。

 
 インジャはおずおずと、でも、確かに、こちらに近づいてきた。森の中から、やっと抜け出してきた人みたいに。


 
あの日の、あの瞬間のことを、僕は一生忘れないだろう。
人間には、やっぱり、群れが必要なんだって、僕は今、しみじみ思う。インジャの身の上 に起こったことを知った今になっても。


                               
そう、人が生きるために、群れは必要だ。強制や糾弾のない、許し合える、ゆるやかで温かい絆の群れが。人が一人になることも了解してくれる、離れていくことも認めてくれる、けど、いつでも迎えてくれる、そんな 「いい加減」の群れ。


  
けれど、そういう「群れの体温」みたいなものを必要としている人に、いざ出会ったら、ときを逸せず、すぐさま迷わず、この言葉を言う力を、自分につけるために、僕は、考え続けて、生きていく。


 やあ。
 よかったら、ここにおいでよ。
 気に入ったら、
 ここが君の席だよ。


   「さて、残された人生をどう生きるか」
 過去の「群れ」の束縛から解放された70歳の独居老人も、コボル君に大きく遅れをとられながらも、そのことを考える。
 「暖かい群れ」とは、1人だけでは生きることができない人間同士が、言葉を交わしあう、ということだろう。心をふれあい、共感していく。そんなやわらかな気持ちをずっと持ち続けたい。「死ぬ時は、一人」。その時まで。

 

2012年3月 8日

読書日記「瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ」(辺見庸著、NHK出版新書)



 著者は宮城県石巻出身だが「脳出血の後遺症で右半身がどうして動かない」ため、被災地に駆けつけた友人、知人を助けにいくことができない。
 代わりに、友人たちからの電話などで情報が集まってくる。

 
三陸の浜辺に夜半、打ち上げられた屍体があった。それは首のない屍体であったり、手足や眼球をなくした屍体であったり、逆に首だけの、胴だけの、片眼だけの部位だったりする。それが真っ暗闇の浜辺に何体も何体も打ち上げられている。
   今度の津波はゆっくりと水位が上がってくるようなものではなかったのです。・・・もっと金属的なひどく重いものが、一気に突進してきたような。・・・人間のからだはどうなるのか。それはもうねじ切れてしまう。爆撃を受けたみたいに破断する。わたしの友人は、そういう大げさなひどい言葉をつかわない人間だけれども吐くように言っていました。「地獄だ」と。


 しかし、当時の新聞やテレビで流されていたのは「おびただしい屍体をかき消した薄っぺらな風景」でしかなかった。
死者、行方不明者数や放射線量など乾いたデータばかりで「死はそれぞれの重み、厚み、深み、リアリティを奪われ、風景はいわば漂白され除染され除菌され消臭されていました」

 東京のある放送局につとめる若い友人は、3・11後の局内の雰囲気を「まるで戒厳令下です」と話した。

 
経験したこともない大きな出来事に遭遇すると、ニュースメディア内部では異論の提起、自由な発想がとどこおり、沈黙と萎縮、思考の硬直とパターン化におちいったりするものです。だれが命じたわけでもないのに、表現の全分野で自己規制がはじまります。


   「法律も戒厳司令部も発令主体も責任の所在」もなく「だれからともなく、菌糸のように発酵し」ひろがっていく「心の戒厳令」が、世の中を覆ってしまったのだ。

 3・11という深い現実に迫ろうとする本当の「言葉」は、どこにも見あたらなかった。

 政府が「福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の百六十八個分」という試算を発表した時もそうだった。
 「語り手や記事の書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために、なにごとも表現していない状況が続いた。

 著者にとって、広島に落とされた原発は単なる「数値」などではありえない。被爆体験はないが、中学3年生の時に読んだ 原民喜の小説 「夏の花」から得た迫体験が、心の奥深く刻み込まれたからだ。

この小説のなかに、次のようなカタカナの1節が挿入されている。

ギラギラノ破片ヤ
 灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトツテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ


「スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ」
 「パット剥ギトツテシマッタ アトノセカイ」
この2行について著者は「そのまま大震災、原発メルトダウンにあてはめてもなんら違和感はありません」と書く。

 さらに著者は、"数値報道"で隠されてしまった「ひとりひとりの死」について考える。    シベリア抑留体験をした詩人、石原吉郎の言葉を引用している。

 
私は、広島告発の背後に、「一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに」という発想があることに、つよい反撥と危倶をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実へ近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて脱け出したことにおいてでは なかったのか。
 「一人や二人」のその一人こそが広島の原点である。年のひとめぐりを待ちかねて、燈寵を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとではないのか。広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とははつきり無縁である。
              (「アイヒマンの告発」『続・石原吉郎詩集』思潮社より)


 著者は「『一人の魂の行くえを見とどけようと願う』だけでよいのか」と自問しつつ、 堀田善衛の著書のなかにある「人間存在というものの根源的な無責任さ」という言葉に救いを求めようとする。「人間存在の無責任さ」を「私自身の無責任さ」と、置き換えることによって・・・。

  
......大火焔のなかに女の顔を思い浮べてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感したことであった。それが火に焼かれて黒焦げとなり、半ば炭化して死ぬとしても、死ぬのは、その他者であって自分ではないという事実は、如 何にしても動かないのである。
                            (『方丈記私記』ちくま文庫より)


 辺見庸の作品は、年々難しくなっているように思う。3・11前後に書かれた何冊かを手にしたが、浅学菲才の頭脳が消化できず、途中下車してしまった。

 「あとがき」のなかで著者は「この本のテーマ(キーワード)は『言葉と言葉の間に屍がある』と『人間存在というものの根源的な無責任さ』」と書いている。

 「言葉と言葉の間に屍がある」も本文にある。やはり消化できないままでいる。

 

2012年2月26日

読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書)


イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
山浦 玄嗣
文藝春秋
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この本が誕生したいきさつは、序文「はじめ」のなかで説明されている。

 3・11の東北大津波で、医師である著者の診療所がある大船渡市も市街地の半分が流された。 カトリック信者である山浦医師は、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を、東北・ 気仙地方で普段に使われるケセン語訳で出すことに挑戦した。だが、出版した大船渡市の イー・ピックス出版も社屋を失った。

ところが、奇跡が起こった。

津波でつぶれた出版社の倉庫の泥にまみれた箱の中からほとんど無傷の三千冊のケセン語訳聖書の在庫が見つかったのだ。津波の洗礼を受けた聖書として有名になったケセン語訳聖書は、日本中の人びとの感動を呼び、数カ月で飛ぶように売れてしまった。

そんな時、文嚢春秋の女性編集者が「瓦礫と悪臭におおわれた惨憤たる道を踏み越えて」訪ねてきた。

ケセン語訳聖書がこんなに多くの人びとに喜ばれ、受け入れられているのは、難解だった従来の聖書の翻訳をほんとうにわかりやすくしたからです。この心を全国の人びとに伝えたい。人の幸せとは何かと問う福音書の心こそ、災害に打ちひしがれている日本人によろこびの灯をともすはずです。イエスのことばをふるさとのことばに翻訳した中で得た多くのことをぜひ本にしてみなさんに読んでいただきましょう!


   この本は、イエスの言葉を引用しつつ、山浦医師の生きざま、復興に立ち向かう東北の人々の思いのたけを綴っている。

話し言葉である「ケセン語」を、文章に直すのは至難の業だったろう。だから最初に「ケセン語の読み方」という注釈がついている。

本文で、「が(●)ぎ(●)ぐ(●)げ(●)ご(●)」はガ行濁音で、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音で読む。
 振り仮名で「ガギグゲゴ」はガ行濁音、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音。また、振り仮名で促音「つ」は「ツ」と書く。

