絵画アーカイブ: Masablog

2020年9月17日

読書日記「教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会」(石鍋真澄著、平凡社)

 著者は、イタリア美術史を専門とする成城大学教授。本棚を見ると、「サン・ピエトロが立つかぎり 私のローマ案内」「聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術」「ありがとうジョット イタリア美術への旅」と、著書が3冊も見つかった。

 14年前に、イタリア巡礼ツアーに参加する際に購入したらしい。その後、2017年にはカラヴァッジョの作品を再び見たくて2度目のローマ訪問を果たしたが、この本でもローマという都市にはぐくまれた芸術の歴史を満喫することができた。

 著書は、歴代の教皇たちを縦軸に、その教皇らが推進したルネサンスバロック美術を横軸にしてローマの歴史を展望してみせる。

 著者は、その両軸が織りなしたローマの街に大打撃を与えたサッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠・ごうりゃく)という事件に多くのページを割いている。

 1527年5月、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻、ローマの古い町並みを根こそぎ破壊し尽くした。

 兵士たちは金や銀を求めて、聖堂やパラッツオ(邸館)に押し入った。家財を奪ったあとは、その家の者に身代金を要求、払えない者は、残酷な拷問にかけられ殺害、少女から老女まで家族の前で乱暴され、殺された。
 多くの司祭や修道士が殺され、奴隷として売られた。修道女の多くはりん辱されて殺され、残った者も半裸か冗談で司教の衣装を羽織らされて売春宿に売られた。

 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン宮)にいた教皇クレメンス7世は、危機一髪でサンタンジェロ城に逃れた。

 14年前にローマを訪ねたときには、サンタンジェロ城は古い甲冑などが展示された博物館になっていたが、約1キロ離れたヴァチカン宮との間に秘密の地下道があると聞いた覚えがある。実際には、この2つを結ぶ城壁に造られたパセット(小道)を通って、教皇は逃げ込んだ。城に据えられていた大砲がなんとか教皇を守ったらしい。

 サッコ・ディ・ローマについて、多くの歴史家がこう記述している。
 「サッコ・ディ・ローマによってルネサンスは終った」

 ローマの町が徹底的に破壊されたことで、14,5世紀に教皇ユリウス2世レオ10世などがパトロンとなって栄華を極めていたローマのルネサンス文化も姿を消した。ミケランジェロラファエロの作品は残ったが、ローマ中の聖堂にあった、貴重な聖母子像、磔刑像、祭壇画の多くが破壊された。

 同時に、11,13世紀に花開いたコムーネ(自治都市)文化の貴重な海外や彫刻も破壊され、記録や資料さえ残っていない。

 しかし、ローマは不死鳥のようによみがえる。17世紀のカラヴァッジョ、ベルニーニに代表されるバロック美術が、教皇たちの強い後押しで栄華を極めたのだ。

   著者によると、サッコ・ディ・ローマから14年後の1541年に完成したミケランジェロの「最後の審判」の壁画も「サッコ・ディ・ローマという大きな悲劇が生み出した傑作」だという。

 システィーナ大聖堂の正面壁に描かれたこの大壁画に感じられるのは「サッコ・ディ・ローマ後に広がったペシミスティックな空気だ」 「罪の意識と悔悟、神の怒りへの畏怖、惨劇のトラウマ、無力感、そしてすべての人間の上に下される審判への待望。教皇は、・・・それらが時代を超えて理解されるようにミケランジェロの手で視覚化されることを望んだのだ」

 このようにして、荒廃のなかから再生されたローマの街を、現代の我々も楽しむことができる。

 ところで、この本には歴代の教皇の多くが、愛人を作り、司祭や枢機卿時代に実子や庶子をもうけていたという記述が何度も出てくるのに驚く。
 庶子などを「ニポーテ(イタリア語でおい、めいの意味)」と偽って、枢機卿などに登用する「ネポティズム(縁故主義)」という言葉が何回も出てくる。  「ルネサンス期の教皇は、枢機卿だけでなく、司教、教皇軍、教会国家の要職に身内の者を採用、教会の富が身内にわたるようにした」「身内の登用や不在聖職者の悪用、兼職、聖職売買、不要なポストの創設といった悪弊が行われるようになった」

 ウイキペディアによると、このような縁故主義が終るのは、1692年のインノケンティウス12世が発布した教皇勅書からだという。

 ひるがえって現代。カトリック教会では、聖職者の性的虐待事件が頻発している。現教皇フランシスコは「断固とした対応をする」と声明したが、解決の糸口は見えない。

 現在の性的虐待事件と中世の聖職者女性問題に、共通項があることは否めそうにない。  司祭志願者が減っているなかで、将来、プロテスタントのように婚姻する聖職者が現実の話しになった場合、ネポティズムの悪弊に染まった中世の教訓を生かせるだろうか。

