2013年12月アーカイブ: Masablog

2013年12月15日

読書日記「イエルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳、みすず書房)、そして映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告
ハンナ・アーレント
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  一昨年、ポーランド・アウシュビッツを一緒に訪ねた友人に先日、映画 「ハンナ・アーレント」を見ることを勧められ、大阪で鑑賞した。

  事前に渡された新聞広告には「ナチス戦犯アイヒマンの裁判レポートに世界が揺れた」とあったから、単にユダヤ人大虐殺の張本人と言われてきた アドルフ・アイヒマンを告発する映画だと思ったが、とんでもない勉強不足だった。

  見終わった後、友人は「思わず拍手をしたくなった」と話したが、私も同じ思いを持ったすごい作品だった。

 まったく知らなかったが、 ハンナ・アーレントは、かってユダヤ人収容所から逃げ出した経験があり、アメリカに渡って十数年かかってアメリカ国籍を取った。小惑星に彼女の名前がつけられたり、ドイツ切手の表紙にもなったりしたことがある著名な政治学者だ。

 1960年、アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエル防諜特務庁(モサド)に捕まり、エルサレムで裁判が行われた際、雑誌 「ザ・ニューヨーカー」に傍聴レポートを書いた。

  そのレポートが「世界を揺るがせた。

 
アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。


 
一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人とも600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。


 この2つの記述が、迫害で生き残ったユダヤ人だけでなく、迫害した側にいた非ユダヤ人を含めた人々の怒りを買うことになる。これに対し、ハンス・アーレントは「考えることで人間は強くなる」という強い意志と主張を、友人を失いながらも果敢に貫く。そのシナリオが観衆の感動を呼んでいく。

 この映画には種本があるにちがいないと鑑賞後、売店でパンフレットを買い、表題の 「イエルサレムのアイヒマン」を知り、伊丹市立図書館で借りることができた。2冊も同じ蔵書があった。

 解説を含めても250ページほどの本だが、なんとも難解。一度はあきらめかけたが、どうしても気になり第一章「法廷」、第二章「被告」、第三章「ユダヤ人問題専門家」のほか、各章、エピローグ、あとがきをなんとか拾い読みして著者の.意図がおぼろげに浮かびあがってきた。

   最初に著者は、アイヒマンを(国際法上)不法逮捕したイスラエルの当時の首相 ベン・グリオンの言葉を紹介する。

「数百万の人間がたまたまユダヤ人だったために、百万もの嬰児がたまたまユダヤ人だったために、ナチスの手によっていかにして殺されたかをわれわれは世界の諸国民に明らかにしたいと思う」


   しかし世間の常識では当然とも思えるこの意図は、裁判を傍聴した著者がレポートに示した「悪の陳腐さ」という思いもよらない分析によって、成就できなかったことが明らかになる。

  さらにベン・グリオンは、語る。

「あの大虐殺の後に成長したイスラエル人の世代は、ユダヤ民族への連帯、ひいては自らの歴史への連帯を失う危機に曝されている。・・・必要なのは、わが国の若い世代の人々がユダヤ民族に起こったことを想い起こすことである。われわれの歴史上の最も悲劇的な事実を彼らが知ることをわれわれは、望んでいる」


  この意図も、ある意味で失敗したことも、著者は的確に指摘していく。

  第1に指摘した事実について、著者はアイヒマンの裁判の記録を詳細に検証、自らの考えを明らかにしていく。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない―ーそもそも人間というものを殺していないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。・・・たまたま、私はそんなことをしなければならない立場になかったのです」


 アーレントは、こう分析する。

 
彼は常に法に忠実な市民だったのだ。・・・今日アイヒマンにむかって、別のやりかたもできたはずだと言う人々は、当時の事情がどうだったかをしらぬ人々、もしくは忘れてしまった人々なのだ。


 
もっと困ったことに、あきらかにアイヒマンは狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持主で・・・なかった。・・・反対に彼はユダヤ人を憎まない〈個人的な〉理由を充分に持っていたのだ。・・・身内にユダヤ人がいることは、彼がユダヤ人を憎まない〈個人的な理由〉の一つだった。彼には、ユダヤ人の愛人さえいた。


