池澤夏樹アーカイブ: Masablog

2015年3月16日

読書日記「日本文学全集 01 古事記」(池澤夏樹訳、河出書房新社刊)


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

河出書房新社 (2014-11-14)
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 池澤夏樹が 「古事記」の現代語訳を昨年末に出した。西宮市立図書館に予約したが、結局借りられたのは、年明けの2月末だった。

  古事記にまず登場するのは、おなじみ伊邪那岐(イザナキ)伊邪那美(イザナミ)兄妹神の「国産み」神話である。

 二人が天と地の間に架かった天の浮橋に立って、天の沼矛を下ろして「こおろこおろ」と賑やかに掻き回して引き上げると、矛の先から滴った塩水が自(おの)ずから凝り固まって島になった。
 そこでこの島の名を淑能碁呂島(オノゴロシマ) と呼ぶことにした。


 著者は、前文で「古事記には、固有名詞にいちいち意味があり、・・・イザナキとイザナミという名には『互いに成功を誘(いざな)う』という意味がある」と解説。「天の沼矛は男性器の象徴という説があるが、納得できる」としている。
 塩水が凝(かたま)って陸地を生んだのは「海のほとりの製塩の現場に由来するのではないか」という見かたも分かりやすい。

 オノコロシマがどこにあるかは諸説があるようだが、兵庫県民としては、長く淡路島の近くにある沼島がそれという伝説に頼ってきた。
 しかし著者は「淑能碁呂島(オノゴロシマ)は、自ら凝ってできた島という意味で、実在の特定の島ではない」と、あっさり片づけている。

 天照大御神(アマテラス)が、弟神・建速須佐之男命(スサノヲのミコト)の乱暴に困って天石屋戸(岩戸)に隠れたという神話を改めて読んで、1昨年9月に宮崎・高千穂「記紀編さん130年記念ツアー」に参加したことを思い出した。

 そこ(岩戸のすきまから差し込まれた鏡)に映った顔を見ていよいよ不思議に思ったアマテラスが外を覗いて少しだけ戸から出てきたところで、蔭に隠れていた天手力男(アメノタヂカラヲのカミ)が手を取って引き出した。
 布刀田命(フトダマのミコト)はすぐアマテラスの後ろに尻くめ縄を張り、「もうここから中へは戻らないで下さい」と言った。
 アマテラスが出てきたので高天の原 葦原中国もすっかり明るくなった。


 高千穂地方には右から7,5,3本の藁茎を下げる「七五三縄」と呼ばれるしめ縄が神社だけでなく道沿いの民家にも張られていた。神を迎えるしめ縄は、この神話の尻くめ縄に起源があったのだ。

 池澤は、日本列島には、南島づたいに来た東南アジア系の人々、朝鮮半島から来た北東アジアの人々、そしてサハリン経由の人々という3つのルートから渡ってきており、それぞれが自分たちの神話を持ってやってきた、と見る。

 そして、皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされるアマテラスについて、こんな解説をしている。

 「天の権威によって統治者を立てるという思想はたぶん北東アジアから来た。本来はタカミムスヒが最も高位にいる神であって、それがある時点でアマテラスに置き換えられたという説がある。それかあらぬかアマテラスは最高神にしては機能が弱い。高天の原でスサノヲを迎える時は 「髪をはどいて男のような みづら型に巻き直し」戦闘モードに入ったが、 うけいの後はスサノヲの乱暴におろおろするばかり。最後には拗ねて岩屋に蔑もってしまい、他の神々の計略でようやく外に出る。自分の権能がわかっていないという感じで、その先のいくつもの判断にしても一々タカギ 思金神(オモイカネ)などの知恵を借りている。早い話が、『古事記』においてアマラス登場の場面はスサノヲに比べてずっと少ない。(古事記の編者である)太安万侶はいわば彼女を最上階に導いた上で梯子を外してしまった。」

 出雲の国に住む国つ神であるオオクニヌシが天つ神であるアマテラスの遣わした神々に葦原中国(アシハラノナカツクニ)を譲る 国譲り神話についても、古事記は多くの記述をしている。

