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2019年2月 6日

日々逍遙「明治神宮」「ムンク展」「フリップス・コレクション展」

 

【2019年1月6日(日)】

 1月4日は77歳の誕生日だった。

 喜寿は数え年で数えるようだが、東京と横浜にいる3人の子どもたちが「遅ればせの祝いをするから出てこい」という。孫たちの塾通いが忙しく、関西には来られないと言うのだ。やむを得ず、のこのこと東京・六本木のホテルに出かけた。

 翌朝、明治神宮へ。学生、新聞社時代を含めて7年ほど東京にいたが、ここには行ったことがなかった。荒れ地に人の手で作られた永遠の森というのを見たいと思った。

 3が日は過ぎたというのに、参道はかなりの人手。その参道に覆いかぶさるように広葉樹が葉を広げていた。左右に広がる広大な敷地の森はまったく人の手は入らず、自然の植生にまかせた木々の循環が続いている。
 参道脇に、箒や落葉を入れる布袋が置かれている。朝、昼、夕の3回、参道の落葉が掃き集められ、そのまま木々の根元に置かれ、自然の循環を助けるという。見事な「鎮守の森」だ。

 100円でおみくじを引いてみた。なんと、吉兆ではなく、祭神の1人である昭憲皇太后の御歌がしるされていた。  
茂りたるうばらからたち払いてもふむべき道はゆくべかりけり


 今年は、茨(うばら)の道?

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大鳥居を覆う広葉樹
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参道脇の竹箒       森のなかを行く参拝者

 この後、上野・東京都美術館の「ムンク展―共鳴する魂の叫び」へ。

   さすがにムンク。どの絵の前も2重、3重の人であふれている。特に有名な「叫び」は、鑑賞の前に列を並ばなければならない。

 近代社会が招いた人間の不安、孤独、絶望を描いていることが、見る人の共感を呼ぶのだろう。図録には「人間の口から放たれた不安が、風景のなかに拡散し、さざ波を立てている」と書かれていた。しかし、絵のなかの男性は叫んでいるのではなく、耳を塞いでいる、という見方もあるようだ。ムンク自身が「自然を貫く叫びに底知れない恐怖を感じた」と、書いているという。

 ちょっと分かりにくいが、約100点の展示作品のなかでも「絶望」「メランコリー」「夜の彷徨者」などの絵に引かれた。

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「叫び」
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「絶望」        「メランコリー」
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「夜の彷徨者」


 ムンク展「叫び」に見入る寒さかな


【2019年2月3日(日)】

 用事でまた上京したのを機会に、丸の内の三菱一号館美術館で開催している 「フイリップス・コレクション展」に出かけた。入るのに15分ほど待たされたが、なかなかの拾いものだった。

 ワシントンにあるフイリップス・コレクションは、100年前に実業家が近代美術を蒐集した私立美術館。「アングル、コロー、ドラクロア等19世紀の巨匠から、クールベ、近代絵画の父、マネ、印象画のドガ、モネ、印象が画以降の絵画を索引したセザンヌ、ゴーガン、クレー、ピカソ、ブラックらの秀作75点」と、普通の美術館の学芸員なら垂涎の的の作品がずらり。
 それも、明治の時代に丸の内で初めてのオフイスビルとして建てられたレンガ造り・復元建築の重厚なインテリアの部屋を連なるように展示されている。

 暖かい気候に恵まれた小旅行。帰った伊丹空港は雨だったが、なにやら春の気配・・・。

 まだ固き蕾の中に春を待つ


 海光の温みを集め水仙花


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ゴア「聖ペトロの悔恨」      シスレー「ルーヴシェルの雪」

2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

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「カフェ」
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「舞踏会の前」
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 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2018年12月14日

日々逍遙「阪急西宮ガーデンズ、京都府立植物園」

 【2018年11月21日(水)】

 散歩がてら、阪急西宮ガーデンズ4階のスカイガーデンへ。
 東入口から入ると、円形花壇の内側に、小さなスイレンの花のようなものが咲きそろっている。スマホ・アプリの「花しらべ」で調べると、スイセン・ペパーホワイトと出た。このアプリ、時にはとんでもない答えを出してくれるが、多分当たりだろう。後日、同じガーデンで、副花冠が黄色いおなじみの日本スイセンも咲いていた。

