教会アーカイブ: Masablog

2015年3月30日

聴講記「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(長崎県・朝日カルチャーセンター共催、2015年1月25、2月8日、22日)



長崎市内や五島列島の島々を世界遺産候補の教会群を友人Mと訪ね始めたのは7年前のこと。候補遺産のほぼすべてを回るのに3年かかった。

 その「長崎教会群とキリスト教関連遺産」(地図)について、政府は今年1月、閣議決定を経て ユネスコに世界文化遺産追加の 推薦状を提出した。
 長崎県世界遺産登録推進課によると、ユネスコでの審議を経て来年9月にも正式に世界遺産登録が決まることが期待されているという。

nagasaki-1.JPG



 それを記念するためか、表題のようなセミナーが大阪のフェスティバルホールで開かれた。それを知ったMに誘われ、聴講に行ってみた。

 今回の推薦状リストは、2007年に制定された「暫定リスト」とは様変わりになっていた。

 以前の世界遺産候補地は教会を中心に29遺産あったものが、新しい推薦状では教会は 国宝と国の重文に指定されたものに絞られ、替りに国の 重要文化景観というあまり聞きなれない制度に指定されている長崎、熊本両県の集落景観などが追加され、候補地は計14か所になっている。

 当初、250年に及んだキリスト教伝来と弾圧、 信徒発見による復興を経て次々と建造された教会群を世界遺産として申請しようとしていたのだが、長い論議のすえに、隠れキリシタンが移住を繰り返してその信仰を守り、復興をはたしたという世界でも例を見ないキリスト教の歴史を物語る世界遺産として登録しようとしたようだ。

 第1日目の1月25日は、 岩崎義則・九州大学大学院准教授の 五島灘・角力灘海域を舞台とした十八~十九世紀における潜伏キリシタンの移住についてという論文による話しで始まった。

 長崎県・角力(すもう)灘を望む 長崎市外海(そとめ)地区 隠れ(潜伏)キリシタンが、弾圧を逃れて対岸の 平戸五島列島に移住して行ったというのは、これまで一般キリシタン歴史書の常識だった。

 岩崎准教授は、この常識にいささかの異議をとなえる。

 「潜伏キリシタンと分かれば、 邪宗として弾圧されたはず。移住していったのは浄土真宗檀徒でした」

 しかし、百姓の他藩移住が簡単でなかった江戸時代に、なぜこんな移住ができたのか。
 「実は、外海地区を支配していた大村藩と五島・福江藩との間で百姓移住協定が成立していたのです」

 大村藩が分家抑制策を展開していたことや浄土真宗が間引きを禁じていたこともあって、外海地区の村々は人口増大と貧困に悩んでいた。反対に離島の福江藩は財政逼迫で新しい田畑を開拓する働き手が必要だった。
 「私見だが、大村藩は捜査網を使って潜伏キリシタンと目された世帯を見つけ出し、浄土真宗檀徒として福江藩に送り出した。これによって、大村藩は人口問題と異宗問題の一極解決を図った」

 18世紀の末、協定では100人だった百姓の移住は、約3000人を数えた。岩崎准教授は「そのほとんどが潜伏キリシタンだった」とみる。

 五島に渡った人々は「五島へ五島へとみな行きたがる 五島やさしや土地までも」と謡った。
 しかし、与えられたのは、農耕が困難な辺境の地だった。百姓たちは「五島極楽来てみて地獄 二度と行くまい五島が島」と嘆いた。

 セミナー2日目の2月8日には、五島列島・新上五島町教育委員会文化財主査の高橋弘一さんは、この隠れキリシタンの厳しい生活が生み出し集落景観について語った。

 五島に移住してきた隠れキリシタンたちは、昔から海岸沿いで漁業をしていた「地下(じげ)と呼ばれていた人々の土地には入植させてもらえなかった。
 「居付(いつき)」と呼ばれた隠れキリシタンは、しかたなく山の急斜面を切り拓き、段々畑を作り、防風石垣や林を築くなど独特の集落景観を形成していった。

 そんな痩せた土地で稲作はできない。彼らの生活を支えたのは、大村藩・外海(そとみ)から持ち込んだ甘藷栽培だった。甘藷を保存するために、家屋の床下に竪穴の「いもがま」を掘って生イモを蓄え、干し棚で乾燥させた 「かんころ」を作り、天井裏で保存した。

 国の重要文化景観に指定されている 「新五島町北魚目の文化的景観」は、まさしくそんな景観という。高橋さんは「文化景観とは、その地域の生活や生業により育まれた景観のこと」と話す。

 そして、明治6年にキリスト教禁教令が廃止されて以降、五島列島では次々にカトリックの教会が建設され、五島独自の文化景観が形成されていった。

 新上五島町には、狭い地域にかつては35、現在でも29のカトリック教会が点在している。

 3年かけて回った際にも、岬の両側に別の教会があり、船でしか行けない教会もあった。隠れキリシタンたちは、道もほとんどない地域にしか住めなかったのだ。

 段々畑の続く高い山の中腹に、立派な教会がそびえているのも不思議だった。

 案内してくれたカトリック教徒であるタクシー運転手・Kさんは「この道から上がカトリック地区、下の海沿いが昔からの住民」という。説Kさんが子供のころ、地元のお社の祭にも、カトリックの子供は参加できなかったという説明がなんとなく納得できた。