2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
高階 秀爾
PHP研究所
売り上げランキング: 45,748


 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
19-05-04-1.jpg 19-05-04-2.jpg 19-05-04-3.jpg
19-05-04-4.jpg 19-05-04-5.jpg


 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2019年2月 6日

日々逍遙「明治神宮」「ムンク展」「フリップス・コレクション展」

 

【2019年1月6日(日)】

 1月4日は77歳の誕生日だった。

 喜寿は数え年で数えるようだが、東京と横浜にいる3人の子どもたちが「遅ればせの祝いをするから出てこい」という。孫たちの塾通いが忙しく、関西には来られないと言うのだ。やむを得ず、のこのこと東京・六本木のホテルに出かけた。

 翌朝、明治神宮へ。学生、新聞社時代を含めて7年ほど東京にいたが、ここには行ったことがなかった。荒れ地に人の手で作られた永遠の森というのを見たいと思った。

 3が日は過ぎたというのに、参道はかなりの人手。その参道に覆いかぶさるように広葉樹が葉を広げていた。左右に広がる広大な敷地の森はまったく人の手は入らず、自然の植生にまかせた木々の循環が続いている。
 参道脇に、箒や落葉を入れる布袋が置かれている。朝、昼、夕の3回、参道の落葉が掃き集められ、そのまま木々の根元に置かれ、自然の循環を助けるという。見事な「鎮守の森」だ。

 100円でおみくじを引いてみた。なんと、吉兆ではなく、祭神の1人である昭憲皇太后の御歌がしるされていた。  
茂りたるうばらからたち払いてもふむべき道はゆくべかりけり


 今年は、茨(うばら)の道?

19-01-05-1.JPG
大鳥居を覆う広葉樹
19-01-05-2.JPG  19-01-05-2-2.JPG
参道脇の竹箒       森のなかを行く参拝者

 この後、上野・東京都美術館の「ムンク展―共鳴する魂の叫び」へ。

   さすがにムンク。どの絵の前も2重、3重の人であふれている。特に有名な「叫び」は、鑑賞の前に列を並ばなければならない。

 近代社会が招いた人間の不安、孤独、絶望を描いていることが、見る人の共感を呼ぶのだろう。図録には「人間の口から放たれた不安が、風景のなかに拡散し、さざ波を立てている」と書かれていた。しかし、絵のなかの男性は叫んでいるのではなく、耳を塞いでいる、という見方もあるようだ。ムンク自身が「自然を貫く叫びに底知れない恐怖を感じた」と、書いているという。

 ちょっと分かりにくいが、約100点の展示作品のなかでも「絶望」「メランコリー」「夜の彷徨者」などの絵に引かれた。

19-01-05-3m.png
「叫び」
19-01-05-4.jpg  19-01-05-6.jpg
「絶望」        「メランコリー」
19-01-05-7.jpg
「夜の彷徨者」


 ムンク展の「叫び」に見入る寒さかな


【2019年2月3日(日)】

 用事でまた上京したのを機会に、丸の内の三菱一号館美術館で開催している 「フイリップス・コレクション展」に出かけた。入るのに15分ほど待たされたが、なかなかの拾いものだった。

 ワシントンにあるフイリップス・コレクションは、100年前に実業家が近代美術を蒐集した私立美術館。「アングル、コロー、ドラクロア等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父、マネ、印象画のドガ、モネ、印象画以降の絵画を索引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点」と、普通の美術館の学芸員なら垂涎の的の作品がずらり。
 それも、明治の時代に丸の内で初めてのオフイスビルとして建てられたレンガ造り・復元建築の重厚なインテリアの部屋を連なるように展示されている。

 暖かい気候に恵まれた小旅行。帰った伊丹空港は雨だったが、なにやら春の気配・・・。

 まだ固き蕾の中に春を待つ


 海光の温みを集め水仙花


19-01-05-8.jpg  19-01-05-9.jpg
ゴア「聖ペトロの悔恨」      シスレー「ルーヴシェルの雪」

2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

190128-01.jpg
「カフェ」
190128-02.jpg
「舞踏会の前」
190128-03.jpg
 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2018年10月31日

日々逍遙「小磯良平展」「武庫川・コスモス園」など

このブログが、管理システムの不調で約1ヶ月閲覧だけでなく、新しい記事の掲載もできなくなった(詳しくは、管理者n.shuheiさんの 10月22日付けブログで)。
 管理者の大変な努力で10月末には復旧したが、ブログ右側の「過去記事タイトルリスト」を見ると、11年もの読書、紀行記録が自分にとって貴重な財産になっていることに改めて気付いた。

