ヴィールスアーカイブ: Masablog

2020年5月27日

読書日記「首都感染」(高嶋哲夫著、講談社文庫)

「クルーズ船、ダイアモンド・プリンセス号で起こったのと同じことが、東京都下で起こるんだ」
 友人I・K君が電話して来て、読んだばかりの小説「首都感染」を紹介してくれた。
 読んだというより、聴いたというのが正しいのだろう。彼は熟年になってほとんど視力を失った。その後、努力を重ねて本を音訳するアプリに習熟し、フェースブックには逆に話したことを文章にして連日のように発信している。

 さっそくAMAZONに注文したが、注文が殺到しているらしく届くまで1ヶ月かかった。
 10年前に、神戸在住の小説家が書いたフイクションだが、最近の新型コロナ騒ぎを"予言"したような作品。2000部の増刷が決まったという。

 20××年6月。中国は開催されたサッカー・ワールドカップで沸いていた。しかし、首都・北京から遠く離れた雲南省で致死率60%の強毒性のインフルエンザが発生した。ワールドカップをどうしても成功させたい中国当局は、発生源の封じ込めと情報の海外漏洩を防ぐ強硬手段に出た。

 瀬戸崎優司は、WHO(世界保健機構)のメディカル・オフイサーを務めた後、東京・四谷の私立病院に勤める感染症専門医。瀬戸崎総理は父親、厚生大臣で医師の高城は別れた妻の父親という設定だ。

 中国軍と保健省が雲南省に移動していることをつかんだ日本政府は、対策本部を立ち上げ、優司を専門家として招聘した。

 ベスト4をかけた試合で日本チームは中国に負けた。大勢のサポーターがチャーター機で帰ってくる。優司は、国内すべての国際空港閉鎖を進言した。中国への宣戦布告にも近く、世界中から非難が殺到した。帰国者のホテルでの5日間拘束なども決まった。

 当事国中国が「謎の感染症」という言葉でやっと発生を伝えた。WHOは「H5N1強毒性新型インフルエンザ」という言葉を初めて使った。
 厚生省に、新型インフルエンザ対策センターが設置され、優司がセンター長に任命された。

 
「不特定多数の人が集まる所には行かないでください。不要不急の外出を避けることがいちばんです。対人関係をしっかり保つことです。飛沫は1メートルから2メートル以内に飛びます。手洗い、うがいを徹底すること。マスクは、他人のためにあるのです」
 「要は、家にじっと閉じこもっていればいい」


 感染者が出てしまった。ホテルで拘束していたワールドカップツアー客の女性だった。

 国内線飛行機、新幹線、長距離バス、トラックの運行を停止、空港だけでなく港湾も閉鎖した。閉鎖した学校の校舎を病室にした。

   外交特権で、検疫を逃れた中国大使館員と家族が感染、中国渡航歴のない夫婦が感染したマンションを中心に半径50メートルを封鎖したが、数日後には都内に広まった。「針の穴が開いてしまった」。優司は、総理に進言した。

 
「東京封鎖しかありません」
 「東京以外の地域が感染をまぬがれれば、その地域が東京を支えることが出来ます」


 大もめにもめた閣議、国会審議を経て、環状8号線に沿った道路30キロに有刺鉄線が張られ、橋には巨大なコンクリート製の車止めが置かれた。横浜の娘夫妻宅を訪ねていた都知事は都内に戻れず、逆に都民700万人が閉じ込められた。

   泳いで逃れる人を監視するため、荒川沿いに自衛隊員が約10メートルおきに立ち、ある橋では、都外に出ようとした30台の男性が警官に撃たれた。逃げ出そうとした家族の車がパトカーに追われて川に転落、2人の子どもが死亡した。

 応答のない家から感染死者や餓死者が次々と発見された。都内の感染者は52万人、数十万人の死者が出たが火葬するところもない。

   依頼を受けた冷凍会社の社長が、10万を超える遺体を収容する冷凍倉庫と冷凍船の手配をした。
 在庫していた冷凍マグロは、都民に配られた。

 WHOの発表で、世界の感染者は20億人を超え、7億人が死亡した。日本の感染者、死者の少なさが異例であることが世界に流れた。
 中国、ベトナムなど東南アジアの国々から多数の難民船が日本に航行してきた。引き返すように強い警告を出し、発砲による死傷者が出た。

 横浜と千葉に全国から医師と看護婦が集まってきた。封鎖エリアに入る許可を求めてきた。
 受け入れの説明後、最終確認で約2割の医師と看護婦が抜けていた。

治療に使われていた抗インフルエンザ薬タミフルの乱用が耐性ウイルスを生み出した。使える薬がない・・・。

 東都大学のウイルス研究所にいた優司の友人の医師・黒木が新しいパンデミックワクチンを開発した。普通なら、薬の認可には数年かかる。黒木も優司も被験者になった。このワクチンを世界で製造することが、WTOのテレビ会議で決まった。