   実は、高橋さんは1級建築士。新上五島町に務めることになったのは、2007年に火事で全焼した江袋教会(同町江袋地区)を修復する調査・設計管理を請け負ったのがきっかけだった。高橋さんは、修復の調査をしていて不思議なことに気づいた。

 調査してみると、新装された 江袋教会の屋根と、外海地区にある創建時の 出津(しつ)教会の屋根の写真が、双子の教会のようにそっくりなのだ。
 それも、教会建築では非常に珍しい 「袴腰屋根」という方式を採用している。

 出津教会を設計したのは、外海地区の布教に貢献した パリ外国宣教会 ド・ロ神父だが、高橋さんは「江袋教会の設計には、ド・ロ神父が深くかかわっていたにちがいない。キリシタン移住によって、外海と上五島は、集落の文化景観やイモ文化だけでなく、教会建設でも強いつながりを保ってきたのだ」と話す。

 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の 中園成生さんが、平戸島の北西にある 生月島で、現在でも 隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。

 明治6年にキリスト禁教令が廃止されてからは、隠れキリシタンの人々は順次、カトリックに"改宗"していった。
 生月島でも、20世帯がカトリックに戻り、カトリックの教会もあるが、500世帯は昔ながらの信仰を守り続けている。

 その地域では、数十軒単位の「垣内」「津元」や数軒単位の「小組」など大中小の信仰組織が堅持されており、お掛け絵(掛軸型の聖画に似た絵像)、金仏様(メダイなど)、お水瓶(聖水を入れる瓶)などのご神体を信仰している。

 「ご誕生御」(クリスマス)」「上がり様(クリスマス)」などの年中行事も変わらず続けられており、祈りの「唄オラショ」は、16世紀にキリシタンが唱えていた文句とほとんど同じ、というのも驚きだ。

 女性人気指揮者の西本智美が、このオラショを甦らせ、バチカンで演奏の指揮をしたテレビ番組を見た記憶がある。彼女の曾祖母は、生月島出身だという。

 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』」が従来の考えだった。

 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。

 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。

 生月島では、なぜここまで隠れキリシタンの信仰が継続できたのだろうか。

 中園さんは①この島は捕鯨で培われた強い経済力で、信仰組織を維持できた②キリシタンへの迫害はあったが、平戸藩の弾圧は大村藩ほど厳しくなかった、ことを挙げている。この島では、踏絵の資料も見つかっていないらしい。

 最後に、少し整理しておきたい。

 世界遺産候補が、最初の29から14に絞られていく過程で、堂崎大曾宝亀などの教会や 日本26聖人記念碑などは国に重文でなかったために、国の重文だった 青砂ケ浦教会は「周辺に駐車場ができ、保有管理が不備」であることを理由に、候補から外れた。

 しかし、これらの教会なども3年間の旅で訪ねたがいずれもすばらしい建築物だった。

 そこで、長崎県では候補から外れた遺産を別途「長崎歴史文化遺産群」として、保存、継承していく方針らしい。

 これらの内容は、長崎県のウエブサイト 「おらしょ」の「資産」をクリックすると、見ることができる。

2010年9月17日

津和野紀行・上 「乙女峠」(2010・7・18-19)


 夏の初めに、一度は出かけたいと思っていた島根県・津和野を訪ねた。

 目的は2つ。1つは、キリシタン殉教の地、乙女峠のマリア聖堂に詣でること。もう1つは、これもいつかぜひと思っていた安野光雅美術館に行くことだった。

SL山口号;クリックすると大きな写真になります
津和野に着いたら、ちょうど[SL山口号」が出ていくところだった
 とにかく暑かった。「SL山口号」が運転されている時間帯だけ開設されるという駅前のテント張りの観光案内のボランテ ィアの人にたずねると「まずカトリック津和野教会に行ってください。乙女峠資料館もあるから」という。

 汗だくになって旧武家屋敷跡・殿街通りを歩く。いささかメタボっぽい錦鯉が泳ぐ掘割沿いにある教会は、昭和6年の再建で木造モルタル塗りのようだが、一見石造りに見える。正面にイエズス会の紋章である[IHS」ロゴが彫り込んであり、現在の司祭もイエズス会の所属。日本に帰化した米国の元看護兵だという。聖堂内は津和野の街に似つかわしい畳敷き。その表に格子柄のステンドグラスが映しこまれている。

  暑い!途中、喫茶店に飛び込んで何十年ぶりかの氷あずきでひと息つき、日本峠100 選の1つであるという乙女峠への急な坂道を登る。

 浦上4番崩れと呼ばれるキリシタン弾圧が、江戸の終わりから日本の近代を切り拓いた明治の初めまで続いたことは、歴史的な驚きだ。

  明治元年。維新政府は長崎・浦上のキリスト教徒3300人強を改宗させるために各藩に預けた。なかでも指導的立場にあった153人が津和野藩に預けられ、この坂を登った峠にあった廃寺・光琳寺で棄教を迫られた。

   当時、津和野では神道の研究が盛んで、説得によって改宗させられるという自信を持っていた。しかし、信徒たちの信仰心は厚く、改宗はいくら責めても拒否された。

   そこで拷問が始まった。火責め、氷責め、たった3尺の格子牢に裸で押し込まれ雪の野外に放置された若者もいた。殉教者は、36人にのぼった。外国の強い抗議で、政府のキリシタン禁止令はやっと撤廃され、リーダーとして生き抜いた高木仙右衛門らは、長崎に帰ることができた。

