2010年3月アーカイブ: Masablog

2010年3月26日

「熊野 桜紀行」(2010・3・20-23)


 荒れ模様の天気予報だが「熊野古道をのぞいてみようか」と、友人と出かけた小さな旅が、思いもよらず一足早い桜見物になった。

 20日(土)の午後の特急で南紀・白浜へ。普通電車に乗り換え、夕方には椿温泉に着いた。肌にまとわりつくような硫黄泉の"まったり"した温かみはくせになりそう。温泉歴はそう長くないのだが、独断で言わせてもらうと、ここのお湯は"日本一!"。それなのに、閉鎖した旅館や商店が多いのが寂しい。

 翌朝の太平洋は、強風で大荒れ。それに黄砂がひどく、海と空の見境がつかないほど灰色でおおわれ、白い波がすごみを効かせている。

 バス停前の広場にあったの桜が、この旅で出会った桜第一号。ほぼ満開に近く、若葉と一緒に咲いているから自生のヤマザクラだろうか。細い幹が絡み合って伸びており、木肌はソメイヨシノのそれとは、かなり違うように思える。

 白浜駅でバスを乗り換え、「紀伊山地の霊場と参拝道」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている熊野三山の一つ、熊野本宮大社へ。
バスを降りたところに、熊野古道の情報拠点「世界遺産 熊野本宮館」がある。地元の木材を使って、昨年オープンしたばかりだ。白木の柱と空間が、木(紀)の国らしい。

 本宮館の裏手、熊野川の土手にある一本桜の下で、白浜で買った「めはり寿司」をほおばる。この桜は、間違いなくソメイヨシノのように思えるが、もう3分から5分咲き。満開が近そうだ。

 すぐ前の国道168号線沿いの鳥居をくぐり、幟(のぼり)がはためく158の石段をゆっくり登る。
入母屋造りの本殿のすぐ右手にある「枝垂桜」はほぼ満開だ。左手の庭園のやや小ぶりの枝垂桜も8分咲きで、居並ぶ4殿を盛りたてている。

 大社の石段を降り、田んぼのなかの1本道を南に歩く。高さ33.9m、横42m、日本一という大鳥居をくぐった「大斎原(おおゆのはら)」は、桜競演の園だった。
白っぽい桜を地元の人は「吉野桜」と言い、熊野本宮観光協会に帰宅してから電話すると「ソメイヨシノのはず・・・」と。

熊野川と音無川、岩田川に囲まれたこの中州に、以前は熊野大社があったが、1889年の大洪水で、山の上に移された。
 今は、中4社、下4社を納めた2つの石祠を守る杉と桜の森に囲まれた大斎原は、なにか心がのびやかになる広々と明るい空間だ。

   さて、いよいよ熊野古道の一つ「大日越」という山道を歩いて湯の峰温泉に入る。
そのはずだったが、道を間違えた。温泉に行く車道に入ってしまい、行き交う車に驚き、強風で帽子を谷に落とし・・・。すっかり疲れはてたところに、親切にも停まってくれた地元の人の車に乗せてもらい、湯の峰王子で降ろしてもらった。

 「王子」というのは、熊野古道特有の"神社"。古道の途中に多く設けられており「九十九王子」という言葉も残っている。
 観光案内には、中世の時代、熊野参拝をする貴族が休憩をした場所という説明が多いが、帰りの列車で読むため、紀伊勝浦の本屋で買った「熊野古道」(小山靖憲著、岩波新書)には「御幣を奉ったり、読経供養したりする神仏混淆の儀式が行われたところ」と書かれている。

 湯の峰温泉は、山合いのしっとりとした温泉だった。川沿いに「つぼ湯」という、世界遺産では唯一という公衆温泉がある。貸し切りのため、待ち時間が1-3時間。替わりに、別棟の公衆温泉、熱ーい「薬の湯」へ。90度の湯がわき出す「油筒」(柵で囲った温泉井戸?)では、卵をゆで、さつま芋をふかした。

 翌日は、新宮駅行きのバスに乗り、熊野三山の二つ目「熊野速玉大社」へ。熊野本宮がくすんだ木の柱とかやぶきの屋根で歴史を感じられるのに対し、速玉神社は「熊野造り」といわれる朱と黄色に塗られた社殿が鮮やかだ。
 花火で社殿がすべて焼失したため、1953年に再建されたらしい。たまたま結婚式がおこなわれていた。鮮やかな朱塗りの柱が、白無垢と黒の衣装になじんでいる。

 鳥居前から紀伊勝浦行きのバスに乗り、那智駅で別のバスに乗り換えて、3つ目の「熊野那智大社」に向かう。

 途中の「大門坂」で、リュックをかついだ若者など、ほとんどの人が降りて行った。後で調べると、杉林を縫う石畳道が大社に通じているらしい。また「熊野古道」を歩くチャンスを逃してしまった。

