読書日記「太陽の棘(とげ)」(原田マハ著、文藝春秋)
物語は、米国・サンフランシスコの小高い丘の上に診療所を持つ、84歳の精神科の医師、エドワード・ウイルソンが午睡から覚め、目の前に飾られた1枚の絵の思い出から始まる。
少し毛羽立った、けれどリズムカルな筆致は、さざ波の上で跳ねている太陽の光を、大地を豊かに覆う夏草を、そのあいだをかき分けて通りすぎる風を感じさせる。
この海は、はるかな沖縄の海。
この海は、はるかな沖縄の海。
1948年、スタンフォード大学を出たばかりの24歳のエドは、在沖縄アメリカ陸軍の従軍医として那覇に赴任した。
休みの日に、親から送ってもらった真っ赤なオープンカー・ポンティアックに、同僚のアランを乗せ、デコボコ道の坂を上り切ったところで、粗末な木切れに書かれたアルファベットらしい文字を見つけた。
「NISHIMUI ART VILAGE( ニシムイ・アート・ヴィレッジ)」
エンジンの音を聞きつけて板とトタンで作った家々から、人々がひとり、ふたりと出てきた。・・・
どの顔にもいかなる戦(おのの)きもなかった。どの顔も、ただ、光に満ちていた。
こうして、私は、出会ってしまった。――出会いようもない人々と。
ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たちと。太陽の、息子たちと。
どの顔にもいかなる戦(おのの)きもなかった。どの顔も、ただ、光に満ちていた。
こうして、私は、出会ってしまった。――出会いようもない人々と。
ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たちと。太陽の、息子たちと。
沖縄の言葉で「北の森」を指す「ニシムイ」にあるこの集落は、米国人好みに肖像画やクリスマスカードを売って生計を立てながら、自分たちの作品を作成していこうとしている芸術家たちのコロニーだった。
ほとんどが、東京美術学校(現在の国立東京芸術大学)の出身で、後に沖縄画壇のリードする若者たちだ。
セイキチ・タイラと名乗る若者に案内されて1軒のアトリエに入った。安っぽい合板の壁にぎっしりと油絵がかかっている。その多くは風景画。女性の人物像もあった。
すばやいタッチ、鮮やかな色彩、おおらかな色面。一見すると、セザンヌか、ゴーギャンか、マティスか、・・・。それでいて、誰にも似ていない。きわめて個性的(ユニーク)だ。
これは・・・とんでもないものをみつけたぞ。
体の隅々までもがじわりと痺れてくるのを私は感じた。・・・上出来のナパ・ワインを口に含んだ瞬間によく似ていた。
これは・・・とんでもないものをみつけたぞ。
体の隅々までもがじわりと痺れてくるのを私は感じた。・・・上出来のナパ・ワインを口に含んだ瞬間によく似ていた。
宿舎に帰ってからもエドは、眠るに眠れずにいた。
夏空に湧き上がる入道雲のような、力強い絵画。激しい色彩とほとばしる感性。荒々しさの中にも、均整のとれた構図のせいか、不思議な安定感がある。・・・
むせかえるような光に満ちた。絵だった。
こうして、若い米軍精神医と日本の芸術家の卵らとの交流が始まった。
エドは、昔習っていた油絵を再開し、アランもタイラに絵の手ほどきを受け始めた。
エドたちは米国の実家から送ってもらった絵具やカンヴァスをニシムイの芸術家に贈り、タイラはエドの肖像や自画像を渡した。
原田マハの「太陽の棘」の表紙には「事物よりちょっとハンサムに描かれた」エドの肖像画、裏表紙には、タイラ(実名は玉那覇正吉)の自画像が掲載されている。荒々しいほど力強いタッチで描いたタイラは、挑むような眼鏡越しの眼差しで、見る人を見つめる。
玉那覇正吉は後に「ひめゆりの塔」を設計し、その慰霊碑の右にある「百合の花」のレリーフも制作、長く琉球大の教授を務めた。
エド(実名は、スタンレー・スタインバーグ) はニシムイの若き芸術家たちのかなりの作品を購入したが、2009年に里帰りし、沖縄県立博物館・美術館でニシムイ・コレクション展が開かれた。同館には、ニシムイ出身の芸術家の作品も多くを所蔵されている。