  第二次大戦後、津和野教会のパウロ・ネーベル司祭(岡崎神父)は、峠にマリア聖堂を建て、まわりを殉教の地にふさわしい場所として整備した。

  夏の暑さを感じさせない森閑とした緑に囲まれた小さな聖堂だった。内部には、拷問に耐え抜いた信徒の様子を描いた8枚のステンドグラスがある。
  ネーベル神父がはじめた5月3日の乙女峠まつりには、毎年数千人の巡礼者が訪れるという 。
津和野教会の内部;クリックすると大きな写真になります津和野教会の外観;クリックすると大きな写真になります乙女峠;クリックすると大きな写真になります旧藩校沿いの掘割と鯉たち;クリックすると大きな写真になります
津和野教会の内部。ステンドグラス越しの明かりが畳に映える津和野教会の外観。正面に[IHS」のロゴ乙女峠・マリア聖堂は、緑のなかに清涼と旧藩校沿いの掘割と鯉たち


 津和野に向かう車中で読んだ本の中に、気になる箇所があった。
  高木仙右衛門の家系図のなかに「高木慶子,」という名前がある。「援助修道会修道女」と書かれていた。あの方ではないのか・・・。

   帰宅して知人に聞いたら、やはりそうだった。高木仙右衛門の曾孫にあたるシスター・高木慶子は、前の聖トマス大学教授で、現在は上智大学教授・グリーフケア研究所長。   ミッションへの限りない熱情に圧倒される、キリッとすじのとおったシスターである。継承されてきたであろうDNAのすごさを思った。

2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

example2
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


戦後史
ベストセラーの戦後史〈1〉
井上 ひさし
文藝春秋
売り上げランキング: 253650

2010年2月22日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その2


 1月6日の午後。長崎駅前のバスターミナルで、隠れキリシタンのふる里、旧外海(そとみ)町(現在は長崎市)行きのバスを待った。

 1昨年の5月に、同じように外海方面行きのバス停を訪ねた若い主婦に「遠いですよ・・・」と言われたのを思い出した。前日よりぐっと冷え込み、寒風がこたえる。やっと来た長崎バスで桜の里バスターミナルまで約1時間、さいかい交通バスに乗り換え、約30分で大野のバス停に着いた。
世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストにも挙げられている国指定の重要文化財「大野教会」は、長崎市の中心からはかなり遠い。1昨年行きそびれたので、2年越しの再挑戦である。

 早くも水仙の花が所々に咲いている狭い農道を10数分登った山あいに、なんとも素朴な石造りの教会が建っていた。
 この教会は、外海地区の主任司祭として大きな足跡を残したフランス人マルク・マリ・ド・ロ神父 が、隣の出津教会に来られなくなったお年寄りのために明治26年に建設した小規模な巡回教会。地元で産出される玄武岩を砂と石灰、水を混ぜた赤土で積み上げた「ド・ロ壁」という独特の工法で建てられている。
 木の雨戸の上に赤煉瓦で縁取りされた半円形をした木組みの窓があり、和瓦の屋根の頂上と軒先の白い漆喰梁に描かれた小さな赤い十字架があざやかだ。

 正面の防風壁に守られている玄関から中をのぞくと、柱が一つもなく、簡素な造りの机が並んでいるだけ。がっしりとした「ド・ロ壁」が角力灘からの強風を防いでくれるのだろう。振り向くと、青く広がる角力灘(すもうなだ)越しに、この外海から迫害をのがれてキリシタンたちが移住していった五島列島が臨める。

 2006年には大修理が行われたという。周りの風土にすっかり溶け込んだ教会を後世に伝えたいという地元信徒たちの思いが伝わってくる。

 1昨年の5月には、同じバスのルートで大野教会の手前の出津教会をまず訪ねた。

 明治12年に赴任したド・ロ神父が明治15年、最初に建設した教会。明治24年に祭壇部、同42年に玄関部が増築されており、バス停から坂を下った窪地にあるが、煉瓦造りの建物を白い漆喰で包み、2つの尖塔と、正面左に別棟の鐘楼を持つ堂々とした、たたずまいだ。それでいて屋根までが非常に低い。外海の強風を考慮した設計だという。

 教会では、老夫婦のご主人の洗礼式が終わったところだった。翌日には、すでにカトリック信者である奥さんとの結婚式が改めて行われる、という。この地域にはいまだにおられる隠れキリシタンの"改宗"ではなかったのか、と今になって思う。

 ド・ロ神父は、貧しさにあえいでいたこの地区の人たちを助けるために、パンやそうめん(スパゲツティ)の作り方を教え、孤児院まで作った。夫を亡くした女性たちの生活を守るために神父が設計した鰯網工場跡は「ド・ロ神父記念館」になっている。入口を入ったところでシスターの橋口ロハセさんがオルガンで聖歌「いつくしみふかき」を弾いておられた。ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものを、8年前に修理したのだ。

 国の重要文化財「旧出津救助院」は、2012までかかる大修理中で、工事用の壁に囲まれていた。授産場と「ド・ロ壁」に囲まれたそうめん工場が再現されるという。

 1時間に1本しかない長崎駅行きのバスで30分ほどの「道の駅 夕陽が丘そとめ」で降りる。長崎屈指といわれる夕陽を待っているライダーたちであふれていた。

 2,3分、海のほうに歩くと「遠藤周作文学館」 がある。まず遅めの昼食をと、付属のレストランで「ド・ロ様そうめん」を食べた。落花生油が練り込んであるとかで、もっちりしていてなかなかの味だった。