 あまり好きな言葉ではないが、 "終活" の一環にもなるかと「日々逍遙」というコーナーも作ってみることにした。

2018年10月28日(日)
 阪急夙川駅で、昔テニスクラブで一緒だったYさんに20年ぶりにばったり。サングラスを外して見せた顔には、私同様それなりの年輪が刻まれていたが、テニスは相変わらず続けているという。2007年に中国にご一緒したKさんも同じテニスクラブらしいが、テニスを日課のようにしていたMさんは「もう、しんどくなった」と最近クラブを辞めたらしい。これも"終活"かな・・・と。

 待ち合わせた友人Mとポートアイランドの神戸市立小磯記念美術館へ。特別展「没後30年 小磯良平展 西洋への憧れと挑戦」が開催中で、全国の美術館から集められた代表作や新発見、初公開作など約130点が展示されている。

 見覚えのある兵庫県立美術館所蔵の「T嬢の像」や東京藝術大学が貸し出した「裁縫女」が、戦前の中産階級の生活を鮮やかに描きだして秀逸だ。

pic-01.jpg pic-02.jpg

 珍しいことに「娘子関を征く」「カリジャティ会見図」(いずれも国立近代美術館・無期貸与作品)など、かなりの戦争絵画が展示されていた。

 ちょうど、京都国立近代美術館で「没後50年展」が開かれている藤田嗣治は、多くの戦争絵画を描いたことへの非難に嫌気をさしてフランスに戻って、死ぬまで日本に帰らなかったということだ。小磯良平も自分の画集に戦争絵画を載せることを非常に嫌ったという。東京芸術大学教授として活躍した戦後の生活の中で戦争責任の声とどう決別したのだろうか。

pic-03.jpg pic-04.jpg

 戦後に描かれた「働く人びと」(小磯美術館寄託)という大作は、同じ油彩ながら戦前の作品とがらりと筆使いが違っている。なぜだろうか。

pic-05.jpg

 東京・赤坂の迎賓に飾られている「絵画」「音楽」の2作は、やはり小磯の迫力が満溢 した作品だ。この展覧会では、小さなカラー模造図が展示されているだけだったが、やはり本物が見たい、と思った。

pic-06.jpg

  【2018年10月16日(火)
 武庫川左岸(尼崎市)の「武庫川コスモス園」に出かけてみた。
 13日に開園したばかりで、まだ咲きはじめといった感じだが、7つの区画にピンク、白、黄色のコスモス約550万本が今年も元気に咲きそろおうとしている。昨年は、台風の被害を受けてほぼ全滅しており、2年ぶりに復活した風景だ。
 ここは、もともと旧西国街道を結ぶ「髭の渡し」と呼ばれる渡し場があったらしい。サイクリングロードなどが整備されている右岸・西宮市側に比べ、左岸は未整備なところが多く、ここもゴミの不当投棄で荒れていた。コスモスの名所に変身させた地元市民グループの努力をありがたく思う。

IMG_0475.JPG IMG_0479.JPG

2018年10月8日(月)
 久しぶりに、西宮市立北山緑化植物園に出かけた。まだ紅葉には早かったが、シューメイギク、コムラサキ、ミズヒキなどの秋の花が咲きそろっている。  カツラの木の下のベンチで休憩。カツラの大木を訪ねた鉢伏への旅を思い出した。
 
 秋晴れへ伸びる桂や幹太し


 まだ青いがカリンの実がたわわに実っている。自宅にカリン酒をつけているのを思い出し、帰って飲んでみた。澄んだ琥珀色をした、なかなかの出来だった。張られたレッテルに「2016年11月作成」とある。たしか、神戸女学院のシェクスピア庭園で収穫した実を漬けたのだと思う。

下のサムネイルをクリックすると大きな写真になります。
IMG_0457.JPG IMG_0449.JPG IMG_0450.JPG IMG_0462.JPG IMG_0440.JPG


2018年10月27日(土)
 2週間に1回の俳句講座(講師:池田雅かず「ホトトギス同人」、於・神戸六甲道勤労市民センター)の日。
 最初に講師が「鳴け捨てし身のひらひらと木瓜の花」という句を黒板に書き、主席者の評価を聞いた。「良い句」と思った人は1人、私も含めて残り20人弱は「良くない」に手を挙げた。

 実はこの句は、AI(人工知能)の作、だという。
 北海道大学の川村教授が、過去の俳句5万句をAIに詠み込ませて開発したソフト「一茶君」に「鳴」「木瓜の花」という兼題を与えて自動生成させたらしい。
 友人の1人は「なかなかいい句だ」と、高い評価をした。はたしてAIは、将棋、碁に続いて俳句でも勝利するだろうか。

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日~5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

① サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603~06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603-06年頃)

