2015年2月アーカイブ: Masablog

2015年2月23日

読書日記「トリエステの坂道」(須賀敦子著、新潮文庫)


トリエステの坂道 (新潮文庫)
須賀 敦子
新潮社
売り上げランキング: 32,813


 著者が、自ら日本語に翻訳した詩集も刊行されているウンベルト・サバ は、急死した夫が愛し続けた詩人だった。
 この本は、12章で構成されている。表題と同じ「トリエステの坂道」は、夫の死後、日本に帰って20年ぶりにサバの故郷であるトリエステの街を訪ねた時のことを綴っている。

 なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年まえの六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。イタリアにとっては文化的にも地理のうえからも、まぎれもない辺境の町であるトリエステまで来たのも、サバをもっと知りたい一念からだと自分にいい聞かせながらも、いっぽうでは、そんな自分をこころもとなく思っている。サバを理解したいのならなぜ彼自身が編集した詩集『カンツォニューレ』をたんねんに読むことに専念しないのか。彼の詩の世界を明確に把握するためには、それしかないのではないか。実像のトリエステにあって、たぶんそこにはない詩の中の虚構をたしかめようとするのは、無意味ではないか。サバのなにを理解したくて、自分はトリエステの坂道を歩こうとしているのだろう。さまざまな思いが錯綜するなかで、押し殺せないなにかが、私をこの町に呼びよせたのだった。その《なにか》は、たしかにサバの生きた軌跡につながってはいるのだけれど、同時にどこかでサバを通り越して、その先にあるような気もした。トリエステをたずねないことには、その先が見えてこなかった。


 
 ・・・列車の窓から、海の向こうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国を生きつづけるこの町のすがたに、自分がミラノで暮らしていたころ、あまりにも一枚岩的な文化に耐えられなくなると、リナーテ空港の雑踏に異国の音をもとめに行った自分のそれを重ねてみた。たぶんトリエステの坂のうえでは、きょうも地中海の青を目に映した《ふたつの世界の書店主》、私のサバが、ゆったりと愛用のパイプをふかしているはずだった。


 イタリアのあまり裕福でない男たちは、雨でも傘を持たないのが風習らしい。雨のなかを行く時、背広のえりを立て、両手で上着の前をきっちり合わせて走り出すのが、イタリアの男たちのスタイルだ。
 「雨のなかを走る男たち」で描かれるのは、20年たっても鮮明に思い出す夫・ペッピーノの姿だった。

 ・・・停留所のまえで待っていると、夫が電車から降りてきた。降りしなに、たしかに私と視線があったと思ったのに、彼は知らん顔をして、信号をどんどん渡って行ってしまった。迎えに来られて照れくさかったのだろうか。それとも出迎えを押しつけがましく感じたのだろうか。家に帰ってからたずねても、彼は見えなかったの一点張りで、喧嘩にもならなかった。私としては、彼は私をたしかに見たと、いまでも確信がある。私を置き去りにしたあのときの彼も、雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて、走っていった。


 「ガードのむこう側」は、義父ルイーズを主人公にした小説風に書かれている。この一家にとりついて離れない"貧乏"と"不幸"が象徴的に描かれる。

 俺の一生はいったいなんだったのだろう。淋しいルイージ氏は歩きながら考える。九つで両親に死にわかれ、それからは村の居酒屋の仕事を手伝わせてもらって、どうにか食べてはいけた。鉄道の職員になって、居酒直の八番目の娘と結婚し、子供たちがつぎつぎに生まれころは、これでやっと人間なみの暮らしができると思ったのに、ファッシスト政権が天下をとって、戦争は始まるしで、まったくろくなことはなしだった。そしてマリオ(長男)が死に、ブルーナ(長女)が死んだ。
 空地を通りぬけ、製菓工場のすこし先の大通りまで足をのばせば、市電の停留所のまえにいつも行く飲み屋がある。まずは安い《赤》を一杯。塩づけのカタクチイワシを一匹とれば、それを肴に、夜の時間はゆっくり流れるはずだった。