 文学館は、遠藤周作が愛用した書斎コーナーが再現されており、遺品や生原稿などで遠藤文学のすべてを閲覧できる。2方が天井までのガラス張りになっている「聴涛の間」からは、碧く広がる角力灘(すもうなだ)が見渡せる。壁に書家・近藤攝南が書いた額がかかっていた。
      
       物語は終わり 今は黄昏
       私は川原に腰をおろし
       膝をかかえ 黙々と
       流れる水を 永遠の
       生命のように凝視している


 遠藤周作作「男の一生」の1節だ。
 近藤攝南さんは昨春亡くなられたが、新聞社に勤めていたころに何度かお顔を拝見したことがある。遠藤周作は、近藤さんを父親のように慕っていたという。

 外海は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台でもある。この本で「トモギ村」と書かれているのは、この後訪ねる黒崎の地がモデルらしい。

 出津教会の近く、文学館を臨む丘の上に「沈黙の碑」があった。
       
      人間が
      こんなに
      哀しいのに
      主よ
      海があまりに
      碧いのです
             遠藤周作


 1時間後のバスで20分ほど戻ったところが、黒崎のバス停。すぐわきの急な階段を登ったところに煉瓦造りの「黒崎教会」があった。

 やはりド・ロ神父の指導で明治30年から信徒が総がかりで敷地を整備、煉瓦を1つ、1つ積み上げて23年もかけて完成させた。内部はリブ・ヴォートル天井を持つ、ゴシック調の重厚な雰囲気。教会横の鐘楼は、この地区に多く住む隠れキリシタンの"教会復帰"を願って建てられたという。

 教会から15分ほど登ったところに、日本には3社しかないというキリシタン神社「枯松神社」 があり、毎年秋の祭りには、キリシタンの祈り「オラショ」が奉納される。日本にキリスト教が伝わって約470年、江戸時代に始まったキリシタン弾圧から約210年。その歴史を刻んできた神社である。

 世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に、なぜこの神社は入らないのだろうか。弾圧時代のキリシタンはキリスト信者でなかった、というのだろうか・・・。 ふと、そんな疑問がわいてきた。

「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会:クリックすると大きな写真になります波静かな角力灘(すもうなだ)。:クリックすると大きな写真になります堂々としたたたずまいの出津教会:クリックすると大きな写真になります「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター:クリックすると大きな写真になります
「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会波静かな角力灘(すもうなだ)。見えているのは、五島列島ではない。堂々としたたたずまいの出津教会"「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター。90歳前後らしい
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」:クリックすると大きな写真になります黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている:クリックすると大きな写真になります煉瓦造りの黒崎教会:クリックすると大きな写真になります
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている煉瓦造りの黒崎教会

2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)
遠藤 周作
新潮社
売り上げランキング: 207594
おすすめ度の平均: 4.5
5 やはり遠藤周作の沈黙の世界である
4 迫害されたキリスト教徒

2009年10月19日

読書日記「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅著、平凡社)、そして「信州・無言館」



ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
高瀬 毅
平凡社
売り上げランキング: 5311
おすすめ度の平均: 5.0
5 ナガサキの「苦悩」は、長崎だけのものではない
5 ミステリーを読むように一気に読めます
5 日本人として知っておくべき事実
5 アメリカはどうしても...


 数か月前だっただろうか。ふと手にした週刊誌のグラビア欄に、戦後すぐに撮られたらしい長崎・浦上天主堂の廃墟の写真が載っていた。

 今年の初めに浦上天主堂を訪ねたが、正面に首が取れたり、黒こげになった聖人像やレンガ壁の一部が残されている。教会内には焼けただれた「マリア像」も保管されており、爆心地から500メートルしか離れていなかった教会が壊滅状態になったことが分かる。しかし、廃墟になった天主堂は、現在の敷地内には残っていない。

再建された浦上天主堂:クリックすると大きな写真になります  長崎原爆資料館ホームページ廃墟となった天主堂の写真が載っているが、週刊誌には同じアングルの廃墟の前で縄跳びをして遊ぶ少女たちや、よじ登ってハンマーで廃墟を打ち砕く人たちの姿が掲載されていた。

 なぜ、被爆した天主堂は消えてしまったのか。その疑問に挑戦したのが、この本である。

 著者は、長崎生まれの元放送記者。長崎の放送局が制作したテレビ番組を見て「天主堂の廃墟が残っていたら、・・・原爆について考える大きなきっかけを与えるものになったに違いない」「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」という問いを膨らませていく。そして、地元取材だけでなく、アメリカの国立公文書館などで調査を続ける。

 この本を一挙に読んだ感じでは、著者はこの疑問への明確な答えは得られなかったようだ。しかし、いくつかの事実に突き当たる。

 1つは、当時の田川長崎市長が、当初は天主堂の保存を公言し、市長の諮問機関も保存の答申をしていたのに「心がわり」し、市議会で「浦上天主堂の残骸が、・・・原爆の悲惨を物語る資料として適切にあらず」と答弁、廃墟の取り壊しに賛成に転じたこと。

