紀行文アーカイブ: Masablog

2018年2月22日

読書日記「ジーノの家 イタリア10景」(内田洋子著、文春文庫)「対岸のヴェネツイア」(同、集英社刊)


ジーノの家―イタリア10景 (文春文庫)
内田 洋子
文藝春秋 (2013-03-08)
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対岸のヴェネツィア
対岸のヴェネツィア
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内田 洋子
集英社
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 著者は、イタリア在住のジャーナリスト。長年、日本にイタリアのニュースを届ける仕事を続けてきた。

内田洋子.JPG

 著書「ジーノの家」のあとがきに、こんなことを書いている。
 
イタリアで暮らすうちに、常識や規則でひとくくりにできない、各人各様の生活術を見る。
 行き詰まると、散歩に出かける。公営プールへ行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じつと観る。ときどき、バールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。
 名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。瓢々と暮らす、ふつうのイタリアの人たちがいる。引き出しの奥を覗いては、もっとコレクションを増やしたい、と思う。


 そして、名も無き人を取材するために、イタリア各地で引っ越しを続ける。

 ミラノのバールで、パトロールでコンビを組む男女の警察官と知り合った。
 ミラノには〈黒いミラノ〉と呼ばれる無法地帯があるらしい。2人がついこの間まで、その地区の担当だったと聞き「よほど私は〈しめた〉という顔つきをしたらしい」
 「物好きねえ」と呟いた中年婦人警官のアイデアで、借りた警察犬を暗黒地区の保健所に予防接種に連れて行くという設定になった。

 賑やかな運河地区から徒歩15分の距離というのに、昼下がりの街に人影はない。広場の背後の古びた高層公団住宅のベランダにある錆びついた物置の扉がきしんだ音をたてている。「広場のシャッターの閉まったゴミの山が悪臭とともにむっくりと動き「金をくれないか」と言った。ゴミは、イタリア男だった。

 地区の情報交差点だからと、2人に奨められたバールに飛び込む。店長に出身を聞くと、 カラブリアの出身という。シチリアのマフイア、ナポリのカモッラと並ぶ犯罪組織の拠点だ。

 
一瞬息をのむ私を確認した後、店長は言った。「もし何か困ったことがあったら、頼りになる友人を紹介しますよ」。視線はこちらだが、焦点は空を泳ぎ、その奥は白々と冷えきっている。
 店を出る。早足。小走り。全力疾走。・・・早く帰ろう。犬よ、走れ。
 気ばかり急いて。しかし足はもつれ、なかなか先へは進まなかった。・・・しばらくの間、エスプレッソを飲むたびに、あの日見たミラノの閉ざされた世界の寒々しい様子が目の前に現れて、胃が縮むのだった。


 1年を通して曇りの日が多く、半年は冬の寒さが残るミラノから引っ越そうと、南国・ インペリアの海を一望できる赤い屋根と白壁の小さな家「ジーノの家」を借りた。シチリア、ナポリにも移り住み、ついには定年退職者が海から引き揚げた古式帆船に6年も住んでしまう。

 この本は、ベストセラーになった 「『考える人』は本を読む」 河野通和著、角川新書)で取り上げられていた。

 河野通和は「ジーノの家」の項の巻末で、こんなコメントがつけている。

 「2011年、本作で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。近年私の出会った中でも、著者はもっとも噛(か)み応えのある書き手の一人です。行動力、観察力、記憶力、構成力、文章力......すぐれた特長はいくらでも挙げられますが、イタリアかぶれとは対極の彼女が、イタリア人のありふれた暮らしになぜ引き寄せられてしまうのか ――そのプロセスと謎が、読む者の心を騒がせます」


 「対岸のヴェネツイア」は、内田洋子の最新作。今度はヴェネツィアに引っ越すと伝えると、ミラノの人々エッと驚いた。

 
たいていの人は一瞬押し黙った。ミラノからは近いけれど、遠い町。住めることならぜひ、と誰もが夢見る一方、実際に引っ越す人はたしかに稀かもしれない。うらやましいわ、でもなぜ引っ越したの、家はどのあたり、住み心地はどう、酷い湿気でしょう、冠水は大丈夫なの・・・。


 著者が選んだのは、なんと水草の浮島に建つヴェネツイアと運河を挟んだ対岸にある離島、 ジュデッカ島だった。
 そこから水上バスでせっせと"水の都"に通い、名も無い人に会い続けた。

 
「〈マンマ(母)〉を十個、お願いね!」
 逞しい腕を上げて岸壁に係留している小舟の舟主に、中年女性が注文する。アーティチョークの〈尻〉こと萼(がく)は、そのどっしりした外観からか〈マンマ〉と呼ばれている。

マンマ.jpg

「ざく切りにしてパセリ、ニンニクといっしょに炒める。・・・これ食うと、ああヴェネツィア、という気がするもんよ」
 ほんとほんと、郷土料理の肝心要、そのとりよぇ、と岸壁側の主婦たちは頷いている。


 ただ「心配なことがある」と、内田洋子は, WEB版週刊誌「考える人」(新潮社)で警告している。観光客が殺到しすぎて、ヴェネツィアの都市機能がマヒしようとしているのだ。

 
「裏の路地の隅は、公衆トイレよ」
 「酔っ払ってリアルト橋から下着で運河に飛び込んで泳いだ若者がいたし」
 「サンマルコ広場の回廊にテントを張ろうとした外国人観光客もいたな」

リアルト橋         サンマルコ広場
リアルト橋.jpg  サンマルコ広場.jpg


   「昨日、リアルト橋手前で羊にリードを付けて引いていた男の人を見たよ」
  夏になると、ビーチサンダルにショートパンツ、上半身は裸もしくはビキニ姿も増える。
 老舗は格と歴史を失うまい、と価格をさらに引き上げる。より多く払える客が品格ある客、ではないのに。
 ・・・
 「2017年2月1日までに、過剰な観光客のせいで住民の日常生活が脅かされている現状を打開するための策が講じられないようなら、世界遺産認定を取り消し、『危機にさらされている世界遺産』として登録する」
 昨年7月、ついにユネスコがヴェネツィア市に対して警告を公示した。
 ・・・
 さてどうなる、ヴェネツィア。


2016年10月 1日

読書日記「ルーアンの丘」(遠藤周作著、PHP研究所、1998年刊)


ルーアンの丘
ルーアンの丘
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遠藤 周作
PHP研究所
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 なぜか寝づらい日が続いた深夜に、テレビ録画で見ていて表題の本をテーマにしたドキュメンタリー(NHK制作)に引き込まれた。

 題材になっている「ルーアンの丘」は、作者が1950年に戦後最初の留学生としてフランスに渡った時に残していた旅行記「赤ゲットの仏蘭西旅行」と滞仏日記をまとめたものだ。作者の没後に見つかり、1998年に単行本になった。

 県立西宮北口図書館で司書の女性に見つけてもらい、一気に読んだ。

   フランスに同行したのは、生涯の親友となった 故・井上洋治神父ら4人。

 世話をしてくれたフランス人神父の尽力で、フランスの豪華客船・マルセイエーズ号に乗れることになった。ところが、遠藤が別に記しているのによると「船賃は最低の2等Cで16万円」。
 とても貧乏留学生に払える金額でなかったが、その神父の努力で「特別に安い部屋」に乗れることになった。

 大喜びで、フランスの船会社の支店に4人で切符を買いに行き、マルセイエーズ号の模型を囲んで「俺たちの船室はどこだ、どこだ」と大騒ぎしていたら、フランス語の堪能な若い女性が「かなしそうな眼で見ていた」・・・。

