読書日記「新しい須賀敦子」(編者・湯川豊、著者・江國香織、松家仁之、湯川豊 集英社刊)
そろって、 須賀敦子マニアである作家の 江國香織、元文藝春秋編集者で文芸評論家の湯川豊、元新潮社編集者で作家の 松家仁之が描き出す「新しい」須賀敦子像。
昨年、 神奈川近代文学館で開催された 「須賀敦子の世界展」での対談、講演などで構成されているが、単純にエッセイを書く人だと思っていた須賀敦子が「実は物語を書いて」いた、しかも61歳になって処女作を出した秘密が明らかになっていく。
まず、須賀敦子が作家になろうと思ったのは、彼女自身が翻訳もしたイタリアの小説家、 ナタリア・ギンズブルグ の 「ある家族の会話」という本に出合ったことにあることが分かってくる。
このブログでもふれた須賀敦子の 「トリエステの坂道」を読み返してみると、「ある家族の会話」を渡してくれたのは、ミラノの書店に勤めていたイタリア人の夫、ペピーノだった。
しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だと思った。
はてしなく話し言葉に近い、一見、文体を無視したような、それでいて一分のすきもない見事な筆さばきだった。
そして、ナタリアは「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる」ことをしていたのだと「すっとほどける」ように気が付く。
そして、ナタリアは「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる」ことをしていたのだと「すっとほどける」ように気が付く。
こうして、『ある家族の会話』は、いつかは自分も書けるようになる日への指標として、遠いところにかがやきつづけることになった。
夫の死後、ミラノから東京に引き上げていた須賀は、思いがけない縁でナタリアに会う機会に恵まれる。ただ、その後、ナタリアは病を得て亡くなる。
書くという私にとって息をするのとおなじくらいの大切なことを、作品を通して教えてくれた、かけがえのない師でもあったナタリアへの哀惜に、雨降りの歩道で、私は身も心もしぼむ思いだった。
「コルシア書店の仲間たち」でも、須賀敦子は「ある家族の会話」に脱帽したいきさつを、友人に語っている。
自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら、私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。
「ある家族の会話」の「まえがき」で、ナタリアはこう切り出している。
この本に出てくる場所、出来事、人物はすべて現実に存在したものである。架空のものはまったく、ない。そして、たまたま小説家としての昔からの習慣で私自身の空想を加えてしまうことはあっても、その箇所はたちまちけずりとらずにはいられなかった。
よく日本の小説のあとがきなどで「この小説はフィクションであり、現実の登場人物は存在しません」といった文章にお目にかかる。
しかし、ナタリアは現存する人物にあくまでこだわりながら虚構(フィクション)化をする文体を完成させた。
その作者に対し「羨望と感嘆のいりまじった一種の焦燥感をさえおぼえた」(「ある家族の会話」訳者あとがき)須賀は、ミラノから帰国した約20年後、61歳になってやっと、処女作「ミラノ 霧の風景」を刊行する。
自分の文体を作り出すのに、それだけの時間がかかったのだ。
湯川との対談のなかで江國は、こう話している。
事実を伝えるために、事実を書くためにノンフィクションではなくフィクションにする。・・・そういう強い確信がナタリア・ギンズブルグにはあったと思いますし、その確信は須賀さんもあったに違いないと思うんです。須賀さんはエッセイを書かれたわけだけれども、それを伝えるには物語にしなければならないという確信はきっとおありになっただろうと思います。
湯川は、須賀の文体(文章のスタイル)は「うねるような、呼吸を感じられる、論理的でありながら角ばったところのない」と分析する。
松家は「ミラノ 霧の風景」について「あのような物語性のある人生を、ながらく時間が経過するのを待って書かれたこと。成熟した文体なのに、新鮮であること。文学というのは、確かにこういうものだと、しばらく忘れていたことを思い出させる本でした」と語る。
「停留所まで迎えにいったのに、気づかない様子で背広のえりを立てていってしまう夫・ペピーノ」(トリエステの坂道)、「訪ねて行って眠り込んでしまった著者を、困ったような顔で見つめていた友人のガッティ」(ミラノ 霧の風景)、「夫の死後に訪ねたしゅうとめの小さな菜園で、心を通わせる2人」(トリエステの坂道)・・・。
これらの描写はすべて、須賀敦子が作り出した「読むように書く」文体で繰り出される「物語」(虚構)だったのだ。
しかし須賀は「エッセイという枠を外して自由に小説の構想なり構造をつくらないと、表現できないものがあることを発見〉〈湯川〉していた。
そして親しい知人に「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなもんだから」と打ち明けていた。
「アルザスの曲がりくねった道」と名付けられたこの小説は、フランス生まれの修道女を主人公。信仰がテーマだったようだ。
しかし、未定稿30枚を残して、須賀敦子は病に倒れた。享年69歳だった。