 もう1つは、教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかったらしいという事実だ。

 この2つの事実の裏には、原爆の遺産保存を望まないアメリカの周到なソフト戦略があると、著者は見る。

 田川市長がまだ天主堂廃墟の保存に前向きだった1955年(昭和30年)、アメリカ・セントポール市から突然、長崎市に姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。日本では初めての唐突な"縁組"申し込みだった。
 翌年、田川市長は渡米、セントポール市だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオルリンズ、サンフランシスコ、ハワイまで回り、国務省関係者などの歓迎を受ける。「米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度がかわっていく」
 1958年の臨時議会で、市長はこう答弁する。「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として・・・適切にあらず・・・」

 同じころ、カトリック教会長崎司教区の代表である山口司教も、教会再建の資金集めのために10か月にわたって米国各地を訪問している。
 著者は、現地の新聞紙上での山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。

 教会が浦上という土地に教会を再建したいと願ったもう一つの理由にも、著者は言及している。浦上四番崩れに見られるように「何代にもわたった弾圧に耐え抜いた浦上の信徒にとって(原爆という)現在の『絵踏み』が行われた忌まわしい場所の上に天主堂を建てることは、部外者にはうかがいしれない重みがあるのかもしれなかった」

 西日本新聞にこんな記事が載っている。「五八年春、廃墟の天主堂は姿を消した。逆に広島はその二年後、急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする」(2003/08/03朝刊)。

  無言館:クリックすると大きな写真になります 先週、信州に"小さな秋"を見つけに出かけ、ある「鎮魂ドーム」を訪ねる機会があった。上田市にある「無言館」だ。

「無言館」の内部:クリックすると大きな写真になります  この美術館は、先の大戦で戦死した画学生を慰霊するため、近くで「信濃デッサン館」を開設している窪島誠一郎氏 が、東京芸術大学の野見山暁治・名誉教授と協力して集めた戦没画学生の遺作を展示している。

 コンクリート打ちっぱなしの建物のドアを押すと、薄暗いなかに画学生が残した作品が次々に浮かび上がってくる。「生きたい」「生きたかった」という叫びが聞こえてくるような、異常に静かな空間だ。

 家族や恋人、自宅近くの風景画が多い。横に短い文章が添えられている。没年、22歳、27歳、33歳・・・、フイリッピン・ルソン島、中支、沖縄・・・。あまりに若く、あまりに遠い無念の死だ。

 「無言館」にある絵の一枚 「あと5分、あと十分、この絵を描きつづけたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った」

「無言館」にある絵のもう一枚
「『ばあやん、わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる』」
「きよしがつぶやくようにいうと『なつ』はうっすらと涙をうかべただけで何もいわなかった」  

無言館第2展示館:クリックすると大きな写真になります「第2展示館』の前にあるモニュメント:クリックすると大きな写真になります 平成8年に開館した「無言館」の近くに、最近「第2展示館」も完成した。

 「屏風絵 茄子」(小野春男)という日本画に引かれた。
 「先生の絵の茜色は亡き息子さんの鎮魂の色ですか」「父竹喬(文化勲章を受章した日本画家・故小野竹喬)はなにも答えなかった」

 ※参照:「生誕120年 小野竹喬展」

2009年2月18日

「五島列島教会めぐり③終 新上五島町」(2009・1・6)


 奈留島から新上五島町の郷ノ首港に着いた時は、南国の冬の日もすっかり暮れていた。

写真①写真② 翌朝午前8:30に宿を出て、奈摩湾を望む丘に建つ国の重文である「青砂ケ浦天主堂」(写真①)へ。早朝というのに、数台のトラックで来た10数人の作業員。痛みが激しいため、8月までシートで覆い、外壁、内部の修復工事を今日から始めるという。ギリギリ、鉄川与作による煉瓦造り教会第2作の外観を目にすることができた。
 天主堂の前にある説明板に「日本人が作った初期の煉瓦造り教会だが、本格的な教会建築の基本である重層屋根構造の外観、内部空間が形成された初めての例」とある。
 正面は、重層の断面をそのまま3分割し、薔薇窓や縦長アーチ窓に飾られ、白い石造りのアーチで飾られた重層さに見とれてしまう。
 内部(写真②)は3廊式で、やはりリブ・ヴォートルのアーチが白いしっくいの天井を支える。この教会が多くの司祭、シスターを輩出しているのは、この荘厳な美しさのためなのか。

写真③  奈摩湾の対岸の狭い丘に建つ「冷水教会」(写真③)は、白い木造建築の上に、青い6角形の塔をのせた簡素なスタイル。塩害を防ぐため、最近の修復で初めて新建材の壁が使われ、ステンドグラスは化成品、窓のサッシもアルミに替わったということだが、違和感はまったくない。少ない信徒でここまで管理してきた苦労を思う。

 途中に寄った塩の製造工房で「江袋教会」が、昨年2月漏電による火災で焼失した、と聞いた。カトリック信者でもあるこの工房の経営者などによって、再建のための募金活動と復元作業が続けられている、という。夕方、長崎に向かう高速船のチケット売り場にも募金協力を求めるチラシが張ってあった。キリシタン時代からの歴史が、地元に根付いている。