   横浜港でマルセイエーズ号に乗り込み、切符を事務長に見せると、せせら笑って「船室は船の一番ハシッコだと答える。

 
皆さん、『奴隷船』という映画を見ましたか。船の端の地下室の光もはいらねえなかで、黒人たちがかなしく歌を歌っている。実に、ぼくらの船室はあそこだったんです。・・・寝床は毛布も何もねえ、キャンプベッドがずらっと並んでいるだけ。鞄をもってきた赤帽君が驚いたね。「あんた、これでフランスに行くんですか」


 港に着く度に、クレーンで荷物がドサット落とされ、船倉ホコリだらけ。食事さえ、自分たちで厨房に行き、バケツに入れて運んでこなければならない。

   シンガポールやマニラでは、日本人は上陸禁止。第二次大戦中の マニラ虐殺などの恨みを忘れらてはいない。しかし、港に着くたびにこの船艙に乗ってくる中国人、インドネシア人、アラビア人、サイゴンで降りた黒人兵は、みな笑顔で接してくる。「なぜ、中国人などを今まで馬鹿にしたり、戦争をしたりしたのだろう」・・・。

 イタリア・ストロンボリイ 火山の火柱をデッキから見ていた時、ボーイの1人が「北朝鮮軍が南に侵入した」と1枚の紙きれを渡してくれた。

 神学生のI君(故・井上洋治神父)は、よく甲板のベンチでロザリオを手にお祈りをしていた。

 Ⅰ君は帝大の哲学科を今年出て、日本に修道会の カルメル会を設立することを自分の一生の使命として、遠くフランスのカルメルで修行する決心をしたのです。もう一生家族にも会えない。全ての地上のものを捨て、孤絶した神秘体の中に身を投じる君をぽくは真実、怖ろしく思いました。彼の体は強くない。寂しがりやで気が弱い・・・。そんな彼が人生の孤絶、禁欲ときびしい生の砂漠を歩いていくのを見るのは怖ろしかったのでした。暗い甲板の陰で、ぽくは黙って彼の横に座りました。

 「君、こわくない」
 とぼくはたずねました。
 「もう御両親や御姉弟にも会えぬのだね。もう一生、すべての地上の悦びを捨てねばならぬのだね」
 「少しこわいね。何かちょっと寒けがするような気持だ」
 と彼はうなだれました。


 マルセイユに入港、パリ経由で北仏・ルーアンの駅に着いた。この街に住む建築家・ロビンヌ家で、夏休みの間、ショートステイさせてもらうことになっていた。
 改札口で、中年の美しいマダム・ロビンヌに迎えられた。間もなく、ロビン家の11人の子どもがバラバラと集まってきた。遠藤がどの出口から出てくるか分からないため、前夜から1人ずつ張り番をしていた、という。

 最初にマダムに慣れないこと、不満なこと、困ったことは、何でも話すようにと約束させられた。そして、自分の子どもとして教育するという。

 日本では、ものぐさではどの友人に引けを取らなかったのに、髪をきちんと分け、靴は少しでも汚していると夫人に叱られた。特に、食事などのマナーは厳しかった。

 「食事中葡萄酒を飲む時、前もってナプキンで口を拭くこと」
 「食事中、黙ってはいけません。話さないのは礼儀ではありません」
 「煙草を半分吸って捨てるなんて、アメリカ人のすることです」

 「もう、我慢できないと」と言ったら、夫人は答えた。
 「あなたが大学に行ったら、大学生は無作法に食事したり話したりするでしょう。・・・しかし、典雅に物事をふるまえた上で野蛮に友だちと話せる大学生と、全く無作法な大学生とは違います」

 ある日、長男・ギイやガールフレンドのシモーヌなどとピクニックに出かけた。合唱やダンスを楽しみながら、彼らと空襲や離別の繰り返しだった、わが青春を比較してみた。
 そして、インドの乞食の少女の黒くぬれた眼、マニラの海の底に失われていった青春・・・。

 急にパリに行きたくなった。
  サン・ラザール駅に着いたのは午後6時半を過ぎていた。1つの教会の祈祷台に、倒れ込むように跪いた。

 神様、ぼくは、あなたを何にもまして愛さねばならぬことを知っています。しかし、ぼくは、今、人間を愛し始めたのです。ぼくが、永遠よりも。この人間の幸福のために力をそそぐことはいけないことでしょうか。人間の善きものと美しきものを信じさせて下さい。神様、ぽくに真実を、真実として語る勇気をお与え下さい。・・・自然があれほど美しいのなのに、人間だけが、悲しい瞳をしていてはいけないのです」


fromWeb01.JPG
ロビンヌ家の人々と遠藤周作(左端から長男・ギイ、遠藤、マダム・ロビンヌ、末っ子のドミニック)


2015年10月28日

読書日記「エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」(梨木果歩著、新潮社)


エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木 香歩
新潮社
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 ナチュラリスト、梨木果歩の真骨頂あふれる紀行文。

エストニアの首都タリンに着き、旧市街(世界遺産「タリン歴史地区」)に出かけてすぐに、著者らは「なんだか場違いなほど壮麗なタマネギ屋根のロシア正教の教会に出会う。



  アレクサンドル・ネフスキー聖堂と言います。なんだかこの建物、悪目立ちしますよね、この町では」
 通訳兼ガイドで、地元の大学で日本語を教えている宮野さんは、この教会の特色に「ぴったりと当てはまる」言葉を言ってのけた。

 フインランド湾に面するエストニアは、北と東の国境をロシアに接し、常にこの国の支配と脅威にさらされてきた。「悪目立ち」する教会も帝政ロシアの支配時代に建てられたものだった。

P1080325.JPG  以前にポーランドの首都・ワルシャワに行った際、ホテルの前に旧ソ連占領時代に建てられた異常に威嚇的な宮殿風の建物(=写真:「スターリンがポーランドに贈与したという摩天楼・文化科学館」)に違和感を覚えたことがある。それと同じような感覚だろうか。








 午後の新市街で訪ねた宮殿(ロシアのピョートル1世が建てた カドリオルグ宮殿では、庭のあちこちで新婚カップルが記念撮影をしていた。

 
 市井の善男善女が人生のスタートを祝うに十分な晴れがましさと無難さ。だがやはり、この半日回っただけでこんなに惹きつけられているエストニアの魅力とは無縁のもののように感じた。あのロシア正教の派手な寺院と同じように、「浮いて」いる。これから回ることになるエストニアのあちこちでも、北欧やドイツのエッセンスが感じられることはあっても、かつての占領国・ロシアの文化のある部分は、癒蓋のようにいつまでも同化せずに、あるいは同化を拒まれ、「浮いて」いた。けれどその癖蓋もまた、長い年月のうちには、この国に特徴的などこか痛々しく切ない陰影に見えてくるのだろうか。東ヨーロッパのいくつかの国々のように。


「歌の原」は、この宮殿の東にある。

   1988年9月11日、この場所にソ連からの独立を強く願った国民30万人、エストニア国民の3分の1に当たる人が全国から集まり、演説の合間にエストニア第2の国歌といわれる 「わが祖国はわが愛」を歌った。

