2014年1月アーカイブ: Masablog

2014年1月20日

読書日記「ナツエラツトの男」(山浦玄嗣著、ぷねうま舎刊)、「『ユダ福音書』の謎を解く」(エレーヌ・ペイゲルス、カレン・L・キング著、山形孝夫、新免貢訳、河出書房新社刊)、 「駆け込み訴え」(太宰治作、岩波文庫)

ナツェラットの男
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山浦 玄嗣
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『ユダ福音書』の謎を解く
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駈込み訴え
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(2012-09-27)

  「ナツエラツトの男」(2013年7月刊)を読んだのは昨年の秋。どうも気になる本で、長い間書斎机の上に置かれたままになっていた。

  著者は、このブログでもふれたことがある 「イエスの言葉 ケセン語訳」などを書いた岩手県大船渡市在住の医師。

  独学でギリシャ語を学び新約聖書4福音書の新訳 「ガリラヤのイエシュ」を世に出した著者が書いた新著のテーマはなにかと思ったら、なんとイエス・キリストと12使徒をめぐる物語。「ナツエラツト」は、イエスが育った 「ナザレ」のヘブライ語だった。

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 その時代にふさわしく、イエスと12使徒がいささか誇張して荒くれだった人たちに描かれているが、驚いたのは12使徒の1人だった ユダについての記述。新約聖書などで書かれている銀貨30枚でイエスを祭司長らに売った裏切り者とはまったく違う姿で登場してくることだ。

 ユダは、粗野な他の弟子たちとは一味違って礼節と教養があり、寄進を受けたお金や物品の管理をイエスからまかされる抜きんでた存在だった。こみいった話になると、イエスはケフア(ペトロ)などには目もくれず、小声で何事かを言いつけていた。

 ペトロたち、他の弟子はそれが気に入らない。なにかと、ユダにけんかを売ることも多かった。

 福音4書にでてくるあの有名な最後の晩餐のシーンは、ユダの独白で綴られる。

  
 師匠(イエス)はふと真顔になって、誰に言うこともなく、ぼそりとつぶやいた。
  「しっかと言っておく。お前たちのうちの誰かがおれを引き渡すことになる」
  われわれは思わず息を呑んだ。・・・
  ヨハンナ(ヨハネ)は・・・イエッシュさまに尋ねた。「師匠、それは誰のことなんですか?」
  イエシュさまはかすかに苦笑いして言った。
  「ああ、おれがこのパンを皿鉢の汁に浸して渡すのがそれだな」・・・


 
 イエッシュさまがわたしにパンを渡し、わたしが軽く押しいただいて嬉しく口にする。するとイエッシュさまが小声で言う。
  「ユダ、やらなければならないことをすませてくれ」
 師匠は特にそれ以外は言わなかったが、わたしにはその内容がよくわかっていた。
  「わかりました」
  わたしはニッコリ笑って会釈し、そのまま席を立って外に出た。


 ユダは、イエルウシャライム(エルサレム)でも指折りの大商人の軒先で家令からズシリと重い財布と食糧の入った大きな袋の寄進を受け取った。その後、穢れ谷に行き、隠れ住む腐れ病( ハンセン病?)の人たちに食糧を「イエッシュさまからの贈り物」だと渡した。

 イエッシュと弟子たちのところを帰り、イエッシュの耳元に「万事、お言いつけの通りにしました」と、小声でささやいた。

 そこへ大勢の武装兵と大祭司の手の者が現れた。「裏切ったな、ユダ」。ペトロが鬼のような形相で叫んだ。イエスは捕えられ、弟子たちはてんでに逃げた。

 翌日の夜。1軒のあばら家に弟子たちが集まっていた。「悪いのはユダだ。あいつが裏切ったんだ」「野郎がやってきたちょうどそのとき、大祭司の手下がきた。あまりにでき過ぎている。あいつが手引きしたんだ」・・・。ユダは、その家の壊れかけている窓の板戸に向けて、銀貨30枚が入った財布を投げつけた。そして、姿を消した。

 14年後、ユダはすっかり白髪になっていた。ずっと穢れ谷に住み、腐れ病の人たちの世話をして暮らしてきた。
 ある時、最後まで神さまの悪口を言い続けていた1人の老人が死ぬ間際、ユダに一言「ありがとう」と言った。その老人の顔が不意にイエスの顔になったのを思い出ていた。