 オホクニヌシは、「私の二人の子供が言ったのと同じことを私も申します。この葦原中国はすっかりそちらにお渡ししますから好きなようになさってください。ただ一つ、私が住む場所を天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)の欠けるところのないお住まいと同じように造りなおし、深い岩の上に太い柱を立てて、高天の原まで届くほどの高い 千木を伸ばしていただければ、私は百に足らぬ八十の道を辿った果てにあるこの出雲で隠棲して暮らします。私の子である 百八十神(ももややそがみ)、なかでも コトシロヌシはみなさんの先になり後になりして、お仕えいたします。逆らう者はいないでしょう」と言った。


 この神話については、このブログでも 「出雲紀行・下」 「葬られた王朝」(梅原猛著)でもふれたが、池澤はこう解説する。

 「そもそも、アマテラスを始めとする天上界の神々はなぜオホクニヌシが統一した地上界を自分たちに譲らせるという迂遠(うえん)な方法を経て統治権を確立したのか? 日本神話の神々はエホバのように全知全能ではない。地域ごとのまつろわぬ豪族どもを平定して国家を造るのにずいぶん苦労している。平定と中央集権の実現までの(たぶん現実の歴史に沿った)過程をどこかに反映している。出雲の勢力は 倭(やまと)の政権にとって最大の競争相手であって、その統合ないし懐柔は七世紀末になってもまだ伝承された記憶に生々しかったのだろう。だから『古事記』は『日本書紀』のようにあっさり出雲神話を無視できなかった。『日本書紀』が想定した読者はこの列島内だけでなく唐は長安の外務官僚たちも含んでいたから王権の正統性を強調せざるを得なかっただろうが、『古事記』にはそんな遠い慮(おもんばか)りは要らなかった。」

 「国譲り」神話には、こんな記述もある。

 タカムスヒがアマテラスの名のもとに 八百万の神々を天の安河の河原に集めて会議を開き、思金神(オモイカネ)の知恵を求めた。タカムスヒが言うようには、「この葦原中国は私の子が治める国と定めた国である。だがこの国には猛々しく乱暴な国つ神どもがたくさんいるらしい。どの神を遭わして説得して服従させればいいだろうか」と言った。
 オモヒカネは八百万の神々と合議して「 天菩比神(アメのホヒのカミ)を遣わすのがよろしいかと存じます」と申し上げた。
 そこで天菩比神(アメのホヒのカミ)を送ったところ、オホクニヌシに心服してしまって、三年たっても戻って報告をしなかった。


 古事記のなかには、スサノヲの ヤマタノオロチ退治など、強権を駆使した地方豪族征伐を示唆した寓話や親、子供殺しの話しも出てくるが、登場する神々は総じて心優しく,戦いを挑む前にまず説得に乗り出す。
 池澤は、こう語る。  「『古事記』には負けた側への同情の色が濃い。おおよそこの国の君主は古代以来ずっと政敵への報復に消極的で、反逆者当人は殺しても一族を根絶やしにすることはしなかった。そのうちに具体的な権力への執着を捨てて、摂関政治の後は神事と和歌などの文化の伝承だけを任務として悠然と暮らすようになる。これはまこと賢い判断であって、こんなのんきな王権は他に例を見ない。その萌芽を『古事記』 に読み取ることができる。」

 古事記には、イザナキ、イザナミの 「神産み」に続いて、400近い神々が次々と誕生する。なかには、稲田で鳥を追う 山田の曾富騰(そほど)、つまり山田の案山子(かかし)や窯やトイレの神々のほか、 大阪のおかあちゃんの始祖とも言われる阿加流比売(アカル・ヒメ)もちゃんと登場する。
     ホデリとホヲリ 山幸彦と海幸彦の話しは「そのままインドネシアの民話にある」という。
 大和(倭)の政権に反抗した 隼人の伝統にふれた箇所や朝鮮の 新羅を侵略した寓話まで記述されている。

 古事記は、なかなか奥深く、興味はつきない。池澤は「豊饒と混乱、目前に聳える未だ整理のつかない宝の山」と結んでいる。

 