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 秋明菊とならんで、黄色い石蕗(つわぶき)の花も咲き出している。石蕗は、冬の季語。周りが急に"冬めいて"みえた。

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 ここには、オリーブの木が約20本も植わっている。太くなったどの木々にも実が鈴なり。西宮阪急は、10年まえに開店したばかりだが、見事に育ったものだ。

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 帰り道、県立芸術文化センターの黄色く色づいたケヤキの木の下で、若い女性が楽譜を置いてハーモニカの練習をしていた。楽譜を見ながら、ハーモニカというもちょっと不思議。楽器のトーンも高く、澄んだ音がする。ひょっとすると、違う楽器?芸文センターの楽団員?
 ブログ管理者のn.shuheiさんによると、このハーモニカはクロマチックハーモニカという半音階が出せる楽器らしい。南里沙さんという神戸女学院を出た奏者が有名という。

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 途中の菓子店で買ったミルフイーユの中身が、これまでの梨から苺に代わっていた。「これから、当面は苺。国産が入るようになったので」と店主夫人。果物も冬の季節である。

 【2018年11月23日(金)】

 毎年、桜と紅葉の季節には、京都府立植物園に行くことにしている。シーズンでも観光客に邪魔されない秘密のスポットだと、ある京都人に教えてもらった。それに、70歳以上は入場無料である。

 隣接するピザ・パスタ店でゆっくりしすぎて、園に入った時には、午後の曇り日になってしまった。紅葉への映えはどうかと思ったが、まーまー。

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 桜林のなかで、小枝に咲く冬桜、四季桜を見つけた。紅葉を背景に、白い小さな花を咲かせている。冬桜は1月の季語。四季桜は、ヒガンザクラの一品種で、別名・十月桜。西宮市の北山緑化植物園の芝生にもけっこう大きな十月桜が植わっている。
 11月の季語である帰り花(返り花)は、これらの桜を言うのだろうか。
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 おなじみのイチョウの黄葉、冬の季語でもある花八つ手、秋バラ、まだ咲き誇っていたコスモス、夏の名残の赤いカンナと、植物園に咲く花の季節は幅広い。

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 北山門に帰る右側に大きくそびえるレバノンスギ、オオカナメモチなどの針葉樹林には、いつもほっと息をつく深淵さを感じる。
 左側の600本もあるというつばき園は、いつも見る花の時期を逃してしまう。

2018年12月 4日

紅葉紀行「栃木・那須高原、福島・西郷、南会津、白河」

今年は、東北の紅葉を訪ねてみようかと、ANAで期限が切れかけていたマイレージで福島までの飛行機を確保した。



 【2018年11月3日(土)】

 同行の友人Mの仕事の都合で、前日に福島空港に着いたのが午後5時前。迎えの車で宿に着いたらすっかり日が暮れていた。さっそく飛び込んだ露天風呂はさらさらとした単純硫黄泉。西宮では望みようもない満点の星が迎えてくれた。

 午前10時、観光タクシーで甲子(かし)高原を東上、紅葉の名所、雪割橋へ。

 50メートルはあるという深い阿武隈渓谷にかけられており、足がすくむ。対岸の紅葉撮影もそこそこに、橋のできるだけ真ん中を急いで渡りきって息をついた。
 対岸の由井ヶ原を開拓するため、最初は吊り梯子で荷物を上げ下げし、昭和21年に吊り橋になった。今でも、普通車がやっと離合できる鉄橋だが、すぐ横でアーチ型の大型橋の工事が進んでいる。近くの陸上自衛隊演習場への輸送のために、かなりの補助金が出たらしい。

 しかし、その開拓地も離農が進み、近くの展望所から見ると放置された農地や、牧場施設が目立つ。展望所に駐車したワゴン車で農家の夫婦が手作りのアケビのつるで編んだかごを売っていた。1万円と聞いて手がでなかったが、車の横に置かれたガマズミの赤い実を写真に撮らせてもらった。
 橋を渡ったところにあった売店で、紅葉したハゼの苗木を買った。こちらは600円。「4メートルほどにはなりますよ」。本当?