170531-01.jpg 170531-02.png
170531-03.jpg 170531-04.jpg 170531-05.jpg

② サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

170531-11.jpg 170531-12.jpg

 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)作「聖母被昇天」
170531-13.jpg

 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9-4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

170531-15.jpg 170531-16.jpg

③ サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

170531-31.jpg 170531-32.jpg

170531-33.jpg 170531-34.jpg

 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

170531-35.jpg

 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

170531-36.jpg

 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

170531-39.jpg

 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
170531-38.jpg 170531-37.jpg

④ 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605~06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605-06年)
170531-42.jpg 170531-41.jpg

⑤ パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
170531-51.jpg

 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05~06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05-06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
170531-52.jpg 170531-53.jpg

⑥ ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、⑤と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

170531-61.jpg 170531-62.jpg

 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
170531-64.jpg

 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
170531-66.jpg

⑦ カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598~99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
170531-71.jpg 170531-721.jpg

 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
170531-74.jpg

⑧ ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602~04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602~04年頃)
170531-81.jpg

⑨ ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
170531-91.jpg

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
170531-92.jpg

 「蛇の聖母」(1605~06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605~06年頃)
170531-93.jpg

 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
170531-95.jpg

 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
170531-94.jpg

 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
170531-96.jpg



2017年4月26日

展覧会鑑賞記「没後40年 熊谷守一 お前百までわしやいつまでも 」(於・香雪美術館)、読書日記「蒼蠅(あおばえ)」(熊谷守一著、求龍堂刊)


蒼蝿
蒼蝿
posted with amazlet at 17.04.25
熊谷 守一
求龍堂
売り上げランキング: 64,466


 熊谷守一のことを知ったのは、どこだったのかとずっと考えていたが、このブログにも書いたが、「偏愛ムラタ美術館 〚発掘篇〙」(村田喜代子著、平凡社)だったことをやっと思い出した。

熊谷守一美術館は、大学、職場で大変お世話になった先輩Tさんのご自宅のある東京・豊島区にあるので、Tさんをお訪ねするのを兼ねてと思っていたら、そのTさんが急逝され機会を失っていた。

 それがなんと。神戸・御影の香雪美術館で、「熊谷守一 お前百までわしや」展が開催されているのを知り、桜の開花が少し遅れている雨の4月はじめ、友人Mを誘い、出かけてみた。

 ある、ある!

art-01.jpg

   そう広くない美術館の1階に、あのシンプルな線で描かれた「猫」が、縁側でのんぼりとまどろんでいた。手前のガラスケースのなかのスケッチ帳には、のびやかな体や斑の色が字で書きこんであり、ち密な計算で完成された絵であることが分かる。

 村田喜代子は、こう書いている。
 「命という、形として単純化できないものを、両腕に力をこめてなでたり、転がしたりしながら、まるめ直したような感じ。熊谷の猫はふわふわしてなくて、頭骨の硬さが見る者の手にごつごつと触れる」

 木のてすりがついた階段を2階に上る。
 右奥に、代表作といわれる「ヤキバノカエリ」が、ひっそりと待っていた。

art-02.jpg

    長女・萬の骨壺を持つ長男・黄、次女・榧が並んで歩き、少し前を歩く守一のいずれにも顔がない。デフォルメされた道と木々が一緒になって、静逸さだけが流れている。

 村田は書く。
 「単純化できない重大な出来事を、強い力で押さえつけて、単純化してしまったような・・・。だから一見のどかそう な絵だが、画面構成を見ると天と地の配分、三人の等間隔の並び方、緑の木の生え方まで、 何かギリギリのバランスの中に措かれている気がする」

 守一は、字もよく描いた。著書の題名「蒼蠅」もそうだ。

 
展覧会で売れないで残る「蒼蠅」という字は。よく書きます。わたしは蒼蠅は格好がいいって思うんだけれど、普通の人はそうとは思わんのでしょうね。病気のときなんて、床の周りをぶんぶん飛んでくると景気よくて退屈しない。この頃は蒼蠅もいなくて淋しいくらいです。
 ところがこの蒼蠅という字のも、ひどくきついのときつくないのとできるんです。蒼蠅がひどく頑張っているのと、そうでないのとね。


art-03.jpg

   香雪美術館にも、装丁されたものが展示されていた。
 「これも売れ残った字か」と、ちょっとおかしくなった。きつい字であったかどうかは、よく分からなかった。

     
前は暑い時期には庭にござを敷いて、腰に下げたスケッチブックに、あたりの草花や蝸牛や蛙や蟻や虫などをスケッチしました。疲れると、そこにごろりと横になって眠ったものです。


