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2020年5月22日

読書日記「グレート・インフルエンザ」(ジョン・バリー著、平澤正夫訳、共同通信社刊)

 新型コロナ蔓延で休館になる前の図書館で、エゴン・シーレの本を見つけたが、風邪を引いた奥さんを看病していて28歳で死亡したと書かれていた。第一次世界大戦の最中に世界中で流行したスペイン風邪が原因だった。

 この本は、アメリカ発のスペイン風邪について、「巨大な攻撃に社会がどう反応し、対応したか」を、科学史家の眼で詳細にルポしたもの。約540ページの大作だ。

 「はじめに」では、「この世界的流行病による死者は、人口がいまの三分の一足らずだった世界で、2100万人に達したと言われている」「だが、いまのの疫学者は世界全体で、死者は少なくとも5000万人、おそらく1億人に達していたかもしれない」と、推測している。
 死者の多くは、2、30代の若者で「死者の数の上限をとれば、当時生きていた若者の8~10パーセントがウイルスによって殺された」

 1918年の初頭、アメリカ西部カンザス州で新型インフルエンザウイルスが発生、それがまたたく間に約500キロ離れた陸軍基地に感染、米国の第一次世界大戦参戦にともなって世界中に広まった。

 当時の米国大統領・ ウイルソンは、厭戦感のただよう国民を鼓舞し、挙国一途の戦争に向かわせた。「脅しと自発的な協力ふたつながらの手段を駆使して、政府が情報の流れを統制」していった。

 中立国であるスペインでしか、新聞が他国の病気の流行を報道することがなかった。まもなく病気は「スペインインフルエンザ」「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。

 やがて第1波が収まり「病気は消えた」。しかし「ウイルスは消えたわけではなかった」「山火事は木の根本で燃え続け、寄り集まって姿を変え、適応し、爪をとぎ、虎視眈々と、炎となって燃え上がる機会を待ちに待っていた」

 第2波は「ポットに入れた水が沸騰するようにまず一粒の気泡が浮かび上がり、やがて湯が踊って、乱暴に渦巻く混沌状態になる」ように、じわじわと訪れた。第1波と異なり、多くの死者が出た。

 ボストンの北西にあるキャプテン・ディベンズ陸軍基地で「インフルエンザが、まるで爆発したように大発生した」
 「死体は床の上に勝手気ままに放り出され、検死解剖をおこなう部屋に入るには、またいで歩かなければならなかった」

 そのボストンからフィラデルフィア海軍工廠に300人の水兵が到着した4日後、19人の水兵がインフルエンザになった。
 やがて、死体が「遺体安置所の床から天井まで薪のように積み上げられた」状態になった。

 戦費をかせぐ自由国債のキャンペーンで、フラデルフイアでは市はじまって以来最大のパレードが実施された。2日後、インフルエンザは一般市民に蔓延した。
 葬儀屋が病気で倒れ、遺体を置く場所さえなかった。死体の山が積み上げられていった。街は凍りつき、インフルエンザは全国に飛び火した。

 軍はそれでも、輸送船で兵士を次々とヨーロッパへ輸送した。
 潜水艦の攻撃を恐れて夜は舷窓が閉められ、日中もドアは閉められ、換気は追いつかなかった。食べなければならない兵士たちはグループごとに食堂に行き、「同じ空気を吸い、自分の口に当てる手でほかの兵士が数分前に触ったテーブルやドアに触れた」
 「輸送船は浮かぶ棺桶と化した」
 あと1ヶ月で戦争は終ろうとしていた。ドイツの同盟国はすでに崩壊するか降伏していたが、「軍はひたすら兵員輸送船を海外に送り続けた」

 しかし、政府は真実を語ろうとしなかった。新聞も「恐れてはいけない」としか伝えなかった。「だが、みんながみんな神を信じようとしていたわけではなかった」

 ある医師は、病原菌が粘膜に付着しないようにと、刺激性の粉末薬品を上気道に吹きつけた。別の医師は静脈から過酸化水素を注入した。13人は回復したが、12人が死亡した。

 世界中で数億人(米国だけでも数千人)が医師の診療や看護婦の看護を受けられず、ありとあらゆる想像のつく限りの民間療法や詐欺的治療が試みられた。「樟脳の玉やニンニクが首の周りにぶら下げられた。・・・「窓を密閉して部屋を過剰に暖めたりした」

 「アラスカのイヌイット(エスキモー)が絶滅してしまう」と、赤十字社が警告した。救助遠征隊が到着した時は、すでに遅かった。
 「バラバラ」と呼ばれる半地下式の円形住宅に入ると、棚や床の上に大人の男女、子どもの死体が山のように横たわり、手がつけられないほど腐敗していた。・・・「飢えた犬が多数の小屋に入り込み、死体をがつがつと食べていた」

