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2015年7月 8日

読書日記「牡蠣とトランク」(畠山重篤著、ワック株式会社刊)


牡蠣とトランク
牡蠣とトランク
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畠山重篤
ワック
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著者は、東北・気仙沼の著名な牡蠣養殖漁業家で NPO法人「森は海の恋人」理事長。 このブログでも何度か紹介させてもらっている。

「牡蠣大好き人間」としては、読まずにはいられない。新聞広告を見て申し込んだ翌日にAMAZONから届き、その日の晩に一挙に読んだ。

本は、気仙沼湾にそそぐ大川上流の室根山で昨年行われた「森は海の恋人植樹祭」での 2人の男同士の会話で始まる。
 1人は著者、もう1人はフランスの高級バッグメーカー、 ルイ・ヴィトン社の5代目当主、パトリック・ルイ・ヴイトン氏。

「この木が大きくなると、いいトランクになりますよ」
 「私はいい牡蠣を想像しましたよ」
 「やっぱり」
 二人は顔を見合わせ大きな声で笑った。

トランク(旅行用の大型鞄)は、ルイ・ヴィトン社の創業商品。もともと婦人服用の白木の箱を作る職人であった創業者が独立して作り始めたのが木製の軽いトランクだった。「トランクも牡蠣も、原点は森にある」というわけだ。

50年以上も前、生牡蠣文化の発祥の地であるフランスで、牡蠣が全滅しかけたことがあった。稚貝のウイルス性の病気が発生したのだ。

それを救ったのが、宮城県の養殖業者だった。ミヤギ種のマガキの稚貝を空輸、ローヌ川が注ぐラングドック大河ロワールが注ぐブルターニュなどで養殖された。現在では、フランス産の牡蠣のほとんどはマガキだという。

 

1984年、40歳の著者は、仙台市の「かき研究所」に勉強に来ていたフランスの女性研究者の案内で、ブルターニュの牡蠣産地を訪ねた。

 
干潟に点在するタイドプール (潮だまり) に目をやると、おびただしい数の生きものがうごめいていた。ヤドカリ、カニ、タツノオトシゴ、イソギンチャク、ハゼやカレイの小魚など、子供の頃、我が家の前の干潟で遊び相手であった面々である。思わず涙がこみあげてくるような懐しさを感じた。自分の子供たちにも経験させようと浜に連れ出したとき、三陸の海辺からこうした生きものたちは姿を消していたのだ。
 「ここは、川が健全なのだ」と反射的に閃いた。
 

川沿いのレストランでは、シラスウナギ(ウナギの稚魚)や ジビエ(食用の野生の鳥獣)料理が名物だった。川の上流には、深い森が続いている、という。

小さいとき父に連れられ、キジ、ヤマドリ、ウサギなどの猟に行った。野鳥やウサギなどがいるのは決まって実のなる落葉広葉樹の森であった。その後、国策で森が常緑針葉樹の杉山に変わると、なんにもいなくなつたからである。
 ・・・フランス人はジビュ料理を食べたいがために落葉広葉樹の森を保護してい るのではないか。そこは腐葉土層も深い。大雨が降ってもスポンジ状の腐葉土に浸み込み地下水を滴養する。結果として、川は清流となり川魚も増える。河口域の海では牡蠣、オマールエビ、ヒラメ等の海産物も豊富に捕れるのだ。
 沿岸の海で暮らす漁民は、海のことだけ考えていては駄目なのではないか。
 

その頃、気仙沼の海に「問題が生じていた」。海が汚れて赤潮が発生、牡蠣の生長が悪くなってきていたのだ。

 

大川沿いに歩いてみると、農薬を使う水田には生きものの姿はなく、輸入材に押されて売れなくなった杉山は放置され、乾燥した土が雨に流されて川や海が濁っている。

 

「大川源流の室根の山に落葉広葉樹の森をつくろう」。漁民たちが語らい、室根村の賛同を得た。1989年9月、室根の山頂に大漁旗が翻った。植林運動「森は海の恋人」運動はこうして始まった。子供たちを対象にした体験学習も続けた。室根の村は、農業を環境保全型に切り替えた。

 

「海に青さが戻ってきた。牡蠣の生長は順調になり、秋にはサケの大群が大川に帰ってくるようになり、メバルやウナギも姿を見せるようになった」

 

そんな矢先、2011年3月11日、巨大津波が襲ってきた。

 高台にあった著者の自宅はかろうじて残ったが、牡蠣の養殖施設や工場、船のすべてが津波にのまれた。老人ホームに入所していた母親も助からなかった。

 

海辺から生きものの姿が消えたことも心配だった。「海が死んだのではないか」と疑った。

「森里連環学」を提唱している、京都大学の 森克名誉教授のチームが調査にやって来た。

 

「畠山さん、大丈夫です。牡蠣の餌となる植物プランクトンのキートセロスが、牡蠣が喰いきれないほどいます」
 「今回の津波を冷静に判断すると、被害が大きいのは干潟を埋めた埋立地です。川や背景の森林はほとんど被害がありません。海が撹拝されて養分が海底から浮上してきたところに、森の養分は川を通して安定的に供給されています。海の生き物は戻ってきます。・・・」

 

海の瓦礫が片づき養殖いかだを浮かべれば、家業が続けられると確信した。

 

フランスから支援の申し出が次々にあった。50年前、フランスの牡蠣が絶滅しかかった時、宮城県産の種苗が救ったことへの恩返しだという。

 

ルイ・ヴィトン社から、森と海の恋人運動に支援の申し出のメールが突然、届いた。

 

建物や物品の購入だけでなく、いかだを浮かべる漁場づくりに働く人たちの給料も、ルイ・ヴィトン社は支援の対象にしてくれた。

 

2012年の正月過ぎ、養殖場の跡取りである長男の哲が「牡蠣の筏が沈みそうになっている」と言った。通常は2年かけて生長する牡蠣がわずか半年で出荷できるまでに育ったのだ。「喰いきれないほど餌のプランクトンがいる」おかげだった。



2014年2月27日

読書日記「オレがマリオ」(俵万智著、文藝春秋刊)


オレがマリオ
オレがマリオ
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俵 万智
文藝春秋
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 「サラダ記念日」で衝撃的なデビューをした著者の第5歌集。世間の評判におされて、つい図書館で借りてしまった。

 2011年3月11日14時46分、著者は出張で東京の新聞社の会議室にいた。夕刊締め切り直後の新聞社のけん騒から、この歌集は始まる。

 「震度7!」「号外出ます!」新聞社あらがいがたく活気づくなり


 40歳で我が子を産んだシングルマザーの著者は、4日後に両親と息子のいる仙台に帰り着く。そして余震と原発事故が落ち着くまでと7歳の息子を連れ西に向かう。

 
 ゆきずりの人に貰いしゆでたまご子よ忘れるなそのゆでたまご


 
 子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え


 
 空腹を訴える子と手をつなぐ百円あれどおにぎりあらず


 友人を頼って落ち着いたのは、沖縄・石垣島。豊かな自然のなかで、息子はすこやかに育っていく。

 
 「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ


 
 子は眠る カンムリワシを見たことを今日一日の勲章として


 
 ぷふぷふと頬ふくらます子に聞けば釣られて焦るフグのものまね


 
 縁側に並んでスイカを食べているぷぷぷぷぷっと我が子島の子


 
 「ケンカしちゃダメ」と言いつつおさな子は蝶の交尾をほぐしておりぬ


 「ただいま」を言え言えと言われれば「ただいません」と返すおさなご


 息子の成長をつぶやいている著者自身の ツイッターを記録したWEBも見つけた。

 つかの間のつもりが、この島の豊かな自然に引かれた。2人はいまだにこの島に住み続けている。

 
 ストローがざくざく落ちてくるようだ島を濡らしてゆく通り雨


 
 潮満ちて終了となるモズク採りすなわちこれを潮時という


 
 人の子を呼び捨てにして可愛がる島の緑に注ぐスコール


 
 オヒルギの花ぼとぼと落ちる午後 無言の川をカヤックで行く


 「子どもの歌は、刺身で出せる。・・・恋の歌は、じっくり寝かせ、ソースやスパイス、盛りつけや器にも心を砕かねば・・・」。発行社・ 文藝春秋のWEBページで、著者自身が 動画で語っている。

