2011年4月アーカイブ: Masablog

2011年4月24日

読書日記「生まれ出づる悩み」(有島武郎著、新学社文庫)。そして「アート・エード・東北」構想


生れ出づる悩み (集英社文庫)
有島武郎
集英社
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 市立図書館の一般開架ではなく、書庫に埋もれていた明治時代の有島武郎の本を借りる気持ちになったのは、今回の東北大震災について書かれた記事がきっかけだった。

 3月26日付け読売新聞朝刊に芥川喜好・編集委員が連載している「時の余白に」というコラムで「〝災害の深い喪失の中から立ち上がった″漁師出身の油絵画家・木田金次郎」がこの本のモデルと書かれていた。

 
私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。・・・  君は座につくとぶっきらぼうに自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。・・・
 君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、・・・。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすり付けてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱(ゆううつ)――十六七の少年には哺(はぐく)めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
 しかし、この少年が作者の前から姿を消して十年後。突然、舞い込んだ3冊の手製のスケッチ帳と1通の手紙を見て、作者は北海道・岩内の地を訪ねる。少年は、逞しい漁師に成長していたが、絵を描くことへの熱情は失っていなかった。

 
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだく)るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです」

 怒涛のような嵐のなかで船を操って九死に一生を得たり、家族や周辺で数えきれない不幸に出会ったりしながら、山への自然への憧れを捨てずに絵筆を握る漁師の異常ともいえる激情を綴られていく。
そして、小説は、以下の1節で終わる。

 
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。


 有島武郎は、大正12年に軽井沢の別荘で情死する。それをきっかけに漁師・木田金次郎は、画家として独立することを決意する。

 しかし、有島が祈った″春″は、とんでみないかたちでやってきた。

 芥川編集委員の記事には、こう記されている。
 
昭和29年の洞爺丸台風で岩内大火に遭い、千五、六百点という作品の一切を家とともに焼失した時、61歳でした。町は壊滅し、彼も丸裸になった。翌朝、焼け跡にへたりこむ木田の写真が残されている。
 その直後から彼は圧倒的に再び描き出し、人生の残り8年で代表作のすべてを生み出したのです。筆が猛然と画面を走り、線の激しい交錯のうちに豊潤きわまりない空間が開けます。


   金次郎が生涯を過ごした北海道岩内町に設立された「木田金次郎美術館」掲載されている 「大火直後の岩内港」という作品を見ていると、東北・三陸海岸の港の写真が二重写しで浮かんでくる。

 この記事を読んだのと同じころに、前回のブログにも書いた神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンが届いた。島田さんは、文化で被災地に貢献する「アート・エイド・東北」という構想を進めている、という。

 この構想は、島田さんらが阪神大震災直後の1995年2月に立ちあげた 「アート・エイド・神戸」の実績から実現に向けて動きだそうとしている。

 「アート・エイド・神戸」の活動については、島田ギャラリーのホームページに詳しいが、市民や企業からの寄付や事業収入、復興資金からの助成などを財源に、チャリティー美術展、被災アーティストへの支援(1人10万円)、被災詩集の出版などの事業を実施した。2001年に活動を終了した今でも様々な文化振興の輪は広がり続けている。

 今月初めには「アート・エイド・東北」の実現に向けた話し合いも持たれた。
 東北の文化施設の多くが被災し、再開のメドがたっていないことや、東北在住のアーティストにはキャンセルが相次ぎ、仕事を失ったことが報告された。とりあえず、来年3月までに行われるプロジェクトに総額100万円(1件20万円を限度)、来年4月以降に実施されるプロジェクトに総額100万円(同)を助成することを目標にすることになった。5月初めには「アート・エイド・東北」を立ち上げることを目標にしている。

 島田さんは、阪神大震災直後に「このような時期になぜアートなのか」という疑問に「人は生きていくには空気や水やパンが必要だが、それだけでは生きていけない。心の問題、すなわち希望が大切だ」と答えた、という。

 そして、神戸新聞で連載しているコラムで「お金の品格」と題して「寄付する喜び」について語っている。

 寄付をした人々が播いた1粒、1粒の種が芽をふき、被災者のよろこびに育つことを願う。

2011年4月19日

読書日記「災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか」(レベッカ・ソルニット著、高月園子訳、亜紀書房刊)


災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
レベッカ ソルニット
亜紀書房
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 この本は、このブログにも書いた「奇跡の画家」を発掘した 神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンで紹介されていた。

 「大きな災害に見舞われた被災地には、必ずといいほど一般市民による特別な助け合いの共同体が誕生する」ことを、世界各地で起きた大災害を取り上げて実証している。

 しかし、それが事実であったとしても、東北大震災の被災地の人々の生活ぶりを「災害ユートピア」と呼ぶ気持ちにはとてもなれない。毎日の報道で目にする現状は、あまりに悲惨かつ過酷すぎる。安全を主張し続けてきた原子力発電所が、既存のコミュニティーを無残に切り裂いてしまっている。