 アフリカのガンビアでは、300ないし400世帯の村全体が絶滅し、「2ヶ月もしないうちにジャングルが忍び込んで、すべての集落は跡形もなくなった」

 南米アルゼンチンのブエノスアイレスでは、人口の約55パーセントがウイルスの感染、「日本でも3分の1の人口が感染」「グアムでは人口の10パーセントが死亡した」

 1919年1月、パリ講話会議が開かれた。アメリカ大統領・ウイルソンは、フランスの首相・クレマンソーと激しく対立、ウイルソンはフランスを「畜生」呼ばわりしていた。
 しかし、ウイルソンはスペイン風邪で病床から動けなくなった。復帰したら異変が起きた。
 クレマンソーの要求をそのまま飲み、ドイツが開戦の責任のすべてを負うという文書に署名した。ドイツには致命的な内容だった。
 そのことが、「アドルフ・ヒトラーの出現を促した」

 「病気ではなく、不安が社会をばらばらにしそうであった」「あと何週か続いていたら、文明が消えかねなかった」

  著者は、「あとがき」をこう結んでいる。

 

2019年2月27日

読書日記「あなた・辺野古遠望」(大城立裕著、新潮社)



あなた
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大城 立裕
新潮社
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 沖縄・辺野古での基地建設賛否を問う県民投票が実施されたばかりだが、昨年末から沖縄関係の本をいくつか読んだ。

 私小説「あなた」の著者、大城立裕は、沖縄初の芥川賞を受けた作家。6篇を納めた「あなた」のなかの「辺野古遠望」は、普天間基地の辺野古移転問題について、沖縄人の一人としての思いを語った作品だ。

 作者は20年ほど前、建設業をしていた兄と東海岸をドライブしたことがある。森で道に迷って野宿したが、翌朝サバニで夜釣りに来ていた地元の人に、そこが「ヘノコ」だと教えられた。「知らないなあ」、2人は首をかしげた。

 その辺野古に新しい基地を作る話しが出たのは、県民には思いがけないことだった。「アメリカや日本政府がよくあんな辺鄙な場所を知っていたものだ」と思う。近くにキャンプ・シュワブがあるから「地元のわれわれがよそ者みたいになって、なんの不思議もないかも知れない」

 普天間を閉じるといっても、辺野古を造るなら同じだと「沖縄の世間では怒っている」。そいう単純な怒りというか不満が「沖縄じゅうで滾(たぎ)っている」

 一昔前なら日本政府の側に立つと相場が決まっていた実業人が中心になって、辺野古反対の県民大会が催された。

 「ウチナーンチュ、ウシェーテー、ナイビランドー」(沖縄人を馬鹿にしてはなりませんよ)。そこで、故翁長元知事は沖縄言葉でそうスピーチした。

 反対運動のなかで、「琉球処分」という言葉が、日常語になっている、という。

 かって、琉球王国は、明治政府によって琉球藩となり、さらに廃藩置県によって琉球県となるという"処分"を受けた。
 置県後は「言葉や生活習慣にいたるまで、同化意識と劣等感の複雑な絡み合いをつづけた」

 「彼らの動機の基本は日米安保条約におけるアメリカの権益にたいする遠慮であって、その傘の下でみずからの安全を享受している。・・・琉球処分は植民地獲得のためであったが、こんどは『植民地』の何だと言えばよいのだろう」

 「どうせ沖縄は日本ではない」と「ヤマトの国民の多くが考えられていると見られる体験」が著者にはある。

 祖国復帰の直後、木曽・馬籠の民宿で沖縄から来たと名乗った。人の良さそうな女将さんに「日本語が話せるか」「新聞が読めるのかね」と言われた。・・・善意の異邦人扱いである。

 「(ヤマトのほとんどの全国民が)、県外移設を好まず、沖縄の犠牲を当然とみなしている。みずからの不人情と責任感欠如に頬かむりしている」

 このブログでもふれた「ふしぎなイギリス」の著者は、「イギリスは、4つのネーション(言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体)を持つ国家だが、日本は1つのネーションがそのままステート(独立国家)になっている」と書いている。

 しかし、沖縄の歴史を単純に振り返ってみても、沖縄と日本本土が同じ"ネーション"とは思えない。このままでは、沖縄の"自主決定権"や"独立"論議が、沖縄のなかから真剣に湧き上がってくるのは当然だ、と思う。

※関連して読んだ本

  • 「沖縄文化論」(岡本太郎著、中公文庫)

  • 「琉球王国」(高良倉吉著、岩波新書)

  • 「沖縄の歴史と文化」(外間守善著、中公文庫)

2019年2月19日

読書日記 「国家と教養」(藤原正彦著、新潮新書)



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藤原 正彦
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 著者はまず著書の冒頭で、90年代半ばから続いている「日本大改造」の仕掛け人は誰だったのかと、問いかける。

 例えば、金融ビックバン、新会計基準、市場原理、グローバル・スタンダード、小さな政府、官叩き、地方分権、民営化、規制緩和、大店法、構造改革、リストラ、ペイオフ、郵政改革、緊縮財政、商法や司法の改革・・・。

 「すべてアメリカが我が国に強く要望したもの、ほとんど強制したものであり、アメリカの国益を狙ったものでした。一人勝ちの日本を叩き落とすための緻密な戦略に沿ったものであったのです」

