2008年9月アーカイブ: Masablog

2008年9月28日

知床紀行③(終)「見えてくるアイヌ民族への差別」


 世界遺産登録を審査する国際自然保護連合(IUCN)は、2004年の7月に知床の登録を認めた際、今後の知床管理(自然保護)にアイヌ民族が参画を促し、アイヌ文化を生かしたエコツーリズムを開発すべきだと勧告している。

 知床はアイヌ語で「シリエトク(大地の果て)」を意味するし、アイヌ民族の遺跡も多い。世界遺産・知床は、もともとアイヌ民族の地だったのだ。

 まったくの無知だったが「そういうことなら」と、知床への旅の最終日に「アイヌ民族・聖地巡礼」というエコツアーに申し込んだ。あまり人気がないのか、参加したのは私と友人・Mの二人だけ。

 アイヌ民族の母と日本人の父の間に生まれた自然ガイド・Hさんは、もともと旭川の「ペニユンクル(川上に住む人の意)」の出身で、面長な精悍な顔つき。知床など道東に住むアイヌ民族は彫りの深い丸顔の人が多く、アイヌ民族にも様々な種族があることを教えられた。

 最初に行ったのは、小学校の跡地。小学校ができる前には、アイヌ民族の砦や住居、見張り台であり、祈りの場でもあったチャシ(城柵という意味)の遺跡があったそうだが、現在は跡形もない。

 対岸には、ウトロ港のわきにあるオロンコ岩が見下ろせる。ここ住むオホーツク海を渡ってきたなぞの部族・オロッコ族とは、長年闘争が続いていた。ある時、アイヌ民族は、木と草で作ったクジラの上に魚を乗せて浜に置いた。オオセグロカモメなどの海鳥が群がったのを見て、オロッコ族はクジラの肉を取りに岩を降りてきた。そこを一網打尽。オロッコ族は滅んだ・・・。

クリックすると大きな写真になります 国道334号線沿いの樹木に囲まれた暗いくぼ地に、白い土嚢を積み上げてあるところがあった。アイヌの儀礼として有名なイヨマンテ(熊の霊送り)の遺跡だという。(写真①)

 数年前に北海道大学の発掘隊が、土器や矢じり、熊の骨などを採取した。しかし、ここは地元漁民の私有地。川に遡上したシャケなどを採るアイヌ民族への漁民の反発は昔から強く、遺跡もこれ以上の保存ができないでいる、という。

 うっそうと樹木が茂る山に入った。その前に,Hさんは山の神に祈りをささげる。両手をすり合わせ、山の空気を感じて手を広げる。「武器はなにも持っていません。指も5本ともそろっています」と、入山の許しを得る祈りだ。

 道もない、けっこう険しい山腹をつたや木の根をつかみながら登ること約30分。細い道のある平地に出た。「あれ!これ、やじりにしては大きいなあ」。Hさんが、黒い三角形をした小石を拾い、渡してくれた。長さ約5センチ、底辺が約4センチ、先端が1センチ強。小さな削り跡もある黒曜石。13,14世紀のアイヌ文化期のものだというが、小道でHさんが拾ったタイミングが、ちょっと出来すぎという感じ。ツアー参加者へのサービスかな?。

クリックすると大きな写真になります オホーツク海が見下ろせる台地に出た。回りに、2メートルほどの溝のようなものがあるのが特色のチャシ遺跡の一つだった。(写真②)

クリックすると大きな写真になります Hさんが、オホーツク海の荒波を見下ろす崖際で、アイヌ伝統の楽器・トンコリを弾いてくれた。赤エゾマツで自作したもので、曲もオリジナル。「あなたのこころにそっとふれさせて」「わたしのこころをあなたにさしあげます」・・・。文字を持たないアイヌの言葉が、低い弦の音とともに風に乗っていった。(写真③)

 アイヌ民族は、無駄に木々を傷つけない。しかし、帰り道で「ちょっと、折れているところがあるから」と、キハダという木の表皮を小刀で削り、内側の小さな黄色い樹皮をくれた。Hさんは、お腹が痛くなるとこの樹皮を食べさせられ、キズにも効くという。友人・Mが山を這い登る時に手に軽いケガをして血が出ていたので、この樹皮でこすってみると、翌日にはすっかり治っていたのには、びっくり!