 
俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。


 
彼は愚かでではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。


   ハンナ・アーレントの第2の論点については「裁判の記録を述べただけだ」と、あまり多くの記述はない。

  アイヒマンが遇ったユダヤ人のうち最大の〈理想主義者〉は ルードルフ・カストナー博士だった。アイヒマンは彼と・・・次のような協定に達した。すなわち、数十万の人々がそこ(ハンガリア)からアウシュヴィッツへ送り出される収容所のなかで〈平静と秩序〉を保たれるならば、その代償としてアイヒマンは数千人 のユダヤ人のパレスチナへの〈非合法〉の出国を許す・・・というのである。この協定によって救われた数千人の人々は、つまりユダヤ人名士や シオニズム青年組織のメンバー・・・であった。

   「ナチスとシオニストの協力関係」というネット上の記述を見ると、エルサレムに独立国建設をめざしたシオニズムのメンバーが、世界各地に ディアスポラ(難民移住)しているユダヤ人がその地に同化するのを恐れて、ナチと手を結んだ、とある。

  ハンナ・アーレント関連の著書を調べると、びっくりするほど多くの文献がでてくる。伊丹図書館の蔵書から「ユダヤ論集 1 反ユダヤ主義」「同 2 アイヒマン論争」と、1冊3,400ページ近い大著を借りることができた。

  いずれも、アンナ・アーレントと論者との対談で構成されているが、このような本まで1つの自治体の図書館に所蔵されている事実にいささか驚いた。

  「アイヒマン論争」のなかで、アーレントは「世界は沈黙しなかった。しかし、沈黙したままでなかったことを除けば、世界はなにもしなかった」と語る。

  さらにアーデントは、表題の著書で国際法上 『平和に対する罪』に明確な定義がないことを指摘し、ソ連による カティンの森事件やアメリカによる広島・長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。

  この映画の最後には、アーレントが学生たちにむけて講義する感動的なシーンが映される。

 
「彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこに罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・"自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけだ"と」


 
「こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名付けました」


人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。・・・"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。ありがとう」


  考え、想いをめぐらせる・・・。本もいいけれど、映画もいい。「ありがとう」

2013年12月 3日

読書日記「土と生きる 循環農場から」(小泉秀政著、岩波新書)

土と生きる――循環農場から (岩波新書)
小泉 英政
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 半年前ほどから、長野県小川村から有機野菜のダンボールの小さな箱が2週に一度届くようになった。おかげで独居老人の食生活が大きく変わりつつある。

 これまでは、冬は鍋物、夏は炒め物などでごまかしていたのだが、最近はカブの甘酢漬け、ニンジン、ジャガイモ、サラダ菜と軽く炒めたベーコンのサラダ、カボチャと鶏肉のクリームスープ、大根と厚揚げ、ゴボ天の炊き合わせ。冬瓜は大きく切りすぎて豚肉との炒め物はちょっと失敗。先週届いたビーツには、ウーン!どう向かい会うか・・・。

 届けてくれるのは、いとこの娘さん夫婦。なんと、ご主人は大手建設会社をあっさり辞めてしまい、3人の子供を含め家族で数年前に信州に移住してしまったのだ。
 いとこによると「かっこいいシティボーイだったが、すっかり農家の主人らしい顔になってきた」

 1948年生まれの著者は、成田国際空港建設反対運動に参加したのをきっかけに千葉県成田市三里塚に移住、地元農婦の養子になった。「循環農場」と称する里山の落ち葉などを使った微生物農法で有機野菜を消費者に産地直送する「ワンパック(セット詰め)」販売のさきがけとなって30年になる。

 ダイオキシン、ゴミは出したくないと、ビニールハウスやトンネル、ポロマルチを使わなくなって10年にはなる。

 苗床は、落ち葉に水をかけながら踏み込んでいき、その発酵熱を利用する。ある日、落ち葉の上にかぶせた古い毛布をめくってみると、ミミズたちがニョロリと顔を出し、落ち葉はミミズたちに分解されてボロボロ状態のいい堆肥になっていた。