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 甲子道路を左折、県道290号線(那須甲子道路)へ。那須連山の山並みを右に見ながら、どんどん高度を上げていく。那須岳、朝日岳などの那須連山はほとんど落葉しているのに、左側の高原は紅葉まっさかり。そこへ、那須連山から吹き下ろす風が木の葉を散らし、落ち葉を舞い上げる。際だった風土の差がここの特色らしい。
 「いい時期に来ましたね」。タクシーの運転手が何度も言った。

 冬めける山はにび色里は黄み


 那須平成の森に着いた。宿から1時間20分ほどかかっている。福島から隣の栃木県に入っている。ここは、皇室の那須御用邸の約半分、560ヘクタールが環境庁の所管になって一般に開放され、2011年に開園された。

 入り口のフイールドセンター以外は、森のなかにトイレもなく、ブナ、ミズナラ、クマシデ、ホオノキなどの広葉樹が自然のまま残されている。そのほとんどは、ほぼ落葉を終えていたが、この森の特色は、カエデ類の多いこと。赤いイロハモミジ、ハウチワカエデ、コミネカエデ、黄色のエンコウカエデ、カジカエデ、ヒトツカエデが枯木と落葉に色を添えている。

   メインの道は、石ころがゴロゴロして歩きにくかったが、少し脇の回遊道路に入ると、落葉の踏み心地がしっとりと心地よい。途中のゲートに釣ってあったツキノワグマ避けの鐘を鳴らしてみる。
 道のわきの倒木を削って、小さな虫眼鏡でのぞき込んでいる若い2人連れがいた。アメーバーのように繁殖して微生物を食べる粘菌(変形菌)を調べている、という。自然の森の奥深さをかいま見た。

 落葉降り森は空へと浮かぶよう


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 甲子道路に戻り、南会津の塔のへつりへ。へつりとは、浸食と風化でできた断崖のこと。山かんむりに弗みたいな難しい字を書く。切り立った崖に生えた木々が見事に紅葉している。国の天然記念物だそうだ。

 へつりの上の駐車場にある売店で、きのこがたっぷり入ったみそ汁と喜多方ラーメンをただで食べさせてくれる。木のテーブルに置いてあるきのこのつくだ煮や煮豆も無料。どう採算を合わすのか。不思議な"会津商法"である。

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 宿に帰る途中の甲子温泉の紅葉も見頃だった。冬も営業しているが、街道からの下り道が急なのでタクシーが来れず歩かなければならないらしい。2泊目はこの温泉でと思っていたのだが、今回は断念した。

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    【2018年11月4日(日)】

 正午のチェックアウトまで温泉などを楽しみ、近くの白河市・南湖公園に出かけた。
 江戸時代の白川藩主で老中だった松平定信が、庶民とともに楽しむ「士民共楽」の思想で作った日本最古の公園という。国の史跡・名勝に指定されている。

 だんごが名物の茶屋の近くに、回遊式の日本庭園、翠楽苑がある。落葉が目立った平成の森などに比べて平地にあるため、まさに紅葉まっさかり。
 入口の門扉にかけられたツルウメモドキのリースや園内の茶室玄関にある秋の収穫を盛り込んだオブジェが心を和ませる。

 散りてなほ苔を染めゆく紅葉かな


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 福島空港には国際チャーター便が飛んでおり、園内は台湾の団体ツアー客でにぎわっていた。四阿で休んでいた夫婦と思われる中年の2人に話しかけてみた。台湾にも紅葉の名所はあるそうだが、日本の庭園と紅葉は「很漂亮(とても美しい)」と。

 紅葉に誘われて忘れそうになったが、白河市は東北大震災・原発事故の被災地でもある。公園の入り口に、放射線量を示す看板があった。

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 タクシーの運転手は、がけ崩れで20歳前後の姉妹や老人ホームの人たちなど十数人が死亡、他県に移住した子供たちがいじめにあったと話す。

 白川市の震災にふれたホームページによると、農産物などへの風評被害はいまだに消えないらしい。

 鎮魂の土地よ静まれつわの花


2018年11月22日

読書日記「権力と新聞の大問題」(望月衣塑子、マーティン・ファクラー著、集英社新書)



