読書日記「海うそ」(梨木果歩著、岩波書店)
今年の暑さには、年のせいかいささか参った。そこへ、風邪のヴィールスが悪さしたとかで、軽いふらつきがでるおかしな症状まで見舞われた。
本は、けっこう読んでいるのだが、どうもブログに書く気が起こらない。
この本も、図書館で2回目に借りたまま放置していたのだが、 著者の新作が出るというAMAZONのPRメールを見たとたん、なぜか急にこの本のページを繰り直す気になった。
昭和の初め、K大学で人文地理学を研究する秋野は、南九州にある遅島を調査のために訪ねた。
かなり大きな島で、以前には修験道の「紫雲山法興寺」という大きな寺院があり、一時は西高野山と呼ばれるほどの隆盛を誇った。しかし今では、木々と藪で覆われていた跡地とかっての地名だけが残っている。
秋野は2年前に許嫁が理由も分からず自殺し、1年前に両親を相次いで亡くし、今年、指導教授を亡くしていた。そんな寂寞と孤独感のなかで、教授の残した報告書にあったこの島に心を惹かれたのだ。
護持谷、権現川、胎蔵山、薬師寺・・・その地名のついた風景のなかに立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。
照葉樹林帯の湿気と高温に囲まれたこの島には、様々な昔話伝説、風俗習慣が残っていた。
宿を借りた老婆は話す。
「昔は、こういう雨の日には、よく海から雨坊主がやってきて、縁先にずらりと並んでおんおん泣いていたというたもんやけど」・・・
「しけのとき遭難した船子たちじゃね。こんな雨になると陸(おか)に上がりやすいがね」
「しけのとき遭難した船子たちじゃね。こんな雨になると陸(おか)に上がりやすいがね」
入江には、もともとアワビやウニをとるための小舟が、高齢者の島になって使われずに、風に曝されている。
「こまい船やが、船霊(ふなだま)はちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
「この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊をつけて、仕事を終えるからねえ」
「船のどこに」・・・
「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」・・・「女の子の髪やったり、歯やったり、いろいろやねえ」
「この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊をつけて、仕事を終えるからねえ」
「船のどこに」・・・
「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」・・・「女の子の髪やったり、歯やったり、いろいろやねえ」
船で島を回ると、島の突端の小藪のなかに無理に壊された廃墟が見えた。
「あそこは、モノミミさんがおいやったところじゃ」・・・
「病気を治したり、探し物を当ててもろたり、死んだ人からの伝言を伝えたり、そんなことをする人のこと」
南西諸島の ユタ、 ノロに当たるものか、と秋野は思う。
島の大寺院が跡かたもなくなったのは、明治初年前後の廃仏毀釈で壊されたためだった。
「明治政府は神仏分離を宣言しただけで、廃仏毀釈までは指示していません。・・・が、長年仏教に下に見られることに屈辱を感じていた神道の関係者たちが、ここぞとばかりに暴走したのです」
「政府は、ともかく浸透を国体として確固たるものにしなければならなかった。キリスト教とともに迫ってくるような諸外国に対しても、すっきりと論理的に説明できる力強い独自の宗教が欲しかった。そういう意味で、本当は、仏教より排除したかったものがあった」・・・
「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まずその標的になりました」
「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まずその標的になりました」
法興寺の遺跡を訪ね歩いて、秋野は胸を引き千切られるような寂寥感に陥る。
「空は底知れぬほど青く、山々は緑濃く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶるるほどにつらい」
50年後、その遅島で一大レジャー開発計画が持ち上がる。次男がそのプロジェクトを担当していることを知り、秋野は島を訪ねる。
そして開発の結果見つかった膨大な木簡のなかから、この島は平家の人々が都を落ちてきたところだった証拠を見つける。
海岸に良信という僧がたった一人で奥深い山から石を切り出し、海岸に築いた長大な石壁は、追っ手から守る防塁だったのかもしれない。
樹冠の緑から海へと視線を移すと、見覚えのあるものが、目に入った。遅島の人々は古来から「海うそ」と呼んでいた蜃気楼だった。
揺らめい見える風景のなかで、白い壁が幾重にも積み重なり、長く連なっていた。それは、良信の築いた防塁のようにも見えた。
「海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。」
「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が増えていくことなのだ。・・・私の遅島は時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。・・・喪失が、実在の輪郭を帯びて輝き始めていた。」