写真④写真⑤写真⑥ 世界初の洋上石油基地を望む「跡次教会」(写真④)、街の中心にある「青方教会」を経て、小さな入り江に建つ「中ノ浦教会」(写真⑤)へ。水辺に映る木造建築の美しさが女性観光客に人気ということだったが、残念ながら引き潮で、その風景は見られなかった。
 内部(写真⑥)は、回りの縁より天井面を高くした「折り上げ天井」で、祭壇部はリブ・ヴォートル天井。側壁上部の椿のデザインが鮮やかだ。「五島崩し」で、厳しい弾圧を経験した信徒たちが「五島で一番美しい聖堂を作りたい」と願った思いが伝わってくる。

写真⑦写真⑧写真⑨  信徒が20世帯ほどしかない村落に建つ民家風の「大浦教会」(写真⑦)、若松瀬戸の入江に赤い屋根を映す「桐教会」(写真⑧)、貝殻でできた海岸を望む「高井旅教会」を見て、山のすそ野をぐるりと回ったところに「福見教会」(写真⑨)の煉瓦壁があった。

 歩いてもいける距離に教会が建っているのが、ちょっと不思議に思える。大村藩・外海などから移住してきた後、信仰が認められた際に元の部落ごとに教会を建てたためらしい。明治の後期には、山をぐるりと回れる道などなかったのだ。

 この旅に行く前に「福見教会」の写真を見て、四角の煉瓦の箱はなんだろうかと思っていたが、玄関部だった。住民の98%がカトリックという地区で、トイレなどの手入れが行き届いているのが分かる。
 教会の前の説明板には「高い梁張りの船底天井などエキゾチックな雰囲気が漂っており、内部の左右には、ステンドグラスが張り詰めてある」と解説している。「われらの教会」という住民の意気込みが伝わってくる。

写真⑩ 島の中央部に戻って昼食後、カトリック教徒であるタクシーの運転手、Kさんが所属する赤い屋根の「丸尾教会」(写真⑩)へ。道路の上がカトリック、海に近い平地は仏教徒という住み分けと〟葛藤〝が今でも続いている。

写真⑪ ここは、鉄川与助の地元。与助の大きな墓があり、近くに与助が煉瓦造りの門(写真⑪)を建てた菩提寺(正光山元海寺)があった。教会建築の第一人者となった与助は、最後まで熱心な仏教徒だったという。その後、後継者は長崎に移って工務店を興した。翌日、長崎に渡り「浦上教会」を訪ねた際「原爆で崩壊した教会を再建したのは、鉄川工務店」という説明板があった。

写真⑫  世界遺産暫定指定の「大曾教会」(写真⑫)は、急な坂を登った丘の上で手を広げたキリスト像とともに、巻き上げ漁船基地・青方港を見下ろしている。
 煉瓦造りの重層屋根構造。8角形の銀色をしたドームと十字架を頂いた鐘楼が突出している。行き来する遠くの漁船からも見えたことだろう。
 教会が建つ丘は、ウバメガシの林で覆われている。明治の時代に、巻き上げ漁法の指導に来た和歌山の船員が植えたという。備長炭の原料である。

写真⑬写真⑭写真⑮ 日本有数の遠浅の砂浜が広がる蛤浜(写真⑬)を通り、頭ケ島大橋でむすばれた小島にある「頭ケ島教会」(写真⑭)にたどり着いた。島で産出する石材(砂岩)を積み上げた天主堂で、国の重要文化財に指定されている。20戸ほどの信徒が全財産を投げ出し、労働奉仕で10年近くをかけて完成させたロマネスク様式の天主堂だ。労働奉仕で収入の道を断たれ、何度も工事は中断したのに、司祭館まで石造りにしてしまった信徒たちのパッションは今でも燃え上っているようだ。
 内部(写真⑮)がまたすごい。外観の重厚さと様変わりに、天井や壁画に椿などの装飾が施され、華やかさに満ちている。表の説明板によると「2重の持ち送りによって折り上げられたハンマー・ビーム架構」。わが国の教会建築史上でも、例のない構造らしい。

写真⑯  海辺に、教会と同じ砂岩で造ったキリシタン墓地(写真⑯)があり、ひっそりと十字架を並べていた。5月には、墓標の間を赤いマツバギクがカーペットを敷きつめたように咲き乱れるという。

写真⑰ 高速フェリーに〝負けて″閉鎖されてしまった上五島空港を経て、「鯛ノ浦教会」へ。今は図書館になっている「旧教会」(写真⑰)の下に新教会がある。旧聖堂は木造瓦葺きだが、戦後になって正面に煉瓦の鐘楼が増築された。長崎・浦上教会の被爆煉瓦が使われている。

写真⑱  鯛ノ浦港から、夕方の便で長崎に渡り、翌日はサント・ドミンゴ教会跡(写真⑱)など、いくつかの教会や史跡を訪ねた。

 昨年5月には「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩いた。これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 長崎へのキリスト教伝来から、長い弾圧を経て獲得した信仰のあかしとしての教会群。世界に例を見ないという布教の歴史にふれて、3年後と言われる正式な世界遺産への登録を願う気持ちは高まる。

 しかし同時に、遺産を守るためにはあまりに厳しい過疎と旧住民とのいまだにとけない葛藤にも出会った。
 この遺産群を生かすために、今なにをしなければならないのか・・・。そんな思いが心のなかで渦巻く旅だった。

2009年2月11日

「五島列島・教会めぐり② 久賀島、奈留島」(2009・1・5)