これが結果的に民族の独立への気運を高め、1991年の独立回復へと繋がっていく。この無血の独立達成は、「歌う革命」と言われる。

 
 しかし、実際その場所に立つと、え、ここが、あの? と、半信半疑になるほど、ガランとしたひと気のない草地、グラウンドのようにも見えるが、奥の方に野外ステージらしきものが建っているので、やはり、ここが、そうなのだ、と往時の緊張と興奮を自分の中で想像してみる。その歴史的な「エストニアの歌」から約一年後、一九八九年八月二十三日に、ここ、タリンから隣国ラトビアリガリトアニアヴイリニュス (バルト三国という言い方もあるが、使わない)(=それぞれ違う歴史を刻んできたから、という意味だろうか)に至る六百キロメートル以上、約二百万の人々が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくつた。スターリンとヒトラーにより五十年前に締結された、この三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の存在を国際社会に訴え、暴力に依らず、静かに抗議の意思を表明するデモンストレーションだった。


 北の端、タリンから南下したヴォルという町にあるホテルは「厚い森」に囲まれていた。

 窓から広がるエゾマツやトドマツの森を見ていると、著者は「こうしてはいられない、という気になって」、スーツケースから旅には必ず持っていく長靴、ウンドパーカー、双眼鏡を取り出す。

 赤い土の小道の両側の木々は厚い緑の苔で覆われている。苔の上には、紅や濃紺のベリーをつけた灌木が茂り、茸の ヤマドリタケの仲間があちこちに見える。遠くでシカの声も聞こえる。転がっていた丸太に腰を下ろす。

 
 しばらくじつとして、森の声に耳を傾ける。ゆっくりと深呼吸して、少しだけ目を閉じる。右斜め前方から、左上へ、それから後方へ、松頼の昔が走っていく。走っていく先へ先へと、私の意識が追いつき世界が彫られていく。北の国独特の乾いた静けさ。


  キフィヌ島に入る。ここに住む女性が着る 赤い縦じまのスカートや織物は無形世界遺産。それらをIT技術をいかして世界に売っているという、テレビドキュメンタリーを見たことがある。

 森と森の中間にある木立に建つ一軒家で昼食をごちそうになる。大麦の自家製ビール、黒パン、燻製の魚、温かな魚のスープ。すべて、島のおばあさんたちの手作りだ。

 機を織っていたおばあさんがふと織るのをやめ、ぽつんと「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。

 旅から帰国してすぐにリーマンショックが起きた。

 「あのおばあさんの言葉は『金持ちになれないけれど、自給自足は出来る』ということであった」と著者は悟った。

 サーレマー島は、エストニアで一番大きな島。車に乗り込んできたきさくなガイドの女性は、最後まで律儀な英語で話した。

 
 この島は、古いエストニアそのままの生態系が保持されています。それというのも、ソ連時代、軍事拠点だったせいでサーレマー島はほとんど孤島も同然、ソ連は西側からの侵入やにしがわへの逃亡を警戒して・・・そんな中、自然だけは見事なほど保たれました。ムース(ヘラジカ)やイノシシは約1万薮、オオカミ、オオヤマネコ、クマ、カワウソは数百匹が確認されています。・・・
  ――ではクロライチヨウキバシオオライチョウも・...‥。
 ――もちろんです。カワウソだっています。


 
 この時、私は本気で後半生をこの島で過ごすことを考えた。


 このところ、どうもピンと来る本に出合わない。「介護民俗学」とうたった本や今年度の谷崎潤一郎受賞作品のページを開いては途中下車ばかりしていた。やむをえず、本棚にあったこの本を取り出した。やはり、この著者の本は、老化した脳にもすっきり沁み込んでくれる。

 同じ著者の「不思議な羅針盤」(新潮文庫)が文庫本になったので、これも同時進行で読んだ。「サステナビリティー(持続可能性)のある生活」を考える、しっとりとしたエッセイ集だった。

2014年7月28日

読書日記「屋根屋」(村田喜代子著、講談社)



屋根屋
屋根屋
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村田 喜代子
講談社
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  この5月の連休にパリとロンドンの街を歩く機会があって、気づいたことがある。「なぜヨーロッパの人達って、こんなに塔が好きなのだろう」

  パリの教会群やエッフエル塔 バスティーユ ヴァンドーム広場の記念塔、 コンコルド広場 オベリスク 凱旋門

  ロンドンでも、 セント・マーティン教会の白い塔や時計台で有名な ビック・ベン ケンジントン・ガーデンズ アルバート記念碑 トラファルガー広場 ネルソン記念柱 ピカデリー・サーカスのエロス像に群がる若者たち。塔の形はそれぞれに違っている・・・。

  旅から帰って、これも老化現象の1つなのだろう。時差ボケが2週間ほども解消できず、明け方まで目がさえて眠れない。

  そんな時に、図書館で借りたのが、この本。なんだか、その時の気分にピッタリ合って一晩で読んでしまった。それからも、なにか手放したくなくて、借入期間の延長、再貸出し、延長を繰り返して、2か月経った今でも、手元にこの本はある。途中で、巻末に載っていた参考資料まで買ってしまった。いつもなら、気に入った本は読んだ後でもAMAZONですぐ買ってしまうのが悪い癖なのだが・・・。

  村田喜代子の作品は、この ブログでもなんどか登場ねがったが、この著書はこれまでのものとは一味違う、なにか飄々とした浮遊感が漂う大人の童話なのだ。

  主人公は、ゴルフ好きの夫と高校生の息子と3人で北九州に住む主婦「私」。

  ある日、雨漏りを直しに来た永瀬という「屋根屋」の男から不思議なことを聞く。

  以前に病気になり、医者に勧められて夢日記をつけるようになってから、自由に自分の見たい夢を見られるようになった、という。

  それを聞いて「私」はとんでもないことを口に出す。「私、屋根の夢がみたいんです」

  「奥さんが、上手に見ることが出来るごとなったら、私がそのうち素晴らしか所へ案内はしましょう」「奥さんがびっくりして溜息ばつくような、すごか屋根のある所です」

  「私」は自宅のベッドで夫と一緒に寝て、永瀬は自分の工務店の布団のなかにいても、同じ夢の場所に連れていける、という。

  ただ、それにはいくつかの手順が必要だ。

 
 1つは、夢を見る「レム睡眠」の直後に目が覚めるように、睡眠時間を調整すること。
 2つ目は、近い場所なら行きたい場所に先に行って体験し、遠いところや現実に行けない場所なら写真やインターネットのデータで想像させ「私」がうまく意識の鎖を解いて夢の場所に到着したら、・・・永瀬は無意識のさらにもっと深い所の、集合的無意識まで降りて行き、・・・「私」の夢に入り込む。


  永瀬は最初にまず、自宅に近い福岡の「真言宗東経寺」を見に行くように言う。

 
 東経寺の大屋根は明るい昼間の外光に背くように、ずっしり重くうずくまっている。ただ軒が反り返っているので、この重量を載せて西方浄土へかどこか、不意にぐらっと飛び立ちそうな感じもする。


   
 ベッドに入って目を瞑ると、昔、プールへ潜ったときの深い呼吸を思い出した。・・・あの薄緑色のゆらゆらした無重力の世界へ潜って行く。・・・下の方に黒いものが見えて来た。・・・昨日、自分で行った東経寺の本堂の大屋根に違いない。・・・私はその屋根に軽く着地した。・・・そしていつもの作業着で遅れて飛んできた永瀬と屋根の上で会う。


 
 「これは私の夢ですか?」・・・「何度も言いますが、これは奥さんの夢です。しかし、同時に私の夢でもあるのですよ」「ということは共同の夢ということ?」「厳密に言うと、違うですたい」・・・「それじゃ、この夢は一つにドッキングした夢なの?」「いや別々です」・・・「それなら、あなたの見る夢と、私の見る夢は少し違うんですか?・・・」「まるきり同じです」