権力と新聞の大問題 (集英社新書)
集英社 (2018-06-22)
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望月衣塑子は、東京新聞社会部記者。政治部記者の牙城である内閣官房・管 義偉官房長官定例会見に出て、既存政治部記者から異端視されながら矢継ぎ早に質問してネットでも話題になっている。

 マーティン・ファクラーは、ニューヨーク・タイムズ前東京支局長で、日本のマスコミへの厳しい批判で知られるジャーナリスト。

 この本は、その2人の対談で構成されているが、マスコミと権力の問題だけでなく、安倍内閣の密かな狙いを批判するなどホットな話題に満ちている。

 知らなかったが、望月記者によると、経済産業省は2017年2月から「執務室全部に施錠を始めた」という。「これは明らかな記者の締め出しであり、取材拒否の姿勢に見える」。これまで取材対応をすることが多かった課長補佐が対応しなくなったらしい。

 古い話しだが、私が経済記者だった頃は、通産省(現・経済産業省)や大蔵省(同・財務省)執務室への出入りはもちろん自由だったし、課長や課長補佐の横に座り込んで、無駄話をしながら、取材をしたものだ。
 そんな、当たり前だったことが、もうできなくなっている。

 「安倍政権がやろうとすることに対してゴチャゴチャ言うヤツは邪魔だ。余計なことは言わず書かない、すべて忖度して都合のいい報道をしてくれる記者だけを受け入れようとするわけです」

 門外漢にはよく分からないことだが、望月記者によると、安倍政権は2013年に特定秘密保護法、2015年に安保法制、2017年にテロ等準備罪(共謀法)を成立させ、昨年は巡航ミサイル導入の報道が相次ぐなど「いつでもアメリカと一緒に戦争ができる」体制を整えつつある。

 2013年に発足した国家安全保障会議(日本版NSC)は、マスコミも実態がつかめないブラッックボックスだという。

 同記者は最近、埼玉県入間市で、自衛隊基地に防衛省所管の病院を作る計画を聞いたという。「ミサイル導入や日米軍事協力を想定して、負傷者の受け入れ体制を想定」しているらしい。

 ファクラー氏は「他国にミサイル攻撃を仕掛ける装備を持つということは、日本にとって戦後最大の方向転換だということを海外の政権やメディアは注意深く見ている。それなのに、日本国内でそういう議論が行われていないのは非常に危険な状態だと思う」と警告する。

 望月記者は言う。「憲法九条の論議が始まる前に専守防衛を超えて敵基地攻撃を持つ装備(巡航ミサイルやイージス・アショア)を一気に持とうとしている。憲法九条の議論の前に現実論として装備してしまえと。民主主義の手続きをすっ飛ばして『そっちを先にやってしまえ』みたいな空気もあり、すごく怖いなあと思っています」

 その法制や装備が現実に使われるのは、我々が死んで孫たちの時代になってからかもしれない。いや、もっと近い話しかもしれない。本当に「すごく怖い」ことである。

 最後に「記者が身の危険を感じたり、国家権力から監視されたりすることがあるのか」という質問に、ファクラー氏はこう答えている。

 「アメリカではビックデータによる監視が可能だから、取材先との秘密裏の情報交換などに、外部の人には解析不可能な暗号を用いた通信方法、例えば "Signal" といったSNSを使う」

 NHKの人気番組ではないが、日本の国民、記者諸侯に、こう呼びかけることにしよう。

 「ボヤーと生きてんじゃないよ!」

2018年10月31日

日々逍遙「小磯良平展」「武庫川・コスモス園」など

このブログが、管理システムの不調で約1ヶ月閲覧だけでなく、新しい記事の掲載もできなくなった(詳しくは、管理者n.shuheiさんの 10月22日付けブログで)。
 管理者の大変な努力で10月末には復旧したが、ブログ右側の「過去記事タイトルリスト」を見ると、11年もの読書、紀行記録が自分にとって貴重な財産になっていることに改めて気付いた。

 あまり好きな言葉ではないが、 "終活" の一環にもなるかと「日々逍遙」というコーナーも作ってみることにした。

2018年10月28日(日)
 阪急夙川駅で、昔テニスクラブで一緒だったYさんに20年ぶりにばったり。サングラスを外して見せた顔には、私同様それなりの年輪が刻まれていたが、テニスは相変わらず続けているという。2007年に中国にご一緒したKさんも同じテニスクラブらしいが、テニスを日課のようにしていたMさんは「もう、しんどくなった」と最近クラブを辞めたらしい。これも"終活"かな・・・と。