 4福音書の新約「ガリラヤのイエシュ」では、ユダの裏切りを正確に翻訳した山浦医師が、まったく違ったユダ像を描いた意図はなになのか。

 さきに、このブログでふれた 「最後の晩餐の真実」で明らかにされたように、キリストの磔刑が神の啓示による歴史的事実とすれば、ユダの裏切りという行為は、はたして必要だったのか。

 そんな疑問が消えなかった折。朝日新聞の読書欄(1月12日付け)で『ユダ福音書』の謎を解く」(2013年10月刊)という本が紹介されていた。伊丹市立図書館ですぐに借りることができた。

  「ユダ福音書」はユダの死後訳100年後に書かれたが、初期キリスト教会から異端の書として排斥された。1978年に偶然、エジプトの洞窟の中から写本が発見され、長い曲折を経て、2006年に非常に傷んでいた写本の復元がなんとか完成し、 「原典 ユダの福音書」(ロドルフ・カッセルら編、日経ナショナル・グラフイイク社刊)という名で発刊された。

原典 ユダの福音書
原典 ユダの福音書
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  「『ユダ福音書』の謎を解く」は、米国の宗教研究者でプリンストン大学教授のエレーヌ・ペイゲルスとハーヴァード大学教授のカレン・L・キングが「ユダ福音書」に書かれた内容からユダの実像に迫る第一部「ユダを読む」と、カレン・L・キングが新たに訳したらしい 「ユダ福音書」と長い注釈から成る第二部「ユダ福音書」で構成されており、複雑かつ難解な内容だ。

  第一、第二部からユダに関する記述を拾っていくことが精いっぱいだった。

 
 イエスはユダを選んだ。そして「ほかの者から離れなさい。そうすれば、お前に王国がどこにあるか、その秘密を話そう。・・・だが、あなたは悲しみにくれる者になるでしょう」(『ユダ福音書2章25-28節』)と告げた。それを聞いて、ユダは、・・・不吉な夢についてイエスに語った。「私は幻のなかであの12人(11人?)の弟子が私に石を投げつけ、[私を激しく]虐げるのをみたのです」(同9章6-8節)と。ユダの夢は、仲間の弟子たちがやがて彼に向ける憎悪と罵りの警告であったから、・・・


 
 新約聖書のすべての福音書がユダの裏切りを神の意志であったとみなしているということがひとたびわかりさえすれば、『ユダ福音書』が述べているようにユダがイエスの指示にしたがってイエスを引き渡したと考えることはそれほど奇妙ではないように思われる。


  
 『ユダ福音書』の終末は、惨めすぎる不幸でもって終わっているように見える。イエスは裏切られ、ユダは仲間の弟子たちから投石され、殺害される。だが、・・・すでに両者の救いは成就されている。イエスの犠牲は、わたしたちの中に根本的な霊性本性を認める限り、死自体の終結を知らせている。ユダは上方へ目を凝らし、輝かしい雲のなかへと入って行きつつ、イエスに倣う者たちの、まさにその初穂になる。


    太宰治 「駆け込み訴え」は、WEBでユダのことを検索していて知り、「富嶽百景」などと一緒に載っている文庫本をAMAZONで買った。
   青空文庫」でも無料で読めた。

  ここで登場するユダは、イエスを誰よりも愛し、かつ憎悪する非常に人間的人物として描かれる。

 
 申し上げます。申し上げます。だんなさま。あの人(イエス)はひどい。ひどい。はい。いやなやつです。悪い人です。ああ。がまんならない。生かしておけねえ。


 
 私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき従ってきたのに、・・・あの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。


 
 金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。




2014年1月 8日

読書日記「冬虫夏草」(梨木果歩著、新潮社刊)

冬虫夏草
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 この年末、年始を読書三昧で暮らそうと、昨年末にかなりの本を買い込んだり、図書館で借りたりした。しかし、そのほとんどは本棚に収まったり、図書館に返されたりして、読み終えたのはほんの数冊。表題書はその1冊だ。

 自分のブログを検索してみたら、梨木果歩の著書、訳書のことを書くのは,今回でなんと6冊目。たぶん同じ著者では最多だろう。児童書、ファンタジーに分類されることが多い著書に、前期高齢者のじじいが飛びつくのもいかなるものかという気がしないでもないが、この人の名前を見ると読みたくなるのだからいかんともしがたい。

 表題書は、2004年に発売されて2005年の本屋大賞3位に入った家守綺譚 (新潮文庫)の続編。

 各章に木々や草花の名前がつけられているという構成も、綿貫征四郎という物書きが、行方不明になった友人・高堂の父親に頼まれた庭付き、池付きの一軒家に住み、自然界の「気」と交流するという筋書きも、約100年前の話しだという時代設定も引き継がれている。