 規制緩和などにより、企業の非正規雇用が増え、年収が減った若者たちは結婚に二の足を踏み、出産率はガタ減り。労働力を確保するため、外国人労働者の入国が緩和され「ヒト、モノ、カネが自由に国境を越える新自由主義が完成を目指している。

 こんな実態を的確に判断するには「嗅覚によって、自分にとって価値ある情報を選択」しなければならない。そして、その嗅覚を培うのは「教養とそこから生まれる見識」というのが、著者が投げかけた問題意識だ。

 ギリシャの時代から長い歴史のなかで培われてきた教養主義は、第二次大戦後、世界中で少しずつ衰微してきた。
 現代人は、生存競争に役立たない教養を見下すようになったこと。さらに、実利を重視するアメリカ化と、自由主義を旗印にしたグローバリズムが進み、教養の伝統があったヨーロッパで2つの世界大戦を防げず、教養の地位が低下したためだ。

 ドイツでは、教養市民層と呼ばれる国民の1%にも満たないエリートが国をリードしてきた。しかし、大衆社会の出現で地位が低下した教養市民層は、民族主義を高らかに唱え、ナチズムへのレールを敷いてしまった。「教養が一部の人に専有され、それ以外の国民から隔絶されていた」結果だ。

 ドイツに見習って教養を高めてきた日本の旧制高校出身のエリート層も、あっという間に、国家総動員法などの思想に飲み込まれてしまった。

 一篇の詩を読むことで生き方が変わり、歴史、文化に関する本を読んで世界のなかでの自分の立ち位置が分かってくる。

 日々の実体験は(本を読むなどによる)疑似体験で補完され、健全な知識と情緒と形が身につく。「これこそが教養で、あらゆる判断の価値基準になる。・・・いかに『生きるか』 を問うのがこれからの教養と行ってよい」

 「これからの教養」とは、どのようなものなのか。

 第1に人間や文化を洞察する哲学、古典などの人文教養。次いで政治、経済、地政学、歴史などの社会的教養。第3に、放射能、安全などを判断する科学教養。もう1つ必要なのが、大衆文芸、芸術、古典芸能、芸道、映画、マンガ、アニメなどの大衆文化芸能。

 これらの教養を身につける方法として「読書、登山、古典音楽」「本、人、旅」「映画、音楽、芝居、本」など、様々な表現をする人たちがいる、と著者は言う。

 結局"教養"といういささかしんどい言葉も、人びとがそれぞれ大切に思っているこれらの表現に集約される、ということなのだろう。

 

2018年8月31日

読書日記「ふしぎなイギリス」(笠原敏彦著、講談社現代新書、2015年刊)



ふしぎなイギリス (講談社現代新書)
笠原 敏彦
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 今月初め、消化器の不調で緊急入院するというアクシデントに見舞われてしまった。ほぼ1年がかりで準備してきたイギリス旅行を断念、機中で読むことにしていたこの本を病院のベッドで読むことになった。

 著者、笠原敏彦は元毎日新聞ロンドン特派員。あとがきで「新聞記者の書くフローの情報を系統立てたストック情報にどう転化するか」に苦労したと書いている。

 本は最初に、2011年4月のウイリアム王子とキャサリン妃の成婚にふれている。そのパレードは、ダイアナ元妃の葬送ルートのほぼ逆コースであり、王子はダイアナ元妃の婚約指輪をキャサリン妃に贈るなど、王子は「ダイアナ元妃を自分たちの結婚プロセスに一部に組み込んでいた」という。
 なぜ、そんな必要があったのか。

   ダイアナ元妃が1997年、パリで交通事故死した際、バッキンガム宮殿の前は花束で埋まり国民は悲しみで「集団ヒステリー」に陥った。対照的に冷淡なエリザベス女王の対応に国民の怒りが爆発、王室支持率は急落した。

 それを救ったのが、時の首相トニー・ブレアだった、らしい。ブレア首相は女王やチャールズ皇太子との確執が伝えられていたが、渋る女王に休暇先からロンドンに戻り、宮殿に半旗を掲げるように促した。女王は「王室の存続は国民の支持にかかっているというイギリス立憲君主制の明快な原理」に改めて気づき「国民に寄り添う王室」をアピールするようになった。
 王室は、ダイアナ危機を克服し、国民の7割以上から支持を得るようになった。

 ウイリアム王子とキャサリン妃のロイヤル・カップルは、イギリスの「将来への希望」を象徴すると受け止められている、という。
 昨年のヘンリー王子とメーガン妃の成婚での国民の熱狂も「イギリスの将来への希望」の一環として捉えられるのだろう。

 イギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票が行われた。独立は反対55%でかろうじて否決されたが「一連の騒動はその連合王国という国家の枠組みの矛盾を浮き彫りにした」