 
 湯上りのビールのように抱きあえり女男(めを)なれば他にありようもなく


 
 石鹸の香りを選ぶひとときに思い浮かべている人のある


 
 こんな笑顔持っていたのか子は君に追いかけられて抱きあげられて


 いのちとは心が感じるものだからいつでも会えるあなたに会える


2013年12月 3日

読書日記「土と生きる 循環農場から」(小泉秀政著、岩波新書)

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 半年前ほどから、長野県小川村から有機野菜のダンボールの小さな箱が2週に一度届くようになった。おかげで独居老人の食生活が大きく変わりつつある。

 これまでは、冬は鍋物、夏は炒め物などでごまかしていたのだが、最近はカブの甘酢漬け、ニンジン、ジャガイモ、サラダ菜と軽く炒めたベーコンのサラダ、カボチャと鶏肉のクリームスープ、大根と厚揚げ、ゴボ天の炊き合わせ。冬瓜は大きく切りすぎて豚肉との炒め物はちょっと失敗。先週届いたビーツには、ウーン!どう向かい会うか・・・。

 届けてくれるのは、いとこの娘さん夫婦。なんと、ご主人は大手建設会社をあっさり辞めてしまい、3人の子供を含め家族で数年前に信州に移住してしまったのだ。
 いとこによると「かっこいいシティボーイだったが、すっかり農家の主人らしい顔になってきた」

 1948年生まれの著者は、成田国際空港建設反対運動に参加したのをきっかけに千葉県成田市三里塚に移住、地元農婦の養子になった。「循環農場」と称する里山の落ち葉などを使った微生物農法で有機野菜を消費者に産地直送する「ワンパック(セット詰め)」販売のさきがけとなって30年になる。

 ダイオキシン、ゴミは出したくないと、ビニールハウスやトンネル、ポロマルチを使わなくなって10年にはなる。

 苗床は、落ち葉に水をかけながら踏み込んでいき、その発酵熱を利用する。ある日、落ち葉の上にかぶせた古い毛布をめくってみると、ミミズたちがニョロリと顔を出し、落ち葉はミミズたちに分解されてボロボロ状態のいい堆肥になっていた。

 
「これは大発見! ミミズが山からやって来た」


 茅ぶき屋根の建物が解体される聞き、大型トラックに山盛り7台分ほどの茅を運んでもらったことがある。

 近所の農家の人には「堆肥になるには3年はかかるぞ」と言われたが、出荷の度に出るネギや里芋のひげ根、葉物の枯れっ葉などの野菜くずをコンテナ3杯ほど茅の上に乗せていたら、1年もかからずに茅の堆肥ができた。
 ほかにも、三軒分の茅屋根からでた茅が大きな堆肥の山となっており「ポカポカと湯気をだし、循環農場の未来を温めてくれている」

 猛暑の夏の時期、近所の畑ではスプリンクラーがフル回転し、軽トラックで水が運ばれる。しかし、著者は野菜の生命力を信じ、水を与えない農業を続けてきた。

 照り続ける太陽に、サニーレタスは外葉から枯れていき、モロヘイヤの苗も力なくうなだれていた。
 不安な日々が何日も続いた後、わずかに残ったサニーレタスの中心の葉に赤味がよみがえった。

「地中にある命の水をつかみとったという知らせだった」


モロヘイヤの苗も息を吹き返してきた。植えた時と大きさは変わらないが、強じんな姿をしている。

 
「野菜は強い、すごい、どこにそんな力を秘めているのだろうか。・・・ありがとう野菜たち」


 10数年も耕作していない畑を借りることにした。農薬の残留がない安全な土地で、特に化学物質過敏症のユーザーのための畑に適していると思ったのだ。
 できた葉物や里芋を、化学物質過敏症の人に送った。その人は、届いた箱をあけるなり、入っていた小松菜にかじりついたという。「これは無肥料畑で育ったのです」というメモは食べた後で見た、という便りが届いた。

「メモより何よりも、その小松菜が化学物質過敏症の方に飛びついていったのだ」


ある本から学び、トラクターの耕運を控えることにした。重量のあるトラクターを畑に入れる事によって、畑は踏み固められ、更に煩雑に土をかき混ぜることによって、土の中の世界を壊してしまうことになる。トラクターの使用を最低限に抑え、それに代わるものとして、軽量の管理機の活用、さらに除草の道具の開発が目標になった。次に、落ち葉、あるいは落ち葉堆肥で、土の表面を覆うことだ。地表を裸にしない事によって、土壌に生きる土壌生物、微生物、菌類達は活発に働くことが出来る。・・・米ぬか発酵肥料の量を少な目にし、落ち葉堆肥主体の栽培に持っていく。

そんな畑を実現させようとした矢先、福島の原子力発電所の大事故が起きた。

「ここから地続きの場所で起こっている痛ましい惨状、目に見えない放射能物質に対する恐れと不安。・・・野菜を会員の人々にいいものかどうか、迷う日々が続いた」


菜っ葉やキャベツなどの検査では、検出限界5ベクトル/kgで不検出だったが、東北から関東一帯、汚染されていることは事実で、安心、安全という言葉は使えなくなった。

妊娠されている人や育児中の人々など、会員をやめざるをえない人々が続出した。

「電話の向こうで涙を流される若いお母さんもいて、何もできなかったことを申し訳なく思った」


 原発事故以前に集めた落ち葉堆肥の山が、間もなく使い終わる。

 秋から春にかけての、野菜の出来が思わしくない。・・・踏み床温床用に集めた落ち葉を、ある程度腐熟させてから測定してみたら、330ベクトル/kgだった。国の指針では堆肥として使用できる範囲内の数値ではあるが、まだ使用しようという気にならない。

「被災地の方々が語る『一歩ずつ』という言葉が、とても身にしみる冬だった。失ったものは多いけれど、ここから一歩ずつ、気のついたことを一つずつ進めていくしかない。この夏、その続きの秋、冬を目ざして」


2013年9月 4日

読書日記「森の力 植物生態学者の理論と実践」(宮脇 昭著、講談社現代新書)

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 横浜国立大学名誉教授の  著者は、85歳の現在まで、ポット苗という40年前に発案した植樹法で国内外1700カ所に4000万本もの木を植え続けてきたという驚異の人。

 最近は、東北被災地の再生に取り組む 公益法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」副理事長や 「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」名誉会長として「120歳まで生きて、このプロジェクトの完成を見届けたい」と、人々に勇気を与えずにはおれないエネルギーあふれた活動をしている。

 著者はまず、ボランティアによって植樹された東北被災地の30年後の「ふるさとの森」へと案内してくれる。

 
ひときわ目立つ背の高い樹は、タブノキ。多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」という宮脇理論によって、シラカシ ウラジロガシ アカガシ スダジイも見事に育っている。

 森の中に入ってみる。

 タブノキなどの高木が太陽の光のエネルギーを吸収するため、森の中は薄暗い。
 そのなかでも、 モチノキヤブツバキ シロダモなどの亜高木が育っている。

ヒサカキ アオキヤツデなど、海岸近くでは シャリンバイ ハマヒサカイなどの低木も元気いっぱいだ。トベラの花からは甘い香りが漂ってくる。

 足元には ヤブコウジ テイカカズラ ベニシダイタチシダ ヤブラン ジャノヒゲなどの草本植物が確認できる。


 著者が、長く学んだドイツには「森の下にもう一つの森がある」ということわざがあるという。「一見すると邪魔ものに思える下草や低木などの"下の森"こそが、青々と茂る"上の森"を支えている」という意味だそうだ。

  自然植生の森には、人間の手が入る必要はない。森に生きる微生物や昆虫、動物の循環システムが確立しているからだ。

 しかしこれまで我々は、森林従業者の老齢化と安い輸入ない南洋材におされて、マツ、スギやヒノキの森の下草刈りなどが行われず、森が荒れてしまったと、様々な機会に聞かされてきた。

 著者によると、マツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、第二次大戦後の木材需要に対応するための人工林。その土地になじんだ自然植生でない 代償植生であり「極端な表現を許されるなら、ニセモノの森」である、という。

 「もともと無理をして土地本来の森を伐採してまで客員樹種として植えられてきたスギ、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、アカマツなどの針葉樹。その土地に合わないために、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間による管理を止めた途端に、 ネザサ、ススキ、ツル植物の クズ ヤマブドウ、などの林縁植物が林内に侵入繁茂します。そのため山は荒れているように見えるのです」