  別々に、同じ夢を見るのにも、すこしずつ慣れてくる。奈良のお寺の屋根も、法隆寺の五重塔も自由自在。

  夢のなかで「私」の夢のことなどなにも知らない夫が金茶の大虎となって吠えかかってきたり、10年前に癌で死んだ屋根屋の女房がオレンジ色の火の玉となって襲ってきたりする"おまけ"までつく。

  いよいよ本番。夢のなかの飛行機でフランスに飛び、いつものように水のなからパリの空港に到着する。

   ノートルダム寺院の鍾塔を登る。

 
 「こんな大きな建物なのに、何でここは狭いのかしら」・・・「大聖堂には屋上はなかでしょうが。屋根の上にあるのはもう神の国だけです。つまり教会は屋根の天辺に登る用事はなかとですよ」


  次は黒い白鳥になって、パリから南西に80キロ離れた シャルトル大聖堂まで。

 
 神の砦でありながら、何て暗鬱な、禍々しい、巨大な建造物。長すぎる歳月にすっかり黒ずんだ石造りは、もう現代に使い途がないほどでか過ぎて、天から堕ちて来た地獄の砦のように見える。そこから磁力がじんじんと発せられる。


  永瀬が告白する。「私と一緒にここに残りませんか。もしよかったら二人で残って、ここでずっと暮らさんですか」

 今度は黒鳥になるのをやめて、列車でハムとビールを楽しみながら アミアン大聖堂に行く。

 
 私たちは大きな石の建造物の屋根にいる。見渡す限り堅固な石の城砦のようだ。人間は自分の身体だけでは物足らず、こんな途轍もない建物まで造った。高く大きく堅固に造れば造るほど、建物には執着がこびりついてくるのではないか。執着が増大するのではないか。


  帰りは、成層圏まで登り、ヒラヤマの峰々をのぞく。

 
 「永瀬さん。ここに瓦、葺きたくない?」・・・「こうなるともう、自然にまかせるしかなかですなあ」・・・「手も足も出まっせん」


  ▽著者が巻末に載せている参考資料のなかで、買った本
  ※「ゴシックとはなにか 大聖堂の精神史」( 酒井健著、ちくま学芸文庫)
ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
酒井 健
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  ※「塔とは何か」(林章著、ウエッジ選書)
塔とは何か―建てる、見る、昇る (ウェッジ選書)
林 章
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  ▽ (付記)
聖五月外つ国の塔天拓く


     聖五月というのは、カトリックでは「マリア月」とも言うが、ちゃんと歳時記にも採用されている季語である。

  この4月、 「聖書と俳句の会」を知り、72歳で初めて俳句の世界をのぞく機会に恵まれた。上記の句は、パリ、ロンドンから帰った直後の句会に出して見事に落選、講師の酒井湧水師の添削を受けたものだ。

  添削のおかげでゴツゴツした散文的文章が、韻をふくんだリズム感のある句に生まれ変わった。

  「天拓く」は自分の最初の句のままだが「天めざす」と言う方が気分に合っているような気もする。しかし、平凡すぎるか。難しい・・・。

写真集:パリ・ロンドンの塔
パリ・バスティーユ広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・ヴァンドール広場の記念塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会;クリックすると大きな写真になります。 パリ・凱旋門;クリックすると大きな写真になります。
パリ・バスティーユ広場の記念塔 パリ・ヴァンドール広場の記念塔 パリ・サンジェルマン・デ・フレ教会 パリ・凱旋門
パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリの教会(名称不明);クリックすると大きな写真になります。 パリ・オランジェリー美術館の塔;クリックすると大きな写真になります。 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会;クリックすると大きな写真になります。
パリの教会(名称不明) パリの教会(名称不明) パリ・オランジェリー美術館の塔 パリ・景観地区の谷間のゴシック教会
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔);クリックすると大きな写真になります。 パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・アルバート記念碑;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンのビック・ベン;クリックすると大きな写真になります。
パリ・ノートルダム寺院(鐘塔とゴシック塔) パリ・コンコルド広場のオベリスク(遠くに見えるのはエッフェル塔) ロンドン・アルバート記念碑 ロンドンのビック・ベン
ロンドン・ネルソン記念柱;クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会;クリックすると大きな写真になります。 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中);クリックすると大きな写真になります。 ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像;クリックすると大きな写真になります。
ロンドン・ネルソン記念柱 ロンドン・トラファルガー広場のライオン像の向こうにセント・マーティン教会 ロンドンの教会午前10時(塔の下でホームレスの人達が熟睡中) ロンドン・ピカデリーサーカスのエロス像


2014年3月20日

読書日記「渡りの足跡」(梨木果歩著、新潮文庫)、「鳥たちの旅 渡り鳥の衛星追跡」(樋口広芳著、NHKブックス


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 先月の始め、引っ越してきた伊丹の家の近くにある昆陽池に渡り鳥を見に出かけた。このブログの管理者で野鳥観察が趣味のn-shuheiさんに誘われたのだ。

 その後、伊丹図書館南分館で、梨木果歩の「渡りの足跡」が文庫本になっているのを見つけた。n-shuheiさんがこの本のことを自分のブログに書いていたのを思い出して借りてしまった。

 著者の本にはなぜか引かれ、このブログでも何度か触れているが、この本だけは読んでいなかった。

 著者はいくつかの著書の"主役"の1つである植物だけでなく、渡り鳥についても玄人はだしの観察者らしい。この本は、北海道や新潟、信州、諏訪湖、さらにシベリア・カムチャッカにいたる渡り鳥"追っかけ"ルポだった。

 最初のオオワシを訪ねて知床にでかける章で、 「ワタリガラス」の名前を見つけてエッ!と思った。

 つい数日前に読んだ 池澤夏樹のパレオマニア」という本でこんな記述を見つけたばかりだったからだ。

   
 大英博物館でいちばん大きい収蔵物、・・・高さ十一メートルのトーテムポール。カナダ先住民族が残した巨大な米杉の柱の下部に・・・「神話的な動物、海の熊、あるいは嘴を折られたワタリガラス」を・・・見ることができる。


 池澤は「カナダ太平洋岸の先住民の神話では、ワタリガラスは創造主である」と書いているが、梨木も「ワタリガラスは、北米先住民族たちの創世神話でよく英雄として登場する、神秘的なカラスだ」と、まだ学生だったころにいた英国で、ワタリガラスの不思議な話しを聞いたことを思い出している。

 WEB上でも、そんな神話の数々をいくつも見つけることができる。

 それだけに梨木は「くぽおうん、くぽおうん」と優しい声で鳴くワタリガラスが、この日本にも"ワタッて"きていることが「にわかに信じがたかった」のだ。

 パレオ(ギリシャ語で古代の意)の昔から、渡り鳥と人との間で紡ぎだされてきた不思議なかかわりあいを知り、興味が深まった。

 一方で梨木は、渡り鳥が現在の自然破壊に巻き込まれている厳しい現実を知り「世界は一つであり、繋がっているのだという紛れもない事実に圧倒されそうになる。」

 
 日本に冬鳥として渡ってくる鳥たちの多くは、シベリア、カムチャッカ、サハリン、或いはアムール川流域等を繁殖地として使っている。アムール川ではソビエト連邦崩壊後、環境汚染が年々進んでおり、年間百五十億トンのエ場排水が垂れ流しにされている。その結果鱗(うろこ)がない等の奇形の魚が多く、アムール川の魚は食べないように言われている・・・。河口は広々とした湿原で、水鳥の格好の繁殖地だ。その魚を食べるな、その水を飲むなと、どうして鳥に知らせたらいいのか。また、鳥の多くは東南アジアの雷雨林で越冬していると見られるが、ここ数十年程の森林面積のすさまじい減少が、あるいは使用されている農薬が、最近夏山で彼らの嘲りが聞こえなくなった原因ではないかと言っている学者もいる。


