2011年6月アーカイブ: Masablog

2011年6月25日

読書日記「すばらしい新世界」(池澤夏樹著、中公文庫)


すばらしい新世界 (講談社文庫 は 20-1)
ハックスリー
講談社
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 読売新聞朝刊に連載されていたのが1999年だから、もう十数年も前の作品。連載時は時々流し読みをしていたが、東北大震災の後に再読し、新たな感慨がよみがえった。

 出版社の紹介文には「ひとと環境のかかわりを描き、新しい世界への光を予感させる長篇小説」とある。
物語は、途上国へのボランティア活動をしている妻・アユミ、小型風力発電の技術協力をするためネパールの奥地・ナムリンに出かけることになった大手電機メーカーの技術者である夫、林太郎、ひとり息子の森介の3人を軸に展開する。

 アユミに勧められて林太郎が取り組もうとしているカジマヤー(沖縄語で風車の意)計画は、ナムリンの荒地を豊かな畑にするために100メートル下の川から水をくみ上げるための電気を風力でおこそうというものだ。

せいぜい数キロワットの電力だが、確実に供給しなければならない。・・・村の人々が労力をかけて耕し、貴重な肥やしをやり、種を播いて育てている作物が、生育の途中で水不足で枯れたら、それまでの労力の投下はすべて無駄になる。その年の冬には深刻な食糧不足が生じる。


(このあたりの事情は先進国と同じだ。電力会社の最大の義務は安定供給である。社会全体が電気に依存している以上、台風などの不可抗力による以外の停電は許されない。逆に言えば、社会は独占企業である電力会社に生命維持装置を預けているわけで、それだけ立場が弱いということでもある。)


林太郎の小型風力発電の提案に賛成してくれた課長の浜崎は、こんなことを言う。

「おれはな、これ(小型風力発電プロジェクト)で社内の雰囲気がほんの少しでも変わらないかと思ったんだ」
「ここはものを作る会社だ。作るものがなければ存続しない。しかしもう大きいものは頭打ちなんだよ」「・・・原子力や大きな火力はもうそんなに造れないぞ」
 「長大な送電線から消費者の消費癖まで含めて考えた時に、大型に頼る今のエネルギー・システムが本当に効率いいかどうか」
「ひょっとしたら、流れが変わるかもしれないと思うんだ。大規模なシステムを、コンピューターを使って、ぎりぎりの効率で運用する。そういうやり方はもうしばらくすると本当に変わるかもしれない」


アユミと林太郎は、息子の森介がこれから生きていく社会について、こんな話しをする。

「ああいう奴がのびのびできる社会になるか、ただの変わり者で終わるか」
「ちょっとした乱世が来るんじゃない。均質社会の枠組みは至るところで壊れているよ。既得権益を握った連中は揺さぶられている。先送りにしておいたものが全部支払いを迫られている。変わるよ」
「それじゃ、あなたや森介やわたしにとってはおもしろい時代が来るってことね」


 林太郎が出席した課内の会議で、十年後の電力生活についての論議が始まる。

 「原発はほとんど消滅」と本多(林太郎の同僚)が言った。「核融合は実用化の前に諦められた。火力はまだあるでしょう。大型のガス・タービンが増えている。太陽光と風力は今よりずっと多い。丘の上にはどこも風車。エレガントな美しい風車が優雅に回っている」
  「大気圏外に太陽光発電所を造って、マイクロ波で送電するという技術も実用化している」
 「消費の側が変わります」と林太郎が言った。「省エネがすすんで、家庭でも工場でも電力消費は今の三分の一くらい。家庭では電力をトータルに管理して、必要に応じて各家電機器に時間差をつけて配電するシステムが実用化されている。これでピークを抑えられる」


しかし、この小説が書かれて10年以上たった今、現実になったのは、核融合が諦められようとしているぐらい。
人々は、福島原発の放射能拡散におびえ、電力会社は原発再開を狙って?15%節電のおどしをかけている。