 広辞苑を引くと「黄肌」という生薬だった。自然と共生するアイヌ民族の知恵の一旦にふれることができた。

クリックすると大きな写真になります オシンコシン(エゾマツのはえている川)の滝(写真④)の近くにあるオンネペツ川(大きなかわ)に、カラフトマスを見に行った。前日から、漁は解禁されていたが、カラフトマスは、河口でグルグル泳ぎ回っていた。海水から真水の川に入るのにちゅうちょ?しているらしく、数日後には産卵のために一斉に遡上するらしい。沖合いに、マス漁の漁船が波に揺れている。コンブのふくよかな匂いがあふれる豊かなオホーツクの海だった。

 しかし、アイヌ民族は、昔のようにマスやシャケを自由に採ることができない。「アイヌ民族を先住民族として認める決議」が昨年の国会で採択されたが、知床管理計画にどうアイヌ民族を参加させるかについての、具体的な動きはまだない。それどころか、先日は就任したばかりの中山国土交通相が「日本は非常に内向きな単一民族」などと発言して、反発を買うおそまつさだ。

 しいたげられた民族が、この日本に存在することを忘れるわけにはいかない。

参考にしたい本
  • 「もうひとつの日本への旅」(川田順造著、中央公論新社)
    「1万2千年前にくらいから・・・縄文文化を生んだ人たちがいて・・・それがアイヌと、現在の私たちのかなりの部分との共通の先祖であったことは、ほぼ疑いない・・・」
  • 「学問の暴力」(植木哲也著、春風社)
      幕末にイギリス人がアイヌの墓から人骨を盗掘した事件や北海道大学の研究者が研究目的でアイヌ人骨を墓から掘り出し、現在でも大学は1千体以上のアイヌ人骨を保管しているという、驚くような事実を明らかにしている。

 この本を新聞で書評した米本昌平氏は「学問の名の下に、アイヌの人たちの伝統や尊厳を踏みにじる所業を許したのは、最近までわれわれの心に塗り込められていた、知的権威に対するあがめ立てと、差別感覚であったことは、再認識しておく必要がある」と、書いている。

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2008年9月19日

知床紀行②「野生動物との共生」


 世界遺産・知床の象徴であるヒグマには、2度ほど遭遇というより、遠くからかいま見ることができた。

 1回は、この時期だけ行けるというカムイワッカの滝を見に出かけたバスのなかから。道路沿いの斜面をゆっくり歩いていた。双眼鏡で観察していた監視員によると、アリを食べにきた子グマだという。

クリックすると大きな写真になります このカムイワッカの滝(写真①)は、緩やかな岩面を川の水と温泉の水が混じって流れ落ちており、触ると温かい不思議な滝だ。アイヌ語で、カムイワッカとは「神の水が流れる川」。温泉の酸性が強いので、岩面にコケなどがつかないから、トレッキングシューズのまま沢登りを試みても、まったく滑らない。といっても、ところによってはかなりの急斜面。歩くのに不慣れな同行・Mは、数日間、足の筋肉痛に悩まされてしまった。

 もう1回はクルーザーツアーで、切り立った断崖や滝がオホーツク海に流れこむのを見に行った時。滞在中、海が荒れて観光船は連日休航だっただけに、船酔いの薬まで飲み、大波に揺れるクルーザーに乗るのは、なかなかの迫力だった。ウトロ港を出て、約1時間。海から遡上するカラフトマスやシロザケをねらって、ヒグマがよく出没するというルシャ川沖まで来た時、草原のなかを牡グマが歩いているのが遠目でも分かった。近くに知床自然センター(知床財団)の観察車2台がいて監視を続けている。

クリックすると大きな写真になります そこから、1キロほどウトロ側に戻った海岸でもヒグマ2匹がなにかを食べている(写真②)。間違って海岸に打ち上げられて死んでしまったイルカかクジラらしい。100メートルほど後ろには、別のヒグマが待機している。そのまた後ろの草原にも、もう1匹。ヒグマは、集団では行動しないようだ。