*尚、聖書引用は日本聖書協会『聖書新共同訳』による。


 学生時代に東北地方を旅し、列車の中で出会った行商のおばさんたちが話す言葉がさっぱり分からず、あ然、がく然とした思い出がある、

 この本に書かれた「ケセン語」のイエスの言葉もちっとやそっとでは理解できない。しかし、それに続く山浦医師の解説は、カトリック信者のはしくれである私にも「目からうろこ」の連続だった。そして「ケセン語訳」イエスの言葉が身にしみてくるのである。

敵(かだギ)だってもどご(●)までも大事(でァじ)にし続(つづ)げ(●)ろ。
                           (ケセン語訳/マタイ五・四四)

敵を愛し...(中略)...なさい。
                                (新共同訳)


 「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。

 「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」

 「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。

「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

医師の言葉は、どこまでも先鋭かつ鮮烈である。

願(ねが)って、願(ねが)って、願(ねげ)ア続(つづ)げ(●)ろ。そうしろば、貰(もら)うに可(い)い。探(た)ねで、探(た)ねで探(た)ね続(つづ)げろ。そうしろば、見(め)付(ツ)かる。戸(と)オ叩(はで)アで、叩アで、叩(はだ)ぎ続(つづ)げろ。そうしろば、開(あ)げ(●)もらィる。
 誰(だん)でまァり、願(ねげ)ア続(つづ)げる者(もの)ア貰(もら)うべし、探(た)ね続(つづ)げる者(もの)ア見(め)付(ツ)けんべし、戸(と)オ叩(はだ)ぎ続(つづ)げる者(もの)ア開(あ)げ(●)でもらィる。
                        (ケセン語訳/マタイ七・七?八)

求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
            (新共同訳)


 山浦医師は、この箇所をケセン語に訳そうとした時、新共同訳を見て「ちょっと待てよ」と思った。
 「人生を振り返って、求めたからといって与えられるとは限らない。・・・それどころか、求めて得られず、探して見つからないことが多すぎるからこそ、・・・人生で苦労している」

 疑問の答えが見つからないまま、ギリシャ語文法の勉強をしていた時、ギリシャ語の命令形には、その動作を継続して実行することを要求する「継続命令」と、ひとくくりに一回性のものとして要求する「単発命令」という2つの種類があることに気づいた。
  マタイ伝を読みなおして「求めろ、探せ、たたけ」は「継続命令」であることが分かった。 そして、ケセン訳と同時に、こんな日本語"私訳"をつくった。

  
願って、願って、願いつづけろ。そうすれば、貰える。
 探して、探して、探しつづけろ。そうすれば、見つかる。
 戸を叩いて、叩いて、叩きつづけろ。そうすれば、戸を開けてもらえる。
 誰であれ、願いつづける者は貰うであろうし、探しつづける者は見つけるであろうし、戸を叩きつづける者は開けてもらえる。 


 医師は続けて書く。
 「イエスはたとえ話しの後でよく『聞く耳のある者は聞け』といいます。これは継続命令です。・・・一度聞いた話を心の中で何度も反芻し、繰り返し繰り返し、聞き続けろということです。"神さまのお取り仕切り(ケセン語訳で神の国、天の国のこと)"に参加するには、このしつこさが必要なのだと、イエスはしつこくしつこくいっている・・・。」

   この本の巻末に「新しい聖書翻訳のこころみ」という数ページがある。
 例えば「永遠の命」は「いつまでも明るく活き活き幸せに生きること」、「心の貧しい人」は「頼りなく、望みなく、心細い人」、「柔和な人」は「意気地なし、甲斐性なしなし」・・・。

 池澤夏樹の 「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」という本にこんな一節がある。

 
秋吉さん(秋吉輝雄・立教女学院短期大学教授)は、本来、聖典は朗諦・朗詠されるものだと書かれていますね。その意味で見事なのは、岩手の山浦玄嗣さんというお医者さんが出したケセン語訳の聖書「ケセン語訳新約聖書」( イー・ピックス刊、二〇〇二)です。福音書を岩手県気仙地方の言葉に訳したのですが、あれはまさしく読むだけでなく、朗唱するものとして作られている。山浦牧師(?)は、信仰というものは魂に訴えるのだから、生活の言葉でなくてはダメだと考えて、ケセン語訳をしたんです。聞いていた信者のおばあさんが「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエスさまの気持ちァわかったことァなかったよ!」 と言ったとか。


