2015年1月アーカイブ: Masablog

2015年1月21日

読書日記「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子著、文春文庫)


コルシア書店の仲間たち (文春文庫)
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 コルシア書店のことは、前回のこのブログでもふれた。著者がローマでの留学生生活を辞め、ミラノに移って勉強と仕事を結局11年続けることになった大切な場所だった。

 コルシア書店は、単なる本屋さんではない。戦時中、 反ファシシズム・パルチザン運動の同志だったダヴィッド・マリア・トウロルドとカミッロ・デ・ピアツという2人の司祭が戦後間もなく始めたカトリック左派による生活共同体活動の拠点でもあった。

 ダヴィッド神父に心酔した須賀は、この本の冒頭近くで、詩人としても知られた神父の作品を紹介している。
 1945年4月25日「ファッシスト政権とドイツ軍の圧政からの解放を勝ち取った歓喜を、都会の夏の夕立に託した作品」だ。

 
 ずっとわたしは待っていた。
 わずかに濡れた
 アスファルトの、この
 夏の匂いを。
 たくさんねがったわけではない。
 ただ、ほんのすこしの涼しさを五官にと。
 奇跡はやってきた。
 ひびわれた土くれの、
 石の叩きのかなたから。


カトリック左派の活動について、著者はこう解説している。

 
 カトリック左派の思想は、遠くは十三世紀、階級的な中世の教会制度に刷新をもたらしたアッシジのフランシスコなどに起源がもとめられるが、二十世紀におけるそれは、フランス革命以来、あらゆる社会制度の進展に背をむけて、かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする運動として、第二次世界大戦後のフランスで最高潮に達した。
 一九三〇年代に起こった、聖と俗の垣根をとりはらおうとする「あたらしい神学」が、多くの哲学者や神学者、そして、 モリアック ベルナノスのような作家や、失意のキリストを描いて、宗教画に転機をもたらした ルオーなどを生んだが、一方、この神学を一種のイデオロギーとして社会的な運動にまで進展させたのが、 エマニュエル・ムニエだった。一九五〇年代の初頭、パリ大学を中心に活躍したカトリック学生のあいだに、熱病のようにひろまっていった。教会の内部における、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索が、彼らを活動に駆りたてていた。


 しかし、聖心女子大時代にカトリック学生運動に属して反 破防法運動などをしたこともある須賀にとって、パリ留学中にふれたカトリック左派活動は「純粋を重んじて頭脳的つめたさをまぬがれない」感じがして肌に合わなかった。

そして、パリから一時帰国した際に、イタリアのコルシア書店の活動を知り「フランスの左派にくらべて、ずっとと人間的にみえて」引かれていく。再びローマ留学のチャンスをつかみ、ダヴィッド神父にローマやロンドンで何度か会った須賀は、コルシア書店の激流の中に、運命に導かれるように飛び込んでいく。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニヤの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ秘密だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のバスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダゲイデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。フアンファーニが、ネンニらと、政治談義に花が咲かせる。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


コルシア書店での交流を通じて、須賀敦子の活動は大きく花開いていく。 ミニコミ誌「どんぐりのたわごと」を前回のブログでも出てきたガッティに教わりながら編集、日本の知人に送り始め、後に急死した夫のペッピーノを介してイタリアの詩人や文学者の作品を深く知り、日本の小説などの翻訳もするようになる。
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しかし、コルシア書店のこんな急進的な活動を「教会当局が黙認するはずがなかった」

 一九五〇年から七〇年代までのはぼ二十年間に、こうして多くの若者が育っていったコルシア・デイ・セルヴイ書店は、ほとんど定期的に、近く教会の命令で閉鎖されるという噂におびやかされ、そのたびに友人たちは集会をひらいて、善後策を講じなければならなかった。


 
 コルシア・デイ・セルヴイ書店に、最初の具体的な危機がおとずれたのは、一九五八年の春だった。ダヴイデとカミッロが、ほとんど同時に、教会当局のさしがねで、ミラノにいられなくなったのである。ダヴイデが大聖堂でインターナショナルを歌って、善男善女をまどわしたとか、カミッロが若者に資本論を読ませているとか、理由はいろいろ取り沙汰されたけれど、実際には、彼らリーダーを書店から遠ざけることによって、書店の「危険な」活動に水をさそうというわが教会の意図であったことは、だれの目にもあきらかだった。


  その後コルシア書店は、政治活動を辞めるか、移転かの2者選択を教会当局から迫られて都心に移転したが、後に経営不振で人手に渡った。
  サン・カルロ教会の軒先を借りていたコルシア書店の跡は、ある修道会が運営するサン・カルロ書店になっている。
 今でも人気が絶えないダヴィッド神父の作品を並べたコーナーがあるという。

 前回のブログでも引用した「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著)によると、1992年2月に死去したダヴィッドの葬儀は、サン・カルロ教会で行われ、多くの 枢機卿が参列した。当時、ミラノの統括していたマルティーニ枢機卿は「ローマ教会は(ダヴィッド・)トウロルド神父を誤解しており、生前、大変な苦渋を味わわせた。彼に赦しを乞いたい」と語った。