 しかし、渡り鳥にとって取れる対策は皆無、といというのが厳しい現実だ。

 
 渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と問わりながら自分の進路を切り拓いていく、旅の物語の集合体である。その環境が自分の以前見知っていたものと違っていたとしても、飲むべき水も憩うべき森も草原もなくなっていたとしても、次に取 るべき行動は(引き返すという選択も含めて)最善の方向を目指すため、今出来るこ とを(とにかく何らかの手段でエネ~ギー補給をする、等)ただ実行してゆくことだ けで、鳥に嘆いている暇などはない。


 この本の中盤で、渡り鳥観察者の醍醐味と言ってよい表現が出てくる。

   
 車からスコープ一式を運んでくる。昨日教えてもらった通りに三脚を立て、スコープを雲台にはめ込み、固定する。それから倍率を合わせる。合ったけれども、そしてどうもなにか大きな鳥(近くにカラスと思しき鳥が数羽いるのでその大きさから比して)らしいのだけれど、ぼんやりして見えない。しばらくあれこれして、ああ、そうだ。ピントはここで合わせるんだった、と、カバーの陰で見えにくくなっていたピント合わせのダイヤルのカバーを外し、動かす。次の瞬間、黄色い囁(くちばし)、黒い体に白いマフラーをかけたような肩線、それからまっすぐこちらを見つめている鋭い視線がレンズにくつきりと入る。目が合って、思わず息を呑む。まちがいない。
 オオワシだ。


 ただ、著者は専門家ではないので、渡り鳥の"渡り"の生態については、表題の2冊目にある「鳥たちの旅」 を何度か引用している。この本は図書館になく、AMAZONで買ってしまった。

著者は、人工衛星を用い、発信器を着けた渡り鳥の移動ルートを解明した研究者だ。

 「渡り鳥はなぜ渡るのか」という素朴な疑問に樋口は、こう答える。

 鳥が渡るのは、食物を十分に確保するためである。たとえば、ツバメは飛びながら空中にいる昆虫を捕って食べる。しかし、日本のような温帯地域では、秋から冬にかけて昆虫は姿を消してしまう。そこでツバメは、冬でもそれらが得られる暖かい南方の地域まで渡っていくのである。同様に、ガンやハクチョウが秋、日本に渡ってくるのは、繁殖地のシベリアが冬には雪と氷に閉ざされ、食物が得られなくなるからである。


それでは「なぜ渡り鳥は、春、越冬地から北に向かって戻っていくの ろうか? 冬の聞くらせる場所であるならば、それ以外の季節だって生活できるはず」だ。

 
 これらの鳥が北に向けて旅立つのは、春から夏にかけては北方に、春から夏にかけて北方に食物になる動物がより多く発生するからである。・・・
 また、北方地域からは冬の問、多くの鳥がいなくなっている。春にそこに行けば、越冬地に残っているよりも、個体あたりにより多くの食物を確保することができる。しかも、この春から夏にかけては、鳥たちにとって繁殖時期であり、多くの子供を育て上げるのに豊富な食物を必要としている。
 したがって、危険をおかしてでも北方まで行けば、自分自身が生活しやすいだけでなく、より確実に子育てを行なうことができるのである。


 最大の疑問点。渡り鳥は「渡る先をどうやって知るのか」だ。

 
 昼間渡る鳥たちは、太陽の位置を体内時計で補正しながら渡っているらしい。・・・夜間には星座を利用する。・・・地磁気も渡る方向を定める重要な手がかりにしているらしい。・・・鳥たちによっては、地形や季節風、日没の位置、においなども定位に利用しているようだ。・・・鳥たちは「かなりすぐれた地図情報をもっているに違いない。


 樋口は、エピローグでこう警告する。

 一つの渡来地の破壊にともなう渡り鳥の減少は、遠く離れた別の渡来地の生態系の破壊をもたらす吋能性がある。たとえば、東南アジアの熱帯雨林の破壊は、そこで越冬し日本に渡ってくる夏鳥(夏に飛来する渡り鳥)の減少を通じて、日本の里山や森林の生態系のバランスを崩す可能牲がある。一方、日本の干潟の破壊は、そこを通過する多数のシギ・チドリ類の消滅を通じて、フィリピンやオーストラリア、あるいはロシアの湿地生態系をおびやかすことになるかもしれない。
 異なる地域、国の自然は互いに独立しているように見えるが、実際には渡り鳥によってつながっている。渡り鳥の保全は、単に対象となる鳥の保全にとどまらず、遠く離れたいくつもの生態系の保仝を意味し、ひいては地球環境全体の保全にもつながっているのである。


 梨木と樋口の思いは、世界中の自然を愛する人々と共通する思いである。

2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


旅立つ理由
旅立つ理由
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旦 敬介
岩波書店
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 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。

2013年10月 9日

読書日記「ひと皿の記憶」(四方田犬彦著、ちくま文庫)、「にっぽん全国 百年食堂」(椎名誠著、講談社)、「浅草のおんな」(伊集院静著、文藝春秋)

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)
四方田 犬彦
筑摩書房
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にっぽん全国 百年食堂
椎名 誠
講談社
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 残暑の秋に読んだ食へのこだわり関連本3冊。

 「ひと皿の記憶」には「食神、世界をめぐる」という副題がついている。 著者の本は、数年前に 「四方田犬彦の引っ越し人生」(交通新聞社刊)を読んだことがあるが、日本や世界各地の大学で教べんを取るかたわら、各地の食にこだわり続けたエッセイスト。著書は100冊を越えるという。

 著者が育った大阪・箕面近くの「伊丹の酒粕」から始まって「神戸の洋菓子」「金沢のクナリャ(深海魚の一種)」、そして韓国、台湾、中国、バンコクなどの東南アジア、イタリア、デンマーク、フランスと、つきることなく「ひと皿」への思いが記される。それも高級料理店でない庶民の味に徹しており、読み進むごとに垂ぜんの味わいを楽しめる随筆である。

   
粕汁とは不思議なスープ、いやシチューである。魚やいろいろな野菜を水煮し、そこに酒粕と味噌を流し込んでさらに煮込む。・・・この汁には味檜汁や澄まし汁にはない独特の重たげな魅力があり、一口でも口に含むだけで腹がしっかりと温まる気持ちになった。いうまでもなくそれには酒粕から滲み出るアルコールが作用していたに違いない。加えて白濁した汁の合間に覗く紅い人参や色が透けかかった大根、細かく刻まれた黄色い油揚げといった組み合わせが・・・愉しげな抽象絵画のように思われてくるのだった。