 この「ケセン語訳新約聖書」が、3・11で奇跡的に見つかり、完売した聖書だ。

一方で、山浦医師らの長年の夢が3・11で失われた。「ケセン語になじみのない一般の日本人にもたのしめるような『セケン(世間)語訳』を出してほしい」という要望で、日本各地の方言をしゃべる新しい福音書が出版を間近にして流されてしまったのだ。

 しかし「日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望み」は消えなかった。生き残った社員が集まり、山浦医師の書斎に残っていた原稿から新しい版を起こす仕事が始まった。

山浦玄嗣医師訳 「ガリラヤのイェシュー;聖書?日本語訳新約聖書四福音書」(イー・ピックス出版)は、昨年11月に出版された。

山浦医師によると「イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う。さらに、ファイサイ衆は武家用語、領主のヘロデは大名言葉、 ユダヤ地方の人は山口弁。ローマ人は鹿児島弁、 ギリシャ人は長崎弁」と全国各地の方言が飛び交う。

芦屋市立図書館には、すでに所蔵されていた。予約したが、まだ手にすることはできていない。

ぼくたちが聖書について知りたかったこと
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ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書

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2012年2月14日

読書日記「舟を編む」(三浦しをん著、光文社刊)


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 この著者の作品を、ブログで書くのは、2009年の 「神去(かむさり)なあなあ日常」以来。
 前著は、草食系の若者が三重県の山村に林業研修生として送りこまれ、たくましく成長していく話し。今回は大手出版社・玄武書房営業部に勤める27歳の落ちこぼれ、馬締(まじめ)が、定年後の後継者を探していた荒木に辞書編集部にスカウトされ、辞書造りのおもしろさに目覚めていく、というストーリーだ。

 著者は、こういったちょっと変わった職種を探し出し、取材を重ねて読ませる筋立てに仕上げるがなかなかうまい。

 荒木が最初に馬締に会いに行き、辞書編集部員に向いているかどうかをテストするシーンがおもしろい。
 荒木は「しま」という言葉を説明してみろ、と問いかける。
 
「ストライプ、アイランド、地名の志摩、『よこしま』や『さかしま』のしま、揣摩臆測(しまおくそく)の揣摩、仏教用語の四魔・・・」
 ・・・荒木は急いでさえぎった。「アイランドの『島』だ」
 「そうですね。『まわりを水に囲まれた陸地』でしょうか。いや、それだけではたりないな。江の島は一部が陸とつながっているけれど、島だ。となると」
 馬締は首をかしげたままつぶやいた。荒木の存在などすでにそっちのけで、言葉の意味を追求するのに夢中になっている様子だ。
 「まわりを水に囲まれ、あるいは水に隔てられた、比較的小さな陸地」と言うのがいいかな。いやいや、それでもたりない。「ヤクザの縄張り」の意味を含んでいないもんな。『まわりから区別された土地』と言えばどうだろう」
 ・・・あっというまに「島」の語義を紡ぎだしていく馬締を、荒木は感心して見守り、辞書を取りに走ろうとするのを、あわてておしとどめた。


 馬締は、新しく編纂することになった辞書「大渡海」の実質的な編纂責任者に引き抜かれる。

 最近、本の 装丁が気になるようになった。装丁の対象になる箇所の名前は、 大阪府立中之島図書館のホームページが参考になった。

 クリーム色の「帯紙」には「辞書とは大海原を航海するための舟」と目立つ2色の大文字で書いてある。カバー(ジャケット)には、群青(ぐんじょう)一色の海原をはしる帆かけ舟と「舟を編む」という表題が銀色で「箔押し(まがい?)」してある。堺市在住の 大久保伸子のデザインだ。
 表紙は、漫画家 雲田はるこが描く辞書編集部員や恋人たちのイラストで埋めつくされている。
  定年後も編集部にお目付け役として顔を出す荒木、体調不良をおして「大渡海」完成に命をかける顧問の松本元大学教授を含めた、辞書編纂にかける?青春群像″がまぶしい。