 マツ、スギなどの針葉樹は、成長が早いかわりに自然災害や山火事、松くい虫などの病虫害を受けやすい。最近、大きな問題になっている花粉症も「あまりに多くの針葉樹が大量に植えられたことが影響しているのではないか」と、著者は疑う。

7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。;クリックすると大きな写真になります。" P1080967.JPG;クリックすると大きな写真になります。
7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。 高田松原再生を願う横幕。マツの替わりにタブノキを植える動きも、全国各地で見られるという。
 昨年、東北へボランティアを兼ねた旅に出かけた際、陸前高田市の海岸に植えられていた約7万本の松林が見事に津波に打ち倒された荒漠とした風景を目にした。

 近くの橋には「国営メモリアム公園を高田松原へ」という大きな横幕が張られていた。松林を再生しよう、というのだ。

 著者は「確かに クロマツは海辺の環境に強い。・・・人がしっかり管理し続けられるところでは、必要に応じて今後もマツ、スギ、ヒノキをよいと思います」と言う一方「東日本大震災を経験したいまこそ『守るべきは、人為的な慣習・前例なのか、・・・景観なのか。それともいのちなのか』を考えてみる必要があるのではないでしょうか」と語っている。

 著者は、日本の土地本来の主役である木々が、人々の命を救った例をいくつかあげている。

 昭和51年10月に起きた山形県酒井市の大火で、 酒井家という旧家に屋敷林として植えられていたタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、同市では「タブノキ1本、消防車1台」を合言葉に植林運動が続けられている、という。

 対象12年9月の関東大震災の時には、「 旧岩崎別邸の敷地を囲むように植えられていたタブノキ、 シイ カシ類の常用広葉樹が『緑の壁』となって、(逃げ込んだ)人々を火災から守った」

 平成7年1月の阪神大震災の際、著者は熱帯雨林再生調査のためにボルネオにいたが、苦労して神戸に入った。

 長田区にある小さな公園では常緑広葉樹の アラカシの並木が、その裏のアパートへの類焼を食い止めたことを目にした。
 鎮守の森
の調査でもシイノキ、カシノキ、モチノキ、シロダモなどは「葉の一部が焼け落ちても、しっかり生きていた」
  神戸市の依頼で植生調査をしたことがある六甲山の高級住宅地の上にある斜面でも「土地本来の常緑広葉樹のアラカシ、ウラジオガシ、シラカシ、 コジイ、スダジイ、モチノキ、ヤブツバキなどが元気に繁っていた」

img1_04.jpg 平成13年3月の東日本大震災の直後に、なんどか調査に行った。仙台のイオン・多賀城店の近くでは、平成5年に建築廃材を混ぜた幅2,3メートルのマウンド(土手)の上に地元の人と一緒に植えたタブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジオガシ、 ヤマモモなどの木々は「大津波で流されてきた大量の自動車などをしっかり受け止めでもなお倒れていなかった」

 土地本来のホンモノの樹種は、深根性、直根性、つまり根を深く、まっすぐ降ろして、その下にある石などをしっかりつかむため、家事や地震、洪水にもびくともしない。

 著者は、すべて瓦礫と化した被災地に言葉を失ったが「この瓦礫は使える」とも確信した。東北の本来種であるタブノキなどを植樹すれば、深く根を降ろし、埋めてあった瓦礫をしっかりつかんで、大津波も防いでくれる。それが、冒頭に著者が30年後の世界として案内してくれた"自然植生の森"なのだ。

 海岸などに瓦礫を混ぜたマウンド(土堤)をつくり、ボランティアの人々が拾い集めたドングリで育てたポット苗を植林する。「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」による小さな森が、こうして東北各地で少しずつ育ち始めている。



2013年4月11日

読書日記「カウントダウン・メルトダウンン 上・下」(船橋洋一著、文藝春秋刊)



カウントダウン・メルトダウン 上
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 著者とはちょっと面識がある。ご本人は覚えておられないだろうが、現役の経済記者だったころ、東京・某中央官庁の同じ記者クラブに所属していた。
 ずっと大阪にいたので「東京はすごい記者がいるなあ」と驚愕かつ恐れを持ったものだが、著者はそのなかでも抜きん出ていた。
 確か、京都で国際会議があった際、先斗町の飲み屋で一緒に軽くやった記憶もあり、元ボンクラ記者のなれのはてながら、その活動ぶりには注目していた。

最近は新しい著書を見かけないなあと思っていたら、すごい仕事をしておられた。

福島原発事故の後、シンクタンク 「財団法人 日本再建イニシアティブ」を設立し、この事故を民間の立場で検証する 「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」を立ち上げた。

 著者は「あとがき」で書いているように、民間事故調のレポートを出した後も、日本の危機管理のあり方に危惧感を持ち、自ら取材を始めた。

たまたま先月、東京の日本記者クラブで開かれた著者の講演を録画したYouTubeのなかでも本にした意図を話しておられるので、それらに沿って、この上・下計450ページにわたる大著をひもといてみた。

 著者はこの著者やいくつかのインタビューで「政府(官邸、官僚機構)のなかに、リスクに対応するガバナンス(統治能力)、リーダーシップが欠けていた」と、何度も繰り返している。

 
午後5時40分。NHKが、福島第一原発の2基の原子炉冷却装置が停止したと報道した。・・・
 菅(直人・首相)は、誰彼なしに、質問を浴びせた。
 「おまえら、この電源が止まったということがどれほどのことかわかっているのか」
 「大変なことだよ、これは。チェルノブイリと同じことだぞ」
 その言葉を、うわごとのようにくり返した。
 下村(健一・内閣官房審議官)は、メモの余白に書いた。
 「菅に冷却水必要」


   
池田(元久・経済産業副大臣・原子力災害現地対策本部長)は、深く感ずるものがあった。
 (政治指導者に必要なのは大局観だ。いま、日本が直面しているのは福島原発事故だけでなく地震・津波もある。すべて人々の生存の可能性が高い初動の72時間が勝負だ。そういうときは、総理はどんと構えて、司令塔の役割を果たさなければならない。総理たるもの、所作、言動、言葉遣い、それなりの風格がなければならない。それがこの人には感じられない)


 このブログでもふれたことがある俳人・長谷川櫂の 「震災歌集」に、こんな和歌があったのを思い出した。「かかるときかかる首相をいだきてかかる目に遭う日本の不幸」

 しかし著者は同時に日本記者クラブでの講演で「(管首相には)東京電力を福島から絶対に撤退させないという動物的生存能力があった」とも評価している。

 ガバナンスとリーダーシップのなさは、それまで我が国を代表する大企業と見られていた東京電力社内でもすぐに露呈した。

吉田(昌郎福島第一発電所所長)は、所長席脇の固定電話にかかってきた電話に出た。
 武黒(一郎東京電力フエロー、元副社長で官邸との連絡役)はいきなり、言った。
 「おまえ、海水注入は」
 「やってますよ」
 武黒は仰天した。「えっ。おいおい、やってんのか。止めろ」・・・
 吉田がいまさら止めるわけにはいかないと言い張ると、武黒はいきり立った。
 「おまえ、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ」・・・
 吉田は(指揮命令系統がもうグチャグチャだ。これではダメだ。最後は自分の判断でやる以外ない)と割り切ることにした。


当時の社長、清水正孝は"フクシマからの撤退"の言質をなんとか政府から得ようと、海江田万里・経済産業大臣に何度も電話で連絡をとろうとした。仮に、放射能による死者が出た場合に訴訟で訴えられるのをおそれたからだといわれる。

(清水は)「退避を考えなければならなくなるかもしれません」という内容を言葉少なに話した。
 ボソボソ話したかと思うと、黙ってしまう。
 「あー、そうですかあ」と相づちとも何とも言えない言葉を埋め草のように差し込む。
 「ぜひ、ご了解いただきたいと思いまして」
 そう清水が言ったのに対して、海江田は、「それはないでしょう」と突き放し、電話を切った。


 清水は、枝野幸男官房長官にも同じような電話攻勢をかけた。

   
枝野は、撤退には難色を示したが、清水はねばった。
 「いや、でも何とか。とても現場はこれ以上持ちません」
 枝野は、逆に聞いた。
 「そんなことをしたらコントロールができなくて、どんどん事態が悪化をしていってとめようがなくなるじゃないですか」
 清水は口ごもった。