 
(北京の朝)市場のすぐわきの路地に入ると早々と小食店が開いていて、すでに何人もが仕事前の食事をしている。北京では 豆腐脳(トウフナオ)、南方では豆花(タウファー)といって、ひどく柔らかい豆腐椀に盛り、好みで辣油をかけて食べる。店先では大鍋に煮え滾った油のなかで、直径三〇センチほどの巨大な素妙餅(スウチャオビン)が揚げられている。しばらく店内を見回してみると豆腐脳はこの餅を千切りながら匙で口に運ぶものらしいと、見当がついてくる。揚たてのパリパリとした餅と、匙で掬おうとしても崩れてしまうほどに柔らかい豆腐脳の組み合わせには、絶妙なものがある。


 牡蠣のついての記述も多い。とくにこれまで3回訪ねた米国・ニューヨークで計10回近く通ったグランド・セントラル駅の「オイスターバア」についても書かれている。

 
そこには主にアメリカの東海岸で採られた、実に多様な牡蠣があった。ずんぐりとした殻をもつブラスドールもあれば、底の深いブロンも、強い刻み目をもつキルセンもあった。一番巨大な牡蠣をと狙ってメーンを注文したところ、水っぽすぎて落胆したこともあった。もっとも小さいのはカタイグチと呼ばれ、伝説の牡蠣クマモトの一統だった。わたしは最初に訪れたときには盛り合わせを頼み、それからは気に入ったものを半ダースほど改めて注文することで、少しずつ牡蠣の個性を学んでいった。


 デンマーク・コペンハーゲンのスモーブローについての記述も、かってこの街に行った時に何軒もの店頭で見つけたことがなつかしい。バターをたっぷり塗ったパンの上にサーモンやニシンなどの具材をトッピングしたものだが、なにか寿司の"デンマーク版"と感じた覚えがある。

 「ロンドンにおいていい食堂を見分ける5つの条件」という項もある。フイッシュ&チップスの名店や鰻の煮こごりの店が記述されている。いつかロンドンを訪ねる機会があれば参考にしようと思う。

 この本の最後近くに出てくる「肉」についてのうんちくは、世界中で食べ歩いた著者の真骨頂だろう。

 
牛肉はそれ自体で自立した味の個性をもち、どのように調理されても自分のアイデンティティを崩すことがない。ローストビーフであれ、カルビ焼きであれ、そもそも牛の調理とは、いかにその本来の肉の味を引き出すかという一点にかかっている。だが牛は、どこまで行っても牛肉が牛という宿命から逃れることができない。中華料理において素材としての牛肉が豚肉と比べて圧倒的に不振であるのは、もっぱらこの自己完結性によるものである。羊の強烈な個性にしても同様。羊であることを消し去って羊料理を作ることはできない。鴨またしかり。では逆に鶏は、兎はどうだろう。鶏は鴨とは逆に、味が万事において控えめであり、とても塩漬けや角煮といった荒事に向きそうにない。兎は先天的に脂気が欠けているので、しばしばベーコンなどを添えて調理しなければならない。こうして一長一短がある他の肉と比べてみたとき、豚の卓越性は否定しようがない。人間がもっぱら食べるためだけに改良を重ねてきたプロの肉という気がするのである。


 「にっぽん全国 百年食堂」は、雑誌「自遊人」に2008年7月号から2011年11月号連載されたものを単行本にしたもの。 著者が編集者3人と全国の地方都市で百年前後続いている大衆食堂を延々と食べ歩く。

 先取の気概に満ちている県民性の新潟には、洋食をいち早く取り入れた百年食堂の候補がいっぱいあるという。
   「元祖洋食レストラン キリン」の代表メニューは、オムライス。 「鍋とフライパンを上手に使い、タマゴは殆ど半焼けぐらいの状態でかまわずそこにチキンライスをのせてドバッと皿の上にひっくりかえすともう完成」(千二百円)
 上野・精養軒で修業した先々代が、コメがうまいからという理由だけで新潟に来て「首が長いから長持ちするだろう」と、かなりいい加減な理屈で店名を決めた。

 長野県の小諸駅前にある 「揚羽屋」は、島崎藤村直筆の看板がある店として有名。藤村は「千曲川のスケッチ」のなかで、こう書いている、という。
 「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った」

 茨城県水戸市の 「富士食堂」は、メニューが百種類はある「フアミリーレストラン」の元祖。味はもうひとつだが、著者はこう書く。
 「要するに『土地のヒトが安心する味』というのが厳然としてあって、これを東京で流行っている味だの盛りつけだのにしてしまうと、百年食堂でなくなってしまう、という数値であらわせない『長続きの公式』があるような気がする」

 北海道古平町の 「堀食堂」は、かってニシン漁が盛んだった頃の開店。
 ラーメンにエビの天ぷらが二本のった「天ぷらラーメン」や鶏肉にヒミツの味つけをして衣をつけて揚げた「ザンギ定食」など重労働のヤン衆に好まれそうなメニューが人気だが「実は、二つともニシン漁がすたれた後に始めたもの」と聞いて、取材の一行は不思議そうな顔。

 北海道釧路市の 「竹老園 東家総本店」は、御殿のような造りで、観光バスで団体客がやって来るほど人気のある蕎麦屋。
 極上の上更科粉に新鮮な卵黄をつなぎにしている「藍切りそば」など、蕎麦の種類で変えている「つゆ」がどれもうまく「百年のあいだに積み重ねられた、本物の老舗の味」。暖簾分けで26軒の支店がある、というのもすごい。

 千葉県野田市の 「やよい食堂」は「大盛り」で超有名。
 一人前で、4,5合使うカレーやカツ丼は、皿や丼からこぼれてもよいように受け皿がついている。「安い値段でお腹いっぱい食べさせてあげたい」という思いがふくらみ、歴史を重ねるごとに盛りが大きくなったという。タマネギと肉だけの昔ながらのカレーライスが一番人気だが、大盛りで五百八十円という安さ。

 取材の最後近くで、著者はこう結論付ける。
 「地元の人の好みに変わらず応える味と人間づきあいが、百年を生きる正直な原動力になっている」
 そして駐車場が大きく、厨房が広くて清潔で使用人が沢山いて活気があるのが、流行っている「百年食堂」の二大ポイントだという。

   「あさくさの女」は、伊集院静らしい哀感あふれる艶っぽい小説だが、主人公が浅草の小さな居酒屋の女主人だから、出て来る酒の肴の描写がなかなかいい。

 
志万はすぐに裏に行き、朝方干しておいた柳鰈(やなぎがれい)を取り込み、灰汁(あく)抜きの蕨(わらび)を漬けておいた金ボウルを手に調理場に入った。冷蔵庫の中から朝のうちに開いておいたぐじを包んだ布をほどいた。ふたつの小鍋に火を入れ、 がめ煮と、京菜油揚げの炊き合わせの準備にかかった。氷水を金ボウルに入れ、そこに鰺をつけ、・・・。真空パックから白魚を出す。・・・鍋を洗って天豆(そらまめ)を湯搔(ゆが)く。・・・


 
今日の一番はちらし寿司である。留次が好きだった鯯(つなし)をたっぷりまぶしたちらしである。店裏からいい匂いがしてきた。美智江が椎茸を煮込みはじめている。志万はサヤエンドウを湯搔いている。冷蔵庫から鮪(まぐろ)を出して柵(さく)に分けていく。


 
「ほう、突き出しが天豆に鱲子(からすみ)とは、この不況でもここだけは贅沢だね」
 「贅沢じゃなくて親切でしょう。春から、"志万田(しまだ)"は料金を安くしてくれてるのよ」・・・
 「(肴は)きんぴら、インゲンのゴマ和え、じゅんさい」・・・
 「・・・私は鱧に鴨ロース、それにポテトサラダ」


 

