2014年3月アーカイブ: Masablog

2014年3月20日

読書日記「渡りの足跡」(梨木果歩著、新潮文庫)、「鳥たちの旅 渡り鳥の衛星追跡」(樋口広芳著、NHKブックス


渡りの足跡 (新潮文庫)
梨木 香歩
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鳥たちの旅―渡り鳥の衛星追跡 (NHKブックス)
樋口 広芳
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 先月の始め、引っ越してきた伊丹の家の近くにある昆陽池に渡り鳥を見に出かけた。このブログの管理者で野鳥観察が趣味のn-shuheiさんに誘われたのだ。

 その後、伊丹図書館南分館で、梨木果歩の「渡りの足跡」が文庫本になっているのを見つけた。n-shuheiさんがこの本のことを自分のブログに書いていたのを思い出して借りてしまった。

 著者の本にはなぜか引かれ、このブログでも何度か触れているが、この本だけは読んでいなかった。

 著者はいくつかの著書の"主役"の1つである植物だけでなく、渡り鳥についても玄人はだしの観察者らしい。この本は、北海道や新潟、信州、諏訪湖、さらにシベリア・カムチャッカにいたる渡り鳥"追っかけ"ルポだった。

 最初のオオワシを訪ねて知床にでかける章で、 「ワタリガラス」の名前を見つけてエッ!と思った。

 つい数日前に読んだ 池澤夏樹のパレオマニア」という本でこんな記述を見つけたばかりだったからだ。

   
 大英博物館でいちばん大きい収蔵物、・・・高さ十一メートルのトーテムポール。カナダ先住民族が残した巨大な米杉の柱の下部に・・・「神話的な動物、海の熊、あるいは嘴を折られたワタリガラス」を・・・見ることができる。


 池澤は「カナダ太平洋岸の先住民の神話では、ワタリガラスは創造主である」と書いているが、梨木も「ワタリガラスは、北米先住民族たちの創世神話でよく英雄として登場する、神秘的なカラスだ」と、まだ学生だったころにいた英国で、ワタリガラスの不思議な話しを聞いたことを思い出している。

 WEB上でも、そんな神話の数々をいくつも見つけることができる。

 それだけに梨木は「くぽおうん、くぽおうん」と優しい声で鳴くワタリガラスが、この日本にも"ワタッて"きていることが「にわかに信じがたかった」のだ。

 パレオ(ギリシャ語で古代の意)の昔から、渡り鳥と人との間で紡ぎだされてきた不思議なかかわりあいを知り、興味が深まった。

 一方で梨木は、渡り鳥が現在の自然破壊に巻き込まれている厳しい現実を知り「世界は一つであり、繋がっているのだという紛れもない事実に圧倒されそうになる。」

 
 日本に冬鳥として渡ってくる鳥たちの多くは、シベリア、カムチャッカ、サハリン、或いはアムール川流域等を繁殖地として使っている。アムール川ではソビエト連邦崩壊後、環境汚染が年々進んでおり、年間百五十億トンのエ場排水が垂れ流しにされている。その結果鱗(うろこ)がない等の奇形の魚が多く、アムール川の魚は食べないように言われている・・・。河口は広々とした湿原で、水鳥の格好の繁殖地だ。その魚を食べるな、その水を飲むなと、どうして鳥に知らせたらいいのか。また、鳥の多くは東南アジアの雷雨林で越冬していると見られるが、ここ数十年程の森林面積のすさまじい減少が、あるいは使用されている農薬が、最近夏山で彼らの嘲りが聞こえなくなった原因ではないかと言っている学者もいる。


 しかし、渡り鳥にとって取れる対策は皆無、といというのが厳しい現実だ。

 
 渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と問わりながら自分の進路を切り拓いていく、旅の物語の集合体である。その環境が自分の以前見知っていたものと違っていたとしても、飲むべき水も憩うべき森も草原もなくなっていたとしても、次に取 るべき行動は(引き返すという選択も含めて)最善の方向を目指すため、今出来るこ とを(とにかく何らかの手段でエネ~ギー補給をする、等)ただ実行してゆくことだ けで、鳥に嘆いている暇などはない。