2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
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池澤 夏樹
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2011年10月19日

読書日記「春を恨んだりはしない」(池澤夏樹著、中央公論新社)、「日本の大転換」(中沢新一著、集英社新書)、「神様2011」(川上弘美著、講談社)

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神様 2011
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 表題最初の「春を恨んだりはしない」の著者、池澤夏樹は、9月20日付け読売新聞の著者インタビューで「この半年は(東日本大震災について)考えているか、書いているか、被災地に行っているか。ほかのことはほとんどしていない」と語っている。
 
たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景になって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。
 死は祓えない。祓おうとすべきではない。
 更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。


そして池澤は「原子力は人間の手に負えないもので、使うのを止めなけばならない」と、次のように力説する。
 
原子力は原理的に安全ではないのだ。原子炉の中でエネルギーを発生させ、そのエネルギーは取り出すが同時に生じる放射性物質は外に出さない。・・・あるいは、どうしても生じる放射性廃棄物を数千年に亘って安全に保管する。
 ここに無理がある。その無理はたぶん我々の生活や、生物たちの営み、大気の大循環や地殻変動まで含めて、この地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来しているのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子に関わるものだというところから来るのだろう。


 ここまで読んで、同じような考え方にふれたのを思い出した。

 震災直後に朝日新聞出版から緊急出版された宗教学者の中沢新一、神戸女学院大学名誉教授の 内田樹、経済関係の著書が多い平川克美の鼎談冊子「大津波と原発」のなかで、中沢はこんなことを話している。

「核力からエネルギーを取り出す核融合反応というものは、もともと太陽で行われているものです。・・・核分裂はようするに生態圏の外にある」「原子力は一神教的技術なんです」

 なぜ生態圏の外にあった反応を生態圏に持ち込んだから、原発は制御不能なのか?
  超自然的な存在である神と原子力を一神教という名のもとにひとくくりしてしまうのも、キリスト教信者のはしくれである身には理解しがたい・・・。

大津波と原発
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内田 樹 中沢新一 平川克美
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 最近、その中沢が「日本の大転換」という本を出した。「大津波と原発」で言っていたことを敷衍しているらしい。各紙の書評欄でも次々取り上げられたので、読んでみた。

 中沢は、これまでの世界・社会は太陽の恵み(贈与)で成り立っていたのに、人間は原子炉のなかで"小さな太陽"を作ろうという無謀な試みをしようとして厳しいしっぺ返しを受けようとしている、と主張する。

 
太陽から放射される莫大なエネルギーの一部は、地球上の植物の行う光合成のメカニズムをつうじて「媒介」されることによって、生態圏に持ち込まれている。そうした植物や動物がバクテリアなどによって分解・炭化され、化石化したものが石炭や石油なのである。・・・
 ところが、原子炉はこのような生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさいへることなしに、生態圏の外部に属する現象を、生態圏のなかに持ち込む・・・。


 
津波によって、生態圏外的な原子炉と生態系をつないでいた、脆弱な媒介システムが破壊されたのである。むきだしになった核燃料は、臨界に達する危険をはらみながら、大量の放射性物質を放出し続けることとなった。そしてあらためて、人々の意識は、数万年かかっても処理しきれない、おびただしい放射性廃棄物を生み出すこの技術の、もうひとつの致命的な欠陥に注がれることになった。


 川上弘美の「神様2011」は、1993年に初めて書いた「神様」という短編を3・11後の世界に置き換えたものだ。放射能に汚染されて、人々は防護服を着、被爆量を気にしながら生きている。「神様」では2行で終わっている結びが5行に増えている。

 
部屋に戻って(熊の神様が作ってくれた)干し魚をくつ入れの上に飾り、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被爆量を計算した。今日の推定外部被爆量・30μ㏜、内部被爆量・19μ㏜、推定累積内部被爆量178μ㏜・・・。


 池澤の「春を恨んだりはしない」のなかで、このブログでもふれた著書 「新しい新世界」で予言した世界をこう描いている。

   
進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑えて言える時代の方へ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソラー・パネを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデレート・カンタービレの日々。


