東日本大震災の日 3月11日
3月11日午後2時46分ごろ、東日本はマグニチュード 9.0 の巨大地震に見舞われた。今なお、救助活動が続いているが、被災された多くの方が一人でも多くご無事であることを願いたい。
私たち夫婦は、その日、みなとみらいにある109シネマズで「ツーリスト」という映画を観て、食事をしようと横浜まで戻り、CIALという商業ビル地下の「三浦三崎港」で鮨を食べていた。横浜CIALは48年間にわたり営業を続けてきたが、建物が古くバリアフリー対応や耐震補強の工事を行うと大がかりになるため、この3月いっぱいで閉店されることになっている。閉館後、横浜CIALのビルは隣接する「横浜エクセルホテル東急」とともに取り壊される予定だそうだ。
そして、ちょうど食べ終わり、レジで支払いをしている時に地震が来た。揺れ幅の大きな揺れだ。そして揺れている時間も長い。一旦、収まりそうになったがまた、揺れだした。閉じ込められてはいけないという思いから、さいわい近くにあった階段から横浜駅西口広場の方へ上がった。見上げると周囲の高層ビルがゆらゆらと揺れている。こんなことは初めてである。
横浜駅西口の広場にだんだん人が溜り始める。私たちは家に帰ろうとして相鉄線の改札へ向かい、中に入ったが、すぐに余震の恐れがあるので駅構内から退出せよとのアナウンスがあった。近くにいた若い女性が、不安そうにしていて、アナウンスが良くわからないらしく「何のことですか」と尋ねられた。言葉から中国の人らしく、今日、イスタンブールからトルコ航空で成田について、バスでYCATに着いたところで地震にあったという。夫婦で日本で仕事をしているらしい。
私たちは自宅のある「星川」までは4駅、歩いたことはないが、30分もあれば行けるだろうと思い、歩くことを決めた。彼女にどこまでかと聞くと「星川」の一つ手前の「天王町」とのこと。それではと一緒に歩き始めた。国道16号の「松原商店街」で別れ、我々はほどなく自宅に着いたが、エレベーターが止まっているのを除き、室内も倒れているものはなく、無事であった。
福島市や仙台市宮城野区に住む学生時代の友人こと、仙台市泉区に住む一昨年の中欧ツアーで一緒になり、その後もメールのやり取りがあるご夫妻のことが気になり、メール、電話、携帯でコンタクトを試みるが、いずれも応答がなく心配である。
13日になって、福島市の友人と仙台市泉区のご夫婦の無事は確認できたが、仙台市宮城野区の友人の消息がわからない。安否が心配である。避難所で無事に居られることを祈るのみである。
我が家にも、ハワイ、韓国の親戚、知人をはじめ、多くの方々からお見舞のメールや電話を頂戴している。都心で仕事をされている人たちは、この日は自宅に帰られるのに大変な苦労をされたと思う。あるいは帰れなかったかもしれない。私の娘夫婦も、新百合ヶ丘の自宅に帰ることができず、横浜に勤める夫のほうは私の家まで歩いて来て、泊っていき、娘は茅場町から青山まで歩いて親戚の家に泊まった。
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