 
「これは大発見! ミミズが山からやって来た」


 茅ぶき屋根の建物が解体される聞き、大型トラックに山盛り7台分ほどの茅を運んでもらったことがある。

 近所の農家の人には「堆肥になるには3年はかかるぞ」と言われたが、出荷の度に出るネギや里芋のひげ根、葉物の枯れっ葉などの野菜くずをコンテナ3杯ほど茅の上に乗せていたら、1年もかからずに茅の堆肥ができた。
 ほかにも、三軒分の茅屋根からでた茅が大きな堆肥の山となっており「ポカポカと湯気をだし、循環農場の未来を温めてくれている」

 猛暑の夏の時期、近所の畑ではスプリンクラーがフル回転し、軽トラックで水が運ばれる。しかし、著者は野菜の生命力を信じ、水を与えない農業を続けてきた。

 照り続ける太陽に、サニーレタスは外葉から枯れていき、モロヘイヤの苗も力なくうなだれていた。
 不安な日々が何日も続いた後、わずかに残ったサニーレタスの中心の葉に赤味がよみがえった。

「地中にある命の水をつかみとったという知らせだった」


モロヘイヤの苗も息を吹き返してきた。植えた時と大きさは変わらないが、強じんな姿をしている。

 
「野菜は強い、すごい、どこにそんな力を秘めているのだろうか。・・・ありがとう野菜たち」


 10数年も耕作していない畑を借りることにした。農薬の残留がない安全な土地で、特に化学物質過敏症のユーザーのための畑に適していると思ったのだ。
 できた葉物や里芋を、化学物質過敏症の人に送った。その人は、届いた箱をあけるなり、入っていた小松菜にかじりついたという。「これは無肥料畑で育ったのです」というメモは食べた後で見た、という便りが届いた。

「メモより何よりも、その小松菜が化学物質過敏症の方に飛びついていったのだ」


ある本から学び、トラクターの耕運を控えることにした。重量のあるトラクターを畑に入れる事によって、畑は踏み固められ、更に煩雑に土をかき混ぜることによって、土の中の世界を壊してしまうことになる。トラクターの使用を最低限に抑え、それに代わるものとして、軽量の管理機の活用、さらに除草の道具の開発が目標になった。次に、落ち葉、あるいは落ち葉堆肥で、土の表面を覆うことだ。地表を裸にしない事によって、土壌に生きる土壌生物、微生物、菌類達は活発に働くことが出来る。・・・米ぬか発酵肥料の量を少な目にし、落ち葉堆肥主体の栽培に持っていく。

そんな畑を実現させようとした矢先、福島の原子力発電所の大事故が起きた。

「ここから地続きの場所で起こっている痛ましい惨状、目に見えない放射能物質に対する恐れと不安。・・・野菜を会員の人々にいいものかどうか、迷う日々が続いた」


菜っ葉やキャベツなどの検査では、検出限界5ベクトル/kgで不検出だったが、東北から関東一帯、汚染されていることは事実で、安心、安全という言葉は使えなくなった。

妊娠されている人や育児中の人々など、会員をやめざるをえない人々が続出した。

「電話の向こうで涙を流される若いお母さんもいて、何もできなかったことを申し訳なく思った」


 原発事故以前に集めた落ち葉堆肥の山が、間もなく使い終わる。

 秋から春にかけての、野菜の出来が思わしくない。・・・踏み床温床用に集めた落ち葉を、ある程度腐熟させてから測定してみたら、330ベクトル/kgだった。国の指針では堆肥として使用できる範囲内の数値ではあるが、まだ使用しようという気にならない。

「被災地の方々が語る『一歩ずつ』という言葉が、とても身にしみる冬だった。失ったものは多いけれど、ここから一歩ずつ、気のついたことを一つずつ進めていくしかない。この夏、その続きの秋、冬を目ざして」




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