 東京・杉並にある医薬研究所にある研究員が、100人分の「M―128」という抗インフルエンザ薬を持ち込んだ。重症患者に劇的に効いた。大量生産が決まった。

 東京の感染者が減っていった。3ヶ月19日ぶりに、封鎖ラインが撤去された。

 巻末の解説で、書評サイトHONZ代表の成毛眞がこんなことを書いている。

 
「著者の作品は、これから起こる未来の記録、未来の歴史です」


2020年5月22日

読書日記「グレート・インフルエンザ」(ジョン・バリー著、平澤正夫訳、共同通信社刊)

 新型コロナ蔓延で休館になる前の図書館で、エゴン・シーレの本を見つけたが、風邪を引いた奥さんを看病していて28歳で死亡したと書かれていた。第一次世界大戦の最中に世界中で流行したスペイン風邪が原因だった。

 この本は、アメリカ発のスペイン風邪について、「巨大な攻撃に社会がどう反応し、対応したか」を、科学史家の眼で詳細にルポしたもの。約540ページの大作だ。

 「はじめに」では、「この世界的流行病による死者は、人口がいまの三分の一足らずだった世界で、2100万人に達したと言われている」「だが、いまのの疫学者は世界全体で、死者は少なくとも5000万人、おそらく1億人に達していたかもしれない」と、推測している。
 死者の多くは、2、30代の若者で「死者の数の上限をとれば、当時生きていた若者の8~10パーセントがウイルスによって殺された」

 1918年の初頭、アメリカ西部カンザス州で新型インフルエンザウイルスが発生、それがまたたく間に約500キロ離れた陸軍基地に感染、米国の第一次世界大戦参戦にともなって世界中に広まった。

 当時の米国大統領・ ウイルソンは、厭戦感のただよう国民を鼓舞し、挙国一途の戦争に向かわせた。「脅しと自発的な協力ふたつながらの手段を駆使して、政府が情報の流れを統制」していった。

 中立国であるスペインでしか、新聞が他国の病気の流行を報道することがなかった。まもなく病気は「スペインインフルエンザ」「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。

 やがて第1波が収まり「病気は消えた」。しかし「ウイルスは消えたわけではなかった」「山火事は木の根本で燃え続け、寄り集まって姿を変え、適応し、爪をとぎ、虎視眈々と、炎となって燃え上がる機会を待ちに待っていた」

 第2波は「ポットに入れた水が沸騰するようにまず一粒の気泡が浮かび上がり、やがて湯が踊って、乱暴に渦巻く混沌状態になる」ように、じわじわと訪れた。第1波と異なり、多くの死者が出た。

 ボストンの北西にあるキャプテン・ディベンズ陸軍基地で「インフルエンザが、まるで爆発したように大発生した」
 「死体は床の上に勝手気ままに放り出され、検死解剖をおこなう部屋に入るには、またいで歩かなければならなかった」

 そのボストンからフィラデルフィア海軍工廠に300人の水兵が到着した4日後、19人の水兵がインフルエンザになった。
 やがて、死体が「遺体安置所の床から天井まで薪のように積み上げられた」状態になった。

 戦費をかせぐ自由国債のキャンペーンで、フラデルフイアでは市はじまって以来最大のパレードが実施された。2日後、インフルエンザは一般市民に蔓延した。
 葬儀屋が病気で倒れ、遺体を置く場所さえなかった。死体の山が積み上げられていった。街は凍りつき、インフルエンザは全国に飛び火した。

 軍はそれでも、輸送船で兵士を次々とヨーロッパへ輸送した。
 潜水艦の攻撃を恐れて夜は舷窓が閉められ、日中もドアは閉められ、換気は追いつかなかった。食べなければならない兵士たちはグループごとに食堂に行き、「同じ空気を吸い、自分の口に当てる手でほかの兵士が数分前に触ったテーブルやドアに触れた」
 「輸送船は浮かぶ棺桶と化した」
 あと1ヶ月で戦争は終ろうとしていた。ドイツの同盟国はすでに崩壊するか降伏していたが、「軍はひたすら兵員輸送船を海外に送り続けた」

 しかし、政府は真実を語ろうとしなかった。新聞も「恐れてはいけない」としか伝えなかった。「だが、みんながみんな神を信じようとしていたわけではなかった」

 ある医師は、病原菌が粘膜に付着しないようにと、刺激性の粉末薬品を上気道に吹きつけた。別の医師は静脈から過酸化水素を注入した。13人は回復したが、12人が死亡した。

 世界中で数億人(米国だけでも数千人)が医師の診療や看護婦の看護を受けられず、ありとあらゆる想像のつく限りの民間療法や詐欺的治療が試みられた。「樟脳の玉やニンニクが首の周りにぶら下げられた。・・・「窓を密閉して部屋を過剰に暖めたりした」

 「アラスカのイヌイット(エスキモー)が絶滅してしまう」と、赤十字社が警告した。救助遠征隊が到着した時は、すでに遅かった。
 「バラバラ」と呼ばれる半地下式の円形住宅に入ると、棚や床の上に大人の男女、子どもの死体が山のように横たわり、手がつけられないほど腐敗していた。・・・「飢えた犬が多数の小屋に入り込み、死体をがつがつと食べていた」