 
人々の心の中で変化が起こっている。自分が求めているモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。
 これからやってくる世界は、どちらだろうか。

 川上の描く世界が、ますます″日常化"するなるなかで、池澤らが提言する世界を目指す努力がどこまでできるのか。これからを生きる孫たちを思う・・・。

2011年6月25日

読書日記「すばらしい新世界」(池澤夏樹著、中公文庫)


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 読売新聞朝刊に連載されていたのが1999年だから、もう十数年も前の作品。連載時は時々流し読みをしていたが、東北大震災の後に再読し、新たな感慨がよみがえった。

 出版社の紹介文には「ひとと環境のかかわりを描き、新しい世界への光を予感させる長篇小説」とある。
物語は、途上国へのボランティア活動をしている妻・アユミ、小型風力発電の技術協力をするためネパールの奥地・ナムリンに出かけることになった大手電機メーカーの技術者である夫、林太郎、ひとり息子の森介の3人を軸に展開する。

 アユミに勧められて林太郎が取り組もうとしているカジマヤー(沖縄語で風車の意)計画は、ナムリンの荒地を豊かな畑にするために100メートル下の川から水をくみ上げるための電気を風力でおこそうというものだ。

せいぜい数キロワットの電力だが、確実に供給しなければならない。・・・村の人々が労力をかけて耕し、貴重な肥やしをやり、種を播いて育てている作物が、生育の途中で水不足で枯れたら、それまでの労力の投下はすべて無駄になる。その年の冬には深刻な食糧不足が生じる。


(このあたりの事情は先進国と同じだ。電力会社の最大の義務は安定供給である。社会全体が電気に依存している以上、台風などの不可抗力による以外の停電は許されない。逆に言えば、社会は独占企業である電力会社に生命維持装置を預けているわけで、それだけ立場が弱いということでもある。)


林太郎の小型風力発電の提案に賛成してくれた課長の浜崎は、こんなことを言う。

「おれはな、これ(小型風力発電プロジェクト)で社内の雰囲気がほんの少しでも変わらないかと思ったんだ」
「ここはものを作る会社だ。作るものがなければ存続しない。しかしもう大きいものは頭打ちなんだよ」「・・・原子力や大きな火力はもうそんなに造れないぞ」
 「長大な送電線から消費者の消費癖まで含めて考えた時に、大型に頼る今のエネルギー・システムが本当に効率いいかどうか」
「ひょっとしたら、流れが変わるかもしれないと思うんだ。大規模なシステムを、コンピューターを使って、ぎりぎりの効率で運用する。そういうやり方はもうしばらくすると本当に変わるかもしれない」


アユミと林太郎は、息子の森介がこれから生きていく社会について、こんな話しをする。

「ああいう奴がのびのびできる社会になるか、ただの変わり者で終わるか」
「ちょっとした乱世が来るんじゃない。均質社会の枠組みは至るところで壊れているよ。既得権益を握った連中は揺さぶられている。先送りにしておいたものが全部支払いを迫られている。変わるよ」
「それじゃ、あなたや森介やわたしにとってはおもしろい時代が来るってことね」


 林太郎が出席した課内の会議で、十年後の電力生活についての論議が始まる。

 「原発はほとんど消滅」と本多(林太郎の同僚)が言った。「核融合は実用化の前に諦められた。火力はまだあるでしょう。大型のガス・タービンが増えている。太陽光と風力は今よりずっと多い。丘の上にはどこも風車。エレガントな美しい風車が優雅に回っている」
  「大気圏外に太陽光発電所を造って、マイクロ波で送電するという技術も実用化している」
 「消費の側が変わります」と林太郎が言った。「省エネがすすんで、家庭でも工場でも電力消費は今の三分の一くらい。家庭では電力をトータルに管理して、必要に応じて各家電機器に時間差をつけて配電するシステムが実用化されている。これでピークを抑えられる」


しかし、この小説が書かれて10年以上たった今、現実になったのは、核融合が諦められようとしているぐらい。
人々は、福島原発の放射能拡散におびえ、電力会社は原発再開を狙って?15%節電のおどしをかけている。