本店の言い分だけでは、現場がどうなっているのか皆目見当がつかない。枝野は、福島の吉田所長に電話した。
「まだやれますね」
 「やります。がんばります」 電話を切った枝野は憤激した。
 「本店の方は何を撤退だなんて言ってんだ。現場と意思疎通できていないじゃないか」


東電の企業体質を如実に表す、管首相と東電会長・勝俣恒久のやりとりも記録されている。

「おまえ、死ぬ気でやれよ」
 勝俣(恒久東京電力代表取締役会長)が答えた。
 「わかっています。大丈夫です」
 「子会社にやらせます」
 「子会社に」
 その言葉に、寺田(学・内閣総理大臣補佐官)は驚愕した。


 日本記者クラブで著者が話した「日米同盟がどう対応したか」というテーマは、下巻の最初で展開される。ホワイトハウスはじめ米国側に強いネットワークを持つ著者の真骨頂だ。

   米国海軍のシュミレーションだと、風向き次第では、ブルーム(放射性雲)が東京にも届く可能性を示していた。

   
15日朝。横須賀にいた空母ジョージ・ワシントンの放射線センサーが鳴った。
 震災後、いち早く三陸沖に到達した空母ロナルド・レーガンはセンサーが鳴ったとたんに離脱し、その後二度と近づかなかった。
 空母ジョージ・ワシントンも、ただちに出港の態勢に入った。


   「米海軍関係者」としか著者が書いていない匿名談話が載っている。

 
「これらについても米国の同盟維持へのコミットメントの観点からは、ちょっとどうかという見方もあるだろう。自分もロナルド・レーガンに乗っていたが、沖の方遠くへと離れる時は個人的には申し訳ないと思った」
 「しかし、空母というのは米国の国家防衛の王冠のようなものなのだ。もし、空母が放射能汚染された場合、世界を回ることができなくなる。各国ともわれわれを追い返すだろう。アクセスが難しくなるもしそうになつた場合、国家安全保障上の大問題となる。ウイラード海軍大将(ロバート・ウイラード米太平洋軍司令官)はその点を早くから見抜いていた。この問題は今日だけの問題ではない。それは向こう30年、40年に及んで深刻な影響をもたらす、それを彼は怖れたのだ」


 一方で米軍は、JSK(統合支援部隊)が行うトモダチ作戦の司令部を設け日米共同で除染作戦をした。
 米国務省も、日本側と支援のための協議を続けた。しかし、日本側の態度はかたくなで、情報が伝わってこなかった。

 
情報なしに支援はできない。
 日本は支援される作法を知らないのではないか。
 「『Trust us(信じて)』と言われても、こちらは支援できない。・・・」  米国務省高官(これも匿名)は、そう言った後、つけ加えた。
 「二国間同盟でもっとも緊張するときというのは、われわれは相手の中に本当のところは入れてもらっていないのではないかと疑い、苦悩するときなのだ。日本側は(炉や燃料プールの状況を)知らないのか、それとも知っているのに何かの理由でわれわれと共有しょうとしないのか、われわれはそれもわからなかった」


 米政府は、危機の過程で「政府一丸(whole of government)で対応してほしい、と何度も求めた、という。
 「日本政府は統治能力を欠いているのではないか。と彼らは怖れたのである」

海上自衛隊将校の1人はこう述懐した。

「有事のときのアメリカ、それはない。そのことを思い知った。いざというとき、アメリカは逃げる。軍属の安全をタテに逃げるだろう。日本の安全、アメリカが最後の頼り、それもない、それらはすべてフィクションだった」
 「アメリカがホコ、日本がタテ、といった役割分担、それは現実には起こらない。日本がホコにならない限り、アメリカは日本を助けに来ない」


官邸内では「最悪のシナリオ」について、様々な"イメージ"が飛び交っていた。官邸スタッフの1人は、こう語ったという。

「原子炉の中の水が減ってきて、燃料棒がばたんと倒れたら、原子炉の底が抜けて核物質がドーンと落ちる。コンクリートを突き破って、いずれ地下水に至れば、そこで大水蒸気爆発。そうなればチエルノブィリだ。福島第一、第二あわせて10機の炉が吹っ飛ぶことになる。総理は『そうなれば、東アジア全体が大変なことになるんだぞ』と、おっしゃっていた。大規模核汚染をわれわれは本当に心配していた」


伊藤(哲朗)は、内閣危機管理監として「官邸機能の維持」に責任を持っている。
 (関西地方に逃げる以外ない。ホテルを借り切って、そこで一時的にしのぐ以外ないのではないか)
 そんな考えが頭をよぎつた。
 それから、天皇皇后両陛下に避難していただかなくてはならない。
 (こちらは九州まで足を延ばしていただくことになるかもしれない)


原子炉の内部を探索するのに、米国製のロボットが活躍した。しかし「ロボットは、日本のお家芸ではなかったのか」という疑問が著者の頭から消えなかった。取材の結果、こんなことが分かった。

米国では電力会社が、原発事故対処用のロボット開発のパトロンとなったのに対して、日本では、電力会社がロボットは安全神話を毀損するものと警戒し、抑えつける側に回った。結局、原子力災害用のロボット開発には補正予算を一回つけたきりで終わった。
 補正一度限りにするため、「維持費も大変」という理由をつけた。
 政府もまた、電力会社に追随し、一緒になつて安全神話を担いだのである。


今回の福島原発事故から得た教訓は、管(元首相が)が、2012年5月の「国会事故調」で述べたことに尽きるのではないか。
 そんな思いからだろうか。そこでの管の証言でこの本は終っている。

「かつてソ連首相を務められたゴルバチョフ氏がその回想録のなかで、チェルノブイリ事故は我が国体制全体の病根を照らし出したと、こう述べておられます。私は、今回の福島原発事故は同じことが言える。我が国の全体のある意味で病根を照らし出したと、そのように認識をいたしております」


「戦前、軍部が政治の実権を掌握していきました。そのプロセスに、東電と電事連を中心とするいわゆる原子力ムラと呼ばれるものが私には重なって見えてまいりました。つまり、東電と電事連を中心に、原子力行政の実権をこの40年間の問に次第に掌握をして、そして批判的な専門家や政治家、官僚は村のおきてによって村八分にされ、主流から外されてきたんだと思います。そして、それを見ていた多くの関係者は、自己保身と事なかれ主義に陥ってそれを眺めていた。これは私自身の反省を込めて申し上げておきます」


チェルノブイリ事故をきっかけにソ連が崩壊したことは、以前にこのブログでやはりふれたことがある。

はたして日本は、このまま崩壊していくのか。それとも放射能汚染のない新しいステージに向けて再出発する勇気と決断を持つことができるのか?

著者は、日本記者クラブでの質問に答えて、これからの危機管理で長期的に考えなければならないのは、人口問題、国債問題、そして福島事故の今後の3つだと答えた。

不毛の地となったフクシマを再生する責任は誰がどこまでとり、生活の場を奪われた人々の生活を以前のようにとりもどせるのか、原発再開の動きが知らない間に現実となろうとするなかで、今回の危機管理不在の状況を教訓とできるのか・・・。

そのことをぜひ続編で書いてほしいと、元ボンクラ記者は切に願う。

(付記)
 日本記者クラブでの講演録画で聞いたある質問にア然とさせられた。
 「著者が民間事故調でレポートを出してから、この本を書いたのはなぜなのか。ジャーナリストなら、最初からこの本を書くべきではなかったのか。やり方が"あざとく"みえる」
 質問者は、筆者がいた新聞社の人らしいが「男のしっと」発言としか思えない。ジャーナリストを自称する人種のなかには、あまり品のよろしくない方もおられるようで・・・。

2013年1月30日

読書日記「原発をつくらせない人びとーー祝島から未来へ」(山秋真著、岩波新書)


原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)
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  著者は、能登半島・珠洲の原発建設反対運動を長く取材してきた女性ジャーナリスト。

  祝島のことは、この ブログでもふれたことがあるが、著者は対岸の半島に計画された 上関原子力発電所建設に反対する、島のおばちゃんたちのすさまじい闘争の歴史を綴っている。