 待ち合わせた友人Mとポートアイランドの神戸市立小磯記念美術館へ。特別展「没後30年 小磯良平展 西洋への憧れと挑戦」が開催中で、全国の美術館から集められた代表作や新発見、初公開作など約130点が展示されている。

 見覚えのある兵庫県立美術館所蔵の「T嬢の像」や東京藝術大学が貸し出した「裁縫女」が、戦前の中産階級の生活を鮮やかに描きだして秀逸だ。

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 珍しいことに「娘子関を征く」「カリジャティ会見図」(いずれも国立近代美術館・無期貸与作品)など、かなりの戦争絵画が展示されていた。

 ちょうど、京都国立近代美術館で「没後50年展」が開かれている藤田嗣治は、多くの戦争絵画を描いたことへの非難に嫌気をさしてフランスに戻って、死ぬまで日本に帰らなかったということだ。小磯良平も自分の画集に戦争絵画を載せることを非常に嫌ったという。東京芸術大学教授として活躍した戦後の生活の中で戦争責任の声とどう決別したのだろうか。

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 戦後に描かれた「働く人びと」(小磯美術館寄託)という大作は、同じ油彩ながら戦前の作品とがらりと筆使いが違っている。なぜだろうか。

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 東京・赤坂の迎賓に飾られている「絵画」「音楽」の2作は、やはり小磯の迫力が満溢 した作品だ。この展覧会では、小さなカラー模造図が展示されているだけだったが、やはり本物が見たい、と思った。

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  【2018年10月16日(火)
 武庫川左岸(尼崎市)の「武庫川コスモス園」に出かけてみた。
 13日に開園したばかりで、まだ咲きはじめといった感じだが、7つの区画にピンク、白、黄色のコスモス約550万本が今年も元気に咲きそろおうとしている。昨年は、台風の被害を受けてほぼ全滅しており、2年ぶりに復活した風景だ。
 ここは、もともと旧西国街道を結ぶ「髭の渡し」と呼ばれる渡し場があったらしい。サイクリングロードなどが整備されている右岸・西宮市側に比べ、左岸は未整備なところが多く、ここもゴミの不当投棄で荒れていた。コスモスの名所に変身させた地元市民グループの努力をありがたく思う。

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2018年10月8日(月)
 久しぶりに、西宮市立北山緑化植物園に出かけた。まだ紅葉には早かったが、シューメイギク、コムラサキ、ミズヒキなどの秋の花が咲きそろっている。  カツラの木の下のベンチで休憩。カツラの大木を訪ねた鉢伏への旅を思い出した。
 
 秋晴れへ伸びる桂や幹太し


 まだ青いがカリンの実がたわわに実っている。自宅にカリン酒をつけているのを思い出し、帰って飲んでみた。澄んだ琥珀色をした、なかなかの出来だった。張られたレッテルに「2016年11月作成」とある。たしか、神戸女学院のシェクスピア庭園で収穫した実を漬けたのだと思う。

下のサムネイルをクリックすると大きな写真になります。
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2018年10月27日(土)
 2週間に1回の俳句講座(講師:池田雅かず「ホトトギス同人」、於・神戸六甲道勤労市民センター)の日。
 最初に講師が「鳴け捨てし身のひらひらと木瓜の花」という句を黒板に書き、主席者の評価を聞いた。「良い句」と思った人は1人、私も含めて残り20人弱は「良くない」に手を挙げた。

 実はこの句は、AI(人工知能)の作、だという。
 北海道大学の川村教授が、過去の俳句5万句をAIに詠み込ませて開発したソフト「一茶君」に「鳴」「木瓜の花」という兼題を与えて自動生成させたらしい。
 友人の1人は「なかなかいい句だ」と、高い評価をした。はたしてAIは、将棋、碁に続いて俳句でも勝利するだろうか。

2018年10月15日

読書日記「死の島」(小池真理子著、文藝春秋刊)