 「セレネッラ(リラ、ライラック)の花の咲くころ」でも、"貧乏"と"不幸"を背負って生きるイタリアの庶民階級の人々が、清明な文章で綴られる。

 ・・・(亡夫の実家は)鉄道員官舎と呼ばれてはいたけれど、その家に私が出入りするようになったころはすでに、もともと世帯主であるはずの鉄道員たちは、どうしてこの家の住人ばかりがと思うほど、大半が戦争や病気やはては鉄道事故などで亡くなっていて、あとに残されたもう若くはない妻たちが、前歯が抜け落ちたような侘しさのなかで、乏しい年金をたよりにひっそりと暮らしていた。貧しく生まれたものは貧しいまま、老年、そしてやがては死を迎える。まるで目に見えない神様にそう申し渡されたみたいに、彼らは運命に逆らわず、小学校は出たがその先はとても、といった息子や娘たちも、いつのまにか親と同じ底辺の暮らしに吸い込まれていった。彼らのあきらめとも鋭い怒りともつかない感情のわだかまりが、あちこち汚れた階段口の白壁や、片手に大きな黒い皮製の買物袋をさげ、もういっぽうの手で手すりに体重をあずけて、ゆっくりと階段を登っていく、しゆうとめと同年輩の老女たちのうしろ姿にこびりついていた。


 著者が、義弟アルドからその妻の実家であるシルヴァーナの故郷である山村・フォルガリアへの旅行に誘われたのは、亡夫が急死して2年ほど過ぎた時だった。

 岩に穿った細いトンネルをいくつかくぐりぬけ、林が牧草地に変わるころからしだいに空気が軽くなり、青い実をつけたリンゴの木が一本、澄んだ空を背に風に逆らって立っている角を大きく曲ったあたりで始まるフォルガリアは、それまでミラノの周辺で私が知っていた湿度の高い平野の農地の重い感触や、飼っていた乳牛一頭が栄養源のすべてだったというシルヴァーナの子供時代の哀しい貧乏話から想像していた《寒村》のイメージとはほど遠い、みずみずしい緑と乾いた明るさに満ちた、のびやかな高原の村だった。


 アルドからミラノを引き払ってフォルガリアに家を建てるという手紙が来たのは、著者が日本に帰って20年近く経ってからだった。戦後の経済復興でスキー場の開発などが進み、この山村も様変わりしていた。新居は、アルド夫妻がやっと見つけた安住の地だった。
 「山の村に越してしまっても、きみの部屋はちゃんとつくっておく。・・・忘れないでほしい。ぼくらの家はきみの家だということを」

※(寄り道)
 この本の最終章「ふるえる手」には、著者がローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会に立ち寄り、カラヴァッジョの聖マタイの召命(マッテオの召し出し)」を2回にわたって見る記述がある。
 私も9年前のイタリア巡礼に同行した際、この絵に見とれたことを、昨日のように思い出す。

カラヴァッジョの聖マタイの召命
Michelangelo_Caravaggio_040.jpg



 「聖マタイの召命」では、右端のキリストが召し出そうとしているのは誰か、というのが長年、論議されてきた。

 Wikipediaには、こう記されている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始めた。・・・。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、・・・この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイは・・・次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。」

   しかし、須賀敦子は「マタイ(マッテオ)は正面の中年男だ」という考えを崩さず、こう書く。

 私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。
 カラヴァッジョだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ。そう私は思った。


※(付記)
 松山巌著「須賀敦子の方へ」(新潮社刊)
 毎日新聞の書評委員同士で、長年の親友同士だった小説・評論家である 松山巌が「私はこれから須賀敦子のことを辿ろうと思う」と、須賀敦子が過ごした兵庫県西宮市や小野市、東京・麻布、広尾、四谷などに親類や友人、知人を訪ね歩き、須賀敦子への"熱き"思いを語った1冊だ。

 孤独は人間が一人になることではない。自分がどこを向いて歩いているのか、わからなくなるとき、人は孤独の穴に落ち、もがく。たとえ苦しくとも進むべき道が見えるならば、孤独からは救われる。だがしかし、自明な道などあるはずもない。結局のところ、孤独であることにもがき悩み、その悩みの末に抜けだすしかないのだろう。だから須賀は『コルシア書店の仲間たち』のエピグラフにウンベルト・サバの一句、「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない」を置き、同時に巻末を「弧独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」 の一言で結び、この思いを膨らまして、孤独の荒野を全休のテーマとして『ヴェネツィアの宿』を書こうと思ったのだ。