 「1982年から30年間、毎週月曜日のデモ(島の中を30分歩く)は1150回を数えた」「寝間着を着て寝ることもなく、夜中の"警報発令"に備え、島の女性は夏も冬もズボンをはくようになった」

 「スイシン(原発推進派)の議員が夜の便で帰ってきたのを、おばちゃんたちが船着場に集まって、あがらせんかったこともあった。・・・機動隊がきても、それをあがらせんかった」

 海の埋め立て工事が始まった2010年からは女性(多くは80歳を過ぎた!)女性を中心に数名づつ、祝島から 田ノ浦へ毎日交替で通い始めた。浜にブルーシートを敷いて寝転んでいるだけ。「どんな言葉より雄弁な意思表示だ」

 原発計画が浮上して間もないころ、祝島の漁港前の看板に、こんな歌詞が書かれた。

       
上関原発音頭
(四)
 オシャカ様さえ言い残す
 金より命が大事だ
 人間ほろびて町が在り
 魚が死んで海が在り
 それでも原発欲しいなら
 東京 京都 大阪と
 オエライさんの住む町に
 原発ドンドン建てりやよい
 ここは孫子に残す
 原発いらないヨヨイのヨ
 反対反対ヨヨイのヨイ


 中部電力は、田ノ浦の浜を封鎖しようと、警備員を使ってスクラムを組み、人間の壁を作った。
 スクラムのなかで身体をはる人に食べ物を届けたくても、聞いてもらえない。仕方なく、食べ物を上から投げ込んだ。それでも「食べる暇ないし、食べたい気もしなくて、気づいたら三日ぐらいで三キロ痩せていた」

 中電は、田ノ浦湾に海上から出入りさせないために入り江の入り口にオイルフェンスを張ろうとした。カヤックに乗った応援のひとたちがフェンスの端をつかみ、陸へと引っぱりつづけた。それを女性たちが岩のうえへと引き上げた。
 中電側は工事施工区域で妨害するなと大音量マイクでくりかえしたが、祝島の船からは「ここは公有水面じゃろうが」という声が飛んだ。「海を汚さないように、ずっとお願いしているんですよ」。祝島の漁師たちは、反対を始めた最初からの"規範"を忘れず繰り返した。

 2011年3月11日の不幸な事故の4日後、中電は工事の「一時中断」を発表した。

 「漁に出る回数が多くなりました。・・・工事中断後、 カンムリウミスズメという絶滅危惧種にあう機会も多くなりました」

 しかし、漁業補償金をめぐるゆさぶりは続き、島の過疎化は進み、賛成と反対派住民との"亀裂"も消えない・・・。

 ▽参考にした本
 ※「原発のコストーーエネルギー転換の視点」( 大島堅一著、岩波新書)
 著者は、立命館大国際関係学部教授。これまで政府などが、どのエネルギー資源よりやすいとPRしてきた原子力発電について、国民や被災者が負担する社会的コストを綿密に計算し発電コストの実績値は火力や水力より高いとはじき出した。「脱原発を実施しても電力供給は大丈夫」と明確に示している。第12回 大佛次郎論壇賞受賞が決まった。

※「震災後のことば 8・15からのまなざし」( 宮川 匡司=ただし編、日本経済新聞出版社刊)
 1945年8月15日を体験した識者へのインタビュー集。

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2012年12月 5日

読書日記「原発危機と『東大説法』 傍観者の論理・欺瞞の言語」(安富 歩著、明石書店刊)、「幻影からの脱出 原発危機と東大説法を超えて」(同)

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
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幻影からの脱出―原発危機と東大話法を越えて―
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 福島第一原発事故時に、原発の安全性をNHKテレビなどで声高に主張していた東大の原子力専攻教授陣が、被害の拡大とともに画面から姿を消したことを不思議かつ、けしからんことだと思っていた。

 これら2冊の本は、これら教授たちの話しぶりの「傍観者性と欺瞞さ」を暴きだしたものだという。

 しかも 著者は、京大出身ではあるが、同じ東大の 東洋文化研究所の教授。

 一般には知識人の代表と見られている東大というムラ社会にいながら、そのムラ社会の欺瞞さを暴こうとしている。

 「You Tube」の 公開対談に映っている著者は、黒のソフト帽に白のTシャツ、茶色の皮ズボンという"ヤーサン・スタイル"。自らの ブログに載せている 写真も、顔をおおうヒゲとサングラスに迷彩服?と、とても"教授"ズラには見えないことも、仕掛けた"けんか"をおもしろくしているように見える。

  「東大話法」という言葉は、すでに「Wikipedia」でも紹介されており、著書の最初にも載っている下記のような「東大話法規則一覧」が掲載されている。

  1. 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。 
  2. 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。 
  3. 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
  4. 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
  5. どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
  6. 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
  7. その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
  8. 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
  9. 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
  10. スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
  11. 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
  12. 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
  13. 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
  14. 羊頭狗肉。
  15. わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
  16. わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
  17. ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
  18. ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
  19. 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
  20. 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。


    1.  20もあると、いささか煩雑でわかりにくいが、著書の裏表紙には、代表的な例として、規則2,3,5を挙げている。

       安富教授は、以前から東大で見聞きする「自分が所属する立場ばかりにこだわる」姿勢に違和感を持っていた。「東大話法」という言葉を発案したのは、福島第一原発1号機が爆発した際、NHKに登場した東大大学院の原子力工学の専門家である 関村直人教授(= 写真)が 「爆破弁を作動させた可能性がある」と発言したのを聞いて、驚愕したのがきっかけだった、という。

       関村教授は「原発は安全」という「立場」から 水素爆発はありえない」と繰り返してきたため、建屋が吹き飛ぶ水素爆発事故を、爆破弁という減圧装置の作動という「詭弁」を平然と使った。

       まさしく、「東大話法」の規則2であり、3であり、5でもある、という。  関村教授がトップをしている東大 「原子力国際専攻」のホームページに掲載されている 「原子力工学を学ぼうとする学生向けのメッセージ 福島第一原子力発電所事故後のビジョン」にも「厚顔無恥な『東大話法』が使われている」と、安富教授は書く。

       
      この文書は「世界は、人類が地球環境と調和しつつ平和で豊かな暮らしを続けるための現実的なエネルギー源として、原子力発電の利用拡大を進め始めていました」という言葉で始まっている。
       いきなり「世界は」と書き始めるという感覚に驚かされます。彼らは自分が「世界」を代表しうる資格を持っている、と認識しているわけです。しかもそこに善かれている内容は、手前味噌の無責任な自己正当化にほかなりません。
       「世界は‥...・原子力発電の利用拡大を進め始めていました」と書いていますが、原子力発電の利用拡大を進めていたのは、もちろん「世界」ではありません。世界」にそんなことはできません。一部の国の、愚かで強欲な、政治家・官僚・電力会社と、それを支える原子力関係の御用学者・技術者が推進してきたのです
       「世界は」と言うことによって、そういう責任関係を暖昧にし、つまりは自分自身を免責しているのです。


       「幻影からの脱出」は「原発危機と『東大説法』」の続編。

       このなかで著者は「プルトニウムは、水に溶けにくいので飲んでも大丈夫」と発言した 同じ原子力工学の専門家である 大橋弘忠=( 写真)・東大教授について「『東大話法』を使う人は、この話法がうまいのでなくむしろ下手なのだ。だからその欺瞞と隠蔽が露呈してしまう。特に下手くそなのが大橋教授」と、大橋教授が公開した 「プルサーマル公開討論会に関する経緯について」という文書をやり玉に挙げている。

      安富教授は、こう書く。

       
      この文書が恐ろしいのは、何よりも「格納容器は一億年に一回しか壊れない」など、いわゆる
       「原発推進トーク」を連発しておいて、それが事実によって否定された、という点を、完全に無視していることです。原発関係者は、そういうことが、認識から自動的に排除されるようになっているのです。これは、大橋氏が特別に変わった人だから、ではありません。彼らは基本的に、こういうふうに考えているのです。こういう連中に、原子力などという危険なものを弄ばせてよいものか、本当によく考えないといけません。


       確かに、今年の2月に書かれたこの文書には、福島原発事故については、1度もふれられていない。

       恐ろし、恐ろし!

