2012年5月アーカイブ: Masablog

2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
posted with amazlet at 12.05.22
池澤 夏樹
文藝春秋
売り上げランキング: 7190


 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
モルデカイ パルディール
柏書房
売り上げランキング: 584277


 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。

 一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19-25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります




Amazon でのお買い物はこちらから