現実は現実として、せっかくだから著者が目指そうとしている"すばらしい新世界"に、もうすこし"酔って"みたい。

完成したナムリンの風車を見に訪ねてきた米国人ジャーナリストに、林太郎はこんな問答をしかける。

 「ぼくは言いたいのは風車のこと。家の絵の横に木を描くように、子供たちが自分の家を描く時、かならず横に風車を描く。それくらい風車が身近になったらと思うんですよ」
 「木は太陽の光と空気中の二酸化炭素と水とで光合成しています。でも、木を見る人はそんなことは考えない。ああ、きれいな木だなとか、あの木陰で休もうかとか、鳥が巣を作っているとか、そんなことしか思わない。それと同じくらい目立たない風車ってどうですか?」
 「今の話、すごくいい。技術というのは本当はそれくらい透明になって、自然の中に溶け込むべきかもしれない。今の風車はまだダメですね」
 「そう。まだ俺が風車だって顔をしてますから」


 著者、池澤夏樹は、今回の東北大震災をどう見たのか。
 4月Ⅰ3日付読売新聞に被災地を訪ねたレポートが載っている。

 地震と津波は多くを奪ったし、もろい原発がそれに輪をかけた。その結果、これまでの生活の方針、社会の原理、産業の目標がすべて変わった。多くの被災者と共に電気の足りない国で放射能に脅えながら暮らす。
 つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。そうしないと経済は回らないと言われてきた。これからは別のモデルを探さなければならない。


 池澤夏樹は、2005年に「すばらしい新世界」の続編「光の指で触れよ」を書いている。数年後には「震災の日を起点に、林太郎と森介が東北で活躍する」第3部を書く予定だという。
 その時の東北では、はたして瓦礫と原発は消えているだろうか。

2011年2月27日

読書日記「本は、これから」(池澤夏樹編、岩波新書)、「電子本をバカにするなかれ 書物史の第三の革命」(津野海太郎著、国書刊行会)


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電子本をバカにするなかれ 書物史の第三の革命
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▽「本は、これから」
 本とはいったいなになのか、これからどう変貌していくのか・・・。
 本の過去と未来について、書店、古書店、取次業者、装丁社、編集者、そして書き手や読み手の立場から30数人の人が語りつくしたエッセイ集。
 編者の池澤夏樹によると、集められた文章を要約すれば「それでも本は残るだろう」という結論になる。
 あるいはそこに「残ってほしい」や、「残すべきだ」や、「残すべく努力しよう」が付け加わる・・・。


 それにしても、色々な意見があるものだ。

 「記憶媒体としての電子書籍・・・、自分の頭を鍛えるための紙の本・・・という棲み分けができそう」(池内 了・総合研究大学院教授=宇宙物理学)

 「無機的に冷たく光る・・・iPadのマージン(余白)を見るたびに、密室に閉じ込められたような不安感を覚える」(桂川 潤・装丁家)

 「(電子書籍の)大きなポイントは老眼に対するホスピタリティで、文字の大きさと光度の、『痒いところに手が届く』感は半端ないですね」(菊池成孔・音楽家)

 「電子化を奇貨として、日本の書籍を何らかの程度に国際商品へと衣替えしようという出版人や著作者は現れないものか。・・・電子書籍こそ日本文化を発信し、日本の書籍の魅力や優秀性を売り込むための願ってもない武器であるはずだ」(紀田順一郎・評論家)

 「書籍は技術を売り物にする商品ではありませんよね。・・・それほど離れた位置にあったはずの書籍に先端技術がなんとか絡もうとしているのは、その先端技術とやらがすでに終盤に来ていう証です」(五味太郎・絵本作家)

 「本は、人が生きた証として永遠の時を刻む。紙か電子かは門構えの違い」(最相葉月・ノンフイクションライター)

 「もしこの時代に自分が学生だったら、出版社に入りたいと思う。だって、今なら何でもできそうだから。絶好調の業界に入っても面白くないでしょう・・・」(鈴木敏夫 ・スタジオジブリ代表取締役プロデユ―サー)