art-04.jpg
      土門拳撮影。著書「蒼蠅」より



 
縁側の端のフレームは、ここにきてすぐに造ったものです。浜木綿、月下美人、野牡丹は毎年よく咲きます。浜木綿はうちのはあまり大きくないけれども、人に分けたのは立派になっているそうです。ナイヤガラの滝の菊というのは秋に、日本の山で見る野菊よりずっと濃い色に咲きます。
 何時だったかの冬に、このフレームに蜂が巣を作ったときは、砂糖水をやりながら蜂の動きを毎日毎日見て過ごしたことがあります。


art-05.jpg  art-06.jpg

               
わたしの描く裸婦には顔がないんで、女の人の美人をどう思うかって聞かれたことがあります。顔を描かないのは情が移るからで、そりゃ美しい人は美しいと思う。どういう人が美しいかということになると、人それぞれですから一概にはいえませんね。


art-07.jpg

       次の言葉は、鷲田清一が毎日の朝日新聞朝刊の1面で書いている小欄「折々のことば」で見つけた。

 
わたしは、ぬけたような青空は好みません。
 まるでお椀でふたをされた感じで、窮屈です。
 それより少し薄雲リの空がいい。
 そんな日のほうが庭に出ても、気楽に遊べるような気がするのです。人の好みって変なものですね。


 「瑕(きず)一つない均質の生地で覆われているようで息が詰まるから? 遠近法がきかない透明な青の深みに吸い込まれそうで不安になるから? なのに、庭に掘った深い穴の底から見上げる空は「円くぬけて」いるみたいで面白い。「人の好みって変なものですね」と自分でも言っている。「画壇の仙人」といわれた画家の言行録「蒼蠅(あおばえ)」から」(2017年4月4日付け朝日新聞より)

 最近、NHKの「日曜絵画館」で見て、興味を引かれた画家で守一が「友人」と書いている、で、長谷川利行のことが、何回か登場する。

 
長谷川利行は飲んべえで、酔うと同じ話ばかり繰り返しました。
 わたしのとこへ遊びにくると、絵を描くことばかりいっている。お前みたいにぐずぐずしているのは損だっていいやがるんです。
 帰るぞといって出て行く。するとすぐまた戻ってきて、同じ話を繰り返しました。
 それでも。いやな感じはぜんぜんなかった。


art-08.jpg

      
まえに写生に行ったとき、描く風景が見つからないので、仕方なく、畑のわきのひがん花を描いていました。
 横でお百姓さんが、黙って畑を耕していました。
 どこからきたのかわからないが、そのひがん花にかまきりが、大きな鎌を振りながら上がってきた。かまきりも入れてまとめると、そう嫌いじゃない絵ができました。
 するとお百姓さんがそばにきて、絵をのぞき、よくできたねとほめてくれました。


 「行ってきましたよ」。東京・亀戸にあるTさんの墓前に、ウイスキーを献杯しがてら、熊谷守一展のことを報告しようと、心に決めた。

 

2016年11月29日

読書日記・絵本「雑草のくらしーあき地の五年間―」(甲斐信枝 作、福音館書店刊)


雑草のくらし―あき地の五年間 (福音館の科学の本)
甲斐 信枝
福音館書店
売り上げランキング: 86


 2回目の白内障手術に出かける前の今月23日。NHKテレビで「足元の小宇宙 絵本作家と見つける生命のドラマ」という番組を放映していた。

 京都・嵯峨野に住む甲斐信枝さんという85歳の絵本作家が、雑草や草花、昆虫を子細に観察して絵本にしていくドキュメンタリー。「こいつら、可愛い」と話しかける姿に引き込まれた。

book02.jpg

 さっそくAMAZONに表題の絵本の購入を申し込んだ。ちょっと遅れて28日に、縦28・5センチ、横30センチの大型本が届いた。

book03.jpg

   なんと1985年発刊と30年以上も前に発刊され、多くの賞を受けたベストセラー絵本だった。

 絵本を開くと見開きのページで菜の花畑の真ん中にある広い空地の絵が、視力1・2に戻った両目に飛び込んできた。

b00k04.png

 甲斐さんは1979年春から5年間この空地を借り、入れ代わり立ち代わり生えては枯れていく雑草たちの栄枯盛衰を観察、水彩画にしてきた。

 最初に「土のなかからわきだすように」緑の葉を出したのは、メヒシバの大群。「ところどころにエノコログサもまじっている」
 エノコログサの穂をこどものころ"猫じゃらし"と呼んで、遊んだことを思い出す。どちらも、近所のどこの空地でも見つけられた草だった。

