隠居の紅葉狩り:初冬の近江路を訪ねる。教林坊・永源寺
50年も前の学生時代に教育キャンプ場でカウンセラーをしていた同期の仲間とは、年に2回ほど食事会や旅行をしている。今回、忘年会を兼ねた食事会に、埼玉に住む仲間が遠路駆けつけてくれた。
わざわざ来てくれたので、翌日少し遅いが山小屋Hutte Hachi のパートナーと紅葉狩りに案内することにした。 NHK のTV で放映していた近江八幡の教林坊というお寺である。
大阪梅田のホテルで、友人をピックアップした。 ナビは名神高速道の竜王IC で降り、国道8号を走るルートを指示する。教林坊は国道8号から少し入ったところにあった。駐車場に行く道が狭いらしく、トランシーバーを持った老人が誘導してくれた。紅葉の美しいこの時期は、お寺の中を特別公開しているということで、平日というのに結構な人が参拝に来ていた。
一人¥500の拝観料(駐車場は無料)を払って中に入ると、小堀遠州作というこじんまりした庭は、あちこちらにまだ紅い葉をつけた楓があって、晩秋の風情である。
この庭は小堀遠州作であるという立て看板に、白洲正子の紀行エッセイ「かくれ里」に紹介されているという。一度目を通したことのある本である。自宅に戻って確認してみると、「石の寺」というエッセイに、教林坊の名前が出てくる。訪れた時期は異なるようだが、庭の佇まいについて流石に名エッセイストの描写は素晴らしい。いささか長いが引用してみることにする。
奥石神社から、私たちは、一直線に繖山(さんざん)に向った。近づいて仰ぐと、相当高い山で、巡礼の時の苦労が、なつかしい経験として思い出される。麓の石寺という部落は、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが現在は教林坊という、ささやかな寺が一つ残っているだけである。
山裾のせまい道を、右へ行くと、ほどなくその坊に着く。椿が多い所で、落椿を踏みながら登る石段のあたりは趣が深い。入ってすぐの所は、室町時代の庭園で、大分荒れているが、南の方の山が借景になって、小さいながらまとまっている。借景というのは、単なる造園技術のように思われているが、やはり山の信仰が元になったに違いない。嵯峨の竜安寺では、男山を、北岩倉の円通寺では、比叡山を、拝むように作ってあり、神仏混淆の思想が、理屈ぬきで表現されているように思う。が、ここで私の興味をひいたのは、もう一つの慶長時代の石庭で、これが中心の庭になっているのだが、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり、よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった。横の方に、羨道も現われている。その石室の巨大な蓋石を、そのまま庭石に使ってあるのが、不自然でなく、日本の造園の生い立ちといったようなものを見せられたような感じがする。古墳をとり入れた庭なんて、今まで聞いたこともないが、それは気がつかないだけのことで、案外たくさんあるのかも知れない。私はふと、日本の庭園の原型は、前方後円墳にあるのではないか、と思った。深い緑をたたえた山と水、しつかりした造形と石組みのたしかさ、そこには自然と人工の見事な調和がある。大和の箸墓を、昼は人が作り、夜は神が作ったというのは、伝説ではない。蓬莱山などという思想が入る以前に、私たちの祖先は、死者のための極楽を創造していたのである。仏教が盛んになって、大きな墓作りは廃れたが、それは別な形をとって、生れ変って行き、石庭に至って完成した。形は変っても、底を流れるのは同じ「彼岸」の思想である。これは借景とも無縁のものではないだろう。そういう所に達するまでに、昔の人たちは、どれほど自然を拝んだことか。見つめたことか。庭石は、その三分の二を地下に埋めるという。そうしないと、落ちつかない、形をなさないと、京都の庭師に聞いたことを思い出す。
この本は、1971年12月に刊行されているから、40年以上も前の話であるが、庭そのものはそんなに変わっていないのではないかと思われる。山裾のせまい道を、右へ行くと、ほどなくその坊に着く。椿が多い所で、落椿を踏みながら登る石段のあたりは趣が深い。入ってすぐの所は、室町時代の庭園で、大分荒れているが、南の方の山が借景になって、小さいながらまとまっている。借景というのは、単なる造園技術のように思われているが、やはり山の信仰が元になったに違いない。嵯峨の竜安寺では、男山を、北岩倉の円通寺では、比叡山を、拝むように作ってあり、神仏混淆の思想が、理屈ぬきで表現されているように思う。が、ここで私の興味をひいたのは、もう一つの慶長時代の石庭で、これが中心の庭になっているのだが、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり、よく見ると、それは古墳を利用してあるのだった。横の方に、羨道も現われている。その石室の巨大な蓋石を、そのまま庭石に使ってあるのが、不自然でなく、日本の造園の生い立ちといったようなものを見せられたような感じがする。古墳をとり入れた庭なんて、今まで聞いたこともないが、それは気がつかないだけのことで、案外たくさんあるのかも知れない。私はふと、日本の庭園の原型は、前方後円墳にあるのではないか、と思った。深い緑をたたえた山と水、しつかりした造形と石組みのたしかさ、そこには自然と人工の見事な調和がある。大和の箸墓を、昼は人が作り、夜は神が作ったというのは、伝説ではない。蓬莱山などという思想が入る以前に、私たちの祖先は、死者のための極楽を創造していたのである。仏教が盛んになって、大きな墓作りは廃れたが、それは別な形をとって、生れ変って行き、石庭に至って完成した。形は変っても、底を流れるのは同じ「彼岸」の思想である。これは借景とも無縁のものではないだろう。そういう所に達するまでに、昔の人たちは、どれほど自然を拝んだことか。見つめたことか。庭石は、その三分の二を地下に埋めるという。そうしないと、落ちつかない、形をなさないと、京都の庭師に聞いたことを思い出す。
少し前に、河内長野の観心寺に行った時も、コガラをたくさん動き回っているのを見たが、こちらの庭でも、コガラが飛び回っていた。教林坊近くを歩いてみると、農家の屋根越しに、新幹線が京都ー米原間の近江平野を走っているのが遠望できた。
昼食後、同じ近江にある永源寺に、僅かな期待を持ちながら訪ねてみた。が、2008年11月19日に訪れたときのような紅葉はすっかり終わっていて、境内は寒々としていた。
かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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白洲 正子
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