 急な石段を左に行くと那智大社、右へ行くと西国33箇所第1番札所「青岸渡寺」。寺の右側から「那智大滝」を臨める。神仏習合だった熊野3山は、明治初期の神仏分離令で一緒にあった寺院は廃止されてしまったが、那智だけは小さな阿弥陀堂が残され、それが現在の青岸渡寺になった、という。

 ここの桜は、まだまだ小さい若木が多い。その下を平安時代の衣装(ひとそろい3000円とか)の若い男女が歩き、女性たちがすそをからげて石段を登ってきて、桜に花を添える。

 石段を少し降りた広場のしだれ桜の下で休憩する。
 見上げると、正面に巨大なコンクリートのお城のような建物、青岸渡寺の信徒会館らしい。寺院の茅葺の屋根が少しのぞき、石段と鳥居の上に熊野造り朱塗りの壁、その左にコンクリート造りの社務所がどんと控え、隣に鉄骨組の駐車場。

全体のイメージづくりに無頓着な、日本的世界遺産の風景である。
熊野造りの建物群のなかに溶け込んだ桜の花を夢見たのは、ただ春の幻だったのか。

強風で荒れ、黄砂がおおう熊野灘:クリックすると大きな写真になります椿バス停前のヤマザクラ:クリックすると大きな写真になります熊野川土手のソメイヨシノ:クリックすると大きな写真になります158段を登り切ると、しだれ桜が迎えてくれた:クリックすると大きな写真になります
強風で荒れ、黄砂がおおう熊野灘。釣り客もあきらめ顔だ椿バス停前のヤマザクラ。細い幹がからみあって伸びている熊野川土手のソメイヨシノ。後ろに見えるのが「熊野本宮館」158段を登り切ると、しだれ桜が迎えてくれた
入母屋造り、古色然とした熊野本宮大社:クリックすると大きな写真になります大社内庭園のしだれ桜:クリックすると大きな写真になります黄砂にけむる大鳥居:クリックすると大きな写真になります大斉原の見事なしだれ桜:クリックすると大きな写真になります
入母屋造り、古色然とした熊野本宮大社大社内庭園のしだれ桜黄砂にけむる大鳥居大斉原の見事なしだれ桜
大斉原の広場を彩る桜の競演:クリックすると大きな写真になります熊野造りの熊野速玉大社:クリックすると大きな写真になります鮮やかな朱塗り大社での結婚式:クリックすると大きな写真になります昔は、滝のそばにあったという熊野那智大社:クリックすると大きな写真になります
大斉原の広場を彩る桜の競演熊野造りの熊野速玉大社鮮やかな朱塗り大社での結婚式昔は、滝のそばにあったという熊野那智大社
平安時代の衣装の若い男女:クリックすると大きな写真になります桜に囲まれた那智大社の参道:クリックすると大きな写真になります青岸渡寺の広場から臨める那智大滝と三重塔:クリックすると大きな写真になります
平安時代の衣装の若い男女。桜の季節に合っている桜に囲まれた那智大社の参道青岸渡寺の広場から臨める那智大滝と三重塔

2010年3月16日

読書日記「インビクタス 負けざる者たち」(ジョン・カーリン著、八坂ありき訳、NHK出版)、「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」(イプセン原作、笹部博司著、メジャーリーグ刊)

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5 映画がさらによくわかる
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 最近、クリント・イーストウッド監督の映画は見逃さないようにしている。
新作の「インビクタス」も、友人のブログ「人生道場ー独人房」で取り上げていたこともあって、さっそく見に出かけた。
実話の映画化にしてはドラマチックな展開で、引き込まれる作品だった。「これだけのストーリーなら原作本があるはず」と図書館の検索ページで探し、すぐに借りることができた。

 映画は、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する運動を続けてきたネルソン・マンデラが初代黒人大統領に就任した1994年から1年間に焦点を当てている。
 一方、原作はマンデラがまだ投獄されていた1985年から南アフリカのラグビー・ナショナルチーム「スプリングボクス」が自国で開催されたワールドカップで奇跡的な優勝をとげるまでの10年間を、詳細なインタビューを重ねて描いている。

 終身刑に服して23年がたったとき、マンデラは当時の司法長官、コビー・クッツエーヲ味方にすることを決意、看守のクリント・ブラントとも親しく付き合う。独房の責任者ファン・シッテルト少佐もにこやかな笑顔で接し、ついに公邸で大臣との面会にこぎつけ、持ち前の笑顔とユーモア精神を駆使して自由への一里塚を築いていく。