 五島列島2日目。福江港を午前9:10に出る遊覧船「シーガル号」で久賀(ひさか)島に向かう。五島列島で最初に隠れキリシタンが信仰を宣言、厳しい拷問を受けたという歴史を背負った島だ。それが五島列島全体に広がり「五島崩し」と呼ばれるキリシタン弾圧につながったことは、この紀行①でもふれた。

写真①写真②写真③ ガイド役は、遊覧船会社の三男坊で、カトリック信者でもある気のやさしそうなK青年。遣唐使船も風待ちに立ち寄ったという田の浦漁港に着くと、マイクロバスに乗り換えて漁港を見下ろす丘の上にある「浜脇教会」(写真①)へ。

 3層の白いコンクリートの上に、金色の十字架を抱いた薄緑の木製の塔。全体に、小ぶりな感じの簡素な建物だ。1881(明治41)に建立された最初の天主堂が潮風にさらされて痛みが激しくなり1931(昭和6年)に再築。旧聖堂は解体されて五輪地区に移された。
 内部は、8分割の見事なリブ・ヴォートル天井のアーチが続く(写真②)。ステンドグラス(写真③)は、この島に昔から野生していた椿の花をデザインしている。

 島には、天然記念物の椿原生林もあり、椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともあるそうだ。道路沿いにも野生の椿が多く、2月に入れば咲き誇る花が見事らしい。早生の米がうまいことでも知られ、案内役のK青年は「水がよいのでしょう」という。しかし、行き交う車は少なく、人にも出会わない・・・。過疎が、福江島以上に進んでいる。

 島の中央部にある「牢屋の窄(さこ)」へ。窄(さこ)は「奥まったところ」という意味らしく、キリシタン弾圧の牢屋跡がある。
 K青年が「ここが、この島で一番大切なところですから」と、犠牲者の石碑が並ぶ前で、真剣な表情になって説明を始めた。

 1868(明治元年)、長崎・浦上で始まったキリシタン迫害は、翌年にはこの島にもおよび、6坪ほどの牢屋に信徒200人が8カ月の間押しこまれ、連日悲惨な拷問が行われて42人の殉教者が出た。
写真④ 最初の死者は、79歳のパウロ助市。圧迫死だった。牢内にはトイレもなく、13歳のドミニカたせは、わいたうじ虫に下腹をかまれて死んだ。牢内は立すいの余地もなく全員が立ったまますごしたが、全員が周辺に体を重ね合わせて中央部にわずかなすき間を作り、一人ずつが少しだけ睡眠をとることができた。
 昭和59年に、殉教を記念する聖堂(写真④)が建てられた。悲惨な殉教を忘れないため、聖堂中央部には6坪分の広さを示す灰色のじゅうたんが敷いてある。

 五島列島に隠れキリシタンが移り住んだのは、五島藩主から長崎県外海(現・長崎市)をおさめる大村藩主に開墾地拡大のための要員派遣の要請があったためだった。。
 キリシタン迫害の危険を感じていた彼らは、次々と五島列島に渡ってきた。1000人の要請に対し、やって来たのは3000人を越えた。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島は優しや土地までも」とあこがれの地にやって来た人々に与えられたのは、やせた山間部や狭い砂浜だった。移住後、彼らは「五島は極楽 来てみりゃ地獄」と歌うようになった。。

 島の中心部から狭い山道を約30分、椿の林のなかで車を捨て、歩いてたどりついた五輪地区は、そんな狭い砂浜だった。かっては50世帯を越える信者が住んでいたこの地区も、今は数世帯8人が漁業を営んでいるだけ。

写真⑦写真⑥写真⑤ この浜辺に、国の重要文化財である旧五輪教会と隣接して現在の五輪教会が並んで建っている(写真⑤)。
 旧五輪教会(写真⑥)は、最初にふれたように浜脇地区から移築されたもの。窓が教会建築特有のポインテッド・アーチ(尖頭)型をしている以外は、まったくの和風建築。なかに入っても、窓に引き戸がつき、ステンドグラスはフイルムを挟んだ素朴な造りだが、リブ・ヴォートル天井の木目が浮かびだした美しさ(写真⑦)に見とれてしまう。

 五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年に初めてここを訪れ、名曲「時の流れにー鳥になれ」を生み出したという。
  鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ


写真⑧写真⑨写真⑩ 昼過ぎに福江港に戻り、定期船に乗り換えて奈留島に着いたのは、午後2時すぎ。「奈留教会」(写真⑧)を訪ねた後、タクシーで、世界遺産に暫定登録されている「江上教会」(写真⑨)に向かった。
 最盛期は60人を超えていた信徒も、現在では2人だけ。2軒目のお宅で、やっと教会のカギを借りることができた。
 廃校になり黄色い雑草で校庭が埋もれている小学校の隣の丘の上。木漏れ日になかに、木造ロマネスク様式の教会が立っていた。鉄川与助の作で、左右対称のシンプルな外観とクリーム色に塗られた外観、正面に書かれた「天主堂」の文字に、なにかなつかしい荘厳さを感じる。
 木目塗りの彫刻がほどかされた木の柱がアーチ状に天井に広がっていく造形(写真⑩)も見あきない。

 奈留島では、もう一つ「南越教会」を訪ねたかったが「個人の敷地を通らないでと言われているので・・・」と、タクシーの運転手さんに断られてしまった。福江島・堂崎教会では、「観光の車が多い」という付近の住民の反発で離れたところに駐車場ができ、上五島では、タクシーの運転手さんから「小学校のころ、カトリックの家の子はよくいじめられた」と聞いた。