死の島
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小池 真理子
文藝春秋
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 著者の本を読むのは久しぶりだ。
 いくつかの新聞書評子が、この小説を取り上げているのを見て、図書館に予約した。借りられるまでに4ヶ月かかった。

 文芸編集者として出版社に勤めていた澤登志夫は、定年後カルチャーセンターで小説の書き方を教えていた。腎臓にがんが見つかり、それが骨に転移した。いかに死を迎えるかを考えるようになり、カルチャースクールをやめた。

 以前、熱烈に愛し合った貴美子が63歳で死んだことを知った。膵臓がんだった。
  貴美子は、ただ一人在宅のままで死んだ。選んだのは 終末期鎮静(ターミナル・セデーション)だった。最期が近づいた時、点滴も経管栄養も行わず、延命のための措置を一切やめた上で鎮静剤を投与してもらうと、深く眠ったまま苦痛のない死を迎えることができる。

 
(貴美子の死を知らされ)わけのわからない感情がこみあげてきた。・・・
 まとまりのつかない気持ちのまま、ふとんに顔を押しつけて低く呻き声をあげた。涙は流れなかったが、胸がいつまでも震え続けていた。・・・それが自分でも気づかない種類の、深い感動によるものだとわかるまで、長い時間を要した。


   「『死んだら、澤さんに渡してほしい』と言われた」と、遺族からスイスの画家、 アルノルト・ベックリーンの解説本を渡された。ベックリーンの代表作 「死の島」のカラー図版が巻末に折り込まれていた。

死の島      
 島に向かう一艘の小舟には、・・・光によって照らし出された棺には、白装束姿の人物の陰がやわらかく落ちている。
 登志夫は・・・自分自身の亡骸が、その中に入っていて、今にも静かな水音と共に、永遠の安息を約束してくれる島へと運ばれていくような気がした。・・・
 小舟に揺られて、おれも行くことにするか、と彼は思った。・・・
 ああ、いい気分だ、と彼はひとり、声に出して言った。安心するよ。


 カルチャースクールの教え子だった宮島樹里は、この図版を見て「自分がこの絵の中にいて、あの小舟に乗っているみたいな」気がすると言った。
 「だから、『死の島』なんだろうね」と澤は言った。「遅かれ早かれ、みんないずれは、小舟に乗ってその島に行くんだからな。例外なく、一人残らず」

 澤は、定年後に軽井沢の近くの町に小さな別荘を買っていた。

 
 ベランダに面した窓から望むことのできる、遠い山々の青い稜線や、こんもりと生い茂る常緑樹の群れ。そこに降りつもって世界を白く染めあげていく雪。鉄製の薪ストーブの中で赤々と燃え続ける薪のにおい。静まり返った夜、月明かりに照らされて青白く見える雪原。その上に点々と残された動物の足跡・・・
 そこに出向きさえすれば、あの方法でおそらく確実に計画を実行に移すことができる。・・・万事においてぬかりはない。・・・


 クリスマスまじかの病院定期検査で、がんがさらに肺に転移していることが分かった。

 
 「先生、よいお年を・・・」
 医師は少し驚いたように彼を見たが、即座にうなずき「澤さんも」と言った。少し離れたところに立っていた若い女性看護師が、誰もいない虚空にむかってさびしい微笑を投げるのが見えた。


 15年ほど前。登志夫は、ある作家に同行してベテランの医師を取材したことがあった。「苦しまずに自殺する方法」について話題が向いた時、この医師は3つの方法をあげた。

 1つは塩化カリウム、2つ目はプロポフォールなどの麻酔導入剤を静脈に入れるやり方。しかし管理が厳しくなって、これらの薬を手に入れるのは医師でも難しい。3つ目は「脱血死」という方法。点滴チューブを腕の血管にさし、上腕部を縛って輸液用のコックを開くと、静脈の血が外部に流れ出す。コックを開く前に、睡眠導入剤とアルコールを飲んでおけば、意識がなくなり、苦しまずに死ねる。

 主治医から、別荘の近くの開業医を紹介してもらった。在宅医療をしている、ということだったが、別荘での点滴治療は断られた。しかし、風邪を引いて駆けつけた医師に点滴をしてもらえた。