 この本の中盤で、渡り鳥観察者の醍醐味と言ってよい表現が出てくる。

   
 車からスコープ一式を運んでくる。昨日教えてもらった通りに三脚を立て、スコープを雲台にはめ込み、固定する。それから倍率を合わせる。合ったけれども、そしてどうもなにか大きな鳥(近くにカラスと思しき鳥が数羽いるのでその大きさから比して)らしいのだけれど、ぼんやりして見えない。しばらくあれこれして、ああ、そうだ。ピントはここで合わせるんだった、と、カバーの陰で見えにくくなっていたピント合わせのダイヤルのカバーを外し、動かす。次の瞬間、黄色い囁(くちばし)、黒い体に白いマフラーをかけたような肩線、それからまっすぐこちらを見つめている鋭い視線がレンズにくつきりと入る。目が合って、思わず息を呑む。まちがいない。
 オオワシだ。


 ただ、著者は専門家ではないので、渡り鳥の"渡り"の生態については、表題の2冊目にある「鳥たちの旅」 を何度か引用している。この本は図書館になく、AMAZONで買ってしまった。

著者は、人工衛星を用い、発信器を着けた渡り鳥の移動ルートを解明した研究者だ。

 「渡り鳥はなぜ渡るのか」という素朴な疑問に樋口は、こう答える。

 鳥が渡るのは、食物を十分に確保するためである。たとえば、ツバメは飛びながら空中にいる昆虫を捕って食べる。しかし、日本のような温帯地域では、秋から冬にかけて昆虫は姿を消してしまう。そこでツバメは、冬でもそれらが得られる暖かい南方の地域まで渡っていくのである。同様に、ガンやハクチョウが秋、日本に渡ってくるのは、繁殖地のシベリアが冬には雪と氷に閉ざされ、食物が得られなくなるからである。


それでは「なぜ渡り鳥は、春、越冬地から北に向かって戻っていくの ろうか? 冬の聞くらせる場所であるならば、それ以外の季節だって生活できるはず」だ。

 
 これらの鳥が北に向けて旅立つのは、春から夏にかけては北方に、春から夏にかけて北方に食物になる動物がより多く発生するからである。・・・
 また、北方地域からは冬の問、多くの鳥がいなくなっている。春にそこに行けば、越冬地に残っているよりも、個体あたりにより多くの食物を確保することができる。しかも、この春から夏にかけては、鳥たちにとって繁殖時期であり、多くの子供を育て上げるのに豊富な食物を必要としている。
 したがって、危険をおかしてでも北方まで行けば、自分自身が生活しやすいだけでなく、より確実に子育てを行なうことができるのである。


 最大の疑問点。渡り鳥は「渡る先をどうやって知るのか」だ。

 
 昼間渡る鳥たちは、太陽の位置を体内時計で補正しながら渡っているらしい。・・・夜間には星座を利用する。・・・地磁気も渡る方向を定める重要な手がかりにしているらしい。・・・鳥たちによっては、地形や季節風、日没の位置、においなども定位に利用しているようだ。・・・鳥たちは「かなりすぐれた地図情報をもっているに違いない。


 樋口は、エピローグでこう警告する。

 一つの渡来地の破壊にともなう渡り鳥の減少は、遠く離れた別の渡来地の生態系の破壊をもたらす吋能性がある。たとえば、東南アジアの熱帯雨林の破壊は、そこで越冬し日本に渡ってくる夏鳥(夏に飛来する渡り鳥)の減少を通じて、日本の里山や森林の生態系のバランスを崩す可能牲がある。一方、日本の干潟の破壊は、そこを通過する多数のシギ・チドリ類の消滅を通じて、フィリピンやオーストラリア、あるいはロシアの湿地生態系をおびやかすことになるかもしれない。
 異なる地域、国の自然は互いに独立しているように見えるが、実際には渡り鳥によってつながっている。渡り鳥の保全は、単に対象となる鳥の保全にとどまらず、遠く離れたいくつもの生態系の保仝を意味し、ひいては地球環境全体の保全にもつながっているのである。


 梨木と樋口の思いは、世界中の自然を愛する人々と共通する思いである。

2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


旅立つ理由
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 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。



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