現実は現実として、せっかくだから著者が目指そうとしている"すばらしい新世界"に、もうすこし"酔って"みたい。

完成したナムリンの風車を見に訪ねてきた米国人ジャーナリストに、林太郎はこんな問答をしかける。

 「ぼくは言いたいのは風車のこと。家の絵の横に木を描くように、子供たちが自分の家を描く時、かならず横に風車を描く。それくらい風車が身近になったらと思うんですよ」
 「木は太陽の光と空気中の二酸化炭素と水とで光合成しています。でも、木を見る人はそんなことは考えない。ああ、きれいな木だなとか、あの木陰で休もうかとか、鳥が巣を作っているとか、そんなことしか思わない。それと同じくらい目立たない風車ってどうですか?」
 「今の話、すごくいい。技術というのは本当はそれくらい透明になって、自然の中に溶け込むべきかもしれない。今の風車はまだダメですね」
 「そう。まだ俺が風車だって顔をしてますから」


 著者、池澤夏樹は、今回の東北大震災をどう見たのか。
 4月Ⅰ3日付読売新聞に被災地を訪ねたレポートが載っている。

 地震と津波は多くを奪ったし、もろい原発がそれに輪をかけた。その結果、これまでの生活の方針、社会の原理、産業の目標がすべて変わった。多くの被災者と共に電気の足りない国で放射能に脅えながら暮らす。
 つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。そうしないと経済は回らないと言われてきた。これからは別のモデルを探さなければならない。


 池澤夏樹は、2005年に「すばらしい新世界」の続編「光の指で触れよ」を書いている。数年後には「震災の日を起点に、林太郎と森介が東北で活躍する」第3部を書く予定だという。
 その時の東北では、はたして瓦礫と原発は消えているだろうか。

2011年6月11日

読書日記「放射能汚染の現実を超えて」(小出裕章著、河出書房新社刊)


放射能汚染の現実を超えて
小出 裕章
河出書房新社
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 先日、神戸の書店・ジュンク堂本店をのぞいたら、震災、原発関連の本を100冊近く集めたコーナーが特設されていた。
 それだけ「これからの日本、人々の生き方を変える」かもしれない震災、原発事故への関心が高いということだろう。

 原発関係では、前回のブログでふれた反原発学者の小出裕章・京大原子炉実験所助教の著書も何冊か並んでいた。ただ、これらは小出さんの考えもあり、復刊されたり、過去の論文を編集者が本にしたりしたものばかりのようだ。
 表題の著書も、20年前の1992年に出されたのを、この5月に復刊したものだ。

 旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所で世界にまき散らされた放射能に人々がどう立ち向かうべきかが主な内容だが「今回の福島原発事故で放射能汚染された水と空気が次々と噴き出している」現実が目の前にあるだけに、身が震えるような記述になっている。

 小出氏が、チェルノブイリ事故によるソ連・ヨーロッパ地域のセシウム汚染の被害予測をしたところ、約80万人強がガンで死ぬという予測が出た。データがなかったため予測ができなかったヨウ素やルテニウム、ストロンチウム、プルトニウムを入れると「100万から200万の人が、今後ガンで死ぬ」という予測をしている。
 しかも、そのほとんどが発ガンの危険度が高い幼児、とくに0歳児に集中するという。

 チェルノブイリ事故による放射能汚染は、ソ連とヨーロッパだけではない。
 8千200キロも離れた日本にも風に乗ってやってきて、牛乳や野菜、母乳まで汚染していることを、小出氏は検査結果で示している。

 当時、知人から送られてきた有機農法の玄米のデータを調べて、小出氏は″仰天″した。「有機農法米に含まれていたセシウム137濃度が化学肥料米の30倍もあったのだ。
 ところが、小出氏がセシウム汚染の寄与度を調べてみると、チェルノブイリ事故の寄与は全体の6%しかなく、残りは世界各地で行われてきた核実験の結果でもあることも分かった。