 「デジタル化は、本の『物質性』の消滅を意味すると思う。積極的には『物質性』の制約や束縛からの解放であり、消極的には『パッケージ』であった本の『枠』が外され、知識が情報化・断片化していく」(外岡秀俊・ジャ-ナリスト)

 「電子書籍は紙の世界かのコンテンツのほかに動画像、映像、音声、音楽など、紙の世界では表現できない新しいコンテンツが扱えるわけで、書籍までがマルチメディア情報の時代になってきた」(長尾 眞・国立国会図書館長)

 「メディアやデバイスが変わったからといって、読書行為に伴う何かはめったなことでは失われないし、・・・iPadによって黙読が"触読"に進んだだけのこと」(松岡正剛・編集工学研究所所長)

   ▽「電子本をバカにするなかれ」

 この表題から、IT関連業界人の電子書籍礼讃本だと思ったが、まったくの勘違いだった。

 津野氏は、編集者として「紙に印刷された本」(著者いわく、書物史の第二の革命の本)の側に立ちながら、同時に季刊・本とコンピューター(すでに廃刊)の総合編集長として、本とコンピューターの関係について思考を重ねてきた人らしい。

 著者は「いま(二〇一〇年夏)、これから本の世界に生じるであろうことを・・・四つの段階にわけて考えている」と書く。
(第一段階)好むと好まざるとにかかわらず、新旧の書物の網羅的な電子化が不可避に進行していく。
 (第二段階)その過程で、出版や読書や教育や研究や図書館の世界に、伝統的なかたちの書物には望みようのなかった新しい力がもたらされる。
 (第三段階)と同時に、コンピューターによってでは達成されえないこと、つまり電子化がすべてではないということが徐々に明白になる。その結果、「紙と印刷の本」のもつ力が再発見される。
 (第四段階)こうして、「紙と印刷の本」と「電子の本」との危機をはらんだ共存のしくみみが、私たちの生活習慣のうちにゆっくりもたらされる・・・。


 それでは、従来の出版業界はどうなっていくのか。
 けっきょく、旧来の出版産業はインターネットのそとで、これまでどおりの紙の本の世界にとどまりつづける。・・・
 ただし、それでは従来の経済規模を維持することはできない。したがって戦線を徐々に縮小していくしかない。


 もう門外漢だが、同じことが大量の発行部数にこだわり続ける新聞業界にも当てはまりそうだ。

 そして、これからの「まだ見えていない新しい出版ビジネスをになう」のは、(現在の伝統的な出版モデル)を知らない「いま保育園や幼稚園にかよっている子どもたちからあとの人たち」だという。

 単なる「本、大好き」人間にとっても、なかなかエクサイティングな未来予想である。

 ▽日本一の本屋・周遊記
 大阪・茶屋町にオープンした日本一の本屋と評判の「MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店」に、2月の初めに行ってみた。広さ約6800平方㍍、在庫200万冊を誇るという。

 地下1階のコミックを除いて、1階から7階までくまなく歩いた(もちろんエスカレーターを使って)。

 各フロワーでフエアをやっており、話題本を集めたコーナーがあり、書架も細かいジャンルに分かれている。
 例えば、2階では「大阪出身作家」のフエアが開かれ、「いい話」「皇室」「シルバエッセイ」「闘病記」「ケータイ小説」「乙女本」などのコーナーがあり、新刊の新書本を集めた「新書ナビ」コーナーも、食文化、西洋哲学、就活などに分かれている。

 とにかく楽しい。博覧会会場かディズニーランドに行った気分で、思わず衝動買いをしてしまった。

 ところが・・・。

数日前のNHK「週間ブックレビュー」で紹介されていた、ある画家の画集兼随筆をどうしても見たかった。検索コーナーにいる若い女性からベテランらしい男性に替わり、絵画コーナー担当者も出てきたが見つからない。

 あきらめて帰り、自宅でAMAZONを開いたらすぐに購入できた。ただし「届くのは月末」という表示。どうも版元で在庫切れだったようだ。

 日曜日の各紙に掲載される「読書特集」だけでなく、「週間ブックレビュー」の情報ぐらいは、書店全体でどうして共有できないのか。
 失礼ながらジュンク堂の店員は、このような情報に他の大型書店員以上にうといように感じるのは、私だけだろうか。