 辞書を完成するまでの長い過程も、興味深く書かれる。

 
「大渡海」の見出し後の数は、約二十三万語を予定していた。「広辞苑」や「大辞林」と同程度の規模の、中型国語辞典だ。後発の「大渡海」としては、読者に手を取ってもらえるような工夫をこらさなければならない。
 ・・・馬締は(毎週の会議で)意見を述べた。「『大渡海』の用例採集カードには、ファッション関係の用語が著しく不足しています」


 社内で「大渡海」の編纂が中止になる、といううわさがたつ。
「既成事実を作ってしまいましょう」と時期尚早は承知のうえで、各分野の専門家に辞書原稿の執筆を依頼してしまうことになり、編集部員は「見本原稿」と「執筆要領」の作成に取りかかる。
手薄だったファッション関係の専門家に先行して連絡を取ったため、出版業界で「玄武が新しい辞書の編纂に着手したらしい」と噂されはじめた。
 「だったら、噂をもっと広めてしまえばいい。これぞという専門家にどんどん原稿を依頼し、玄武書房辞書編集部がいかに本気か、社の内外に知らしめる」という作戦だ。

 しかし「執筆要領」1つを書くのも、言葉を選んでいくというのは、至難の業だ。
 
ひとつの言葉を定義し、説明するには、必ずべつの言葉を用いなければならない。言葉というものをイメージするたび、馬締の脳裏には、木製の東京タワーのごときものが浮かぶ。互いに補いあい、支えあって、絶妙のバランスで建つ揺らぎやすい塔。すでに存在する辞書をどんなに見比べても、たくさんの資料をどれだけ調べても、つかんだと思った端から、言葉は馬締の指のあいだをすり抜け、脆く崩れて実体を霧散させていく。


 主人公を通して語られる、著者自身の言葉への熱い思いである。

 辞書づくりのためには、印刷する用紙の開発もポイントになる。製紙会社の営業マン・宮本が見本を持ってやって来る。
 「『大渡海』のために開発した自信作です。暑さは五十ミクロン、1平方メートルあたり四十五グラムしかありません。・・・それだけ薄いのに、(ページ裏の文字が透けて見える)裏写りはほとんどしません」

試作品をためつすがめつしていた馬締が、突然叫んだ。
 「ぬめり感がない!」・・・
 書棚から「広辞苑」が運ばれる。・・・「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう。にもかかわらず『紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう』ということがない。これが、ぬめり感なのです!」


 「大渡海」の本格的な編纂作業に取りかかるまでに、十三年の月日がたっていた。

 でき上がった原稿を何度も推敲し、できるだけ字数を削っていく。用例がある項目は、その言葉が使われている文献をひとつひとつ確認する。その原稿に編集部員総出で級数(文字の大きさ)やルビの指示を入れ、やっと印刷所に回せる。

 試し刷りの紙で「ちしお【血潮・血汐】」という見出し語が抜けていることが分かり、アルバイト学生も動員して徹夜、泊まり込みの確認作業は1カ月に及んだ。

 「大渡海」の装丁もでき上がった。
 
箱も、本体の表紙とカバーも、夜の海のような濃い藍色だ。帯は月光のごちき淡いクリーム色。・・・本体の天地につけられる、飾りとなる花布は、夜空に輝く月そのものの銀色をしている。
 「大渡海」という文字も銀色で、藍色をバックに堂々たる書体で浮かび上がる。・・・背の部分には、古代の帆船のような形状の舟が描かれ、いままさに荒波を越えていこうとするところだ。


 なんと「舟を編む」の装丁そのままなのだ。しゃれてますね!

 この作品は、紀伊国屋書店のスタッフが選ぶ 「キノベス!2012」の第1位に選ばれた。4月に決まる 「本屋大賞」の候補作品にもなった。

 (追記)2012年4月11日
 見事「2012年本屋大賞」に決まりました。おめでとうございます。