 連合王国は、イングランドとスコットランド、ウエールズ、北アイルランドという4つの「Nation」で構成される。「Nation」は「言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体という意味だ」と著者はいう。
 主権を持った「独立国家」を示す「State」という言葉があり、日本のように1つのネーションがそのまま独立国家になっている場合は「ネーション・ステート(国民国家)」といえるが、イギリスは厳密な意味で国民国家とは言い難い、という見方だ。

 いささか分かりにくい。
 ネット検索すると、「countryとnationとstateの違い」という項目が見つかった。「イギリスやカナダなんかは、国の中に複数のnationがあり、日本の場合は、country = nation ( = state)です」と書かれている。

 もう一つわかりにくいのは、日本人がこの国を「イギリス」と呼んでいることだ。連合王国の通称は「Unaited Kingdom(UK)」または「Great Britain」「Britain」。イギリスという名称は、連合王国の1地域にすぎない「イングランドの外来語」が定着したもの、らしい。

イギリスの歴史は、この本と並行して読んだ「イギリス史10講」(近藤和彦著、岩波新書、2013年刊) に詳しい。東大教授の著者の本は、いささか難解。4つの地域が長い歴史のなかで交錯していく様は分かりにくいが、それが連合王国の複雑さを示しているのかもしれない。

 「イギリス史10講」にも、こんな記述がある。
 「イギリスには、『単一民族国家』や「一にして不可分の共和国」といったものとは異なる政治社会が成り立ち、今日、さらに多様性の促進が唱えられている」

 連合王国イギリスは、同じ島国というのに、どっぷり単一民族?の国土につかってきた日本人には「ふしぎな」国であり続けるのかもしれない、とも思った。

2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


完本 春の城
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石牟礼 道子
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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2016年12月28日

映画鑑賞記「ニコラス・ウイントンと669人の子どもたち」(マティ・ミナーチェ監 督)、 読書日記「キンダートランスポートの少女」(ヴェラ・ギッシング著、木畑和子 訳、未来社)


キンダートランスポートの少女
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 クリスマスの日。ナチスによるユダヤ人迫害に興味を持ち続けている友人Mに誘われて、この映画を見た。
 主役は、イギリス人のニコラス・ウイントン

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ユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー杉原千畝やこのブログにもアップした小辻節三以外にも、こんな人物がいたことを初めて知った。

 第2次世界大戦直前。ロンドンで株式仲買人をしていた29歳の時、かかってきた1本の電話がニコラス・ウイントンの運命を変えた。

 かけてきたのは、一緒にスイスにスキー旅行に出かける計画をしていたチェコの友人。ナチスによる迫害の危険が迫っており、プラハの街に住むユダヤ人を救援するために旅行をキャンセルしたい、という。

 よく事情が分からないまま、ニコラスはプラハに飛ぶ。そして、ユダヤの子供たちをチェコから連れ出す「キンダートランスポート(子供の輸送)」プロジェクトを始める。しかし、アメリカをはじめ各国はこの計画に冷たく、子供たちの受け入れを拒否した。
 ユダヤ難民の受け入れで、失業者がさらに増え、反ユダヤ主義が高まるのを懸念したのだ。
 ようやく受け入れを認めたのがイギリスだった。ただ、50ポンドの保証金を政府に払い、里親を確保すること、その費用はすべてニコラスらが立ち上げた民間団体が負担する、という条件を付けた。ニコラスは、ロンドンの自宅を事務所にし、プラハとロンドンの友人らに助けられて、旅行許可証や入国許可証を取得するための書類作成や里親を確保する仕事に没頭した。時には、許可証を偽造することまでした。

 そして、最初に200人の子どもを乗せた列車がプラハ・ウイルソン駅(現在のプラハ本駅)を出発、計8本の列車が仕立てられて計669人の子どもたちを逃し、彼らは生き延びた。

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 チェコでの帰属意識や財産、仕事を捨てきれなかったこともあったのか。残った親たちは、その後の第2次世界大戦の勃発によるナチ・ドイツ軍の侵攻で、強制収容所に送られ、ほとんどの人が亡くなった。

cap-03.jpgcap-032.JPG この映画の原案本となった「トランスポートの少女」の著者、ヴェラ・ギッシングも、この列車に乗った1人、当時10歳だった。
ギッシングは、この著書のなかで駅を出発した時のことをこう回想している。




 駅のホームでは不安な面持ちの親たちがあふれかえり、列車は興奮状態の子供たちでいっぱいでした。そこで繰り広げられていたのは、涙と、最後の注意と、最後のはげましと、最後の愛の言葉と、最後の抱擁でした。出発の笛がなると、私は思わず「自由なチェコスロヴァキアでまた会おうね!」と叫びました。その言葉に、私の両親もまわりの人も、近くにいるゲシュタポを気にして不安そうな顔になりました。汽車がゆっくりと動き始めると、多くの人びとの中、私の目には、身を切られるような苦しさを隠そうと必死に笑顔を浮かべる最愛の両親の姿しか入りませんでした。


   確かに映画でも、列車はドイツの軍服に囲まれていた。
 ナチが支配しているなかで、子どもたちだけでも、なぜ出国できたのか?