 アフリカのガンビアでは、300ないし400世帯の村全体が絶滅し、「2ヶ月もしないうちにジャングルが忍び込んで、すべての集落は跡形もなくなった」

 南米アルゼンチンのブエノスアイレスでは、人口の約55パーセントがウイルスの感染、「日本でも3分の1の人口が感染」「グアムでは人口の10パーセントが死亡した」

 1919年1月、パリ講話会議が開かれた。アメリカ大統領・ウイルソンは、フランスの首相・クレマンソーと激しく対立、ウイルソンはフランスを「畜生」呼ばわりしていた。
 しかし、ウイルソンはスペイン風邪で病床から動けなくなった。復帰したら異変が起きた。
 クレマンソーの要求をそのまま飲み、ドイツが開戦の責任のすべてを負うという文書に署名した。ドイツには致命的な内容だった。
 そのことが、「アドルフ・ヒトラーの出現を促した」

 「病気ではなく、不安が社会をばらばらにしそうであった」「あと何週か続いていたら、文明が消えかねなかった」

  著者は、「あとがき」をこう結んでいる。

 

2020年4月23日

読書日記「ペスト」(アルベール・カミュー著、宮崎峰雄訳、新潮文庫)

     2月の末に、このが話題になっているのを知り、AMAZONに注文したが、注文が殺到しているのか、さっぱり届かない。
 それを知った友人が倉庫の段ボール箱から探し出し、貸してくれた。「昭和63年7月、38刷」とある。活字が小さく、読むのに苦労した。

 194※年4月16日の朝、フランスの植民地であるアルジェリアの港町、オランに住む医師ベルナール・リューは、診療室から出ようとして階段で1匹の鼠の死骸につまずいた。・・・新聞は、約8千匹の鼠が収集されたと、報じた。

 具合が悪くなった門番のミッシェル老人を診にいくと、老人は苦しそうだった。

 
半ば寝台の外に乗り出して、片手を腹に、もう一方の手を首のまわりに当て、ひどくしゃくりあげながら、薔薇色がかかった液汁を汚物溜めのなかに吐いていた。・・・熱は三十九度五分で、頸部のリンパ腺と四肢が腫脹し、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。


 救急車の中で、老人は死んだ。やがて、街には死人があふれ出した。20年ほど前に本国のパリを襲い、黒死病と恐れられたペストの来襲だった。県には、血清の手持ちがない。当局の公布で、市の門が閉じられ、オランの街は封鎖された。

 
(電車の)すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向け合って、互いに伝染を避けようとしているのである。停留所で、電車が積んできた一団の男女を吐き出すと、彼らは、遠ざかり一人になろうとして大急ぎのていである。煩雑に、ただ不機嫌なだけに原因する喧嘩が起こり、この不機嫌は慢性的なものになってきた。


 街の中央聖堂の説教台にバヌルー神父が上がった。

 
「皆さん、あなたがたは禍のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのです。・・・今日、ペストがあなたがたにかかわりをもつようになったとすれば、それはすなわち反省すべきときが来たということであります」
 「あなたがたは、日曜日に神の御もとを訪れさえすればあとの日は自由だと思っていた。二、三度跪座(きざ)しておけば罪深い無関心が十分償われると思っていた。しかし、神はなまぬるいかたではないのであります」


 しかし、その後バヌルー神父は大きく変わる。「最初ペストに神の懲罰を見、人々の悔悛を説いていた彼は、救護活動に献身し、『少なくとも罪のない者』だった少年の死を目撃して、(あの説教)が『慈悲の心なく考えかつ言われた』言葉であったこと」を反省する。

 やがて、その神父も「寝台から半ば身を乗りだして死んでいる」のが発見される。

 鼠が再び姿を現し始めた。「統計は疫病の衰退を明らかにしていた」

  

だが、ペストが遠ざかり、最初音もなく出てきた、どことも知れぬ巣穴にまたもどろうとしているようにしているように見えたとき、市中で少なくとも誰かだけは、この引揚げ開始によって愕然たる思いに突き落とされていた。

 「この町のなかで、一向憔悴した様子も気落ちした様子もなく、さながら満足の権化という姿を保っている」犯罪者、コタールだった。

 市の門がついに開き、大通りは踊る人々であふれた。祝賀騒ぎをしている群衆に向かって、コタールは突然、自分の部屋から発砲して何人も傷つけ、警官に捕まった。

 医師のリューは、この歓喜する群衆の知らないことを知っていた。

 
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴蔵やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来る日が来るであろうということを。


 今月の中旬、NHKの「100分de名著」という番組でこの「ペスト」が再放送されていた。

「ペストとは、人を殺すこと。書いた背景には、ナチスのユダヤ大虐殺があった」と、出席者はカミューの不条理の世界を解説していた。

   再放送の直後に、AMAZONから新潮文庫「ペスト」の増刷版がやっと届いた。この文庫本の累計発行部数は104万部に達したという。

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