2013年1月 5日

読書日記「松本竣介 線と言葉」(コロナ・ブックス編集部編)「『生誕100年 松本竣介展』図録」(岩手県立美術館など編) 出雲紀行・上「島根県立美術館・松本竣介展」


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ネット検索をしていた昨秋、盛岡の 岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた画家松本竣介の生誕100年展を知った。
 ちょうど東北ボランティア行を計画していた時期だったが、残念ながら盛岡の会期は終わり、松江市に巡回していた。

 本屋で買ってきた 「新潮日本美術文庫45 松本竣介」(日本アート・センター編)で、青を基調にした清逸でいて透明感のあふれた色調に引かれた。矢も楯もたまらず、友人Mらと昨年11月の連休に松江市に飛んだ。

 2日の夕方、空港から宿に向かうバスの窓から宍道湖に映える夕日のなかに浮かびあがった会場の島根県立美術館を見る僥倖に恵まれた。この 「夕日の見える美術館」は、湖岸の芝生から夕日を楽しんでもらうために閉館時間を「日没後30分」にするという、自治体としてはなかなかシャレたことをしている。

 翌日朝、松江大橋の北端にある宿から美術館までは、整備された宍道湖畔の遊歩道を歩いて20分弱。開館時間の少し前に会場に入ることができた。

 竣介は、旧盛岡中学1年の時に、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになったが、昭和4年中学を3年で中退し上京してしまう。

建物;クリックすると大きな写真になります このため、広い会場に展示された作品に、盛岡時代の作品は少ない。すぐに、透明感のある青い絵の具の上に、太い黒い線で形どられた 「建物」(1935年、福島県立美術館蔵)や「婦人蔵」(1936年、個人蔵)などが並んでいる。

 素人目にも明らかに、ルオーやモヂリアニの影響が見てとれる。

 竣介自身「モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった」「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」と記している。

 竣介は「線に生きた」画家だった。「線は僕の気質などだ、子供の時からのものだった」という言葉が「松本竣介 線と言葉」のなかにある。同時に「線は僕の メフストフェレス(悪魔)なのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった」という言葉も引用されいる。

 岩手県立美術館の原田光館長は「『線描家』序説」(「松本竣介 線と言葉」より引用)という短文に、こう書いている。

 
烏口で引いた硬質の線、何度でもなぞり返して生まれる細線の束、太線の流動、子どもの絵にでてくるような奔放な線、それぞれの線の質を生かすため、青の加減の目くばりがさえたとき、線は街になり、街歩きする人々の姿へと転じる。竣介は無闇な線描家ではない。したたかな計算によって線を生かす工夫に余念がない。デッサンを繰り返してからでないと画家竣介の基本の確立であったろう。

白い建物;クリックすると大きな写真になります
 「線の画家」竣介は、同時に「青の画家」でもあった。

 作家堀江敏幸が自著「郊外へ」(白水Uブック刊)の表紙カバーに竣介の 「白い建物」(1941年、宮城県立美術館蔵)を選んだ理由について「線と言葉」の冒頭文に書いている。

 
空の青みは、中央を左右に横切る高架線のホームの上、画面の四分の一ほどにすぎず、残りを占めているのは、建物の壁だ。白、灰色、茶色、黒、灰緑色。粗塗りのようでいてそうではなく、面で捉えられているようでいて、そのじつ線のリズムがすべてを支えている。青はいたるところ沁みだして白を上書きし、灰に溶け込み、さらにまた藍鼠や桝花に変化する。鉄骨のいかにも重そうな建造 物なのに、海に浮かぷ空っぼの貨物船を思わせる相対的な軽みがあり、人の気配を消しつつ負の印象を与えない。この絵を措いている(私)は、幾度も表面を削られ、また絵の具を乗せられて出来あがった見えない多重露出像となって、青と同様、壁のいたるところに在しているようだ。
  画布ではない板の堅さと、透明な絵具を溶いて薄め、乾いている絵具の上に薄く塗って膜をつくるグラツシの技法が硬質な輝きをもたらしている反面、青を水槽のガラスにうっすらと張り付いた苔のように、鈍く、半透明にひろげていく。画家はこの膜に身を包んで画面のなかに姿を消し、耳を澄ますという行為さえ許されない静寂に身を潜めている。ここには、ある種の若さにしかない繊細さと脆さが、そして若さだけでは持ち得ない時間と沈黙の積み重ねがある。


 浅学非才の身。これほど1つの絵画に惚れ込み、入り込み、表現した文章に会った経験がない。
 ただ、じっと透き通るような空の青に引きこまれ、白い壁の合間に浮かぶブルーに目をこらすしかなかった。

立てる像;クリックすると大きな写真になります 自画像;クリックすると大きな写真になります  竣介の作品なかで、最も迫力があり、名が知れているのは、 「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)竣介がよく描くさびれた街の風景のなかに、等身大にも見える大きな人物がスクッと立っている。人物は、 作品「顔(自画像)」(1940年、個人蔵)とそっくり。モデルは、竣介自身であることが分かる。

 神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「『生誕100年 松本竣介展』図録」に寄せた文によると、子どもたちにこの絵を見せると「画面の中から帰ってきたかの様子で戦争が描いてあるね』」と答えたという。

 廃虚の仁王立ちになっている竣介は、耳が聞こえないために兵役を免れている不安と虚無感を浮かべつつ、戦争に反対する不退転の決意を作品にしたように見える。

五人;クリックすると大きな写真になります  作品「五人」(1943年、個人蔵)からも「家族と共に生き残ってみせる。負けないぞ」という叫びが聞こえてくる。縦1・6メートル、横1.3メートルの大作だ。

 竣介「反戦の画家」とも言われる。

 日中戦争が始まった翌年。美術雑誌「みづゑ」新年号に掲載された「国防国家と美術」とい座談会で、陸軍省の将校らが「大事なのは国家であって文化は国家の産物にすぎない。だから総力戦に備えて絵描きも国策に協力すべきだ」と発言したのに対し、竣介は猛然と反論に出たことがある。

 4月号に掲載された「生きてゐる画家」は、いささか分かりにくい長文のものだが、冒頭だけをみても、時局に逆らう決断とした言葉が満ちている。

 
沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遥か身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。そのやうな私が、現実の推進力となつてゐる方達の言説に嘴(くちばし)をはさむといふことは甚だしい借越であるかも知れない。だが、座談会『国防国家と美術』の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかつたことを甚だ残念に思ふものである。今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しいのではないと信じる。


 出雲の出かける直前に、図書館から借りることができた「 舟越保武随筆集 巨岩と花びら ほか」(求龍堂刊)を開いて、アッと思った、舟越保武はなんと、旧岩手中学の同級生で、上京してからも絵画と彫刻とジャンルは違っても互いに励まし合ってきた仲だったのだ。

 この随筆集に「松本竣介の死に寄せて」(岩手新報 1948年8月14日号)が収録されている。

  
水晶のような男だった
 透明な結晶体のような男だった
 適確な中心をえて円満であり
 しかもその稜ほ十分に切れる鋭さをそなえでいた
 構いなく冴えた画家だった
 美についで底の底まで掘りさげて語り合える
 これは得難い友であった
 言葉少なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
 自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず我が身を鞭うって、精励する真の作家であった
 その竣介が
 突然死んでしまった
 竣介の絵の前で、幾多の既成作家、浸心の大家たちが、冷汗をかいて反省したことであろう
 美術界はかけがえのない作家を失った
 美術家の真の生き方を、純粋な声で絶叫しつづけた
 竣介は
 今は骸になってしまった
 水族館のように静かな青い光のアトリエには
 飽くことのない探究の記録、数々の素描油絵の
 習作が輝いていた
 心ある画家、文芸家たちにほんとうに愛されていた竣介が、なんということだ
 死んでしまうとは
 「アトハキミガヤレ」
 と死んだ竣介はいうにちがいない
 イヤだ、
 も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
 君ののこした子供の絵を仕上げてくれ
 竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける
 なぜ断りなしに死んだのだ