 読んでいて、なんとなくホッとするのは、本のあちこちに出てくる植物についての記述だ。出てくる草花のほとんどを自宅に植えているという著者の真骨頂だろう。

 
 まだ赤茶が障った、芽吹いたばかりのの新芽が、午前の陽の光につやつやと光っている。
 思わず摘みとって口に入れたくなる。だがそう思うだけで摘みとりもしないし、口に入れもしない。入れたら苦いだろう。その苦さがいやだというのではない。春の雅趣があるだろう。が、察するだけで、今は充分だ。


 
 翌朝は打って変わって、雲一つ無い晴天。庭に出ると、ぽつぽつと、あちこちに薄青の、雨の名残のような滴が残っている、と見れば、それは露草であった。
 露草が湖面のような垂日をたたえて、いっせいに花開いた、今年最初の朝であった。 昨日の雨はこの青を連れてきたのかと合点する。


 
 帰りは久しぶりに吉田山を越えた。頂上近く、稲荷社に向かう参道には、列なす鳥居の足下に、延延と彼岸花が咲いていた。それが風に揺れるさまは、まるで松明の焔が揺らぐよう、道行きの覚悟を迫りながら辺りを照らしているかのようだった。しかしそれはあの気味の悪い稲荷社へ行く者へ迫る覚悟だろう。


 
 ――あの花は、なんというのですか。
 薄茶の繊細な造りの花が、まるで野辺のタンポポのように辺りに群生をつくっていた。
 ――あれは マツムシソウです。私の一番好きな花。西洋の天国の夢のようでしょう。それからあの雲。あの雲は、まるで大礼の烏帽子を被った神官のよう。


 表題の「冬虫夏草」については、訪ねて来た大学時代の友人で、菌類の研究者である南川が説明してくれる。

 
 ――サナギタケとは何だい。
 ――冬虫夏草だよ。漢方では珍重されている薬になる。だが、漢方で使う本物は支那の奥に棲みついているコウモリガの蛹の変化した物だ。こんなところで出るのは別種のやつだ。
 それがこの辺りで異常なくらいに大発生しているのだ。それも、冬虫夏草には違いないがね。


 死んだはずの高堂も時々、前著と同じように床の間の掛け軸の向こうからやって来る。

 
 ――おどかすな。来たら声をかけろ。・・・
 ――秋も老いた。 と(高堂は)呟いた。秋がオータムの秋であることを了解するのに暫し時間を要した。
 ――秋も老いるかね。秋が老いたら、冬ということではないか。
 ――いや、まだ冬ではない。秋が疲れているのだ。家の垣根の隅で、野菊の弱弱しく打ちしおれているのに気づいていないか。


 自然の「気」にもしばしば出会う。

  
 夜半、ふと水音のした気がして目が覚めた。
 起きて勝手へ行くと、だいぶ傾いた月の明かりが吹き抜けの高い窓から差していて、流しに置いたままにしていた木地皿を照らしていた。よく見ると、皿の真ん中が波紋のように揺らいでいる。目をこすってさらによく見ると、そこから小さな魚がちゃぼんと跳ね、再び皿のなかに吸い込まれて消えた。消えた後はいつもの皿に戻っている。・・・
 「水の道があるのだ」
 南川が云った言葉を思い出した。


 行方不明になった飼い犬のゴローを見つけに鈴鹿の山中に分け入り、河童の少年や風に乗って飛ぶ天狗に出合い、イワナの夫婦がやっている安宿に泊まり、いくつもの不思議な体験をする。

 イワナの夫婦は急に立ち去ることになり、宿屋は河童の少年とふもとの宿屋で仲居をしている母親の河童と一緒に山に行ったまま帰らない父親を待つことになる。

 さらに山深く分け入り、竜神の滝という壮大な瀑布に見入る。
 高堂はこの滝に消え、ゴローは高堂を助けてなにかの役目をはたしていたらしい。  向こう側の斜面に動くものを見つける。

 
 大声で、ゴローと叫ぶ。・・・斜面を駆け下り、渕に飛び込んで走って来る。・・・
 来い。
 来い、ゴロー。
 家へ、帰るぞ。


 (おわり)

 (追記)

   2008年に著者の本 「西の魔女が死んだ」のことを書いたブログでふれた「家守綺譚の植物アルバム」のURLが変わっていた。
 相変わらず、すばらしい木々や草花の写真集だ。近いうちに「冬虫夏草の植物アルバム」もUPされることを期待したい。



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