 一年草であるこれらの雑草は、夏から秋にかけてたくさんの種子を散らし「一生を終わって死んでいく」

 そこへ、向かいの土手からオオアレチノギクの種子が飛んできて芽を出し「寒い冬をのりこえて、大きく育って」いった。空地の主役交代だ。

book01.jpg

 このページに描かれているのは、3年目の春の雑草たち。

 この年の主役は、カラスノエンドウだ。「となりの草にまきついてひきよせ、・・・上から草たちにおおいかぶさって」他の雑草の命をうばっていく。
 この草の鞘を草笛にしてよく遊んだことを思い出す。

 夏になると、鞘が真っ黒になって「パチッ、パチパチッと、・・・ゴマをいるような音」で種をはじけ出し、秋には枯れて死んでいく。

 4年目の春。枯草に阻まれて芽を出すことができなかったカラスノエンドウにかわって「いちめんに花を咲かせたのはスイバの群れ」。表紙に描かれているのは、スイバの雄花と雌花だ。
 スイバは茎が酸っぱく、見つけると「スーイ、スイ」と言いながら口でかみ汁を飲んだものだ。いつもお腹がすいていた子供のころの思い出だ。

そして五年目の春のある日。
 荒れ畑の土が掘りかえされ、草がすっかりとりのぞかれた。
 すると、ぞくぞくと芽をだしてきたのはメヒシバ、エノコログサ。
 短いいのちを終わり、消えていったメヒシバやエノコログサは、
 種子のまま土の中で生きつづけ、自分たちの出番がくる日を、
 じっと待っていたのだ。


 甲斐さんは、草花や虫たちを正確に写し取るため科学絵本と呼ばれる多くの絵本を出している。いつも、雑草や草花、虫たちと同じ目線で描き切る、という。

book061.jpg book062.jpg book063.jpg book064.jpg book065.jpg

book066.jpg book067.jpg book068.jpg

2016年5月26日

 展覧会紀行「日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展」(於・ 国立西洋美術館、2016年5月21日)



   日本を代表する聖書学者である 和田幹男神父に引率された巡礼ツアーで、ローマの街を回り カラヴァッジョの作品に魅了されて、もう10年になる。

 今回、日本に来たのは接したことがなかった作品ばかりだった。ぜひ見たいと思い、世界遺産への登録が確実になった ル・コルビュジェ作の 国立西洋美術館に出かけてみた。

 上野のお山は、東京都立美術館で「伊藤若冲展」という待ち時間3時間半というばけものみたいな催しがあることもあって、週末の金曜日というのにごった返していた。

 幸い西洋美術館には、約30分並んで入場できた。

 一番、観客の目を惹きつけているのが、「法悦の マグダラのマリア」(1606年、個人蔵)だ。長年、この作品が本当にカラヴァッジョ作であるかどうかが専門家の間で議論されてきたが、ロベルト・ロンギ財団理事長でカラヴァッジョ研究の第一人者であるミーナ・グレゴーリ女史から本物であるというお墨付きが出て、この展覧会が世界初公開となった。

法悦のマグダラのマリア
art-01.JPG



 所有者は「ヨーロッパのある一族の私的コレクションのひとつ」としか明かされていないから、この作品を見られるのは、これが最初で最後かもしれない。

 グレゴーリ女史が「真作」と確定した根拠は、第一に、キャンバスの裏にあるチラシに1600年代特有の書法で書かれた署名。第二に、その色使いや手法。「マグダラのマリア」は頭を後方にそらし、その眼は半閉じ状態で、口はわずかに開いている。両肩をのぞかせ、両手を組み、髪の毛は乱れている。服装は白のワンピースに、カラヴァッジョがいつも使う赤の絵具のマント。

 作品をじっと見てみると、右の眼から一滴の涙が流れ落ちようとしており、唇を半開きにしており「法悦」というより、まさに死を迎える寸前の「悔恨」の表情に見えた。

 カラヴァッジョが殺人を犯してローマを追われ、逃避行の末に死んだ時、荷物のなかに残っていた絵画3点のうち1つがこの作品だった。

 最近、マグダラのマリアについての本を読んだり、講演を聞く機会が何度かあった。

 それによると、これまで娼婦としてさげすまれてきたマグダラのマリアは、実はキリストの最後の受難に勇気をもって見届けた聖女で会った、という考えが出てきている、という。

 カラヴァッジョが現代に生きていたら、別のマグダラのマリア像を描くかもしれない。

   もう一つ、どうしても見たかったのが、「エマオの晩餐」(1606年、ミラノ・ブレラ絵画館)だった。

エマオの晩餐 -1
art-02.JPG



 新約聖書のルカ福音書24章13-31によると「イエスが十字架につけられた3日後、2人の弟子がエルサレルからエマオの街に向かって歩いている時、イエスが現れたが、2人にはイエスと分からなかった。一緒に宿に泊まり、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂き、2人に渡した。その時、2人はやっとイエスと分かったが、その姿は見えなくなった」