 マンデラが大統領になった時は、内戦が起こってもおかしくない政情不安が続いていた。対立が続く旧勢力の白人「アフリカーナ」と国民の大多数を占める黒人との対立をなんとか避けるため、公式行事ではこれまでの国歌「ディ・ステム」と、黒人国民の非公式国歌だった「ンコシ・シケレリ」を同時に演奏することや、白人中心のラグビー・ナショナルチームの存続を必死の説得で認めさせる。

  マンデラはある時、こう語っている。
 スポーツには、世界を変える力があります。人びとを鼓舞し、団結させる力があります。・・・人種の壁を取り除くことにかけては、政府もかないません。


 そして「スプリンボクス」のキャプテン、フランソワ・ピナールを公邸でのお茶に招いて信頼関係を築き、前回のワールドカップチャンピオン、オーストラリア戦を前に練習中のチームをヘリコプターで激励に行く。
 この戦いは君たちが祖国に貢献し、国民をひとつにするまたとない機会です。


 フランス戦は豪雨に見舞われた。その日の試合が行われなければ、規定によりフランスが勝者になる。前の試合でラフプレーをし、一時退場処分を受けた選手がいたのだ。
 軍の兵士が必死で整備にとりかかると、軍のヘリコプターも応援にかけつけ上空からグラウンドに風を送った。が、その日の窮状を救ったのは、モップとバケツを手にした大勢の黒人女性だった。


 最終のニュージーランド・オールブラックス戦の開始直前、南アフリカ航空(SAA)のボーイング747機がスタジアム最上席のわずか60メートル上空に飛んできた。機体には「Go Bokke(がんばれ ボクス)」と書かれていた。市当局、民間航空局などが綿密な事前協議をし、規則の適用を一時的に停止させた結果だった。
 観客の衝撃は歓喜に変わった。


 マンデラがチームのユニホームを着て、グラウンドに立った。白人のアメリカーナが叫んでいた。「ネルソン!ネルソン!」

 この国がひとつになった一瞬だった。

 チーム全員が、相手チームの巨漢、ジョナ・ロムにタックルで襲いかかって倒した。しかし、こちらもトライができない。延長戦、ドロップキップでやっと勝てた。

 キャプテンがカップをつかむと、マンデラは自分の手をピナールの右肩に置いた。・・・「フランソワ、君がこの国にしてくれたことに、心からお礼を言います」
 ピナールはマンデラの目を見て答えた。「いえ、大統領。あなたに、あなたがこの国にしてくださったことに、心から感謝します」


   今月のはじめ「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」という芝居を見た。新劇を見るのは、何年ぶりだったろうか。

 ある雑誌の新聞広告のなかで、主演の仲代達矢が「運命の出会いをした作品に挑み、過酷な人生を生き抜く覚悟です」と書いていたのに引かれた。

 ネットに載っていた仲代の言葉を見て、さらに興味がわいた。
 舌を巻いた!あまりの面白さに!
 最初の一行を目にした。気がつくと最後の一行にいた。
 短い時間の間に、とてつもない高みにいた。
 目眩がした。体が熱かった。
 本を読んで、そう感じることなど、そうあることではない。


 図書館で探してもらったが、イプセン全集にもこの脚本は収録されていなかった。結局、演劇プロジューサー兼脚本家の笹部博司が書いた表記の本をAmazonで買った。
解説も入れて、たった160ページの薄い文庫本で、価格は400円+税。森鴎外の翻訳を参照して書かれた今回の公演の上演台本だった。

 あっという間に読めたが、その内容は?と聞かれるとウーン・・・。
巻末に載っている仲代の言葉が分かりやすい。
 裸一貫でたたき上げ、我儘に一生自分の夢を追い続けた男の物語である。
 そのことが自分自身も、周りのすべての人間をもどんどん不幸にしていく。
 でも人生を途中でやめるわけにはいかない。
追い込まれれば、追い込まれるほど、その男は、強く激しく夢を見る。
この男のように夢を見ながら死んでいければと思った。

   3月7日(日)、兵庫県立芸術文化センター・中ホールの公演を見に行った。最後列の席だったから、コンサートやオペラを見に行く時の大型双眼鏡は欠かせない。

「夢を生きる男」ジョン・ガブルエル・ボルクマンは、もちろん仲代。ガブリエルの妻で「憎しみに生きる女」グンヒルが大空真弓、グンヒルの双子の妹で、ガブリエルを愛しながら裏切られた「愛を売られた女」エルラは十朱幸代、台本には書記となっている「誰でもない男」フォルダルは米倉斉加年

 たった4人の登場人物の真摯なからみあいが小さな舞台を大きく見せる。美術(伊藤雅子)も、作品のイメージに合ってなかなかよい。

 劇場を出て、舞台を思い出しながら宙を浮くように歩く。芝居見物の醍醐味だろう。

2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

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浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


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