クリックすると大きな写真になります ホテルのロビーで「ヒグマが出没しているため本日、知床5湖中、1湖と2湖以外立ち入り禁止」という表示が連日、かかっていた。しかし、自然ツアーガイドのKさんによると、これは観光客向けの一種のトリック。本当は、ヒグマが出てくることが少ない5月から6月中旬までと9、10月以外は、知床5湖中、3、4、5湖の3つの周辺には電気柵が設けられ、終日立ち入り禁止なのだ(写真③)。しかし、観光ハイシーズンの遊歩道閉鎖には、地元観光業者の批判も強く、「本日立ち入り禁止」の表示が連日続くことになったという。

クリックすると大きな写真になります 1湖までの木道わきでは、ヒグマが好物のミズバショウの根を食べるために掘り起こした跡がいくつもあったし、2湖近くのクワの木には、実を採るために昇り降りした爪あとも残っていた(写真④)。丸い穴は登る時のもの。滑り降りる際の爪あとは長く残っている。

 知床にいるヒグマは、約400頭。空港に帰るバスのガイドの説明によると「東京・新宿区に約10頭いる」勘定だそうだ。知床は、世界でも有数なクマの高密度生息地なのだ。そこへ世界遺産に認定されたこともあって、我々観光客が、野生動物に遭遇しようと胸を躍らせて押し寄せてくる。

 「新世代ヒグマ」という言葉を聞いた。

 ヒグマは本来、人間に遭遇した場合、危険を感じなければ(ヒグマ側が)避けて行き、危険を感じれば襲いかかる。

 しかし、最近の新世代グマは人間をおそれない。駐車場に現れて、観光客が車から投げたエサを平気で食べるらしい。

 キタキツネも同じような状況だ。ツアーの途中で、道路わきをトコトコ歩くキツネたちを何度か見た。ツアーガイドのHさんよると、ホテルのゴミ箱などエサをあさりに出かける途中らしい。早朝ツアーの途中、魚の頭をくわえて、子キツネの待つ巣へ急ぐ姿を良く見るという。行く前に読んだ「知床・北方四島」(大泰司紀之、本間浩昭著、岩波新書)という本は、人間が与えた食パンをくわえるキタキツネの写真を載せ、やはり「新世代」と呼んでいる。しかし、キタキツネはエキノコックスという寄生虫を仲介し、接触して発病した人間は死亡することもある、という。

 10数年前にニュージランドにオットセイの生息地や森に住むペンギンを見に行ったが、ナチュラルガイドに導かれて、彼らの世界をそっとのぞかせてもらうのは、ワクワクするような体験だった。

 先日、NHKが「エコツアー」という番組を放映していた。ルーマニアのドナウデルタで、10種類の野鳥が一緒に1000以上の巣を作っているコロニーを訪れた女性アナウンサーが「ここは、私たちが来てはいけないところ」と、つぶやくのが印象的だった。

 知床で、人間と野生動物との"ニアミス"が発生するのは、人間が野生動物たちの世界に入り込んだからだ。

クリックすると大きな写真になります 知床5湖などがある岩尾別地区には、クマザサが生い茂る草原が各所で見られる。大正時代に始まった農業開拓が失敗し、離農した跡地だ。エゾジカさえほとんど食べないクマザサが密集地には、木も生えない。「知床100平方メートル運動」と呼ばれる、ボランティアによる森の復元運動も始まっている(写真⑤)。

 しかし、クマザサが密生した草原を見ると「100年たって、森に帰っているだろうか」という絶望感に襲われる。

 そして、世界遺産に認定された現在の知床に観光客が押し寄せ「新世代」のヒグマやキタキツネを誕生させている。

 ヒグマの保護や安全対策のための地道な活動は続いている。http://www.shiretoko.or.jp/bear/bear_01.htm

 だが、知床の自然と観光の両立を考える前に、世界遺産・知床を野生動物たちに返すための活動をすべきなのではないのか。そんな疑問への答えは、知床を離れた今も出てこない。

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2008年9月 7日

知床紀行①「エゾジカ 繁殖の危機」(2008年8月16-20日)

 このお盆に、世界遺産・知床を訪ねた。そこで見たものは、人間と野生動物たちとの、あまりにも危い"ニアミス"ぶりだった。

 着いた日の午後8時から「ナイトシアター」と称する夜の野生動物探索に出かけた。「ヒグマと遭遇する危険がある」ということで、探索は、自然ガイドが運転する小型バスのなかからだけ。携帯用のサーチライトで照らすと、エゾジカが道路わきの斜面の芝生を食べていたり、キタキツネがトコトコ歩いていたりするのに出会う。5日間滞在している間には、ホテルの前庭や庭園、滝見物に行く途中の草原、散歩中の白樺林の近くなど、最後にはいささかうんざりなるほど多くのエゾジカに遭遇した。