 だが目をいささか"斜交い"にしながら読み進むうちに、浅学にして知らなかった事実にふれることになった。

 災害が、そして災害が生んだユートピアが、いくつもの国々で革命や政治情勢の激変を生みだしていたのだ。

 一九八五年のメキシコシティの大地震では、市民は互いを、自分たちの強さを、そしてあらゆる場所で幅をきかせて全能に見えていた政府がなくても別に困らないことを発見し、しかもそれを手放させなかった。それは国を作り変えた。・・・メキシコ人はいったんユートピアを味わうと、それを日常生活の大きな部分にするために積極的な行動に出た。


 メキソコシティのタコ部屋のような仕事場で働いていたお針子たちは、二四時間体制で職場の見張りを始めた。「(お針子たちは)自分たちのボスが仲間の死体や悲鳴を無視して機械を運び出した日を正確に言えます。振り帰ると、その日が彼女たちの人生のターニングポイントになったのです」。瓦礫の中から、メキシコ初の、女性の率いる独立労働組合が誕生した。・・・そして彼女(たち)の国も変わった。
 PRIの一党支配体制が崩れ、メキシコは複数政党による民主制の国になった。

 地震が起きたとき、当時のメキシコ大統領はどうしていたか。
 (その)姿はどこにも見当たらなかった。その後、被災地を歩き回ったものの、被災者と会うことはなく、・・・ついにテレビでスピーチを行うと、冷たくて、まるで他人事のような話しぶりだった。

 どこかの国のリーダーとのあまりの相似形に苦笑すら浮かばない。

 メキシコ大地震から九カ月もしない間に起きたチェルノブイリ原発事故は、なにを引き起こしたか。当時のソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは、こう話している。
 「わたしが始めたペレストロイカ以上に、二〇年前のこの月に起きたチェルノブイリ原発事故こそが、おそらく五年後のソ連崩壊の真の原因でした。・・・あの事故の前に、ある時代があった。そして事故の後にはまったく違った時代があったのです」


 この事故が大惨事となった原因の一部が、当時のソ連の秘密主義や無責任で無力、冷淡な統治にあった。
 ソ連の衛星国だったポーランド、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアの市民が立ち上がったとき、(チェルノブイリ事故で)すでに見る影もなく弱体化していた一大強国が彼らを制圧することはできなかった。

 「何よりもチェルノブイリの事故が、表現の自由を拡大する道を、それまでの体制の継続が不可能になる限界まで切り拓いたのです。あの事故により、グラスノスチ(情報公開)の政策を推し進めることの重要性が疑問を挟む余地がないほど明白になりました。そして、わたしがチェルノブイリ前とチェルノブイリ後という観点で、時代を考え始めたのも、あの頃でした」


 あの2001年"9・11"事件で尽きるはずだった米国・ブッシュ政権の天命を奪ったのは、2005年8月29日にニューオリンズを襲ったハリケーン"カトリーナ" だった。

 メキソコ湾岸の廃墟に立って、多くのジャーナリストが、大惨事が起きていた間の連邦政府の無能ぶり、冷淡さ、愚かさに対するこみ上げる怒りを口にした。・・・全国規模で論調が変わり、ブッシュはあっという間にアメリカ史上、最も人気のない大統領に転落した。


 9月1日に大統領は「誰一人、あの堤防の決壊を予測していた人などいないだろう」と発言した。メディアはのちに、8月28日に彼がその可能性について警告されている場面を撮ったビデオを入手した。
 そのころには、コミュニティのまとめ役からのしあがった急進派の黒人の一男性が(2008年の大統領選の)有力なライバルになっていた。(その候補は)ニューオリンズでキャンペーンを開始し、貧困対策を課題の中心に据えた。国民は変わった。・・・カトリーナが転換点だった。


 誰もが認め始めた管首相のリーダーシップのなさ、なにも行動を起こそうとしない自民党、自らが編み出した原発・安全神話の崩壊を認めようとしない電力会社、関連産業界・・・。それが、これからの日本になにを引き起こすのか?

 この本では、被災地に立ちあがる特別な共同体「災害ユートピア」と同時に「エリートパニック」という事実の検証にかなりの紙面を割いている。

 
 コロラド大学の自然災害センターを率いる災害社会学者キャスリーン・テアニーはカルフォリニア大学バークレイ校で、1906年の(サンフランシスコ)地震の100周年記念に講演を行い、聴衆をとりこにした。その中で彼女は「エリートは、自分たちの正当性に対する挑戦である社会秩序の混乱を恐れる」と主張した。彼女はそれを「エリートパニック」と呼び、パニックに陥る市民と英雄的な少数派という一般的なイメージを覆した。「エリートパニック」の中身は「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死手段に訴える性向、噂にもとを起こすアクションだ」


 「(スリーマイル島原発事故)のときには、原子炉ですでに原子炉底部の半分がメルトダウンし、閉じ込め機能が破られるまでに三〇分しかない状態だったそうです。・・・エリートたちは住民がパニックになるのを恐れて、原子炉がどんな危険な状態にあるかを公表しなかったのです」。人々が危険な存在であると想像したせいで、彼らは人々を大変な危険にさらしていたのだ。


 福島第一原発事故で、政府が出した自宅待機とそれに続く自主避難という摩訶不思議な指示。東京電力がどうしても明かさない危機の実態・・・。

「エリートパニック」によって、未来を担う子どもたちが健康被害に陥ったり、死に至ったりしないことを必死に願う。



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