 このことについて、「トランスポートの少女」の訳者である木畑和子・成城大学名誉教授は、映画のパンフレットで「当時のナチ政権がまずとったのは、ユダヤ人の強制的出国政策であった」と解説している。この政策の目的の1つは「ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった」

 子どもたちを乗せた列車は、ナチが支配する恐怖のニュールンベルク、ケルンを抜け、オランダのから船でイギリスに渡り、ロンドンに着いた。

 途中、オランダの停車駅では、民族衣装の女性たちがオランダ名産のココアと白いパンをふるまってくれた。
 この白いパンを食べたであろうヴェラ・ギッシングはしかし、著書のなかでは丸くて堅いチェコのパンを何度もなつかしがっている。

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 ニコラスのリストには、出国させるべき6000人の子どもの名前が載っていた。
 しかし、250人の子どもたちを乗せた9本目の列車が出発しようとした1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。計画は中止され、子供たちは強制収容所で死んだ。

 これを悔やんだニコラスは、彼の偉業についてけっして語ろうとせず、里親や助けた子どもたちとも会わなかった。

 それから50年後、1988年のある日。ニコラスの2度目の妻グレタが屋根裏部屋でほこりをかぶった1冊のスクラップブックを見つけた。そこには、ニコラスが救った子どもたちの住所などの詳細な記録が残っていた。

 ニコラスによって生かされた80人の"子どもたち"が見つかり、テレビ番組で対面した。

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 世界中で暮らす"生かされた"子どもたちと、その子や孫は約2200人に及ぶという。

 彼らや、ニコラスの行動に感動した多くの人々は、世界各地で様々なボランティア活動を始めた。それが"ニコラスの遺産"となって、今でも大きく広がり続けている。

 ニコラス自身も、自らの活動を多くの子どもたちに語り始めた。
 エリザベス女王からナイトの爵位を与えられ、チェコの大統領からも栄誉勲章を受けた。2015年、106歳で世を去った。

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 子どもたちが到着したロンドンの リヴァプール・ストリート駅前には、当時の様子を残した銅製の群像が立っている、という。

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2016年2月24日

「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」(山田純大著、NHK出版)

命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民
山田 純大
NHK出版
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 亡命を求めるユダヤ人の求めに応じて、 リトアニアの地で日本行きのビザを発行し、6000人ノユダヤの命を救った日本人外交官 杉原千畝。その名前は、あまりに有名になってしまった。

 しかし、短期ビザで日本に来たはずのユダヤ人は、どうして安住の地に旅立つことができたのか・・・。

 先月、ある会合でこんなことが話題になった時、この会の主唱者である元銀行家のK氏が紹介してくれたのが、この本。

 あまり期待もせずに、図書館で借りた。意外に面白かった。

 小辻節三。始めて聞いた名前だ。この本の表紙などで見ると、口ひげを生やした細おもての朴訥そうな人物。実はこの人が、日本に亡命して来たユダヤ人の「命のビザを繋いだ男」だった。

 京都の神官の家に生まれた小辻はある時聖書に出会い、勘当同然の身で、東京・ 明治学院大学神学部に進学、牧師になる。しかし、新約聖書の教義に疑問を持ち、旧約聖書を学ぶために、妻子を連れて渡米する。

 旧約聖書の研究から、当然のようにユダヤ教に興味を持つ。 古典ヘブライ語の研究で博士号を得て帰国するが、不遇の日々が続く。

 1938(昭和13)年、小辻のもとに南満州鉄道(略称・満鉄)総裁の 松岡洋右(後の外務大臣)から「総裁アドバイザーとして働いてほしい」という招へい状が舞い込み、一家を挙げて満州に渡る。

 当時、日本陸軍は、河豚計画」という奇怪な作戦を進めていた。
 ヨーロッパでナチス・ドイツに迫害されつつあったユダヤ難民を満州に大量移住させ、ユダヤ系米国人の政治力で、満州で米国の協力を得ようとするものだった。

 間接的にこの計画にかかわった小辻は、満州でのユダヤ人との会議で、古典ヘブライ語を駆使した演説をして喝采を博した。

 松岡が、外務大臣になった直後に、小辻も満鉄を辞し、帰国した。

 同じころ、杉原千畝に「命のビザ」をもらった6000人の亡命ユダヤ人は、シベリア鉄道経由で渡日、敦賀経由で神戸に滞在していた。

 ただ、杉原ビザで許可された日本滞在日数はわずか10日。それを過ぎると、ユダヤ難民は強制送還され"死"が待っている。

 ユダヤ難民の代表が、あの感激的なスピーチをした小辻を思い出し、手紙を出した。

 小辻は外務大臣の松岡を訪ねた。しかし、軍部からの圧力で外務省は、すでに強制送還の方針を決めていた。

 しかし、松岡は小辻を外に連れ出し、皇居のお堀に沿って歩きながら、そっと話した。

 「ユダヤ難民のビザを延長する権限は、神戸の自治体にある。もし、君が自治体を動かせたら、外務省は見て見ぬふりをしよう」
 松岡には、ユダヤ人を助けておけば、アメリカとの戦争を回避できるかもしれない、という読みがあった。