 リアルな書店がネットショップにぶざまに負けていく様子はできれば見たくないだが・・・。

2007年12月30日

読書日記「きみのためのバラ」(池澤夏樹著、新潮社)

 ある人の勧めで、最近、図書館通いがくせになった。

 このブログを始めたこともあって、とくに日曜日は図書館で新聞各紙の読書欄をチェックすることにしている。

 2週間ほど前の毎日新聞で「今年の3冊」という特集をしていたが、30人近い識者のうち3人が推薦していたのが、この本。

 さっそく、借り入れを申し込んだら、市内の2つの分室にあるという。予約を入れ、数日後に手元に届いた。

 以前に読んだ同じ著者の「静かな大地」(朝日新聞社)は、北海道開拓とアイヌ問題を真正面から取り上げた重いテーマだったが、著者12年ぶりの短編集というこの本は、だいぶ趣向が違う。

 真っ白い表紙に青いバラを描いた装丁もしゃれている。推薦者の一人、髙樹のぶ子は「ヨーロッパテーストのおしゃれな短編集」と評し、同じく養老孟司は「ときに品のある小説を読みたいと思っていたら、たまたま読んでしまった。・・・」と書く。

 例えば、最初の「都市生活」は、こんな風。

 ある都市で、飛行機に乗り遅れ、最終便の空席待ちもはずれて最悪の日となった男が、入ったレストランでうまい牡蠣に出会い、満足して白ワインを飲む。  
 同じく、最悪の体験をした後、一人で食事をしていた近くの席の美女が、最後のデザートのすばらしさにふっと笑う。
 それをきっかけに、ちょっとした会話がはずみ「あなたの牡蠣の食べ方も、すごくおいしそうに見えたわよ」。そう言って、彼女は大股に店を出ていく・・・。

 「レギャンの花嫁」は、バリ島での悲しい恋物語。「レシタションのはじまり」は、ブラジルの奥地に住むある種族がとなえる呪文が世界に広がって争いがなくなり、世界中の軍隊と警察が解散してしまう、という現代のお伽噺。

 このほか、舞台はヘルシンキ、カナダ、沖縄、パリ、メキシコと広がる。自然なリズム感のある文章が、心地よい。

 「スタンダールは墓碑銘に"生きた、書いた、愛した"と刻んだが、ぼくならそれに"読んだ、旅した"が加わる」(「池澤夏樹の旅地図」、世界文化社)と書く、著者の面目躍如とした小説だ。

 ついでに積読してあった同じ著者の「カイマナヒラの家」(発行・ホーム社、発売・集英社)も読んだ。

 ハワイ・ワイキキ浜の近くにある豪邸の管理をまかされた若者たちが、サーフインや恋を楽しみ、ハワイイ(「この島々を呼ぶ本来の言葉は、ハワイイだ」と、著者は言う)の風土に触れていくファンタジー。サーファー兼カメラマン・芝田満之の幻想的な写真もたくさんついている。

最 後のページの写真に「この物語の登場人物はすべて架空であり作者の想像の産物であるが、家は実在した」と書いてある。

 しかし、文中にレラ・サンという女性サーファーの死を悼む話しが出てくるが、同じ著者の「ハワイイ紀行」(新潮社)という本には、このレラ・サンが写真付きで登場している。

 旅する作家、池澤夏樹という小説家の体験が、「カイマナヒラの家」というファンタジーを生んだということだろう。

 さきにふれた「池澤夏樹の旅地図」という本のなかに、こんな記述がでてくる。

 「読むことと旅をするということは実は原理的に似ている。・・・だから現実の旅のなかで本を読むのは・・・メイン・ディッシュの途中でデザートを食べるような、どこか重複して違いを邪魔し合う結果になる・・・」。

 なるほど。旅行に本を持っていっても、ほとんど読めないのはそのせいかと、なんとなく納得した。

きみのためのバラ
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4 待望の、というのは本当ですね


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