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 写真①=ホテルの前庭に群がるオスジカ。見えている白い草花は食べない  写真②=散歩中に遭遇したオスジカ。どんどん近づいてきて、いささか恐怖感を抱く直前に、藪のなかに飛び込んだ

 人はこわがらないが、ある距離以上は近づかず、奈良公園のシカのようにエサをもらうこともない。あくまで野生の動物だから。しかし、人間との距離が「あまりに近すぎる!」というのが、率直な印象だ。

 知床にいるエゾジカは、世界遺産区域の山林を含めて、ざっと1万5千頭。秋の繁殖期の後には、それが2万5千頭近くまで増え、厳冬の厳しさでオスジカと0歳ジカの多くが生き残れず、春にはもとの1万5千頭に戻ってしまうという。それでも、野生動物が厳しく保護されている世界遺産区域の山林を含めても、かなり高密度な生息ぶりだ。

 明治時代には、極端に頭数が減っていたエゾジカが繁殖したのは、天敵のエゾオオカミが害獣として駆除されたりして絶滅したから。自然循環のバランスが崩れてしまったのだ。

 それによって、なにが起こったか。まず「世界遺産・知床から、花が消えた」(自然ガイドのHさん)。エゾジカが食べてしまうのだ。

 知床5湖へのオプションツアーの途中で、原生林のなかに2メートル近い木の柵で囲まれた区域があった。エゾジカに荒らされない植生を再生する実験だという。囲みのなかでは、昔から知床に生えていた草花が戻ってきているらしい。

 地下水が岩から湧き出し、オホーツク海に注ぐフレペの滝近くの草原には、キオンと呼ばれる黄色い花畑が広がっていた。エゾジカが嫌う種類であるため、生き残った。
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写真③=フレペの滝:知床海岸探訪のクルーザーから 写真④)=キオンと呼ばれる黄色い花畑が広がっていた 写真⑤=エゾジカに樹皮を食べられ、立ち枯れたイチイの木(フレペの滝近くで)

 冬になると草が食べられなくなったエゾジカは、イチイ、ミズナラ、エゾマツなどの柔らかい樹皮を選んで食べてしまう。水を吸い上げる導管は樹皮のすぐ裏にあるので、おかげで樹木は枯れてしまう。世界遺産区域の何箇所かで、下の樹皮をシカに食べられ立ち枯れた樹木をいくつも見た。

 知床が世界遺産に選ばれた最大の理由は「海と森の生態が共生している」(自然ガイドのKさん)こと。だが、エゾジカの異常な繁殖は、海と共生している森の生態を崩しかねない。

 エゾジカの天敵、オオカミを再導入しようという考えもあるらしい。しかし、人間と野生動物との距離が、これほどまでに近い知床では、現実の議論にはなりにくそうだ。

 世界遺産区域を持つ、北海道斜里町では、樹皮や農産物を食い荒らすエゾジカを害獣として捕獲、食肉加工までをする民間企業「知床エゾジカファーム」を設立したという。馬肉を「サクラ」と呼ぶのに対し、鹿肉は「モミジ」と言うらしい。だから、この会社が作るエゾジカ肉特産品の名は「知床もみじ」。

 知床から帰ってから読んだ、椎名 誠の「『十五少年漂流記』への旅」(新潮社)のなかに、こんな記述があった。
 「鹿肉は、日本ではゲテモノ扱いだ。いま日本各地で野生の鹿が増えている。・・・阿寒湖ではエゾジカが害獣指定され、・・・毎日何百頭と撃ち殺しているが、その肉をうまく流通させているとはいえない」

 「鹿の無駄死はあまりにむなしい、というのでエゾジカを食卓にあげようと運動もおきているが・・・鹿肉軽視の習慣をこわすところまではいっていない」


 食肉論議をする前に、人間と野生動物の距離をもう一度引き離して、共生の道を探るのには、日本の国土はあまりに狭すぎるのだろうか。

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