 滞在許可を発行する窓口は、警察署だった。小辻は、親戚から資金を借り、警察幹部の接待を繰り返した。ユダヤ人の長期滞在が可能になった。

 日本に滞在するナチス幹部の圧力が続くなかで、小辻は、ユダヤ人たちをやっと目的の国に送り出すことができた。

 1959(昭和34年)、小辻は妻の強い勧めでエルサレムに渡り、ユダヤ教に改宗した。

 1973(昭和48年)、アブラハム小辻は永眠した。享年74歳。小辻の遺体は、本人の希望でエルサレムに空輸され葬られた。

 当時、イスラエルは第4次中東戦争という混乱のまっさい中。尽力したのは、日本から脱出した難民の1人であるイスラエルの宗教大臣、ゾラフ・バルフティックだった。

 この本の著者、山田純大の父は、俳優で歌手の杉良太郎。杉の現在の妻で演歌歌手の伍代 夏子は義母に当たる。

追記(2016/2/27):

 杉原千畝や小辻節三だけでなく、ユダヤ難民の「命のビザ」を繋いだ多くの日本人がいたらしい。

 外務省の訓令を無視して、シベリア鉄道でやって来たユダヤ難民を日本に向けた船に乗せた駐ウラジオストック日本総領事館の 根井三郎総領事代理のことは、上記の本にも記載されている。

 真偽ははっきりしないが、満州の避難してきたユダヤ人を救済した、ハルピン特務機関長の 樋口 季一郎・元陸軍中将などの軍人のほか、ウラジストックからの船の手配に尽力した日本交通公社、日本郵船の社員たち、敦賀では、営業を一日休んで悪臭を放つユダヤ難民に開放した銭湯「朝日湯」の主人などの話しなども文献などに記録されているようだ。

 妹尾河童の自伝小説 「少年H」には、神戸に着いたユダヤ人の汚れた衣服を繕う少年の両親たちの話しが載っていたのも思い出した。

2015年3月16日

読書日記「日本文学全集 01 古事記」(池澤夏樹訳、河出書房新社刊)


古事記 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集01)

河出書房新社 (2014-11-14)
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 池澤夏樹が 「古事記」の現代語訳を昨年末に出した。西宮市立図書館に予約したが、結局借りられたのは、年明けの2月末だった。

  古事記にまず登場するのは、おなじみ伊邪那岐(イザナキ)伊邪那美(イザナミ)兄妹神の「国産み」神話である。

 二人が天と地の間に架かった天の浮橋に立って、天の沼矛を下ろして「こおろこおろ」と賑やかに掻き回して引き上げると、矛の先から滴った塩水が自(おの)ずから凝り固まって島になった。
 そこでこの島の名を淑能碁呂島(オノゴロシマ) と呼ぶことにした。


 著者は、前文で「古事記には、固有名詞にいちいち意味があり、・・・イザナキとイザナミという名には『互いに成功を誘(いざな)う』という意味がある」と解説。「天の沼矛は男性器の象徴という説があるが、納得できる」としている。
 塩水が凝(かたま)って陸地を生んだのは「海のほとりの製塩の現場に由来するのではないか」という見かたも分かりやすい。

 オノコロシマがどこにあるかは諸説があるようだが、兵庫県民としては、長く淡路島の近くにある沼島がそれという伝説に頼ってきた。
 しかし著者は「淑能碁呂島(オノゴロシマ)は、自ら凝ってできた島という意味で、実在の特定の島ではない」と、あっさり片づけている。

 天照大御神(アマテラス)が、弟神・建速須佐之男命(スサノヲのミコト)の乱暴に困って天石屋戸(岩戸)に隠れたという神話を改めて読んで、1昨年9月に宮崎・高千穂「記紀編さん130年記念ツアー」に参加したことを思い出した。

 そこ(岩戸のすきまから差し込まれた鏡)に映った顔を見ていよいよ不思議に思ったアマテラスが外を覗いて少しだけ戸から出てきたところで、蔭に隠れていた天手力男(アメノタヂカラヲのカミ)が手を取って引き出した。
 布刀田命(フトダマのミコト)はすぐアマテラスの後ろに尻くめ縄を張り、「もうここから中へは戻らないで下さい」と言った。
 アマテラスが出てきたので高天の原 葦原中国もすっかり明るくなった。


 高千穂地方には右から7,5,3本の藁茎を下げる「七五三縄」と呼ばれるしめ縄が神社だけでなく道沿いの民家にも張られていた。神を迎えるしめ縄は、この神話の尻くめ縄に起源があったのだ。

 池澤は、日本列島には、南島づたいに来た東南アジア系の人々、朝鮮半島から来た北東アジアの人々、そしてサハリン経由の人々という3つのルートから渡ってきており、それぞれが自分たちの神話を持ってやってきた、と見る。

 そして、皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされるアマテラスについて、こんな解説をしている。