 この本は、須賀敦子がパリに旅立つところで終わっている。これからも、須賀敦子を訪ねる旅は続くらしい。

2015年2月 6日

読書日記「ヴェネツィアの宿」(須賀敦子著、文春文庫)


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
売り上げランキング: 16,296


 この作品は、著者が長年過ごしたイタリア・ミラノを舞台にした2つの前作とは、構成、題材とも大きく違っている。

 月刊誌「文學界」に1年間連載されたもので12篇はそれぞれ独立しているが、テーマは大きく分けて2つある。1つは、父・母・夫への思い、2つ目は、ヨーロッパという異郷を理解しようとして苦悩する姿。巧みな構成と文章で綴られた須賀敦子の"自分史"を覗く思いがする。

 1つ目のテーマでは、特に父親の思い出が多い。冒頭の「ヴェネツィアの宿」で父が愛人といるのを見つけたエピソードが、「夜半のうた声」では父と母を和解させようとする長女・敦子の試みが語られ、父の最後を看取る最終篇「オリエント・エクスプレス」へとつながっていく。

 
 すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがえすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。そんな格好で父が知らない女の人と歩いていることの不思議さが、とっさに理解できないほど、なにか自然な感じでふたりは近づいてきた。どうしよう。自分がこんなところまで来てしまったことの無謀さがこわくなった。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。こまった、という気持と、いなくなった父に会えたよろこびに、頬がほてった。
 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。なにも言わないで家を出てしまうから。父は一瞬こまった顔をした。お父さまはおかげんがわるいんです。父をかばうように連れの女が言った。あまりくさくさするので、そこまでお散歩に出たところです。ちょっとざらざらするような声だった。


   
 右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな叫び声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。
 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。
 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。


 
 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス......は?
 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきた ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と(オリエント・エクスプレスの車掌長から分けてもらった)白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。


須賀敦子という人物の意志の強さをうかがい知ると同時に、この本の随所にちりばめられた流麗、静謐な文章に引き込まれる。

イタリアから日本に帰って教職についていた60歳過ぎの著者は、シンポジウムに招かれて久しぶりに訪れた「ヴェネツィアの宿」で、「古い記憶」を思い出し西洋と日本の間を「ほこりにまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分の姿」を見つめる。

 ある夏の夕方、南フランスの古都 アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、 ロマラン(ローズマリー)の茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しつかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。


ローマ留学時代を綴った「カラが咲く庭」。このなかで、寄宿舎の院長であるマリ・ノエル修道女は、著者にこう問いかける。

「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかのヨーロッパは育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

「大聖堂まで」では、パリに留学した際、 ノートルダム大聖堂から シャルトル大聖堂までの巡礼の体験が語られる。
 カトリック左派の 労働司祭の指導で、約3万人の若者が議論をしながら約80キロの道を歩き、夜は農家の納屋に泊めてもらう。
 はじめてヨーロッパに来た著者は、言葉の壁だけでなく「この国の人たちのものの考え方の文法みたいなものへの手がかりがつかめない」ことで苦しんでいた。それをなんとか「自分の手でさぐりあてたい」と思ったのが、この巡礼に参加したきっかけだった。

 2日間、歩き続けて疲れ切っているのに、満員の大聖堂にさえ入れず、有名な シャルトル・ブルーのステンドグラスも見られなかった。だが、教会の外壁に並んだくぼみで、 洗礼者ヨハネの像を見つける。(キリストが世に出るのを)待ちあぐねて「ほとほと弱ったという表情」は「私たちにぴったりね」と、フランスと中国人を父母に持つ友人・モニックと話す。

 パリの寄宿舎でルームメイトだったドイツ人のカティア・ミューラーは、公立中学の先生を辞めてやってきた。
 「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい」「いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」(「カティアが歩いた道」から)

 同じ思いでいた著者にとって「カティアはなかなか手ごたえのある同居人だった」

 ※(追記)
 須賀敦子は、敬けんなカトリック教徒だったが、61歳から8年間、怒涛のように書き綴った作品のなかでは、その信仰のことにほとんど触れていない。  ところが先日、 オプスディ・セイドー文化センターでの勉強会で、テキストのなかに「愛するとは・・・」という著者の言葉を見つけて、出典を探した。

 
 生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。


     
 キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。


(須賀敦子全集・第8巻に所収されている雑誌「聖心の使徒」掲載「教会と平信徒と」より抜粋)





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