 隠れキリシタンとその子孫は、100年以上たっても、まだ新参者らしい。

2009年1月20日

「五島列島・教会めぐり紀行① 福江島」(2009・1・4~7)


 昨年5月に島原、長崎、平戸、佐世保のカトリック教会をめぐりの旅をした。この旅のことは後述するとして、長崎の教会群などがユネスコの世界遺産に暫定登録されていることを知った。

 五島列島には50もの教会群があり、そのうち6つが世界遺産に暫定登録されている。五島列島への思いが、正月3が日明けにやっと実現した。

 大阪・伊丹から福岡経由で福江島の空港に着いた時は午後2時すぎ。伊豆の大島と並ぶ椿群生地の開花には少し早かったが、南国らしい暖かい日だった。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 最初に行ったのは、1912(明治45年)に完成された「楠原教会」。イギリス積みという方式で積まれた正面玄関は、男性的な力強さを感じる。子どもたちは学校の帰りに煉瓦運びを手伝い、老人を含めた信徒の総力で作り上げたという。お堂本体も、レンガ壁だが、天井部分は薄クリーム色に塗られた木造の囲いの上に日本瓦が載っている。なんだか、日本家屋の匂いが残る教会だ。
 内部に入ると、静ひつとしていながら温かみのある雰囲気に圧倒される。白い木の柱が支えているのは、リブ・ヴォールト天井 と呼ばれるアーチ状の白い木張りの天井。茶色のはり(これをリブというらしい)に4分割された小さな白いドームの連なりが入口から祭壇まで続く。

 タクシーの運転手さんは「こうもり天井」と呼んでいたが、はりや板の曲りぐあいが見事だ。「船大工さんの技術だろうか」。同行の一人が言っていたが、外国人宣教師の指導で、初めて立てるこの教会を、西洋様式に少しでも近づけたいと願った日本人大工の意気込みが伝わってくる。宣教師の指導を受けながら建てたのは、日本人大工の鉄川与助といわれる。

 この福原は、五島藩の要請で外海「旧・外海町、現・長崎市」から移住してきたキリシタンが最初に開墾した土地の一つ。「五島崩れ」と呼ばれる厳しい迫害のすえに、やっと建設を許された教会だっただけに、その意気込みが今でもレンガの壁に輝いているようだ。教会のすぐ近くに、キリシタン迫害に使われた「楠原牢屋跡」が復元されていた。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 海辺に、白いレースを組み上げたように建っている「水の浦教会」は「貴婦人の教会」と言われる。1880(明治13)年に建てられた最初の教会が長年の潮風にさらされて解体された後、1938(昭和13)年、すでに代表的な教会建築家になっていた鉄川与助によって建てられた。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合され、現存する木造教会としてはわが国最大規模だという。
 内部も、簡素なデザインのステンドグラスと白いリブ・ヴォールト天井のコントラストがすばらしい。
 ここでも、移住してきたキリシタンが厳しい迫害に会っており、近くの丘には牢屋跡地のレリーフや五島出身の聖職者たちの墓地が広がっている。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります 行き交う人や車が少ない。正面の十字架がなければ普通の民家と見まちがう「宮原教会」へ向かう道の周辺には、荒れた田畑が広がる。「あの家も、この民家も空き家」。タクシーの運転手がつぶやく。漁獲量が減り、農業だけでは食べていけないため、離島していく人が絶えないらしい。
 「あれ、評判が悪いのだなあ」。運転手さんが指さした小聖堂風の建物は、なんと五島市が建てたトイレ。ちなみに、左側が男性用入口であります。

クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります そのすぐ先、エメラルドグリーンの内海が側面に広がり、正面に外海を見据えた広場に、レンガ造りの「堂崎教会」は、どっしりと構えていた。
 1908(明治41年)、イタリアから運ばれた赤レンガでゴシック様式に仕上げられたこの教会は、長年五島布教の中枢だった。ミサの30分前には、近くの修道院のシスターがホラ貝で知らせたという。五島で最初のクリスマス野外ミサが行われたのも、この広場だった。
 県の指定文化財に指定されており、現在はキリシタン資料館になっている。館内には、マリア観音、納戸神など隠れキリシタンの遺品や「ド・ロ木版画」と呼ばれる聖教木版画、聖ヨハネ五島の聖骨などがある。正面前の広場には、五島出身ただ一人の聖人である「聖ヨハネ五島」など、いくつかの銅像が並んでおり、キリシタン殉教の厳しさを訴えてくる。

クリックすると大きな写真になります 「浦頭教会」は、1968(昭和43年)に再築された五島では初めてのコンクリートの教会。正面に、ローマの聖ペトロ寺院をまねたのか、聖ペトロとパウロの彫像が並んでいたのにびっくりした。
 昭和20年代には約4千人いた信徒は、今では約5百人にまで減ったが、当時の漁師たちは土曜の午後と日曜日は網を入れず、教会に集まったと聞いた。



P1040284.JPG  福江島で最後に訪ねた「福江教会」は、福江市内の中心街にある。1962(昭和37)年4月に現在の教会は建てられたが、その年の9月未明、周辺を総なめにした福江大火で、この教会だけは奇跡的に焼失をまぬがれた、という。





Amazon でのお買い物はこちらから