 「天の権威によって統治者を立てるという思想はたぶん北東アジアから来た。本来はタカミムスヒが最も高位にいる神であって、それがある時点でアマテラスに置き換えられたという説がある。それかあらぬかアマテラスは最高神にしては機能が弱い。高天の原でスサノヲを迎える時は 「髪をはどいて男のような みづら型に巻き直し」戦闘モードに入ったが、 うけいの後はスサノヲの乱暴におろおろするばかり。最後には拗ねて岩屋に蔑もってしまい、他の神々の計略でようやく外に出る。自分の権能がわかっていないという感じで、その先のいくつもの判断にしても一々タカギ 思金神(オモイカネ)などの知恵を借りている。早い話が、『古事記』においてアマラス登場の場面はスサノヲに比べてずっと少ない。(古事記の編者である)太安万侶はいわば彼女を最上階に導いた上で梯子を外してしまった。」

 出雲の国に住む国つ神であるオオクニヌシが天つ神であるアマテラスの遣わした神々に葦原中国(アシハラノナカツクニ)を譲る 国譲り神話についても、古事記は多くの記述をしている。

 オホクニヌシは、「私の二人の子供が言ったのと同じことを私も申します。この葦原中国はすっかりそちらにお渡ししますから好きなようになさってください。ただ一つ、私が住む場所を天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)の欠けるところのないお住まいと同じように造りなおし、深い岩の上に太い柱を立てて、高天の原まで届くほどの高い 千木を伸ばしていただければ、私は百に足らぬ八十の道を辿った果てにあるこの出雲で隠棲して暮らします。私の子である 百八十神(ももややそがみ)、なかでも コトシロヌシはみなさんの先になり後になりして、お仕えいたします。逆らう者はいないでしょう」と言った。


 この神話については、このブログでも 「出雲紀行・下」 「葬られた王朝」(梅原猛著)でもふれたが、池澤はこう解説する。

 「そもそも、アマテラスを始めとする天上界の神々はなぜオホクニヌシが統一した地上界を自分たちに譲らせるという迂遠(うえん)な方法を経て統治権を確立したのか? 日本神話の神々はエホバのように全知全能ではない。地域ごとのまつろわぬ豪族どもを平定して国家を造るのにずいぶん苦労している。平定と中央集権の実現までの(たぶん現実の歴史に沿った)過程をどこかに反映している。出雲の勢力は 倭(やまと)の政権にとって最大の競争相手であって、その統合ないし懐柔は七世紀末になってもまだ伝承された記憶に生々しかったのだろう。だから『古事記』は『日本書紀』のようにあっさり出雲神話を無視できなかった。『日本書紀』が想定した読者はこの列島内だけでなく唐は長安の外務官僚たちも含んでいたから王権の正統性を強調せざるを得なかっただろうが、『古事記』にはそんな遠い慮(おもんばか)りは要らなかった。」

 「国譲り」神話には、こんな記述もある。

 タカムスヒがアマテラスの名のもとに 八百万の神々を天の安河の河原に集めて会議を開き、思金神(オモイカネ)の知恵を求めた。タカムスヒが言うようには、「この葦原中国は私の子が治める国と定めた国である。だがこの国には猛々しく乱暴な国つ神どもがたくさんいるらしい。どの神を遭わして説得して服従させればいいだろうか」と言った。
 オモヒカネは八百万の神々と合議して「 天菩比神(アメのホヒのカミ)を遣わすのがよろしいかと存じます」と申し上げた。
 そこで天菩比神(アメのホヒのカミ)を送ったところ、オホクニヌシに心服してしまって、三年たっても戻って報告をしなかった。


 古事記のなかには、スサノヲの ヤマタノオロチ退治など、強権を駆使した地方豪族征伐を示唆した寓話や親、子供殺しの話しも出てくるが、登場する神々は総じて心優しく,戦いを挑む前にまず説得に乗り出す。
 池澤は、こう語る。  「『古事記』には負けた側への同情の色が濃い。おおよそこの国の君主は古代以来ずっと政敵への報復に消極的で、反逆者当人は殺しても一族を根絶やしにすることはしなかった。そのうちに具体的な権力への執着を捨てて、摂関政治の後は神事と和歌などの文化の伝承だけを任務として悠然と暮らすようになる。これはまこと賢い判断であって、こんなのんきな王権は他に例を見ない。その萌芽を『古事記』 に読み取ることができる。」

 古事記には、イザナキ、イザナミの 「神産み」に続いて、400近い神々が次々と誕生する。なかには、稲田で鳥を追う 山田の曾富騰(そほど)、つまり山田の案山子(かかし)や窯やトイレの神々のほか、 大阪のおかあちゃんの始祖とも言われる阿加流比売(アカル・ヒメ)もちゃんと登場する。
     ホデリとホヲリ 山幸彦と海幸彦の話しは「そのままインドネシアの民話にある」という。
 大和(倭)の政権に反抗した 隼人の伝統にふれた箇所や朝鮮の 新羅を侵略した寓話まで記述されている。

