2010年2月アーカイブ: Masablog

2010年2月22日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その2


 1月6日の午後。長崎駅前のバスターミナルで、隠れキリシタンのふる里、旧外海(そとみ)町(現在は長崎市)行きのバスを待った。

 1昨年の5月に、同じように外海方面行きのバス停を訪ねた若い主婦に「遠いですよ・・・」と言われたのを思い出した。前日よりぐっと冷え込み、寒風がこたえる。やっと来た長崎バスで桜の里バスターミナルまで約1時間、さいかい交通バスに乗り換え、約30分で大野のバス停に着いた。
世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストにも挙げられている国指定の重要文化財「大野教会」は、長崎市の中心からはかなり遠い。1昨年行きそびれたので、2年越しの再挑戦である。

 早くも水仙の花が所々に咲いている狭い農道を10数分登った山あいに、なんとも素朴な石造りの教会が建っていた。
 この教会は、外海地区の主任司祭として大きな足跡を残したフランス人マルク・マリ・ド・ロ神父 が、隣の出津教会に来られなくなったお年寄りのために明治26年に建設した小規模な巡回教会。地元で産出される玄武岩を砂と石灰、水を混ぜた赤土で積み上げた「ド・ロ壁」という独特の工法で建てられている。
 木の雨戸の上に赤煉瓦で縁取りされた半円形をした木組みの窓があり、和瓦の屋根の頂上と軒先の白い漆喰梁に描かれた小さな赤い十字架があざやかだ。

 正面の防風壁に守られている玄関から中をのぞくと、柱が一つもなく、簡素な造りの机が並んでいるだけ。がっしりとした「ド・ロ壁」が角力灘からの強風を防いでくれるのだろう。振り向くと、青く広がる角力灘(すもうなだ)越しに、この外海から迫害をのがれてキリシタンたちが移住していった五島列島が臨める。

 2006年には大修理が行われたという。周りの風土にすっかり溶け込んだ教会を後世に伝えたいという地元信徒たちの思いが伝わってくる。

 1昨年の5月には、同じバスのルートで大野教会の手前の出津教会をまず訪ねた。

 明治12年に赴任したド・ロ神父が明治15年、最初に建設した教会。明治24年に祭壇部、同42年に玄関部が増築されており、バス停から坂を下った窪地にあるが、煉瓦造りの建物を白い漆喰で包み、2つの尖塔と、正面左に別棟の鐘楼を持つ堂々とした、たたずまいだ。それでいて屋根までが非常に低い。外海の強風を考慮した設計だという。

 教会では、老夫婦のご主人の洗礼式が終わったところだった。翌日には、すでにカトリック信者である奥さんとの結婚式が改めて行われる、という。この地域にはいまだにおられる隠れキリシタンの"改宗"ではなかったのか、と今になって思う。

 ド・ロ神父は、貧しさにあえいでいたこの地区の人たちを助けるために、パンやそうめん(スパゲツティ)の作り方を教え、孤児院まで作った。夫を亡くした女性たちの生活を守るために神父が設計した鰯網工場跡は「ド・ロ神父記念館」になっている。入口を入ったところでシスターの橋口ロハセさんがオルガンで聖歌「いつくしみふかき」を弾いておられた。ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものを、8年前に修理したのだ。

 国の重要文化財「旧出津救助院」は、2012までかかる大修理中で、工事用の壁に囲まれていた。授産場と「ド・ロ壁」に囲まれたそうめん工場が再現されるという。

 1時間に1本しかない長崎駅行きのバスで30分ほどの「道の駅 夕陽が丘そとめ」で降りる。長崎屈指といわれる夕陽を待っているライダーたちであふれていた。

 2,3分、海のほうに歩くと「遠藤周作文学館」 がある。まず遅めの昼食をと、付属のレストランで「ド・ロ様そうめん」を食べた。落花生油が練り込んであるとかで、もっちりしていてなかなかの味だった。

 文学館は、遠藤周作が愛用した書斎コーナーが再現されており、遺品や生原稿などで遠藤文学のすべてを閲覧できる。2方が天井までのガラス張りになっている「聴涛の間」からは、碧く広がる角力灘(すもうなだ)が見渡せる。壁に書家・近藤攝南が書いた額がかかっていた。
      
       物語は終わり 今は黄昏
       私は川原に腰をおろし
       膝をかかえ 黙々と
       流れる水を 永遠の
       生命のように凝視している


 遠藤周作作「男の一生」の1節だ。
 近藤攝南さんは昨春亡くなられたが、新聞社に勤めていたころに何度かお顔を拝見したことがある。遠藤周作は、近藤さんを父親のように慕っていたという。

 外海は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台でもある。この本で「トモギ村」と書かれているのは、この後訪ねる黒崎の地がモデルらしい。

 出津教会の近く、文学館を臨む丘の上に「沈黙の碑」があった。
       
      人間が
      こんなに
      哀しいのに
      主よ
      海があまりに
      碧いのです
             遠藤周作


 1時間後のバスで20分ほど戻ったところが、黒崎のバス停。すぐわきの急な階段を登ったところに煉瓦造りの「黒崎教会」があった。

 やはりド・ロ神父の指導で明治30年から信徒が総がかりで敷地を整備、煉瓦を1つ、1つ積み上げて23年もかけて完成させた。内部はリブ・ヴォートル天井を持つ、ゴシック調の重厚な雰囲気。教会横の鐘楼は、この地区に多く住む隠れキリシタンの"教会復帰"を願って建てられたという。

 教会から15分ほど登ったところに、日本には3社しかないというキリシタン神社「枯松神社」 があり、毎年秋の祭りには、キリシタンの祈り「オラショ」が奉納される。日本にキリスト教が伝わって約470年、江戸時代に始まったキリシタン弾圧から約210年。その歴史を刻んできた神社である。

 世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に、なぜこの神社は入らないのだろうか。弾圧時代のキリシタンはキリスト信者でなかった、というのだろうか・・・。 ふと、そんな疑問がわいてきた。

「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会:クリックすると大きな写真になります波静かな角力灘(すもうなだ)。:クリックすると大きな写真になります堂々としたたたずまいの出津教会:クリックすると大きな写真になります「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター:クリックすると大きな写真になります
「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会波静かな角力灘(すもうなだ)。見えているのは、五島列島ではない。堂々としたたたずまいの出津教会"「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター。90歳前後らしい
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」:クリックすると大きな写真になります黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている:クリックすると大きな写真になります煉瓦造りの黒崎教会:クリックすると大きな写真になります
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている煉瓦造りの黒崎教会

2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


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4 迫害されたキリスト教徒


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