読書日記「アバノの再会」(曽野綾子著、朝日新聞社刊)
この本を読書仲間・Mに薦められ、図書館で借りた時は「エッ!曽野綾子って、小説も書くの」と、恥ずかしながらちょっと意外な感じがした。
エッセイはいくつか読んだ覚えはあったし、好き嫌いは別にして、雑誌などで見る横紙破りの発言が目立っていたから。
ところが、本棚を探していたら、作者の小説が文庫本でいくつも出てきた。「太郎物語」 「生命ある限り」「リオ・グランデ」。いい加減な読み方をしているなあ・・・。
「アバノの再会」の読後感は「なにか、すがすがしい恋愛小説を、久しぶりに楽しんだ」という感じ。
妻を亡くした元大学教授の戸張友衛が、北イタリアの温泉保養地・アバノで、昔家庭教師をしていた山部響子と再会。古都パドヴァなどを訪ねながら、32年前の忘れない清い恋を蘇らせる。
二人が交わす知的な会話、とくに響子の話しがいい。切なく、心細げながら、人生をしっかりつかまえてきた様子が、浮き彫りになっていく。
「私はあんなに懐かしげに心を込めて、見切りもつけず、動きもせずに、遠ざかる人を見送ってくれた人を見たことがないの」
「君はよく幸せって言うね」「ええ、見つけるの、うまいのよ」
「一人の人の行く方向をじっと見ているの、おもしろいものでしょう?マーケットのレジで、私の前に並んだ人が、何を買うのかを見ているのと同じくらい好き」
「私、虹はいつでも好きだわ。すぐ音もなく消えるから、しつこくないでしょう?」
「自分が生きているのか、死んでいるのかが分からないような思いになったことはありませんか」
最後に当然のごとく、別れが来る。「人を深く愛するには、愛する人と遠くにいることが必要だという矛盾です」と・・・。
恋愛なんかにはまったく疎い独居老人の私見だが、この言葉はどうも気に食わない。小説の結論だから、こういう展開が必要ということだろう。
現実の作者、曽野綾子は、ご主人の三浦朱門や息子で人類学者の三浦太郎夫婦とのふれあいを中心にした日記を月刊誌に長期連載している。
随筆集「最高に笑える人生」(新潮社刊)でも、こんなことを書いている。
「旅に出ていると、私は自分の帰る家と家族がいることを、夢のように感じた。・・・帰る家に家族がいるということは、家が温かいことなのであった」
本棚からは、小説以外のエッセイなども、いくつか出てきた。
先の読書日記に書いた、アルフォン・デーケン神父との往復書簡集「旅立ちの朝に」(角川書店)では、著者はこんなことを書いている。
「あとただ残るのは、自分の気力と本当の徳の力だけという・・・そのような老年の条件のなかで、多くの人はその人なりに成長します」「ユーモアこそは人間性の円熟のあかし」
「戒老録」(祥伝社)には、こんな文章がある。
「どんな老人でも、目標を決めねばならない。生きる楽しみは、自分が発見するほかはない」「服装をくずし始めると、心の中まで、だらだらしても許されるような気になるものである」
デーケン神父の言う「第3の人生」、五木寛之の「林住期」に入って、これらの本に再会できたのも「アバノの再会」、読書仲間・Mのおかげ、と感謝したい。
追記: 「アバノの再会」の文中で、急に有馬頼義・著「赤い天使」という本が登場してくる。話しの筋からは、なぜこの本が出てくるのかが、もう一つ分からないが、気になった。芦屋の図書館を検索してもらったら「以前はありましたが、廃棄処分にしたようです」という返事。
AMAZONで探したら、新刊古本で見つかった。数日後に、東京・板橋の古本屋から届いた。河出書房新社、昭和41年発行、定価420円の本が、600円に送料340円。
帯封には「死の深淵しかない戦場で従軍看護婦が見た男たちの激しい生と空しいセックス」とある。しかし「アバノの再会」とは違うけれど、どこか同じような静謐さが流れる小説と思った。