 古事記は、なかなか奥深く、興味はつきない。池澤は「豊饒と混乱、目前に聳える未だ整理のつかない宝の山」と結んでいる。

 

2014年9月30日

読書日記「海うそ」(梨木果歩著、岩波書店)



海うそ
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梨木 香歩
岩波書店
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 今年の暑さには、年のせいかいささか参った。そこへ、風邪のヴィールスが悪さしたとかで、軽いふらつきがでるおかしな症状まで見舞われた。

 本は、けっこう読んでいるのだが、どうもブログに書く気が起こらない。

 この本も、図書館で2回目に借りたまま放置していたのだが、 著者の新作が出るというAMAZONのPRメールを見たとたん、なぜか急にこの本のページを繰り直す気になった。

 昭和の初め、K大学で人文地理学を研究する秋野は、南九州にある遅島を調査のために訪ねた。

 かなり大きな島で、以前には修験道の「紫雲山法興寺」という大きな寺院があり、一時は西高野山と呼ばれるほどの隆盛を誇った。しかし今では、木々と藪で覆われていた跡地とかっての地名だけが残っている。

 秋野は2年前に許嫁が理由も分からず自殺し、1年前に両親を相次いで亡くし、今年、指導教授を亡くしていた。そんな寂寞と孤独感のなかで、教授の残した報告書にあったこの島に心を惹かれたのだ。

 護持谷、権現川、胎蔵山、薬師寺・・・その地名のついた風景のなかに立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。


 照葉樹林帯の湿気と高温に囲まれたこの島には、様々な昔話伝説、風俗習慣が残っていた。

 宿を借りた老婆は話す。

 「昔は、こういう雨の日には、よく海から雨坊主がやってきて、縁先にずらりと並んでおんおん泣いていたというたもんやけど」・・・
 「しけのとき遭難した船子たちじゃね。こんな雨になると陸(おか)に上がりやすいがね」


 入江には、もともとアワビやウニをとるための小舟が、高齢者の島になって使われずに、風に曝されている。

 「こまい船やが、船霊(ふなだま)はちゃんとおるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
 「この島の、どこの船にも船霊がおるよ。船大工は船霊をつけて、仕事を終えるからねえ」
 「船のどこに」・・・
 「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」・・・「女の子の髪やったり、歯やったり、いろいろやねえ」


 船で島を回ると、島の突端の小藪のなかに無理に壊された廃墟が見えた。

 「あそこは、モノミミさんがおいやったところじゃ」・・・  「病気を治したり、探し物を当ててもろたり、死んだ人からの伝言を伝えたり、そんなことをする人のこと」


 南西諸島の ユタ ノロに当たるものか、と秋野は思う。

 島の大寺院が跡かたもなくなったのは、明治初年前後の廃仏毀釈で壊されたためだった。

 「明治政府は神仏分離を宣言しただけで、廃仏毀釈までは指示していません。・・・が、長年仏教に下に見られることに屈辱を感じていた神道の関係者たちが、ここぞとばかりに暴走したのです」


 「政府は、ともかく浸透を国体として確固たるものにしなければならなかった。キリスト教とともに迫ってくるような諸外国に対しても、すっきりと論理的に説明できる力強い独自の宗教が欲しかった。そういう意味で、本当は、仏教より排除したかったものがあった」・・・
 「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まずその標的になりました」

 法興寺の遺跡を訪ね歩いて、秋野は胸を引き千切られるような寂寥感に陥る。

 「空は底知れぬほど青く、山々は緑濃く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶるるほどにつらい」


 50年後、その遅島で一大レジャー開発計画が持ち上がる。次男がそのプロジェクトを担当していることを知り、秋野は島を訪ねる。

 そして開発の結果見つかった膨大な木簡のなかから、この島は平家の人々が都を落ちてきたところだった証拠を見つける。

 海岸に良信という僧がたった一人で奥深い山から石を切り出し、海岸に築いた長大な石壁は、追っ手から守る防塁だったのかもしれない。

 樹冠の緑から海へと視線を移すと、見覚えのあるものが、目に入った。遅島の人々は古来から「海うそ」と呼んでいた蜃気楼だった。

 揺らめい見える風景のなかで、白い壁が幾重にも積み重なり、長く連なっていた。それは、良信の築いた防塁のようにも見えた。

 「海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。」

  「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が増えていくことなのだ。・・・私の遅島は時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。・・・喪失が、実在の輪郭を帯びて輝き始めていた。」

2014年2月18日

読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)


バチカン近現代史 (中公新書)
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 月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。

 表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。

 名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。

 象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。

 著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。

 本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。


 最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。

 この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。

 しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。

 バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。

 ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニ ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。

 ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。

 第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。

 一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。

 ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。

 
 (ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。


 この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。  しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。

 いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。


 歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。

  この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。

 教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。

 ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」

  ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」

 ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」

 1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。

 1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。

 1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。

 新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。

 ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。

 1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。

 歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。

 中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。

 ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。

クラコフの宿舎2階に飾られているヨハネ・パウロ2世の写真P1080354.JPG




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