出雲紀行・下「出雲大社」、読書日記「古代出雲大社の復元」(大林組プロジェクトチーム編)、講話「出雲大社巨大本殿は実在したか」(黒田龍二・神戸大大学院教授)
出雲大社では、60年に一度の 「平成の大遷宮」が今年の5月10日に行われるのを目前にして本殿周辺は工事用の塀で囲まれていたが、拝殿(現在は御祭神、大国主大神の仮の住まいである御仮殿)近くから見ると、 大社造り、茅葺きの大屋根はほぼ葺き終わったように見える。屋根の上の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ) が後ろの八雲山の頂上に迫るように大きく見える(写真①)。高さ8丈(約24メートル)と、日本一高い神社だ。
神楽殿の注連縄(しめなわ)も長さ13メートル、重さ5トンと日本最大級(写真②)。前の広場にある国旗掲揚台の日章旗も日本最大。古代出雲王朝の"遺産"はけたはずれに大きい。
拝殿の前にもう1つ、どでかい"遺産"が残っていた。
拝殿前のコンクリートの広場に、円を3つ束ねた橙色のサークルが3ヶ所に印されており、参拝者がしきりにカメラを向けている(写真③)。
これが2000年4月に発見された巨大な3本柱遺跡を示すものだった。直径1・1-1・4メートルの杉材を3本1組に束ね、合わせて直径が約3メートルにもなる巨大な柱の跡が3ヶ所から出土したのだ。
発見されたうち手前3本の 「宇豆柱(うづばしら)」は保存処理を終わり重要文化財に指定されて、いつもなら近くの 島根県立古代出雲博物館のロビーに展示されているが、ちょうど東京国立博物館で開かれていた 特別展「出雲―聖地の至宝―」に出品されていて留守。それでも、境内の「宝物館」の前に展示されているコンクリート製の模型からも、遺跡の柱が支えていたかっての出雲大社の巨大さがうかがえる(写真④)。ちなみに、現在の本殿の柱は、1組0・7メートル強から1メートル強らしい。
写真① | 写真② | 写真③ | 写真④ |
平安時代に編纂された児童教養書 「口遊(くちずさみ)」に 「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という数え歌が載っているという。当時の「大屋(巨大な建物)」のうち、出雲大社が太郎で1番、大和の大仏殿が2番、3番が京都の大極殿、というのだ。
それを スケッチすると、こんな比較になるようだ。
当時の大仏殿の高さは約約15丈(約45メートル)。出雲大社には「上古32丈、中古16丈」という口伝が残されている。現在でも8丈(約24メートル)もの高さを誇る出雲大社は上古には32丈(約96メートル)、中古には16丈(約48メートル)と大仏殿より高かった、という。 48メートルといえば、14階建ての高層ビルに匹敵する。
オオクニヌシが「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことを条件に、お隠れになったという古事記の記述にそって、こんな巨大な神殿が造られたのか。
それとも、日本海沿岸各地に残る真脇遺跡、 チカモリ遺跡などの縄文遺跡や諏訪大社の御柱祭に受け継がれてきた巨木文化、巨木信仰が、出雲大社を高く、大きく建造しようとした源なのか。
それよりなにより「上古32丈、中古16丈」という口伝は真実なのだろうか。
"巨大神殿"のロマンを探しに、拝殿から歩いて10分弱の県立古代出雲博物館に向かった。
予想外に混んでいる。ロビーから左に入った展示室の大きなガラスケースのなかに「出雲大社御本殿復元模型」(写真⑤、⑥)が5つ並べられていた。
5人の古代建築史の研究者が、自分の持つ学説にそって、発見された巨木遺跡の全体像を50分の1の模型で再現しようしたものだ。向かって左の一番低いものが現在の大社と同じ8丈(約24メートル)、真ん中の2つが11丈(約33メートル)、右側2つは16丈(約48メートル)と、一番高い。
それぞれの研究者の再現根拠を説明したボードも掲示してあるが、なぜかガラスケースの向かって左側に、十六丈神殿の10分の1模型(写真⑦、⑧)が天井まで届くように展示されてある。
「やはり十六丈の高さが見栄えがする」という、その筋のお声がかりで出来上がったとか。制作は、松江工業高校の生徒たちだという。