      著者は「東大話法」について「この話法は、東大関係者やOBだけでなく、政治や社会をリードしてきたリーダー、知識人の間で平気で使われている」と、何度も書いている。

      そして「幻影からの脱出」のなかで、千数百回も リツイートされた、自らのツイート(2012年4月7日発)を紹介している。

      政府が大飯原発の再稼働に固執するのは、原発ゼロで夏を乗り切れば、もう再稼働の口実がなくなるからだ。そうなると原発を支えたシステム全体が問われることになる。そのシステムは、国債や年金や天下りにも繋がっており、日本の全システムを揺るがすことになる。まさに、日本戦後史の関ケ原である。


       「原発危機と東大話法」は今年の1月、「幻影からの脱出」は7月の発刊だが、9月には、同じ著者の「もう『東大話法』にはだまされない」(講談社+アルファ新書)が出ている。
       著者の主張する『立場主義」をサラリーマン社会や夫婦関係にまで拡大しているが、読後感は「もう、ひとつ」


       

2012年9月21日

読書日記「風の島へようこそ」(アラン・ドラモンド著、松村由利子訳、福音館書店刊)「ロラン島のエコ・チャレンジ」(ニールセン北村朋子著、野草社刊)



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ロラン島のエコ・チャレンジ―デンマーク発、100%自然エネルギーの島
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 2冊とも、風車などで「自然エネルギー100%自給」を実現したデンマークの島の話しである。

 「風の島へようこそ」は、変形版40ページの絵本。舞台は、デンマークの首都コペンハーゲンから西100キロの海峡にある面積114平方キロ、人口4300人の小さな島、 サムソ島だ。  
あるとき、デンマーク政府が1つの計画を思いつきました。
 どこかの島をえらび、そこでつかうエネルギーをすべてその島でつくろうという計画です。そして、いくつかの島の中から、わたしたちの島がえらばれたのでした。


 この計画のリーダーになったのが、この島で生まれ育ち、島の中学校で環境学を教えていた ソーレン・ハーマンセンさん(現サムソ・エネルギー・アカデミー代表)(52)。
 ソーレンさんの提案に、こどもたちはわくわくした。「でも、おとなたちがわくわくしはじめるには、もうちょっと時間がかかりました」  
ある日、電気工のブリーアン・ケアさんが、ハーマンさんをよびだしました。
 「うちに中古の風車をとりつけたいと思うんだ」


 ある夜、激しいみぞれまじりの雪が降り、停電になった。  
でも、ケアさんの家には、あかりがついていました。「停電なんてへっちゃらだ!」
 ケアさんは大きな声でいいました。「家の風車は動いている!電気をつくっているんだ」
 小さな風車は、ぶんぶんとたのもしい音をたててまわっていました。


 これがきっかけで、島民たちの自然エネルギー熱に火がついた。銀行から融資を受けて大きな風車を建て、法律による電力の固定価格買い取り制を使って電力を電力会社に売る人が出てきた。農場に太陽パネルを並べて電力をまかなう人、ナタネから採った油でトラクターを動かす人・・・。島にたっぷりある藁や木片を燃やすバイオマス暖房プラントが立ち上がり、環境保全に目覚めて電気自動車や自転車に乗る人が増えた。  現在、島には1メガワットの風力発電が11基稼働しており、島内の全電力需要をまかない、洋上にある2メガワットの風力タービン10基も、売電で年率6-7%の利益を生み出している。

 今や、サムソ島は「エネルギーの島」として世界的に有名になり、日本のNHKなどの取材が絶えない。

 ソーレン・ハーマンセンさんも、福島原発の事故以降しばしば訪日し、講演やインタビューなどをこなし「自然エネルギー100%」を推奨している。

 「ロラン島のエコ・チャレンジ」の舞台となっているロラン島は、サムソ島と同じ「自然エネルギー100%自給の島」。 著者は、ロラン島にデンマーク人の夫、小学生の息子と住む日本人環境ジャーナリストだ。

 この島は、約1200平方キロ、人口約6万9000人とサムソ島に比べるとかなり大きく、可動橋で結ばれている東隣の ファルスタ島と合わせると風車は陸上、洋上を合わせて550基以上もある。つくられた電力の一部は、首都コペンハーゲンまで供給されている、という。

 著書には、1973年のオイルショックで政府は一時、原発推進を決め、ロラン島も原発2つの建設予定地の1つだったことが書かれている。しかし、島民など国をあげてての根強い草の根運動で政府は原発を断念、それがデンマークを再生可能エネルギーの先進国にしたきっかけになった。

 大きかったのは、政府が「原子力政策推進」のために設置したはずの「エネルギー情報委員会(EOU)が、原発建設論議で公平な活動を貫いたことだった。

 著者は、こう書く。  
EOUの事務局長であったウフエ・ゲアトセンが、インタビューで語ってくれた言葉が、私たち日本人にとってはとても心に響く。
 「日本は今、エネルギー問題について考える重要な岐路にある。日本にとって大事なことは、公平な第三者委員会を立ち上げて正しい情報を提供、共有し、原発やそれ以外のエネルギーや社会について、国民と共にホリスティックに議論することだ。そこで重要なのは、見識者、専門家は 『独立した』『政府や権力の息のかかっていない』『中立的な立場』 の人選をすること。それなくして、公正な議論は成り立たない」
 はたして、今の日本は、そういう選択ができているだろうか。


 ロラン島はかって造船で栄えた街だった。それが、日本などに追われて造船業が衰退、周辺地域も含めて地形がバナナに似ていたため、長く「腐ったバナナ」と呼ばれていた。それが、廃業した造船所跡に風力発電機メーカーを誘致、自然エネルギーのメッカになることで「グリーン・バナナ」と名前を換えた。

 しかし、今回の金融危機や中国など新興国の追い上げで、人件費の高いデンマーク経済は苦境に陥り、風力発電機メーカーも大幅な工場閉鎖、人員閉鎖に追い込まれた。

 しかしロラン島自治体は、2つのプロジェクトで「自然エネルギー先進国」の看板をさらに推進しようとしている。  1つは、風力発電機メンテナンスの専門技術者を育てる職業訓練学校を設立するなど環境関連ビジネスの推進、もう1つは燃料電池で熱と電気をまかなう水素プロジェクトの開発だ。

 在デンマーク日本大使館の 住田智子さんのレポートによると、バルト海に浮かぶ デンマーク・ボーンホルム島でも「ブライト・グリーン・アイランド戦略」というプロジェクトを展開、「カーボン・ニュートラル」を目指している。

 日本にも 「エネルギー自給100%を目指す島」がある。

 対岸の原発建設計画に反対し続けている瀬戸内海、 祝島の住民が、 「祝島 自然エネルギー100%プロジェクト」を推し進めている、という。

 「エネルギー自給100%を目指す」のは、小さな島でしかできないのだろうか。

 絵本「風の島へようこそ」に、こんな1節がある。  
ちょっと考えてみてください。
 地球は、宇宙にうかぶ、とても小さな島みたいなものです。
 だから、あなたがどこの国の人であっても、
 わたしたちと同じように「島にすむ人」だと考えていいと思います。
 地球という島を守るために、あなたのできることがあるはずです。


 日本も、地球に浮かぶ島の1つ。そして揺れ動く岩盤と活断層の上の薄い地表に、 54基もの原発を建ててしまった。

 もし原発のメルトダウンが再度、起きたら 「日本沈没」 ディアスポラ(民族離散)・・・。

 ※参考にした本
 ▽「グリーン経済最前線」(井田徹治、末吉竹次郎著、岩波新書)
 共著者の1人、井田徹治さんは、表題の絵本「風の島へようこそ」でも、巻末解説を書いている。
 サムソ、ロラン島をはじめ「21世紀に目指すべき自然環境と調和した新しい『グリーン経済』への胎動を紹介している。
グリーン経済最前線 (岩波新書)
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   ▽画集「井上よう子作品集」( 井上よう子著、 ギャラリー島田刊)
 兵庫県西宮市在住の画家だが、長年デンマークに滞在していた。その作品の多くに風車が描かれる。深くすんだ青い色調のなかにとけこんだ風車がなんとものびやかで、たくましくみえる。
 この6月にギャラリー島田で開かれた 展覧会に出かけた。作品はとても買えなかったが、求めた画集を時々めくりながら、1昨年、デンマークで聞いたのと同じ風車の音が聞こえてきたような気がしている。