 実はカラヴァッジョは、「エマオの晩餐」(1606年、ロンドン・ナショナルギャラリー)をもう1枚描いている。イエスはミラノのものよりずっと若く描かれ、光と影のコントラストも明快で明るい。

エマオの晩餐 -2
art-03.JPG



 今回の展覧会に出された「果物籠を持つ少年」(1593-94年、ローマ・ボルゲーゼ美術館)や「バッカス」(1597-98頃、フレンツエ・ウフィツイ美術館)に見られる、光と影のなかに浮かびあがる躍動感が印象的だ。

果物籠を持つ少年                 バッカス
art-04.JPG  art-05.JPG



 しかし、ミラノの「エマオの晩餐」は、暗い闇が広がる中に、イエスの静謐な顔だけが柔らかい光のなかに浮かびあがる。

 展覧会のカタログでは「消えた後になってはじめてキリストが『心の目』によって認識できたことが示されている」と、解説されている。

 このほかにも、まさしくカラヴァッジョしか描けなかったであろう多くの作品を堪能できる。

 「エッケ・ホモ」(1605年頃、ジェノヴァ・ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ビアンコ宮)は、ヨハネ福音書19章5-7の一節から描かれた。

エッケ・ホモ
art-06.JPG



 右側の老人、ピラトは大声で叫ぶ。「この人を見よ(エッケ・ホモ)・・・私はこの男に罪を見いだせない」。しかし、民衆はさらに叫ぶ「十字架につけろ。十字架につけろ」
 イエスは、すでに茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せかけられようとしている。しばられたイエスが持つ、竹の棒はなんだろうか。

 「洗礼者聖ヨハネ」(1602年、ローマ・コルシーニ宮国立古典美術館)は、長年、その"帰属"について論議があった作品。漆黒の闇のなかに、柔らかな光に包まれた若い肉体が浮かび上がる。憂いを帯びた表情は、聖職者で長年会わなかった弟を模したものともいわれる。

洗礼者聖ヨハネ
art-07.JPG



 「女占い師」(1597年、ローマ・カピトリーノ絵画館)は、2年前にパリのルーブル美術館で見た同じ名前の作品とポーズはそっくりだが、衣装や背景が異なっている。モデルも違うらしい。

女占い師 -1
art-8.jpg

女占い師 -2
art-9.jpg



   「トカゲに噛まれる少年」や「ナルキッソス」(1599年頃、ローマ・バルベリーニ宮)国立古典美術館)、「メドウ―サ」(1597-98年頃、個人蔵)など、カラヴァッジョ・ワールドをたっぷりと堪能できた。

トカゲに噛まれる少年            ナルキッソス           メドウ―サ
art-10.jpg art-11.jpg art-12.jpg



 今回の展覧会には、カラヴァジェスキと呼ばれるカラヴァッジョの画法を模倣、継承した同時代、次世代の画家の作品も多く展示されている。

 なんと、そのなかに ラ・トウ―ルの作品を見つけたのには驚いた。

 ラ・トウ―ルのことは、この ブログでもふれたが、パリ・ルーブル美術館の学芸員が、何世紀の忘れられていたこの作家を再発見した。

 今回の展覧会では、「聖トマス」(1615-24年頃、東京・国立西洋美術館)と「煙草を吸う男」(1646年、東京富士美術館)の2点が展示されていた。

聖トマス            煙草を吸う男
art-14.jpg art-13.jpg



 カラヴァッジョとは一味違う炎と光の世界の作品を所蔵しているのが、いずれも日本の美術館だったとは・・・。

2015年11月26日

読書日記「鴨居玲 死を見つめる男」(:著、講談社)、「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧 悌三著、日動出版)「踊り候え」(鴨居玲著、風邪来舎)「鴨居玲画集―夢候」(作品著作権者・鴨居玲、発行者・長谷川徳七)



鴨居玲のことを知ったのは、いつだっか?たぶん、昨年の夏、師事している 酒井俊弘神父からいただいた長崎からの絵葉書から強烈な印象を受けたのが最初だったような気がする。

 表題の最初の著書が出たのを新聞書評欄で知って図書館で借りることができたのが、今月初め。同時になんと作品約100点を集めた巡回展 「没後30年 鴨居玲展―踊り候えー」が伊丹市立美術館に回ってきているのを知って出かけ、鴨居玲の世界をたっぷりと堪能できた。

  長谷川智恵子が、著書の「はじめにー」で「鴨居の作品を知る人は、少なからず『暗鬱だ』『暗い』という印象があるだろう」と書いている。これは 日動画廊副社長という画廊経営者だから出た表現でもあったのではないだろうか。画廊から絵画を買う人は、個人ならたぶん自宅の居間にふさわしい「きれいな」絵を探すだろう。