 
 流れ出た血を受ける青いポリバケツをベッドの左側に置き、ウイスキーのマッカランで睡眠導入剤のマイスリー、サイレース各2錠を流しこみ、駆血帯で左上腕部を縛り、点滴のコックを静かにひねった。
 CDからチェロが低く響き、時折、ストーブの薪が激しく爆ぜた。・・・意識が少しずつ薄れていった




2018年8月31日

読書日記「ふしぎなイギリス」(笠原敏彦著、講談社現代新書、2015年刊)



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 今月初め、消化器の不調で緊急入院するというアクシデントに見舞われてしまった。ほぼ1年がかりで準備してきたイギリス旅行を断念、機中で読むことにしていたこの本を病院のベッドで読むことになった。

 著者、笠原敏彦は元毎日新聞ロンドン特派員。あとがきで「新聞記者の書くフローの情報を系統立てたストック情報にどう転化するか」に苦労したと書いている。

 本は最初に、2011年4月のウイリアム王子とキャサリン妃の成婚にふれている。そのパレードは、ダイアナ元妃の葬送ルートのほぼ逆コースであり、王子はダイアナ元妃の婚約指輪をキャサリン妃に贈るなど、王子は「ダイアナ元妃を自分たちの結婚プロセスに一部に組み込んでいた」という。
 なぜ、そんな必要があったのか。

   ダイアナ元妃が1997年、パリで交通事故死した際、バッキンガム宮殿の前は花束で埋まり国民は悲しみで「集団ヒステリー」に陥った。対照的に冷淡なエリザベス女王の対応に国民の怒りが爆発、王室支持率は急落した。

 それを救ったのが、時の首相トニー・ブレアだった、らしい。ブレア首相は女王やチャールズ皇太子との確執が伝えられていたが、渋る女王に休暇先からロンドンに戻り、宮殿に半旗を掲げるように促した。女王は「王室の存続は国民の支持にかかっているというイギリス立憲君主制の明快な原理」に改めて気づき「国民に寄り添う王室」をアピールするようになった。
 王室は、ダイアナ危機を克服し、国民の7割以上から支持を得るようになった。

 ウイリアム王子とキャサリン妃のロイヤル・カップルは、イギリスの「将来への希望」を象徴すると受け止められている、という。
 昨年のヘンリー王子とメーガン妃の成婚での国民の熱狂も「イギリスの将来への希望」の一環として捉えられるのだろう。

 イギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票が行われた。独立は反対55%でかろうじて否決されたが「一連の騒動はその連合王国という国家の枠組みの矛盾を浮き彫りにした」

 連合王国は、イングランドとスコットランド、ウエールズ、北アイルランドという4つの「Nation」で構成される。「Nation」は「言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体という意味だ」と著者はいう。
 主権を持った「独立国家」を示す「State」という言葉があり、日本のように1つのネーションがそのまま独立国家になっている場合は「ネーション・ステート(国民国家)」といえるが、イギリスは厳密な意味で国民国家とは言い難い、という見方だ。

 いささか分かりにくい。
 ネット検索すると、「countryとnationとstateの違い」という項目が見つかった。「イギリスやカナダなんかは、国の中に複数のnationがあり、日本の場合は、country = nation ( = state)です」と書かれている。

 もう一つわかりにくいのは、日本人がこの国を「イギリス」と呼んでいることだ。連合王国の通称は「Unaited Kingdom(UK)」または「Great Britain」「Britain」。イギリスという名称は、連合王国の1地域にすぎない「イングランドの外来語」が定着したもの、らしい。

イギリスの歴史は、この本と並行して読んだ「イギリス史10講」(近藤和彦著、岩波新書、2013年刊) に詳しい。東大教授の著者の本は、いささか難解。4つの地域が長い歴史のなかで交錯していく様は分かりにくいが、それが連合王国の複雑さを示しているのかもしれない。

 「イギリス史10講」にも、こんな記述がある。
 「イギリスには、『単一民族国家』や「一にして不可分の共和国」といったものとは異なる政治社会が成り立ち、今日、さらに多様性の促進が唱えられている」

 連合王国イギリスは、同じ島国というのに、どっぷり単一民族?の国土につかってきた日本人には「ふしぎな」国であり続けるのかもしれない、とも思った。

2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

潜伏キリシタンは何を信じていたのか
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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。



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