 どうしても見たいと思っていた1枚の絵があった。

 竣介の絶筆となった「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)だ。

 画集を見ただけでも、不思議な感覚に抱かれる絵だ。竣介の「青」をおおうように白と茶色ではみ出すように描かれているのは、教会だろうか。その上に描かれた竣介の細い「線」太い「線」・・・。まるで2枚の絵を重ねたように、荘厳さと立体感にあふれた絵だ。

 島根県立美術館を歩きまわった数時間、この絵を見つけることはできなかった。出口近くで係の人に聞いたら、近くで鑑賞していた女性が「その絵、この展覧会に来ていないのです。私も、見たかったのですが」と、声をかけてくれた。

 この絵は、現在世田谷美術館に巡回中の「生誕100年 松本竣介展」にも展示されておらず、所蔵している東京国立近代美術館の「60周年記念特別展 美術にぶるっ!」で見れる、という。

 会期末の14日直前に東京に行く用事がある。のぞくことができればと思う。

 ▽参考にした本
 ・「求道の画家 松本竣介」(宇佐美 承著、中公新書)
 ・「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中野淳著、中公文庫)
 ・「アヴァンギャルドの戦争体験―松本竣介、滝口修造そして画学生たち」(小沢節子著、青木書店刊)

求道の画家 松本竣介―ひたむきの三十六年 (中公新書)
宇佐美 承
中央公論社
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青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
中野 淳
中央公論新社 (2012-07-21)
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2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
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池澤 夏樹
文藝春秋
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2011年11月12日

読書日記「アースダイバー」(中沢新一著、講談社刊)

アースダイバー
アースダイバー
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中沢 新一
講談社
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 前回のブログでふれた中沢新一の、この著作は以前から気になっていたので、図書館で借りてみた。2005年の発刊だが、予想以上にもうけものの本だった。

 表題は、アメリカ先住民の神話から取られている。
はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物たちがつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーやカモメが挑戦しては失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地はつくられた。


ここで、中沢の持論が登場する。
 
頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく(一神教の神による天地創造ではなく?)、水中深くにダイビングしてつかんできたちっぼけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。こういう考え方からは、あまりスマートではないけれども、とても心優しい世界がつくられてくる。泥はぐにゅぐにゅしていて、ちっとも形が定まらない。その泥から世界はつくられたのだとすると、人間の心も同じようなつくりをしているはずである。


 中沢は、この泥みたいなものでできた心を「無意識」と呼ぶ。これまでの文明は、グローバル化にしろ、原発にしろ、この「無意識」を抑圧することによって合理的といわれるものを築いてきた。そして今、抑圧されてきた「無意識」が現代文明に反旗を翻そうとした結果が、9・11であり、3・11の本質でもある。中沢は、そう言いたいようである。

 「ぼくはカイツブリにならなければ」。中沢は、水の底から泥をつかんできて「もういちど人間の心をこね直そう」と考える。

 そんな気持ちで東京の街を見回してみた時「大昔に水中から引き上げられた泥の堆積が、そこそこに散らばっているのが見えてくる」

 縄文時代の前期、 縄文海進と呼ばれた時期には、泥の海が現在の東京の街にフィーヨルド状に入り込んだ地形をしていた。

   中沢は、この縄文地図を手に東京探訪に出かける。
 気づいたのは、どんなに都市開発が進んでも、それとは無関係に散財している神社や寺院は、きまって縄文地図における、海に突き出た岬ないしは半島の突端部に位置している、ことだ。

   
縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てたりして神様を祀る聖地を設けた、
  そういう記憶が失われた後の時代になっても、まったく同じ場所に、神社や寺がつくられた・・・。現代の東京は地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に感知していた縄文人の思考から、いまだ直接手的な影響を受け続けているのである。


   
東京の重要なスポットのほとんどすべてが、「死」のテーマに関係を持っていることが、はっきり見えてくる。・・・盛り場の出来上がり方や放送塔や有名なホテルの建っている場所などが、どうしてこうまで死のテーマにつきまとわれているのだろうか。
 かっては死霊のつどう空間は、神々しく畏れるべき場所として、特別扱いされていたのである。


 縄文地図を見ながら東京を歩くと、縄文時代も堅い土でできていた丘陵地帯(洪積層)とかっての泥の海(沖積層)地帯では、土地の持つ雰囲気がまったく違うことに気づくという。沖積層地帯からは、死の香り、エロスの匂いがただよってくる。

 甲州街道や青梅街道が走る新宿の高台沿いには紀伊国屋や中村屋などの高級店が並んでいるが、湿った土地にできた歌舞伎町や西新宿には、それとはまったく違ったにおいがある。渋谷の繁華街やラブホテル街も、この地勢論から説明される。

道玄坂は・・・、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うかラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないと思う。ここには、セックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の感覚の間近さと関係をもっている。


 そして、明治天皇が新たに造られた明治神宮の森に祀られ、現天皇が、世界のどの大都市にもない皇居という「空虚な空間」に住まいを定められている意味についても、この本は敷衍していく。

 この本の巻末には、現在の東京に縄文地図を重ねた地図が折り込まれている。ブログに添付した写真では少し分かりにくいが、上野や御茶ノ水が、泥の海に突き出した「サッ」と呼ばれた岬であることが歴然と分かる。
 WEB上では、多摩美術大学中沢新一ゼミと首都大学東京大学院が協同制作した 「アースダイバーマップbis」も公開されていて、楽しませてくれる。
 ただ、 中沢の東京地勢論への異論もあるようだ。 img005.jpg

 中沢が縄文時代について記述しているのを読むのは、このブログでもふれた 「縄文聖地巡礼」以来だ。蓼科の縄文遺跡や縄文人の末裔といわれるアイヌ人の昔を訪ねるエコツアーに参加したこともある。
 一神教の神を信じる身でありながら、縄文の時代の死や霊への思いになぜか引かれる。

 このブログを書いていて、中沢が週間現代にアースダイバーの大阪版「大阪アースダイバー」を連載しているのを知った。昨年11月のスタートだから、間もなく単行本になるのだろう。この8月には「大阪アースダイバー」をテーマにした中沢ら3人の 公開鼎談も、東京で開かれている。

 これに刺激されたのか、大阪の街に縄文の地図を重ねたマップを掲載した ブログも登場している。
 このマップを見ると、大阪城や難波宮、四天王寺、住吉大社が連なる上町台地を除いて、ほとんど海である。

    元京大防災研究所長の河田恵昭・関大安全学部長の「水は昔を覚えている」という言葉を思い出した。昔、海や湿地帯だったところに市街地が発展しても、いったん洪水、高潮、津波はん濫が起こると、また海や湿地帯に戻る、というのである。

 故・小松左京「日本沈没」でも、上町台地以外の大阪の街が泥の海と化す記述がある。

 縄文の地図を現在の土地に重ねる「アースダイバー」の試みは、東北大震災など自然災害の教訓をけっして忘れてはいけないという警鐘とも読めるのである。



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