 しかし「心の叫びを描く」( 長谷川徳七)ことが仕事である画家の作品が「暗い」のは、 ドガ レンブランドの自画像を見ても分かる。

   鴨居の作品には「暗さ」のなかに、光と色彩が巧みに使われ、見る人の心に沁み込んでくるなにかを感じる。

 代表作の1つ 「酔って候う」や「おっかさん」、そして真っ赤に塗り込まれたキャンバスに浮かび出る 「出を待つ道化師」は、その暗さの中に浮き立つ表現力、ユーモア、哀愁に見る人は引きつけられる。

酔って候う.JPG おっかさん.JPG 出を待つピエロ.JPG
酔って候う おっかさん 出を待つピエロ


 しかも、これらの絵をじっくり見ていると、描かれた人物が鴨居玲その人であることが分かってくる。鴨居が「 自画像の作家」と呼ばれたゆえんでもある。それは、酔った老人やピエロは、生きることに苦しみ、悩み、酒に助けを求める鴨居自身の姿でもあった。

 長谷川智恵子の著書によると、鴨居は正真正銘の"酔っ払い"であっただけでなく「格好よさ」(没後30年展図録の表紙と裏面より)の美学を貫いた男(おのこ)でもあった。

 著書には、鴨居に会った最初の印象がこう書かかれている。
 「当時、絶大な人気のあった三船敏郎にどこか似ていて、彼より、一回り身体が大きく国際的な雰囲気があった。・・・今まで知っている多くの日本の洋画家とは、まったく異質のもの――異邦人のような空気――を感じた」

 24歳のころ、芦屋市にあった 田中千代服装学園の講師をしていたが、女生徒たちが「素敵な人」と騒ぎ、同じころに教えていた 六甲洋画研究所には、ブルーのシャツ、赤いズボン姿、大型オートバイ 「陸王」に乗って現れた。

 スペインに住んでいた四十三歳の頃には、乗っていたオペルを緑色の ムスタングに乗り換え、パリに移ってからも「格好がいい」と狭い道を無理して乗り回していた。

 鴨居は、四十一歳の時に描いた「静止した刻」で、安井賞を受けて遅まきの画壇デビューをはたした後、スペインの バルデペーニャスに同棲していた写真家の 富山栄美子と3年間住んで村の人々を多く描いたが、その後は描くテーマを探すのにいつも苦悩していた。

 いくつか描いた教会の絵について、鴨居は自著「踊り候え」で「描いているうちに、いろいろな飾りや、窓が邪魔になってきましたので、段々ととりのぞいているうちに、御覧の通りのっぺらぼうになりました」と書いている。

 「ドワはノックされた」は、「アンネの日記」に、「蜘蛛の糸」は、芥川龍之介の作品に触発された。

静止した刻.JPG 教会の絵.JPG ドワはノックされた.JPG 蜘蛛の糸.JPG
静止した刻 教会の絵 ドワはノックされた 蜘蛛の糸


 女性の裸体画にも、日動の長谷川徳七に勧められて挑戦した。富山栄美子をモデルにした「石の花」は、戦後すぐに上映されたソビエト映画に触発され「愛し合う二人が、抱擁したまま石と化してゆく・・・」(「踊り候え」より)姿を描こうとした。
 しかし、裸婦像をうまく描けない鴨居の焦燥感は死ぬまで続いた。

 晩年の代表作「1982年 私」という200号の大作からは、「もう描けない」という悲鳴が聞こえてきそうだ。
 白いキャンバスを前に描かれた鴨居の自画像は絵筆も持たずぼう然としている。後ろを向いている裸婦、魂を抜かれたような酔っ払いやピエロ、心配そうに画布をのぞき込む片腕を亡くした「廃兵」・・・。いずれも、鴨居が過去に生き生きと描いてきたモデルたちだ。

 最後の作品である「肖像」は、自らの顔をはぎ取って手に持った顔のない自画像である。鴨居は、死ぬ前「キリストの『最後の晩餐』を描きたい」と、大きな長方形のテーブルを買っていた、という。長谷川智恵子は「この顔のない人間は鴨居の『最後の晩餐』を予告する作品であったのだろうか」と書いている。

石の花.JPG 1982年 私.JPG 肖像.JPG
石の花 1982年 私 肖像


 鴨居は、満足する作品ができるたびに、なぜか自殺未遂騒動を起こした。
 昭和60年9月7日。鴨居は、自宅前に止めた自動車のなかで排ガスを吸って息を引き取った。長谷川は「自殺」をにおわし、「一期(いちご)は夢よ』の著者、瀧悌三は事故とみている。57歳だった。

 なきがらは、姉・ 鴨居洋子の希望で、西宮市にある母の墓の横に葬れている。

 


Amazon でのお買い物はこちらから