2012年9月13日

読書日記「光線」(村田喜代子著、文藝春秋刊)、「原発禍を生きる」(佐々木孝著、論創造社刊)



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 福島第一原発にからんだ本を続けて読んだ。

 「光線」の 著者の本について、このブログで書くのは、 「あなたと共に逝きましょう」 「偏愛ムラタ美術館」以来、3回目。

 「あなたと共に逝きましょう」は夫が大動脈瘤に患うことがテーマだったが、今度は、妻(著者)が子宮体ガンになってしまう。
 しかも、その病魔は、奇妙なタイミングでやってきた。「あとがき」にこうある。

 
二〇一一年の三月がきて、突然、東日本の大地が揺れた。いや、海が揺れた。海を持ち上げて海底の地殻が揺れた。そしてじつはその一ケ月前くらいから私の身体にも変動が起きていて、地震の数日後にガンの疑いが現われたのだった。


 著書に収められているのは8つの短編集だが、このうち「光線」「原子海岸」は、ガンになった妻を見守る夫・秋山の立場で書かれている。

 
思えば治療前に撮ったPET画像のガンは、妻の下腹部で鶏卵大のオレンジ色の炎のようにあかあかと燃えていた。・・・
 それが、鹿児島で行われていることを知った治療法でガンは消えてしまった・・・。(原子海岸)


 
放射線治療で妻の子宮体ガンが消えたとき、秋山は焚き火の燃えた後の灰を見るような気がした。日曜祭日なし連続三十日間の四次元ピンポイント照射で、ガンの焚き火は鎮火したのだ。(同)


 
自分の妻が乳ガンや子宮ガンに罷ったら、男はどういう気持ちになるだろうかと秋山は思う。病気の軽重ではない、臓器の部位だ。妻の乳房や子宮は結婚以来長い年月かけて付き合ってきたもので、肺や胃や腸などとはまた違う。妻が病院で検査を受けるのも無惨な思いがする。(光線)


 この治療法でガンを克服した患者たちの"同窓旅行"の席上、秋山の妻は院長に思わず聞いてしまった。

「あのう、私たちがかけられる放射能って、原発で出来るのですか」。・・・周囲の人々もにわかに静かになって院長を見る。(原子海岸)


 日々、東北の人々を苦しめている原発への恐怖と放射能に助けられたという思いがないまぜになって、思わず出てきた素朴な質問だった。

私のガンが見つかったのは三・一一の明くる日でした。もう日本中がどんどん放射能に震えののし上がっていった頃です。大きな鬼が暴れまくつているときに、日本中がその鬼を憎んで罵って 石投げてるときに、車一台買えるくらいのお金を持って、その鬼の毒を貰いに行ったようで、何とも言えない気分だったの。(同)


放射線治療をして助かった者だけじゃありませんよ。この時期はきっと、手術で助かった人も、抗ガン剤で助かった人も、ガンとは別の病気で命を取り戻した人も、事故で命拾いした人も、子どもが就職できた人もです。大学受かった人も、何か良いことがあった人、幸福を得た人はみんな今度のことではそんな気持ちじゃないでしょうか。良かったって言えない。叫べない。みんな、どこかで苦しいんじゃないですか。(同)


私ね、治療から帰ると途中から放射線宿酔が始まるので、帰り着くとベッドに倒れ込むの。それで毎日毎日見たくないのにやっぱりテレビを見てしまうの。ほら、もうすぐ煙が出る。私は布団をずり上げて眼を覆うの。あそこから出る見えない光線と、今自分の下腹にかけられてるものが、混ざり合ってしまう。あっちのと、こつちのとは、同じじゃないのに、なぜか同じになってしまうの。(同)


   「あとがき」は、こんな言葉で結ばれている。

 
その頃、鹿児島の桜島は年間の観測史上最高となる爆発回数を記録し、私が滞在中の四月と五月の噴火は百六十人回を数えた。市内には黒い灰が臭気を伴って降り積んでいた。地球の深部は放射性元素の崩壊が行なわれている。核分裂の火が燃えているのだ。人間世界の動きから眼を空に移すと、太陽は核融合する巨大な裸の原子炉だ。そして地上では人間の手で造られた福島原発の炉に一大事が起こつている。
 私が鹿児島の火山灰の舞う町で日々めぐらせた思いは、これもまた一つの3・11に続く体験というしかない。原発への恐怖と、放射線治療の恩恵と、太陽を燃やし地球を鳴動させる巨き世界への驚異である。


 「原発禍を生きる」は、 「フクシマを歩いて ディアスポラの眼から」( 徐京植著、毎日新聞刊)を読んで、知った。

  著者・佐々木孝は、福島第一原発から約25キロ、屋内非難地域に指定されている南相馬市で「私は放射能から逃げない」と、認知症(元・高校教師)の妻と暮らす反骨のスペイン思想研究家。永年、 ブログ「モノディアロゴス」を書き続けてきたが、大震災後1日に5000件ものアクセスが集中、単行本化された。

 著者は、緊急避難地域、屋内非難地域といった政府の方針に翻弄され、発表される放射線測定に不信感を強めた住民の多くが「避難民化」している状況について「三月十九日午後十一時半」付けブログで、こう書く。

 
だれも言わないのではっきり言おう。いま各地の避難所にいる避難民(!)のうち、おそらく一割は、例えば南相馬市からの避難者のように、家屋も損壊せず電気や水道も通っている我が家を見捨てて過酷な避難所生活に入っているのである。もっとはっきり言えば無用な避難生活を選んでしまった人たちなのだ。・・・私の知っている或る人は、この無用の生活を選んでしまった。高齢で病身であるにも拘らず、そして家屋損壊もなく、電気・水道が通っている我が家を離れ、たとえば30キロ圏外をわずか逸れた町の体育館で不便きわまりない避難生活をしている。・・・その人が避難生活を送っている場所は、この南相馬市より放射線の測定値が六倍もある場所なのに。


  一方で、国家命令に毅然として立ち向かった「東北のばっぱさん(4月十二日付け)」のことが忘れられない。

 
時おりあのおばあさんの姿が目の前にちらつく。双葉町だったか、10キロ圏内ながら迎えに行った役場の人に向かって避難することを丁重に断って家の中に消えたあのおばあさんである。・・・「私は自分の意志でここに留まります」といった意味の老婆の言葉に、困惑した迎え人がつぶやく、「そういう問題じゃないんだけどなー」
いやいや、そういう問題なんですよ。君の受けた教育、君のこれまでの経験からは、おばあちゃんの言葉は理解できるはずもない。ここには、個人と国家の究極の、ぎりぎりの関係、換言すれば、個人の自由に国家はどこまで干渉できるか、という究極の問題が露出している。


 「人類を破滅の危険に晒されることになった」原子力を「早急に封印する方向に叡智を結集すべきではなかろうか」と書く一方で、被災地に住んでいると、こんな発言にも違和感を持つ。

 このブログでも書いた 小出裕章・京大原子炉実験所助教は、5月の参議院員会で「もし現在の日本の法律を厳密に適用するなら、福島県全体と言ってもいい広大な土地を放棄しなければならない。それを避けようとすれば住民の被曝限度を引き上げなければならない...これから住民たちはふるさとを奪われ、生活が崩壊していくことになるはずだと私は思っています」と述べ。その 動画がWEB上でおおきな話題を読んだ。

 これに対しても著者は「被災者目線 五月二十六日」という一文で、ズバリ被災地住民の怒りを率直にぶつける。

「ふざけんな、と言いたいね。代議士先生たちを前に滔々と歯切れよく演説をぶったつもりだろうが、てめえは被災者が今どんな気持ちで毎日を送っているのか少しでも考えたことがあるのか聞きたいね。てめえが全滅と抜かしおった福島県で、こうして元気に生きているし、これからだって生き抜いてみせるぜ。ただちに健康に被害はない、と言われる放射線の中で、ちょうど酷暑や極寒、旱魃や洪水にも耐え抜いてきた先祖たちに負けないくらいしたたかに生き抜いてやらーな」


 怒りをぶつけながらも、被災地で認知症の妻を抱える現状をユーモラスにさえ描く「或る終末論 四月十一日付け」という一文に、読む人は釘づけになる。

妻は言葉で意志表示ができません。ですから便器に坐らせても、それが大なのか小なのか、分からないのです。空しく十分くらい待って、結局何も出ないことだってあります。だから耳を澄ませて、あっ今は小の音だ、あっ今度のは大が水に落ちる音だ、と判断しなければなりません。そのときの喜び、分かります?・・・私にとって、一日のうちの大仕事がそのとき無事完了するのであります。・・・ 先日も便所の中に一緒に居るときに揺れが始まりました。一瞬、ここで死ぬのはイヤだ、と思いましたが、でもここで終末を迎えるのは時宜にかなったことかな、とも思ったのであります。地震よ、大地の揺れよ、汝など我ら夫婦の終末に較ぶれば、なんぞ怖るるに足らん!