 セシウムと同じような「化学的挙動をする」カリウムでつくられる肥料は、地中深く眠っている岩塩からできている。
 ところが「(放射能で汚された)地表で育った作物をもう一度堆肥にして、何度かまたそれを再循環させていく」有機農法は、放射能汚染から逃れようがないのだ。

 国内産の食糧だけではない。現在でも放射能で汚染された輸入食糧が、政府の「根拠のない規制値」のせいで、どんどん入ってきている。
 しかし、その規制を強化することは「汚染食糧が原発から生みだされる電力の恩恵をまったく受けていない発展途上国に向かうということを意味する」と、小出さんは釘をさす。
 「原発の恩恵を受けている国は、汚染も受け入れ(汚染食糧を食べる)べきだ」「被爆に
安全量はない。・・・消費者が汚染された農産物・海産物を拒否すれば、農業と漁業は崩壊する」

 小出さんの主張は、福島の事故であわてふためく我々に、鋭い刃を突き付ける。

 なにより心配なのは、これから生きていくこどもたちのことである。

 子供たちの被爆被害が少ないことを祈りながら、今回の"フクシマの灰″でさらに汚染された静岡や千葉産のお茶を飲み、汚染牧草をはんだ牛肉、東北沖から回遊してきた魚を食べ続けるしかない。

 週刊誌の「AERA」(6・13号、朝日新聞出版)が「放射能とがん」という特集を組んでいた。
 スウエーデンのマーチン・トンデル博士の言葉が気になった。
 「日本での堆積量は、チェルノブイリ以上かもしれません。政府が福島県内の学校での屋外活動を制限する放射線量を年間20ミリシーベルトに上げたのは、それだけ被爆量が多いという証拠。深刻な問題です」
 博士が日本について懸念するのは、スウエーデンよりもはるかに人口密度が高いからだ、という。

 よく理解できなかったが、こどもたちが公園に行けば、それだけ被爆の機会が増えるということと同じ理屈なのだろう。

 本格的な夏に向かって、プールに入れず、校庭や公園でも遊べないこどもたち・・・。
 そんな状態を招いてしまったのは、原発を容認し、その恩恵を受けてきた我々の責任でもある。

 同じ小出さんの著書隠される原子力 核の真実」(創史社刊)に「原子力から簡単に足が洗える」という気になる章がある。

     
日本では現在、電力の約三〇%が原子力で供給されています。そのため、ほとんどの日本人は、原子力を廃止すれば電力不足になると思っています。
 しかし、発電所の設備の能力で見ると、原子力は全体の一八%しかありません。その原子力が発電量では二八%になっているのは、原子力発電所の設備利用率だけを上げ、火力発電所のほとんどを停止させているからです。・・・それほど日本では(火力)発電所が余ってしまっていて、年間の平均設備利用率は五割にもなりません。
 過去の実績を調べてみれば、最大電力需要量が火力と水力発電の合計以上になったことすらほとんどありません。
 極端な電力使用のピークが生じるのは一年のうち真夏の数日、そのまた数時間のことでしかありません。かりにその時にわずかの不足が生じるというのであれば、自家発電をしている工場からの融通、工場の操業時間の調整、そしてクーラーの温度設定の調整などで十分に乗り越えられます。


    
今なら、私たちは何の苦痛も伴わず原子力から足を洗うことができます。


 もう一度、表題の著書「放射能汚染の現実を超えて」に戻る。

 
いま大切なことは、一刻も早くエネルギー浪費型の社会構造を廃止させることであり、いかにすればエネルギーを浪費せずに、なおかつ快適な生活ができるかを、社会の構造自体にたちかえって検討し直すことである。
 米国では、すでに一九七九年から新規の原発の発注が一基もなく、・・・ コジェネレーションと再生可能なエネルギーによる発電計画・・・の総量は六三〇〇万キロワットにのぼっている。現在の日本の原子力発電所の総出力が三八基、二九〇〇キロワットであることと比べれば、米国はすでにその倍以上のエネルギーをコジェネレーションや再生可能エネルギー源に求めようとしているのである。






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