 コルシカ書店が、聖と俗の垣根を払う活動を始めた同じ時期に、教皇 ヨハネス23世が提唱した 第2バチカン公会議が始まり、 信徒使徒職などカトリック教会の大改革が着手された。

 「須賀敦子全集・第1巻」の別冊に、当時82歳になっていたカミッロ神父のインタビューが載っている。神父は、こう答えている。「コルシア・ディ・セルヴィは、ある意味で第二ヴァティカン公会議を先取りしていたものといえます」

 この本の「あとがき」で、著者は記している。

 
 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐつて、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しょうとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、 人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。  若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私た ちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったよ うに思う。


 須賀敦子は夫が死去して帰国して2年後、42歳の時、東京・練馬区に、貧者のために廃品回収などをする「 エマウスの家」を設立、責任者となった。いつもGパン姿で、自ら小型トラックを運転することもあった、という。

2015年1月13日

読書日記「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子著、白水社刊)


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 著者の本は、これまで何度か手にしたことがある。しかし、そのたびに自分の知的水準がその内容についていけず"途中下車"していた。

 昨年末、ふとしたきっかけで、表題の処女作エッセイ初め4冊の新書、文庫本を買って、少しずつのめり込んでいった。

著者は、聖心女子大を卒業、パリ留学を経てイタリアに渡り、日本文学をイタリア語に翻訳する仕事をしていたものの、イタリア人の最愛の夫に死に別れて42歳で帰国、いくつかの大学で教えた。

 この作品を書いたのは、なんと61歳の時。その後ほとばしるように創作の道を突き進み、 69歳で急死した後には、全8巻〈別巻1〉の 「須賀敦子全集」(河出書房新社)が残された。

 須賀敦子は、13年に及んだイタリア生活のほとんどをミラノで過ごした。勉学と仕事の場であった コルシア・ディ・セルヴィ書店と自宅のアパートを市電で通う毎日だった。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の渡さを透かして見るのだった。


 霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のよぅな、堀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。


 
 ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている。


 著者は、様々な人とのつながりを広げていくなかで、イタリアの上流社会をかいま見ることもあった。

カミッラ・チェデルナは、ミラノのモードや上流社会のゴシップを軽妙な都会的タッチで描いてみせることで有名な評論家、だという。

 イタリアではチュデルナの名を聞いただけで、またあのゴシップ好きが、と顔をしかめるむきも少なくないのであるが、私たち外国人にとって、彼女はなかなか貴重な存在である。それは彼女がふつう「よそもの」には扉を閉ざしている世界、歴史や社会学の本には書いてないヨーロッパ社会のひとつの面について教えてくれるからである。この閉ざされた社会、すなわち、目に見えぬところでヨーロッパを動かしている、いや、動かすとまでは行かぬまでも、そこにずっしりと存在している社会、とくに貴族たちについて、もっと正確に言えば、この特殊な「種族」が社会の一隅でひそやかに発散しつづける、そこはかとない匂いのようなものについて、彼女は教えてくれるからである。


 ミラノに来て2年目に、コルシア・ディ・セルヴィ書店の仕事仲間であるペッピーノと結婚することになり、結婚指輪を買うためにある店を紹介される。

 実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。


 著者は、コルシア・ディ・セルヴィ書店でガッティというちょっと風変わりな男性と知り合い、長い友情を続けることになる。

 ガッティは、あの忍耐ぶかい、ゆっくりした語調で、原稿の校正の手順や、レイアウトのこつを教えてくれることもあった。すこしふやけたような、あおじろい、指先の平べったいガッティの手が、編集用の黒い金属のものさしで行間の寸法を計ったり、紙の角を折ったりするのを、私は吸いこまれるように眺めていた。全体のじじむさい感じとは対照的に、よく手入れされた神経質な手だった。


 (夫ペッピーノが急死して4年後)日本に引きあげることになったある日、私はガッティの家をなにかの用で訪ねた。まだ翻訳やら、書評やらの仕事が残っていて、私は夜もろくろく寝ていない日が多かった。ガッティはなにやら、校正のような仕事をしていたので、私は区切りのよいところまで待つあいだ、ソファで新聞を読んでいた。そのうち、まったく不覚にも、私は眠りこんでしまった。いったい、どれくらい寝たのだろうか。ふと気がつくと、ガソティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。


 何年か後著者は、アルツハイマー症になってミラノ郊外の老人ホームに入っているガッティを訪ねた。

 まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンをロに運びはじめた。
 幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。


 須賀敦子のミラノでの足跡を訪ねた「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著、河出書房新社)という本には「ガッティはアツコのことが好きで、・・・(想像だが)アツコがミラノにずっといれば、ガッティはあんなふうにならずにすんだかもしれない」というコルシア書店時代の若い友人、ピッチョリの言葉が載っている。
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 「ミラノ 霧の風景」には、ジャコモ・レオパルディジョバンニ・パスコリエリオ・ヴィットリーニカルロ・ゴルドーニウンベルト・サバ など、浅学菲才が初めて知ったイタリアの詩人、作家についての記述がちりばめられており、著者の知的水準の高さをうかがうことができる。

 サバについては、著者自身が日本語に訳して出版しており「あとがき」の最初のその1節が引用されている。

 死んでしまったもの、失われた痛みの、
 ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。


 そして、こう続ける。

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。




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