 地元紙「福島民報」の9月11付け 記事に掲載された夫婦の相寄る写真がいい。 本の帯び封に載った愛する孫との3ショットもいい写真だが、被災地での壮絶な生活ぶりを浮かび上がらせる。

 

2012年2月26日

読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書)


イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
山浦 玄嗣
文藝春秋
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この本が誕生したいきさつは、序文「はじめ」のなかで説明されている。

 3・11の東北大津波で、医師である著者の診療所がある大船渡市も市街地の半分が流された。 カトリック信者である山浦医師は、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を、東北・ 気仙地方で普段に使われるケセン語訳で出すことに挑戦した。だが、出版した大船渡市の イー・ピックス出版も社屋を失った。

ところが、奇跡が起こった。

津波でつぶれた出版社の倉庫の泥にまみれた箱の中からほとんど無傷の三千冊のケセン語訳聖書の在庫が見つかったのだ。津波の洗礼を受けた聖書として有名になったケセン語訳聖書は、日本中の人びとの感動を呼び、数カ月で飛ぶように売れてしまった。

そんな時、文嚢春秋の女性編集者が「瓦礫と悪臭におおわれた惨憤たる道を踏み越えて」訪ねてきた。

ケセン語訳聖書がこんなに多くの人びとに喜ばれ、受け入れられているのは、難解だった従来の聖書の翻訳をほんとうにわかりやすくしたからです。この心を全国の人びとに伝えたい。人の幸せとは何かと問う福音書の心こそ、災害に打ちひしがれている日本人によろこびの灯をともすはずです。イエスのことばをふるさとのことばに翻訳した中で得た多くのことをぜひ本にしてみなさんに読んでいただきましょう!


   この本は、イエスの言葉を引用しつつ、山浦医師の生きざま、復興に立ち向かう東北の人々の思いのたけを綴っている。

話し言葉である「ケセン語」を、文章に直すのは至難の業だったろう。だから最初に「ケセン語の読み方」という注釈がついている。

本文で、「が(●)ぎ(●)ぐ(●)げ(●)ご(●)」はガ行濁音で、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音で読む。
 振り仮名で「ガギグゲゴ」はガ行濁音、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音。また、振り仮名で促音「つ」は「ツ」と書く。

*尚、聖書引用は日本聖書協会『聖書新共同訳』による。


 学生時代に東北地方を旅し、列車の中で出会った行商のおばさんたちが話す言葉がさっぱり分からず、あ然、がく然とした思い出がある、

 この本に書かれた「ケセン語」のイエスの言葉もちっとやそっとでは理解できない。しかし、それに続く山浦医師の解説は、カトリック信者のはしくれである私にも「目からうろこ」の連続だった。そして「ケセン語訳」イエスの言葉が身にしみてくるのである。

敵(かだギ)だってもどご(●)までも大事(でァじ)にし続(つづ)げ(●)ろ。
                           (ケセン語訳/マタイ五・四四)

敵を愛し...(中略)...なさい。
                                (新共同訳)


 「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。

 「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」

 「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。

「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

医師の言葉は、どこまでも先鋭かつ鮮烈である。

願(ねが)って、願(ねが)って、願(ねげ)ア続(つづ)げ(●)ろ。そうしろば、貰(もら)うに可(い)い。探(た)ねで、探(た)ねで探(た)ね続(つづ)げろ。そうしろば、見(め)付(ツ)かる。戸(と)オ叩(はで)アで、叩アで、叩(はだ)ぎ続(つづ)げろ。そうしろば、開(あ)げ(●)もらィる。
 誰(だん)でまァり、願(ねげ)ア続(つづ)げる者(もの)ア貰(もら)うべし、探(た)ね続(つづ)げる者(もの)ア見(め)付(ツ)けんべし、戸(と)オ叩(はだ)ぎ続(つづ)げる者(もの)ア開(あ)げ(●)でもらィる。
                        (ケセン語訳/マタイ七・七~八)

求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
            (新共同訳)


 山浦医師は、この箇所をケセン語に訳そうとした時、新共同訳を見て「ちょっと待てよ」と思った。
 「人生を振り返って、求めたからといって与えられるとは限らない。・・・それどころか、求めて得られず、探して見つからないことが多すぎるからこそ、・・・人生で苦労している」

 疑問の答えが見つからないまま、ギリシャ語文法の勉強をしていた時、ギリシャ語の命令形には、その動作を継続して実行することを要求する「継続命令」と、ひとくくりに一回性のものとして要求する「単発命令」という2つの種類があることに気づいた。
  マタイ伝を読みなおして「求めろ、探せ、たたけ」は「継続命令」であることが分かった。 そして、ケセン訳と同時に、こんな日本語"私訳"をつくった。

  
願って、願って、願いつづけろ。そうすれば、貰える。
 探して、探して、探しつづけろ。そうすれば、見つかる。
 戸を叩いて、叩いて、叩きつづけろ。そうすれば、戸を開けてもらえる。
 誰であれ、願いつづける者は貰うであろうし、探しつづける者は見つけるであろうし、戸を叩きつづける者は開けてもらえる。 


 医師は続けて書く。
 「イエスはたとえ話しの後でよく『聞く耳のある者は聞け』といいます。これは継続命令です。・・・一度聞いた話を心の中で何度も反芻し、繰り返し繰り返し、聞き続けろということです。"神さまのお取り仕切り(ケセン語訳で神の国、天の国のこと)"に参加するには、このしつこさが必要なのだと、イエスはしつこくしつこくいっている・・・。」

   この本の巻末に「新しい聖書翻訳のこころみ」という数ページがある。
 例えば「永遠の命」は「いつまでも明るく活き活き幸せに生きること」、「心の貧しい人」は「頼りなく、望みなく、心細い人」、「柔和な人」は「意気地なし、甲斐性なしなし」・・・。

 池澤夏樹の 「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」という本にこんな一節がある。

 
秋吉さん(秋吉輝雄・立教女学院短期大学教授)は、本来、聖典は朗諦・朗詠されるものだと書かれていますね。その意味で見事なのは、岩手の山浦玄嗣さんというお医者さんが出したケセン語訳の聖書「ケセン語訳新約聖書」( イー・ピックス刊、二〇〇二)です。福音書を岩手県気仙地方の言葉に訳したのですが、あれはまさしく読むだけでなく、朗唱するものとして作られている。山浦牧師(?)は、信仰というものは魂に訴えるのだから、生活の言葉でなくてはダメだと考えて、ケセン語訳をしたんです。聞いていた信者のおばあさんが「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエスさまの気持ちァわかったことァなかったよ!」 と言ったとか。


 この「ケセン語訳新約聖書」が、3・11で奇跡的に見つかり、完売した聖書だ。

一方で、山浦医師らの長年の夢が3・11で失われた。「ケセン語になじみのない一般の日本人にもたのしめるような『セケン(世間)語訳』を出してほしい」という要望で、日本各地の方言をしゃべる新しい福音書が出版を間近にして流されてしまったのだ。

 しかし「日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望み」は消えなかった。生き残った社員が集まり、山浦医師の書斎に残っていた原稿から新しい版を起こす仕事が始まった。

山浦玄嗣医師訳 「ガリラヤのイェシュー;聖書-日本語訳新約聖書四福音書」(イー・ピックス出版)は、昨年11月に出版された。

山浦医師によると「イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う。さらに、ファイサイ衆は武家用語、領主のヘロデは大名言葉、 ユダヤ地方の人は山口弁。ローマ人は鹿児島弁、 ギリシャ人は長崎弁」と全国各地の方言が飛び交う。

芦屋市立図書館には、すでに所蔵されていた。予約したが、まだ手にすることはできていない。

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