写真⑤:出雲大社御本殿復元模型 | 写真⑥:出雲大社御本殿復元模型 | 写真⑦:十六丈神殿の10分の1模型 | 写真⑧:十六丈神殿の10分の1模型 |
大手ゼネコン(建設会社)の大林組は、この16丈本殿の建設が可能であったかを実証し、CG(コンピューター・グラフィックス)上で、巨大神殿を復元(右図①)してしまった。拝殿前で、巨木遺跡が出土した10年も前のことだ。
この成果は、当初、同社の技術誌「古代出雲大社の復元 失われたかたちを求めて」(上掲)(監修・故・福山敏男、大林組プロジェクトチーム編、学生社刊)として発刊された。
故・福山京大名誉教授、大林組が、16丈本殿実玄の根拠としたのは、出雲大社の歴代宮司家である 千家國造家に秘蔵されてき神殿の平面設計図・「金輪御造営差図」だった。
この差図(設計図)には、3本の柱を金輪(鉄の輪)でくくって直径3メートルの柱とし、正方形の9ヶ所に建てた平面図。後に見つかった巨木遺跡とそっくりなのだ。 残念ながら高さは書いてなかったが、階段(引橋)の長さが1町(約109メートル)と書いてあった。
プロジェクトチームは、これを第1次資料に、コンピューター上で構造解析や地震時の揺れのシュミレーションなどを繰り返し「16丈本殿の建設は可能だった」という結論を導き出した。
この結論に反論しているのが、島根県立古代出雲博物館で「11丈模型」を制作した 黒田龍二・神戸大大学院教授。
出雲大社に同行した友人Mから「『出雲大社巨大本殿は実在したか』という講話があるようだ」と聞き、朝日カルチャーセンター川西教室で1月から月1回、計3回行われた黒田教授の話しを聞きに行った。
渡されたレジメには「16丈本殿論争は明治時代から続いており」「その1つが、平成元年からの『黒田龍二VS大林組』」という記載があった。
講話のなかで黒田教授は、長く神社建築史を研究してきた立場から「9本の柱で、100メートルの階段(引橋)を支えるのは難しい」「ただ高い、というのは異様であり、大仏殿より高いというのは論理がねじれている」と、「金輪御造営差図」や「雲太、和二、京三」から、高さ16丈の本殿が実在したというのは無理がある、と主張した。
黒田教授が「11丈本殿」の根拠にしたは、鎌倉時代のものといわれる出雲大社の古絵図 「神郷絵図」(左:図②)。「門と本殿の高さの釣り合いが取れている。11丈でも少し高いと思うが、根拠になるものが、これ以外にはない」という。
ただ、平安末期から鎌倉中期にかけて「本殿は5度にわたって倒壊した」という記録が残っている。しかも、大陸から石の土台を築く技術が伝わっても、掘立柱の巨大神殿にこだわったのではなぜだろうか。
そこに、古代王朝から脈々と伝えられてきた出雲文化の独自性とロマンが感じとれて、興味が尽きないのだ。
(追記:20130/3/29) このブログを書いた翌日の読売新聞社会面に「出雲大社 本殿造営の記録」という記事が載った。 島根県立出雲歴史博物館が、 「北島國造家」の調査したところ、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼によって本殿を造営した際の「本殿の規模などを記した記録が見つかった」と書いてある。
江戸時代の延亨元年(1744年)に造営された現在の本殿より以前のものだから「ひょっとすると、16丈本殿?」と、同博物館に問い合わせてみた。
残念ながら、6丈5尺(約20メートル)と現在の本殿の8丈(約24メートル)より小さかったことが分かっという。同博物館学芸員の記述によると「中世の社会的混乱もあり、16世紀末には4丈5尺(約13・5メートル)の高さになってしまった」という歴史の流れが生んだ高さなのだろう。 しかし、驚くような事実も分かった。「天井に龍が描かれ、極彩色がほどこされていた」と記録されていたのだ。同感の学芸員は「当時の豪華華麗な 桃山文化を反映したものだろう」と話す。 徳川時代の「延亨遷宮」のときも、幕府はこの流れを継承しようとしたが、出雲大社側の強い要望で、現在の白木の簡素な神殿になったらしい。 "16丈伝説"への夢はつきないが、こんな事実が後世に突然顔を見せてくれるから、歴史っておもしろい!